Category [徳川秀忠 ] 記事一覧
家康の側室の子・長丸誕生 「徳川秀忠誕生の井戸」
徳川秀忠は、徳川家康の三男として、遠江国(静岡県)浜松に生まれました。幼名は長丸。のち竹千代。母は側室の西郷局。彼女は、浜松城に奉公に出て、家康の目に止まり、二代将軍の秀忠を生みました。同母弟は、四男松平忠吉。長兄・松平信康は秀忠の生まれた年に自害、次兄の秀康は、秀吉の養子に出され、のちに結城秀康となったため、また母親が三河の名家であるということもあり、秀忠が、実質的な世子となりました。天正18年(15...
大坂夏の陣 「徳川秀忠の御旗奉行を務めた安藤正次の墓」
大阪市平野区の樋尻口地蔵堂向かいに安藤正次の墓あります。安藤次右衛門尉正次は徳川家の二千石の旗本で、御旗奉行として徳川秀忠に直属し、元和元(1615)年5月7日、大坂落城直前に秀忠の使者として前田利常、本多康紀両軍に、敵陣へ肉薄するようにとの命令を伝えました。 その際に、数騎の敵兵に出会い、首級を挙げたが自らも重傷を負い家来に助けられて撤退した。その活躍を秀忠に功名したと称されましたが、宿舎にしていた平...
大阪の冬の陣 徳川秀忠の本陣跡・御勝山古墳
御勝山古墳は、5世紀前半に築造された南北112m、東西55m、高さ約8mの前方後円墳です。現在は前方部が御勝山通りと御勝山南公園になり、後円部のみ残存しています。一説によると、大小橋命(オオバセノミコト)の墓であるともいわれていますが定かではないそうです。昔は岡山とも呼ばれていましたが、1614~1615年、大阪冬の陣、夏の陣で徳川秀忠が本陣をここに構え、その戦勝を記念して御勝山と呼ばれるようになりました。その戦の...
徳川秀忠誕生の井戸
お江の三番目の夫になる徳川秀忠は、家康の三男として、遠江国(静岡県)浜松に生まれました。母は側室の西郷局。彼女は、浜松城に奉公に出て家康の目に止まり、二代将軍の秀忠を生みました。同母弟は、四男松平忠吉。長兄・松平信康は秀忠の生まれた年に自害、次兄の秀康は、秀吉の養子に出され、のちに結城秀康となったため、また母親が三河の名家であるということもあり、秀忠が、実質的な世子となりました。天正18年(1590年)に...
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