Category [小野政次 ] 記事一覧
小野政次が処刑された大堰河原
地域遺産センターで読んだ本の中に、昔の井伊谷の写真が紹介されていました。これが、小野政次が処刑された大堰河原の1990年代の写真です。河岸工事が進められ、今はだいぶ様子が変わっています。奥に見えるのが、北岡橋です。以前は、処刑場であった案内板があったそうですが、近隣住民の方たちの苦情で撤去されたそうです。今日再度大堰河原に行って来ました。土手に彼岸花が咲き、秋らしい景色になっていました。にほんブログ村...
小野篁ゆかりの井戸 六道珍皇寺
京都の行く度に、何度か訪れた六道珍皇寺平家一門の館があった六波羅の地は、鳥辺野の端にあたるため、現世と冥界の接点と考えられ、六道まいりの信仰を集めました。六道珍皇寺は、建仁寺の塔頭で、古くは愛宕寺と呼ばれました。平安・鎌倉時代には東寺を本寺として隆盛しましたが、その後衰退。室町時代に再建され、臨済宗に改められました。平清盛が死去した後、荼毘に付したのが六道珍皇寺辺りだといわれています。六道珍皇寺に...
小野但馬守政次を祀る二宮神社
二宮神社 は、井伊郷の荘司である三宅氏の始祖・多道間守を祀る神社です。元中2年(1385)には南朝方、後醍醐天皇の第4皇子である宗良親王を合祀し、二柱の神霊を祭祀するようになり現社号となりました。江戸時代になり、井伊家が彦根に移った後、新しい領主が、小野政次の霊を但馬明神として祀りました。現在は、拝殿横の天王社に合祀されています。二宮神社の神主を務めた中井家に伝わる話によると、政次は井伊家の一門衆から切腹...
小野但馬守政次終焉の地
二宮神社の北東、遠鉄バス上町のバス停から数分行ったところに、小野政次終焉の地の供養塔があります。今年の4月7日の政次の命日に、供養塔の前に「小野政次終焉の地」と書いかれた案内板が設置されました。それまでは、何の説明板もなかったのですが、昨年、二宮神社を参拝した際、このお墓のようなものが気になり、とりあえず写真を撮っておきました。後になって、政次の終焉の地と知りびっくり!案内板まで設置されたということ...
小野但馬守政次が処刑された蟹淵
永禄11年(1568年)、甲斐国の武田信玄が今川氏の本国・駿河国に侵攻。小野但馬守政次は駿府で今川軍に従っていましたが、虎松を殺害して井伊谷を掌握し、その軍勢を率いて加勢するよう今川氏真より命じられ、井伊谷に入り、井伊氏より井伊谷を横領。徳川家康は政次の専横に対し、近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久の井伊谷三人衆を派遣し、井伊谷を奪還させるように命じます。政次は山中に逃れますが、洞窟内に隠れているところを井伊...
最新コメント