Category [武田勝頼(どうする家康) ] 記事一覧
武田勝頼の最期
武田勝頼ゆかりの韮崎市と甲州市を訪ねる予定が、「武田氏滅亡」が描かれる回に間に合わなかっため、今回は「韮崎市観光協会」と「甲州市観光協会」から画像をお借りしました。●韮崎市長篠の戦いで、織田信長と徳川家康の連合軍に大敗を喫し、高天神城が陥落したことで、武田氏の威信は急落。領国の立て直しを決断した武田勝頼は、府中移転を計画し、天正9年(1581)、現在の山梨県韮崎市の七里岩の台地に新府城を築城。新府城跡写真...
高天神城(3)曲輪跡~西の丸~二の丸
西の丸に向かって進んで行きます。的場曲輪跡弓矢などの練習をしていた場所と言われています。鐘曲輪兵が攻めてきたことを知らせるために、ここで鐘や太鼓で知らせたといいます。かな井戸 井戸曲輪跡西峰と東峰を分ける曲輪で、籠城には欠かせない井戸がありました。尾白稲荷高天神城合戦将士英魂之碑高天神社西の丸跡この西の丸は岡部丹波守真幸が守備していた時期があり、丹波曲輪とも呼ばれているそうです。神社の奥に向かって...
高天神城(2)本丸跡~大河内政局幽閉の石窟
高天神城の三の丸から本丸へ元天神社現在、西の丸にある高天神社は、元々はこの場所にあり、「高天神城」という由来となったそうです。御前曲輪跡城主・小笠原長忠と奥方の顔出しパネルここに、昭和に入ってから建てられた2層の模擬天守がありましたが、落雷で焼失したそうです。本丸跡高天神城の東峰の最高所に位置するのが本丸です。西側には土塁が作られているものの、東側は絶壁と評するにふさわしい急斜面となっており、人の...
高天神城(1)追手門~三の丸
掛川市の高天神城は、「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝で、徳川・武田の両雄が攻防戦を繰り広げた東海一の堅塁を誇った標高132メートルの山城です。眼下には、下小笠川など中小の河川が流れ、天然の堀を成し、尾根は三方が断崖絶壁、一方が尾根続きという天然の要害で、「難攻不落の名城」と呼ばれていました。高天神城の築城は、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に築城されたとの伝承がありますが、室町時代、...
小山城(2)三日月堀~三重堀~模擬天守
では、小山城へと進んで行きましょう。能満寺から左手に進むと、「男坂」と呼ばれる急階段と、「女坂」と呼ばれる緩やかな階段に分かれます。男坂男坂があまりにも急なため、後に女坂の階段がつくられたそうです。女坂男坂の方が近道に見えましたが、手すりがなく危険そうなので、女坂を選びました(^^ゞ小山城は、今川氏によって築かれた山崎の砦が土台となったとされています。信玄の病死後には、子の武田勝頼が跡を継ぎ、東海道...
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