Category [井上馨(青天を衝け) ] 記事一覧
洞春寺 井上馨の墓
山口市の洞春寺は、応永11年(1404)大内盛見に国清寺として建てられました。毛利氏の時代になり、広島の吉田から常栄寺が移り、常栄寺も幕末に宮野に移転。明治2年(1869)に萩から洞春寺が入り、毛利元就の菩提寺となりました。また、井上馨を総督とする鴻城隊が、本陣を長寿寺からここ洞春寺(当時は常栄寺)へ移して駐屯しました。井上馨の分霊が祀られています。山門(重文)は、大内氏時代の国清寺のものといわれる四脚門です。鐘...
井上馨遭難之地
元治元年(1864)9月25日、山口政治堂での藩主の前で開かれた会議で、井上馨は、「征長軍に対し、武備恭順で幕府に対すべきだ」と主張しました。湯田の自宅への帰る途中、中園町の袖解橋(そでときばし)で、藩庁の反対勢力(俗論党)に襲われ瀕死の重傷を負いました。現在、山口市立中央図書館の裏側の通りに「世外井上馨候遭難之地」の石碑が建っています。世外とは井上の号です。円龍寺俗論派の壮士の集団、先鋒隊の屯所となっ...
井上馨の生家跡
「明治の偉人編」として、井上馨の生家跡を紹介します。山口県の湯田温泉駅から温泉街に向かう道に面して、温泉街エリアの入り口にある井上公園は、井上馨の生家跡に作られた公園で、以前は地名をとって高田公園と呼ばれていました。現在この地には井上馨の銅像をはじめ様々な石碑が立っています。井上馨銅像銅像の顎には、傷まで描写されているそう。井上馨旧邸地石碑刺客に襲われて重傷を負い、ここに担ぎ込まれた井上は、所郁太...
講和会談が行われた宮島大願寺
宮島の大願寺は、明治の神仏分離令までは厳島神社の普請奉行として寺院の修理・造営を一手に担ってきました。開基は不明で、寺伝によれば平安時代初期に空海によって開かれたとも、また鎌倉時代の建仁年間(1201~1203年)に僧了海により再興されたと伝えられています。大願寺は、東側の塔の岡から西側の多宝塔・経の尾付近までが境内地で厳島伽藍と呼ばれ多くの堂塔がありました。現在の本堂は昔の僧坊で、大経堂である千畳閣が本...
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