Category [北条氏直(どうする家康) ] 記事一覧
小田原攻めの舞台となった小田原城(2)
帰りは、行きと違うルートで、銅門から退城しました。銅門(あかがねもん)銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、明治3年(1870)の小田原廃城後、明治5年(1872)に解体されるまで、江戸時代を通してそびえていました。往時は、大手筋にあたる馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。銅門の名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由...
小田原攻めの舞台となった小田原城(1)
相模の小田原城を拠点とする北条氏は、北条早雲以来5代に亘り、関東に勢力を奮っていました。徳川家康は、次女の督姫を北条氏直に嫁がせており、同盟関係にあったことから、秀吉への仲介役を担当しました。天正16年(1588年)5月21付の北条氏政・氏直父子宛ての起請文では、「関白殿下への謁見を拒否する場合、娘・督姫を離別させる」という内容で秀吉への恭順を促すと、氏政の弟で、家康の旧友の北条氏規(うじのり)を上洛させました...
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