Category [渋沢栄一 ] 記事一覧
渋沢栄一の墓
渋沢栄一は、明治期を通じて民間の銀行や企業など、500以上の組織の設立に関与し、日本資本主義の発展に貢献しました。1916年に実業界を引退し、以後は教育や文化事業などに尽力しました。90歳になっても眼鏡なしで新聞や本を読み、自分のことはほとんだできたという栄一。91歳の頃のエピソードが残っています。風邪で寝込んでいた栄一のもとに、生活困窮者を救うための救護法の予算化に尽力いて欲しいとの依頼があった際、すぐに...
栄一が開発に携わった門司港
渋沢栄一は港湾設備が地域発展に果たす役割を重視し、門司、若松、大船渡など各地の築港事業に関与しました。門司港は、栄一が設立に携わった会社により整備され、築港会社創立時には相談役に就任しています。門司は開港により急成長を遂げ、周辺にある明治~大正期から現存する建築物は、観光スポットとなっています。以下、2018年に旅した時のレポです。門司駅周辺を散策開始ブルーウィングもじ全国で最大級の歩行者専用のはね橋...
日本初の西洋式劇場「帝国劇場」の発起人となった栄一
渋沢栄一は、幼いころより、生まれ故郷の深谷の獅子舞などの郷土芸能に興味を示し、文化芸術活動の支援にも尽力しました。パリのオペラ座で、観劇した経験から、劇場の必要性を感じた栄一は、本格的な西洋式劇場の建設にも着手し、帝国劇場建設の発起人に名を連ね、となる帝国劇場を日比谷に建設しました。帝国劇場では、西洋音楽やオペラ、創作劇などが上演されました。また、「日本の近代女第一号」と称された川上貞奴が創設した...
栄一が設立した造船所が手掛けた氷川丸
日本郵船氷川丸は、渋沢栄一が設立した造船所「横浜船渠」が建造した大型貨客船で、戦前から現存する唯一の貨客船です。日米間などを就航した船は、現在山下公園前に係留されています。横浜船渠(よこはませんきょ)はかつて横浜市にあった造船所。後に三菱重工業と合併し三菱重工業横浜船渠となる。その後、三菱重工業横浜造船所に名称変更。さらに1983年(昭和58年)に造船所が本牧地区へ移転し、三菱重工業横浜製作所と改名、跡...
渋沢栄一ゆかりの京都織物会社
明治維新後、首都機能の東京移転で活気を無くした京都府は、産業復興のため海外から技術者を招聘、また海外へ伝習生を派遣して、先端技術の獲得に努めました。海外で染織を学んだ技術者や京都の政財界人などは、大規模な洋式織物会社の設立について渋沢栄一に相談し、1887(明治20)年に誕生したのが京都織物会社です。栄一は設立以来、実業界を引退するまでの間、京都織物会社の相談役、取締役会長等を歴任しました。戦後は業績不...
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