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2025.01/05 [Sun]
吉原大門と耕書堂
新吉原は、江戸時代、浅草の北部(東京都台東区千束四丁目)にあった遊郭で、明暦三年(1657)の大火後、日本橋葺屋町にあった吉原遊郭が移転してできました。
蔦屋重三郎はこの地で育ち、新吉原に詳しく、彼の作った吉原細見は、従来のものとは異なり、大変評判になりました。
吉原大門跡
吉原大門と耕書堂
吉原大門と耕書堂 明暦三年(1657年)の大火後、日本橋にあった吉原遊郭は幕府の命により浅草千束村(現台東区千束)に移され、「新吉原」が誕生した。遊郭は高い塀と「おはぐろどぶ」に囲まれ、日本堤から下る衣紋坂、それに続く五十間のくねった道と吉原大門が郭への唯一の公式通路であった。
門は何度か建替えられたが大正12年(1923)の関東大震災で町とともに灰燼に帰した。今では大門の柱を模した街灯が名残として建っている。
蔦屋重三郎は、寛延三年(1750)、新吉原に生まれ、喜多川氏の養子となった。「蔦屋」は喜多川氏の屋号であり、吉原の茶屋といわれる。安永元年(1772)、重三郎は大門口五十間道に書店「耕書堂」を開き、吉原細見を販売。天明三年(1783)に通油町に進出。黄表紙、洒落本、狂歌本、錦絵などを刊行し、耕書堂は地本問屋となった。 台東区教育委員会
耕書堂跡
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蔦屋重三郎はこの地で育ち、新吉原に詳しく、彼の作った吉原細見は、従来のものとは異なり、大変評判になりました。
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吉原大門と耕書堂 明暦三年(1657年)の大火後、日本橋にあった吉原遊郭は幕府の命により浅草千束村(現台東区千束)に移され、「新吉原」が誕生した。遊郭は高い塀と「おはぐろどぶ」に囲まれ、日本堤から下る衣紋坂、それに続く五十間のくねった道と吉原大門が郭への唯一の公式通路であった。
門は何度か建替えられたが大正12年(1923)の関東大震災で町とともに灰燼に帰した。今では大門の柱を模した街灯が名残として建っている。
蔦屋重三郎は、寛延三年(1750)、新吉原に生まれ、喜多川氏の養子となった。「蔦屋」は喜多川氏の屋号であり、吉原の茶屋といわれる。安永元年(1772)、重三郎は大門口五十間道に書店「耕書堂」を開き、吉原細見を販売。天明三年(1783)に通油町に進出。黄表紙、洒落本、狂歌本、錦絵などを刊行し、耕書堂は地本問屋となった。 台東区教育委員会
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NoTitle
私は旅先だったので
家人に録画を頼んでいたのに
なんと録画を忘れよったんですよ(涙)
土曜日の再放送を見ますわ。
倉敷から帰ってきましたが
向こうは朝から雨でした。
なんとか雨の中もカメラ片手に
玉島の町を散策しました^ ^
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