Category [足利義昭(麒麟がくる) ] 記事一覧
鞆の常国寺に滞在した足利義昭
広島県福山市熊野町の常国寺は、文明年間に、日蓮宗に帰依した一乗山城主・渡辺越中守兼により、日親上人を開山として建立されました。(画像:Wikipediaより)戦国時代になると、元亀4年(1573年)織田信長によって京都を追われていた室町幕府15代将軍・足利義昭は、毛利氏を頼って天正4年(1576年)から鞆に滞在しました。この時、熊野一乗山城主・渡辺四郎左衛門景は将軍の警固と接待役を務めました。その渡辺氏の菩提寺であっ...
寒梅館 発見された室町時代の石敷き遺構
2002年の同志社大学室町校寒梅館の建設に伴う発掘調査で、室町時代の石敷き遺構が発見され、石敷きの中から16世紀中頃の土器が出土しました。上杉本洛中洛外図屏風により、寒梅館周辺は、第12代将軍足利義晴が再築した室町殿のあった場所と推定されました。さらに、出土したものと上杉本洛中洛外図屏風が一致したことで、この石敷きは室町殿の北東隅の社とその南の築地基礎と推定されています。現在は寒梅館にて一部発掘したままの...
本圀寺跡~北来地蔵菩薩
堀川五条の交差点を北に上ったところに、本圀寺跡の石碑がたっています。本圀寺は、日蓮宗(法華宗)の宗祖・日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に法華堂を構えたことから始まると伝えられています。本圀寺が鎌倉から京都へ移ったのは貞和元年(1345年)、4世日静は光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転しました。日静は足利尊氏の叔父と伝え、寺は足利氏の庇護を受けました。「東の祖山」久遠寺に対し、京都に栄えた本圀寺は「西の祖山」と呼...
織田信長が足利義昭のために建てた旧二条城
現在、京都の二条城といえば、慶長8年(1603)に徳川家康が上洛の際の宿舎として造営したもので、織田信長が将軍・足利義昭のために建てた旧二条城は、現在の平安女学院周辺にありました。平安女学院大学と平安女学院中・高等学校の間の通りを行くと、平安女学院の前に石碑が建っています。 旧二条城永禄12年(1569年)に織田信長が、第15代将軍・足利義昭の将軍座所(居城)として、この石碑を中心に、約390メートル...
山科の本圀寺(3) 本圀寺の変
本圀寺が鎌倉から京都へ移ったのは貞和元年(1345年)、4世日静は光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転しました。日静は足利尊氏の叔父と伝え、寺は足利氏の庇護を受けました。 天文5年(1536年)の天文法華の乱で焼失し、堺の成就寺に避難。天文11年(1542年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、天文16年(1547年)、六条堀川の旧地に再建されました。 本堂永禄11年(1568年)、織田信長に奉じられて上洛した足利義昭の仮...
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