Category [織田信長 ] 記事一覧
阿弥陀寺の信長の墓
京都市上京区寺町通今出川にある阿弥陀寺は、1555年(天文24年)、清玉上人が近江坂本に創建したのが始まりとされています。その後、清玉上人が織田信長の帰依を得、上京今出川大宮に移転。本能寺の変の後、信長・信忠の遺骸を持ち帰り、阿弥陀寺に葬ったといいます。1587年(天正15年)現在地に移転。 蓮台山と号する浄土宗の寺院で、本尊は丈六の阿弥陀如来である。当寺は天文年間(1532~1554)、清玉上人の開創になり、当初は西...
本能寺跡
実際、信長が明智光秀に襲われ自害・焼失した本能寺は、現在地の寺町御池の本能寺ではなく、当時1582年(天正10)の本能寺は堀川四条の近くにあり、寺地は北を五条坊門小路(現・仏光寺通)、南を高辻小路、東を西洞院大路、西を油小路に囲まれた地であったといいます。その後、本能小学校となりましたが廃校となり、現在は老人福祉施設に。油小路通蛸薬師に本能寺址の碑があります。「本能寺焼討之図」(明治時代、楊斎延一画 W...
本能寺の変
天正10年(1582年)5月29日、織田信長は備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援するため、小姓を中心とする僅かのお供を連れて安土城を発ち、京都の本能寺に入ります。その頃、信長の嫡男・織田信忠は5月21日にすでに京都の妙覚寺に入っていました。京都に城を持たない信長は、かつては妙覚寺を寄宿先としていましたが、1580年以降はかつての宿所であった本能寺を寄宿先に戻し、代わりに信忠が妙覚寺を寄宿先として使用するようになってい...
安土 セミナリヨ跡~超光寺
安土城南西麓の百々橋口から下街道を越え、南に数分行くと、セミナリオ史跡公園があります。この地の小字名「大臼」(だいうす)は、ラテン語で神を意味するデウス(Devs)の転訛と考えられ、セミナリオ跡は、織田信長の庇護を受けたイタリア人宣教師オルガンチノによって天正9年(1581年)に創建された目本最初のキリシタン神学校の跡とされています。現在は 安土城の外濠沿いに公園として整備されています。ここは、安土城天主から...
安土城(3)摠見寺本堂跡~二王門
摠見寺へ向かいます。三重塔の頭が見えてきます。摠見寺は、安土城にあわせて城内に創建されました。安土城炎上の際、類焼を免れ、江戸時代末期までは、信長の菩提を弔う役目をしていました。しかし、嘉永7年(1854年)の火災で、本堂を含む大半の伽藍を焼失し、その後狩り本堂が大手道横の伝徳川家康邸跡に写され、現在に至っています。類焼を免れた裏門は、能登川町の超光寺(後の記事にします)へ移築され、現在表門になってい...
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