Category [新島八重 ] 記事一覧
八重は桜
金戒光明寺は、松平容保の会津藩の京都守護職会津藩の本陣にもなり、境内の墓地には会津藩殉職者が埋葬されています。八重の弟・三郎も葬られています。京都在住の会津出身者による京都会津会が明治40年(1907年)に慰霊碑を建てました。会津藩鳥羽伏見戦死者慰霊碑昭和3年(1928年)9月、旧会津藩主・松平容保の孫・節子(後に勢津子に改名)が、秩父宮雍仁親王と結婚したことは、旧会津藩の士族の徹底的な復権に繋がりました。秩父宮...
新島八重の墓
八重が体調を崩したのは、昭和6年(1931)の夏のことでした。腹痛が始まり、医者の診察を受けると、胆嚢管が肥大しているとのことでした。その後も不調が続き、胆石と診断されますが、高齢のため、手術はできないと言われます。翌年、昭和7年1月には、十二指腸狭窄から危険な状態に陥りますが、この時は持ち直しました。同年3月3日、雛人形の前に座る八重その後、京都での米寿の祝賀晩餐会に出席、茶会に参加などしていましたが、同...
茶人「新島宗竹」として
襄の死後、八重は新島邸で、42年の間独居生活をします。明治27年(1894年)、日清戦争が始まった年、八重は、裏千家の家元・千宗室(円能斎)に入門。女紅場時代、裏千家の11世家元・玄々斎の長女も茶道師範として勤務していたことが縁でした。熱心な稽古を続け、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かりました。その後、八重は女子教育に茶道を取り入れ、自分でも教えるだけでなく、府立第一高等...
日本のナイチンゲール
襄の死後、明治23年(1890年)4月26日、八重は日本赤十字社の正社員となり、京都に設立された日本赤十字社篤志看護婦人会の会員になりました。日本赤十字社は、戦争や災害が起きた時、敵味方の区別なく支援するジュネーブ条約に基づいた組織で、篤志看護婦人会は、有栖川熾仁親王妃薫子の令旨により組織された慈善団体でした。当時、看護婦の職業としての地位は低く、上流階級の婦人が看護婦となり、戦時に率先して看護活動を行う...
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