Category [千利休 ] 記事一覧
千利休(2)南宗寺 利休の供養塔
大阪・堺の南宗寺は、茶人の武野紹鴎、千利休が修行をした寺院です。天正2年(1574年)の松永久秀の兵火で焼け、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣による焼失後、当時の住職であった沢庵宗彭よって現在の場所に移転して再興されました。現存する仏殿、山門などは、沢庵の没後、17世紀半ばに整備されたものです。太平洋戦争の空襲で開山堂、実相庵、方丈、庫裏を失いましたが、実相庵、方丈は再建されました。境内には国指定名勝の枯山...
千利休(1)利休切腹
今日の「真田丸」は、千利休の切腹がひとつのテーマになるので、利休の記事を再アップします。堺は、戦国時代には環濠都市となり、自治的な都市運営が行われ、堺の有徳者(有力商人)で構成される会合衆が町を治めました。 1550年、宣教師フランシスコ=ザビエルが堺を訪れ、布教の許可を得るため、堺を拠点としました。戎公園(ザビエル公園) (画像:Wikipediaより)ザビエルをもてなした豪商・日比屋了慶の屋敷跡と言われる地...
福岡めぐり(3)恵光院の燈籠堂
恵光院は、千利休が豊臣秀吉を招いて茶会を開いたという筥崎宮の社坊である座主坊の末寺で、福岡藩二代藩主・黒田忠之の開基により寛永年間(1624~1644)に建立されました。燈籠堂1587年、千利休はこのお堂の前で豊臣秀吉を招き、博多の豪商らともに茶会を開きました。もとは筥崎宮にありましたが、明治期の神仏分離により恵光院に移されました。燈籠堂(承元2年1208創建) 天正15年15876月14日豊臣秀吉公箱崎宿陣の折、 千利休居士...
福岡めぐり(1)千利休・釜掛けの松の碑
中津編を終え、福岡めぐりの記事を始めます。地下鉄箱崎線馬出九大病院前駅下車。九州大学医学部の東門を入り、突き当りを右へ曲がると、「釜掛けの松の碑」があります。天正15年(1587)豊臣秀吉は、島津氏征討の帰途、筥崎宮に20日余り滞在しました。 この間、官兵衛の叔父の小寺休夢らと和歌を詠じ、千利休や神屋宗湛(かみやそうたん)らと茶の湯の会を催しました。 その時、秀吉の命によって利休は、この地の松に鎖をおろし、雲龍の小釜を...
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