Category [平忠盛 ] 記事一覧
瀬戸内紀行(20)忠海の耳無地蔵
広島県竹原市は安芸の小京都といわれ、古来、瀬戸内海の交通の要衝として栄えました。竹原から呉線で瀬戸内の海の景色を楽しみながら忠海へこの沖で、清盛の父・平忠盛は海賊を退治しました。後にこの辺りの海は「忠海(ただのうみ)」と呼ばれ、今もその地名が残っています。1135年(保元元年)日宋貿易の航路である瀬戸内海の忠浦沖(当時は「浦」)で海賊を捕えた功績として忠盛の二文字を分け、「浦」を忠海と、対岸の島である大...
羅城門跡
夏の京都の旅で、平安京の遺構を残す石碑巡りをしてきました。 まずは、東寺の西側に残る羅城門跡です。現在は、小さな公園となっており、その中に石碑が立っています。 794年(延暦13)に建設した平安京の正門に当たります。 当時は、東西4.5キロ、南北5.3キロの京域中央部の南端に羅城門がそびえ、北端の朱雀門と相対していたそうです。門は正面33メートル、奥行8メートル。数年前にここを訪れた時は、 「この地は平安京の昔、都...
白河北殿跡碑
白河北殿は、白河上皇の御所で、1118(元永元)年、南殿に続いて造営され、北殿や北新御所と称されました。1144年に焼失し、再興には清盛の父・平忠盛があたりました。この頃、白河上皇は既に崩御され、鳥羽院の院政の時代でした。鳥羽上皇が崩御され、9日後に崇徳上皇による保元の乱が起こり、白河北殿は、後白河天皇方の清盛、源義朝らに攻められ、炎上しました。白河北殿跡を示す碑が、左京区聖護院東竹屋町の京都大学熊野寮内に...
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