Category [今川義元(どうする家康) ] 記事一覧
西尾の今川氏発祥の地
西尾市立西尾中学校の南の辺りは、中世の今川荘の中心地であったと推定され、今川氏発祥の地の碑が建っています。吉良荘西条城主であった吉良長氏が次男の国氏に扶持として今川荘を与え、国氏が地名にちなんで今川氏を名乗ったことが今川氏の発祥と伝えられています。 今川 承久の乱後, 足利義氏が三河国の守護に任ぜられた。義氏の嫡子長氏は, 義氏が足利へ帰った跡式を継ぎ, 吉良荘にちなんで吉良氏を名乗った。吉良家 は二代...
牛久保史跡巡り(1)大聖寺 今川義元の胴塚
2016年7月、JR飯田線牛久保駅で下車し、牛久保史跡巡りをしました。牛久保といえば、山本勘助ゆかりの地でもあります。牛久保駅から徒歩で10分ほどのところに大聖寺というお寺があります。今川義元公墓所 戦国時代の駿河・遠江・三河の領主今川義元は永禄3年(1560)5月19日、尾張桶狭間の合戦で織田信長の奇襲にあって討死しました。 その時、首を取られた義元の胴体を家臣が背負って当地まで逃れ、この寺に葬って、とり...
桶狭間の戦い(5)長福寺 今川義元の首検証跡
緑区の長福寺は、桶狭間の戦いにおいて敗死した今川義元の供養寺として知られています。 和光山天沢院(わこうざんてんたくいん)と号し、天文7年(1538年)善空南立上人によって創建された西山浄土宗の寺院である。寺伝に、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いのとき、上人は今川勢が当地に着くと聞くや、住民の先導者となって率先酒食を提供し、その労をねぎらったとある。 本尊の阿弥陀如来像は、今川義元の茶坊主林阿弥が義元公供養...
桶狭間の戦い(4)七ツ塚~おけはざま山~瀬名陣所跡
七ツ塚(ななつづか)は、名古屋市緑区桶狭間北2丁目にある史跡です。勝利を収めた織田信長は、全軍を釜ヶ谷あたりに集め、勝どきをあげ、村人に命じてこのあたりに七つの穴を等間隔に掘らせ、大量の戦死者を埋葬させたといいます。桶狭間の戦いでの戦死者は、両軍合わせて、約3,500名と言われており、古戦場まつりの万灯会では、3,500本のローソクを灯して供養するそうです。また、この塚を取り崩したりすると「たたり」があると...
桶狭間の戦い(3)高根山~釜ヶ谷~信長坂
続いて名古屋市緑区有松の桶狭間の戦いの史跡を紹介します。有松駅を降りると、このような看板があります。急な上り坂をのぼって向かったのが、高根山です。高根山は、今川軍の先陣隊が、鳴海、大高方面に対して備え布陣していた所で、桶狭間の南北に連なる丘陵にあります。標高54mあり、鳴海城、善照寺砦、中島砦が一望でき、織田軍を監視したといいます。この地は、永禄三年(1560年)桶狭間の合戦の時、今川軍の戦陣として松井...
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