Category [山之手殿(寒松院) ] 記事一覧
松代の大林寺 山手殿の墓
関ヶ原の合戦後の、真田昌幸・信繁父子は16人の家来と信繁の妻女と伴に、九度山に幽閉されることになりましたが、山手殿は真田信之に引き取られ、上田に留まりました。この後、出家して名を寒松院と改め、慶長6年(1601年)頃から大輪寺で生活を始めます。夫の昌幸の死からちょうど2年後の慶長18年(1613年)6月3日に死去。法名・寒松院殿宝月妙鑑大姉。墓所は上田の大輪寺(長野県上田市)と松代の大林寺(長野県長野市)。大林寺...
山手殿(寒松院)の出自について
真田昌幸の正室・山手殿(寒松院)の出自に関しては、諸説あります。Wikipediaによると、●菊亭晴季の娘 - 山手殿の出自は真田氏関係の編著では公家の清華家菊亭晴季の娘とされている。しかし当時の真田昌幸の身分は武田信玄の下級家臣に過ぎず、上級公家である菊亭家の娘を妻に迎えるとはまず考えられない。これは、「真田丸」でも公家の出であることを否定していましたね。●遠山右馬助の娘 - 武田信玄の家臣・遠山右馬助の娘とす...
大輪寺 寒松院の墓(上田)
上田の大輪寺は、もとは、砥石城(旧神科村)の東麓の畑山にありましたが真田昌幸が上田城築城時、昌幸夫人、信繁の母である山之手殿の発願により、鬼門にあたる現在地へ移築されました。山手殿は、武田氏滅亡の前は人質として、甲斐の新府城に、また、関ケ原合戦の際も人質として大阪城にいましたが、豊臣方につくことになった昌幸の知らせを聞き、密かに大阪城を脱出して上田城へ帰りました。昌幸が関ヶ原の戦いで敗れ、九度山に...
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