Category [藤原道綱母 ] 記事一覧
『蜻蛉日記』にも記された宇治川の鵜飼
宇治川の鵜飼は平安時代からの歴史を持っており、『蜻蛉日記』には、天禄2年(971)奈良の長谷寺に参詣した藤原道綱母が川岸から鵜飼を見物しかがり火を焚いた数え切れぬほどの鵜舟が鮎を捕る様子が記されています。蜻蛉日記(岳亭春信画)平安時代の後期になると、仏教の教えの影響をうけて次第に宇治川での殺生が戒められるようになりました。平安貴族の没落と共に 衰退しましたが、大正なって再興され、現在では宇治の夏の風物...
『蜻蛉日記』に記された宇治川の鵜飼い
藤原道綱母の書いた『蜻蛉日記』には、夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾について書き、また唐崎祓・石山詣・長谷詣などの旅先での出来事、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談についてのの記事がある。藤原道綱母の没年より約20年前、39歳の大晦...
梨木神社(2)
梨木神社の境内は、平安時代は藤原良房の娘染殿后の里御所・染殿第でしたが、明治18年(1885)久邇宮朝彦親王の発議により、三条家の邸宅跡に三条実万を祀るため社殿が造営されました。1885年(明治18年)10月10日、社号は地名から梨木神社とされ、さらに別格官幣社の列格を受けて創建され、その後1915年(大正4年)、大正天皇即位を記念して、子の三条実美を合祀しました。三条実美(さんじょうさねとみ)幕末~明治前期の尊攘派公...
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