Category [毛利敬親 ] 記事一覧
八坂神社(山口市)
山口市の八坂神社は、正平24年(1369)大内弘世が京都八坂社から勧請して創建されたと伝えられています。はじめは社殿は竪小路に建立されましたが、更に水の上に社地がかえられました。その後、永正16年(1519年)に大内義興が大神宮を高峯山麓に建立したとき、本社もその地に移し、翌年(1520)、社殿を新築しました。 元治元年(1864)毛利敬親が萩から山口に藩庁を移すにあたり、社殿を現在の地に移しました。本殿は、二間社流造...
長州藩茶屋臨野堂跡
湯田温泉の「磯くら」というお店の前に長州藩茶屋臨野堂跡の石碑があります。毛利氏が萩から山口に来たときの休息所として湯田に茶屋を設けていました。そこは、他藩からの来客の接客所としても使用され、吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作らがここを密議の場所として利用していました。せっかくここまで来たので、お昼はこちらのお店で名物の蕎麦寿司をいただこう・・・と思ったのですが、現在ランチは営業していないとのことで、この...
湯田の御茶屋跡
湯田温泉の開湯は、約600年前、白狐が毎夜温泉に浸かっていたところを権現山の麓のお寺のお師匠さんが発見したとされています。田んぼの真ん中から金色のお地蔵さんや、源泉が湧出したことが「湯田」の名前の由来だとか。また、野原湯は湯田温泉の泉源といわれる場所で、湯田の御茶屋がありました。江戸時代は、藩主専用湯、公衆用の中湯、女湯、下湯があり、入湯料は藩が管理のもと、細かく決められていたそうです。毛利敬親も参...
萩紀行(55)明倫館 本館~明倫館碑~南門
旧明倫小学校本館旧明倫小学校本館は、国の登録有形文化財となっています。明倫館碑左側の碑向かって左側の碑は、元文6年(1741)6代藩主・毛利宗広が創建の由来を記して建てたもので、旧明倫館から移したものです。右側の碑右側は嘉永2年(1849)13代藩主・毛利敬親が新明倫館の開校を記念して建てたもので、幕府に対する忠心を意味する箇所(幕命而)が削られた跡があります(国指定史跡)旧萩藩校明倫館(明倫館碑) 明倫館は、...
山口藩庁門~山口旧県庁舎~旧県会議事堂
今週は、前橋の記事を掲載していましたが、まだ山口県の記事が終わっていないので、今後も随時掲載していきます。今日は山口市の記事です。1863年(文久3)藩主・毛利敬親は、萩から山口へ拠点を移し、中河原御茶屋で政務を執っていましたが、今の県庁の位置に藩庁の移転を計画し、翌年の元治元年(1864)から御屋形とよばれる居館をここに築き始め、慶応3年(1867)に竣工しました。幕府に対しては、「山口の政庁は城ではない」と伝え...
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