Category [武田信玄(どうする家康) ] 記事一覧
長篠・設楽原の戦い(7)設楽原歴史資料館~信玄塚
次は、設楽原の戦いの舞台となった地へ向かいました。長篠城を巡る激しい攻防がきっかけとなり、やがて、設楽原を舞台とした決戦に至ります。設楽原歴史資料館資料館の前にある像は、彼は新城の東郷一帯を治めていた旗本設楽家の出身で、幕末の日米修好通商条約調印の立役者である岩瀬忠震の像です。岩瀬忠震(いわせただなり)江戸時代末期の外国奉行。肥後守。幕臣設楽 (しだら) 貞丈の3男。岩瀬家の養子となる。ペリー来航の頃,...
三方原古戦場
武田軍は、三方向から遠江に侵攻し、一言坂、二俣城で勝利。12月22日、武田方は、二俣城を出発し、西へと進路を取りました。織田軍からの援軍を得た徳川家康も、武田軍を迎え撃とうと浜松城を発ち、自ら出陣。戦場となったのが、三方ヶ原です。以下、Wikioediaより1572(元亀3)年、上洛を目指し、武田信玄が遠江国に進軍することを知った家康は、浜松城を出発・追撃し、三方ヶ原の地で戦いとなりましたが、兵の数でも軍術でも劣る...
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