Category [伊藤博文 ] 記事一覧
亀山八幡宮(下関)
下関の亀山八幡宮は、貞観元年(859年)創建で、市内50カ町の氏神様として崇敬されています。ここは幕末、お亀茶屋のお茶子木田梅子が長府藩に追われた伊藤博文を助け、のちに夫婦にったゆかりの地です。伊藤博文公夫妻史跡 「お亀茶屋」跡幕末のころ北前船の寄港地として海陸物産が集散し西の浪華として栄えていた下関の町を、明治維新の志士たちが繁く往来していました。慶応元年(1865)の初夏、刺客に追われた伊藤...
日清講和記念館・春帆楼(下関)(2)ふくの碑と李鴻章道
また、明治21年に伊藤博文が、春帆楼で食したのを機に禁制が解かれた下関を代表する「ふく料理」(下関ではフグのことを福にかけて「ふく」と呼ぶ)は、公許第1号となりました。 ふくの碑明治28年(1895年)3月24日、第3回目の会議を終えた李鴻章は、宿舎であった引接寺へか戻る途中、小山豊太郎という青年にピストルで狙撃されりという事件が起き、これによって会議は一時休会。李鴻章は、顔面を負傷しましたが、まもなく快復し、4...
日清講和記念館・春帆楼(下関)(1)伊藤博文・陸奥宗光胸像
明治28年(1895)3月19日、清国の使節団を乗せた船が亀山八幡宮沖に到着。日清戦争の講和会議が、下関の春帆楼の二階大広間を会場に繰り返し開かれ、日本全権弁理大臣は、伊藤博文と陸奥宗光、清国講和全権大臣李鴻章を主軸とする両国代表11名が臨み、4月17日、日清講和条約(下関条約)が締結されました。日清講和記念館その際、会議で使用された調度品や貴重な資料などが展示されています。春帆楼この地はもとは、阿弥陀寺の方丈...
萩紀行(56)伊藤博文の邸宅跡
萩市椿東にある伊藤博文の邸宅跡。もと長州藩の中間、水井武兵衛(のち伊藤直右衛門に改名)の居宅でしたが、1854年(安政1)、博文14歳のときに父林十蔵が直右衛門の養子となり、一家をあげて伊藤家に入家しました。茅葺き、平屋建て、総建坪29坪。松下村塾から150mのところにあり、博文は17歳より通いました。松下村塾に通った後、イギリスに留学するなどし、この家にずっと住んでいたわけではありませんが、1868年(明治1)に兵...
四国艦隊下関砲撃事件
四国艦隊下関砲撃事件は、長州藩の外国船砲撃に対する報復として、1864年八月、英・仏・米・蘭の四か国連合艦隊が下関を攻撃を開始しました。馬関戦争とも呼ばれています。以下、下関砲撃事件の経緯です。7月27日、28日にキューパー中将(英)を総司令官とする四国連合艦隊は横浜を出港した四国連合艦隊は、1イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ仮装軍艦1隻からなり、総員約5000の兵力であった。また横浜...
最新コメント