Category [島津久光(西郷どん) ] 記事一覧
島津久光が移り住んだ鶴丸城二の丸跡
鹿児島城は、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことから別名「鶴丸城」と呼ばれています。1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城され、以後廃藩置県まで島津氏の居城でした。1874年(明治7年)に焼失したのちは再建されず、現在は本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っています。鹿児島県立図書館(画像:Wikipediaより)鹿児島市立...
照国神社に建つ島津久光の銅像
鹿児島の照国神社の敷地に、島津家第28代当主・島津斉彬の弟で、第29代当主・忠義公の父である島津久光の銅像が建っています。島津久光は島津家第27代斉興の第五子として文化14年(1817年)、鹿児島城(鶴丸城)に生まれました。第28代島津斉彬の異母弟にあたり、斉彬の遺言で久光の子の忠義が藩主になると、「国父」として藩政の実権を握り、忠義を後見しました。文久2(1862年)、斉彬の意志を継ぎ、藩政改革を志して、千人の兵を率い...
鹿児島の旅(28)薩英戦争本陣跡
鹿児島市常盤町に残る薩英戦争本陣跡。薩英戦争時、海に近い鹿児島城がイギリス軍の大砲の射程圏内となるため、海から離れた千眼寺(せんげんじ)に本陣に置かれ、島津久光、忠義親子がここから藩士たちの指揮を執りました。 千眼寺は黄檗宗の寺で、文化2年(1805)、島津重豪が荒田村から現在地に移築したといわれています。明治2年(1869)廃仏毀釈によって寺は壊され、現在は民家となっています。遺構はほぼ残っておらず、庭に井戸や...
薩英戦争の引き金となった生麦事件
生麦事件1862年9月14日、薩摩藩の島津久光の一行が江戸からの帰路、東海道の生麦村(現・横浜市鶴見区)で馬に乗った英国人4人(横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従姉妹で香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、上海で長年商売をしていて、見物のため来日していたチャールズ・レノ...
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