Category [木曽義仲(鎌倉殿の13人) ] 記事一覧
義仲寺の木曽義仲の墓
JR膳所駅より琵琶湖方面に五分ほど行ったところに、義仲寺があります。義仲寺の名は、平家討伐の兵を挙げて都に入り、後に源義経・範頼軍に追われ、粟津の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲をここに葬ったことに由来し、近江守護であった佐々木六角が、室町時代末期に建立したといわれています。境内に入るとすぐに山吹塚があります。山吹塚山吹は義仲公の側女。元は、JR大津駅前にありましたが、駅の拡張工事のため、この地に移され...
粟津の戦い(1)木曽義仲の最期
粟津の戦い(あわづのたたかい)は、寿永3年1月20日(1184年3月4日)に近江国粟津にて行われた木曽義仲と源頼朝派遣の東国諸将との間の戦いです。宇治川の戦いなどで敗れた義仲は、後白河法皇を連行して京都を脱出しようと図りますが、六条河原の戦いで再度敗れ、今井兼平らわずかの兵を連れて根拠地のある北陸への逃走を試みましたが、義仲が近江国粟津に着いたところ、残ったのは義仲・今井兼平・巴御前・手塚光盛・手塚別当の僅...
宇治川合戦 瀬田の唐橋~宇治川先陣の碑
宇治川の戦いは、木曽義仲と源頼朝から派遣された源範頼、源義経とで戦われた合戦です。木曽義仲は、倶利伽羅峠の戦いで平家軍を破り入京しましたが、乱暴狼藉を重ね、公家や京の人々の反感を買うことに・・・ついには朝廷とも対立することになります。その後、征夷大将軍になり、自ら旭(朝日)将軍を名乗りましたが、後白河院は、木曽義仲を見切りをつけ、源頼朝を頼ることにしました。寿永3年(1184年)1月、後白河は、頼朝に義...
木曽義仲の側室かつら姫ゆかりの直會社
名古屋市瑞穂区の史跡「直會社」を訪ねました。祭神「直會白龍大神」は、のうらいさま、かさどうさま、かつら姫大神とも呼ばれ、木曽義仲の側室のことをいいます。直會社(なおらいしゃ)寿永三年(1184)木曽義仲軍は、源頼朝の鎌倉軍に「勢田の戦」に敗死。一族逃げまどう中、側室かつら姫が腫瘍で大変難渋。「おできで苦しむ人を助けてください。とのご意志を残しこの地で亡られ、榎を墓標に手厚く葬られた傳説にいつの世から榎を...
木曽義仲の愛妾ゆかりの山吹地蔵
滋賀県のJR大津駅の西側に山吹御前を祀る山吹地蔵の祠があります。山吹御前は、木曽義仲の便女(武将の側で身の回りの世話をする召使いの女)で、「平家物語」によると、巴御前と共に信濃国から京へと付き添ってきましたが、義仲の都落ちの際、御前は病に倒れたため、義仲に同行できなかったといいます。...
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