Category [源義朝 ] 記事一覧
甲ヶ淵
八瀬川の少し上流には、義朝一行が東国に落ち延びる際、比叡山の法師に襲われ、家臣の斎藤別当が兜を投げ込み、法師らがそれを奪い合う間に逃げたという甲ヶ淵があります。比叡山には、信頼や義朝が打ち負けて大原口へ落ちると噂が流れ、延暦寺・西塔の法師どもがこれを聞いて、「いざ、落人を打ち捕らえん」とて、2、3百人が千束ヶ岳に待ち構えました。義朝がこれを聞いて「都にて、兎も角もなるべきこの身が、鎌田兵衛の他愛も無...
義朝駒飛石
碊観音寺の前の八瀬川に、駒飛橋という橋が架かっています。その橋の下に大きな岩があり、「義朝駒飛石」と呼ばれています。源義朝が東国へと落ち延びる最中、難所「千束谷」で、義朝の馬が崖から落ちますが、馬の前足が大石にかかり、一命をとりとめたため、駒止石ともいいます。また、騎乗のまま飛び越えたともいいます。F2ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願い致します。...
源義朝ゆかりの碊観音寺(かけかんのんじ)
12月のはじめ、比叡山から八瀬を目指して、ケーブルに乗りました。辺りは銀世界雪山とうっすら紅葉の残る山とのコラボです!八瀬ケーブル乗り場から少し北に行った所に、碊観音寺があります。源義朝が平治の乱に敗れ、逃れる途中、比叡山の僧兵から襲われた時に、岩に観音菩薩を刻み、源家の再興を祈願したと伝えられています。当山の御本尊碊観音大士は、往者二条天皇の御砌、源義朝卿、平治元年(西暦1159年)12月下旬、平治の乱に...
源義朝最期の地・野間探訪(12)本殿
その他、野間大坊は見るべきものがたくさんあります。悠紀殿昭和天皇の即位の礼の際、京都御所内に建てられた建物の一部を当山に御下賜され、昭和4年に移築されたものだそう。本殿に大河のポスターが貼ってありました。F2ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願い致します。...
源義朝最期の地・野間探訪(11)野間大坊の義朝の墓
平治の乱に敗れた源義朝は、野間内海荘の荘司で、政清の舅である長田忠至の館にたどり着きましたが、恩賞目当ての忠致・景至父子の裏切りに遭い、義朝は風呂場で殺害され、政清は酒を飲まされて騙し討ちに遭い、殺されてしまいました。(「平治物語」) しかし、「愚管抄」によれば長田父子の陰謀を察知した義朝が、政清に自らの首を打つよう命じ、斬首した後に政清は自害したとされています。 義朝の墓には、義朝の最期の言葉「木...
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