Category [豊臣秀吉(どうする家康) ] 記事一覧
方広寺大仏跡「大仏殿跡緑地公園」
かつて方広寺の大仏の台座があったとされているところは、「大仏殿跡緑地公園」として整備されています。中央の盛り上がったところに、大仏が安置されていたそうです。 大仏殿跡緑地 かつてこの地には、豊臣秀吉が奈良東大寺にならって創建し、その後秀頼が再建した方広寺の大仏殿が、偉容を誇って建っていました。現在の緑地はその中央部にあたり、2000年に遺構の状態を確認するための部分的な発掘調査が実施されました。調査...
伏見桃山城
伏見城は3度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めた。このとき築かれたものを指月伏見城、後に近隣の木幡山に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられます。指...
豊臣秀吉を密かに祀った新日吉神宮
1160年(永暦元年)、後白河法皇が院の御所(法住寺殿)の鎮守社として、もとは智積院南側に創建したのが始まりです。その後社地は転々としており、江戸時代になって豊国廟社が壊されたのと同時期に旧廟前に移り、現在の社地となったのは、豊国廟が再興された1897年(明治30年)になってからです。1958年(昭和33年)後白河天皇を増祀し、1959年(昭和34年)に神社名を現在の新日吉神宮と改めました。楼門江戸時代には、豊臣家や豊臣...
豊臣秀吉を祀る豊国神社(京都)
慶長三年(1598年)に豊臣秀吉の遺体を東山の阿弥陀々峰に葬り、翌年に社殿が山腹に創建されましたが、豊臣家滅亡後に徳川家により取り壊され、現在の豊国神社の社殿は1880年(明治13)方広寺大仏殿跡地の現在地に再建されたものです。旧福岡藩主の黒田長成侯爵が中心となり境内の整備が行われ、1897年(明治30年)には神社境外地の阿弥陀ヶ峰山頂に伊東忠太の設計になる巨大な石造五輪塔が建てられました。豊国神社豊臣秀吉を祀る...
豊臣秀吉の墓・豊国廟
慶長3年(1598年)3月15日、豊臣秀吉は、醍醐寺諸堂の再建を命じ、各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて、秀頼や奥方たちと一日だけの醍醐の花見を楽しみました。しかし、5月より秀吉は病に伏せるようになり、次第に病状は悪化。徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、自身を八幡として神格化するこ...
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