Category [本多重次 ] 記事一覧
徳川家臣団の屋敷跡(2)松下之綱~近藤康用~本多重次
徳川家臣団の屋敷跡巡りの続きです。尾張町公会堂付近には松下之綱の屋敷跡松下之綱天文6年生まれ。松下長則(ながのり)の子。今川氏に属し遠江(静岡県)頭陀寺(ずだじ)城主。このころ日吉丸(のちの豊臣秀吉)が3年間之綱につかえている。のち徳川家康,秀吉につかえ,天正18年遠江久野(くの)1万6000石の城主となる。慶長3年2月29日死去。62歳。三河(愛知県)出身。通称は嘉(加)兵衛。(コトバンクより)「おんな城主直虎」では、悪役に...
作左曲輪と本多重次屋敷跡
武田軍との戦いで、徳川家康は本多重次を呼んで、長期戦になった場合の兵糧について相談すると、米を十分に貯蔵しているとの返事が返ってきました。それに喜んだ家康は、米蔵の位置に重次の屋敷を作ることを許し、それが後の浜松城の作左曲輪になったといいます。 作左曲輪 「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」 と長篠の陣中より妻にあてた手紙で有名になった本多作左衛門重次(1529~1596)が住んでいたところです。重...
最新コメント