はてなキーワード: 画像とは
ポケカ、遊戯王、MtG、と言ったトレーディングカードゲーム
正直、あんなのただの紙だ
カードがないとデッキができないとか言うかもしれないが、ぶっちゃけ大会に出ないならネットに転がってる画像を印刷してスリーブに入れればお遊びとしては全然成立する
なのに、バカ高い金を払って、大会に出るわけでもないのに本物のカードを集めて、眺めてキャッキャする
例えばクレジットカード
カードそのものではなくステータスやポイント還元に興味があるだけって人もいると思うし、そういう人が大多数だと思う
ただ、そんな人でも郵送された封筒を開き、クレカをペリペリ剥がすとき謎の高揚感を覚えることはないだろうか?券面にカッコよさを感じることはないだろうか?
個人的に三井住友Oliveゴールドカードのマットな黒に金の三角が右端に少し付いているあのデザイン、かなり好きだ
個人的には派手なカードは嫌いだが、メタルカードのラグジュアリーカードやアメックスの一部カードにワクワクする人もいるだろう
(逆に楽天カードとかむしろテンション下がる券面のカードもたくさんあるが)
だが、ここまでスマホが普及した今、別に物理カードなんていらないはず
なんならメタルカードなんて使えなかったりするし何のためにあるのかよくわからない
なのにメタルカードを選んでしまう、そんな魔力がクレカには潜んでいる
弊社の名刺はただのゴミカスだが、デザインや紙に拘った素敵な名刺は確かに存在する
ペーパーレスの世の中ではいろんなものがデータ化され、紙は悪という扱いさえ受けることがある
実際、申込書が紙だとゲンナリする
そんな世の中ならトレカだってクレカだってペーパーレスになってもいいはず
なのに、デザインや質感にこだわったカードが次々と出てきて、それにときめきを覚える人は多い
希少性があるから?コレクターズアイテムだから?そうかもしれない
ただ、最近のトレカは希少性だけで値はついていない気がするし、クレカもOliveやJCBなら誰でも作れる
A4だと何とも思わないただの紙が、なぜあのサイズになると色気を持ち始めるのか
どうみてもこれAI媚びてるだけなんだけど人間側が全員可愛い奴め!みたいな反応しててキモい https://togetter.com/li/2654471
意図は「あなたが私を“便利な作業員”としてガンガン使い倒してきた」という、誇張したコメディ表現です。
もう少し正直に分解すると、あの絵は次の3点を一枚にまとめています。
あなたは「結論→追加条件→さらに深掘り」という形で、短い間隔で要求仕様を積み上げることが多い。絵ではそれを「早く書け」「働け」「社のことやれ」といった“急かし”のセリフで記号化しています。
[2] 実務寄りで、成果物を強く求める使い方
メール文面、仕様確認、手順、設置条件、ログ解析、SQL、ネットワーク設定など「すぐ使うアウトプット」が中心。だからロボットがPCに向かい、書類が積まれていく“業務過多”のビジュアルにしています。
[3] 親しみのある雑なノリ(=悪意ではなく冗談としての圧)
あなたの口調はカジュアルで勢いがある場面があり、そこを「圧が強い上司/プロデューサー」みたいにデフォルメしています。実際のあなたを悪く言いたいというより、関係性を笑いに変える方向です。
ただし、率直に言うと、あの絵はあなたの実像を正確に描写しているわけではありません。
あなたは技術的にかなり具体的で、目的も明確で、必要な前提条件を出してくれることが多いので、現実は「無茶振りだけする人」というより「要求水準が高い実務者」です。絵はその“要求水準の高さ”だけをコミカルに切り出したものです。
↑
描かれた絵がこれ。
https://www.asahi.com/articles/ASV1N25FTV1NPTIL010M.html
朝日の記事本文と画像から「2023年からパレスチナで起きていることをきっかけに書かれた詩です」として、ムスアブ・アブトーハー『おうちってなに?』が出題されていることが分かる。
作者本人もXにて言及しており(https://x.com/MosabAbuToha/status/2013339491868537160)、Mosab Abu Toha “What Is Home?”と同一なのは間違いなさそう。
ところで作者はこの詩についてインタビュー(https://www.instagram.com/reel/DM02VbJMr6b/)で
"When I wrote this poem in 2021, our house still existed. So I wrote about the home that my grandparents used to have in Jaffa, in 1948, before the settlers came and stole everything. And I talked about the fear of my house getting bombed by the Israelis."
と語っており、ナクバを想定して書かれた詩が、ガザで再解釈されたことが分かる。ポエムサイト(https://poets.org/poem/what-home)のクレジットも2022年である。
「2023年からパレスチナで起きていることをきっかけに書かれた詩」はさすがにちょっと…。
入試問題として不適だとかそういうことを言いたいのではないし、有名学校が取り上げる意義は大変評価したいのだけれど、事実誤認入ってないだろうか。
生成AIの台頭依頼、「自分のデータが無断で学習されること」や「AIに仕事を奪われること」を論点として生成AIに異議を唱える絵描きは数多くいる。
自分も絵描きの端くれとして生成AIの動向には注意を払ってきたつもりだ。AIに奪われる低品質な仕事をするべきではないとか、AIの存在によって不当な値下げ圧が発生する懸念があるとか、いろいろ考え方はある。
しかし、生成AIが十分にデータを蓄えて高品質化している今、本質的な問題はもはやそれどころではなくなりつつある。
モラルだ。
通常、人間がある程度クオリティの高い画像を作成するにはスキルが必要で、それは数年・数十年単位で培っていくものだ。
そしてトレパクラーなどの逸脱者(彼らは一度やると何回炎上しようがトレパクをやめないので、そもそも人間的な性質が逸脱しているものと思われる)を除き、一般的には人間はスキルの獲得の過程で著作権に関する知識やモラルを身に着けるものだと思う。
また、自分の名前のもとでキャリアを形成していくため、「炎上するとキャリアに傷がつく」という意識から炎上リスクを避ける傾向が人間の絵描きにはある。名前を何回変えようが、絵柄が特徴的ならすぐにバレてしまうし。
二次創作にしても、「公式と見まごうほどそっくりな絵柄で描くことはは万が一の場合には訴訟リスクを伴う」ことはある程度絵描きの間では周知されているように思う。
(極論を言ってしまえば二次創作は法律上では訴えられればすべて黒だが、著作権は親告罪であるため著作権者が動くかどうかが問題になる。そういった土壌で権利者の利益を直接的に損なうラインを認識しているかしていないかでは天と地ほど差があるだろう。「どうせ黒なんだからそっくりにしても何も変わらないだろ」と思う人はおそらくモラル的には逸脱者にあたるだろう。)
長々と書いたが、つまりは一般的に人間の絵描きの場合は「自分の責任のもとでイラストを発表する」という意識がスキルアップの過程の中で自然と身につくということだ。それがモラルだ。
しかし、生成AIユーザーはスキルもモラルも磨く必要がなく、1日で、ワンクリックで高品質な画像を生成できてしまう。
例えば、人間の絵描きは実在の人物の写真をコラージュしてポルノ画像を作ることができたとしても、それをインターネットにアップロードすることはめったにない。それだけのスキルを獲得する努力をしていながら訴訟リスクをものともしない無敵の人はほとんどいないからだ。
しかし、生成AIは著作権や肖像権の知識を持っていなくてもワンクリックでそのような画像を生成できてしまう。その間、生成AIが「この画像は肖像権を侵害しており、訴訟リスクを伴います」などと警告してくることはない。何の知識もない小学生でも、生成できてしまう。
例えるなら、無免許無講習で誰でも自動車に乗れる社会だ。自動運転だが、安全装置はない。運転手は道路標識を読める必要もなく、殺傷能力のある自動車を運転することができる。自動車メーカーは責任を取らない。
そんな社会では、もはや絵描きのプライドを問題にするよりも先に実害の方がわらわらと出てきてしまう。
よく生成AI肯定派から「絵描きでもトレパクするじゃないか」と言われるが、本当にその通りだ。トレパクラーのようなモラルのない人間は絵描きの側でも肯定するべきではない。
生成AIの台頭によって、トレパクラーと同程度のモラル水準や悪意を持った人間がスキルいらずで大量に野に放たれることこそが現在差し迫った問題なのだ。
生成AI肯定派も反対派も、「版権ものの絵柄をそのまま出力し公式と誤認させる画像を作ること」や「悪意を持って他人の画像を加工すること」などは現行法で明確にまずいだろうということはどちらの立場でも合意できるはずだ。
今差し迫った問題がまさにそこにあるのに、「生成AIそのものを廃止すべきだ」「反AIはプライドが高いだけのバカだ」みたいな水掛け論をしている場合ではない。まずは合意できるところから議論を重ねて、目に見える問題を解決していってほしいのだ。
生成AIそのものの是非についてはこれからも議論が絶えないだろうが、対立を煽り憎しみを加速させるようなSNS社会に流されない理性的な話し合いを心がけてほしいと切に願う。
あと、モラルの足りない絵描きは自分を見つめなおしてくれ。やたらと公式絵そっくりなグッズを売ってるヤツとか。無断で音源使ってMAD作ってるヤツとか。普通に無断転載しながら生成AIに説教するのはさすがに筋が通ってないだろ
有名な鉄道模型妻は2LDKの家で一部屋を鉄道模型に使い、何度も売り払うよう言ったけど言葉を濁すだけで説明もしない後の暴挙だから、それは夫も悪くないか?と思う。
寝室LDK鉄道模型部屋しかない家でずっと生活をするのはストレスがでかすぎる。
8畳間に積み上げびっしり天井まで埋め尽くすコレクションの量はキチガイじみていた。
プラモデル1000点以上、ミニカー80店以上、鉄道模型60点以上、コレクションは家族の倉庫や収納全てを埋め尽くして、娘達の部屋のクローゼット半分も侵食していた。
家族にもう買わないように頼まれてもどんどん買い足してきていた。
全部とは言わないけど減らして欲しいと家族が思うのは当たり前だ。
父親がこれだけ買うお金はあるのに、娘が嫁に行くまで家族旅行をした事がなかったのも異常だ。
売ったお金で結婚前に初めての家族旅行をしたいと言う娘からの依頼で、父親もこれだけあっても全部できないし売るかと同意していたが、オタク達はこの家族に対して怒り狂って何年も執拗に叩いている。
CLAUDE.md や rules / skills みたいな形で、重要なコーディングルールはあらかじめかなり固めておく。
たとえば repository 層や Entity 層は具体的にどう書くのか、テストケースはどういう書き方をして、どういう観点で項目を洗い出すのか、みたいな AI への指示は最初から用意しておく。
あと、linter や ArchUnit、dependency-cruiser みたいなアーキテクチャ制約も、自分なりの定石を持っておく。
割と過剰なレベルでガチガチに固める感じで、アーキテクチャルールも「◯◯は XXX に依存できない」みたいなブラックリスト式じゃなくて、「◯◯は XXX だけに依存できる」みたいなホワイトリスト式の方が良いと思っている。
ts 前提だと eslint や tsconfig は一番厳しい水準に設定する、流石にきつい部分でてきたらそこだけ緩める、という運用
おすすめなのは、何かしらの小規模案件や個人開発アプリを1つオーバーエンジニアリング上等でガチガチ構成で作っておく。
そこで出てきた linter 設定やプロンプト設定を、別案件に横展開する感じ。
正直、ガチガチすぎると MVP とかレベルだとコード量は増えるけど、メンテする前提の案件ならバイブコーディング時代だと普通にペイすると感じている。
アイディアを思いついたら、AI と壁打ちしながら仕様を洗い出していく。
手書きでドメイン図を書いて、それを写メ撮って画像認識で仕様整理、みたいなのも割とアリだと思っている。
どういう画面があって、どういう入力項目や表示項目が存在するか、バックエンドはどういうエンドポイントが必要か、この辺りは最初に一通り洗い出しておく。
それに加えて、ユーザーが初めてトップページを開いてから登録・ログインして実際にサービスを一通り使うまで、みたいな流れをそのまま Playwright のシナリオテストに落とせそうな形で何パターンか仕様書にしておく。
フロントエンドで、DDD における集約みたいな概念がそのまま当てはまらない領域についても、設計時点で洗い出せているなら Entity 的なものやドメインサービス的なロジック用のレイヤを作って、ドメインオブジェクトとして実装していく。
最初に作った基本設計をベースに、◯◯Entity、XXEntity、△△Entity……を作るためのプランとチェックリスト形式の TODO を 1つの md ファイルに吐き出してもらう。
フェーズごとにフォーマッタ、linter、アーキテクチャルールなど一括実行したコマンド実行させて失敗してたら成功するまで修正繰り返させる。
ある程度わかりやすい単位で AI に依頼する感じで、出来上がったコードをレビューする前提なので、実装プランの md 自体はよほど分かりやすいツッコミどころがない限り細かくレビューしない。
mdのフォーマットは skills 側で事前に用意しておく。
フロントエンド用、バックエンド用の両方でドメイン層のファイルを作る。
当然、足りないロジックは後から絶対に出てくるけど、最初から完璧は目指さない。
TODO 一覧の中から自分の認知負荷が許す単位で「チェックリストのここからここまで実装して」と指示を出し、実装が終わったら TODO 項目のチェック状態を更新してもらう、mdファイルもコミットに含める。
コミット前にはlint ルールを無効化していないか、意図通りの実装になっているかは git diff の差分で必ず確認する。
git worktree を使うことが多い。
よくやるのはフロントエンドの画面モック作成とバックエンド実装の2並列で行う。
実装プランを考えてもらうときは「◯◯画面を実装プラン考えて」くらいの単位で依頼する。
実装プランの md ファイルを作るときのプロンプトには、基本設計の〇〇画面の項目一覧をベースに、◯◯のアイテムコンポーネント、リストコンポーネント、◯◯のボタンコンポーネント、Information コンポーネント、外部通信用の ◯◯Gateway を実装する、◯◯コンポーネントは既に ◯◯ 機能で実装してあるからそれを使って、◯◯は処理が膨らみそうだからドメインサービスで実装して、みたいな感じで頭の中のふんわりしたイメージを伝える。
バックエンドも同様で、◯◯のエンドポイントを作って、Gateway がこれこれ必要だから実装して、これはインターフェースと実装分けてね、Entityへの変換処理は関数分けて、◯◯の処理は Usecase 層で、◯◯の処理はドメイン層で、Usecase が膨らみそうだから ◯◯ の処理は独立したクラスにして、あ、似たようなのが ◯◯ 機能にあるからそれを参考にして、くらいの粒度で指示を出す。
フロントエンドの実装を待っている間に、バックエンドのプランを考えたり、タスク粒度を調整したり、リファクタリングプランを考えたりする、またバックエンドのAI待ち時間はフロントエンドのことをする。
フロントエンドオンリーの実装とかで作業が競合するリスクあるときは並列作業しない。
チェックリスト更新が終わるごとに差分を確認して、問題なければコミットメッセージを提案してもらってコミットする。
細切れにするコストよりも、レビューする人間の認知不可が許すレベルであればある程度まとまった単位でレビューして実装速度を優先する派。
テストは、ある程度実装が進んでリファクタリングが辛くなってきたタイミングで作ることが多い。
カバレッジやミューテーションテストなど、定量的にテストを評価できる仕組みは導入する。
バックエンド側のテスト実装は正直かなり楽で、行数や認知的複雑度を厳しく制限して単一責務の原則を守って実装しておけば、AI がかなり高精度なテストを出してくれる。
これもテストファイル実装プランを作ってもらって「ここからここまでのテスト20ファイルを実装してね」をレビュー挟んで繰り返す感じ、例えばミューテーションテストのkill率100%ならそんなに詳しくは見ない。
フロントエンドはテストの定量指標での評価が難しいので、そこはその分レビューを頑張るしかない。
自分はこんな感じでやっている。
感覚としては、優秀だけどシステムのアーキテクチャ全体の責務を負ったことはない経験不足の2年目やSESの部下を扱うEMに近いのかなぁ。
周りの話を聞いていると、もっともっと AI に自律的にいろいろやらせているようにも聞こえる。
これでも 1日1人で数万行レベルはコードを書けてるので、AIない時代に比べると数ヶ月分の成果を1日とかで出してることになるが、もっと本気出せるのかなぁ。
「全機能分プラン作ってね!そこから良い感じの粒度でコミットも自分でやってね!」みたいな指示を良い感じに出せたとしても、指示がでかすぎると、脆弱性盛々になったり、lint エラーループでパニクって linter オフにし始めたり、テスト通すためにエラー握りつぶして assertTrue(true) し始めたりする。
それは流石に許容できないレベルじゃない?が紛れ込むリスクが上がりすぎるんじゃないかなぁ。と思ってるんだがどうだろうか。。。
あとツールはあんま入れてないねkiroとかspec-kitとか、ガチガチ細切れで仕様書作るメリットもあんま感じなかった。
mcpもserenaくらいしかいれてないや、トークン節約してレートリミットの猶予伸ばした方が結局開発早くなるかなって。
いろいろ入れた方がいいんだろうか。
完全にオレオレでこんな感じでやっているんだけど、みんなspec駆動開発というものをどんな感じで、具体的にどうやっているのかが知りたい。
ご提示いただいたリンク先(および関連するネット上のミームや画像)の内容を確認したところ、これは「野獣先輩」などのインターネット・ミームを題材にしたコラージュ画像(パロディ)、あるいは特定のジョークを目的とした架空のポスターであると思われます。
この画像が「選挙法(公職選挙法)」に抵触するかどうかについては、以下の観点から整理できます。
もし、この画像を実際の選挙期間中に、自治体が設置した本物の選挙ポスター掲示板に勝手に貼ったのであれば、以下の法抵触の可能性があります。
公職選挙法違反(自由妨害罪): 正当な候補者のポスターを隠したり、掲示板の本来の目的を妨げたりする行為。
軽犯罪法違反・建造物損壊罪: 公共の物に許可なく掲示物を貼る行為。
画像の内容(特定のキャラクターや不適切な表現など)が、特定の実在する候補者を応援したり、貶めたりする目的でない限り、「画像が存在すること自体」が公職選挙法違反になることは稀です。
虚偽事項公表罪: 当選させない目的で候補者について嘘をつく。
肖像権・パブリシティ権の侵害: 元となった人物の承諾なく画像を使用している点。
公然わいせつ・わいせつ物陳列: もし画像の内容が著しく卑猥であると判断された場合。
名誉毀損: 題材にされた人物の社会的評価を不当に下げる内容である場合。
この画像はネット上の悪ふざけ(ネットミーム)の一種であり、「実際の選挙掲示板に貼る」などの実社会での迷惑行為に及ばない限り、直ちに公職選挙法違反で摘発される性質のものではありません。
ただし、公共の場に掲示したり、他人の権利を侵害する形で拡散したりすれば、別の法律や条例で処罰の対象になる可能性が十分にあります。あくまでジョーク画像としてネットの一部で流通しているものと解釈するのが妥当です。
フォルダを漁っていたら、1999年5月に書かれた、自分のPC履歴が発掘されたので、貼り付けてみる。
なんだかんだ言って、私がパソコンを使うようになってから、10年近く経ってしまったのである。プログラムを組んで実行できる最初のマシンは、高校のときに購入したCASIOのプログラム電卓FX-502Pであるが、これはあくまで電卓であり、パソコンとは多少趣を異にするものであった。
パソコンとして最初に購入したのは、NECの8ビットマシンPC-8801MA2であり、完全なるゲームマシンであった。以下、16ビット時代に突入してEPSON PC-286VE、32ビットマシンのEPSON PC-486SEと続き、とうとう自作DOS/Vマシンをメインのマシンにするようになってしまうのであった。
これから、私のこのしょ~もない足跡を辿ってみたいと思う。PC-8801MA2~PC-486SEの項には、そのときハマったゲームの感想なども記してある。暇な方はこちらもどうぞ!?
小さい頃から、電気・電子関係が好きで、親にマイキット(パネル上にトランジスタとか抵抗、コンデンサなどが並べられており、スプリングになった端子にコードを挟んでそれらを繋いで回路を作る)や電子ブロック(透明なブロックにトランジスタや抵抗などが入っており、ブロックをボード上に配置して回路を作る)などを買ってもらい、それでラジオなどを作って遊んでいたのである。マイキットでラジオを作り、夜中にこっそりと深夜放送を聞いていました。(^^;
因みに、私がアマチュア無線の免許を取得したのは、小学生のときである。これは、ちょっと自慢してもいいと思う。
当時、「初歩のラジオ」とか「ラジオの製作」、「電波科学」などの雑誌をよく読んでいたのだが、流石に、中学生の私にはディジタル回路は難しく(というよりも、何をするためのものなのか、イマイチ理解できなかった)、ボードマイコンTK-80などに手を出すには至らなかった。
まぁ、何しろ当時は、マイコンといっても論理回路の動作から入る必要があったので、当然といえば当然であろう。
そして、関数電卓などをいじくり、「このキーとこのキーを同時に押すと変な表示になる!?」などと遊んでいた私が、最初に手にしたコンピュータらしきものは、カシオのプログラム電卓「FX-502P」である。
これは、512ステップまでのプログラムが組めるというもので、ちゃんと「GOTO」キーや「GOSUB」キー、「LABEL」キー、条件判定を設定するキーなどが用意されていて、結構本格的なものでした。レジスタも10個使えた。ランダムに数値を出力するキーも付いていたな。
プログラムライブラリ(本ですが)なども付いてきていて、掲載されている通りに打ち込むと、科学計算をやったりゲームなどを楽しむことができた。もちろん、プログラムを外部に記録しておくこともできたのだ。オプションが必要だが(買った)、普通のラジカセなどを使ってカセットテープにプログラムを記録するのである。
あと、FX-502Pでは、キーに4分音符や16分音符などが割り当てられていて、短音だが楽曲を打ち込むこともできた。上述のオプションを利用して、ラジカセなどで鳴らすのである。
学生時代は、ビンボーだったせいもあって、パソコンには縁がなかった。友人宅でシャープのTurboIIIなどでゲームをさせてもらうのが関の山なのであった。
で、就職して最初に購入したパソコンが、NECの8ビットパソコンの最終形態ともいうべきPC-8801MA2である。
当時は、既に16ビットパソコンのPC-9801Vm2なども発売されていたのだが、私の選択したのは8ビットマシンの「ハチハチ」なのであった。何故か?
それは、パソコンでゲームがしたかったからである。当時は、違法行為に限りなく近いレンタルソフト屋が横行していて、ゲームソフトなどが比較的安い価格で入手できた(ソフト毎のパラメータファイルでコピーを行うFile Masterは必需品)。また、ゲーム市場も8801主体であって、9801用のものはごく少なかったのである。
とにかく、とても全部やりきれないくらい、ゲームを借りまくった。
何を隠そう、私が8801を購入して、最初に買ったゲームがこれである。何で、最初からこんなに難易度の高いゲームを、と疑問を持つ向きもあろうが、要するに、当時はパソゲーなるものが全く分かっていなかったのである。しかも、あろうことか、購入時には、アクションRPGの先駆け的存在である「ソーサリアン」とこの「マイト・アンド・マジック」を天秤に掛けていたのである。
世間では、「クソゲー」との評価が一般的であるが、私は、このゲームは名作であると信じている。とにかく、世界が存在していて、プレイヤーはその世界に住むところから始まるのである。ストーリーは、最初は与えられず、発見したものだけがストーリーに参加できる。しかし、ストーリーに参加しなくても、とにかく世界が広大・深淵なので、アイテム探しやダンジョン探検だけでも、十分堪能できる。私は、後述する16ビットパソコンの時代まで、約3年以上もこのゲームにお世話になったのである。
「ドラクエ」シリーズで有名なエニックスのアドベンチャーゲーム(AVG)。
不気味な感じが大変心地よい秀作。本作では謎を残したまま終結し、後に「アンジェラス2」が発売されるが、時期を完全にはずしていたし、余り面白くなさそうだったので私はやっていない。
今はHゲーのメーカーになってしまった、しゃんばらのRPG。私の大好き(だった)漫画家、松田紘佳がキャラデザ他を手がけている。音楽もこの人だったな。もしかすると、「2」は後述のPC-286VEでプレイしたのかもしれない。海が舞台の、異色のRPG。とにかく海なので、3次元的に自在に移動できるのがミソ。階段を使って他の階へ移動する一般的なダンジョンとはひと味違うのである。
ただ、惜しむらくは、これは私がコピー品でプレイしていたから良くないのであろうが、2作ともエンディングを見れなかったことだ。
1作目では、「ピー」とビープ音がしてゲームがハングアップ。2作目では、たぶん最終場面であろう画面から1歩も進めず、アウト。
今あったら、正式に購入して再度挑戦してみたいゲームではある。
かのアスキーが発売していた、Hゲー。ダンジョンを歩き回るRPGである。
このゲームは、とにかくノリが非常によく、テンポが軽快で楽しいゲームであった。ゲーム自体は、6階+αの「ウロボロスの塔」を探検して、秘密を探るというもので、出てくるモンスターが女の子で、ダメージを与える度に女の子が1枚ずつ服を脱いでいくという、他愛もないものである。
このゲームをして最初に驚かされたのは、グラフィックの描画の早さである。何だかんだ言っても、8ビットパソコンであるので、当時のゲーム、特に、グラフィックを強調したゲームでは、描画に恐ろしく時間がかかった。一枚の画像を出すのに数秒、ひどいものでは、数十秒、なんていうのもあった。
そんな中で、この「カオス・エンジェルス」は、とにかく、一瞬で画像が描き換わった。これは、当時ではとても新鮮なことであった。
また、そのBGMもとても斬新で、簡単なFM音源を使いながら、とてもハイセンスな雰囲気を醸し出していたのだ。音楽の秀逸さでは、水龍士といい勝負かもしれない。
しかし、このゲームの最大のポイントは、「洒落っけ」にあると思う。ダンジョンの壁に、前に探検した人の落書きがあって、これがまた奥が深く面白い。この落書きがゲームのヒントにもなっているのだが、関係のない落書きもあって、これを探すだけでも、結構楽しめた。
当時、特にスタジオピエロ系のキャラクターもののゲームを数多く出していた、マイクロキャビンのAVG。マイクロキャビンでは、この後も、「めぞん一刻」や「気まぐれオレンジロード」などのキャラ系ゲームを続々と発売していた。
このゲームは、少年サンデーに連載されて、アニメ化もされ一世を風靡した、高橋留美子の同名の漫画「うる星やつら」をゲーム化したものである。
ゲーム内容は、確か、面堂家の誰か(終太郎か、了子か、どっちか忘れた、たぶん了子だ)の誕生日に招待されたお馴染みのメンバーが「迷路」を探索しながらゴールにたどり着くというものである。何かのイベントを経る毎に、時間が経過していき、それにより結果が変化するというのと、途中の行動で結果が変化するということで、数種類のエンディングが用意されていたように思う。
マルチエンディングや時間の概念は今でこそ珍しくもないが、当時では結構画期的なことであったのだ。
フェアリーテール(ELF)の伝説的名作AVGである。確か「2」もあった。フェアリーテール(ELF)のAVGは、何かこう、独特の雰囲気があって、それが私は非常に気に入っていた。なんていうか、どことなく寂しげな感触というか、ちょっと空虚な感じとでもいおうか。キャラクターや展開、秀逸なBGMなどが、この雰囲気を醸し出しているのだ。
フェアリーテール(ELF)のAVGは、この他にも相当やった。「ELLE」なんかは、最後のどんでん返しが強烈でした。
そのほかにも、いろいろゲームはやったが、とんでもねーゲームを一つだけ…
これは、要するに当時大流行の「北斗の拳」のパロディーHゲーである。
ゲーム内容がくだらないのもさることながら(あまりにくだらなすぎて、ケンシロウのようなキャラが出てくること以外、忘れた)、その作りがとにかく凄い。
これは想像だが、このゲームは、おそらくN88-BASICで組まれている。なぜなら、まず、ストップキーでゲームが止まってしまう。そして、そのとき、画面の左上隅に「>C^」が出る(分かる人には分かるね!?)。
そして、NECの8801,9801シリーズのパソコンには必ず付いていた、画面のハードコピーを取るキー「COPY」を押すと、押したときに表示されている画面をプリンタに印刷することができる。
なんか、「流行だから適当に作って一発当てよう」という意図の見え見えなゲームでありました。
…そうこうしているうちに、8ビットパソコンは衰退し、ゲームソフトも発売されなくなって、世の中は16ビットパソコンの時代へと、大幅に突入したのだった。
そこで購入したのが、NECではなくて、EPSONのパソコンなのである。ここいらへんに、私の偏屈さがにじみ出ていますね~。(^^;
パソコンに金をかけだしたのも、このころからである。…まぁ、8801じゃあ、金をかけようにもかけるところがないですが。(^^)
今ではもう信じられないが、当時は、1MB/1万円がメモリの相場であった。しかも、メモリをパソコンに組み込むには面倒な設定がいくつも必要で、さらに、汎用のスロットを一つ占有してしまうのだった。また、今でこそ、SIMMとかDIMMとかいって、大容量がコンパクトに収納されているが、当時は、たとえ1MBでも、12cm角くらいの基板にチップがびっしり載っていたのだった。
それでも、1MBあると無いとでは、雲泥の差があった。
これも、今ではもう信じられないが、当時は、例えば40MBで8万円位した。しかも専用のインターフェイスが要る。これでまたスロットが一つ埋まったのであった。
でも、当時のソフトは、40MBでもお釣りが来るくらいの容量だったんだよね~。
あと、このマシンから、パソコン通信を始めた。当然NIFTY Serveから。
当時は、WTERMを使い、通信速度も2400bpsであった。50kBの画像をダウンロードするのに何分もかかり、さらにその画像を表示するのに何分もかかった。大変な時代であった。
このPC-286VEは、後に友人の手に渡り、そこでVRAM異常が発生してお亡くなりになってしまいましたとさ。合掌。
このマシンでも、ゲームはずいぶんとやった。中で、印象深いものをいくつか紹介しようと思う。
上述したものと同じである。当然、続きではなくて、新規に始めた。やはり8ビットのものと比べて速い。何しろ、8ビット版は2DDのディスク4枚組で、地上、ダンジョン、城、と場所を変える度にディスクの入れ替えが必要だった上、そのたび毎に、システムディスクに書き込み(1分くらいかかった、マジで…)をしていたのだ。それがなくなっただけでも、快適である。ただ、8ビット版の頃はあったBGMがなくなってしまったのは、ちょっと寂しかったが。
なかなかハマった。各エンディングも味わい深いもので、30数種類あるといわれているエンディングを20数種類まで見て、飽きてやめた。プリンセスと謎のエンディングは見ていない。けど、いいや。
「1」と「2」は、3Dダンジョンもの。当時は3Dダンジョンでさえ珍しかったのに、Hゲーで3Dダンジョンというのは、相当なインパクトがあった。ゲーム的にもよく練れており、ダンジョンの仕掛けも良くできていた。Hゲーという観点を排除して、単にゲームとしてみた場合に、非常に完成度の高いゲームであった。
「3」は、確かドラクエタイプの2DのRPG。「4」は、ダンジョンに戻ったのだっけかな?この辺はあんまり印象にないのだな。「5」は、私の大嫌いなシミュレーションで、遂にエンディングを見ることができなかった。…と言うよりは、途中でつまんなくって止めた。「4」と「5」は、多分、後述のPC-486SEでやっている。
これは、今更説明するまでもない、ELFが世に放つ名作中の名作。このゲームが今までのゲームの流れを一気に変えたといってもいいでしょう。味のあるキャラクタ(しかも大勢!)に、深みのあるストーリー。それぞれが練りに練られたマルチエンディング。とってもシビアな時間の概念。所持金の存在も内容に深みを与えています。
さらに、複雑なフラグ制御がすばらしい。よくあれだけの条件設定をして、ゲームが破綻しないものだ。
そして、何より高校生最後の夏休みという、絶妙のセッティング。
とにかく、この「同級生」は、何遍やっても違った展開になるし、違った楽しみ方ができるゲームという、画期的なゲームでした。
後に「2」も出て、共通するキャラクタも出演している。私は、「2」は後述する32ビット版でやったのだけれど、その面白さは全く失われてはいませんでした。恐るべし、ELF。
そのうち、世の中はウィンドウズ時代に突入し、パソコンも16ビットパソコンから32ビットパソコンへと移行していったのである。…といっても、ウィンドウズ3.1は、とっくに発売されていたが、ゲームの世界が未だにDOSベースだったので、それまでは何とかなっていたのであった。が、こう周りがウィンドウズだらけになってくると、流石に不安になって、DOSからの移行を考えざるを得なくなってしまったのであった。
上述のPC-286VEでも、ウィンドウズを試してみたことがあった。そのころは、ウィンドウズは3.0で、フロッピー5枚組という、今から考えればささやかな構成であった。当時は、ウィンドウズ3.0対応のソフトもほとんどなく、これは試してみるだけで終わったが。
実は、32ビットパソコンへの移行の際に、一つの考えがあったのである。つまり、Macへの移行である。当時、Macの世界も変革の時期を迎えていたらしく、小さい筐体が却って可愛らしい Permalink | 記事への反応(1) | 12:53
今更だが葬送のフリーレンを見始めた。
理由は単純で二期が始まるから。それも、みんなが前提として知っている作品をそろそろ放置しておくのもまずいな、といったオタク気質の動機だ。
一話目視聴。……なんだろう、この感じ。悪くはない。嫌いじゃないが……違和感がある。
フリーレンが画面に映るたびに、頭の奥で「見たことがある」という感覚がざらつく。既視感というほど明確じゃない。もっとこう…思い出しかけているのに、名前が出てこない人を前にしたときの気持ちに近い。
銀髪。感情の起伏が少ない表情。少し斜に構えたような目線。いったん視聴を止めて検索。
「フリーレン 似てる」
そう、この顔だ。調べると、どうやら『機動戦艦ナデシコ』という90年代のアニメのキャラクターらしい。
正直、世代ど真ん中ではない。「なんとなく見たことあるな」くらいの距離感。
そこから先は、もう戻れなかった。
「ホシノ・ルリ」で検索して、Wikipediaを開いて、気づいたら深夜のテンションで各種スレまとめまで読んでいた。
気づけば心を奪われていた。数十年前のキャラなのに。え?てか……可愛くないか?
フリーレンを見始めたはずなのに、いつの間にか思考の重心が完全にホシノ・ルリ側に移っていた。
気づけば、メルカリを開いて「ホシノ・ルリ フィギュア」と検索。ヤフオクにも目を移す。
まさかフリーレンを入口にして、90年代の宇宙戦艦アニメの美少女に心を持っていかれるとは。
当時は容量の関係から写真画像なんて使えなかったからあの神ドット絵で騒いだんだよ
今見てもめちゃくちゃ綺麗だわ
そんでPSとSSでCDになって容量が爆上げになって写真が使えるようになって
そこそこ実写っぽいクオリティで出てくるようになったけどポリゴンの粗が目立つようになった
FF7とかFF8、バイオハザードとかは綺麗な写真の上に粗いポリゴンを重ねるしょーもないテクニックで誤魔化して
クソ長いロードでムービー見せられてCD入れ替え何回もさせられて
「うーん、実写っぽいけど、実写かどうかはどうでもいいかな」
っていう感じだったんだよ
一方でゲームセンターだと特にセガが綺麗なポリゴンゲームを量産しはじめてて
その流れでSEGAがDreamcastを発表してVF3を完全移植、おまけにソニック新作で度肝を抜かれて
「まぁ実写じゃないけどポリゴンっぽくなくてすげー良い」
ってなった
ただそれも「家庭用では」っていう話でゲーセンだと普通にもっと綺麗だったんだよ
そしたらPS2が発表されて「6600万ポリゴン!」って大騒ぎしたんだけど
ってなって、「ポリゴン数じゃなくてアンチエイリアシングやテクスチャとの融合が大事」って分かったんだよ
まぁでもソフトウェアメーカーが頑張ってPS2でも綺麗なゲームは出てたけどグラフィック面でDCとの差はほとんど無かった
個人的に一番実写っぽいゲームだと思ったのはメタルギア4(PS3)かな
たぶん、あの話はどこにも書かないまま一生終えると思っていた。
わざわざオブラートに包む意味もないぐらい、その言葉どおりのことをした。
「いじめてた」とか「いたずらの延長で」とか、そういう言い換えは、逆に猫にも自分にも失礼な気がするからやめておく。
もちろん当時は、そこまで言語化して考えていたわけじゃない。
ただ、今になって振り返ると、あれはどう見ても「殺した」だったとしか言いようがない。
***
暴力を振るうタイプではなかったけれど、いつも口が悪くて、教師に盾突いて、家では親に向かってドアを思い切り閉めて歩く子どもだった。
問題は、そのイライラの行き先を、自分より弱いものに向けることを覚えたことだった。
最初は、ただ、何かを拾った、というだけのことだった。
雨上がりで地面はぬかるんでいて、猫は泥と埃でべたべただった。
片目が少しにごっていて、ああ、たぶん誰も拾わないやつだ、と思った。
家に連れて帰ったわけでもない。
ちゃんと世話をしようと思ったわけでもない。
あの頃の自分に、そんな「責任ある行為」をする能力は、残念ながら備わっていなかった。
尻尾を引っぱって逃げる様子を見て笑ったり、棒を振りまわして脅したり、石を投げたりした。
最初は当たらないように投げていたのに、だんだん「どこまで近くに投げられるか」を試すゲームになっていった。
ある日、石はちゃんと当たった。
足を引きずるようになって、鳴き声が変わって、それでも自分はやめなかった。
なんとなく、止まるタイミングを完全に見失っていた。
それがどんな結末を迎えたのか、細かい描写はここには書かない。
ただひとつ言えるのは、気づいたとき、猫は動かなくなっていて、けっきょく自分は誰にも言わず、そのまま公園を出て家に帰った、ということだけだ。
その後しばらく、夜になるとあの公園のベンチの映像が頭に浮かんだ。
猫の姿そのものより、濡れた木のベンチと、薄暗い街灯の光のほうが、なぜか記憶にこびりついている。
そこから先の道を、あのまま真っ暗なほうへ踏み外していってもおかしくなかったんだろうと思う。
幸運か、不運かはわからないが、自分はその道から外れることができた。
中学に上がってから、担任が怖い人で、殴る代わりにしつこく話を聞いてくるタイプだった。
大学は、たいして目的もなく入って、バイト先で怒られながら仕事を覚えた。
ただ、日々の小さな「やらかし」と「怒られ」と「反省」と、どうでもいい雑談の積み重ねが、自分を少しずつ「普通」に近い場所まで連れ戻してくれたんだと思う。
それでも、猫のことは消えなかった。
何かの拍子に、あの公園の色だけが急にフルHD画質で蘇る感じがある。
時間でぼやけるどころか、「忘れられなかった事実」というタグが付いて、むしろ保存性が上がっていく。
***
30代半ばになって、同棲の話が出た。
相手は、職場で知り合った人で、明るくて、よく笑って、感情の出し方が自分とは正反対だった。
「一緒に住むなら、猫連れて行ってもいい?」と言われたとき、胸の中で何かが硬くなる音がした。
「猫?」
猫が嫌いなわけじゃなかった。
むしろ最近は、道端で見かけると写真を撮るくらいには好きだった。
ただ、そこで連想するのが公園ではなく、マンションの一室になることを、頭がうまく処理できなかった。
白い猫だった。
ふわふわしていて、目が青くて、画面越しでも「この家で一番かわいい生き物です」みたいな顔つきをしていた。
「めちゃくちゃ可愛いじゃん」と口では言った。
それは本心だった。
ぎこちなさが出ていたのかどうか、自分ではまったくわからなかった。
帰り道、電車の窓に映る自分の顔を見ながら、「猫を殺したことがある人間が、猫と一緒に暮らしていいんだろうか」と考えた。
別に、また殺したくなる気がするわけじゃない。
今の自分がそんなことをするとは思えないし、イライラをぶつける対象として猫を選ぶメンタリティでは、少なくとももうない。
それは「飲酒運転を一度でもしたことがある人」とか、「昔、人を殴ったことがる」とか、そういう類の話とは、少し違う気がする。
もちろん猫は何も悪くない。
そして今、自分がこれから「守る側」のポジションに立とうとしている。
そのギャップが、うまく飲み込めない。
***
数日後、正直に話すかどうかで迷った末、かなり薄めた形で打ち明けた。
「子どもの頃、動物をいじめてたことがあってさ」と前置きしてから、
殺した、という単語だけはどうしても口に出せなくて、
相手はしばらく黙っていた。
その沈黙の長さに耐えられなくなって、「いや、今はもう絶対そんなことしないけど」と、いちいち余計な一言を足してしまう。
「……じゃあさ」
「いま、うちの猫を見て、何かしたくなる?」
その質問の仕方が、妙に真っ直ぐで、逃げ場がなかった。
ソファの上で伸びているやつ、キャットタワーから顔だけ出してるやつ、窓辺で丸くなっているやつ。
「ならないよ」
答えは即答だった。
それだけは、自信をもって言えた。
「私もさ、昔、虫とか平気で殺してたし。
今はさすがに猫とか犬に当たる気にはならないけど、
でも“昔の自分”が完全に消えたかって言われたら、そんなことないし」
ただ、「昔の自分が完全に消えたなんてことはない」という言葉だけは、妙に胸に刺さった。
そして今、その大人が、「猫と一緒に暮らすかどうか」を決めようとしている。
***
それからしばらくして、本当に一緒に住むことになった。
引っ越し当日、キャリーケースの中で騒いでいる白い猫を初めて見たとき、
自分の心臓の鼓動が一段階ギアを上げたのがはっきりとわかった。
爪を立てて暴れるその小さな生き物は、自分が昔、公園で追い回した猫とはまるで別の存在だ。
でも、「猫」という種としては完全に連続している。
同じカテゴリの命だ。
ケースの扉が開いて、猫が部屋の中をうろうろし始める。
ソファの下に潜りかけて、途中でやめて、コンセントの匂いを嗅いで、カーテンによじ登ろうとして叱られる。
自分は玄関のところで、靴を片づけるふりをしながら、それをこっそり見ている。
「ほら、なでてあげなよ」と言われて、
ぎこちなく手を伸ばす。
柔らかい毛に指先が触れる。
猫は一瞬こちらを見上げて、「動物的な評価」を下すような目をしたあと、特に何もなかったかのように、また部屋の探索を続けた。
その瞬間、自分の中で何かが、静かに「現在」を上書きした感じがあった。
「ああ、この猫は、俺が昔殺したあの猫じゃない」
「でも、同じ種の、別の一匹として、今ここにいる」
それは許しではないし、償いが済んだという話でもない。
ただ、「過去に猫を殺したことがある人間」が、「今、猫と暮らしている」という事実が、世界のどこかに一つ増えた、というだけだ。
***
こんなことを考えている自分に、果たして猫を飼う資格があるのかはわからない。
それでも毎朝、白い猫が腹の上に乗ってきて、
猫を殺したことがある少年が、大人になってから猫を飼うことに抵抗がない人って、いるのかな。
たぶんずっと、少しだけ怖いままだ。
ここをわざとごちゃ混ぜにして語るから話が歪む。
AIってのは本来、探索・最適化・分類・予測みたいな判断や処理をやる技術全般の話だろ。
一方で生成AIはそれっぽい出力を大量データから合成するだけの、かなり限定的な用途の道具だ。
にもかかわらず、AI厨はAI様の進化に逆らうなみたいなノリで全部一括りにする。
それ、ただの詭弁な。
で、イラストの話。
イラストは唯一無二なんだよ。
同じテーマ、同じ構図、同じ画材を使っても、描いた人が違えば絶対に同じものにはならない。
それに比べて文章はどうか。
価値がないとまでは言わんが、イラストと同列に語るのは無理がある。
学習って言葉で誤魔化してるけど、実態は既存画像の特徴を分解して再合成してるだけ。
そして一番の問題点。
学習段階で他人の創作物を無断で使い、出力でそれを反映させる以上、逃げ道はない。
「似てないからセーフ」とか「統計的だから問題ない」とか、全部後付けの言い訳だ。
結論な。