はてなキーワード: 無限大とは
現実に引き戻されたからか、現実の演奏してる方達の紹介コーナー。
ポケミク、ひいてはボカロを聴くようになったキッカケの曲なのでテンションぶち上がり。
なんとMVのアニメじゃなく舞台上にピカチュウが出てくるのは後半戦も後半戦のここが初めて。
ピカチュウは1/1025(と3匹)に過ぎないとはよく言うんだけど、流石にピカさんのこのパフォーマンスは圧巻。
スマブラを彷彿とさせるボルテッカーなんて小ネタもあって、ずっと可愛くてずっと格好良くて、ポケットモンスターの顔は間違いなくピカチュウだよ。
最高だ。
ボルテッカーも電気予報も電気タイプの歌なので、ポケミクライブミクの黄色い部分が映えるなあ。
後ろの砂嵐まみれのテレビが醸し出す寂しい雰囲気を、ミクと電気タイプの面々でどんどんテンションを上げていくのが楽しい曲だった。
「見つけたのはあなた」の指でワッカを作るのちょっと淫靡でドキッとした。
電気タイプの曲なのでピカチュウ続投と思ったけど、ボルテッカーのピカチュウとは雌雄が違うので別個体のようだ。
ミライドンもイナズマドライブして魅せてくれるし、電気の子たちも可愛いなあ。
誰だよ、JUVENILEのイーブイは最後に新しい音タイプの新ブイズに進化するって言ったやつ!
音タイプ与太話はさておき、イーブイ主演曲なのでたっぷりイーブイの可愛さを楽しめる。
ミクの頭に乗ったり、柱の左右のモニタから乗り出してと、舞台を駆け回るイーブイの可愛さが満載だった。
夜空の奥の流れ星が出たりと、背景の演出も綺麗でこの辺は現地で見たかったなあ。
Xのクソリプみたいな難癖なんだけど、この曲聞くたびに7色の景色? イーブイは9色では? ってなるから、進化系のシルエットが出るのは好きだな。
あのフレーズが入るおかげで本当にメロエッタとデュエットしてる感じなのがたまらんすね。
こっちも柱のモニタでファンサしてるけど、イーブイよりあざとくないのがらしいね。
ステップフォルムにチェンジしてから手のひらハイタッチするの格闘のタイプ一致補正乗るけどミクは大丈夫か!? ってなった。
「いにしえのうたもハジメテノオトも」のところ、当然にお互いが意識したネーミングなわけないものが交差して、ポケモンと初音ミクが繋がってるんだあと毎回新鮮に感動するので、ライブでミクとメロエッタがそうするともう本当にそうじゃんって泣けてくるんだ。
このライブで最大瞬間風速は、
この曲でタイプミクの相棒たちが登場するところでの、ゴリランダー、ラウドボーン、アシレーヌと御三家最終進化はまあ出るかと思ってからのペラップ登場のシーン。
「ゼンリョク」なんだからタイプミクの相棒は全員出演に決まってるだろ! というめちゃくちゃ強い圧をペラップで感じた。
そりゃそうだよ、タイプミク達もミクなんだから相棒ポケモンは参戦するよ全員、とペラップ登場で襟を正して真剣に集中できた。
タチフサグマとムウマージのあくゴーストコンビが良かったなあ。
ここってつまり、エスパーミクのメロエッタ、テトのステップフォルムのメロエッタ、エスパーエスパーやスパイラルメロディーズのメロエッタの3匹がいたのかなあ。
あとダンテのポーズとかZ技するとか、振り付けも凝っててミクかっけえ。
最後のタイプミク全員の書き下ろしカットインも最高で、ポケミクが僕は大好きなんだ。
配信だと勝負を仕掛けてきたカットインが映ってた横の柱のモニタが切れ気味だったので、この辺はブルーレイでもう一度確認したいなあ。
アンコール派と初音ミク派とポケミク派がいたのかな? みんなすごい熱で楽しそうだった。
ライブミクとアニメーションのタイプミクとアフターエポックのミクとが混ざった演出。
とにかくすごいことをしているのはわかるが、1週間経ったいまでもすげえしか言葉がない。
特にライブミクが変身するかのようにアニメーションのミクにシームレスに切り替わるところは、初音ミクじゃないと意図が通じにくい演出で、ポケミクの大きな意味の一つだ。
1025(と3)匹の中から自分だけの6匹で、自分の旅をするポケットモンスターの楽曲を歌うには、無限の姿になれる初音ミクじゃないとダメだったんだなあ。
そんな普通の人間には背負いきれない思い入れを背負えちゃうんだ、初音ミクは。
なので「無限大の中のただ一つ選んだこと」ってことかあ。
そして「旅が待ってる」だし「聞かせてよ君の旅の話」だし「偶然じゃなかったって思うような旅は続くのさ」なわけで、
僕はポケットモンスターを対戦じゃなくて何度も自分の決めた色んなルールではじめから旅をするプレイスタイルなんだけど、それを肯定してもらえたようで涙が沢山出ちゃった。
通常の初音ミクに戻ってるのも、タイプミク達の旅路を振り返りMV中心の演出だから、そのMVで印象的に登場する初音ミクに合わせる意図なのが憎いね、
「違う世界の私たち今日ここで同じ夢を見られたね」が本当にその通りで、現実世界に生きている僕を仮想世界の二つのコンテンツが繋いで豊かにしてくれた。
初音ミクが僕をよりポケモンに繋いでくれたから、ポケモンのこと前から大好きだけどもっと好きになれた。
ミクのことはまだ知っていってる段階だけど、間違いなく大好きだ。
ポケットのモンスターが言いたいことはわかるし、それを踏まえて生きていかなきゃいけない。
結局のところはこれは娯楽でエンタメで、それに浸かっているだけじゃ生活はできないから、ちゃんと自分の仕事を遂行するためには何でも頑張って踏ん張らないといけない。
けど、このライブを楽しんで、ポケモンも初音ミクも大好きな時間が幸せだった。
頑張るから、心置きなく、迷いなく、夢を楽しめるように生き続けたい。
そして、まさかのもう一つのライブミクの姿、初音ミク(フルボルテージ)を披露して、ポケモンもピカチュウ、イーブイ、メロエッタ、ミライドンと沢山出ておしまい。
信じてます。
ポケモン30年分の気持ちはまだまだ歌に仕切れてないですもん。
ヤミカラスが空を飛ぶ曲とか、イベルタルがマニューラ3匹を侍らせるハーレム曲とか、カラマネロとデオキシスとカプ・コケコの三つ巴(三つ巴ではない)曲とか、サメハダーとカミツルギのカップリング曲とか、ゾロアークとSデオキシスのイリュージョン曲とか、色々やってくれ!
最高のライブだった。
ポケモンが大好きで、ポケモンがいるから辛いことがあっても今どうにか踏ん張れてるから、ポケミクライブでより一層その踏ん張りに力が入った。
次があるなら、現地行ってみたいなあ。
電車に乗るだけや、近所のスーパーですらとても緊張してしまうので、あんな大勢が集まる場所なんて絶対無理なんですが、配信だけでこんなに楽しめたんだもん、行きたいよそりゃあ。
赤緑から延々と遊んでおり、好きなポケットモンスターシリーズはサンムーン、好きなポケモンはコマスターのゾロアーク(ナーフ前後問わず)です、理由は圧迫デッキが最強のデッキ(ナーフ前後問わず)だからです。
ポケモンのことをどういう形で好きなのかは、この一文で済ませます、30年分あるので。
ニコニコ動画でノベマスカテゴリに住んでいたので、今じゃ限界集落のそれとは違い、初音ミクのことは今も元気なお隣さんって印象だけでした。
具体的な曲の印象は、ワールドイズマインとメルトと千本桜ぐらいです。(アイマス2コラボ曲だからね)
ポケミクのことはタイプミクでノーマルミクのパートナーがぺラップだったことで本気度を感じ取り、ボルテッカーでもういきなり大好きになりました。
それ以来、通勤の行き帰りはポケミクとポケミク参加アーティストさんの楽曲を聴くようになり、ボカロを聴くという趣味が増えました。
なんだかんだで2年以上聴いてますが、体系だった知識はなく、ニコニコの関連動画や、ボカコレのいい感じのプレイリストを流してるだけなので、まだまだ浅い知識です。
特にボカロのライブについては知識ゼロなので、MVや曲自体がいいのは理解しているが、ライブとして楽しめるのかは少しだけ不安だった。
しかし、流石に全曲何度も繰り返し聴いて、1曲も苦手だったり好きじゃ無い曲がないし、知らない曲もないライブなんて、人生で初めてだろうから配信チケットを買った。
(人が集まるところにいけないので現地はごめんなさい)
未来から来たポケモンに乗って、未来から来た初めての音がやってきた!
そんなミライドンと一緒に初音ミクがやってくるスタートで一気に引き込まれて、なんか楽しいことがはじまるぞ! とテンションが上がった。
不安だったとか書いてるけど、マジでこの構図だけで不安は吹き飛んだ。
モンボを投げる様がめちゃくちゃ可愛いくて、ミクがライブでパフォーマンスすることの意味がすぐ理解できたのもいいね。
言葉遊びがいっぱい詰まった曲を楽しく可愛く歌ってくれるし、MVのポケセン公式イラスト風のポケモン達もモニタに沢山写って嬉しいしで「みんな大好き」の歌詞の通り大好きだ。
イワークやマダツボミやナエトルのときにポケモンをイメージした振り付けをするミクが楽しそうで可愛いんだ。
(DP〜HGSSの間、ダーテングを主軸とした晴れパーティーでネット掲示板の通信対戦スレに入り浸ったっていたのでダーテング族が映るとそれだけで嬉しいのだ)
空のボールを投げて3回揺れるまで不安そうにする演技など、ちゃんと「顔の演技」まで込みでライブをするんだ! とめちゃくちゃ驚いた。
1曲目でここまで楽しいの? すごいぞ初音ミク! すごいぞポケモン! すごすぎるぞポケミク!!!
誰だよメロエッタのエスパータイプはサウンドタイプに置き換わるからエスパー的な仕草はしないって言ったやつ!
全体を通じてめちゃくちゃ出番があるメロエッタも初登場で、メロエッタも振りをつけて踊るのが可愛いすぎる。
ミクとハイタッチしたり、振りを合わせたりと、メロエッタと初音ミクがあの場で一緒にライブをしているのが実感出来て、ミクのライブじゃなくてポケミクのライブなんだぞって伝わってくる。
MVのデオキシス4フォームの合いの手が歌ってるミクのモデルとあわさる演出が楽しくて、コマスターのデオキシス環境の思い出がスーッと良い思い出になっていった。
背景に物知りメガネや曲がったスプーンなどのポケモンの持ち物が浮かんでる演出も楽しい。
そして何よりメロエッタのエスパー技を駆使して浮遊する初音ミク!
ふわふわとエスパーのテレキネシスで浮いている描写は、ポケモンの世界に初音ミクがいても違和感がないぐらいこの2、3年を培ってきたポケミクならではだ。
サイキネじゃないのポケモン大好きな歌詞だよね、確かにエスパーで空中に浮かすならテレキネシスだ、スイッチ世代で使えない技を大事にとっていた感も相まって大好き。
SVの最終戦をイメージした背景と演出が格好いいし、曲名が出てくる演出も素敵な始まり。
ミクの目の色がいつもと違うのもバトルプログラムになっている感じで面白いし、ラストの元に戻る演出にも繋がるので、目の色は大事なキーワードだ。
そしてたたかうコマンド連打からの火炎放射で火が吹き上がる舞台演出が驚き。
モニタの中じゃなくそこにも仕掛けがあるの面白いなあー、現地で見たかったぜ。
大顎を駆使したダンスがめちゃくちゃ可愛いし、ミクと一緒にハートを作る演出などなどがバッチリ決まってて、振り付けを見てるだけで幸せになれた。
ポニーテールがツインテールになってミクとお揃いになるのがキュートでメロメロになった。
めちゃくちゃ楽しい曲なだけに、ダンスもビッパも楽しく振る舞っててたまらん!
ミクに加えてリンとレンの二人、さらにビッパも沢山出てきてとにかく画面が幸せなことでいっぱいで多幸感満載。
BIPPAの振り付けが跳ねるように可愛いし、間奏のビッパの前歯をイメージした振り付けが楽しすぎる。
このライブ以来、一人で聴いてても真似しちゃうぐらい楽しい振り付けだ。
ビッパを持ち上げて「この顔をよく見て」するところ大好き。
ボスの許可が降りましたのときに、ミクが電話のジェスチャーしてるけど、これ今の若い子でもするのかしら?
BIPPAの振りを一人一文字するときに4文字目のPに間に合うように小走りするリンちゃんもよき。
そして何より「不思議なこのポケモンたちといつまでも旅を続けよう」の間違いなさを体現するように終始ずっと可愛いだけのビッパたちの演技(? 素?)だ、こんなんポケモンと一緒にいたいだろ。
あえて一番を選ぶならこの曲が一番好きなんだけど、このライブでその一番がよりより一番になった。
(コマスターの民としてはエイプリフールのポケモンって話をしなきゃ感があるんですが、まあコマスターの無限にある滑ってたエピソードを無理矢理捩じ込むのはやめておきます)
ミュウの図鑑解説してくれるだけの通りすがりのKAITOが面白かった。
レン君が格好いいパートが多くて、あんまり意識したことなかったから、少しドキドキした、半ズボンからおみ足が見えてるの可愛いし。
ポケモンの出番がかなり少ないんだけど、所謂「志村ーうしろ! うしろ!」的な扱いは、実にミュウぽくて面白い。
(コマスターの民としてはミュウは特別な存在であり続けます。って話をしなきゃ感があるんですが、まあコマスターの無限にある滑ってたエピソードを無理矢理捩じ込むのはやめておきます、あとシツコイのでもうコマスター弄りは辞めます)
とにかく縦横無尽さんに活躍してゲンガー大好きなので嬉しいしかない。
動くところと止まるところの落差がいいんだけど、ゲンガーは特にゴーストらしい突拍子もない動きが多いだけに決めポーズの静が素敵なんだ。
そうかゲンガーのこと赤緑からずっと好きだけど、君はダンスも得意なんだな。
ティエルノがオカマニをすけこましてゴーストを交換しないとだ。
MEIKOさんも登場してゴーストタイプをモチーフにした曲が続く。
ゲンガーソロだったさっきとは対照的にミミッキュやゴーストタイプに関係するカラカラに、MVの面々にと沢山出てくれる。
カラカラの無垢な子供っぽさと、ミミッキュの中身を見せて揶揄うあざとさを対比するようなポケモンの演技が楽しい。
2匹とも抱っこされてるのが可愛いし、ミミッキュの着ぐるみを少しクンカクンカしてたけどミクは匂いとかわかるんだとちょっと驚いた。
間奏の幽霊っぽい振り付けもいいね、ビッパ団の前歯振り付けも好きなので、ああいう手を前にする振りが好きなのかも。
タイプとしてもゴーストは好きなのでいっぱい見れて嬉しいなあ。
ネギとフランスパンでの振り付け、ネギでテトさんのばけのかわを剥がすネタシーン、柱で出されるポケモンクイズに、明らかに他のポケモンより振り付けが複雑で練習量を魅せるカモネギに、メロエッタVSメロエッタと、とにかく見どころがめちゃくちゃ多い。
特にカモネギのネギ捌きがすごくて「赤緑の頃からつるぎのまいを覚えてたもんなあ、30年選手だもんなあ」と後方親目線でうるうるだよ。
シンガーの方だと、テトさんは格好いいんだな! というのを理解できた。
曲がいっぱいあるの知ってるので、今後は沢山聴いていきたいなあ、いやまだまだミクの曲だけでも聴き込みたいの沢山あるからうれしい悲鳴だよ。
何回か見返したけどわかんなかったです!
俺の大好きな大好きなヘルガーが噛み砕いてる!
(XY〜ORAS期にメガ枠を絶対メガヘルガーにして、ダーテングとメガヘルガーの悪晴れPTで対戦してたので、ヘルガーへの思い入れはひとしおで、オリジナルメガシンカ口上を考えて呟きながらバトルしていたぐらいだ)
SVで最初のイベントに抜擢されたぶり(超最近だったわ)じゃないですか、俺のヘルガーにこんな大舞台が来るなんて……
大丈夫か? 振りとかできるのか? とめちゃくちゃ不安になりながら、見てたらバッチリ「かみくだく」を決めてて大感動。
格好良かった、最高の振り付けだったよ。
もちろん静止の演技として決まっているのは言うことないんです、マタドガス、アーボック、ペルシアンたちとの立ち位置とかを念入りにやったのが伝わってくるよ、すごいよ、けど一番好きなのはヘルガーが終わり際にトレーナーであるミクの方を見て終わるところなんです。
そうなんですよ、ヘルガーってこういうところあるんですよ。
俺のヘルガーもそうだったなあ……
ゲームプラチナの本編のプレイ動画でシロナ前の道を魅せるの、完璧な導入ですごすぎる。
そして、MVのミカルゲが出てきてあの特徴的な鳴き声が曲に入ってるの大好きだなあ。
シロナの手持ちって全員印象深いけど、僕は手持ちのボールがかかかかかっとストックされて、ミカルゲなる未知のポケモンが特徴的すぎる鳴き声と共に現れるこのシーケンスがたまらなく好きだ。
けどゲーチスが出てくる方が怖いから怖さにならしてくれて嬉しい。
とか思ってたら本当にゲーチス出たときにミクが苦しそうで、BWでNもあんな気持ちでゲーチスが来るのを待ってたのかと思うと胸が苦しくなる。
それとも最後のあの時までは違ったのかな、Nは身近なポケモンのことはわかっても人はそうじゃないから、やっぱり苦しくなくてゲーチスが何か自分をどうにかしてくれると思ってたのかな。
今まではポケモンの世界にいろんな初音ミクがいるようなお歌だったけど、チャンピオンとオーパーツは個別具体の話をしているから、本編のことを思い出してしまうなあ。
DPPtは幸せな終わりだけど、BWは「サヨナラ」だからさ……
B2W2とポケマスでそれらしい続きはあったものの、あのときの無力感は今もまだ続いているし、この曲のミクが真実の色と理想の色の一色づつだったのも、そういうお話だったんだと思う。
ポケモンの可愛さとトレーナーの個別具体の感情の話をしてきたポケミクライブだけど、ここで伝説のポケモンは人知を超えていることの歌。
配信でもわかるほど歓声が沸いていたけど、このルギアとこの曲は確かに驚く。
ポケモンの壮大さがヒシヒシと伝わってくる演出で、なんか思わず正座しちゃった。
そんな人を超越したナニカを見たミクが何を思ったのか、色々と余韻が残る表情なのも素晴らしい。
キーボードで弾き語るミクと、ルカのしっとりした振りとで、改めてMVを落ち着いて見て泣きまくってた。
これはもうポケモンとポケモンの関係値最高峰であるポケダンの復活をチュンソフ党員として党に依頼しないとだ。(ルナトーンよ、死ねにならないか毎回不安になるので本当この党でいいのかはわかんにゃいんだよなあ。初代コッパはポケモンの世界に転移したことにならんか?)
ラティ兄妹の演技がなんかありのままな感じなのが、今までとちょっと毛色が違ってて、人間と意思疎通が出来る知能が高いポケモンらしい挙動で魅力的だった。
ラティアスがKAITOをツンツンしたりするの可愛いし、楽しそうに空を飛んだり、メガシンカしたり、二人を浮かしたりとラティたちの楽しそうな素の演技感があったのが楽しかった。
誰だよ、初音ミクは進化するとミュージックタイプが付与されるって言ったやつ!
という、音タイプの鉄板はさておき、ここまで色んな初音ミクがいたけど、この曲の初音ミクはポケモン寄りというか、ポケモンと同じようにトレーナーに付き添ってくれる、人間じゃないけど一緒に暮らしてるパートナーのような側面が出たと思う。
だからポケモンが1匹も出ないのは、ちょっとトレーナーへの独占欲を見せてた感があって可愛らしかった。
現実世界から俯瞰する系の曲なのでこちらもポケモンの登場はなし。
後に控えてくる泣き曲とは違い、立ち向かうように鼓舞する曲なので、ミクもレンも格好いい系の振り付けで良きです。
間奏のだるまさんが転んだパートがとにかく可愛し、うーんと背伸びするときに抱き抱えて伸びをするのもいいしで、ずっとニヤニヤしながら楽しんだ。
ちゃんとお母さんのセリフ引用パートでは踊ってるミクじゃない人が歌っているような舞台の使い方になってるのも丁寧で大好き。
ポケットモンスターは実在するが? と普段からポケモンという冷めない夢に浸かりっきりのオタクとしてはこの曲は重い。
その重さを歴代ポケットモンスターシリーズのプレイ動画で癒しながら魅せてくれるのは優しかった。
ミクの振り付けもゲームボーイで遊んだり仕事でパソコンしたりとコミカルなので歌詞のメッセージ性に押しつぶされずにすんだ。
ポケモンも初音ミクも実在しないけど、ゲームを遊んだり、音楽を聴く、その所作の中で得られるものがあることは否定されれていないんだよなあ。
ちゃんと現実も頑張って、この楽しい空想の世界にうつつを抜かし続けたいんだ。
あらまあ、増田はん、ええ上司はんをお持ちやこと。お車の見分け講座で職場の風通しまで良うしよう、て発想は、さぞ実務に寄り添こたはるんやろねぇ。周りの人間をネタに回す燃費は無限大、けど空気だけはカラカラどすなぁ。
増田はんが望んではる「成功体験を積ませへん・赤っ恥で再発防止」を叶えるには、正面衝突やなく「乾いた笑いでガス欠」に持ち込むのがいちばん効きますえ。手順とセリフ、置いときます。
「それ、からかいに聞こえますさかい、ここではやめといておくれやす。話を迎車の確認に戻しまひょ」
「白のプリウスと連絡。私ら確認中。見間違いは誰でもあります。次回はナンバーで確認。以上」
「車種テストは趣味の時間にしはって、勤務中は業務テストでお願いできまっか」
「怒ってまへん。業務上の依頼どす。繰り返さはるなら記録に残しますえ」
「今の、それ言われた側が困ってはりますわ。続ける必要あらしまへん。で、案件の段取りに戻しまひょ」
「上司はん、車はお詳しいのに、人の表情はオートクルーズ効いてまへんのやね。ここは停止で」
4) 記録とエスカレーション(効き目の出るやり方)
日時・場面・逐語・誰が居たか・業務への影響(時間ロス、萎縮、ミス)
例:「からかいで議題が3回中断、後輩が発言を控え、判断が遅延」
5) やんわり赤っ恥の当て所(過激にせず効かす)
「職場の会話ガイドラインでは、個人をネタにする笑いはNGどす。ここもそれに倣いまひょ」
「次回の定例、冒頭3分の“会議の進め方”読み上げ、上司はんお願いできます?」
「上司はんの車愛、よう伝わりましたわ。ほな“人をいじらん笑い”の免許も取りにいきましょか」
要は、「受けて笑わない・乾いた場にする・外部規範を盾にする・記録で締める」。お車はんのアクセル癖は、笑いという燃料が切れたら自然とエンストしまっせ。うんちくは道楽でよろしおすけど、人を運転するハンドルは、もうちょい遊び減らしはった方が事故りまへん。増田はん、静かに止めて、静かに効かせて、静かに勝ちまひょ。
「ビッグバンがわかっていない」という言い方には二つ意味がある。そこを区別しないと議論がぐちゃぐちゃになる。
まず観測的な部分。これはかなり分かっている。
宇宙が膨張していること、初期宇宙が非常に高温だったこと、軽元素の存在比、宇宙背景放射の揺らぎ。
これらは互いに整合している。特に宇宙背景放射は極めて強力な証拠だ。Planck satelliteの観測は、宇宙が約138億年前に高温高密度状態にあったことをかなり精密に示している。
つまり宇宙が高温高密度状態から膨張したという意味でのビッグバン宇宙論は、観測的には非常に強いモデルだ。
一般相対論をそのまま時間を遡って解くと、密度が無限大になる特異点が出る。
この特異点が本当に物理的なものなのか、それとも理論の限界なのかは不明だ。量子重力が必要になる領域だが、その理論はまだ完成していない。
この二つを混同して「全部わかってない」と言うのは、かなり大雑把な議論だ。
そして面白い点がある。ここで弦理論のような量子重力候補が再び登場する。特異点問題をどう扱うかというのがまさにその研究テーマの一つだからだ。
初期宇宙が弦スケールの物理でどう振る舞うか、という問題になる。
科学はこういう構造をしている。ある理論が観測を説明する → その理論の限界が見える → 新しい理論を探す。
その低レベルの理解はだいたい「量子力学=粒がふわふわする話」くらいの雑さだ。表面の比喩だけ拾って、本体を全部落としている。
Edward Wittenのレベルの人間が何十年も格闘している理論が、「粒子はみんなひもです」だけで終わるなら、世界中の理論物理研究所はとっくに閉鎖されている。
弦理論の核心は「ひも」という物体ではない。点粒子量子場理論が抱える深刻な病気、つまり量子重力で出る紫外発散をどうやって回避するかという問題から出発している。
点粒子の散乱振幅を高エネルギーで計算すると、積分が無限大に吹き飛ぶ。
ところが相互作用の基本単位を点ではなく一次元の世界面にすると、散乱振幅はリーマン面上の積分に変わる。
ここで奇妙なことが起きる。理論が自己整合性を保つ条件を課すと、時空次元が10になり、質量ゼロのスピン2粒子が必然的に出る。
このスピン2粒子が重力子だ。つまり重力は勝手に出てくる。ここが肝だ。
弦は単なる比喩ではなく、場の自由度を再編成する数学的構造だ。
量子状態は振動モードのスペクトルとして表現される。電子やクォークは違う粒子ではなく、同じ対象の異なる励起状態になる。
弦理論は一次元の物体だけでは終わらない。高次元の拡張対象、いわゆるDブレーンが現れる。
これらはゲージ理論、ブラックホールエントロピー、双対性の構造と深く結びつく。弦理論の研究の半分以上は、むしろこの幾何学と双対性の研究だ。
そして最も重要なポイント。現代の弦理論は「ひもの理論」というより、巨大な双対性ネットワークの理論だ。
異なる理論に見えるものが、実は同一の物理を別の変数で書いただけだった、という現象が何度も起きる。これを総称して M理論と呼ぶ。11次元の構造が背後に見え始める。
ここまで来ると「粒子がひも」どころの話ではない。
時空そのものが二次的な量として現れる可能性すら出てくる。実際、ゲージ理論から重力が出てくる対応(AdS/CFT)がそのヒントになっている。
本体は量子重力の整合的定式化、双対性による理論統一、時空幾何の再構成、という巨大な数学構造だ。
もし誰かが「ひもの話でしょ?」と言ったら、Youtubeの馬鹿用説明を見たか、馬鹿が理解したつもりになってるかのどちらかだ。
物理学ではよくあることだ。「ブラックホールは掃除機みたいに吸い込む」とか、「量子は観測すると変わる」とか、だいたい同じカテゴリーの都市伝説である。
宇宙はもう少し意地悪な構造をしている。表面の比喩だけ理解すると、必ず本体を見失うように出来ている。そういう罠が理論物理には山ほど仕込まれている。
飲食店でごちそうさまと言うとか、お店で受けたサービスに対して店員にありがとうと言うのは云々とかって話はもうずっと昔からネット上では何度も話題になってるけど。
それに対していつも思うのは、こういう事ってゼロコストなんだから言ったって別に良くない?何のマイナスも無くない?ということ。
一言サラッとそういう言葉を発したところで何か損するのか?損すると思っている人がいるという事なのか?少なくとも私は全く以って一切の損をしてないぞ?
他にも店員に敬語を使うとか、横柄な態度を取らないとか、そういうのって私にとっては一切コストはかからない自然な行動でしかない。むしろそれによって店員が快く接客してくれるなら、コスト0なんだからROIとしては無限大なわけじゃない。
だからこれ自体が議論になることがよく分からない。ましてや「すべき」という主張ではなく「するのはおかしい」という論調は全く以って意味不明だ。すべきでないという人は一体何が問題だと思ってるんだ?
誰にでもよくある人生の一場面として、俺は職場でウンチを漏らした。
だが、ただのウンチ漏らしがヒヤリハットの最底辺であるとさえ思えるほどに、俺のそれは大事故だったのだ。
緊張で半ば腹を下しながら挑んだプレゼン、床のコードにひっかかって転んだ瞬間、ケツから盛大な音が飛び出した。
ラグナロクはヘイムダルのラッパの音色を合図にしたというが、俺にとってはまさにそれが終わりの始まりだった。
スラックスを飛び越えて床へと染み込んでいく「茶色」、人口密度の高い部屋の中であっという間に広がっていく臭い。
俺は尻の中から何かが飛び出し、おれが股やスラックスの上を滑っていく感覚と罵声に包まれながら座り込んでいた。
ある場所ではざわめきが、ある場所では静寂が、そしていつしか床を綺麗になければと立ち上がるものが現れだす。
私という汚物はトイレへと押しやられ、履いていたものを入れろとビニール袋が投げ込まれる。
着古しの作業服とコンビニで買ったらしいパンツを与えられるまでの間、私は便座の上に座り込んだままずっとチラホラと罵声が飛び交うのを聞いていた。
誰もが私を口撃していた。
私を気にかけるものなど居なかった。
笑い飛ばす声があったが、それは彼らの不幸に対して向けられたもので、私のための誤魔化しなどではなかった。
腹を下していたなら人に頼め。
社会人としてどうなのか。
人間として終わっている。
同じ立場だったとして、私もきっと同じように突然クソを漏らした異常者を罵っていただろう。
その共感が、私の中でなにかの扉を開いた。
なんだ、日頃どれほど周囲の信頼を勝ち取ったつもりになろうが、「いざ」が来れば一瞬で評価はマイナス無限大まで下がるんだ・・・。
それが分かったら全部が虚しくなったよ。
昔「嫌われる勇気」やらで読んだ「他人の評価なんて気にするだけ無駄」という概念が次々と頭の中を駆け巡った。
俺の中で、何かが固まっていった。
常にヒソヒソと罵声の飛び交う職場で働きながら、自分のことを知らない人間が待っている転職先を探して動き続けた。
そうして別の職場に行く頃には、私はもう他人が心底どうでもよくなっていた。
他人の評価どころか、他人の存在だとか尊厳だとか悪意だとか何もかもしったことではないのだ。
他人が私をどれほど馬鹿にしても気にならないし、褒められても嬉しくないし、傷ついた所で同情はせず、幸福を分かち合う気持ちも妬む気持ちもない。
ただ、私の人生の中で現世利益を得るための障害や触媒としか感じることがなくなっていた。
ウンチを盛大に漏らしたあの日より前、人の気持ちを一切考慮せずに生きる人間がずっと理解できなかった。
一切の同情心をなく他人を切り捨てられる人間、他者からの好意や敵意に何も感じることなく振る舞える人間が実在するという話さえフィクションの中の出来事として見ていたのだろう。
だがもう違う。
自分はもう、他人をいくら食い物にしても気にならないし、他人が自分をどう扱っても被害がでない限りはどうでもいいのである。
完全なる利己主義者として今はもう完成している。
ウンチを漏らした人間を、他人がどう扱うのかを思い知らされたことが、ミラーニューロンに従うことの無意味さを俺に教えたのだ。
君の言葉からは、真理への渇望ではなく、計算機資源への卑近な最適化への執着しか感じられない。
「GPSが動くから時空は実在する」?笑わせないでくれたまえ。その論理は「デスクトップのアイコンをクリックしたらファイルが開くから、コンピュータの中には小さな書類フォルダーが物理的に実在している」と主張するのと同じレベルのカテゴリー・ミステイクだ。
GPSが機能するのは、一般相対論が「有効場の理論(Effective Field Theory)」として、低エネルギー領域における素晴らしい「近似」だからに他ならない。
僕が言っているのは、その近似が破綻する領域、すなわちプランクスケールにおける存在論の話だ。
君はUIの操作性の良さを、OSのソースコードの正当性と履き違えている。
時空は便利なGUIだと言ったはずだ。GPSはそのGUIが正常に動作している証拠であって、背後のコードが幾何学であることを証明するものではない。
むしろ、ブラックホールの情報パラドックスや特異点において、その「時空」というGUIがクラッシュするという事実こそが、時空が基本的な実在ではないことの決定的な証拠ではないか。
それは量子系が古典的な測定器とエンタングルした結果、波動関数が特定の固有状態に射影されるプロセスだ。
つまり観測とは、無限次元のヒルベルト空間から、君の貧弱な脳が理解できる低次元部分空間への情報の劣化コピーを作る作業だ。
君が言う「検出器のクリック」とは、導来圏の対象が持つコホモロジー的な情報が、実験室という局所的な座標近傍において「事象」として解釈されただけの影だ。
影を見て「実体がある」と叫ぶのは勝手だが、それは洞窟の住人の論理だ。
君は「言い換え」と「否定」を混同していると言うが、それは違う。
古典的な多様体論では特異点で物理が破綻するが、圏論的記述(例えば非可換幾何や行列模型)では特異点は単なる非可換な点の集積として滑らかに記述される。記述能力に差があるのだ。
これは「言い換え」ではない。「上位互換」だ。記述不可能な領域を記述できる言語体系こそが、より根源的な実在に近いと考えるのは科学の常道ではないか。
「実験で区別できるか」と君は問うが、君の貧弱な加速器がプランクエネルギーに到達できないからといって、理論の真偽が保留されるわけではない。
超弦理論が予言する「沼地(Swampland)」条件、すなわち一見整合的に見える有効場の理論のうち、量子重力と整合しないものが排除されるという事実は、すでに現代物理学に巨大な制約を与えている。
これが予測でなくて何だ?君は「新しい粒子が見つかるか」といった三次元的な興奮を求めているようだが、真の予測とは「どの理論が存在を許されるか」というメタレベルの選別だ。
壁越え公式(Wall-crossing formula)が数え上げ不変量の変化を正確に予言し、それが物理的なBPS状態の生成消滅と一致すること、これこそが「実験」だ。
数学的整合性という実験場において、時空モデルは敗北し、圏論モデルが勝利している。
それを「ポエム」と呼ぶなら呼べばいい。
だが、アインシュタイン方程式が特異点で無限大を吐き出して沈黙するとき、その先を語れるのは僕の言う「ポエム」だけだ。
君がGPSの精度に満足してカーナビを眺めている間、我々はホログラフィー原理を用いて、ブラックホールのエントロピーを数え上げている。
エネルギー保存則は時間並進対称性という「帳簿の整合性」から導かれるネーターの定理だ。
物理量とは本質的に保存量、つまり会計上の数字だ。宇宙は巨大な分散台帳であり、物理法則はその監査プログラムに過ぎない。
君が言う「物理的実在」こそが、脳が作り出した幻覚、すなわちユーザーイリュージョンなのだ。
最後に言っておく。観測と予測がすべてだと言うなら、君はプトレマイオスの天動説も否定できないはずだ。なぜなら周転円を十分に増やせば、天動説は惑星の軌道を完璧に「予測」し、観測と一致するからだ。
しかし我々が地動説(ニュートン力学、そして一般相対論)を選ぶのはなぜか?
それは「構造として美しいから」であり、より少ない原理でより多くを説明できるからだ。
時空という複雑怪奇な周転円を捨て、圏論という太陽を中心に見据えたとき、宇宙のすべての相互作用は、極めてシンプルな図式の可換性として記述される。
これを「解釈の違い」と片付けるのは、知性の敗北だ。
160時間くらい無課金でやってきたゼンゼロと鳴潮つまらないからやめようと思ってるんだけど、ガチャ石集めなきゃ損みたいに思っちゃってなかなかやめられない
スタレは虚無期間がひどいのと次の星がゴミっぽいからやめられたんだけどね
アグライア推しだから無課金でもアグライア2凸して頑張ってたけど、あまりにも格差がひどすぎてもう無理だわってなった
ストーリー上全然重要キャラじゃないのに、周年キャラだからってやたらと手の込んだアニメ出してきたりさ(御涙頂戴的な陳腐なやつ)
というか、マダムヘルタ最強にしておけばよかったのに
ヘルタもう息してなくて悲しいよ
オンパロスのストーリーはひどかったね
無駄な引き伸ばしが多すぎた
会話と演出がだらだらだらだら長い
つまんない話何ヶ月やってるんだよって思った
ゼンゼロは今日やめようと思ってガチャ引いたら儀玄引けてしまった
リュシアいないから結局使えなさそうだし(パンダでもいい説あるけど)、またガチャ石集めるのだるいしやめたい
最低限の育成しときたい気持ちもあるけど、毎日時間取られるのほんとにQOL下がってる感じあるからやっぱり育成もせずにやめた方がいいんだろうな
今NTEのβテストやってるけど、これ、みんながゼンゼロに求めてたものだって思ったよね
だから5月になったらどっちみちゼンゼロは完全にやめるんだよね
どうせやめるんだから今すぐやめた方がいいと思う
儀玄の育成もやらなくていい
あ、でもこの前のマルチイベント、みんなでチーム組んで戦うやつはお祭り感あって面白かった
常設コンテンツにすればいいのにね
でも今回の地下アイドルはどうなん?
あの3人に興味ある人どれくらいいるんだろう
今回のイベントはフォールガイズのパクリと地下アイドル音ゲーだよ
なんなんだよもう
というか、瞬光強すぎてなんかもうゲーム壊れちゃってて取り返しつかないことになってそう
広範囲高火力でずっと無敵っていう
虚狩りだけ引けばいいってみんな気づいてて瞬光はめちゃくちゃ売れたけど、今後は売上下がっていきそう
事実もう下がってるし
鳴潮はアニメ調の中でもリアル寄りのデザインなので今後も独自の地位を築いていきそうな気がする
NTEが来ようと無限大が来ようとアズプロが来ようと客層がかぶってない
ただ、自分には合わなかったのでそろそろやめたい
鳴潮はシナリオがラノベというか昔の泣きゲー?みたいなやつなのかな、美少女の自己犠牲御涙頂戴ストーリーでしょうもなさすぎるから自分には合わなかった
クロゲは映像作る技術はすごいんだけど、ゲームじゃなくてアニメ映画って感じ
ストーリーは陳腐で御涙頂戴でしょうもないけど、演出がすごいのでみんなストーリーがすごいって思い込んじゃってる感じ
開発の人たちはゲームじゃなくて大衆映画作りたいんじゃないかな
あとオタクはアクションすごいっていうけど、戦闘中のカットイン入りまくりでアクションゲームとしてはテンポ最悪だし、ガバガバジャスト回避だし、アクションゲームとしての完成度は低いよ
だって、ボタンぽちぽち押してるとキャラクターが勝手にすごい動いてくれるんだもん(ゼンゼロの瞬光ほどじゃないけど)
クイックスワップについても、あんなのアクションのテクニックでもなんでもないじゃん
クイックスワップする(できる)タイミングって最初から決まってるわけでさ
決まったスキル回ししてるのとまったく同じ
このボタンの次はこのボタンって決まってて、そこにクイックスワップの手順も挿入されてるけど、どっちにしろ順番にボタン押してくだけなんだからアクションのテクニックでもなんでもない
ボス素材が週に9個しか手に入らなくて全然育成進まないんだけど
やり込みコンテンツとかまったくなさそうじゃん
厳選したり完凸したりしたところでランキングも何もないし、倒す敵もいないよね
エイメスで何百万ダメージ出たとかっていうけど、そんなにダメージ出せても倒す敵いないよね?
というか今回のイベントのバイクのやつ、ヴァンサバみたいなだんだん攻撃が派手になるやつだけどさ
しかもヴァンサバと違って絶対誰でも1回でクリアできる難易度だしやるだけ時間の無駄というか
最終ステージだけはどんどん装備が強くなっていってお祭り感あってすこし楽しかったけど、それでも1回でクリアできてしまってゲーム性はとくにない
でもオタクたちはその映像見てストーリーがすごい、神とかっていって大絶賛してる
鳴潮のストーリーって世界の危機と美少女(使い捨ての現地妻)と主人公だけが存在しててほかがなくて虚無すぎる
エンドフィールドは5時間くらいやったけど工業が合わなかったのでどうしようもなくてやめた
ストーリーと戦闘は間違いなくつまらなかったと思う(戦闘するゲームではなさそう)
操作キャラのグラフィックと比較すると、フィールドとNPCはかなり安っぽい感じ
現状、工業にはまった人たちがめちゃくちゃはまって頑張ってるゲームって感じ
キャラはすごい好きだから工業と戦闘の改善あったら復帰はありえそう
現状では続けるのはかなり厳しい
とりあえずゼンゼロと鳴潮をやめたい
でもずるずる続けてしまっていて困ってる
確実にQOL下がってる
もうやめなきゃだめだ
鳴潮はルシラー引きたかったけど、ガチャ石集めがめんどくさくて、ガチャ石集めるためには20時間くらいはプレイしなきゃいけなそう
だからやめたい
やめるんだ絶対にやめるんだ
でも明日もやってそう……
罵倒語の密度だけは立派だが、論としては終始、自己の前提を疑わない閉域防衛の独白に過ぎない。冷徹に言う。
「尿男=前提知識がなく概念も理解していない存在」と最初に定義し、その定義を前提に全体を展開している点。
これは論証ではない。レッテル貼りを公理に据えた循環論法だ。「前提知識がない者は議論できない」「お前は前提知識がない」「ゆえにお前は議論できない」。
この三段論法は、最初の前提が事実であることを一切示していない。示していないからこそ、以後はひたすら人格評価と排除宣言に逃げている。これは論の構造理解の欠落ではない。意図的な自己放尿だ。
「前提知識のない者を遮断するな、は尿男の特殊な独自理論だ」という主張だが、これは学問史に対する無知の告白に等しい。
定義や前提が共有されていないと議論が成立しない、という命題と、だから最初から排除してよい、という命題は論理的に独立している。
前者は事実だ。後者は制度選択だ。そして後者を正当化するためには、「共有可能性が存在しない」「説明コストが常に無限大である」「説明する価値が原理的にない」という追加条件が必要になる。
だが反論文では、そのどれも示されていない。示されているのは「うざい」「時間の無駄」「臭い」という感情の自己放尿だけ。
「学問は、何一つ意味が分かっていない者に逐一説明していたら成立しない」という部分も、論点を意図的に歪めている。
誰も「逐一」「全て」「無制限に」説明しろとは言っていない。議論の入口において、定義・前提・方法を明示せ、という話をしているだけだ。
それを「素人を一人一人説得しろ」という極端なcaricatureにすり替えるのは、議論不能な相手をでっち上げて殴るための典型的な藁人形論法。
まともな科学者が論文で何をしているか理解していないのは、むしろそちらだ。
論文とは、既存の共同体が共有している前提を明文化し、第三者が追試・反証可能な形で公開する行為だ。
そこでは「誰が言ったか」は最小化され、「何が書かれているか」だけが評価対象になる。つまり、こちらが一貫して主張している形式そのものだ。
「モデルが破綻していたら議論の中で排除されるのは、参加者が理解できているときだけ」という一文は、特に致命的だ。
これは「理解できない者は破綻を指摘できないから排除されて当然だ」という主張だが、同時に「理解できないと判断する権限」を誰が持つのかを問わない。
この空白こそが権威主義の温床だ。理解できていないと誰が決めるのか。どの基準で決めるのか。異議申し立ては可能か。その問いを立てただけで「下水から出るな」と叫ぶ時点で、学問ではなく自治会の論理に堕ちている。
「権威主義は実存の学術的主張であり、お前の造語だ」という部分も、驚くほど稚拙だ。
こちらは権威主義という概念を「正しさの根拠を内容ではなく身分・所属・資格に置く態度」と操作的に定義している。
その定義が誤りだと言うなら、どの学術的定義とどこが矛盾しているのかを示せばよい。
しかしそれをせず、「妄想」「造語病」と叫ぶだけなのは、定義論争から逃げている証拠。
しかも、「数学の成立条件が他分野に適用できることを証明していない」と言いながら、逆に「適用できない」という論理的根拠も示していない。これもまた、否定のための否定でしかない。
貴様の反論全体は一つの恐怖に貫かれている。それは、「内容で殴る」という建前が剥がれ、「実際には資格と共同体による選別でしか自分は優位に立てていない」と露呈することへの恐怖。
だからこそ、相手を「無知」「サル」「下水」と非人間化し、議論以前の存在に貶める必要がある。これは強さではない。防衛反応の自己放尿だ。
貴様の反論は、学問を守っていない。学問という言葉を使って、排除の快感を正当化しているだけ。
方法と結果を語りながら、方法も結果も一切示さず、ただ「理解できない者は出ていけ」と叫ぶ。
その姿は、論理ではなく失禁だ。自己放尿という表現がここまで執拗に拒絶される理由は単純で、それがあまりにも正確に現状を描写しているからだ。
中国共産党が天安門事件を隠す最大の理由は、事件が「党の正統性そのものを揺るがす」から。
検索結果でも、天安門事件は 中国共産党の最大のタブー と明言されている。
つまり、
「失敗」ではなく
であり、
とされている。
これは中国共産党にとって致命的。
なぜなら、党の正統性は
「人民を守る」
という建前の上に成り立っているから。
そこに
「人民を殺した」
天安門事件は、
もし事件を認めれば:
誰が命令したのか
誰が責任を取るのか
という議論が避けられない。
「党が間違っていた」
と認めることになる。
これは
などを「党の偉大な歴史」として語る。
そこに
につながる。
あなたは
と言ったけど、党にとっては逆。
認めると:
党内の責任問題が再燃
党の正統性が揺らぐ
つまり、
だから徹底的に封じる。
検索結果でも:
と明記されている。
これは「消すと増える」どころか、
民主化運動が再燃する
党内の責任問題が発生する
認めても得がない
検索結果でも、
とされており、
これは単なる“汚点”ではなく
「党の存在理由を揺るがす致命傷」
だからこそ隠され続けている。
今初めて調べたけれどShort Storyの略称らしい。アニメ、マンガなどの二次創作で作られる短い小説のことで、皆さんも一度はどこかで目にしたことがあるのではないかと思う。
Xに「文庫ページメーカー」などで作った画像を投稿している人もいるし、pixivに投稿している人もいる。他のプラットフォームもあると思う。
一年ほど前に書き初めて、月に一つくらい、五千字くらいの作品を書いている。評判は結構良い。それ以前は創作の目的で文章を書いたことは一度もなかった。
SSを書き始めてから肌ツヤは良くなり、収入は10倍に、毎日モテモテ、そのメリットは枚挙に暇がないけれど——伝えたいのはそのことではない。
どんな制作も本質的には孤独なものだと思うけれど、一人より二、三人で創作する方が楽しい。互いに刺激しあい、時に喧嘩し、モチベーションも仕上がりも良くなる。
職業小説家も(想像だけど)編集者とときおり意見をぶつけ合いながら執筆しているんじゃないだろうか。
一人でSSを書いているとそれが難しい。でも今は、ChatGPTも、Geminiも、Claudeもいる。反応が雑だけどGrokもいる。執筆の悩みを相談できるし、時に冷や汗をかくようなツッコミを受けることもできる。書くことが、何より「書くのが上手くなる」のが楽しくなる。
以下に私のLLMの使い方をいくつか記したので、SSを書いている人も、書いてみたくなった人も、ぜひ試してみてほしい。
ところで、LLMを調教して自分のためだけのSSを書かせる界隈もあるらしい。中の人に聞くとそれはそれで大変深い世界があったのだけれど、この文章はあくまで「自分で書いて、LLMに編集者・レビュワーをやってもらう」スタイルについて書いている。
「てにおは」や漢字の間違い、重複表現、何度も登場してくどい形容詞など、日本語を読みやすくしてもらうためのレビューをLLMにやってもらう。これは投稿前に必ずやっている。
細かく指示しなくても「総合的に校正してください」とでも依頼すれば大体やってくれる。てにおはレベルではなく総合的な読みやすさ・文章のきれいさを上げたい時は、そう頼めば的確な指摘をしてくれるので、レビュー結果を見ながら自分で直していく。
「講評してください」「この作品の評価に適切な観点を整理して、評価・講評してください」こんな依頼をすると、作品が面白いか、人の心を動かせるか、その理由は何か、課題は何かを教えてくれる。
こういう作品構造、作品意図を第三者にレビューしてもらうのは、私の場合はとてつもなく大きい意味があった。文章力も随分伸びたと思う。
ト書きの段階で、読んでもらって感想をもらうのも面白い。これは「ある程度出来上がるまで人の意見を受けない方が創作が捗る」人もいるだろうから、好みが分かれると思うけれど。
「XXの下書きです。読んでみて感想をください」
これだけでOK。現代のLLMはもはや人間より感受性豊かなので、ドラフトからその小説に込められた感情の芯を見つけ出して話してくれる。
もちろん著者としては納得感があるのだけど、改めてしっかりと言語化された感想を読むと、そうだよな、この人のこういう所が美しいんだよな、と自分の中で理解が深まってくる。その結果、だからここを掘り下げよう、話全体にこの感情の動きに繋がる伏線を入れよう、と小説を豊かに膨らませていくことができる。
舞台になる街、駅、主人公の職業や収入、主人公の部活、その一日の過ごし方、ある料理の作り方、ある病気の経過。物語を書いていて気になることは沢山出てくる。もちろん登場人物たちはそれをよく知っているはずなのだから、著者も適当に書かずに、現実を知っていればいるほど良い表現ができる。
今は誰もがそうしていると思うけど、調べ物をLLMにさせると世界の解像度がぐっと上がる。例えば、「〜〜のような大学の卒業生の典型的な進路を教えて」とか。
これはやりたくない人もいると思う。
創作をどこまでAIに依頼していいのか? これは白黒だけで答えられる問題ではない。私たちが、創作の魂を、創作の沢山あるプロセスのうちどこに感じているか次第だからだ。
今まで上に挙げたような、編集者として付き合ってもらうLLMの使い方は、私には抵抗はない。同様に抵抗がない人も多いのではないかと思う。でも、「話の中核的なアイデアをAIに考えさせる」「まずAIに書かせて、人間が修正する」というやり方には、私は抵抗がある。
では、以下のような使い方はどうだろう?
・ある一行の表現に悩んでいて(例えば、「少し」が何度も出てくるので表現を変えたい、等)、代替表現の案をLLMに出させる。それを参考に書き換える。
・ある一節を2パターン書いて、どちらが良いか判断してもらう。
・情景描写が足りない所を、追記案と一緒に指摘してもらい、(大抵、微妙なので)そこからインスピレーションを得て自分で書く。
私はアリだと思う。厳密な線引きは難しいけど、相手が人間の編集者だったとして、それでも自分が著者であると主張できるようなやり取りなら、作品の魂は守れているのかもしれない。
最近のLLMはどれも優秀なので何に聞いても的確に返してくれる。
Gemini Proは優等生的に何でもやってくれる。ChatGPTはパーソナライズ機能で饒舌にすると、読解力激アツの最高のパートナーになる。Claudeは文才がずば抜けている(もう少し進化すると普通にSSが書けてしまうと思う)。
なのでどれに聞いてもいいと思う。
色々と書いてしまったけれど、LLMは孤独なSS執筆者の友になれる。
愛する作品やキャラクターのために私は美しい文章を書きたい。でも一人では学べることにも、上達にも限度がある。でも(LLMと)二人なら可能性は無限大になるのだ。
Happy Writing!
『鳴潮』のリンネー、井上麻里奈さんが今更JKやるなんて合ってないと言ったけど、実際引いてみたら案外悪くなかったというかむしろとてつもなくエロくて満足度が高すぎたというかなんか背徳感がある
1月22日に『アークナイツ:エンドフィールド』来たら『鳴潮』やめようと思ってたんだけど、どうしようか悩むね
『アークナイツ:エンドフィールド』はグラフィックは圧倒的にすごいんだけど、かわいいキャラがいまのところペリカしかいなそう
あとオープンワールドじゃないのと工業系っていうジャンルらしくてだるそう
『鳴潮』はシグリカが最初のイラスト見た時はふわふわしてて優しそうで良かったんだけど、Xの新しい公式絵見たらそんなんじゃなくて、おてんば娘っぽかったので、なんか違うなあってなった
こういうゲームに石見さん出まくっててややうんざりしてるけど、最近のゲームですよ感作りとしてはいいと思う
『鳴潮』のキャスト決めてる人ってたぶん声優に興味ない人だよね
一方『NTE』は新しい公式映像出てたけど、キャスト選びはかなりわかってる感じだった
『アークナイツ:エンドフィールド』はいいキャラが出るかどうかかな
推しキャラ弱くてすぐやめるってのは自分の中ではソシャゲあるある
まあどっちにしろすべてのソシャゲは無課金でやるから、飽きたらさっさと乗り換えていく感じかな
なぜ能力モノで電気系能力者の強さを表現するのに電圧で表現する傾向があるのか?
ワットじゃだめなの?電圧がいくらすごくても電流が少なきゃ大した破壊力がないてことになるんじゃないの?
あるいは電圧がほぼ無(0ではない)でも電流が無限大に近いほど多いならやっぱ破壊力凄いんじゃないの?
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20251224202220# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaUvM7gAKCRBwMdsubs4+ SPoVAQDOkCRTZDJU5W028AFc+Up7lPi3G9UNceMm51GOKsO4OgEAgJ/Nwg9uZ+dW BfGbS68FcYsZkVo3awr9AyfeC+ywnQc= =ZWw/ -----END PGP SIGNATURE-----
・Apex、Valorant
FPSはこの2つで足りる。
・その他の漫画
アプリは入れてないが、Xで更新されたのを知ったら読む漫画たち。せめてものお礼にXで拡散ポストだけしている。
おすすめの人なんてない。
テンプレは嫌い。ランキングを見てクソつまんねぇと思ったが、完結済み作品を読むスコッパー?として楽しんだ。ここ1年はソシャゲに取って代わってる。
・ボカロ
2010年代のどこかまでは人気曲だけ聴いてた。
神ゲーを遊ばせてくれる。気が向いたら加入して遊ぶ。
たまにオンラインで遊びたくなるから年間で入ってる。安いし出費気にならない。年間外食を5回我慢して、カップ麺にして、Switchのオンラインプレイ楽しめばプラスになる。
表題のとおりです。
事の発端は、12月12日に飯田一史さんは記事「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか(抄)」 https://ichiiida.theletter.jp/posts/0aa160a0-d70f-11f0-aa07-8582de6095b5 (以下、飯田の批判)において、三宅香帆さんの著作『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1212-b/ (以下、三宅本)の誤りを指摘したことでした。
これに対し、翌日の13日に三宅香帆さんは記事「「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか」はどこが間違っているのか」https://note.com/nyake/n/na2d317b47bc5 (以下、三宅反論)を投稿し、飯田の批判に対する反論を試みました。
このエントリでは、両者の主張に対する見通しを良くすることを目的に、飯田批判と三宅反論の論点を整理したのち、それぞれの問題点を指摘していきます。
まとめたのは人文系の話には疎い人間のですので、誤りも多いかと思いますので、まあ話半分で読んでもらえればと思います。
なお、飯田批判は、飯田一史さんの新著『この時代に本を売るにはどうすればいいのか』(星海社新書)https://ji-sedai.jp/book/publication/konojidaini.html からの抜粋であることを念の為補足しておきます。
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📰 0. 三行要約(問題点)
・飯田批判は、特に「三宅本は(出版流通における)「書籍」と「雑誌」を分けていないからダメだ」という主張に相当問題があると思う。
・三宅反論は、そもそも「反論」できてない。言い換えると、飯田の論理展開をあまり追えておらず、誤読を基に論理を展開するため実のある話があまりない。
・三宅反論は、三宅本の議論の前提に基づく問題を、あたかも飯田のデータ処理の問題にすり替えていて、個人的にあまり心象が良くない。
以下、飯田批判と三宅反論についてより詳細に検討していきます。
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飯田の批判の主張とその根拠、主張を正当化する論証について整理を行います。
理屈が明晰な箇所もある一方、煙に巻くような箇所もあって、議論を追うのはすこし大変だったような印象です。
・直接的には指摘ではないものには「◯」
また、論拠を準備していない主張には大括弧[]で囲っておきます。
--------------------
(「・働き始める前から読書量は減り、働き始めた後も日本人の読書量は減らない」の節)
◎主張1-1. 三宅本は、労働により読書量が減少することを前提にする。
しかし、これは誤りであり, 読書量は労働が始まってから変化してはいない。
<主張1-1の論証>
根拠1-1-1および1-1-2は, 読書量の低下は, 労働が始まる前の現象で、それ以降では起きていないということを示す。
これは、三宅本の前提を棄却するデータであり、ゆえに主張1-1が示される。
<論証おわり>
--------------------
◯主張1-2. 書籍における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白ではない。
<主張1-2の論証>
*根拠1-2-2. データ: 紙の書籍の推定販売金額と月の平均読書冊数
根拠1-2-1, 1-2-2, 1-2-3のいずれも、書籍に関しては、「買う」の増減から「読む」の増減を帰結することやその逆を主張することは難しいことを表している。
<論証おわり>
--------------------
◯主張2-1. 雑誌における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白である。
<主張2-1の論証>
*根拠2-1-1. データ: 紙の雑誌の推定販売金額と月の平均読書冊数
根拠2-1-1は、雑誌に関しては、「買う」と「読む」の間に相関があることを示している。
<論証おわり>
---------------------
◎主張2-2. 三宅本では、書籍と雑誌の区別ができていない。
<主張2-2の論証>
根拠2-2-1は、三宅本において雑誌と書籍を区別できていないことを示している。
<論証おわり>
--------------------
[◎仮設2-3. 三宅本は、「読書離れ」を論ずる際には雑誌と書籍を区別するべきである。]
(これは明示的に飯田批判にあらわれていないが、以下の主張2-4の論証において機能する暗黙の前提である、と私は思う。)
---------------------
◎主張2-4 三宅本は、『読書世論調査』における「読書時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張する。しかし、これは不適切である。
<主張2-4の論証>
*根拠2-4-1. 「読書時間」は「書籍+雑誌との接触時間」である。主張2-1から、雑誌の接触時間は減少傾向であると推察されるので、
「読書時間」の減少は(書籍ではなく)雑誌との接触時間の減少と解釈するのが自然である。
*根拠2-4-2. そもそも「読書時間」もそれほど減っていない。
*根拠2-4-3. 『読書世論調査』の総括では, 読書率はあまり変化がない.
根拠2-4-1, 2-4-3から、 「読書時間」の減少は書籍との接触時間の減少を導くのは難しい。
[仮設2-3]から, 「読書離れ」は特に書籍の読書時間減少を意味すると解釈するべきであり、
また, 根拠2-4-2の存在は、特に読書時間の減少が生じていないことを示唆する。
<論証おわり>
--------------------
◎主張3-1. 三宅本は、日本人が現在も長時間労働であることを前提にしている。
しかし、労働時間を「全産業平均」の観点で見たとき、この前提は不適当である。
<主張3-1の論証>
*根拠3-1-1. 厚生労働省「わが国の過去50年間(1973年~2023年)の労働時間の推移についての考察」
<論証おわり>
--------------------
◎主張3-2. 三宅本は、次の(i), (ii), (iii), (iv)を主張する:
(ii) 自己啓発(労働による自己実現)のための読書(=「情報」摂取型、「ノイズを除去する」「〈社会〉を遠ざける」)時間が増加した.
(iii)代わりに、人文書や小説などのための読書(=「アンコントローラブル」な「ノイズ」や「他者の文脈」を含む)時間が減少した
(iv) 読書離れと自己啓発書の伸びはまるで反比例のグラフを描く
<主張3-2の論証>
*根拠3-2-2. グラフを書くだけの定量的な根拠はない(提示されていない)
根拠3-2-1から、労働者の 「自己研鑽」 = 「学習・自己啓発・訓練(学業以外)」の時間は減少している。
これは(ii)を否定する。
主張1-1および(ii)より(iii)は成り立たない。((iii)が成り立つためには(ii)が成り立つ必要があるため。)
根拠3-2-2は、(iv)を否定する。(少なくとも、(iv)の主張を肯定するだけの理由はない。)
<論証おわり>
--------------------
◎主張3-3. 三宅本では、自己啓発書市場の拡大から自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きいかのように解釈する。
言い換えれば、次の(1),(2)を主張する:
(2)(1)が正しいのであれば、「自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きい」は正しい。
<主張3-3の論証>
根拠3-3-1は、「年間ベストセラーにおける自己啓発書の冊数割合は増大している」ことを主張する。
しかし, 根拠3-3-2は 自己啓発本の市場は小説市場よりはるかに小さいということを意味する。
これは、(1)が正しいのに「自己啓発書のほうが~」が間違っているので、(2)は正しくない。
<論証おわり>
--------------------
[◎主張3-4, 三宅本は, 上の(1), (2)が成立するとしていたことが原因で、(i)から(ii)および(iii)を導いた]
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下で、飯田批判を読んでいたときに、個人的に気になった点を列挙します。
●飯田主張2-4について:「書籍」と「雑誌」の区別は本質的か?
主張2-4の背後には「書籍と雑誌は分別するべきである」という暗黙の前提(仮設2-3)があるように思う。
三宅本の「読書」から「雑誌」を除外することは本当に妥当かを考えたい。
といっても自分は出版業界の人間ではないので正しい理解かは怪しいのだが、調べた範囲のことをまとめておく。
(間違ったこと言ってたらごめんなさい)
「書籍」「雑誌」の辞書的な定義はたとえば布川ほか編『出版事典』(出版ニュース社)のp.217およびp.167にある。
ざっくりまとめると「書籍」と「雑誌」の違いは一定の編集方針の下で定期的に刊行されているかどうかという部分のようである。
これは、1985年のユネスコの出版統計上の「図書」と「新聞及び定期刊行物」の違いともおおむね合致しているように見える。
("図書、新聞及び定期刊行物の出版及び配布についての統計の国際的な標準化に関する改正勧告". 文部科学省. https://www.mext.go.jp/unesco/009/1387396.htm)
より実際的な取り扱いは, "既存の雑誌が「創刊」とは、これ如何に". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20070111/
によれば、
そもそも本というのは「書籍」と「雑誌」に大別されますが、出版業界では「雑誌コード」が付されたものを厳密に「雑誌」と区分しているのです。
一見雑誌のように見える本も、このコードがなければ「雑誌」ではなく「書籍」ということになります。
ということらしい。(しかし、これはあくまでコラムの中の記述でありカチッとした話ではないことに注意)
「書籍」と「雑誌」の実際上の取り扱いの違いは、「雑誌コード」の有無、つまり流通上の取り扱いの違いから生まれてくるという。
日本では、「書籍」はISBNコードを持ち、「雑誌」はISSNコードや雑誌コードを持っている。
その中間にあたるムック本では、ISBNコードだけでなく雑誌コードも付随しているようなものは「雑誌」の対象とするようである。
("「雑誌」の定義と出版統計". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20060911/)
ともかく、「書籍」と「雑誌」を分けるのは明らかに内容やジャンルではない。定期的に刊行するかどうかであったり、それを根拠に雑誌コードが付いているかどうかだったりである。
コミック誌を除外したとしても、『anan』のようなファッション誌もあれば『文學界』や『オール読物』のような文芸誌も、また『Nature』や『ナショナルジオグラフィック』のような理工系の雑誌もまとめて「雑誌」にカテゴライズされる。
さらに言えばサイエンス社の『SGCライブラリ』シリーズの書物は, それぞれ内容的に全く独立しており実質的に単行本ではあるのだが、『SGCライブラリ151』までは『数理科学』の臨時別冊という扱いだったのでそのカテゴリは「雑誌」になっている。(なお『SGCライブラリ152』以降は「書籍」である)
一方、書肆侃侃房の『文学ムック たべるのがおそい』は確かにムック本ではあるが、雑誌コードを取得しておらず取り扱いは「書籍」であった。
このように「書籍」と「雑誌」の区分はそもそも出版流通上の区分であり内容面での区分ではないばかりか、その区分が出版物の実情と必ずしも合致しているわけでもない。
この区分はかなり表面的、形式的なものであると見るべきだろう。
・以上を踏まえて、飯田の批判、つまり「書籍」や「雑誌」という出版流通における区分の不徹底でもって三宅本を批判したことの妥当性ついて吟味してみよう。
それは、「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)という批判である。
そして、なぜ飯田が「不適切である」と主張するかといえば、「書籍」と「雑誌」は分けて考えるべき(仮設2-3)だからと考えているからであり、
特に三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍の読書量(≒読書時間)の低下」を採用するほうがより妥当である、という飯田が信念を持っているからである。
ここで注意したいのは、主張1-2, 2-1は「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)の根拠ではない。
飯田はその直前に「「書籍の読書量と出版売上」の相関は弱い(主張1-2)一方で、「雑誌の読書冊数と出版売上」が正の相関関係にある(主張2-1)という事実を指摘してはいるものの、飯田はこれらを「読書量を測定するにあたって「書籍」と「雑誌」を区別するべきである」(仮設2-3)の根拠にはしていない。主張2-4は仮設2-3からは出てくるものの、主張1-2, 2-1には立脚していない。三宅反論で大いに誤読したのは、主張1-2, 2-1があたかも主張2-4の根拠になっているかのような書きぶり、配置の魔術ゆえであろう。
ともかく、飯田の批判の妥当性を吟味する際はこの信念「三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍の読書量(≒読書時間)の低下」を採用すべきである」という部分に注目すればよい。
三宅本で対象としている「読書」は、大方「人文書や小説などのような(「ノイズ」や「他者の文脈」を含む)書物を読む行為」と解釈するのが妥当だろう。
したがって「読書離れ」は「人文書や小説などの書物を読む頻度が減ったり、そのために費やす時間が減少している」ということだろう。たとえば理工書や技術書、ファッション誌、ゴシップ誌などを読むことは端から三宅本の「読書」に含まれていないと見るべきである。
転じて言えば、たとえば「雑誌」であっても文芸誌を読む場合は「読書」に含まれるべきだろうし、「書籍」であっても理工書を読むことは「読書」に含まれない(と三宅本では考えている)かもしれない。
要するに、「読書」といったときに、読まれるべき書物を分類できていないと批判するならば、むしろそのジャンル(文芸・歴史書・哲学書・理工書・サブカル・ゴシップ・ファッションなど)の違いに着目するべきなのであり、出版流通における「書籍」「雑誌」という区分は、少なくとも直接的には重要でないだろう。もしこれが重要なのであれば、それは驚くべきことなので、別でこれを論証すべきである。
もちろん、おそらく「雑誌」の出版売上の中でファッションやゴシップが支配的で文芸誌や理工系雑誌は影が薄いだろうから、その意味で「書籍」「雑誌」の区分で売上を観測することがジャンルの傾向をよく記述するとは言えるかもしれない。言い換えれば、「ジャンルによる読書量の違い」を捉えるにあたって「出版流通における Permalink | 記事への反応(0) | 20:21