書店関連の記事で、気になるものを目にしたので、(下書きのまま放置していたため、微妙に時間がたってしまっていますが)ちょっとふれておきます。
- 「アジアで最もクールな書店「誠品」を創った男 日本人が知らない呉清友氏の壮絶な創業秘話」(2019/10/16 東洋経済オンライン)
《アメリカのTIME誌に「アジアで最も優れた書店」と称される台湾の誠品書店が、とうとうこの秋、日本上陸を果たした。場所は、ビジネス・金融の中心である東京都中央区の日本橋。コレド室町テラスの2階フロアすべてを使った》「誠品生活日本橋」の紹介記事です。
誠品生活/誠品書店をどのように取り上げようが、どのように持ち上げようが、別にいいと思いますし、そこには当方の関心はないのですが、記事を読んでいてびっくりしたのは、このくだり。
《日本の書店は店舗形態の変革が遅れている。蔦屋書店はあるが、書店の主流はいまなお「紀伊國屋書店」「三省堂書店」「八重洲ブックセンター」など、本の販売に集中した店舗が多い》。
これ、すごいな(笑)。「書店」が《本の販売に集中した店舗》だと批判されてますよ(苦笑)。いやはや。いつから小売店舗が主たる取扱商品を扱うのに集中することを批判されなくてはならなくなったのか……。
雑貨など書籍・雑誌以外の商品の取り扱いや飲食の扱いといった、複合型の店舗展開など、新刊書店にいろいろな対策が必要なのは事実でしょう。でも、《本の販売に集中した店舗》だって必要だし、何より、本来的にそのような業態である書店が《本の販売に集中》しなくなったら、いったい本好きはどこでどのように本を買えばいいのやら(苦笑)。
書店がみな誠品書店、蔦屋書店のようなタイプになればいいというものではありませんし、そのようになれるわけでもないだろうに……。
こういう、わかったような表層的なもの言いには、ほんと、いらいらさせられます。何かをほめるのに、何かをおとしめないと気が済まないタイプの書き手っていますが、この記事もその典型ということでしょうか。
その業界なり、その商品なりに力がなくなってくると、どうしても犯人捜しが始まりやすい。大手が悪い、取次が悪い、**が悪いと、誰かを悪者にしないと済まない人が出てきがちです。
すると、どうしても批判の矛先が違っている感のする文章に出会う頻度も高くなる気がするのです。たとえば、これもそうでしょうか。
- 「勘や経験頼みの雑誌編集もAIで 大日本印刷が新技術」(2019/10/12 朝日新聞)
記事によれば、《AIが誌面を自動でレイアウトする技術を出版社2社と共同開発し、実用化が始まった。編集者の経験や勘に頼りがちだったレイアウト作業を自動化することで、業務の効率化を手助けする》とのこと。
出版社の業務、編集者やデザイナーの仕事の負担を軽減するための技術が生み出されるのは、それはまあいいことなのかもしれません。ただ、出版社の業務のなかにも、効率化に向いているものとそうでないものがあり、出版社を出版社たらしめているのは、主に後者の要素によるものではないかと思うのです。だからこそ、「みすず書房の本が好き」とか「河出書房新社はおもしろい本を出す」とか、版元(やその社のレーベル)にファンがついたりすることもあるわけです。
記事には《編集者の経験や勘に頼りがち》と、それが何か正さなくてはならないことのような書き方がされていますが、特定の雑誌のレイアウトが《編集者の経験や勘に頼りがち》であって何がいけないのでしょうか。
『ポパイ』や『Hanako』、『an・an』や『non-no』、『宝島』。先日休刊が報じられた『映画秘宝』だってそうでしょう。一時代を築いたり、対象層・対象世代に強く支持された雑誌は、みなその雑誌らしさのようなものを、誌面レイアウトを含む雑誌全体から放っています。雑誌の個性というのは、《編集者の経験や勘》を含む、デザイナーや執筆者ら、その雑誌に関わる人たちが持ち寄る「何か」がブレンドされることで生まれるものなのではないかと、そんなふうに思うのです。
(本づくりに少しでも関わったことのある方なら、多くが賛同してくれるのではないかと期待しますが)効率化=よいもの、経験や勘=排除すべきもの、そんな簡単なものではないと思うし、だからこそ、本づくりはおもしろいんですよね。
やっぱりここでも、批判の方向がちょっと違ったところに向かってしまっている気がするのです。
なお、だから出版の仕事は、編集やデザインの仕事は変わらなくていい、テクノロジーの導入は不要だ、などと、そんな乱暴な話をしているのではありません。ぼくがこの出版の仕事を始めたころと今では、同じ仕事と思えないくらいに変わってしまった部分もありますし、これからもどんどん変わっていくでしょう。それはそれで必要なことだと思いますが、そのたびに、いちいち《編集者の経験や勘》のような、従来のものを批判したり貶めなくていいのでは、ということです。