はてなキーワード: 戦争論とは
昨日の朝このまとめを見て、とても重く沈んだ気持ちになった。
仕事も手につかず、この人のことを考えていた。
「思想強いと思われるのが怖い」
とても理解できる。
現代日本を生きる我々にとって他人にどう思われるかはとても重要なことだ。
そんな中で、それでも勇気を出して平和を維持するため、反戦を訴えるために何をするべきか考え、行動を起こしたこと
そこだけ見ればそれは素晴らしいことのはず。
私がここで名前を隠して、やんやと誰かを吊し上げるようなことしかしてないのに比べたら。
やらない善よりやる偽善。行動に移したこの人の方が、反戦に寄与しているのかもしれない。
この人は悪いことはしてないし、悪気なんかもちろんなく、自分が正しいと思う背景も理解できる。
誰のことも責めることはできない。
多分もう、「その時代」が巡ってくることは避けられないんだろうな。
なんとなくそんな気はしていたが、その現実味を見せられてしまった。
この人が反戦活動をする理由は、「平和が大好き」で「今の生活が続いてほしい」からだそうだ。
あたかも、アイスクリームでも選ぶかのような、手に入って当たり前のものを選ぶような。
この人にとって平和はそこあって当たり前のもので、なんなら好きとか嫌いとか、こちらが値踏みする対象となるものなんだ。
そしてその傲慢さに一切気付いていないような、イラストの周りに並び立つ呑気な言葉たち。
「パンがないならケーキを食べればいい」を天然でやってるようなもの。
どんなに平和に暮らしたいと願っても、逃れられずに戦火の中死んでいく人たちがいる。
今この瞬間にも。
その人たちはきっと、夢が叶わなくたっていい、好きなゲームができなくたって、美味しいものが食べられなくてもいい
ただ生きたい、友達が、パパがママが、幼い我が子が、妹が、生き延びてほしいと、願ったはずだ。
でもそれは、そのひとの最善を尽くしたって叶わず、死んでいる。
そんな状況にいる人たちがこのコマをみたらどう思うだろうか?
ニコニコでピースして、「ごはん」「おふとん」「休日」「旅行」「しぜん」「マンガ」「アニメ」「ゲーム」とか書いてあるこのコマを。
かつて広島で戦争に巻き込まれ、大火傷を負って、家族を失った人に時を超えて会えたとして、
「私は平和が大好き!だってごはんにおふとんにしぜんにマンガにゲームが大好きだから!」なんて言えるのか?
「平和は尊い」とは平和教育でよく言われる言葉だ。でもそんな言葉はもはや形骸化しているのか。
「ごはん」も「おふとん」も「休日」も「旅行」も「しぜん」も「マンガ」も「アニメ」も「ゲーム」も全部失ったとしても得難いもの、
それが平和ではないのか。
でもわかってる。そうじゃないんだよね?そこまで考えてないんだよね?
でもさ。
考えすぎてしまう性なら是非それを発揮して考えて欲しい。
どうして過去に、そんな犠牲を出してまでも戦争をしたのか、そうなるまで続けてしまったのか?
どうして今世界に、戦火に巻き込まれて無念の死を遂げなければならない人がいるのか?
どうして今日本に住む我々は、戦火に巻き込まれず豊かに自由に、「続いてほしい」と思える暮らしができているのか?
あなたの言う「反戦」は、自分の周りだけの話なのか?世界中の全ての人に平和に生きてほしいと思ってるのか?
前者なら、じゃあ、自分の平和が脅かされ、「今の生活」が脅かされた場合、それを維持するために「自分の周り以外」が平和を失うことはOKなのか?
日本人が全員死んで、そこに住めるようになったら得する人はたくさんいる。
そうでなくても、私たちから「ごはん」「おふとん」「休日」「旅行」「しぜん」「マンガ」「アニメ」「ゲーム」を奪う(例えば日本語を禁じるとか文化を奪うとか)ことで得する人はいる。
でもその人たちは、80年、それを大々的にしてくることはなかった。
なぜか?
それをした場合のデメリットがメリットを上回るように調整維持することで、日本は今平和を維持している。
私たちの平和は、ただそこにあるのではなく、断続的な努力により維持してきたものだ。
他の大抵の国も同じ。他国に「攻める < 攻めない」と思われるように立ち回っている。
その方法は、例えば「攻めてきたらこっちも攻め返しますからね、わたし結構強いですよ」と軍事力アピールするとかだ。
でもそのバランスが崩れた時、「攻める >= 攻めない」になった時に戦争は起きる。
日本の場合も、「攻める < 攻めない」を維持してきたという点では同じ。
「攻めない方がいいだろう」と思われるようにうまいこと立ち回ってきた。
で、そのように立ち回ってきたのはたとえば、選挙で選ばれた政治家たちであり、
そのバランスを守るためにどうしたらいいのか?
もしくは、そのようなバランスによる危うい平和を根本から覆す方法はないのか?
一生懸命考えて、それに見合う行動をする。
デモに参加するのもいいと思う。でもそこに持っていくイデオロギーが、「平和大好きだから戦争反対」では全く足りてない。
そんなのみんなわかってる。親もわかってる。
でも親は、虫歯が進行するよりは歯医者に行く方がマシだと判断し、「虫歯になったら歯医者行くからね」と言う。
それに対して「歯医者反対デモ」として、歯科治療をやめろと言っても何も解決しない。
したくないのは誰だって同じ。
そうじゃなくて、どうすればせずに済むか考えることだ。虫歯予防を頑張ることだ。
言いたいのは「それ(歯医者に行く/戦争をする)をした方がいい状況を作らない努力」として何を訴えるのか?だ。
私の意見としては、そもそも平和なんてこの世には存在していない。
日本の平和な生活だって、突き詰めれば誰かに銃口を向けた結果であり、睨み合いの上に成立している。
そんなふうに維持している平和を、無邪気に「大好き」などと言ってるのを見ればまあ鳥肌どころではない。
そういう緊張関係以外の平和の実現方法を、たくさんの哲学者たちが考えてきた。
(例えばカントは「永遠平和のために」で「公平性」、均等にするのが全員にとっての益となる形式を作っていくことの重要性を説いた。)
でも結局この世では、緊張関係が平和な国の平和を維持している。
日本の平和教育は「平和の尊さ」と言いつつそこまで考えさせないことが多い。
歯医者で言えば、「歯医者に行ったらどんな悲惨な目に遭うか」というところばかり教える。
それも大事ではあるが、
なぜ虫歯になるのか?予防するにはどうしたらいいのか?の部分は重視されない。
だからこの人がただ「歯医者反対!」にしか思い至らないのも、責めることはできない。
私はたまたま大学で取った授業で、こういうことを考えるきっかけを得た。あれがなかったら私もこうだっただろう。
そして日本の平和教育がそうなってしまっていることも、複雑な事情が絡んでのことだろう。だからそれも責められない。
なるようになっただけ。
ここからが割と本題なんだけど、
どんなに頑張って予防していたって、虫歯になってしまう時はある。
戦争も同じ。
私が思うに、戦争はもう、自然災害みたいなもんなのかなと思う。
(ロジェ・カイヨワの「戦争論」でそう思ったので、興味あったら読んでみてください)
誰もやりたくないとしても、止めることなんかできない。
だから、自然災害と同じで、それに備えて心の準備をしておくしかないんだ。
自分はどうするか?
何を選択するか?優先するか?
何を守るか?
何を選んだら、一番マシなのか
今のうちに考えて、決めておこうと思ってる。
そのあと
(たとえばすぐにでも)
死ぬとして
その瞬間に
どの選択なのか
今のうちによく考えて、決めておこうと思ってる。
プロイセンの軍事思想家カール・フォン・クラウゼビッツは、こう記した。「戦争とは、他の手段をもってする政治の継続にすぎない」。クラウゼビッツの死後、1832年に出版された著作「戦争論」から、ほぼ全ての陸軍将校が学ぶ一節があるとすれば、それは、武力紛争の目的を定義したこの言葉である。
1月3日朝、米軍がベネズエラを攻撃し、独裁者ニコラス・マドゥロ氏を拘束して米国に連行し刑事訴追するというニュースを耳にした時、真っ先に頭に浮かんだのが、この言葉だった。
理由は単純だ。ベネズエラへの攻撃は、19世紀の世界秩序が崩壊する前、2度の壊滅的な世界大戦が起こる前、そして米国がまさに実行したような国家の行動を阻止するために設計された国際法と外交体制が生まれる前の、異なる時代を想起させるからだ。
あらゆる国家が決定すべき最も重要な課題の一つは、いつ、そしてどのように、戦争を遂行するかである。ちなみに、クラウゼビッツを道徳観念のない戦争推進者と見なすのは誤りだ。彼はこの概念を発明したわけではなく、当時の世界を描写したに過ぎない。彼の言葉は、人類史の大半において主権国家が戦争をどのように捉えてきたのかを端的に説明している。
強国が「戦争は政策の延長に過ぎない」という原則のもとで行動する時には、マフィアのボスのような振る舞いに陥りやすい。弱い国とのあらゆる相互作用には何らかの形で武力の脅威が伴うことになる。素敵な国ですね。もし何か起きたら残念ですね、という具合に。
これは空想ではない。トランプ米大統領はアトランティック誌との電話でのやりとりで、マドゥロ氏の副大統領を務めたベネズエラの新たな指導者デルシー・ロドリゲス氏を脅した。「彼女が正しいことをしなければ非常に大きな代償を払うことになるだろう。おそらくマドゥロよりも大きな代償だ」と述べた。
外交と経済的圧力は、依然としてほとんどの場合、強国がとる最初の手段である。しかし、意図した成果を上げられなかった場合に次に何が起こるかは、ベネズエラでの米国の攻撃の映像を見ればわかるだろう。
しかし、クラウゼビッツ的な見方は、国家とその指導者たちにとって唯一の選択肢というわけではない。国際関係にはより優れたモデルが存在する。それは悪の存在と国家の利益という現実を認めつつ、平和と人命を守るための境界線を引くものだ。
人類はクラウゼビッツとアクィナスの間を揺れ動いてきたのだと、筆者は分析します。歴史を振り返りつつ、今回の米トランプ政権のベネズエラ攻撃をどう読み解くのか。「戦争は政治の延長」の先にある世界とは……。
13世紀に書かれた「神学大全」でアクィナスは、後に「正戦論」として知られる三つの基本要件を提示した。
第一に、戦争は主権者の合法的な行使によって遂行されなければならず、野心的な個人の私的な冒険主義によってはならない。
第二に、戦争は正当な大義に基づかなければならない。例えば、国家の自衛や集団的自衛は明らかに正当である。
第三に、正当な目的、すなわち善を推進し、悪を回避しなければならない。
戦争の形態の変遷を考える一つの方法は、人類がクラウゼビッツとアクィナスの間で揺れ動いていると捉えることだ。強い国は弱い国に自らの望みを押し付け、やがては強国が互いに押し付け合おうとする。必然的に大惨事が起き、アクィナスに立ち返る。
この揺れ動きの結果は、実際に歴史の長い流れの中で確認できる。紛争による世界の死者数を分析すると、戦争は常に存在するものの、その激しさは強弱を繰り返していることがわかる。極度の苦痛と死の時代は、比較的平穏な時代を経て、再び恐怖の時代へと続く。
第1次世界大戦以降の歴史を考えてみよう。塹壕(ざんごう)戦での絶え間ない殺戮(さつりく)の後、世界は侵略戦争を禁止し、平和を維持するための国際機関である国際連盟を設立しようとした。
国際連盟は、米国が加盟を拒否したことも一因となって失敗に終わり、さらに恐ろしい世界大戦を経て、今度は米国主導のもとで世界は再び試みた。
アクィナスの思想は国連憲章の随所に反映されている。憲章第2条は侵略戦争を禁止し、51条は大国を抑制するための個別的・集団的自衛権を認めている。そして第5章は平和維持のために安全保障理事会という機関を設立した。
この体制が完璧だとは誰も言わないだろう。だが、第2次世界大戦後も侵略戦争が起きる中で、この体制は主要な目的を達成してきた。世界は大戦を免れてきたのだ。
ただ、アクィナスのモデルは、二つの敵と戦わなくてはならない。権力への願望と記憶の風化だ。正戦論は、強者の自制を求めている。大国に自らの願望を押し付けることを控えさせ、短期的な国益より、国際平和と正義という長期的な目標を優先させることさえ求める。
ここで記憶の風化が作用する。人々が世界大戦を記憶している間は、自制はより説得力を持つ。国連とNATO(北大西洋条約機構)をつくった人々は、2度の戦争を経験していた。その意味で、侵略戦争に対する道徳的議論は、現実的な意義を持つ。
世界は、力への願望が国際情勢を支配する結果を目の当たりにしてきた。指導者たちは、最も壊滅的な紛争がごくささいなきっかけから始まることを知っているし、知るべきである。
例えば、1914年にガブリロ・プリンツィプがサラエボでフランツ・フェルディナント大公を狙撃し、オーストリア・ハンガリー帝国が小国セルビアに軍を動員した時、1600万人以上が命を落とす戦争になることを、いったいどれほどの世界の指導者たちが察知していただろうか?
写真・図版
サラエボで起きたオーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公と妻の暗殺事件を報じる朝日新聞紙面(1914年7月30日付)
記憶が薄れるにつれ、クラウゼビッツのモデルはより魅力的に映る。その一因は、まさにベネズエラで起きたように、即効性のある結果をもたらし得るからだ。
とはいえ、トランプ氏のベネズエラ介入に激しく反対する人々でさえ、マドゥロ氏の支配を美化すべきではない。彼は腐敗した暴力的な独裁者であり、国民を抑圧し、貧困に陥れた。
経済指標がその実態を物語っている。マドゥロ政権が発足する前年の2012年、ベネズエラの国内総生産(GDP)は3720億ドルを超えていた。それが、2024年には1200億ドル弱にまで急落した。壊滅的な崩壊だ。
マドゥロ氏が権力を維持できたのは、民主主義を無視したからに他ならない。選挙監視員たちによると、2024年の選挙で、3期目をめざしたマドゥロ氏は30ポイント以上の差で負けていたとされる。対立候補のエドムンド・ゴンサレス氏は65%を超える票を獲得し、マドゥロ氏はわずか30%強だった。しかし公式集計ではマドゥロ氏の勝利が宣言された。
ただ、GDPの数値や得票数だけでは、マドゥロ政権が人々にもたらした苦難を語るには不十分だ。2014年以降、貧困や汚職、抑圧から逃れるために約800万人のベネズエラ人が国外へ脱出した。これはマドゥロ氏が大統領に就く以前の人口の4分の1以上に相当する。
トランプ政権は、マドゥロ氏を権力の座から追放することが米国の国益に最もかなうとの判断を下し、議会の承認を得ることなく、完全に独自行動をとった。
写真・図版
米フロリダ州で2026年1月3日、記者会見に臨む米国のトランプ大統領。後ろにいるのはルビオ国務長官=AP
第一に、トランプ氏は、米国法の要件を無視し、一方的に行動した。議会と協議せず、宣戦布告も取り付けなかった。彼は、ただ自らの権限だけで、主権国家を攻撃したのだ。
マルコ・ルビオ国務長官は、政権の行動は戦争行為ではなく、「法執行活動」であり、国防総省は容疑者を逮捕する公務員たちを守っていたにすぎないと主張している。
この弁明は笑えるほどにお粗末だ。この理屈では、大統領は敵対する指導者を起訴し、指導者の逮捕に必要な大規模な軍事力は単に法執行を保護しているだけだと主張することで、事実上あらゆる戦争を法執行活動に変えることができる。これは議論ではない。言い訳だ。
第二に、トランプ氏は開戦事由も、国際法や国連憲章が認める正当な理由もなしに攻撃を仕掛けた。ハーバード大教授で、ブッシュ政権(子)下で司法省法律顧問局次官を務めたジャック・ゴールドスミス氏が指摘したように、(国連)憲章の命令を執行する明確な方法がないとしても、この攻撃は明らかに憲章に違反している。
第三に、独裁者を権力の座から追放することは正当な目的になりうるかもしれないが、民主的に選出された野党指導者を無視するというトランプ氏の決定は、非常に問題である(編集部注:トランプ氏は15日にベネズエラの野党指導者マリア・コリナ・マチャド氏と会談した。)。腐敗した政権の残党が、米国企業の石油取引交渉の要求に従い、依然として国を統治していることは、自由と民主主義を犠牲にして腐敗と抑圧を永続させる危険性がある。
これらは何も新しいことではない。歴史家のニーアル・ファーガソン氏は、トランプ氏のベネズエラへの攻撃は、第1次世界大戦の惨事以前の時代の政治と外交の復活という、より大きな全体像の一部であると述べている。
19世紀後半の南北戦争後に米経済が急発展した金ぴか時代の砲艦外交は、米国が中南米を支配していたことを確かに意味していた。それは、この地域に植民地に似た現実を押し付けた。各国は少なくともある程度の米国の監視の下で発展し、主権は米国が認める範囲にとどまった。
トランプ氏のベネズエラ攻撃もまた、何もないところから出てきたわけではない。昨年12月、政権は国家安全保障戦略の文書を発表し、西半球を最優先に位置づけた。
この文書はアジア、欧州、中東に先立って米州を扱い、「西半球における米国の優位を回復するため、モンロー主義を再確認し実施する」と宣言した。
大統領はすでに、19世紀の米国外交政策を復活させる自らの政策に「ドンロー主義」という名を付けている。
トランプ氏はドンロー主義を熱心に推し進めている。カナダとメキシコに対して経済戦争を仕掛け、カナダは米国の51番目の州になるべきだと発言した。NATOの同盟国であるデンマークの主権領土の一部であるグリーンランドにも野心を抱いている。
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デンマークのコペンハーゲンの米国大使館前で2026年1月14日、グリーンランドはグリーンランド人のものだと抗議する人々=ロイター
ここで再び、影響圏による世界支配と、「政策の延長としての戦争」という非道徳的アプローチの致命的な欠陥に直面する。小国は強国に支配されることを望まず、強国はライバルの台頭を望まない。故に同盟を結ぶ。1914年、セルビアにはロシアが、ベルギーには英国がいた。1939年にはポーランドにフランスと英国が味方した。
なぜ南米諸国が他国との緊密な関係を求めるのか、米国人が疑問に思うのならば、むしろ彼らと米国との歴史的経緯や、南米の人々がモンロー主義の攻撃的復活をどう捉えているかを問うべきだろう。
一つは、トランプ氏がベネズエラ介入で先例をつくったというものだ。ロシア、中国、イランといった国々は、自らの勢力圏でその先例に従おうと躍起になるだろうし、我々が取ったのと同じ手法を敵対国が自らの勢力圏で取っても、我々に異議を唱える資格はなくなる、というものだ。
しかし、ウラジーミル・プーチン氏のロシア、習近平氏の中国、革命体制のイランは、正戦論や道徳的議論などみじんも気にかけたことがない。彼らがある程度抑制されているのは、抑止力によるものであり、もし抑止力が失敗すれば、純粋な軍事力による。
もう一つの議論は、正戦論が決して全会一致で受け入れられることはないことを認めるものだ。国連憲章が往々にして実践的というより理想論的なものにならざるを得ない運命にあることを認識するものだ。
この議論は、世界秩序の存続が強国に依存するわけではないが、米国という最大の強国には依存していることを認識している。言い換えれば、我々の国がアクィナスに傾倒していることが、クラウゼビッツを遠ざけているのだ。
安全保障理事会の常任理事国5カ国のうち、米国・英国・フランスの3カ国だけが国連憲章と国際法に従う状況で、我々はかろうじて世界秩序を維持している。しかし、もし米国がロシアや中国と同様の武力紛争や国際関係へのアプローチを採用すれば、西側の戦後コンセンサスは完全に崩壊する。
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ベネズエラの首都カラカスで2026年1月6日、3日前に米軍に拘束されたマドゥロ大統領の解放を求めるデモのそばに「トランプ:殺人者 誘拐犯」などと書かれた落書きがあった=AP
「アメリカ第一主義」は必ずしも孤立主義ではない。主権国家の指導者を逮捕し、その国を「運営する」と宣言することに孤立主義的な要素はない。だが、それは短絡的で、正義と平和を犠牲に、国家権力の高揚感を追い求めている。
トランプ氏がいま、まさにその高揚感に浸っているのは明らかだ。1月4日の夜、米NBCは、トランプ氏が依然として「我々はベネズエラを運営していく」と発言していると報じた。トランプ氏は「彼らが従わなければ、第2の打撃を加える」と付け加えた。
トランプ氏が考えていたのはベネズエラだけではない。「コロンビアも非常に病んでいる」、キューバは「崩壊しつつある」と彼は述べた。さらにイランが抗議デモ Permalink | 記事への反応(1) | 23:06
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昨年に引き続いて阿部勤也を読んでいる。歴史系の本は雑学が増えて楽しいし、現代で当然とされていることが全く通用しない世界をイメージできるので、自分の価値観が相対化できる(時折正しいかどうかだけが自分の判断軸になり、どう感じているかをおざなりにしがちなので大事)。他には地学や土壌が気になってたようだ。
なお、昨年までやっていた星印の評価はやめにした。同率二位とか三位とかを考えるのが面倒だったからだ。……とか思ってたけどやっぱり直感でやることにした。
乙一「The Book ~jojo’s bizarre adventure 4th another day~」
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コタニヨーコ「夏が、僕らの世界を見ていた」
熊倉献「春と盆暗」
「フリクリ」
特別展「魂を込めた 円空仏 ―飛騨・千光寺を中心にして―」於・三井記念美術館
久し振りに芥川賞を読んで面白いと感じた。自分の好みは、語り手が男性で、非常に知的であるか(丸谷才一をこの年読んだのはそのため)、怒りや暴力性などを抱えている作品にハマることが多い。もちろん例外も多数ある。というか読書の趣味は例外だらけだ。
あとは、高校生以来で「百年の孤独」を再読したが、当時と比べて複雑なストーリーを理解する能力が向上していたとわかったのは嬉しい。
「ジョジョ」や「フリクリ」など、すでに知っている物を手に取ったのはファン心理かもしれないし、これは外れないだろうというある種の安心(または怠惰さ)かもしれない。面白かったけれどね。
志村史夫「古代日本の超技術〈新装改訂版〉 あっと驚く「古の匠」の智慧」
篠田謙一「新版 日本人になった祖先たち―DNAが解明する多元的構造 (NHKブックス No.1255) 」
アシュリー・ウォード「ウォード博士の驚異の「動物行動学入門」 動物のひみつ 争い・裏切り・協力・繁栄の謎を追う」
「生誕150年記念 モンドリアン展 純粋な絵画をもとめて 公式図録」
「生誕100年 ジャクソン・ポロック展 JACKSON POLLOCK[図録]」
丸谷才一「横しぐれ」★★★
「特別展 慶珊寺と富岡八幡宮の名宝―『大般若経』が語る中世東国史―」於・金沢文庫。
また、この月は数年前に行けなかった美術展の図録を買って楽しんだ。たまたま行けなかったり、コロナ禍で自粛してしまったりしたもので、ずっと喉の小骨のように行けなかった後悔にさいなまれていたのだが、すっきりした。
丸谷才一「樹影譚」
ハンフリー・カーペンター「J. R. R. トールキン 或る伝記」
J. R. R. トールキン「農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集」
A. A. ミルン「クマのプーさん Anniversary Edition」
A. A. ミルン「クマ横丁にたった家 Anniversary Edition」
エーリヒ・ケストナー、池内紀訳「飛ぶ教室」★★★
児童文学が多い。「飛ぶ教室」は男子校を卒業して二十年余りの自分にはとても良く刺さった(小さい頃にもらったのだがパラパラめくっただけだった。たぶん自分の中の男性性を求める心が強く目覚めていなかったんだろう。あるいは、一生付き合っていきたいという友人に出会う前だったからかもしれない)。また、今まで触れてこなかったトールキンの作品に触れて楽しかった。これは十二月の洋書による再読の遠因となる。
スタインベックは障害観が少々古いが、無駄な場面がなく、悲劇としての構成が美しい。
J. R. R. トールキン「終わらざりし物語(上)」★★★
湊一樹「「モディ化」するインド ――大国幻想が生み出した権威主義」★
J. R. R. トールキン著、クリストファー・トールキン編「ベレンとルーシエン」
相国寺承天閣美術館開館40周年記念 相国寺展―金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史。
うろこの家・展望ギャラリー、山手八番館、北野外国人倶楽部、坂の上の異人館。
湊川神社宝物殿
いつもの月と比べて大変に少ない。今月は休みの日に読まなかったのと、「終わらざりし物語」が上下巻それぞれ五百ページ超えと大変に長かったためである。四月までの分を加えれば平均して月十冊は読めているし、味わわずに読み飛ばすよりははるかにましである。というか、三月四月と十五冊読んでるじゃないか。プラスマイナスなし。
年始から神道をはじめとした日本の信仰について読んでいる。記紀に記載のない神々や、民間の信仰、仏教との混交などの知識が増え、日本神話についての解像度が上がった気がする。
なお、「クィンティ」はファミコンゲームで、これをスイッチでプレイした。祖父の家に合ったもので子どもの頃はクリアできないなりに楽しんでいた。スイッチの巻き戻し機能を利用してやっとクリアした。
余談だが昨年はクリアしないなりに「パリア」をプレイしたのだった(結局こういうクエストものや箱庭・スローライフものはそこまで好きじゃないというか飽きるとわかった。スローライフと言いながら結局採取や労働をしており、仕事で疲れて帰ってきてやるモチベーションが湧かない)。「Neo Atlas」は二〇二二~二〇二三にプレイしたが結局飽きている。世界を探検するのが好きなのはcivilizationで分かっているのだが、通知がひっきりなしに来るので、これもリアルな仕事と似ていて疲れた。
飯島吉晴「竈神と厠神 異界と此の世の境」
ダニエル・T・マックス「眠れない一族 食人の痕跡と殺人タンパクの謎」★★★
成澤勝嗣「もっと知りたい狩野永徳と京狩野 (アート・ビギナーズ・コレクション)」
狩野博幸「もっと知りたい河鍋暁斎 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)」
稲垣栄洋「生き物の死にざま」
小泉悠、高橋杉雄、太田啓之、マライ・メントライン「ゴジラvs.自衛隊 アニメの「戦争論」」
小塩 真司「「性格が悪い」とはどういうことか ――ダークサイドの心理学」
綾辻行人「どんどん橋、落ちた」
櫻井武「SF脳とリアル脳 どこまで可能か、なぜ不可能なのか」
安田峰俊「民族がわかれば中国がわかる 帝国化する大国の実像」
「ACN ラムセス大王展 ファラオたちの黄金」於・クレヴィアベース東京
軽めの本が多め。
この後読む皇族の本も含め、学問の世界の厳しさに触れる本が多かった。知識を蓄えるのではなく、同じ問題にずっと取り組み続け、微細な差異や違和感に疑問を持つ才能がないと、研究者としてやっていくのは難しい(これはうまくできなかった自分を慰めている側面もある)。
脳科学については、著者の主張や意見のウエイトが大きく、前々から気になっていた意識や心の哲学についてはそこまで突っ込めなかった。ジャンル全体の概観をつかむだけなら、おそらくウィキペディアを拾い読みしたほうが早いか。
自分がよく思うことは、世界規模戦争と全国規模メディアは、その当時に新規に発明されたもので、
後付でここがおかしいと言うことはできるが、それに関して言うと現代ではSNSが危険だとよく言われる
SNSも発明されて15年が経ち非常に進化と深化と分化が起きている
公共メディアが国が滅びたという過去の反省で不偏不党の原則を身につけたとすれば、
斎藤氏の反軍演説は確かに存在したので、当時が戦争に全面的に傾いていたとしても
日本人はやることはやっていたということが分かった
東大の南原繁のように好戦論?を言ってて撤回したというのもあるし
メディアの暴走については、明治新政府下で一等国になりたいとして、
農民の税金しかないのに高価な軍艦を買ったりして、好戦論を政府一丸となって宣伝してきた明治政府の責任というのがあると思うので、
そこから昭和の世界規模戦争論に見事に引き継がれてしまったので、メディアがそこまで責任があるのかというと疑問を持ってしまう
世界のことを何も知らない市井の人をうまく騙して、貧しい農民から税金をせしめて軍備を揃えた
大日本帝國そのものが戦争帝国としての側面とも言えない、主要な弾丸としての性質を持っていた
尊王攘夷の攘夷を70年にわたって戦争帝国としてやって、それが終焉した
その後はなんであれ外圧を利用しようがなんであろうが通常国になった
非戦の通常国としても、これも初めての体験であるので、いろいろ戸惑っている面がある
中世の西洋で、どの国もどの領主も、戦争装置として動いていたので
人間の本性として、行くところまで行った
戦争の被害については、気の済むまで各国がやった結果、反省するようになった
気が済んでない国については、好戦論をいまだに展開している
まず大体に於て、人間の空想も、一九四五年八月六日のバクダン以前までは、科学とトコトンのところまで、行っていた。
我々の祖先の無限の空想力といえども、その魔法、神通力、忍術のすべてをあげて、八月六日のバクダンを夢みてはいないのである。
夢みることができなかったのだ。
このバクダンに至って、そのエネルギーは、ついに空想をハミダシ、空想の限界を超えてしまったのである。
筑紫なる梅のオトドが雷となって落ちたところで、せいぜい千ポンドバクダンぐらいのことだろう。
筑紫一国、山の狸も、池のミミズに至るまで、ピカドンという一瞬に焼けてなくなるなどゝは、誰一人、夢想することも出来なかった。
空想の限界を超えるに至っては、これはもはや人間のものではなく、まさしく悪魔の兇器である。
それのもたらす被害は、当然利益よりも甚大であり、今日まで戦争がもたらした効能も、
この悪魔のバクダン以後は、ついに被害を上廻ることは出来ないであろう。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43143_31893.html
児童子どもに「金融リテラシー」を持たせるために『ナニワ金融道』『闇金ウシジマくん』を授業で読ませろ、扱えっていってた連中。
「政治のリアルな戦略」「外交のリアリズム」を考えさせるためにボードゲームの『フンタ』『ディプロマシー』を授業でやらせろっていってた連中。
『はだしのゲン』より小林よしのりの漫画読ませたほうが平和教育になるって言ってた奴もいつかいたな。
お前らだよお前ら。自称リアリストのSNSでクソすることしか生き甲斐のない連中。
ちゃんとそのための運動やってるか?子どもいるなら自分の子どもにちゃんと読ませてるか?いないなら親戚や近所の子どもにそうするように仕向けてるのか?
SNSや5ちゃんだけじゃなくて学校や教育委員会や新聞やテレビや地元の議員にもちゃんと影響力及ぼせる実名形式署名形式で運動してるのか?
子どもがウシジマくんやゴーマニズム宣言戦争論読んでる光景を作り上げて具体的に何がしたいんだ?