はてなキーワード: ブルデューとは
ディスタンクシオンは文化資本元増田の源流にあるブルデューの著作。ディスタンクシオンを直訳すると「区別」になるらしいが、フランス語の語義では「他から区別された」→「特に優れた」→「卓越した」と派生し「卓越化」を訳語としている。訳者は石井洋二郎先生。東京大学の名誉教授。凄い。
文化資本が家庭環境と学校教育の両方によって形成されるものであること
これを念頭に置いた上で、初めて文化資本を捉えることができる。
元増田が話す通り、これが本質。文化資本に恵まれれば「強くてニューゲーム」になる。ここで学校教育機関が登場する。学校は相対文化資本を学歴資本に転換していくもの。そして教育は家庭環境による文化資本の差を拡大する可能性を秘めている。これは上にも下にも働く作用する。学校は教育機関である故に「身分振り分け効果」を見えざる機能としている。
学歴資本を手に入れた人間は、最終的に〇〇大卒という肩書きを手に入れ、社会的承認を得ることになる。社会的承認は文化資本を所有している証明でもある。これを持たない人間は、なんらかのパフォーマンスによって、自分が所有する文化資本の価値を証明する必要がある。これは貴族に比喩される。貴族は「貴族であるから貴族」。日本ならば、天皇は「天皇であるから天皇」である。文化資本のパフォーマンスが要求されることなく、それが本質であること。これを「本質主義」とブルデューは呼んだ。
「東京が文化資本に富んでいる」これを疑問視する意見、あるいは否定的な意見が目立った。先に本質主義の話をした。客体的に東京=優れていると考える人が多いことは、本質的に東京の文化資本を証明している。
これらを捉えれば「東京」とは客体化された形態の文化資本を持っており、文化資本に富んでいることが東京の本質である。
ディスタンクシオンの第1章では美的思考について長く語られている。「趣味や美的思考は人々を区別するものでもある。これが文化的階級に繋がってくるし、諸階級間を隔てる最も超えにくい障害のひとつ」と物凄く端的にまとめた。で、問題なのは。美術館に行くことが身体化された形態の文化資本につながること。これを考えてしまうと、あながち使い方として正しいのかもしれない。もちろん社会資本としていってんだろと感じなくもないが。
ここで散々議論されている「東京の文化資本は田舎より優れているか問題」ですが、問の立て方から既に分断が起きています。
その分断とは「文化資本」を単なる「文化」の意味で使っている人と、ピエール・ブルデューのいう「文化資本」の意味で使っている人たちの分断です。
前者はいわゆる一般的に浸透した意味での「ロリコン」や「蛙化現象」と同じように、言葉の本来の意味を調べずに、なんとなく雰囲気で喋っているタイプの人たちです。
ブルデューのいう文化資本は、①家庭における②学歴や社会的地位や経済資本の再生産に結びつきやすいものを指すので、東京田舎うんぬんの話は文化資本とは関係ありません。
前者のような人たちに正しい言葉の意味を教えるのはほぼ不可能なので、後者のみなさんは諦めましょう。彼らは文化資本に恵まれなかったのです。
https://anond.hatelabo.jp/20240530065636
はてな民がこれ毎回完全に間違えてるのを訂正しても一向に直らないんだけどさ
今どきのはてな民はブルデューも読まないとかマウント取るつもりはないけど、ググればわかることですよね?AIに聞くのでもいいけどさ
Objectified:楽器、絵画、本など、物理的な実体があるもの。物理的な資本
Institutionalized:学歴などシステムが担保するもの。制度化された資本
Embodied:能力、センス、言葉の使い方など、ハビトゥス。身体化された資本
だが結局どれもそれが最終的に「個人」に紐づいて継承され再生産され格差を生み出しっていうところが一番の論点なわけ。
「東京」vs「地方」みたいなまとめブログのネタみたいな糞みたいな解像度の話を何回やっても意味も価値もない。
東京の世界ランクなんかよりまず気にするべきはお前の世界ランクだ。
いや本気で学術的にやれば多少は意味はあるかもしれんが、お前らが目の前のレスバに食いつくのは
自分の置かれている現状から目をそらすために使ってるに過ぎないからしょうもない。
実際に東京/地方で実際にお前やお前の子供は何にアクセス可能で何を継承して何を保有していて何の能力を身につけたい/身につけさせたいのか?
そんな話はしたくない?
これは全く同意見。この枠組みは、ブルデューの言うハビトゥスに近いものがあると感じてる。彼らが、友人と議論し、切磋琢磨する過程で身につけたものと、全く同じものは、独学で身につけられないだろうが、しかし、技術的に近いものは身につけられるはず。そう思い、自分も、身につけたい「常識」を毎日勉強してる。大学の勉強もそれに含まれる。ある意味、彼らと同じような「正規の教育過程」を経てないので、その分、なおさらがんばらなければいけないと思っている。
余談になるが、自分のいた研究室の教授は、超自然的な直感で、実験前に実験結果の数値を予想していた。実験すると、たしかにそうなる。他の助教やPhDの理解を超越していた。あれは一種の天賦の才に近いところがあったと思う。
まず、妻の学力の低さが子供に遺伝することは無いと言って良いと思う。
子供の学力は遺伝ではなく、生活環境による影響が大きいのを理解してほしい。
そして、その生活環境を整えられるかが難しいのだが、
18世紀にフランスの社会学者ブルデューが提唱した「文化資本」を意識してほしい。
例えば小学生の子供が夕方学校から帰ってきて、宿題を終わらせたとしよう。
晩御飯を食べ、お風呂へ入り、寝るまで1〜2時間の時間が空いた時、何をするだろうか。
クソみたいなテレビ番組を見るのか、クソみたいなYoutuberの動画を見るのか。
そうではなく、本を読んだり、楽器を演奏することを子供が選択できる家庭環境を作ってほしい。
「テレビなんか見てないで本を読め」、「Switchやってないでピアノの練習しろ」
なんて言っても、もちろんなんの意味もない。
母親がアパレルに興味があるんだったら、図書館で借りてきた世界のファッションのビジュアルブックなんかを一緒にパラパラ見るだけで子供は本好きになる。
北田が最初に示したのは操作定義なんかではなく、「2章議論の復習」(北田 2017:262)だよ。
2章を読めばわかるけど、アニメを趣味に選択したこととアニメがきっかけでできた友達がいるの偏相関係数が比較的高い。
そのことから「友人関係の連関が密接」(ibid:100)と考えるのは飛躍しすぎではない。
また、趣味の組み合わせでカイ二乗検定を行った結果「アニメ×マンガ」「アニメ×ゲーム」で正の関係があったことから(ibid:101)、マンガの二次創作に興味がある≒アニメの二次創作に興味があるとしたことにも飛躍はない。
勿論完全には重ならないのも確かなんだけどね。
ただ、趣味で繋がる人間関係がどんな感じなのか肌でわかってないという意見には賛同できない。
北田がなぜこの調査を行ったかと言えば「ブルデュー理論の濫用」(ibid:13)のカウンターであり、「「ブルデュー以降の、新しい文化社会学の方法基準」を提示しうる教科書」(ibid:17)として出版されたわけで、何か具体的な仮説を元に調査されたわけではない。
だからこそこの本はインタビューのような質的調査とは異なる視点からアプローチをかけている。
ここらへんは文化社会学の「文脈」って奴だけど、昔の研究は実践者たちの言説のみを重視してたけど、近年の研究では逆に批判の的になる(例えば、辻 泉・岡部 大介・伊藤 瑞子編,宮台 真司監,2014,『オタク的想像力のリミット: <歴史・空間・交流>から問う 』筑摩書房)。
この本も同じで、実践者たちの直感なんてあやふやなもの(例えば増田がいった「オタクの本質」ってなに?)だけに頼らなくても良くない?ということが言いたいんだと思う。
何かおかしいんじゃないの?ってあら探しで読むより、こういう仮説も立てられるかもねって視点で見た方がよっぽど面白いし、増田のためにもなるよ。
同意するかはまた違う話だけど。