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2014.02/28 [Fri]
秀吉と長浜(6)長浜から竹生島へ
- ジャンル:[旅行]
- テーマ:[歴史・文化にふれる旅]
2011年9月に竹生島を訪問しました。
長浜港から竹生島クルーズで30分で到着。
この日は、朝から雨が降ったりやんだりのあいにくの天気でした。
晴れていたら、もっとくっきりと琵琶湖が見渡せたでしょう。
「延喜式」式内社の都久夫須麻神社(竹生島神社)と西国三十三所観音霊場第30番札所・宝厳寺があります。明治時代初期の神仏分離までは、宝厳寺が都久夫須麻神社の別当をつとめていました。
船着場から祈りの階段といわれる急な階段を167段のぼると、竹生島弁才天があります。
宝厳寺・竹生島弁才天
竹生島弁才天は、江ノ島神社、厳島神社と並んで日本三大弁天のひとつに数えられています。平安時代以降、竹生島弁財天社として信仰を集めてきましたが、神仏分離により、宝厳寺に属することになりました。
宝物館
唐門
この門は慶長7年(1602年)に京都・東山の豊国廟の唐門(極楽門)を移築したもので、観音堂に接続しています。
観音堂
入母屋造檜皮葺き。西国三十三所観音霊場第30番札所で、本尊の秘仏千手観音立像(鎌倉時代)を安置する。
舟廊下
宝厳寺観音堂と都久夫須麻神社を結ぶ屋根付きの廊下。
豊臣秀吉の御座船の用材を用いて建てたという伝承から「舟廊下」と呼ばれています。
本殿
都久夫須麻(竹生島)は、湖水を支配する浅井姫命(あざいひめのみこと)を祭神とする古社で、「つくぷしま」は竹生島の古名だといわれています。
都久夫須麻神社の社伝では、雄略天皇3年(420年)に浅井姫命を祀る小祠が作られたのに始まると伝え、「近江国風土記」には、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が、浅井姫命の首を斬ったところ、湖に落ちた首が竹生島になったという記述があります。
伏見城の建物が神殿として寄進されたもの。(この時はあいにく修復中でした)
拝殿の琵琶湖側に突き出たところにある竜神拝所では、かわらげに願い事を書き、鳥居へと投げるかわらけ投げが有名です。
投げたかわらけが鳥居をくぐれば、願い事が成就するとも言われています。
この時は、時間の都合で見られなかった竹生島の宝厳寺の「竹生島奉加帳」が、江戸東京博物館の展示に出品された際、見ることができました。
この奉加帳には、秀吉が長浜城主時代に、側室・南殿との間にもうけたとされる幼名・石松丸(秀勝)の名前が、母・南殿と共に記されています。
石松丸の名前の下には「御血の人」とあり、秀吉との血縁関係を強調してあります。
秀吉と正室・ねねとの間には、子がなかったため、石松丸は、秀吉にとっては初めての男児でしたが、6歳で夭折したたとされています。
秀吉は幼くして亡くなった石松丸を偲ぶためか、彼の名である「秀勝」を養子の羽柴秀勝や豊臣秀勝名乗らせています。
滋賀県長浜市の妙法寺には、秀勝の肖像画が所蔵されていましたが、焼失してしまい、現存していませんが、平成14年墓所を現境内に移しした際、長浜市教育委員会歴史文化課の発掘調査により、安土桃山時代初期大名様式の「石囲い箱棺墓」が出土したそうです。
(画像:妙法寺HP)
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長浜港から竹生島クルーズで30分で到着。
この日は、朝から雨が降ったりやんだりのあいにくの天気でした。
晴れていたら、もっとくっきりと琵琶湖が見渡せたでしょう。
「延喜式」式内社の都久夫須麻神社(竹生島神社)と西国三十三所観音霊場第30番札所・宝厳寺があります。明治時代初期の神仏分離までは、宝厳寺が都久夫須麻神社の別当をつとめていました。
船着場から祈りの階段といわれる急な階段を167段のぼると、竹生島弁才天があります。
宝厳寺・竹生島弁才天
竹生島弁才天は、江ノ島神社、厳島神社と並んで日本三大弁天のひとつに数えられています。平安時代以降、竹生島弁財天社として信仰を集めてきましたが、神仏分離により、宝厳寺に属することになりました。
宝物館
唐門
この門は慶長7年(1602年)に京都・東山の豊国廟の唐門(極楽門)を移築したもので、観音堂に接続しています。
観音堂
入母屋造檜皮葺き。西国三十三所観音霊場第30番札所で、本尊の秘仏千手観音立像(鎌倉時代)を安置する。
舟廊下
宝厳寺観音堂と都久夫須麻神社を結ぶ屋根付きの廊下。
豊臣秀吉の御座船の用材を用いて建てたという伝承から「舟廊下」と呼ばれています。
本殿
都久夫須麻(竹生島)は、湖水を支配する浅井姫命(あざいひめのみこと)を祭神とする古社で、「つくぷしま」は竹生島の古名だといわれています。
都久夫須麻神社の社伝では、雄略天皇3年(420年)に浅井姫命を祀る小祠が作られたのに始まると伝え、「近江国風土記」には、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が、浅井姫命の首を斬ったところ、湖に落ちた首が竹生島になったという記述があります。
伏見城の建物が神殿として寄進されたもの。(この時はあいにく修復中でした)
拝殿の琵琶湖側に突き出たところにある竜神拝所では、かわらげに願い事を書き、鳥居へと投げるかわらけ投げが有名です。
投げたかわらけが鳥居をくぐれば、願い事が成就するとも言われています。
この時は、時間の都合で見られなかった竹生島の宝厳寺の「竹生島奉加帳」が、江戸東京博物館の展示に出品された際、見ることができました。
この奉加帳には、秀吉が長浜城主時代に、側室・南殿との間にもうけたとされる幼名・石松丸(秀勝)の名前が、母・南殿と共に記されています。
石松丸の名前の下には「御血の人」とあり、秀吉との血縁関係を強調してあります。
秀吉と正室・ねねとの間には、子がなかったため、石松丸は、秀吉にとっては初めての男児でしたが、6歳で夭折したたとされています。
秀吉は幼くして亡くなった石松丸を偲ぶためか、彼の名である「秀勝」を養子の羽柴秀勝や豊臣秀勝名乗らせています。
滋賀県長浜市の妙法寺には、秀勝の肖像画が所蔵されていましたが、焼失してしまい、現存していませんが、平成14年墓所を現境内に移しした際、長浜市教育委員会歴史文化課の発掘調査により、安土桃山時代初期大名様式の「石囲い箱棺墓」が出土したそうです。
(画像:妙法寺HP)
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いってみたい
江でも有名になりましたね、東からも、北からも、西からもよくみてるんですか。
大昔は、浜大津からはり丸という船で1日に観光船がありました。それも乗らずじまいでした。
今津から竹生島にいって長浜にいったらいいですね。