はてなキーワード: 構成員とは
場合は白バスじゃないらしい。バスと運転手の両方を有料で調達すると白バス行為になるんだそうです。
例としては、送迎スクールバスや、大きい工場が最寄り駅から社員を運ぶシャトルバスがあって、バス会社などが運行委託されてやってることがあるけど
日本の戸籍制度は、明治維新以降、国家が国民を把握し、統治するための基盤として機能してきた。1889年に公布された明治憲法(大日本帝国憲法)下では、「家」という共同体を基礎単位とする制度が確立された。戦後、1947年の日本国憲法制定に伴い、個人の尊厳と両性の本質的平等が謳われ、戸籍制度も「家」単位から「夫婦とその未婚の子」という核家族単位へと改められた。
しかし、この戦後の改革から70年以上が経過した現在、社会構造の変化や価値観の多様化に伴い、現行の戸籍制度には深刻な「歪み」が生じている。本稿では、明治憲法下および現行制度の変遷を概観した上で、その限界を指摘し、21世紀の日本にふさわしい「子を中心とした戸籍制度」への転換を提言する。
明治憲法下の戸籍制度は、戸主が家族員(家族)を統率する「家制度」を法的に裏付けるものであった。これは儒教的な家父長制に基づき、家系の継続を最優先するシステムであり、個人は「家」の構成員としてのみ存在が認められていた側面が強い。
1947年の民法改正および戸籍法改正により、この家制度は廃止された。新制度は、日本国憲法第24条が定める「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」するという理念に基づき、一組の夫婦とその子を一つの編綴単位とした。これにより、個人の権利は大幅に強化され、日本の民主化を支える家族観の礎となった。
民主化の進展という功績がある一方で、現行の「夫婦単位」の戸籍は、現代社会において以下の三つの大きな「歪み」を露呈させている。
離婚・再婚の増加、事実婚、別姓婚へのニーズ、さらにはひとり親家庭の一般化など、現行の「法律婚に基づく夫婦」という枠組みでは捉えきれない家族形態が増加している。戸籍が「婚姻」を起点とする以上、そこから外れる個人は法的な「世間体」や手続き上の不利益を被ることが少なくない。
現行制度は、夫婦が同一の氏を称することを強制(あるいは強く誘導)している。これが選択的夫婦別姓議論の停滞を招き、個人のキャリアやアイデンティティの継続性を阻害する要因となっている。戸籍が「夫婦というセット」を管理の単位としているために、個人の尊厳が二の次になっている現状がある。
現行の「300日規定(離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子と推定する)」などの民法規定と連動した戸籍制度は、母親がDV等の事情で出生届を出せないケースを生み、結果として「無戸籍児」を発生させている。これは、戸籍が「親の関係性(婚姻状態)」を証明する装置であることを優先し、一人の人間としての「子の存在」を二の次にした結果と言える。
これらの歪みを解消するためには、戸籍の編綴単位を「婚姻(夫婦)」から「出生(子)」、ひいては「個人」へと抜本的にシフトさせる必要がある。ここで提言する「子を中心とした戸籍制度」とは、「一人の人間がこの世に生を受けた瞬間から、その個人を独立した主体として登録し、親の婚姻状況に左右されない永続的な記録とする制度」である。
「子を中心とする」とは、すなわち「個人単位」の戸籍への移行である。出生と同時に個人固有の戸籍(あるいは個人登録)を作成し、そこに親権者や氏名の情報を紐付ける。これにより、親が結婚しようが離婚しようが、その子の戸籍の「一貫性」は保たれる。
現在の戸籍は、親の離婚によって子が「除籍」されたり、転籍したりといった移動を伴う。これは子にとって、自分のルーツが親の都合で書き換えられるような不安定さを強いるものである。子を中心とした制度では、親の関係性はあくまで「付随的な属性情報」となり、子のアイデンティティの核を揺るがすことはなくなる。
子を中心とした制度であれば、法律婚、事実婚、養子縁組、あるいは単身での出産など、どのような形態で生まれてきても、法的な位置づけに差別が生じない。婚姻届によって新戸籍を作るのではなく、個人の記録に「パートナーシップ情報」を追記する形式をとれば、夫婦別姓問題も技術的に容易に解決可能となる。
この転換により、以下の効果が期待される。
誰の子であるか、どのような支援が必要かという情報が、親の婚姻状態に左右されず行政に把握される。
姓の選択や家族のあり方が戸籍の形式に縛られず、真の意味で「個人の尊厳」が確立される。
一方で、課題も存在する。日本社会に根強く残る「家としての連続性」を重んじる感情的な抵抗や、相続・扶養といった既存の法体系との整合性をどう図るかという点である。しかし、血縁の証明や親族関係の把握は、デジタル化された個人単位のデータベースを連結(リンケージ)させることで十分に代替可能であり、技術的な障壁はもはや存在しない。
明治の「家」中心から、戦後の「夫婦」中心へ。日本の戸籍制度は、その時々の国家像を反映して変遷してきた。しかし、少子高齢化と価値観の多様化が極限まで進んだ現代において、既存の枠組みはもはや限界に達している。
次世代を担う子供たちが、親の事情や社会的な偏見に縛られることなく、一人の自立した個人としてその存在を国家に公証されること。それこそが、憲法が掲げる「個人の尊重」の真の達成である。今こそ、過去の「家」の残滓を払拭し、「子(個人)」を起点とした新しい社会契約としての戸籍制度を構築すべき時である。
私はオッサン。
ひとりで
買い物に行くことが多い。
そのスーパーに行くために
ショッピングセンターの大きな通路を歩く。
それほど人は多くない。
とはいえ、閑散としているわけではない。
このとき、家族連れ、カップル、などがどのような進路を取るか?
左・真ん中・右
の3つに分けたい。
これはどちらから見たらとかではなく、
主語が私でも
左は左と仮に区分された同一の帯域であり、
私に向かって歩いてくる。
という問題がある。
お互いにすれ違うまでに40秒ほどかかる距離があるとする。
私のほうは、彼らが視界に入った瞬間に彼らに気づく。
私はひとりだし、他のことに気を取られていることもなく歩くことに集中してるからだ。
では、彼らの方は?
おそらくは気づいていない。
彼らの視界に私は捉えらえられているはずである。
私が見えている以上、彼らも見えている。
彼らグループであり、彼らは彼ら自身の世界の中に入り込んでいて周りが見えなくなっている様子だからだ。
さて、そういうときに彼らは、何処を歩くのか?
そこに彼らが通路を曲がって私の方向へと向かってくる。
グループはその直後、しばらくのあいだ通路の何処を歩くのか定まらない。
右へ行くのか左へ行くのか?それはグループ自身にもよくわかってなくて、
しばらく歩んでから定まる。
パターンとしてはまず右を歩き始めて、だんだんと左へとレーンチェンジしていったり、
あるいはその逆もあるし、
あるいはレーンチェンジが起こらずにそのまま直進してくることもある。
そして、そのしばらくの逡巡があった後にそのグループは何処を歩くのか?
これは驚くことに百パーセントの確率で私が歩く通路を選択するのだ。
私が右を歩いていれば右を
私が左を歩いていれば左を
私が真ん中を歩いていれば真ん中を。
……そんなことがあるわけないだろ、
と私自身も思っていたのだが、
そして、20回の記録を取ってみたのだが、すべて上記の結果となった。
これはどういうことなのか?
この状態で進んでいくと、必ず私と彼らは衝突することになるので回避運動を取ることになる。
彼らは、私が視界に入っているが私に気づくのは本当に衝突するまでのほんの少しの距離になってからである。
彼らには、彼らの世界があって閉じているから外界に対しての注意力は低いし、ましてや私は目立たないオッサン一人である。
これは実験してるわけでもないので断言できないが、
もしも私が露出度の高い10代の女子学生とかだったら、彼らはすぐに私の存在に気づくことだろう。
そのグループの構成員が男性中心・女性中心であるかに関わらず、遠い距離からでもすぐさま注目を集め私の存在に気づくはずである。
さて、ここまで読んで矛盾していることに気づいてもらえると思う。
私は、彼らの意識には入っていないはずなのに、
私が歩いている通路帯と、彼らが選択する通路帯が一致するのはおかしいだろ?と。
本能として、
人間がいれば、
ということである。
私が定義した、彼ら、のことを思い起こして欲しい。
彼らはグループで彼ら自身の世界の中に閉じていて外界に注意が向いていない。
私のことは視界に入っているが、意識には登っていない。
私は、そのことを証明するために、いくつか行動を起こす実験をした。
一度立ち止まり、
くるっと180度回転して、
逆方向へと歩いた後に
再び180度回転して
元の方向へと歩いていく。
すると、何が起こるのか?
そのときに私が目にするのはグループが私のことを避ける方向へと進路変更するということである。
とくに若い女性が混じっているグループなどではそれが顕著に起こる。
もちろん中にはそのような行動が起こらないパターンもある。
私はこう考える。
それまで視界には入っていたものの意識にはなかった私という存在が
私の通常とは(ただ真っ直ぐ歩く)異なる挙動をしたために彼らの意識にようやく入ることが出来たということだと。
無意識おいては
なぜそれいえるか?
それは私が特殊な行動をしない限りは、彼らは私が歩く通行帯を100パーセントの確率で選択するからである。
おそらくは、人は本能的には他者と接触することを好む傾向にある。
いわゆる、日本の暴力団、街宣右翼の構成員は在日朝鮮人、被差別部落などがいて、
理由は孫正義の父親とかと同じ、堅気な職業に就けないからである…😟
私は日本人だし、一応名家?ではあったので、自分の家の何代目みたいな資料がある、
少なくとも江戸時代とかまで先祖を遡れるのだけど、ナルトかよ、みたいな…😟
街宣右翼は、ああいった街宣行為とか、脅迫とか脅しを代理でやることで稼いできた、
日本男児の歌とか流してるが、実態は日本人ではない人が多くいた、
もしくは、日本人ではあるが、堅気の仕事に就けない、前科があるとかであった、
中国政府は中国人マフィアを国外追放にした、彼らは東南アジアに移り、
犯罪者の街を作るようになった、ホテルを丸々犯罪のために買い取って占拠したりした、
彼らはそこでオンラインカジノを経営し、日本国内でも広告が出るようになり、
求人広告には、コンピュータ関連の技術者に東南アジアで高額報酬の仕事がある、
あの最近も話題の犯罪者の街に連れていかれ、強制労働させられるのである…😟
次第にそういった「スカウト」行為は、中国以外の国にも求人広告が出るようになり、
ネットでも出るようになり、日本の高校生がのこのこと行って帰ってこれなくなったり、
何の関係もない、落ち度もない旅行客まで拉致されて、強制労働させられるようになった…😟
https://x.com/ShinHori1/status/1959251555967717768?s=20
以下引用
自分は「ネトウヨ」という言葉は基本的に使わないようにしている
"ネット民は全員なんだからそんなの無意味だろ"と言われるかも知れないが、要は"someネット民"という意味である
→
例えば「A」という言動を批判したい時は「Aをネット民が言っている」といって非難すれば良いし、「B」の主張を批判したい時は「ネット民がBと言うが…」と批判すれば良い
("ネット民"の前には"some"が省略されてる)
つまり「Aと言ったネット民」「Bを主張するネット民」と呼べば特定は十分である
→
→
ここで「ネトウヨ」や「○○派」の用語を使ってしまうと、まるで本質を持つ塊や実体が存在して、それが「A」「B」を一貫して主張しているかのような錯覚に陥るが、実際は人間も個々バラバラであり、必ずしも一貫性やまとまりがあるわけではない
東大生の女子比率は約21%。つまり、男女比は大体4対1である。女の「上昇婚」なるものが発生する理由は、ここから簡単に導く事が出来る。
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z1304_00330.html
2002年の男女共同参画推進委員会設置以降、さまざまな取り組みを進めてきましたが、東大構成員の男女比はいまも歪なまま。学部学生の女子比率は約21%、教員の女性比率は約16%にとどまります(2024年度)。
共学の高校で、男子が5人、女子が5人、計10人のクラスがあったとします。
成績順で男子の1位は女子の1位と、男子の2位は女子の2位と、…それぞれ同じ順位の異性と付き合っていました。
受験の結果、男子は成績の上位4位までの4人が東大に入り、5位の1人だけが東大よりも1ランク落ちる早慶辺りの大学に入ります。
これに対し、女子は成績1位の1人だけが東大に入り、他の4人は東大よりも1ランク落ちる大学に入ります。
大学進学後も同じ組み合わせでの交際が続いたため、1位同士は東大生同士、5位同士は1ランク落ちる大学の学生同士のカップルです。それに対し、2〜4位同士は東大生と1ランク落ちる大学の学生のカップルとなります。
そして、大学の違いは「学歴フィルター」によって、就職できる企業及び就職後の収入に反映されます。
こうして5分の3の女性が「上昇婚」(5分の3の男性が「下方婚」)した事になるのです。
また、実際には女子の5位は1ランクと言わず2ランク下の大学に行く可能性があるため、ここも「上昇婚」になれば5分の4が「上昇婚」となるでしょう。
【独自】「斧投げればわかると」朝鮮総連本部に斧投げ込んだか 右翼団体の男(53)逮捕 関係先を家宅捜索 「抗議文投函してもミサイル発射やめないので」
今月19日、東京・千代田区の朝鮮総連の本部に斧が投げ込まれ、右翼団体「国家主義思想団体会議」構成員の金子秀勝(53)容疑者が銃刀法違反の疑いで逮捕された事件。
警視庁公安部はきょう、金子容疑者の関係先として、千葉県富津市にある別の右翼団体の事務所を家宅捜索しました。
捜査関係者によりますと、金子容疑者は容疑を認めたうえで、「抗議文を何度か朝鮮総連に投函してもミサイル発射を一切やめないので、斧を投げればわかってくれると思った」と供述しているということです。
【独自】「斧投げればわかると」朝鮮総連本部に斧投げ込んだか 右翼団体の男(53)逮捕 関係先を家宅捜索 「抗議文投函してもミサイル発射やめないので」
今月19日、東京・千代田区の朝鮮総連の本部に斧が投げ込まれ、右翼団体「国家主義思想団体会議」構成員の金子秀勝(53)容疑者が銃刀法違反の疑いで逮捕された事件。
警視庁公安部はきょう、金子容疑者の関係先として、千葉県富津市にある別の右翼団体の事務所を家宅捜索しました。
捜査関係者によりますと、金子容疑者は容疑を認めたうえで、「抗議文を何度か朝鮮総連に投函してもミサイル発射を一切やめないので、斧を投げればわかってくれると思った」と供述しているということです。
【独自】「斧投げればわかると」朝鮮総連本部に斧投げ込んだか 右翼団体の男(53)逮捕 関係先を家宅捜索 「抗議文投函してもミサイル発射やめないので」
今月19日、東京・千代田区の朝鮮総連の本部に斧が投げ込まれ、右翼団体「国家主義思想団体会議」構成員の金子秀勝(53)容疑者が銃刀法違反の疑いで逮捕された事件。
警視庁公安部はきょう、金子容疑者の関係先として、千葉県富津市にある別の右翼団体の事務所を家宅捜索しました。
捜査関係者によりますと、金子容疑者は容疑を認めたうえで、「抗議文を何度か朝鮮総連に投函してもミサイル発射を一切やめないので、斧を投げればわかってくれると思った」と供述しているということです。
【独自】「斧投げればわかると」朝鮮総連本部に斧投げ込んだか 右翼団体の男(53)逮捕 関係先を家宅捜索 「抗議文投函してもミサイル発射やめないので」
今月19日、東京・千代田区の朝鮮総連の本部に斧が投げ込まれ、右翼団体「国家主義思想団体会議」構成員の金子秀勝(53)容疑者が銃刀法違反の疑いで逮捕された事件。
警視庁公安部はきょう、金子容疑者の関係先として、千葉県富津市にある別の右翼団体の事務所を家宅捜索しました。
捜査関係者によりますと、金子容疑者は容疑を認めたうえで、「抗議文を何度か朝鮮総連に投函してもミサイル発射を一切やめないので、斧を投げればわかってくれると思った」と供述しているということです。
なるほど。
相対主義をやっているのではなく、事実から演繹的に普遍的倫理を求めることを希求しているのだ、という立場だね。
懸念は外れていたようでよかった。
で、その意見によって俺の立場の違いがより明快になったのだが。
俺が思うに、その希求は上手くいかない。「普遍的倫理」は存在しないからだ。上手くいかないまま、やはり決断できないまま永遠の時間を過ごすか、あるいは自分の個人的欲望が混ざった結果を歴史的・普遍的と誤って呼ぶかのどちらかになると思う。
俺は倫理について、カントとかではなく、コミュニタリズムの立場をとっている。サンデルで有名なやつね。「人を殺してはいけない」みたいな、当たり前みたいな倫理観すらも、ヒトの生物的本能から、ヒト社会の構成員多数が死ってものに否定的な感情を持っているだけで、本質的にお気持ち多数決に過ぎない。証明や計算で得られるなにかは存在しないと思う。
だから、相対主義の弊害から脱して、何がしかの倫理的評価をせねばならないときは、俺たちはどこかで、自分はこのコミュニティ(=西欧人権思想を元とする社会のこと)に属するのだ、と、自覚的か無自覚かに関わらず、決断せねばならないと思う。
もしも西欧中心的な決断を避けるのであれば、それは例えばイスラム中心的な決断をしているだけで、どちらでもない価値中立的でより公平な立場、みたいなものは存在しないと考える。
もちろん、地域の正確な歴史的事情を把握することは、無意味ではないのだけど、それは結局「歴史的事情を鑑みると、西欧的価値観からいって善or悪」といった判断がより正確になるに過ぎないのではないか。
あるいは、歴史を精査することによって、善悪ではなく、強いか弱いかの判断が正確に下せるようになるかもしれない。虐殺をするような政権は、そして積極的に戦争をするような国は、結局のところ支持を失い滅びる、みたいに。これは、もしかしたら善悪などよりはるかに重要で有用かもしれないが、しかしそれでも、倫理的判断とは異なるはずだ。
俺は、俺個人が現時点で決断した倫理判断として、やはりシーア派というのは邪悪寄りなのだろうと考えている。
そして歴史的に言うならば、弱い宗教思想でもあり、遠からず(と言っても俺が死んだずっと後)に滅びるだろうとも思っている。
政権の話をするならば、トランプが空爆して、現地出身の人たちが喜んだのなら、それはやはりそういうことなのだろう。
この明確な判断は、今の俺より正確な歴史経緯を踏まえた上でも、覆るようには思われない。あるとすれば、例えば、人権、という価値を軽んじるコミュニティに基づいた判断をすると決断したときであろう。
なので、歴史の話を始めたお前に対して俺は「お前は西洋人権主義を軽んじて別の、もしかして相対主義に与しようとしているか? それは自覚してのことか?」と問いたくなってしまったわけだ。
昔を知っている人ならわかるとおもうけど、歴史改変も甚だしいよね、という話である。自分は2002年に某国立大学の情報系学部に入学したおっさんで、今は結婚して平凡な日々を過ごしている。で、女子枠を正当化するために持ち出される「女子にやたら言い寄る情報系男子」「女子を侮蔑する情報系男子」「女性が来るや否や特別視して騒ぐ男性」なる存在だけど、あれは少なくとも自分の知る範囲では、はぐれメタル並みにレアキャラだった。本当に。
後述する学園祭実行委員会絡みで他大学との交流もあったけど、このへんはまあぶっちゃけ大同小異だった。
もちろん、女子目線でいえば「キモい」男子は結構いたのだろうとはおもう。そこは否定しない。
でも、キモいはキモいにしても、そもそも情報系に進みたがる男子なんて時点で、女慣れしていない人間の方が圧倒的に多い。なので「声をかける」以前の問題だったし、実際に人間関係のトラブルが起こる場の多くはサークルだった。要するに、情報系男子が女子に積極アプローチして事件事案になる、みたいな構図自体が、そんなに成立していなかった。
自分が所属していたサークルは、学園祭実行委員会、登山サークル、情報系サークルの3つだったけど、男女間のトラブル発生比率でいえば……ぶっちゃけ、女性慣れしている男子の方が遥かに多かった。
特に学園祭実行委員会なんて、構成員100名近い大所帯だったから、その手の揉め事は普通によくあった。で、女子側が微妙な目線を向けていたのは、おどおどしている工学系(情報系)男子より、圧倒的にリーダー格だったり、それに近い男子層(文系)だった。理由は単純で、委員会内で異性にやたらアプローチを仕掛けるのが、その層に偏っていたからである。
なんでそんなことを知っているのかと言われそうだけど、アパートが2Kだったせいで実行委員会のたまり場になっていて、その手の話を耳タコになるくらい聞いていたからです。
さらにいうと、女子の側も「情報系男子はアレよねー」みたいな目線を薄っすら共有していたし、そもそも多くの女子は情報系そのものにあまり興味を持っていなかった。某大学は僻地にあるせいか、女子の側から露骨な侮蔑を向ける人はそこまで多くなかったけど、それでも「女性差別によって工学系に進めなかった」みたいな話になると、いや歴史改変はやめろよ、となる。
実際のところ、多くの女子の認識は「情報系なんかわからんし難しそうだし、興味ないからどうでもいいや」くらいのものだったでしょ、というのが自分の実感である。これからはITの時代だ、みたいな風潮はすでに強かったので、「よくわからんIT系のことは情報系男子にぶん投げておけばいいでしょ」という雑な認識もかなり横行していた。
一応補足しておくと、いわゆるオタサー(※非PC系)だと、「オタサーの姫」現象みたいなものはあったらしい。これは友人からの又聞きなので実態は知らない。でも、それは工学系というよりサブカルオタ界隈の男女関係の話であって、情報系男子の話とはあまり関係がない。
自分自身は、飲み会会場として自分の部屋を提供していたせいか、単に無害なやつ認定されていたのかは不明だけど、どのサークルでも女子から疎外された経験はないので、個人的に嫌な思い出があるわけではない。
それでも、女子が情報系を薄っすら避けていた、あるいはそもそも興味を持っていなかった、という歴史的事実まで改変して、「女性は情報系に行きたくても男性たちの空気のせいで行けなかった」みたいな物語に全部回収するのは、さすがによろしくないとおもう。
組織の幹部。銀の長髪と冷酷な眼光が特徴で、愛車のポルシェ356Aを駆る。ボスの命令に忠実であり、障害となる者は仲間であっても容赦なく始末する冷酷非情な実行部隊のリーダー。
「ほほえみ」と常に行動を共にする腹心の部下。サングラスがトレードマークで、IT関連の操作や現場のサポートを担う。アニキと慕うリーダーの指示には絶対的に従う忠実な構成員。
「千の顔を持つ魔女」の異名を持つ女性幹部。アメリカの名女優としての表の顔を持ち、卓越した変装術で標的に接近する。ボスから特別に目をかけられており、単独行動も多い秘密主義者。
洞察力に優れた探偵でありながら、組織に深く入り込んでいる幹部。情報収集能力に長けており、現在は喫茶店で働きながら小五郎に弟子入りし、組織の目的のために暗躍している。
かつて組織に潜入していた凄腕のスナイパー。驚異的な射撃精度を誇り、現在は組織から「裏切り者のシルバーブレット」として命を狙われている因縁の相手。
私はこの分野の門外漢で,加えて生成AIに計算してもらってるので話半分でお願いします
そうした意味で、入学試験の得点だけを意識した、視野の狭い受験勉強のみに意を注ぐ人よりも、学校の授業の内外で、自らの興味・関心を生かして幅広く学び、その過程で見出されるに違いない諸問題を関連づける広い視野、あるいは自らの問題意識を掘り下げて追究するための深い洞察力を真剣に獲得しようとする人を東京大学は歓迎します。
値上げの必要性は理解するが,重大な問題があり,令和8年4月1日からの値上げは凍結するべきである。そのうえで,改めて学生(特に居住学生)と大学との間で協議体を設置し,十分に議論を行ったうえで妥結した額を改定額と決定するべきである。
市況と大差ない現行の寄宿料を徴収しながら,収益均衡を維持できないどころか赤字であることの責任は,国立大学法人筑波大学の経営努力の不足にある。
宿舎が大規模であることによるスケールメリットや、国立大学法人として競争入札により廉価に物品役務を調達できると考えられることから、民間事業者より有利で効率的な経営を行うことが可能な環境にある。
それにも関わらず赤字に転落したのは,経営努力以前の経営能力に問題があるのではないか。
このまま値上げをしたところで,能力に問題がある以上今後も赤字を生じさせ、再び安易な値上げに走ることは明らかである。
そもそも,廃止という言葉は住居という人間生活の根本を人質ととって,なかば強迫的に値上げを受け入れざるを得ないような印象を学生に与える。
少なくとも教育機関たる大学が,構成員である学生に対しとるべき対応ではない。
この主張は主張①と矛盾している。
説明会で大学の主張①と矛盾するのではないかという質問が出るまで,廃止が一部に留まる可能性に触れていない。
それどころか,大学側は,第1回説明会で以下のように説明した。
今年度 1 億円の赤字が出ると。なので、僕が4月に赴任して突きつけられたのは、今年度(赤字)1 億円だせっていう。 中略 これ、国が許すと思うか、まず。これ、会社だったら倒産だぜ。いわゆる、ちゃんと管理してないだろうと言われて、倒産。倒産ということは、どういうこと?って話。
こういった経緯からは,学生に全部が廃止されると誤解させ,値上げを受け入れさせようとする意図をみてとれる。
一部廃止であっても,現在の居室がなくなる可能性を含む不安を与えるもので,強迫的であることに変わりない。
公開されている財務諸表および事業報告書上、各勘定における黒字は大学会計全体(病院会計除く,以降同じ)に一度吸収し、さらに大学会計全体に残余額がある場合に限って目的積立金としてきたことは明らかである。宿舎のこれまでの黒字も同様に大学会計で吸収されてきたと考えられる。大学側の主張は,あたかも宿舎関係で生じた黒字を直接に目的積立金としてきたかのような誤った印象を与える。
これまでの経緯を踏まえれば,赤字を大学会計全体で補填せず、居住する学生に負担させるというのは一貫しない。場当たり的であるし,学生という弱い立場でかつ最も取りやすいところから補填させようと試みるものである。
少なくとも,学生が大学会計からの補填を求めることは、決して過大な要求などではなく、大学側の言う「良識がなく反省すべき考え」でもない。
衆議院選挙が終わって数日が経った。
しかし同時に、「民主主義とは何か」を考え直させられる出来事でもあった。
今回、先の参議院選挙から心惹かれる候補者がおり、その方が衆院選でも立候補されることになったとみつけた。
何を行えばいいかわからない、なので決起集会から参加することにした。
ただ、私はこの政党の政策すべてに賛同しているわけではない。たとえば消費税ゼロを謳っているが、現実的な財源確保として不可能だろう。VAT対象品目の見直しや税率の段階的引き下げならまだしも、と思う部分は多々ある。それでも、この候補者個人の姿勢には共感していた。
会場には早めに到着した。主催者席に座る候補者は、ネットで見るより穏やかで、普通の人に見えた。もしかして別人では、と疑ったほどだ。
ところが決起集会が始まると、徐々にあの雰囲気が戻ってきた。明確な目的意識と、人を飽きさせない話術。理路整然とした言葉運び。ああ、本物だ、と少なからず感動した。
開始ギリギリに入場を諦めかけていた人々を掻き分け、個性的な格好の女性が入ってきた。顔見知りらしき女性と話した後、床に座り込んだ。満員のため床に座る人は他にもいたので、これ自体は仕方ない。冬の寒い日だったが室内は適温だった。
ところが彼女には暑かったらしい。会の進行も気にせずタンクトップ姿になり、ストレッチを始めた。候補者が演説している最中である。周囲の人々が一瞥し、見て見ぬふりをし始めるのが分かった。知り合いと見られる女性も、誰も諌めることはなかった。
これは私にとって異様な光景だった。国の立法府に人を送り出そうとしている場で、自分の快適さを優先する振る舞い。それを制止できない支援者たち。人は自由であるべきだが、この状況への違和感は拭えなかった。
候補者と支援者の話は感動的で思慮深く、ますます応援したくなった。だが同時に、この非社会的行動とそれを容認する雰囲気に、この集団に身を置くことへの躊躇も生まれた。候補者は心から応援するが、支援者の集まりには居心地の悪さを感じる。党内の年齢層が高いせいか、仕組みがアナログなことも気になった。
次に応援に訪れたのは、大きな駅前だった。党首と候補者が揃って演説するという。選挙戦も中盤、どんな話が聞けるか楽しみだった。
党首の主張は理解できる。税金の使途変更、防衛費拡大への反対、雇用の安定化。実現すれば社会的負担を減らせる政策だ。
しかし言葉選びが気になった。この街はかつて若者の街と呼ばれ、今も感度の高い人々が集まる場所だ。新しいものを好み、洗練された言葉を使う。
その駅前で「○○はいいでしょう、みなさん、どうですか?」という呼びかけ。若い世代なら思うだろう。質問形式で議論を誘導するのはレトリックとして不誠実ではないか、と。信念があるなら素直に政策を語ればいい。同意を求める言葉は、自信のなさに聞こえる。
耳を疑った。ガビーンとは何だろう。長年のキャリアを持つ政治家が、なぜこの場にいる人々に届く言葉を選べないのか。聴衆に訴えかけるのではなく、自分の話したい言葉だけを語っているように見えた。
この党首は東大を主席で出て司法試験に合格し、若くして党を任され、弱者の側に立って問題解決に取り組んできた人だ。テレビ討論でもしっかり話される。政治家として評価されるべき実績がある。
それなのに、この演説は何だろう。データの並べ方も、相手に噛んで含めるような話し方も、聴衆を低く見積もっているように感じられた。
この区は常に23区の平均給与トップ3に入る。日々プレゼンをし、人を説得して予算を獲得する訓練を受けた人々が多い。党首の話し方は、そうした聴衆には響かない。
後ろで候補者が不安そうに手を振っている。聴衆の半分は政党ではなく候補者目当てだろう。
党首がようやく話を終えたと思ったら、スタッフが「まだ話し足りない」とマイクを戻した。聴衆は候補者を見に来ているのだ。壇上の党首、スタッフ、候補者の間で意思疎通がうまくいっていない様子が見て取れた。
候補者の演説が始まったのは25分後だった。比例候補とはいえ、若者に届く言葉で話せる候補者の時間が、二世代上の党首の演説に削られたのは残念だった。
それでも、その足で区役所に向かい、候補者の政党名を書いて期日前投票した。
選挙運動平日最終日、金曜の夜に仕事が早く終わったため、もう一度候補者の演説を聞きに駅前へ向かった。
今回、リベラルな政党を心から応援したいと思った。ただ投票以外に何ができるか分からない。勤め人なのでポスティングの時間も取れない。せめて聴衆「モブ」の一人として場を盛り上げられればと足を運んだ。
だがその度に気になったのは、支援者の排他的とも見える行動だった。
この日、自治体の首長と候補者と同じ政策を掲げるNPO代表が応援演説に来ていた。聴衆は80人もいないように見えたが、特記すべきは15人前後が巨大なスローガン入りの旗を持っていたことだ。個性的な格好をした人が多い。
でもさあ、80人くらいだよ。ここにいるの。そこの20%が旗持っているわけ。
遠目から見て、異様な光景。デモ会場なら分かる。他党でも旗を持つ人はいる。ただ大抵は小さな応援旗だ。少ない人数に大漁旗並みの旗を持つ人が20%もいる状況は、書かれたスローガンが正しくても、外から見て近寄りがたい。
あの集団を見て、楽しそうだから仲間に入ろうと思う人がいるだろうか。むしろ威圧感を与えているのではないか。
遠目から候補者の演説を聞いた。掠れた声で、それでも変わらない人を惹きつける話し方。前議員時代に力を入れた戦時中の事故の問題、労働問題、あらゆる格差問題。それは意味のある言葉だった。一人でも多くの人に届いてほしいと願った。
大規模政党から見ればメジャーではない政党の些細な敗北かもしれない。しかし多様な問題提起をし、さまざまな状況に置かれた人々の声を国に届けられる人を、有権者の一人として国会に送れなかった。今、とても気持ちが沈んでいる。
全ての人に優しい社会という理念は大事だし、私もその一員でありたい。
直近の選挙でリベラル側に立つことで、リベラルが票を増やせない根本的な問題に気づいた。
理念は正しくても、それを広げる方法に課題がある。他党の主張を支持する人もいるだろう。だが節目の場では、協調と他者への尊重が必要ではないか。政党側にも支援者側にも。
共鳴する仲間を増やす必要がある時に、外から人が入りづらい雰囲気を作る古参の態度は何なのだろう。
学生時代、キャンペーンスタッフのバイトでチラシ配りをしていた。人の目を見て動きを少しシンクロさせると受け取ってもらえることを学んだ。この政党のスタッフは高齢の方が多く、ぶっきらぼうにチラシを押し付けるように渡していた。チラシに書かれた言葉を届けるというより、チラシ配りという役目だけをこなしている。相手の行動を見て判断し、関心のある素振りを見せなければ、誰もチラシを受け取らない。
視覚障害者用の誘導ブロックに立つ支援者もいた。「誰かが来たらどけばいい」ではない。そんな配慮もできない人が支持している、と候補者の評価まで下がることに思い至らないのだろうか。
若い有権者はチラシではなく、候補者のホームページを見る。だがそのホームページも、パワーポイントで作った画像を貼り付けた雑然とした作りで、政策の深掘りも整理もされていない。フォントサイズもバラバラでデザインに落ち着きがない。
候補者は最初の決起集会で、この政党だからこそ活動ができたと感謝を述べていた。その言葉は本心だろう。だが同時に、支援者たちの善意が、意図せず新しい人々を遠ざけている現実がある。
私自身は無党派層であるが、今回リベラルの候補者を追いかける中で、いくつかの問題が見えてきた。
理念を広げたいのであれば、まず支援者の側から、初めての人が入りにくい雰囲気を和らげる必要があるのではないだろうか。
掲げているスローガンは本来、社会全体に向けた言葉のはずだが、いつの間にか仲間同士の確認の言葉になっていないだろうか。
さまざまな立場や温度感の人が参加できる作法になっているのか、改めて考えてみる余地があるように思う。
どのような態度の人であれ、どの立場の人であれ、まず同じ社会の構成員として尊敬の態度を持って扱う姿勢が必要ではないだろうか。
自分たちの正しさを語るだけでなく、その正しさが現実の社会にどのように作用するのかを、現在の社会を前提に説明してほしいと感じた。
たとえ他党であっても、支持される理由があるはずであり、その点を理解しないまま批判すると、力強い、信頼できる言葉を届ける前に、結果として有権者を遠ざけてしまうのではないか。