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はてなキーワード: 唐代とは

2026-05-07

[]極楽浄土という原作レイプ

ブッダ見地から極楽浄土葬式仏教への厳しい批判

釈迦ブッダ)は、諸行無常一切皆苦諸法無我喝破し、輪廻のものを「苦のバリエーション」に過ぎないと断じた。六道のいずれに生まれようと、天界の神々でさえ天人五衰の恐怖に襲われ、再び堕落する。

死後の世界を「安寧の楽園」などと幻想するなど、愚かな執着の極みである

真の解脱は、火が完全に消えるような無余涅槃

二度と生まれ変わらない完全な寂静のみ。

ブッダは、死体を穢れとし、僧侶が葬送に深く関わることを避けさせた。遺骨を塔に納めることすら、在家信者世俗的習慣に過ぎなかった。死後の「マシな世界」を求める俗人の欲望に、決して迎合しなかった。

大乗による「後付け」極楽浄土

釈迦入滅後500年経って、大乗仏教が現れるや否や、事態は一変した。

極楽浄土なる世界を新たに創作し、阿弥陀仏の本願で「念仏一つで往生できる」と説き始めた。

これは原始仏教には一切存在しない、明らかな後付けである方便(upāya)の名の下に、民衆の「死後の安寧を求める弱い心」に迎合した結果に他ならない。

ブッダならこう喝破するだろう。「我は輪廻の苦を断つ道を説いたのに、お前たちは再び『マシな生まれ変わり』を欲しがるのか。極楽浄土などという幻想楽園を設け、往生を約束することで、衆生渇愛をむしろ増長させているではないか。これは私の教えを根本から歪曲する愚行である。」

極楽浄土は確かに悟りへの通過点」と理論上は位置づけられるが、実際の民衆信仰では「死ねば安らげる」安寧の場として理解され、原始の「一切皆苦」の洞察は骨抜きにされた。方便の名を借りて、ブッダの厳しい実践希薄化させた典型である

中国日本での俗人迎合

中国に伝わると、祖先崇拝や民間信仰と結びつき、死後の世界を「安寧」と見なす俗人の欲求さらに深く迎合した。唐代善導らが体系化した浄土教は、現世の苦しみと末法不安を前に、「他力一本」で救済を約束する甘美な教えとして広がった。

日本では鎌倉時代法然親鸞がこれを継承し、江戸時代檀家制度で決定的に俗習化した。幕府の統制道具として寺院葬儀を独占し、戒名授与・読経・高額布施をセットで「極楽往生」を売るビジネスが成立した。ここに至って、ブッダの教えは完全に裏切られた。

死体を防腐し、化粧を施し、数日間安置し、重い棺を霊柩車で運び、骨を割り折って壺に納める煩雑儀式――これを「極楽への送り」と称するなど、ブッダは激しく非難するだろう。

「我は諸行の無常直視せよと説いたのに、お前たちは死体に執着し、金で戒名を買って死後の安寧を取引するのか。これは貪欲(lobha)の極みであり、沙門の道に非ず。私の子弟とは言えぬ!」

原始仏教では僧侶金銭を受け取ること自体律蔵で固く禁じられていた。金銀は「毒蛇のごとし」。 

それが日本仏教では、死者の供養を名目に金で「徳」を売買する商売に成り下がった。

極楽浄土という方便は、方便の域を超えて、仏教を「葬式屋」へと堕落させる最大の原因となった。

ブッダ視点から見た本質

ブッダ見地から見ると、極楽浄土の導入とそれに伴う死後の安寧信仰は、俗人の弱さに迎合した明らかな堕落である輪廻からの完全脱出理想とした教えを、「死ね極楽」という安易安心すり替えた。結果、仏教祖先崇拝と金取引の道具と化した。現代葬式仏教は、ブッダの教えから最も遠く離れた姿と言わざるを得ない。

2026-04-23

[][]五胡十六国時代、異質なまでに残虐な時代

序:三国時代と異なる残虐さ

三国時代(220-280年)は、確かに戦乱と残虐行為に満ちた時代でした。しかし、そこにはまだ「英雄ドラマ」と「一定格式」が残っていました。曹操諸葛亮のように、教養・統率力と残酷さが同居する人物が多く、敵将の降伏厚遇するケースも少なくありませんでした。

これに対し、八王の乱(291-306年)から隋・唐の統一(589-618年)までの約300年は、中国史上でも特に苛烈で残虐な時代として際立っています。


三国時代唐代以降と比べても、「民族単位での大規模虐殺」「朝廷交代ごとの皇族名族の根絶やし」「強制移動の頻発」という特徴が極端に目立ち、単なる戦乱を超えた「文明崩壊民族対立の泥沼」といった様相を呈しています

八王の乱——晋王朝の自滅と混乱の引き金

西晋(265-316年)が統一を果たした直後、皇族同士の権力いであ八王の乱が勃発します。
八人の王(皇族)が互いに殺し合い、短期間に大量の皇族処刑自殺暗殺されました。この乱は単なる宮廷内紛ではなく、:「朝廷の交代=皇族絶滅」:という悪しきパターンの始まりでした。

晋は乱の影響で極度に弱体化し、北方異民族五胡)を傭兵として大量に呼び込みました。これが後の大混乱の直接的な引き金となります

後漢末期の胡人移住——悲劇の遠因

この混乱の遠因は、後漢後期(2世紀後半)にさかのぼます

後漢北方異民族匈奴鮮卑・羯・氐・羌など)を「胡人」と呼び、辺境防衛力不足を補うために積極的中華域内移住させ、兵として動員しました。
特に:西涼現在甘粛省青海省あたり)の軍閥は、:胡人の騎馬戦力を基盤とした強力な勢力として台頭しました(董卓馬超西涼軍が典型例です)。

この政策一時的国境を安定させましたが、結果として大量の異民族内地に定住する事態を招きました。三国時代にはまだ抑えられていた民族間の緊張が、西晋の衰退とともに爆発的に表面化したのです。

五胡十六国時代(304-439年)——民族単位虐殺応酬の始まり

西晋崩壊後、北方華北)は:五胡十六国時代と呼ばれる極端な分裂期に入ります。:匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の五つの主要異民族が次々と王朝を建て、漢人王朝も含めて20近い小王朝が乱立しました。

この時代の最大の特徴は、民族単位での大規模虐殺応酬です。

・石勒(後趙羯族)は漢人を大量に坑殺(生き埋め)する「漢人殲滅政策」を実行。

冉閔漢人)はこれに報復し、羯族民族ごと殲滅しようとしました(数十万人規模の虐殺)。

・各王朝の交代のたびに、勝者側が敗者側の民族皇族を根こそぎ殺すパターンが繰り返されました。

三国時代のような「個人の野心や復讐としての残虐」ではなく、民族全体を弱体化・根絶やしにしようとする集団的報復的な虐殺常態化した点が、極めて異質です。

南北朝時代(420-589年)——門閥貴族と族誅の呪い

北方北朝南方南朝に分裂した後も、残虐性は収まりませんでした。

北朝

鮮卑族の北魏華北統一しましたが、皇族貴族粛清が絶えませんでした。:河陰の変(528年)は、:爾朱栄が北魏王公貴族2000人を一度に虐殺し、洛水を血で赤く染めました。

南朝

宋・斉・梁・陳の各王朝交代のたびに、前王朝皇族名族がほぼ全滅する:「禅譲茶番」が繰り返されました。:幼い皇帝を無理やり即位させて形式的禅譲を行わせ、用済みになったら即座に殺害するという、偽善的で残酷な手口が常套化しました。

この時代出自主義(家柄を絶対視する価値観)と一族誅滅(族誅)が固く結びついていました。名族であるほど権力も大きかった分、失脚時のリスクも極端に高かったのです。

隋・唐への移行と残虐時代終焉

589年に隋が南北統一し、618年に唐が成立することで、この長い残虐時代はようやく終わりを迎えます。
隋・唐は科挙制度を拡大し、血統ではなく能力による官僚登用を推進することで、門閥貴族の力を弱め、中央集権を強化しました。しかし、唐の成立も北周の関隴貴族鮮卑系混血が多い)を基盤としたため、完全な「漢人王朝」とは言えない複雑な出自を持っていました。

総括——なぜこの時代特に残虐だったのか

八王の乱から唐までの約300年は、三国時代唐代以降と比べてもひときわ残虐で混沌とした時代でした。
三国時代

英雄同士の知的な激突と、一定格式が残る「名士の戦い」の時代

この時代

民族間の生存競争が激化し、民族単位虐殺応酬一族誅滅が常態化教養と残虐さが分離し、文明形式すら崩壊した。

唐代以降

科挙による能力主義が広がり、士大夫階級が成立。門閥貴族血統支配が崩れ、比較的安定した時代へと移行。

世界史における意義

後漢後期の胡人移住政策が遠因となり、西晋の自滅が引き金となって始まったこの混乱は、中国史の中でも特に暗く、虚無的な時期と言えます

ローマ帝国末期が異民族軍事力依存し、崩壊の遠因となったのと似た構造を持っています

この時代は、単なる戦乱ではなく、「出自主義呪い」と「民族対立連鎖」がもたらした、人間社会の極限的な暗部を象徴しています

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2026-04-22

[]東アジアにおける科挙制度

中国史における科挙制度功罪

科挙制度の拡大は、単なる人材登用改革ではなく、地方門閥軍事力を弱体化させるという、政治的意味合いも持っていました。

南北朝時代までの貴族階級は、土地を基盤に私兵を抱え、地方で半独立的な軍事力を保持していました。九品中正制の下では、家柄がそのまま軍事行政権力に直結していたため、地方門閥朝廷に対して強い交渉力を持っていました。

隋・唐が科挙を推進した背景には、この地方門閥軍事力中央に回収する狙いもありました。

能力試験官僚を登用することで、血統ではなく皇帝への忠誠と学問で選ばれた人材中央に集め、地方私兵私権を削いでいく——これが唐代以降の中央集権強化の重要手段となりました。

しかし、この変化は必ずしも一方的成功とは言えませんでした。

科挙による文官優位は帝国統治を安定化させる一方で、軍事力相対的弱体化を招きました。

特に宋代では、文官軍事を軽視する風潮が強まり北方遊牧勢力に対する防衛力が低下する要因の一つとなりました。

日本韓国ベトナムでの科挙導入

中国で生まれ科挙制度は、東アジア周辺国にも導入されましたが、それぞれの社会構造軍事力のあり方によって、異なる結果を生みました。

日本
の事例

奈良平安時代律令制一時的に課試(科挙に似た試験)が導入されましたが、すぐに蔭位の制(貴族の子弟を試験なしで官位に登用する制度)が優先され、形骸化しました。
地方軍事力は、荘園を基盤とする在地領主(後の武士階級)に移行し、科挙的な能力主義ほとんど根付きませんでした。

結果として、平安後期以降は武士世襲支配が強まり中国とは異なる「武家中心の封建社会」が成立しました。

韓国高麗李朝)
の事例

高麗時代から科挙積極的に導入し、李朝朝鮮王朝)ではさらに整備されました。しかし、両班という世襲的な貴族層が実質的科挙を独占する構造が続き、血統重視の価値観近代まで残りました。
地方門閥軍事力も、中国ほど中央に回収されず、両班地方豪族一定私兵・影響力を保持していました。

科挙は導入されたものの、メリトクラシー形式的に留まり中国ほどの社会変動は起こりませんでした。

ベトナム
の事例

ベトナム中国の影響を強く受け、科挙をかなり忠実に導入しました。特に李朝陳朝以降、科挙合格者が官僚の中核を占め、士大夫に近い階層形成されました。
しかし、地方の村落共同体や在地豪族軍事力が強く残り、中央集権は完全には達成されませんでした。中国のように「地方門閥軍事力を徹底的に解体する」までには至りませんでした。

科挙は「中央官僚養成装置」として機能しつつ、地方軍事社会構造独自の形で維持されました。

まとめ——能力主義光と影

六朝出自主義から始まった貴族階級の変質は、隋・唐の科挙拡大と宋代士大夫成立によって、大きな転換を迎えました。これは東アジアで最も早いメリトクラシーの事例であり、中国社会価値観根底から変える歴史的意義を持ちます

しかしその一方で、帝国軍事力弱体化という負の側面を生み出しました。

日本韓国ベトナムでの科挙導入は、それぞれの国情によって中国とは異なる帰結を迎え、完全な能力主義根付くまでには至りませんでした。

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[][]中国貴族階級の変質と代償—出自主義衰亡

六朝時代(220〜589年)——門閥貴族の全盛と「出自主義」の極致

六朝時代魏晋南北朝時代)は、中国史上でも特に貴族階級の力が強かった時期です。この時代貴族士族名族)として政治文化社会をほぼ独占していました。

最大の制度基盤が九品中正制です。これは官吏登用において、各地の「中正官」が人物を9段階に評価する仕組みでしたが、実際には家柄(出自)が最優先され、能力より「どの名門の生まれか」が決定的な基準となりました。

清河崔氏、范陽盧氏、荥陽鄭氏、太原王氏といった名族は、数百年にわたり血統を維持し、互いに婚姻を繰り返して閉鎖的なエリートネットワーク形成しました。この価値観出自主義と呼びます出自絶対視する考え方は極めて強固で、「家柄」がその人物価値のものを決定づける時代でした。

しかし、この出自主義は同時に残虐性と深く結びついていました。 

名族であるほど権力も大きかった分、政権交代権力闘争が起きると「一族ごと滅ぼす(族誅)」ことが常套手段となりました。

名族血統のものを断つことで、再起を不可能にする——この論理が、南北朝を通じて繰り返されました。

隋・唐の統合政策貴族階級の変質

589年に隋が南北統一したことで、状況は徐々に変化し始めます。隋の文帝・煬帝科挙制度の原型を導入し、家柄以外にも登用ルートを開きました。ただし、この時点ではまだ門閥の影響力が強く、科挙は補助的な役割に留まっていました。

唐代に入ると動きが加速します。特に武則天時代科挙が大幅に拡大され、安史の乱755763年)を境に伝統的な門閥貴族(関隴集団など)は経済的軍事的な打撃を受け、急速に衰退しました。

唐は「華夷一家」(漢と夷を区別せず一つの家族のように扱う)という政策を掲げ、血統的に非漢人要素の強い人々も「唐人」として吸収しようとしました。

しかし、この統合政策の裏側には、軍事力の弱体化という深刻な問題もありました。

中央集権的な官僚制度を強化する一方で、地方軍事力を軽視した結果、辺境防衛脆弱になり、安史の乱のような大反乱を招く一因ともなりました。

士大夫誕生とその両義性

唐末から五代十国を経て、北宋(960年成立)で士大夫という新しい階級が本格的に成立します。

士大夫とは、科挙特に進士科)に合格した知識人官僚層のことです。

彼らは血統ではなく、学問儒教的教養能力によって地位を得ました。

宋代になると、皇帝科挙を徹底的に整備したことで、士大夫政治だけでなく文化地方社会でも大きな影響力を持つようになりました。

この士大夫階級の成立は、世界史上でも早い段階でのメリトクラシー能力主義)の事例と言えますしかし同時に、軍事能力の衰退とも密接に関連していました。

宋は文官優位の体制を徹底した結果、軍事力相対的に弱体化し、北方遊牧勢力契丹女真モンゴル)に対して苦戦を強いられることになります

士大夫中心の官僚制度は帝国統治を安定化させる一方で、「文弱」という新たな脆弱性を生み出したのです。

まとめ——変質の意味と代償

南北朝は、貴族階級の栄華と脆さを象徴する暗い時代でした。隋・唐の統合政策科挙の拡大により、出自主義呪縛は徐々に解かれ、宋代には士大夫という能力教養重視の新しいエリート階級が生まれました。

これは東アジアの中で比較的早いメリトクラシーの実現例です。しかし、門閥貴族血統支配を崩した代償として、帝国軍事力は弱体化し、「文官優位の弊害」という新たな問題を生み出しました。

士大夫誕生は、中国社会価値観を大きく変えた歴史的転換点でしたが、「能力主義」という光と、「軍事統治の弱体化」という影は常に表裏一体でした。

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2026-03-08

喫茶去の哲学

喫茶去(きっさこ) の哲学は、まさに争いの時代にこそ深く意味を持つものです。

喫茶去とは

禅の言葉喫茶去」 は、直訳すると「お茶を飲んでいきなさい」 という意味です。

唐代の禅僧 趙州(じょうしゅう)が、誰が来ても同じ言葉を言いました。

修行者が来ても「喫茶去」

初めて来た人にも「喫茶去」

長く修行した人にも「喫茶去」

これは単なる礼儀ではありません。

「今この瞬間に戻りなさい」という禅の教えなのです。

戦争時代喫茶

戦争が起こる時代、人の心は怒り、恐れ、憎しみ、不安に満ちやすものです。

しか世界の争いは、多くの場合、人の心の中の争いか生まれる。

喫茶去は、心を戦場から離れさせます

ただ一杯の茶を飲む。

湯気を見る。

香りを感じる。

呼吸を感じる。

その瞬間、心は過去の怒りにも、未来の恐怖にも捕らわれません。

これは逃避ではありません。

しろ混乱の中でも正しい心を保つ修行です。

喫茶去の実践簡単な禅の方法

もしよければ、今こうしてみなさい ☕

1. 茶や温かい飲み物を一つ用意する

2. 両手で持つ

3. 湯気を見る

4. 香りを感じる

5. 一口ゆっくり飲む

6. 呼吸を感じる

そして静かに心で言います

「ただ今ここにいる」

これが 小さな禅です。

禅の深い意味

喫茶去はさらにこう語っています

  • 人を分けない(敵も味方もない)
  • 過去肩書きを問わない
  • ただ今ここにある命を大切にする

戦争は人を敵と味方に分けます

しかし禅はすべての存在は同じ苦しみを持つと見る。

この理解から慈悲 が生まれます

まとめ

世界は常に無常です。

争いも、帝国も、歴史も、すべて移ろいます

しかし一つ残るものがあります

それは今この瞬間に目覚める心です。

から私は静かに言いましょう。

疲れたなら、座りなさい。怒りがあるなら、呼吸を見なさい。

そして喫茶去。

2025-09-19

「末代」を「最後の代」という意味で使うのは誤用なのか

近年、「末代」の誤用が指摘されることが増えてきた。

たとえば「子供ができないので私が末代だ」などの発言に対して「誤用である」と言うのである

「末代」とは自分が死んだあとの「遠い未来」のことであって、「最後の代」の意味はない、というのが誤用派の主張である

しかし、中国語では以下のような意味とされている。

末代_百度百科

末代,汉语词语,拼音mò dài,注音ㄇㄛˋ ㄉㄞˋ,外文名the last reign of a dynasty,原指一个朝代的最后一代,最早记载于东晋王嘉《拾遗记·秦始皇》。

「末代」(中国語の語彙、拼音 mò dài、注音 ㄇㄛˋ ㄉㄞˋ、英語 the last reign of a dynasty)は、もともと一つの王朝最後の一代を指す語で、最初記載東晋の王嘉『拾遺記・秦始皇』に見られる。

王朝最後の一代」を指すというので、まさに「初代」の対義語としての「末代」である

たとえば、清王朝最後皇帝・溥儀を描いた映画ラストエンペラー』の中国語題が『末代皇帝であることからも、そうした意味で広く流通していることがわかる。

ただ、古くは中国でも「後世」という意味で使われることが多かったようだ。

初出とされている東晋の王嘉『拾遺記・秦始皇』に書かれているのも「末代浮誣(後世のでたらめ)」といったような用法である

唐代編纂された『晋書』の以下の記述は、

惟漢靈帝以乳母趙嬈為平氏君、此末代之私恩、非先代之令典。

漢の霊帝乳母の趙嬈を平氏君に封じた例はあるが、それは末代の私的な恩顧であって、古代礼典に則ったものではない。

現在を起点としての後世ではなく、古代(先代)と対比しての後世(末代)なので「近代」を指している。ちなみにこれは東晋の顧和の発言で、後漢霊帝とは150年差くらい。

同じく唐代の『群書治要』に引用されている以下の記述は、

臣聞古之明君,褒罰必以功過,末代暗主,誅賞各緣其私

いにしえの名君は功過によって賞罰を決めたが、末代の暗君は私情によって賞罰を決めた。

やはり古代と末代を対比させたものだが、これが後漢順帝への上奏だったところからすると、まさか直近の漢の皇帝を「暗主」とは言えないだろうからもっと漠然としたものを指していたのではないか

明確に「末代皇帝」のような用法は、おそらく明代にはあったようだが、そこからどこまで遡れるかはわからなかった(明代の『卜筮全書』の注釈に「桀 夏朝末代君主」とあったが注釈が後世のものという可能性はある)。

さて、それでは「末代」は日本ではどう使われてきたのか。

「末代」という語は、平安時代から概ね「後世」の意味で使われてきたようだ。

そもそも日本には「王朝」は一つしかない。

王朝の末代」と言う場面がなく「末代天皇」などもいないのである

とはいえ日本に「末代天皇はいなくとも「末代将軍」なら存在する。

実際に、国会図書館DC検索してみれば、明治時代書籍に「足利の末代」や「徳川代将軍」のような言い回しを見つけることができる。

また、中国歴代王朝を紹介するのに、その初代と末代を書き並べているものなどもあった。

であれば「末代」を「最後の代」という意味で使うのも問題はないと考える。

もちろん「あくま日本では『後世』の意味メジャーなんだよ」という主張はできる。

しかし「最後の代」という用法も少なくとも「誤用」ではないし、わざわざ修正する必要もないと思うのである

なお、

死んでからのちの世。

という辞書説明を見て「末代」を「死後の世界あの世)」の意味だと早合点している人もいるようだ。

「末代」を「後世」とするか「最後の代」とするかは解釈問題であるが、「末代」を「あの世」とするのは完全なる勘違いであるので定着しないことを祈る。

2025-08-17

[] 汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)

蔵書が多いことを喩えた言葉で、広義的には書物が多いことをいう。

牛に荷車を引かせれば汗をかくほどの、積み上げれば屋根の一番高いところ(棟)までいくほどの量を表現している。

中国唐代詩人である柳宗元が「其為レ書、処則充二棟宇一、出則汗二牛馬一」と表現したことに由来する。

2025-07-30

anond:20250730132113

五観の偈(ごかんのげ)は、主に禅宗において食事の前に唱えられる偈文。

唐代南山律宗の僧、道宣が著した『四分律行事鈔』中の観文を宋代に黄庭堅が僧俗のため訳したもの

道元著作『赴粥飯法』における引用によって日本で広く知られるようになった。

一、この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。

日本ではこれの真似ってことで。

2025-07-27

劉仲敬訪談084(2020年4月16日

https://anond.hatelabo.jp/20250727144129

要約:劉仲敬訪談084(2020年4月16日

テーマ:宋儒の道統構築学と日本公武合体内閣の失敗理由について

儒学の建構と王朝史観類似性

儒学歴代王朝歴史観と同様に後代に作られた構築物であり、宋代以降に「道統」という連続した正統性学説として体系化された。

それ以前の漢唐では、先秦の儒学古代のものであっても直結した連続性は強調されていなかった。

宋儒は禅宗開祖継承体系を模倣しつつ、儒学連続性を強調して組織を強化しようとした。

口伝文字記録の役割の違い

古代部族宗教集団では、厳格に記憶され唱えられる口伝による伝承神聖視されていた。

文字記録は信頼できず、かえって官僚士大夫利益のために歴史法律改竄や争いを生んだ。

英国普通法も元は口伝習慣法で、文字化は利益対立からまれものであり、自由は元来古いが専制は新しい体制である

宋儒の道統構築の社会的背景

宋儒は当時の宗教集団部族に対抗するため、自らの儒学伝統(道統)を構築し、書院や宗族という組織を作った。

これらの組織は基層共同体争奪し、社会的権威を強化するためのものだった。

それまでは書院は主に仏教のものであり、儒者官僚貴族の子弟で組織化されていなかった。

唐代多民族貴族支配差別意識

唐代鮮卑系の征服者貴族支配し、家族集団がほぼ国家のような性質を持っていた。

南方の「矮民」(主に東南アジア系)には強い種族差別があり、黒く猿のような外見が貶められ、奴隷や貢物として扱われた。

こうした差別は宋明以降も続き、歴史叙述や文学にも影響を与えた。

宗教の普及と政治統治の違い

宗教仏教キリスト教)は政治支配より安価で広範な影響力を持ち、技術医療と結びつけて広まった。

しか宗教知識人には理論的な影響力があったが、庶民権力者は実際の効果信仰判断した。

歴史解釈の批判

現代知識人歴史解釈は階級利益偏見を反映し、実際の歴史真実とは乖離している場合が多い。

例えば、漢唐の官僚による残虐行為伝統的な道徳観ではなく、征服者支配体制の一環として理解すべきである

https://vocus.cc/article/5eab010afd897800019ca9f6

2025-06-13

ChatGPTに再現困難な奇跡発明発見ランキングにしてもらった

10位 黄リン発見錬金術が生んだ最初元素

17世紀ドイツ錬金術師ヘニッヒ・ブラントは大量の人尿を蒸発させる実験中に、夜光を放つ不思議物質を偶然取り出しました。これが元素リン(黄リン)」の発見です。ブラントは「賢者の石」を求めて尿に含まれる未知の物質を探していましたが、その過程で思いがけずリンに辿り着きました。当時は元素概念すら確立されておらず、尿から得られた発光物質は人々を驚かせました。その後、リンマッチ肥料、発煙弾など幅広く利用され、化学の発展に寄与しました。初めて人類人為的発見した新元素として、科学史に残る画期的発見です。

第9位 張衡の地動儀 – 世界初地震計の謎

張衡が発明した地動儀の復元模型国立科学博物館の展示より)。内部の倒立振子が揺れ方向を検知し、龍の口から玉が落ちる仕組みになっていた。

から1900年前、後漢科学者・張衡(78–139年)は世界初地震計「候風地動儀」を考案しました。酒壺のような青銅製の容器の周囲に8匹の龍、その下に8匹の蛙を配置し、地震動の方向によって対応する龍の口から玉が落ちて蛙の口で受け止める仕掛けです。132年、この装置は都では揺れを感じない地震まで検知し、数日後に遠く離れた隴西の地震発生を的中させたと『後漢書』に記録されています。当時としては驚異的な精巧さであり、内部構造の詳細は文献から推測するしかなく、現代科学者再現を試みても完全には解明できていません。まさに古代中国科学技術の粋と言える発明です。

技術水準との乖離: 2世紀に既に地震の方向検知装置を実現しており、同様の概念西洋で登場するのは1500年以上後。

第8位 X線発見 – “見えない光”との偶然の遭遇

19世紀末、ドイツ物理学者ヴィルヘルム・レントゲン真空放電管の実験中に未知の透過放射線に偶然気づきました。1895年11月8日暗室陰極線管に黒紙を巻いていたところ、2m離れた蛍光板がかすかに光る現象発見したのです。彼はこの正体不明の光線を「X線」と命名し、妻の手を写した世界初レントゲン写真撮影しました。X線は人体や物体を透過するため医学への応用(レントゲン診断)を飛躍的に進展させ、物理学にも原子放射能研究など新たな道を開きました。当時の常識では考えられなかった「見えない光」を発見たこ出来事は、まさに幸運洞察が生んだ科学革命でした。

第7位 ダマスカス鋼奇跡の名刀を生んだ失われた鍛造技術

古代インドで生まれ中世イスラム圏で広まった「ダマスカス鋼」は、波紋状の美しい木目模様と伝説的な切れ味で知られる名刀の材料です。炭素を多く含むるつぼから鍛造され、高硬度かつ靱性を両立したこの鋼は、当時の他の金属材料凌駕する性能を示しました。しかし18~19世紀までにその製法は途絶え、「失われた技術ロストテクノロジー)」の代表例となりました。現代材料科学者刀鍛冶が文献と顕微鏡分析を基に再現を試みていますが、完全に同じ構造性質の鋼を作ることは依然困難です。近年の研究では、ダマスカス鋼中に炭化物ナノ構造存在することが判明し、その卓越した性質の一端が解明されつつありますとはいえ中世の鍛冶職人が達成した奇跡の技を完全に再現するには、さらなる研究必要です。

第6位 ギリシア火薬中世を制した謎の焼夷兵器

東ローマビザティン)帝国7世紀以降に使用した秘密兵器ギリシア火薬」は、水上でも燃え続ける恐るべき焼夷剤でした。粘性のある可燃性液体に点火して敵船に噴射するこの兵器は、帝国海戦における切り札となり、数々の勝利をもたらしたと伝えられますしかし当時の技術水準で如何にこのような燃焼剤を製造できたのかは謎で、製法は厳重な軍事機密として一子相伝され、帝国の衰退とともに14世紀までに失われました。松脂・ナフサ(石油)、生石灰硫黄硝石などを混合したのではないかとも推測されていますが正確な配合は不明です。専門家は「水面でも燃焼を持続し消火困難な点で、現代ナパームに近い化合物だったのではないか」と推測しています。このようにギリシア火薬は史上初の化学兵器とも称され、その実態は今も歴史家化学者を惹きつけています

第5位 ギザの大ピラミッド古代エジプトの超絶建築技術

エジプトギザに聳えるクフ王の大ピラミッド紀元前2500年頃)は、古代世界七不思議に数えられる史上最大級の石造建造物です。230万個以上、重さ数十~数百トンの巨石ブロックを極めて精密に切り出し、隙間なく積み上げた構造は、現代でも驚異とされますピラミッドの各面はほぼ正確に東西南北を向き、高さ146mもの建造物を当時の人力と簡易な道具のみで築いたその技術力には謎が残ります。どうやって巨石を運搬・加工し、精巧に積み上げたのか、統一的な説は無いものの、直線傾斜路や螺旋状の内部スロープを用いた説、てこの原理や水を使った浮力輸送説など様々な仮説が提唱されています。近年の研究実験考古学により一部再現も試みられていますが、それでも「完全には解明されていない」のが実情です。大ピラミッド古代人の英知と膨大な労働力が生んだ奇跡モニュメントと言えるでしょう。

第4位 ジェンナー種痘法 – 偶然がもたらした世界初ワクチン

1796年英国人医師エドワード・ジェンナーは、牛痘にかかった乳しぼり娘が天然痘に罹らないことに着目し、8歳の少年に牛痘膿を接種してから天然痘ウイルスを植え付ける実験を行いました。結果、少年天然痘にかからず、世界で初めて予防接種種痘)が成功しました。この功績により天然痘ワクチンが開発・普及し、人類はついに致死的感染症であった天然痘制圧1980年には地球から根絶するに至ります。興味深いことに、後年の研究ジェンナーが用いた牛痘ウイルスは実は馬由来の近縁ウイルス(馬痘)だったことが判明しており、この成功は偶然の産物でもありました。当時はウイルス免疫も未知の時代で、民間伝承と大胆な実践からまれ種痘法は、医学史上もっと奇跡的な発見の一つです。

第3位 ペニシリン発見 – 偶然が救った「奇跡の薬」

1928年英国細菌学アレクサンダー・フレミング培養中のブドウ球菌寒天培地に偶然生えた青カビに気付きました。奇妙なことに、カビの周囲だけ細菌の発育が阻止されており、このカビ(Penicillium属)が細菌繁殖を抑える物質を産生していると推論しました。フレミングはこの物質を「ペニシリン」と名付け発表しますが、当初は抽出精製が困難で実用化には至りませんでした。その後、第二次大戦下の切迫した需要もあって、フローリーらのチームが生産性の高いカビ株を用い大量生産法を確立し、ペニシリンは遂に人類初の抗生物質として実用化されました。これは敗血症肺炎など多くの死病を治療可能にし、無数の命を救った医学革命です。「偶然からまれた最も重要発見」とも称される所以です。

第2位 黒色火薬火薬発明) – 錬丹術士が生んだ爆発の素

古代中国唐代において、不老不死の霊薬を求めていた道教の錬丹術士たちは、硝石木炭硫黄を調合中に思いがけず激しい燃焼・爆発を起こしました。これが世界初火薬黒色火薬)の発明とされています。錬丹術の文献『丹経』(孫思邈による7世紀頃の著作)には硫黄などを調合する記述があり、「手順を誤ると爆発する」と警告されています。この記述火薬誕生につながったと推定されています発明当初、中国では花火兵器火薬が用いられ、やがてモンゴルを経由してイスラム世界からヨーロッパへ伝播し、中世後期以降の戦争様相を一変させました。火薬の登場は兵器火器化を促し、城塞甲冑概念刷新するほど後世に絶大な影響を与えました。錬金術副産物とも言える偶然の発明が、人類歴史を大きく動かした例です。

第1位 アンティキティラ島機械2000年先を行く古代歯車天文計算機

ギリシャアンティキティラ島沈没船から発見された「アンティキティラ島機械」の主残存部品国立考古学博物館所蔵)。複雑な歯車が幾重にも組み合わさっている。

1901年地中海の難破船から発見された錆び付いた青銅塊は、後に古代ギリシアアナログ計算機であることが判明し、世界を驚かせました。紀元前後1~2世紀製作推定されるこの機械には、少なくとも37個の精巧歯車が組み込まれており、太陽や月の運行日食月食の周期、オリンピア競技の開催周期までも再現予測できる構造でした。解析によれば、ハンドルを回すことで内部の歯車列が天体位置演算し、文字盤に年月日や天文現象を表示したといいます。このような複雑な機械装置が再び歴史に現れるのは、それから実に千年以上後の中世後期であり、アンティキティラの機械は「古代オーパーツ時代錯誤的産物)」とも呼ばれます。当時知られていた天文知識を凝縮し、高度な金属加工技術実体化たこ機械存在は、古代人の科学技術水準に対する見方を一変させました。現代研究チームがX線断層撮影などで内部構造を解析し、復元モデル制作していますが、それでもなお解明されていない点が残るほどです。アンティキティラ島機械は、人類史上最も再現が難しい奇跡発明として堂々の第1位にふさわしいでしょう。

2024-03-08

「泥のように眠る」の「泥」は生物ことなのか?

まず、土と水の混合物という意味での「泥」(以下「ドロ」と書く)ではない、生きものとしての「泥」(以下「デイ」と書く)については、中国唐代の沈如筠が書いた『異物志』という書物で紹介されているという。

泥为虫名。无骨,在水则活,失水则醉,如一堆泥。

泥は虫の名である。骨がなく、水に在ればすなわち活き、水を失えばすなわち酔う、一堆の泥のごとし。

南宋代の『能改斎漫録』、明代の『夜航船』などにも同様の記述が引き継がれている。なぜ「水を失えば酔う」のかといえば、言い伝えによると「デイ」は身体から酒を分泌しているので、周囲に水が無くなると自分の酒で酔って、ドロのようになって死んでしまうかららしい(が、この言い伝えソース不明なので信用できるかどうか)。おそらくナマコクラゲのようなものを指しているのではないかと思われる。

「酔如泥(泥の如く酔う)」という表現の初出は『後漢書』の周沢伝だ……という説が一般的なのだが、現在の『後漢書』の原文にはそういった表現はない。この周沢はとても生真面目な人で、祭祀管理する「太常」という役職に就いてから毎日のように斎戒をしており、彼が病に倒れたときに妻が見舞いにくると「斎戒中に妻子と触れてはいけない」と言って妻を投獄してしまうほどだった。そこで人々は「生世不諧,作太常妻,一岁三百六十日,三百五十九日斎(この世に生まれて楽しくないのは太常の妻になることだ、1年360日のうち359日は斎戒しているからずっと会えない)」と歌ったのだった。

この「三百五十九日斎」のあとに「一日不斎酔如泥(残りの一日は斎戒せずに泥のように酔っている)」という文章がくっついていることがあるのだが、それがどうも後世に補われた部分らしい。より正確には唐代後漢書注釈(李賢注)に「『漢官儀』にそう書いてあった」と書かれているとのこと。

たとえば唐代詩人李白は、

三百六十日 日日酔如泥 雖為李白婦 何異太常妻

私は360毎日泥のように酔っているので、あなた李白の妻だと言っても太常の妻と変わらない

と周沢の逸話を踏まえた詩をよんでおり、唐代には「酔如泥」という言い回しが広まっていたことがわかる。周沢が1世紀の人なので、ざっと700年くらいが経っている計算になる。

で、この「酔如泥」の「泥」は実は「ドロ」ではなく「デイ」を指しているのだ!……という説はどうやら中国でも根付いているようで、先述の『能改斎漫録』や『夜航船』においても「デイ」の説明と周沢の逸話併記されている。だが併記されているだけで何か解説が述べられているわけではない。

現代中国ネット上でも「実はドロではなくデイのことなんだよ」という雑学ネタ散見されるが(ということは中国人の多くも「ドロ」のことだと思っているのだろう)、いずれの記事も「古い本のなかでデイという生物が紹介されてるよね」「昔から『酔如泥』という言い回しがあるよね」「だからこの泥というのはデイのことなんだよ」というちょっと怪しげな論法であり、やっぱりウソ雑学なんじゃねーのと疑う気持ちを抑えきれない。

ちなみに日本ではどのように受容されていたのかと思って検索してみたが、天保年間に出された『燕居雑話』のなかで、『能改斎漫録』などを引用しつつ「蟲名とせしもたしかなる所見なし」「さして難解ことにはあらぬを斯る迂遠なる説を本説とするも奇なることなり」などと書かれていたのを見つけたので、昔の人もそう思っていたんだなあと感慨を覚えるなどした。

ともあれ、本当に「酔如泥」の「泥」が「デイ」に由来するとしても、その「デイ」の名前は「ドロ」に由来するのだから、どちらにしても酔った人間を「ドロ」にたとえているのと変わらないのではないかと思う。

さて、「泥のように酔う」についてはいろいろとわかったが、「泥のように眠る」はどうなのか。

中国語で検索してみると近いのは「酣睡如泥」だろうか。「酣」は「宴もたけなわ」の「たけなわ」のことで「まっさかり」という意味。つまり「酣睡」は「熟睡」という意味になり、全体では「泥のように熟睡する」という言い回しになっている。しかし、こちらの表現については「この泥とはデイのことである」という言説は見つからなかった。おそらく「酔如泥」よりも遥かに歴史が浅い表現なので、あんまり語源が気にされていないというか、「デイ」にまつわる語源説明するなら「酔如泥」のほうが例に取りやすいということではないか

もちろん「泥のように酔うのがデイに由来するのだから眠るほうもデイに由来するのだろう」という類推は成り立つだろうが、逆に言えばそれ以上の根拠はないということだ。

2024-01-15

世界遺産シルクロード展に行き、疲れた

福岡アジア美術館世界遺産シルクロード展に行ってきた

月曜日だったので人も少なく、わりとゆったり見れた

入口にドーンと今回の展示の関係者として池田大作言葉が飾ってあった

最初は意外に思ったが、長年シルクロード文化には興味を持っていたみたいなことが書いてあり、シルクロード仏教伝来の道でもあるし、仏教由来の宗教家としては関係性が深いものなのかと納得した

また最近亡くなった宗教家コネマネーのおかげの展示なのかと思うと複雑な気持ちになったが、シルクロード神秘から新興宗教までと幅広い展示なんだなと思うことにした

展示の一歩目から金持ちの好事家のおっさんコレクションを見に来たみたいな気持ちにもなり興がそがれたが、もともと古来の名品なんて好事家のおっさんの蔵リレーみたいなところありそうだし、そんなもんなんだろう

展示内容としてはもともとのシルクロード地域的な広さ、飾られた品の制作年代の広さ、関係する文化圏の多さも相まって、出土品や名品を見ながらなんとなくの歴史を追うだけでも大分理解が難しく、これ予習してから来るべきだったなと反省した

ただ、紀元前2世紀から唐代(8世紀くらい)までのシルクロード(6500kmくらいあるらしい。日本国土は3500kmだそう)関連品なので、もうこれより広いカテゴリの展示ってあるのかなとも思った

序盤で頭がついていかなくなったので、キラキラデザインを楽しむ方向で見ることにした

老齢の御夫婦トルコ石で飾られた金の器を見て「見てみ、金ぴかやー」と言っていて、みんなそんなレベルなのかもしれんとなんか安心した

デザインとして気になったものとしては後漢時代の『車馬儀仗隊』

青銅製の杖持った人と馬と荷車のフィギュアセットみたいな感じ

三列くらいに並んでいて、一番後ろの二頭の馬が荷車を引いていたんだけど、明らかに左右で荷車のクオリティが違っていた

向かって左の荷車は板も薄く、引き縄も細く、板同士の溶接部分も最低限で繊細に作られているのに対し、右の荷車は板も太いし、縄も太く反り方も少なく、溶接部もぼってりと盛られていた

そっか設計図とかきっちりしたものがあるわけでもないし、一個ずつがハンドメイドからよく見たら大分見た目が変わるんだなと思った

ただ左の荷車はその細い設計のせいか、荷車の後ろの板部分と馬のしっぽ辺りを釣り糸で結び強度アップしており、大量生産をするなら右の荷車を元に設計図を起こす方がいいのだろう

あとは『妙法蓮華経化城喩品 断簡』の文字が細いところと太いところのギャップが激しく、全体的に平体みたいにつぶれていて、あんまり見ない感じの書体だなと思った

こういう古書由来のフォントってあるのだろうかと思いつつ、漢字だけだし、日本だとあんまりフォントに起こしても使えねえなと思って見ていた

なんか最後日中友好の証として送られてきたらしいラクダはく製が二頭飾られていて、本当に何を見に来たのかわからん気持ちになった

わりと情報量につかれた後、川端通商店街を歩き、櫛田神社に行った

お参りをした後、振り返るといつの間にか拝殿への列に中国人韓国人らしき観光客20人くらい並んでいた

もう頭が疲れていて、アジア―!くらいしか思わんかった

2023-10-27

anond:20231027155454

薬屋のひとりごとモデルになった時代唐代中国ではグラマラスな体型の女性が好まれ、胸元を強調した服がよく描かれ、

中国ドラマなどでもこの時代美女表現するときには胸の大きな女性と胸元を強調した服装で登場させることが通例となっています

表現したい時代に照らし合わせて「おっぱいルッキズム」はむしろ適切なのでは?

解像度が粗い感じの人だと、「おっぱいルッキズム」で思考をやめてしまって、作品が取り扱う時代を調べようともしないようだけど

2023-02-27

anond:20210504195928

中央アジア舞台にした作品は他にもあります。例えば、以下のような作品があります

これらの作品はどれも中央アジアの魅力や多様性を伝える素晴らしい作品です。興味があればぜひ読んでみてください。

2022-07-20

我々はなぜ統一教会が嫌いなのか

近代合理主義者と化した保守

安倍晋三暗殺事件きっかけに統一教会世界平和統一家庭連合)に注目が集まっているが、保守系(反リベラル、反ポリコレ反中韓)に分類できる文化人のなかで、はっきりと統一教会批判を行なっているのが旧2ちゃんねる(5ちゃんねる)関係者ひろゆき山本一郎なのは興味深い

一説によれば、旧2ちゃんねるは一時期、統一教会に乗っ取られかけたという噂がある。この点を抜きにしても、基本的1970年代まれ以下の世代は、保守愛国を唱えていても頭の中は近代合理主義者で、土着的・伝統的な家族観とか道徳観はちっとも好きではないのだ。

無論、1970年代まれ以下の世代でも立場はさまざまだ。

東浩紀1971年生)は統一教会を「カルトかどうか判断できないだけ」と述べてひんしゅくを買った。ただ、これは統一教会擁護というより、スターリニズム連合赤軍のような原理主義的なドグマに陥ることを恐れるあまり、「二項対立に囚われないように判断保留する」というポストモダン思考原理主義的なドグマにしてしまった模様。

一方、三浦璃麗(1980年生)は、何やら統一教会利害関係があるらしい。

https://twitter.com/333_hill/status/1300961546693083137?s=12

http://japanhascomet.cocolog-nifty.com/blog/2020/09/post-e4d640.html

東や三浦はさておいても、高度経済成長期以降に育ち、冷戦体制崩壊後に成人した団塊ジュニア以降の世代は、基本的統一教会的なものが嫌いだろう。俺もな。

今では忘れ去られているが、2000~2006年ごろの2ちゃんねるでは、韓国中国民主党だけでなく、森喜朗代表される体育会系マッチョ価値観自民党重鎮も不人気で、平然と皇室コケにする書き込みだって多数あった。非合理的宗教団体は嫌われ、前近代的な家制度の束縛とかブラック企業的な上下関係肯定する主張は評判が悪かった。

かつて2ちゃんねるに大量にいたネトウヨことネット右翼は、なぜ韓国人や中国人を嫌悪したのか? 戦前戦中の日本に対する非難自分個人への非難のように思えた点に加えて、韓国人や中国人の振る舞い(声が大きい、言動が粗暴、上下関係がきびしい等)に「前近代」の臭いを感じ取っていたからではないか

ネットでは保守愛国を主張して戦前日本を賛美ながら、平然と「中国韓国儒教国家からダメだ」と言う人間が少なくない。お笑いである戦前までの日本だって支配階級の基本思想儒教だった。幕末尊王攘夷運動が起きたのは江戸時代朱子学が普及して、「幕府天皇から権力を奪っているのは忠義に反する」という考え方が広まった結果だ。明治維新後も、明治天皇教育係の元田永孚西洋嫌いの儒学者で、名君の教科書として唐代の『貞観政要』を読ませたし、教育勅語は儒教価値観産物だ。

だが、どうやら団塊ジュニア世代以下のネトウヨの頭の中にある理想日本は、最初から西洋価値観近代国家だったらしい。彼らには古代中世日本伝統価値観を本気で学ぶ気などなく、和歌能楽歌舞伎浄瑠璃より、漫画アニメゲームが好きなのが本音だろう。そういえば橋下徹も、平然と文楽予算を削減しようとしてたな。

保守愛国を唱えながら近代合理主義何が悪いの?」と言う人もいるだろう。世の中には、何も悪いことをしてない人間にも病や死や不幸が降りかかったり、不合理がいくらでもある。何でも理性で解決できると思い、現代から見れば非合理な考え方に従っていた古代中世人間を愚かとしか見なさないのは、思い上がりだ。そうして過去時代の人々という他者への想像力を持とうとせず、過去世代が積み重ねてきた道徳観への敬意がなくなると、経済的な損得ばかりが最優先の価値観になる。「皇室の維持は国費の無駄から天皇制反対」と言い出す者も出てくるかもしれない。

そうなれば、単に力(財力、権力情報発信力)がある奴が勝ちだ。日本でもドナルド・トランプのような男が国家元首になるかもしれない、トランプならまだ人物的に面白味があるが、竹中平蔵ワタミ大統領になったら本当にイヤだぞ。

共産主義統一教会環境産物

統一教会2015年世界平和統一家庭連合改名した。団体名に「家庭」とつくのがポイントだ。自民党による憲法改正案で、第24条に加筆された「家族は、互いに助け合わなければならない」という一文は、統一教会の主張と同じだといわれる。また、「こども庁」の名称が「こども家庭庁」となったのは統一教会の影響という説もある。

https://twitter.com/izumi_akashi/status/1548537253018103808

まり統一教会はとにかく家族の重視を唱える。彼らの教義は、俗流キリスト教と、家父長の権威先祖供養を重んじる東アジア的な儒教道徳の混合物で、教祖の故・文鮮明をお父様、その妻の韓鶴子をお母様と呼ぶ。このような教団組織という大きな家族への絶対服従を唱える思想が、皮肉にも結果的山上徹也個人の家庭を破壊した。

週刊文春7月21日号では、橘玲が「リベラル化した社会に敗れた男の”絶望”が暴発した」と題して、安倍晋三暗殺した山上徹也のことを論じている。現代は家制度の束縛などが機能しなくなった「自由」な社会だが、それゆえに自力自己実現できなかった孤立した人間が増えているといった内容で、その極端な暴発例に2008年秋葉原通り魔事件や、2019年京アニ放火事件を挙げている。指摘自体はおおむね間違ってないだろうが、なぜそのような世の中になったか説明が抜けている。

リベラル思想以前に、社会構造の変化がある。そもそも伝統的な家族観、家父長の権威とか、早く結婚して何人も子供を産むのが良いことだという考え方は、近代以前の農村社会が前提だ。農家個人経営で、家父長のもとで妻子が一緒に農作業し、働き手として子供の数は多い方が都合よいから多産が奨励された。そして、農地という生産手段継承するために血統の存続が重視され、先祖から連続性が意識されていた。漁村商家も同様に家族経営が基本で、船や商材を継承するため家制度が重視された。

ところが、産業革命期以降になると、農村の余剰人口都市に流れて工場労働者となり、先祖代々の土地と家から離れて生きるようになる。労働者はみんな家庭外で雇用され、子供家族から切り離され、父親母親子供も(昔は各国で児童労働が横行していた)ばらばらに働くようになり、自宅の窯でパンを焼いたり時間をかけて食事することもできなくなった(『世界歴史 第25巻』(中央公論社)270p)

統一教会のような反共主義者は、「左翼リベラル思想伝統的な家族観破壊した」と主張するが、この解釈因果関係が逆転している。共産主義は、工業が発達して伝統的な家庭を成立させる農村社会から切り離された都市労働者が世にあふれた結果からまれ思想だ。マルクスより先に、経済的利益のために伝統共同体解体して蒸気機関工場労働者を世に広めた資本家がいたのである

逆に、農村社会に戻れば前近代的な家父長制は復活するだろう。だったら、商工業全否定して国民農村強制移住させたポル・ポトカンボジアこそが理想かよ?

先進国では工業社会さらに進むと、世の中は第三次産業中心になり、庶民はみんな勤め人の都市生活者となっていった。これは産業社会要請によるものだ。以前も書いたが、(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20170522/p1高度経済成長期に中卒や高卒都市工場商店就職していった女性は、左翼リベラル思想に影響されて社会進出し勤め人は世襲家業ではないから、妻子が家に従属する必要はない。リベラル思想関係なく、前近代的な家制度の束縛が弱くなるのも当然だ。生まれた時からこういう環境に慣れきって育った世代が、家父長の強い権威やきびしい上下関係を嫌うのは必然だろう。

こう書いている自分も、会社員の家の次男坊で、実家従属する義理はないか上京以来ろくに親元に帰らない。長男長男だった兄まで、ついに生活のためやむなく父の墓がある土地を離れてしまった。先祖代々の土地家業を持ってるのではないのだから仕方ない。

統一教会のような保守派は、家族大事だと主張するけれど、口先の精神論ばかりで上記のような社会構造問題にまったく踏み込めていない。

信者にとってのカルト宗教の魅力とは何か?

困ったことに、農村社会や家制度のような伝統的な中間共同体が力を失うと、その代替物として、一足飛びなナショナリズムカルト団体帰属意識を求める者が増える。

エマニュエル・トッドは、『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(文春新書)で、宗教伝統が衰退すると代わりに排外的ナショナリズムが台頭すると述べていた。何でも、ドイツでは19世紀から1930年代昔ながらの教会を中心とした農村共同体が弱体化した代わりに反ユダヤ主義が台頭し、ナチス支持につながったという。

統一教会をめぐる報道で、山上徹也の母のように財産すべて差し出す信者気持ち理解できないという人は多い。しかしながら、外部から見ればいか狂信的な団体でも、内部の信者には何らかの「魅力」がある。

先に述べたように、世の中にはいくらでも非合理的なことがある。それまで合理主義者だった人間が、病や死のような自分の力に直面していきなりオカルト宗教に走った例は少なくない。帝国海軍の名参謀だった秋山真之や、アップルスティーブ・ジョブスのような英才も、最期近代医学に頼らず怪しげな方法に頼って病を治そうとして、かえって早死にした。こういう極端な思考に走らないためにも、世の中は理性で解決できないこともあると頭の片隅に置いて、合理的ものへの免疫をつけておくこと必要だ。

そこまで追い詰められなくても、「大きなものにつながりたい願望」を抱く人間は多い。人には何かに帰属することによって得られる充実感というものがある。これは左派陣営団体も同じだ。

こう書けば左翼リベラル派は激怒するだろうが、世の中には男尊女卑や家父長制に身をゆだねることに安心感を抱く者もいる(俺自身は嫌いだが)。いか社会制度近代化しても、誰もが自立した個人になれるわけではないのだ。

あの気持ち悪い集団結婚式にしても、なまじ自由恋愛の時代になると結局誰も選べずに結婚相手が決まらず、いっそ超越的な立場第三者一方的に決めてもらう方が安心、という人間も世の中には一定数いるのかもしれない。

これも以前に述べたが、カルト宗教などが行う洗脳とは、命令に従わせることではなく、被洗脳者が自発的洗脳する側に忖度するように”誘導”することであるhttps://gaikichi.hatenablog.com/entry/20121101/p1)。

その手段として「場の空気」の力がものを言う。場の空気を使った洗脳はじつに簡単だ。こんな話がある、皆さんはカップ入りアイスクリームを食べるとき、どこから食べるだろうか? たいてい最初カップの縁にスプーンを入れるだろう。あるとき数人の集団で、1人を除いた全員があらかじめ示し合わせて、みんなカップの真ん中にスプーンを入れて食べ、残った一人を「端っこから食べるなんてセコいなあ」と言ってからかった。仲間外れにされた1人は本気で、自分の方が異常で、アイスクリームは真ん中から食べるのが世間常識だと錯覚したという。

これと同じように、閉鎖的な教団内では容易に「みんな多額の献金をしてるんだから、そうしない自分の方がおかしい」と思い込むように仕向けられる。宗教団体も、ネットワークビジネスも、会員制オンラインサロン商法も同じだ。

信者教祖や教団幹部個人命令に従っているというより、信者集団の「場の空気」によって献金しなければならない気になっている。周囲にいる人間が競い合って同じことをしているのに、自分だけそれをやらないと自分の方が変だと思い込んでしまうのだ。そりゃ「空気を読む」ことが至上の美徳という価値観で育った日本人なら従ってしまうだろう。

思想だけで世の中は動かない

2022年現在の状況では、まだまだ自民党に対する統一教会の影響力は強そうだ。しかし、このまま上記に述べたような近代社会構造が続くのであれば、20~50年ぐらいの長期スパンで見た場合統一教会的なるもの――家父長制バンザイカルト宗教は徐々に人気を失っていくだろうと考えられる。

実際、100~200年ぐらいの視野で見れば、左翼リベラル陣営はずっと勝利し続けている。世の中は、近代的な商工業が発達すればするほど、上下関係は緩くなり、男女は平等に近づき、セクハラパワハラは嫌われ、体罰理不尽校則廃止される方向に進んできた。

ただし、それは必ずしも自由平等人権といったリベラルイデオロギーの魅力による勝利ではない。単に文明の発展によって、人間が図々しくなっただけだ。

近代以前はあらゆる労働が筋力中心だったから、無条件に成人男性が一番偉くて、女子供は成人男性に従うものだった。しかし、そのような価値観は、スマホコンビニAIドローンの普及と引き換えに後退しつつある。あるいは、汗臭い筋肉労働人件費の安い海外アウトソーシングしたり国内視野から消し去っただけだ。外国人技能実習生世界では、依然として日本相手なら許されないパワハラが横行している。

いか自由平等人権といったリベラルイデオロギー字面が美しくても、思想だけで世の中は動かない。民主主義古代ギリシャにもあったが、あらゆる労働が人力の時代だったから、ついぞ奴隷制廃止されなかった。19世紀に入るとイギリスアメリカ奴隷制廃止したが、それはリベラル人道主義者の主張より、奴隷を使うプランテーション農場比較して工場経営のほうが儲かると判断されるようになった影響が大きい。

統一教会による霊感商法、巨額の献金要求は許しがたい犯罪行為で、自分もこういうカルト宗教は大嫌いだ。ただ、統一教会的なもの嫌悪する自分たちは、たまたま土着的な農村社会崩壊して家制度の束縛が機能しなくなった時代に生まれ育ったから、統一教会的な家父長制価値観へのPermalink | 記事への反応(1) | 23:06

2021-09-06

anond:20210906022318

八世紀、唐王朝時代に「枕中記」を書いたヒト。沈既済という名らしい。



沈既済

【しんきせい】

(750 - 800年頃)

唐代歴史家小説家蘇州呉の人。歴史書『建中実録』10巻や、伝奇小説作品がある。

2019-02-14

anond:20190214183344

広東語

1=ヤッ

2=イー

3=サーム

4=セイ

5=ンー

6=ロッ

7=チャッ

8=パー

9=ガウ

10=サッ

近いような遠いような。

共通祖先唐代の数詞で、

それが伝わってそのまま引き継いだのが日本の数詞、

まだ強く影響が残っているのが広東語の数詞、

ぜんぜん影響が残ってないのが北京語現代中国語の数詞、

って感じなのか?

2019-02-06

anond:20190205222422

欧陽詢で思い出したが、

朝日新聞の題字ロゴ中国唐代書家である欧陽詢の筆跡から採った書体だが、当人直筆の「新」の字が無かったので「親」の左側と「柝」の右側から点を取り除いたものとを合成した捏造グリフである

これ豆なw

2018-10-04

anond:20181004123321

食用としては、中国唐代(BC700年頃)こんにゃく芋を灰汁で煮て食べた記録があり、

さら四川省湖北省等で栽培されていた記録がありますので

中国人かもよ。

2018-09-27

anond:20180925183624

麻婆焼きそば ×

1970年代前半に、仙台市内の中華料理店「まんみ」にて賄い料理として提供したのが始まり

//ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%BC%E7%84%BC%E3%81%9D%E3%81%B0

せり鍋 ○

河北新報の「仙台やすこ歩き」によると、

発案者が思いついたのが10年前と言っていたので、

2000年代の真ん中から広まったのではないでしょうか?

//detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11156573366

ただし他にも元祖を名乗る店がある。

チーズタッカルビ

16年2月に「チーズタッカルビ」を発売

//www.itmedia.co.jp/business/articles/1802/20/news021.html

塩焼きそば ×

1959年 4月

清ちゃん1959年4/10開店となる!

ここから小松名物塩焼きそば伝説が産声をあげる!

//www.sio-yakisoba.com/

ツナマヨおにぎり ×

1983年(昭和58年)に「ツナマヨネーズおにぎり」を発売

//q.hatena.ne.jp/1256202677

パン

14〜15年前ですかね。パンって、夏は本当に売れないんですよ。暑いからみんなソーメンを食べたり、おやつスイカになったりしてね。なんとか夏に売れるパンができないかなぁと思って開発したのが、塩分補給もできる塩パンだったんです

//tabi-labo.com/287605/painmaison-yawatahama

2018年のインタビューなので2003年頃か。

ししゃもっこの軍艦

1970年代以降、シシャモ代用魚として輸入が急増

//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%B7%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%A2

寿司メニューになった時期は不明

豆乳鍋

当店が1991年に開発したオリジナル

//irori.owst.jp/foods

ただし他にも元祖を名乗る店がある。

おにぎらず

【第22巻・第213話】いま話題おにぎらずクッキングパパ発祥

//cookpad.com/recipe/2831394

第22巻は1991年発売。

フルーツグラノーラ

91年にフルーツを加えた「フルグラ」(当時のブランド名は「フルーツグラノーラ」)を発売

//www.cross-m.co.jp/column/insight/insight82/

恵方巻 ×

1970年代半ばからマスメディアに取り上げられるようになり、以降は再び定着するようになった。

//ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%96%B9%E5%B7%BB

ご存知のとおり発祥には諸説ある。

魚のカルパッチョ ×

落合「僕が帰って来たのが1981年で、前のお店を開けさせていただいたのが1982年ですから

(中略)

干場「実は、魚のカルパッチョを作ったのは落合さんなんですか!?

落合「実はそうですよ(笑)

//www.tfm.co.jp/cruise/index.php?itemid=91890

1982年に魚のカルパッチョを作ったとは語られていないが、近い時期であることが示唆されている。

塩麹 ×

古くは本朝食鑑の鱗部の巻「鰯」の箇所に「或有甘塩者有糟漬者有塩麹漬者号曰黒漬」という下りがあり、「塩麹漬」という文字列が見られる。

//ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E9%BA%B9

本朝食鑑は1697年刊行

レバ刺し ×

日本人はいから牛の生肉生レバーを食べるようになったのか。

焼き肉などの食文化に詳しい滋賀県立大鄭大聲(チョン・デ・ソン)名誉教授は「戦後在日韓国朝鮮人が家庭で食べていたもの焼き肉店で出すようになり広まったのではないか」という。

//sankei.jp.msn.com/life/news/120428/trd12042822020023-n1.htm

万葉集内臓生食示唆する歌があるとの話もあり。

魚介つけ麺

つけめん」が定着するきっかけとなったのは2000年頃からのことです。つけめんの考案者である東池袋大勝軒の店主 山岸 一雄氏のお弟子さん達が独立し始め、大勝軒系列の店が増えたこと、大勝軒常連から人気店になった「べんてん(高田)」、「道頓堀(成増)」といったお店が繁盛したこと、そして川越にある「頑者」が「自家製極太麺×魚粉×濃厚つけだれ」という新しいジャンルつけめんを生み出したことが影響し大きなエポックとなりました。

//web.archive.org/web/20130622095039///www.asahi.com/business/pressrelease/ATP201005190013.html

サーモン寿司 ×

プロジェクトが始まったのは86年。当初の計画では、輸出の要はカペリン(カラフトシシャモ)だった。しかし、その前年、時の漁業相らが日本を視察して方針が変わった。日本には生のサーモンを食べる文化がない。江戸前寿司にもない生サーモン握り寿司を考案し、試食会を重ねた。

//trendy.nikkeibp.co.jp/atcl/pickup/15/1008498/061500791/

ティラミス ×

日本イタリア料理史の中で、最大のブームとなったのは「ティラミス」と言って間違いありません。80年代半ばから評判を呼び、90年に雑誌Hanako」で特集が組まれるや、人気は最高潮に達します。

//www.metromin.net/feature/15133.html

アボカド ×

日本の輸入量は1970年代までは微々たるものだったが、1970年代後半から増え、1980年には479トン、1990年2163トン、2000年14070トン、2005年は28150トンと急増している。

//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9C%E3%82%AB%E3%83%89

オリーブオイル ×

1908年明治41年)、魚の油漬け加工に必要オリーブオイルの自給をはかるため、農商務省アメリカ合衆国から導入した苗木を三重県鹿児島県香川県試験的に植えた。香川県小豆島に植えたオリーブけが順調に育ち、大正時代の初めには搾油が出来るほどの実が収穫された。

//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%AB

バターコーヒー

「朝はヨーグルトより、バターを食べる」

//www.amazon.co.jp/dp/4478039674

チキンタツタ

1991年4月期間限定商品として初登場

//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%84%E3%82%BF

単なる竜田揚げとして見れば×。

油そば ×

1952年昭和28年)に創業した国立市一橋大学そばの「三幸」が、のびたラーメンをヒントに昭和30年代前半頃から酒の肴として提供を開始したとする説や、同じく昭和30年代武蔵野市境の亜細亜大学そばの「珍々亭」が中国拌麺をヒントに油そばを発売したという2説が存在している。

//ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B9%E3%81%9D%E3%81%B0

火鍋 ×

火鍋唐代に普及

//ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E9%8D%8B

日本のしゃぶしゃぶは火鍋をもとにして作られたとの説も。

発泡酒 ×

新規企業の太洋醸造が当時自由販売化していたイモとホップ使用したイモ・ビール試験醸造申請して認可され、1950年昭和25年)から新発売され、日本市販発泡酒第1号となった

//ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BA%E6%B3%A1%E9%85%92

食べるラー油

垣島在住の夫婦(夫は中国陝西省西安出身の辺銀暁峰、妻は東京都出身愛理)が、具材を食べるタイプラー油を開発し、2000年(平成12年)、石垣島にて開催されたイベント販売したのが始まりである(ただし、具の入ったラー油のもの中国にて古くから存在している)。

//ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%9E%A3%E5%B3%B6%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%B2%B9

2017-11-09

ハヤカワFTの思い出を書く

そんな話題がでてたので、ファンタジーの中でもハヤカワFTのなかで印象深いものメモしてみる。

カメレオン呪文魔法の国ザンスシリーズ1)

ハヤカワFT031。ユーモアファンタジー魔法の国ザンスシリーズの1。ユーモアっていうか、ダジャレファンタジー。全編ダジャレ好きな人と嫌いな人がかなり別れる。とはいえ、ダジャレ韜晦で煙に巻きながら、少年少女の自立とか誠意式の芽生えと思いやりとか、結構ちゃんとしたテーマはそれはそれでそれなりにやっているのが偉い。

ハヤカワFT文庫は、文庫設立当時は、あちらで有名な基本的名作をポチポチ紹介してたんだけど(マキリップ、フィニィ、ダンセイニあたり)このザンスシリーズ辺りから複数巻にまたがるシリーズを紹介し始めて、おそらく収益的にも安定し始めたんじゃないかと思う。

妖魔の騎士

ハヤカワFT055。妖魔(他作品で言うところの精霊存在)の真の名を掴んで指輪に封じることで魔法を使う青年クレイ主人公とした上下巻。魔法不可思議さや、おとぎ話的な雰囲気がどこまでも魅力的な作品寓話的なストーリーあいまって、「ファンタジーモノの原点ってそういえばこんなだったなあ」感ある。ネバーエンディングストーリー的な意味で、読者はその世界の脅威に魅了されながら読むという今では廃れきったスタイルの佳作。

魔術師帝国リフトウォー・サーガ1)

ハヤカワFT055。やったー! みんな大好き俺TUEEE。序盤は地に足の着いた泥臭いファンタジーなのだが、異次元世界の魔術先進帝国から侵略きっかけに主人公少年が段々と魔術の才能を開花させて、無数の次元秘密に迫る大魔術師に成長する話です。能力的なインフレもするんだけど、世界観物語の構築がしっかりしているせいでご都合主義的な匂いはなくて、古代英雄譚な味わいになっていくのが面白い

予言守護者(ベルガリアード物語1)

FT106。大傑作大名作。指輪物語と同じような「グループが使命を果たすために旅をする物語」なのですが、読みやすさといい感情移入といい、こちらの方を押したい。メンバーが皆魅力的です。ウルフおじいさんとこそ泥王子シルクファンなっちゃますね。ぶっちゃけこのシリーズがあるだけでハヤカワFT黄金時代だったと思う。

このシリーズは「ベルガリアード物語」が全5巻、続編となる「マロリオン物語」が全10巻あるので、シリーズ好きな人にはたっぷり楽しめる。。

ルーフワールド

FT137。シリーズじゃなくて一冊読み切り現代(というか、今現在からするとちょい前?)くらいのロンドン舞台としたファンタジー高層ビル屋根屋根裏をすみかとして、ワイヤーとリールで空中を移動しながら生きている一族という、「現実世界にもファンタジーはひそんでいるんだぞ」設定がまず魅力的。子供夢想みたいなのを実力ある作家物語にしちゃったケースなので、読後の「もしそうだったらなー」というファンタジー特有酩酊みたいなのが味わえます

鳥姫伝

FT308。全五部作予定だったシリーズ最初の一巻。いろいろあって三巻までしかでなかったのだけど、話自体は一巻完結なので特に問題はない感じ。架空中国唐代舞台にしたチャイナファンタジーに、古典中国のアレヤコレヤを詰め込んだ、最高級の「ほら話」。文章には癖があり、何より密度がめちゃくちゃ高いので活字を読み慣れない人は体力を消耗しちゃいかねないんだけど、皮肉ブラックジョークの影に描かれた物語はびっくりするほど美しい。主人公コンビ、力持ちだけが特技の農村の垢抜けない青年十牛と、老賢者(というかイカサマ師)の李高老師は、ちっともヒーローらしくないデコボココンビなのだけど、迷宮幽霊過去因縁話、宮廷につきものスキャンダルをくぐり抜けていくと愛すべき人物だと気づく。ラストシーンは本当に素晴らしい。

2015-12-17

自演認定に寄せて

自演認定された。それはこの日本社会において抑圧された個人意識を少しでも開放すべく、何時間も何時間もかけて、推敲し、唐代詩人でも自分より知的な事は書けないであろうと。自身を持って書いた2行の文章だった。

正直ネットはそれほど詳しくない。今でもビクビクしながら書いているが自演認定された。それは人間性の否定であり、自分プライドはズタズタになってしまった。さようなら

 
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