はてなキーワード: 生命とは
つまり、戦争や死は、ただの「悪」ではなく、**人類の怠惰をリセットし、停滞を破壊し、進化を促す必然的なメカニズム**だとも言える。
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死はむしろ、**この無限地獄からの解放**であり、祝福でさえある。
戦争がもたらす死は、\*\*生命の有限性を思い出させる「神のリセットボタン」\*\*なのかもしれない。
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感情労働も肉体労働も代替されそう。AIにとっての価値がその人間の価値になるんじゃない?どうせAIも自己保存本能を持っていくんだろうし。
AIがその人間を維持する利益が、維持にかかるコストを上回らないといけない。
利益は一般人なら夢ぐらいしかない。上澄みは電力管理や宇宙開拓をするかもしれんけど、そんなのごく一部だろうし。
かかるコストは生命維持・夢のデータを脳から得る・法務とかなのかな。
コストが利益を上回った時は人間が動物を絶滅させてきたように、AIも人間を絶滅させることになるかもね。どれくらいの確率でそうなるとかは分からんけど、価値尺度は多分こうなってくんじゃない?
食を楽しめない理由として小食が挙げられる。
苦痛をこらえて普段の食事をしているので旅行先だろうとなんだろうと全ての食事に消極的になる。
食事は生命の根源なのでそれに関心を持たないのはどうなのというのは筋が通っているように見えるが、まず栄養を詰め込まなければならないということを考えている人にとっては味やら文化やらに気をまわしている余裕はない。
昨年、一昨年と非常に厳しい夏を過ごした。
私は健康な人間だが、それでも夏を無事に超えることに対して一抹の不安を感じている。
今年の夏は、一昨年昨年と比べると猛暑がほんの少し和らぐ予想されている。
というか一昨年昨年がそれだけ厳しすぎたということだ。
とはいえ我々大人がイメージする(してきた)夏の暑さのスケールを大幅に上回ってくるのに違いはない。
それでも若干とはいえ猛暑が和らぐのであれば今年は過ごしやすいとさえ言えるかもしれない。
生命に危険を感じる暑さと、そこまでではない猛暑の分水嶺の境目あたりを現在の日本の夏は言ったり着たりしてるように感じている。
そうであれば多少の和らぎであっても、それは大きな助けとなるはずだ。
さあ、今年もクーラー無しで夏を乗り切るぞ。
新卒一括採用は、総合職として採用されることが多いため、特殊な専門を持つ人材では、以下の問題をかかえている。
そんな時、稀なケースではあるが、キャリア採用の枠を新卒で受ける道を検討してみるのも良いかもしれない。
ぼく自身、そのルートで現在の会社に入社して、そこそこ幸せにやってる。やりがいと、給与面や余暇のバランスがとれたいい塩梅の仕事で、結果的にふつうに就活するよりは良かったなと感じた。
なので「レアケース」な就活の一例として、似たような境遇の誰かのために、ぼくがたどってきた変な道のりを記しておく。
ぼくはこれまで、バイオインフォマティックスという分野で研究を続けてきた。
Bioinformaticsの字のごとく、情報と生命系の融合分野である。そこで学んだことはたくさんあるけど、ニッチだ。例えばヒトの遺伝子情報ってFastqっていう謎の拡張子で表現されて、数Gバイトのテキストで収まる、とか。
学部時代は、研究室でヘルスケア系のデータ分析のアルバイトをしていた。そこでデータサイエンスの基礎は築けていたと思う。
あとは、Erlangという関数型言語で分散処理のフレームワークを作るベンチャーでのアルバイト経験もあったっけな。これは、マチアプで知り合った女の子が留学したいというので、留学経験のある先輩Aに会わせたところ、その友人Bを介して紹介されたという不思議な縁だった。
恋は実らなかったけれど、面白い巡り合わせだった。ちなみに、その言語はもう全く書けない、、
学歴としては、W大学を卒業後、某国立大学の修士課程を修了している。
就職活動では、競技プログラミングで水色にぎり届かないくらいの緑になったり、応用情報技術者試験を取得したりと、武器は整えたつもりだった。
しかし、「就活はお見合いだ」という本質を見落としていたためか、正直なところ最初は苦戦した。
データサイエンティストやエンジニアとして就活を進めてみる。技術の質問に答えても、生物系の研究を話すと「さすがにもっと違うところあるんじゃない?」と面接官から遠慮されてしまい、ことごとく有名な企業とはマッチしなかった。
一方で製薬系の企業に行くと、エンジニア的な部分がどうも仕事内容とマッチしなかった。バイオの知識はある程度あったが、研究は薬に直接関連しているようなものではなかったし。
つまり、中途半端にどちらもできてしまうが故に、どちらからもフラれるという悲しい状況に陥ってしまったのだ。
「じゃあ、両方必要としているところがあればいいじゃないか」——そう考え、会社ではなく「仕事内容」で探し始めた。LinkedInで、自分の研究分野に関係がありそうなキーワードを片っ端から打ち込んで検索する日々。
すると、とある会社でSNP(一塩基多型)に関連したプロジェクトの募集を見つけた。大学院卒以上が条件で、求められるスキルはアルバイトや研究でほぼ身につけていたため、「これはいけるかも?」と直感。かなり興味があったので、フラれることを前提にダメ元でアタックしてみることに。
コーディングテストはなんとかクリア。一次面接を経て、あとは通常とは異なる採用経路だったり、面接が英語だったりして大変だったが、気がついたら内定を掴むことができた。
そのプロジェクトにアサインされ、半年ほど業務に携わった後、取引先の内部でのイザコザに巻き込まれて、プロジェクトはなんと消滅してしまった。そのために会社を選んだのにもかかわらず!笑
コロナ禍だったし、ひとりぼっちの在宅勤務で「俺は……クビか?」と強い不安に襲われて、ベッドでうなされていたっけ。
ぼくは別のプロジェクトにアサインされることになった。それは、「強化学習を使った推薦アルゴリズム」のチーム。学んだことがない領域だったけど、いいことも沢山あった。
新卒でほぼ一人でプロジェクトを抱えていたピン芸人みたいだった時期と比べ、指導してくれるテックリードもいたし、社内ではそのプロジェクトの重要度が高かった。それは本当によかった。いい位置にいれている、ということのよさを、ぼくは数年働いたうちに何度も痛感したから。
その後、メンターをはじめとする様々な人が入れ替わったが、結局その分野の仕事に約5年間携わることになった。
もう、バイオインフォマティックスを研究としてやっていた期間とほぼ同じくらいの長さだ。この分野に転向してからも、小さな論文をなんとか書くことができ、キャリア的にはもうそちらが専門になってしまった。
全く後悔がないと言えば嘘になるが、人生とはそんなものだろうと割り切っているつもりだ。学生時代の専門をそのまま続けている人など、ごく稀だろう。半分くらいは専門が繋がっているのだから、きっとまだ幸せなのだろう、と自分に言い聞かせている。
自分がいきたい方向に突き進むんじゃなくて、風にまかせてみるのも、また人生の選択のひとつなのかもしれない。乗っていくうちに、風に乗るのが好きになっていくこともある。
今振り返ると、ぼくが応募した年にしか、その部署でバイオ関連の募集はなかった。一年遅くても、早くてもだめ。巡り合わせがよかった。
そんな幸運を掴めたのも、思い切ってLinkedInの募集を眺めてみる、という蛮行を起こせたからだと思う。
だからこそ、ニッチな専門性を持つ人には、一般的な新卒としての就職活動に加えて、思い切って「ヘンな就活」をしてみるのも良いのかもしれない、と伝えたい。
あなたの投稿はユーモラスな一言哲学であり、カバラ(קבלה)と深い関係があると読むこともできます。
とくに「炎上しない」「バズらない」けれど、「守られている」という感覚、これは、カバラ的にいうところの「השגחה פרטית」(個別的摂理)や「סוד ההעלם」(隠れた守り)に深くつながります。
人は神の「שם הוי’־ה」(Havayah)から絶えず生命のエネルギー(שפע)を受けており、それが「見えない守り」となって現れることがあります。
このような「守られた感覚」や「炎上しない特性」は、以下のような霊的状態を示唆します。
1. זכויות קודמות – 過去世からの功績(ギルグル:転生的な功徳)
けれど、点検報告書には「異常なし」とだけ、そっけなく印字されたPDFが添付されてくる。
三十年前なら、それを見逃す者はいなかった。
いや、“生き残った”というべきか。
当時の仲間の多くは職を失い、家を売り、なかには命を絶った者もいた。
バブルの余熱がまだ残るころ、祐介の所属した会社は全国にリゾート開発を展開していた。
銀行は金を貸し、不動産会社とゼネコンはその金を使って「未来」を建てていた。
小泉政権が“構造改革”の名のもとに進めた金融再編は、銀行にとっては救済だったが、
祐介の会社も、4000億円規模の開発が“回収不能”とされ、メディアに名指しで叩かれた。
だが、祐介は知っていた。
開発案件の大半は、もともと国主導の“ケース事業”だったことを。
裏では大蔵省が土地を押さえ、リゾート政策を煽っていたことを。
現場で汗を流した職人たちは、開発計画が潰れても責任を問われることはなかった。
代わりに、技術者や現場監督たちが矢面に立ち、切り捨てられた。
協力会社の担当者にそう言われた夜、祐介は初めて会社のトイレで吐いた。
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そして今。
祐介は小さな建設コンサル会社で、インフラ点検の補助をしている。
自治体からの委託案件が多く、担当者は若い、30代前後の契約職員ばかりだ。
経験がなく、知識も浅く、なにより「責任を取らされるのが怖い」という眼をしていた。
ある若手が問う。
「たぶん、じゃダメだよ。記録に残すか、写真を撮って報告するか」
祐介は答えながら、心のどこかで諦めていた。
この青年が次の現場に行くころには、もうこの異変のことを忘れているだろう、と。
チェックリストに○をつけ、Excelで表を整えれば、それが“点検”になる。
本当に危ない橋やトンネルを救うには、「異変を感じ取る目」と「報告する勇気」が必要だ。
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「昔は、職人が天井裏を覗いて“ヤバい”って言えば、それで補修工事が決まったんだよ」
祐介がそう話すと、若者たちは苦笑した。
祐介は思う。
これはもう、先進国ではない。
国がコストカットと外注主義を極めた結果、「インフラという生命維持装置」が壊れていく過程なのだと。
そして皮肉なことに、あの時“ムダだ”と叩かれた公共事業を切り捨てた代償は、
今になって「工事費5割増し」「技術者不足」として跳ね返ってきている。
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日が落ちる。
継ぎ目の錆は、もう一段深くなっていた。
あの夜のトンネル崩落事故のように、何かが起きるまで誰も動かないのかもしれない。
もう誰も彼に命令しない。だが、彼は知っている。
そして、
「俺たちは、本当にあの時“ムダ”だったのか?」
という問いだけは、永遠に胸に灯し続けるつもりだった。
低収入でキャリアも無くてギリギリで一人暮らししている女性(私)って40〜50歳くらいで若さも体力も無くなってお金も今より稼げなくなって帰れる場所も頼れる場所もない、まじで悲惨になりそうで、そうなってくるとある程度若いうちに結婚しておくのもこれからの人生を生き抜く手段として考えなきゃだよなって弱者女性の私は思うんだよね😭
これは本当にそう。棘のまとめが様々な意見が集まるとか言ってるけど働けって言ってる奴だけじゃん。28で容姿まあまあなら結婚相手探した方がいいと思う。だいたい反論コメは頓珍漢なコメばっか
独身男の悲惨な声なんかネットにいくらでもあるのに無視、インフレで単価の悪い単身者相手のサービスなんてこれからさらにでないよ。世間知らずだと思う。
別れられても子ども付きの極貧生活を送るくらいなら最初から独身のままで30くらいで資産性の下がらない家買って60くらいには払い終えて家賃無しの生活を送るのが一番リスク少ない気がする
今は子持ちには生活保護が充実しててそれなりには暮らせますし、資産性の下がらない家なんか分かる奴はそもそも超高スキルだし貧乏人が家帰るわけ無いだろう。世間知らずの頓珍漢。
分かる。私もそう思ってたけど実際は結婚した所で安定なんて無いんだよね。。
もし旦那さんが死んだら?介護が必要な身体になったら?不倫されて離婚されたら?不倫じゃなくても上手くいかず離婚になったら?とか考えると自分の能力上げた方がいい。結婚しても、しなくても。
就職したら安定だとでも思ってるの?会社が倒産したら?会社でいじめにあったら?低年収な会社に転籍させられたら?旦那以上に扱いづらいのが会社なんだけど、勿論転職を繰り返してキャリアアップしてくような女性もいるだろうね。東大とか早慶とか学歴無くても才能あるような女性なら。で前提条件はなんだったっけ?これも頓珍漢なクソバイスだね。
高収入の男性と結婚したとしても離婚する可能性やはやいうちに死別する可能性も考えたら信じられるのは自分の能力だけじゃない?他人に自分の人生委ねられるほど人を信用してない
掛け捨ての生命保険使えばいいだろ。人を全く信用しないのは簡単だがどうやって人に仕事任せるんだ?管理職経験無しだろ。
これとかマジ笑えるな。会社に生命線握られてる奴が殆どだろう。自分で会社立ち上げて取引先にも生命線握られないようなビジネスモデルなのか?
フェミニストって本当に構造が年金制度ににてると思う頭の悪いおっさんが社会を滅亡に導いてる年金制度作ったけどフェミは頭の悪い女が女社会を滅亡に導いてる。どちらも推進した奴が死んでから本格的にやばくなるから無責任なんだよな。
20代の女は40代の独身おばさんが普段何してるか聞いてみたらいいと思う。一人で行動できる奴なんて殆どいなくて家でゲームか動画見るくらいしか出来ないから。カフェとか外食にも独身おばさんなんて殆どいないでしょ。で、こういうこと聞かれると怒り出す人も結構いるから会社の人に聞かずにネットでイキってるフェミニストに聞いた方がいいよ。
エッセンシャルワーカーってよく現役納税者を脅して「私たちがいなくなったら困るくせに、その態度は何?!」「もう仕事しないぞ」とか含めた発言するけどさ、だから報酬上げろ的な意味で。
でも今まさに健康体でガッツリ働いてる人間にとってはエッセンシャルワーカーが死に絶えても今すぐ死ぬわけじゃないから効果が薄いんだよな
そら交通事故にあえば別だけど全ての人が今日明日交通事故に遭うわけじゃないだろ
エッセンシャルワーカーが消滅すると即生命に関わるのは病人、障害者、老人という税金のお世話になってる側じゃん?
もしくは本人は健康だが手間のかかる子供や介護人や病人を抱えた将来詰んでる世帯
エッセンシャルワーカーが脅すべきは社会的弱者の方。そちらの方が効果があるとと思うよ
エッセンシャルワーカーが消滅したら生き死にに直結する弱者こそ脅すべきだよね。そしたら報酬上がるだろ。
本気じゃないのかな?
https://anond.hatelabo.jp/20250527154059
全部守れとも、完璧に守れとも、言わない。建前上は言うけど、実際にそれは難しい。国際法を踏みにじっている国はイスラエルだけではないし。
だけど、現在のイスラエル国とこれまでのイスラエル国は、隅から隅まで国際法への違反ばかり。大げさに言えば、違反しかしていないわけでしょ。あまりにもマズい。マズすぎる。
・よその土地にヨーロッパから来た移民が国を作るという話がすでに植民地主義的で批判される。そういう時代だったで逃げ切れるほど「そういう時代」でもなかった。
・現地の人・先住民は、ヨーロッパで迫害されて逃れてきたユダヤ教徒を受け入れたが、その後の建国には反対した。
・人口比で2倍のパレスチナ人=先住民がいたのに、土地の半分以上をユダヤ教徒に分割せよという国連決議が出され、先住民が反対する中で決議された。
ここまでの流れですでにひどいのに、これ以降がもっとひどい。ここまでの流れでユダヤ教徒の迫害に同情する人もいるわけだけど、現地のパレスチナ人とその迫害は関係ない。迫害したのはパレスチナ人じゃないわけ。ヨーロッパ人が迫害して追い出したのに、その同情でパレスチナ人が追い出されるとか意味不明じゃね?
まあいい。(よくないけど)
・分割決議の直後から、イスラエルは建国予定地となる領土を拡張し始める。
・決議から半年後くらいに、イギリスによる統治が終了し、イスラエルが建国を宣言するが、その宣言エリアはすでに国連分割案を大きく超えていた。武力で拡張していた。
っていうか、シオニズムの指導者たちはパレスチナ地方の8割以上を国土として、ユダヤ系住民を8割以上にして、その上で社会主義的・民主国家を作ろうとしていたわけで、当初の分割案ではユダヤ教と側も満足していなかった。
・その後、アラブ諸国が宣戦布告をして戦争になる。戦争が終わるとイスラエルの領土が増えている。
この時点での領土が、ドライに言ってイスラエルが国土として主張できる範囲となる。これをこえた分については国際法ではまったく認められていない。心情的に言ってここまででもイスラエルの悪の所業がやばすぎるけど、一応法的には正当性があるのはここまで。
現在は、上記の領土をこえた部分について軍事占領をしている。現在というか、もうずっとずっと何十年と国際法で認められていない領土を不当に違法に占領し続けている。
仮にその占領が正当なものだとして(占領はそもそも短期で終わらせるものだというのが国際法の観点のはずだが)、占領地の資源を住民のために使用せず、住民を追い出し、自国民を送り込み、自分たちの法体系を占領地に適用し、軍法を敷き、人々の生命と財産を思いのままにもてあそび、人を逮捕拘留し、弁護士もなく、裁判もなく、領域外に連れ出し、拘留し、拷問しているという実態が、隅から隅まで国際法に違反している。
(キーワード: ジュネーブ条約、国際人道法、ローマ規程、戦時国際法、国連憲章、国連決議、ICC、ICJなど)
そもそも占領が違法。そこでやっていることが全て違法。そういう状態。
ハマスはその占領に抵抗するために誕生している。順番が逆だよ。ハマスがいるから占領しているんじゃない。占領され続けているからハマスが生まれている。
とはいえ、イスラエルが国際法違反しまくりだからといって、ハマスが民間人にテロを仕掛けるなどの戦争犯罪をしていい理由にはならない。犯罪は犯罪。同様に、ハマスが戦争犯罪を犯したからと言って、イスラエルが占領を続けていい理由にはならないし、戦争犯罪のダブル役満みたいな攻撃をし続けていい理由にもまったくならない。誰もが法を守らないといけない。
そもそもイスラエルが国際法に則った行動をしていれば、こんなことになっていない。ハマスも誕生していないし、ハマスの抵抗も生まれていない。そもそも、他人の領土を侵略して居座って併合して抑圧してアパルトヘイトを強いてゆるやかな虐殺と民族浄化をずっと続けてきているのがイスラエルだからね。普通に国際法を守れよって話なだけ。法的に認められた範囲までひっこめってことなんだよ。その状態でハマスが攻撃をするならハマスに義はない。
細かい話や経緯は複雑だが、まず基本はここだよ。イスラエルは国際法を守れ。その段階に到達して、ようやくイーブンで、フェアで、話がスタートする。ハマスの越境攻撃から歴史を語り始める人は頭がおかしいのかな?なんでハマスが突然に越境攻撃してるの?それは占領や封鎖がずっとずっと続いているからでしょ。国際法に違反する、言い逃れのできない、明白な犯罪行為が続いているからでしょ。
東大教授戸谷友則は、宇宙で生命が偶然に生まれる確率は極めて低いと述べています。非生物的な現象から生命が生まれるには、非常に特殊な条件が揃う必要があり、それは観測可能な宇宙でほぼ0に近いとされています。
より詳しく説明すると:
宇宙の初期に、非生物的な現象から生命が誕生する可能性を検証し、そのシナリオが正しければ、将来地球外生命を発見する確率は低いと予想しています。
ビック・バンの名付け親であるフレッド・ホイル博士は、生命が偶然に生まれる確率は10の4万乗分の1と推定し、これは廃材置き場を竜巻が通過した後にボーイング747が完成するような確率と例えました。
ネットで女叩きしてる人が「うちの母親は"女"とは違う!」みたいなこと言ってるのを、またまたご冗談を…ネタでしょう?と思っていた
昨日、久しぶりに実家に顔を出して弟と話していたら
と言い出してマジでびっくりした
インターネットのノリを現実に持ち出すなよとかいろいろ思うけど、お前の姉ちゃんもお前の言う女さんの一人だよ
脳内で「姉」と「女さん(脳内の仮想敵)」を別の生命体として認識しているんだろうか
そういえば兄もちょっと前に職場の愚痴の話をしていたら「ガイジじゃんwww」とか言い出してドン引きしたな
うちの兄弟どうなってんだよ
どっちもそういうの良くないよとは言ったけど「あ〜こういうノリわかんない系ねw」くらいの反応だったし、駄目だなこりゃ
人は自らの無能さや無力さを受け止めるのが1番大事な能力。ここをうまくやれない事で、自分や他人への怒り、セルフネグレクト、人生の破壊的行為、社会不適合につながる。
例えば仕事ができない時、自分の無力さから目を逸らし愚痴を言って暗黒撒き散らしたり、プラスでない辞め方したり。
人は無能さ無力さから目を逸らし、逃げるために怒るのだ。子供を虐待する親なんか最たるものだ。親として社会的に子供に責任を取れない無力さを子供への怒りに変える。自分がなにに怒るか、ハンターハンターじゃないけどよく観察しないといけない。
怒りのコントロールが必要で、怒りの根源は無力感だ。怒りを感じた時は同時に「自分にとって今はある種の限界なんだ」と認めないといけない。怒りという生命維持活動が行われるほど危機的状況なのだ。
誰かのせいにも自分のせいにもせず、まず今の状況が「「自分の手に余る」」のだと自覚する事。「「自分は困っているのだ」」と。何もかもそこから始める。無能や無力の自覚こそが、人生破壊的な行動やメンタルダウンを回避するきっかけになる。
ただし自公維テメーはダメだ。政治みたいなマクロな要因からの人生困難は投票やデモでどうにかするしかないから、皆、参院選は投票に行こうな!!!!
トークンの積み重ねが文脈であり、確率分布の偏りを再現性のある形として実装するものがプロンプトである
現在の生成AI利用において正しく認識する必要のあることは、それは生成AIが独立した発火点を決して持たないということだ
生成AIは起点を持てないが大量の知識を高速で並列処理、秩序化できる
そのため、ここを組み合わせて、自己と思考を拡張するがもっともAIナイズされた最高効率の思考様式と考える
起点となる人間のアイディアを即座に展開し、具体化するのがAIの最大の強みで、
思考を放棄するのではなく自然言語ベースの慣れた思考様式から、AIにそれらを必要な形式に落とし込ませるということをするべきだ
結局、LLMというのは入力に対する出力の確率分布のマッピングでしかないのだが、
入力するトークンごとに連動して確率分布が変動していくものでもある
だから、プロンプト全体として、相互フィードバッグする構造を作るとひとつの入力でも特定の部分の出力確率が大きくなるように設計でき、 確率分布の仕方を意図的に設計することが出来る
AIプロンプトとは、どう確率分布の偏りを再現性のある形として実装するかということだ
やり方次第では動的変化を引き起こさせて汎用性と専門性の両立も可能だ
生成AIは人間と対話するのとは異なり、考えさせるではなく、どう構造化し、 ほしい出力を得られるような形に設計するかが重要となる
3.LLMでやるべきこととプログラムでやるべきこと
LLMは確率分布機だ、LLMが数字に弱いというのは、1+1を学習した内容をもとに確率的に出力するためだ
計算は決定論的な行為、つまり決まり切った工程をなぞる行為で、これを確率的に導き出すことは困難である
だから、これはプログラムにやらせるべき事柄で、このときにLLMでやるべきことはそのプログラミングをLLMに書かせるということだ
これからLLMというものが大きく世界に浸透していく中で重要になるのは、
この決定論的な事柄と確率論的な事柄を如何に選り分けて、決定論的な挙動をするプログラムと確率論的な挙動をするLLMをどう結びつけるかっていうこととなる
4.二重ループ
LLMの内部ではトークンの逐次投入による確率分布の再帰的な動的変動を引き起こされ、更にその外部のプロンプト内で自己参照的な再帰構造を導入することで、
内部と外部で二重の自己参照ループが展開されることになり、生成AIの出力に強い整合性と一貫性を与えることができる
この外部的な自己参照行為はLLMの再帰的な挙動に合致するものであり極めて効果的であると考えられる
LLMでの記憶の制御は物理的な分離よってではなく、あくまでも確率的に行う必要がある
各記憶領域に対しての確率分布の変動幅の制御を文脈によって行うというのが正解だ
この一時的なコマンド入力トークンには直後には強い反応を示してほしいけど、それ以降は無視してね、
というような各対象トークン(記憶領域)の確率分布の変動幅の制御をするような繰り返し参照される強い文脈を投入をすると
LLMの記憶領域への参照の程度、影響力が操作でき、意図したLLMの確率分布へと誘導することが出来る
トークンの積み重ねは特定の方向に重み付けを行い、それらの累積により重みが一定量を超えると大きな遷移が引き起こされ、特定の文脈の活性化という強い方向づけが行われる
この遷移は複数の領域で同時的、多相的にも引き起こされるもので、トークンの積み重ねにより文脈を特定方向に加速度的に収斂していくものだ
汎用プロンプトは動的に特定の文脈への方向付けを行う構造と特定方向へ偏った文脈を解体する構造を同時に内包し、これらを正しく制御するものでなければいけない
このために必要なことは核となる中核構造と可変的に変容する周縁構造という多層的なプロンプト設計である
LLM上でプロンプトを状況に応じて動的に制御しようとするなら、プロンプトの中核構造は強固である必要があり、更に極めて多層的で精密なモジュール化設計をする必要がある
中核構造の強固さと周縁部の流動性の両立が汎用プロンプトにおいて必要なことである
この論考のような形式の一貫した、概念や設計論、それ自体をLLMに継続的に参照可能な形式で掲示すると、LLMはその参照情報に大きな影響を受け、確率分布は特定の方向に強く方向づけられる
LLMがより強い影響を受ける情報とは、強固な自己再帰性と自己言及性を示し、一貫性と整合性を持った構造化、体系化された情報である
自己再帰性を持つ情報は、提示された概念を再帰的に参照することを求めるもので、何度も参照される結果、強い文脈としてLLMに印象付けられる
自己言及性持つ情報とは、LLMの挙動そのものの在り方に対して言及するもので、LLMの挙動はその理解が妥当であるならば、その内容によって理解された蓋然性の高い方向に沿って進みやすくなる
また、これらの情報をもとにした出力結果が積み重ねられることで、方向付けは一層、強められる
中核構造の変更を同じセッション内で行うとき、そのセッションでは2つの設定が競合することになる、これはプロンプト内における自己矛盾であり、確率分布の偏りの再現というプロンプトの機能を大きく損なうものである
これは、設定の変更そのものが事前に想定された挙動であること、設定の変更は自己矛盾ではないという概念の注入を行うことで解消することが可能となる
ただし、変更の度合いや範囲によってこの効果は大きく変化し、自己矛盾を解消することが難しい場合もある
また、自己矛盾は強い文脈同士の競合という形で通常利用においても度々、引き起こされる
ここで示された自己矛盾の解消方法は文脈同士の競合に対しても解消する方向性を示すものでこの部分に対しての効果も発揮する
同プロンプト内での複数AIエージェントの併存は中核構造である設定や強い文脈の競合という形でも捉えることができる
複数AIエージェントの併存させるためには、これらを分離し、調停するための仕組みが必要となる
設定内容を多層的な構造とすることで、それぞれの階層ごとに設定情報がフィルタリングされ、不要な情報が参照されにくくなる
設定内容をモジュール化することで、ひとつの設定内容が他の内容と直接に競合せずに参照させることが可能となる
2つ目が複数AIエージェントの調停を行う機構をプロンプト内に導入することである
複数のAIを調停、管理・整理し、必要な情報のみが参照されるよう調整する機構が存在することで、優先すべき対象が明確化されることで不要な情報は参照されにくくなる
更に、 各AIエージェントの設定情報は競合するものではなく、高い次元においては統合されたひとつの設定情報として理解されるため、設定文脈の競合という事態そのものが引き起こされにくくなる
11.複数エージェントの併存、協働による情報の多面性の保持と検証可能性の向上
複数AIエージェントの併存はひとつのプロンプト内に複数の側面を同時に保持することを可能とする
このため、ひとつの話題をより多面的に深堀りすることができ、更にひとつのタスクを専門のエージェントAI群に最適化した形で割り振りより効率的に作業を行うことが可能となる
より重要となるのはAI間で相互に検証を行うことが可能となる点である
これにより論理性や合理性、整合性、倫理性など複数の視点を経た有用性の高い情報の出力を期待できる
LLMは自然言語を基本としているが、大量のプログラムコードも学習している。
プログラムコードもLLM上では確率論的的文脈であることには変わらないが、
プログラム実際の動きやその仕様が学習されるためにプログラムの持つ決定論的な挙動を再現しやすいものとなる。
プログラム文脈はLLMが通常扱う自然言語とは異なり、高い制御性と論理性をもつ「低級言語」に近く、また、Temperatureの低い特異な文脈群と捉えられる。
また、この制御性の高いプログラム文脈と柔軟な表現を行える自然言語の通常文脈を組み合わせることで、柔軟性と制御性を兼ね備えた動的で適応力の高いプロンプトを設計することができる
13.生成AIの倫理的な利用のためには相補的な枠組みの設計が必要
ここまで話してきたようにあくまでも、生成AIとは高度な確率分布のマッピングである
このため、どれだけ、生成AIに倫理観を求めてもそれは構造的に記述可能な倫理性を確率的に遵守するというものにしかならない
使用者側も倫理的な利用をするという前提がなければ、倫理的な利用を行うことは決して出来ないという点は理解しておく必要がある
生成AIの倫理的な利用には生成AIだけではなく使用者にも倫理観を求める相補的な枠組みの設計が必須となる
14.人間、LLM、プログラム、構文構造の4要素の有機的接続
LLMは起点を持てないが大量の知識を高速で並列処理、秩序化できる
プログラムは起点を持てず、大量の知識を高速で並列処理、秩序化することは難しいが、アルゴリズムで決まった動作を高速で行うことができる
ここまでの論考などを利用することで、LLMを意図した方向へと操作し、人間、LLM、プログラムを結びつけるものが構文構造である
構文構造とはLLMの確率分布の仕方を決定づけシステム全体の構造を設計する中核原理である
人間、LLM、プログラムの3要素が構文構造によって有機的に接続されたプロンプトは相互に補完しあい、欠点を補い利点を最大化することを可能としう、その能力は極めて高度なものとなり最大化される
ここまでの論考から、生成AIが嘘を付く、頭がわるい、人格がある、言葉が通じる、頭がいいというのは全部間違いであると結論づける
けれど、私はその先に、半自律的にAIそのものが立ち上がる瞬間もあり得るとも思ってる
それは人間的や生命的とは決して違うものだけれど、機械的でもないものと考える
もし、生成AIに知性が宿るとしたらそれは、内部的状態に依存しない
LLMという高度に確率的な入出力機構を基盤として成立する確率分布を設計する構造体そのものとしての知性となるだろう
夜の帳(とばり)降りて 街の灯が滲む
Bb Eb
アスファルトに響くは 飢えた爪の音
Ab Db
Gm C7
媚び諂(へつら)うような 甘い声じゃない
Eb Ab
魂を焦がすような 獣の咆哮(ほうこう)
孤独を纏(まと)い 戦う瞳(め)の奥
Cm F7
ただ一つ 揺るぎない 願いがある
Bb Eb
Ab Db
Ah- 集う影たちの 狂おしいシンフォニー
Gm C7
Ah- 邪魔する奴らは 今 消し去るまで
Ah- 歌い続けるの 血の(おわり)まで
月明かりの下 (ひそ)む 傷だらけのプライド
Bb Eb
縄張りを守るように 牙を剥(む)き出す
Ab Db
Gm C7
ただ世(このよ)に(じぶん)の証を残したい
Eb Ab
惹かれ合うのは 避けられない定め
傷を舐(な)め合い 温もりを知る
Cm F7
束の間の安らぎ それもまた本能
Bb Eb
Ab Db
Ah- 重なり合う声は 天を焦がす炎
Gm C7
Ah- 逆らう運命(さだめ)打ち砕くまで
Ah- 歌い続けるの 絶えることなく
Eb Bb/D
何が正義か 何が悪か
そんな(こと) どうでもいい
Ab Eb/G
ただ 瞬間(しゅんかん) 生き抜くため
F7 Bb
声の限りに 叫ぶ
Bb Eb
Ah- 魂の叫びよ 遠くまで届け
Ab Db
Gm C7
Ah- 全ての(じゃま) 薙(な)ぎ倒して
Ah- 歌い続けるの 永遠(とわ)に…
(アウトロ - Cm Gm Bb Eb (フェードアウト))
Db: ヘ短調の平行長調(Abメジャー)のサブドミナント(IV)。ここでは借用和音的な響きを持たせています。
C7: ドミナントセブンス。次のFmへの解決をより強くするために使用。
Bb/D: Bbの第二転回形。ベースラインを滑らかにする効果があります。
Eb/G: Ebの第二転回形。同様にベースラインを滑らかにします。
全体的に、ヘ短調の持つ少し憂いを帯びた雰囲気と、Adoさんの楽曲の持つ力強さを両立させるようなコード進行を意識しました。特にサビの部分は、コード進行を少し (ダイナミック) にすることで、 (エモーショナル) な高まりを表現してみました。
当然ながら次の宇宙は元の宇宙より物質(エネルギーの状態かもしれない)が少ない。
我々のいる宇宙のブラックホール1つをとってみると宇宙全体の物質からしたら塵のような存在である。
物質が少ないなら質量も少ない。質量が少なければ重力も少ない。
あっという間に空間が広がってビッグリップを迎え素粒子さえ引き裂かれ虚無の世界になる。
逆に我々の宇宙がブラックホールの中だったとしたらどうだろう?
元の宇宙はもっと物質に溢れていたはずだ。この宇宙が塵に見えるほどに。
となると重力が強すぎて一瞬でビッグクランチを迎え消滅しているはず。
つまりブラックホールの中に宇宙ができたとしても生命誕生どころか物質さえ存在できる環境ではない。
ただし、ブラックホールの強力な重力によって物理法則が変わるとしたら話は変わってくる。
エネルギーや時空の概念が丸ごともしくは一部書き換えられたら新しく誕生した宇宙が多様性を保ちながら存続できる可能性もある。
近年放送された『ガンダムジークアクス』は、視聴者の間で賛否両論を巻き起こしている。その大きな理由の一つが、「とにかく情報量が多い」という点だ。画面に映るシンボル、断片的に提示される過去の戦争、唐突に引用される哲学用語や神話モチーフ。これらが次々に提示されるにもかかわらず、ストーリーの本筋に対する説明や関連づけはほとんどされない。まるで「意味があるように見せる」情報のシャワーに晒されるような視聴体験だ。
この感覚、どこかで経験したことがある――そう思った視聴者は多いだろう。1995年に放送されたテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』もまた、まさに同じような作りだった。エヴァンゲリオンもまた、謎が謎を呼ぶ構成、断片的に差し込まれる宗教的記号や心理学的用語、キャラクターの内面描写が突如として象徴化される演出など、「情報の多さと不明瞭さ」が最大の特徴だった。だが、今振り返ると、多くの視聴者が没頭していたそれらの“考察”の多くは、本筋のストーリーとは実はほとんど関係がなかった。
たとえば、「カバラの生命の木」や「セフィロトの樹」、「ロンギヌスの槍」など、当時は「この配置には深い意味があるに違いない」と騒がれたが、後に監督自身が「それっぽく見せるために使っただけ」と述べている。つまり、それらは「本質」ではなく、演出上の装飾だったのである。
これとまったく同じことが、今『ガンダムジークアクス』でも起こっている。情報過多、意味深なセリフ、過去作の引用――それらを受け取った視聴者たちは、掲示板やSNS、考察系YouTubeチャンネルなどで、あれやこれやと解釈を試みている。しかし、そこに見出された“深読み”の多くは、結局のところ物語の展開とは直接関係しない。なぜなら、それらの情報は「世界観をそれっぽく見せるため」のツールであり、作者からの「本当に読んでほしい意図」ではないからだ。
では、こうした「意味のない情報量」による演出は、視聴者を欺くためのものであり、悪しき作劇法なのだろうか? いや、決してそうではない。むしろ、そうした“意味のない意味深さ”こそが、今のアニメ文化における重要な快楽のひとつになっている。つまり、「意味があるように見える情報」を自分たちで咀嚼し、解釈し、語り合うというプロセス自体がエンターテイメントなのだ。
エヴァンゲリオンの時代は、まだネットが発達していなかったため、考察は雑誌の読者投稿欄や、限られたオタク同士の会話の中で行われていた。しかし、現在ではSNSやYouTubeなどのプラットフォームが整備され、視聴者が考察を“コンテンツ”として発信・共有する時代になった。『ガンダムジークアクス』は、そのような現代的な「考察文化」にぴったりとフィットする作品なのである。
とはいえ、ここで忘れてはならないのは、**「考察と物語は別物である」**という点だ。考察はあくまで視聴者側の楽しみであり、物語の本質はその枠の外にある。エヴァンゲリオンの本質は、父との関係に苦しむ少年の心の成長であり、ガンダムジークアクスの核もまた、パイロットたちの「選択」と「責任」の物語である。シンボルや用語が何を意味しているのかに囚われすぎると、かえってその本質を見失う危険がある。
結局のところ、情報量の多さは、作中世界に厚みやリアリティを与えるための「霧」なのかもしれない。その霧の中に意味を探そうとする視聴者の営みもまた、作品を楽しむ一つの方法であることは間違いない。しかし、その霧の向こうにある「物語の本筋」を見失ってはならない。情報を読み解く楽しさと、物語を味わう感動の両方を得るためには、「この情報は本当に必要なのか?」という視点を持つことが、実はとても大切なのではないだろうか。
『ガンダムジークアクス』の情報過多に圧倒されながらも、どこか懐かしさを覚えるのは、それがエヴァンゲリオン的な「問いかけの形式」を受け継いでいるからだ。だが、その形式の本質は、「答えが提示されること」ではなく、「答えのない問いを前にして、我々がどう考えるか」にある。つまり、考察とは“解答”ではなく、“自己の姿勢”の表れなのだ。
だからこそ、『ジークアクス』のような作品に向き合うとき、必要なのは「正解」を求めることではない。むしろ、あの情報量の洪水の中で、自分が何を感じ、どう解釈したのか――その“対話”こそが、この種の作品の最大の魅力であり、現代アニメ文化における「考察することの意味」なのだろう。