<記事原文 寺島先生推薦>
How Crimea became part of Russia and why it was gifted to Ukraine — RT Russia & Former Soviet Union
クリミアはどのような経過でロシアの一部になったのか、なぜウクライナに贈与されたのか
Jewish enclave, home of a deported nation, a present for the Ukrainians: The difficult history of Russian Crimea
ユダヤ人の飛び地、国外追放された民族の故郷、ウクライナ人へのプレゼント。ロシア領クリミアの苦難の歴史
筆者:オルガ・スハレフスカヤ(Olga Sukharevskaya)
ウクライナ出身、モスクワ在住の元外交官、法学者、著述家
出典:RT
2022年2月19日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2022年9月24日
© Dan Kitwood / Getty Images クリミアがロシア連邦に戻った日から、この3月で8年になる。その日はクリミアがウクライナの一部としての60年の歴史に幕を下ろした日だ。振り返ってみると、その歴史は
1954年2月19日ではなく、それより少し前に始まっていた。
ウクライナは、クリミアとどんな関係があるのか クリミア半島がロシア帝国の一部となったのは、ロシアとトルコの戦争が繰り返された後である。1771年、半島でトルコ軍を破ったワシリー・ドルゴルーキー公のおかげで、クリミアのハーン、サヒブ2世ジライはオスマン帝国からの独立を果たした。ハーンはサンクトペテルブルクと、同盟と相互援助に関する協定を結んだ。そして1774年、オスマン帝国はキュチュック・カイナルカ条約を締結してクリミアの領有権を完全に破棄し、ロシアに譲り渡した。
9年後、ジライの改革はクリミア・タタール人を怒らせ、彼は退位に追い込まれた。血みどろの権力闘争を防ぐため、ロシアは半島に軍隊を派遣せざるを得なくなった。この地域の貴族は、エカテリーナ2世に忠誠を誓い、ロシア貴族と同等の権利を得て、ロシア帝国が崩壊するまで存在し、新しく作られたタウリダ地方の運営にも参加した。そして1791年、オスマン帝国が再び敗北した結果、ジャシー条約を締結し、その条約によってクリミアはロシアにのみ帰属することになった。ジャシー条約もキュチュック・カイナルカ条約も国際的に認められており、有効な協定と考えられている。
1917年の革命により、ロシア帝国は崩壊し、ウクライナ領内には多くの擬似独立国家が誕生した。キエフを中心とするウクライナ人民共和国、ハリコフを中心とするウクライナ人民ソビエト共和国、当初はハリコフだけだったが後にはルガンスクが中心となるドネツク-リヴォイ・ログ・ソビエト共和国、オデッサ・ソビエト共和国、クリミアと北黒海地域のタウリダ・ソビエト社会主義共和国であった。しかし、ウクライナ中央評議会がオーストリア・ハンガリー帝国とドイツのカイザーと個別に協定を結んだため、これまでゲルマン両国に属していなかったウクライナとクリミアの全領土がオーストリア・ドイツ軍に占領された。
関連記事:プーチン大統領は、2014年のクリミアでの動きの背景にある考え方を明らかにした。
ウクライナの民族主義者たちは、この占領期に関連する地図を多数作成した。彼らは当時クリミア・タタール人が主に住んでいたクリミア半島に加え、ボロネジやカスピ海までのロシアの土地、さらにはポーランドの広大な地域やモルドバのかなりの部分も領有していると主張した。ただ、これらの地図では、クリミア半島の北側だけが「ウクライナ」として描かれているものもあれば、半島全体が描かれているものもある。
ロシア内戦後、クリミア半島はロシア連邦の一部となり、ソビエト社会主義自治共和国であると宣言された。クリミア・タタール人とカライート人はこの地域の先住民族とされ、クリミア・タタール語とロシア語が公用語となった。同時に、
1897年と
1926年の半島(セヴァストポリ含む)の人口の民族構成は以下の通りであった。ロシア人33.11%、42.65%、ウクライナ人11.84%、10.95%、クリミア・タタール人35.55%、25.34%であった。
「新しいイスラエル」なのか? 第一次世界大戦は、多くの民族に苦難をもたらしたが、戦争で被害を受けた人々を支援するための組織も誕生した。その一つが、ロシアで「ジョイント」と呼ばれるアメリカのユダヤ人合同配給委員会(JDC)である。
この組織は、クリミアやクリミア問題とどのような関係があるのだろうか。直接的に繋がっている、と言える。1923年、すでにヴォルガ地方、ベラルーシ、ウクライナの飢餓被害者を支援していた「ジョイント」の指導者が、第一次世界大戦や内戦で被害を受けたソ連在住の数十万人のユダヤ人を農民にする計画をロシア連邦当局に持ち込んだ。ソ連政府は、自国に相当数のユダヤ人がいたので、この計画を支持し、アグロジョイント社(アメリカ・ユダヤ人共同農業会社)を設立した。また、当局は「ユダヤ人労働者が土地に定住するための委員会」(コズメット)を設立し、ウクライナやクリミアの土地を新規就農者に無償で配布した。
このプロジェクトは、何もないところから生まれたわけではない。アグロジョイント社がクリミアで活動する以前から、1922年から1924年にかけて、半島には
4つの農業コミューンが出現していた。しかし、アグロジョイントが支援した移民の大部分(86%)は、1925年から29年にかけてクリミアに向かった。それは、共産党で最も影響力のある
ユダヤ人部会(Yevsektsiya)が、ソ連の黒海地域にクリミアを中心とするオデッサからアブハジアまでのユダヤ民族自治区、さらには共和国を作る計画を推進し始めていたからだ。いくつかの説によれば、クリミアを中心に、オデッサからアブハジアまでの黒海地域に、50万から70万人のユダヤ人農民を
移住させる計画だった。そして、1934年に極東にユダヤ人自治区が出現したにもかかわらず、クリミアに住む1万4千のユダヤ人農民家庭は、アグロジョイント組織の活動が禁止される1938年まで援助を
受け続けたのである。
再定住計画の破綻 クリミアにユダヤ人農場を作る計画が失敗し、アメリカユダヤ共同農業公社の活動が禁止されたのには、多くの理由がある。たしかに、その計画はクリミアとウクライナ南部のユダヤ人農業企業に農業機械、家畜、インフラ設備などを供給するために、クレジットや融資資金を除けば1600万ドルを費やした。しかし、この支援のかなりの部分が無償でなかったことに留意する必要がある。1932年の不作で多くの農家が融資と利子の支払いに苦しみ、それが飢饉を招くことになったのだ。
実は、この大量移住計画は失敗していた。1939年までに、計画された50万人のユダヤ人移民のうち、クリミアに定住したのはわずか47,740人であった。そのうち、農業に従事したのはわずか1万8,065人で、残りは大都市に向かった。クリミアにはユダヤ人入植者が働く集団農場が合計86ヶ所あったが、耕地面積は半島の10%程度しかなかった。
ソ連指導部は、多民族国家であるクリミアで、一つの民族にしか援助が行われないことに強い危機感を持った。クリミア・タタール人は、自分たちがかつて所有していた土地に、ユダヤ人だけの地域(フライドルフとラリンドルフ)を作るために資金が配分されたことに反発した。その結果、権利を奪われたタタール人は、ユダヤ人入植者を乗せた列車が半島に入るのを阻止し、すでにあるユダヤ人農場に
害を与えるためにあらゆる手を尽くした。
関連記事:
武力によるクリミア奪還は「不可能」―ウクライナ しかも、アグロジョイント社は、合法的な活動だけでなく、ソ連の法律に直接違反するような活動も行っていた。それは、地下組織の
支援である。1936年7月23日、ジョイント社のロシア支社長ジョセフ・ローゼンは、ロンドンからニューヨークへ
報告した。「ソ連への移住に関する我々の交渉は、現在手詰まり状態である。主な理由は、我々が連れてきたドイツ出身のユダヤ人医師がゲシュタポ*との協力した廉(かど)で告発されたからだ」。この事実が、ソ連での企業活動を停止させる理由となった。
*ナチス・ドイツの秘密国家警察 クリミア・タタール人は、ユダヤ人入植者に土地を強制的に移譲させられたことで、
ナチスに積極的に協力し、ホロコーストに積極的にも参加するようになった。1942年4月26日には、ナチスはクリミアの「ユダヤ人一掃」を宣言した。クリミアの人口の約65%がユダヤ人だったが、避難できなかった人たちのほとんどが殺された。そしてクリミア・タタール人の方は、クリミア半島が赤軍によって解放された後、中央アジアに追放された。
法外な贈り物 1944年にクリミア・タタール人が追放されたのは、スターリンがフランクリン・D・ルーズベルトに、クリミアをユダヤ人移民のために解放すると約束したからだとする説がある。後にユーゴスラビア副大統領となるミロバン・ジラスの回想録によると、この約束は、アメリカ大統領がレンドリース供給*計画を継続する条件として、また第二戦線**創設の見返りとして要求したものであったことがわかる。その真偽のほどはともかく、半島がナチスから解放される前から、ユダヤ反ファシスト委員会の指導部がソ連人民委員会副委員長のモロトフに「クリミアに関する覚書」を
送り、同様のクリミアへのユダヤ人移民構想を提案していたのは興味深いことである。
*アメリカがイギリス、ソ連、その他の連合国に対して1941年から1945年にかけて食糧、石油、資材を供給する政策
**第2次大戦で、ドイツの攻撃で苦境に立ったソ連の要求により、テヘラン会談の決定を経て、1944年ノルマンディー上陸作戦後形成された西部戦線をいう。
1945年のヤルタ*会談の参加者は、クリミアが戦争でどのような被害を受けたかを直接に目にする機会があった。隣国のウクライナ・ソビエト社会主義共和国の住民を含め、ソ連全体がその復興に参加したのである。そして、ウクライナ人であり、当時ウクライナ共産党の党首であったフルシチョフが、この半島のウクライナへの譲渡を思いついたのである。フルシチョフのスタッフの1人の回想録によると、1944年、彼はこう
記している。「私はモスクワにいたときに “ウクライナは破滅していて、誰もがそこから撤退しつつある。しかし、ウクライナにクリミアを与えれば......” と言った」。 しかし、そのときはフルシチョフの提案は受け入れられなかった。クリミアがウクライナに譲渡されるのは、彼がソ連のトップになるまで待たねばならず、それが首相としての最初の行動の1つとなった。
*クリミア半島南端に位置する都市。黒海に臨む。 お別れの記者会見で、握りこぶしを振りながら怒りの言葉を述べるソ連首相、ニキータ・フルシチョフ。© Bettmann / Getty Images
クリミア半島の「困難な経済状況」が譲渡の理由に挙げられることが多い。しかしクリミア経済全体は、ナチスから解放されて10年も経たないうちに、戦前の水準に達し、
産業発展もそれを凌駕するほどになっていた。しかし、1954年2月19日、タラソフ最高会議常任委員長は、ソ連最高会議常任委員会の会議で、この措置の正当性を説明した。「クリミア地方のウクライナ共和国への譲渡は、偉大なソビエト連邦の人民の友好と、ウクライナとロシアの人民の友愛関係を強化し、わが党と政府がその発展に常に大きな関心を寄せてきたソビエト・ウクライナの繁栄を促進するだろう」と。この譲渡は、ウクライナが自発的にムスコヴィッツ王国に加盟してから300年目の記念日に合わせて行われたものだった。
ソ連における法的ニヒリズムとその帰結 クリミアのウクライナへの譲渡の合法性については、ソ連崩壊以前から疑問視されていた。実は、1937年のソ連憲法によると、共和国の国境を変更する権利は、ソ連最高会議常任委員会にも、最高会議にもなかったのである。憲法上、領土を変更するためには、住民投票を実施し、住民の意見を聞く
必要があった。もちろん、半島で住民投票が行われたことはなかった。
1990年11月、クリミア地方人民代議員会は、半島の自治共和国としての地位を回復するかどうかの住民投票を実施することを
決定した。住民投票の結果、93.26%が賛成票を
投じた。こうしてクリミアは、当時ゴルバチョフが準備していた新連邦条約の条件交渉に参加することになった。次にクリミアの議員たちは、ゴルバチョフに半島のウクライナへの不法移譲を中止するよう訴えるつもりだったが、その前にソ連が崩壊してしまった。その後、ロシア連邦議会は1992年5月21日、1954年2月5日の「クリミア地方のロシア連邦からウクライナ・ソビエト社会主義共和国への移管について」と題するロシア連邦最高会議常任委員会の決定を、「ロシア連邦憲法(基本法)および立法手続きに違反する」として、法的効力を持たないことを確認する決議を採択した。
関連記事:ロシアはクリミアを救ったことについての考えを説明 ソ連憲法がまだ有効であり、クリミアの自治を含むウクライナ憲法がまだなかったため、クリミア最高評議会はクリミア共和国の独立宣言を独自に
採択したのである。1992年8月2日にその運命を決める住民投票が
計画されたが、ウクライナ中央当局は国民投票の実施を認めようとはしなかった。
1994年、ウクライナ自治共和国であったクリミアは、ロシアとの統一を支持する大統領を選出し、議会もロシアとの統一を支持する議員が大半を占めるようになった。これに対し、ウクライナ指導部はクリミア憲法、「クリミア国家主権法」、クリミア大統領ポストを一方的に
廃止し、クリミア議会で多数を占めていた政党をすべて禁止した。住民の意思に反して、クリミアはウクライナになったのである。
追放された被害者への異様な気遣い クリミア・タタール人は、ソ連時代に自分たちの歴史的な故郷への帰還を始めていた。現メジャーリス(クリミア・タタール人の代表機関)議長のレファト・チュバロフ氏は、1968年に両親とともに半島に
戻り、1970年代はクリミアで勉強や仕事をした。他の多くのクリミア・タタール人(赤軍として戦ったこの民族のメンバーとその家族は強制送還を免れていた)も同様であった。しかし、帰国者が急増したのは、彼らの強制退去が違法であったことが正式に認められた後(1980年代後半)である。
© Getty Images / 画像の出典元 ウクライナ自治共和国の誕生後、ウクライナ国家は直ちにクリミア・タタール人の擁護者を宣言し、住宅建設用地を割り当てた。しかし、クリミア共和国土地資源委員会によると、2001年から2005年にかけて、タタール人100世帯に147.7区画の土地が
割り当てられたにもかかわらず(他の住民は49.9区画)、大多数の一般クリミア・タタール人は何も受け取っていなかった。土地の分配は「メジャーリス」が行ったが、この組織はウクライナで未登録で、「人権活動家」ムスタファ・ジェミレフが率いていた。2013年、アイペトリ高原でレストランを経営するクリミア・タタール人の起業家たちは、筆者にこう訴えた。「私たちはウクライナ当局による迫害から逃れるために毎年1万2000ドルをジェミレフの側近に送金し、それから当局の役人にも個人的に賄賂を払わなければならない」。
ウクライナのクリミア・タタール人への支援は奇妙に見える。ウクライナはいまだにウクライナ語以外の言語を公用語と認めていないからだ。しかし、クリミア半島がロシアに再加盟した直後、クリミア自治共和国ではクリミア・タタール語とウクライナ語が国語となり、クリミア・タタール語もロシア連邦全体で
公用語となった(ウクライナ語は当時すでにその地位を獲得していた)。同じように、半島がロシアに統一された後、プーチン大統領は自ら「クリミア・タタール人のメジャーリス」に対して、ロシア法に基づく登録によってクリミアでの活動を継続することを提案したが、その指導者はこれを拒否した。
***
クリミア・ロシア関係の歴史は、多くの急展開を見せたが、その複雑な状況のすべてをこの記事で詳細に分析することは不可能である。その最後が、2014年に半島がロシアの管轄下に戻ったことである。そしてこの帰順は、半島とその住民の運命に関する過去の非合法な決定の多くを是正したが、それは同時に、非常に曖昧な状況下で行われた。しかし、これは別の話の主題である。
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