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ツインタワーでの爆発(2001/9/11)の目撃証拠

<記事原文 寺島先生推薦>
Eyewitness Evidence of Explosions in the Twin Towers
筆者:グレーム・マックイーン(Graeme MacQueen)
出典:グローバル・リサーチ 2023年6月9日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>  2023年8月7日

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編集者ノート

グレーム・マックイーン教授は、9.11の事件を正しく調査しようとする多くの学者やジャーナリストにとっての第一人者であった。彼は厳密な分析と、学問の正統性やタブーに挑戦する勇気と献身を兼ね備えた、最高の学者であった。グレーム教授が亡くなる前の最後の1年間、重病にもかかわらず、9.11とその他のディープ・ステート(深層国家)の犯罪を探求する重要な貢献をまとめ、『The Pentagon’s B-Movie: looking closely at the September 2011 Attacks.(ペンタゴンのB級映画:2011年9月の攻撃を詳しく見る)』として出版した。この本には、公式の9.11の言説やその他の関連事件の核心に横たわる複数の矛盾を記録し、分析する16年にわたる研究がまとめられている。グレームが亡くなる直前、研究者のエリザベス・ウッドワースElizabeth Woodworthは『プロパガンダ・イン・フォーカス Propaganda in Focus』にグレームの新著の一部を掲載するよう提案し、グレーム教授は快諾した。

第17章「ツインタワーでの爆発の目撃証拠 Chapter 17 ‘Eyewitness Evidence of Explosions in the Twin Towers」をここに再公開できることを光栄に思う。この章は、2011年にトロントで開催された画期的な公聴会でのグレーム教授の力強い発表に基づいている。本書の全文はこちらで入手可能であり、無料でPDFをダウンロードすることもできる。



「ツインタワーでの爆発の目撃証拠」
グレーム・マックイーン著


 私たちの多くは、2001年9月11日に世界貿易センターのツインタワーが制御解体によって倒壊したと確信している。しかし、もしそうだとしたら、誰かが気づかなかったのだろうか?

 答えは、多くの人が気づいていたということだ。第1ビルと第2ビルの崩壊については、かなりの目撃証拠がある。本稿ではこの証拠を簡単に概観する。

 証拠を見る前に、まず、証拠に対する最も一般的な反論のひとつに立ち向かわなければならない。異論を唱える人々は、目撃証拠は「軟弱」であり、信用できず、信頼できないと言う。このような批評家によれば、ある出来事の目撃者が何人いようが、その目撃者が誰であろうが、彼らの証言が互いにどのように関連していようが関係ない。これは奇妙な見解だ。目撃証言に関する社会科学的研究でも、犯罪捜査に関する学術文献でも、これは支持されるものではない(255)。

 目撃証拠には確かに脆弱性がある。私たちは、目撃者が誤認したり、記憶違いやごまかしをしたりすることがあることを知っている。しかし、他の種類の証拠と同様、私たちは目撃者の報告が正確かどうかを確認する方法を開発してきた。例えば、私たちは裏付けとなる証拠、つまり目撃者のさらなる証拠や、まったく別の種類の証拠を探す。

 さらに、目撃証拠は爆発事故の捜査に大きく関係している。「全米防火協会」の火災・爆発調査手引書には、爆発調査においては「調査官は目撃者の供述を含め、利用可能なすべての情報を考慮すべきである」と明記されている(256)。

 本稿は、爆発に関する目撃証拠の概要だけでなく、「9/11委員会」と「米国標準技術研究所(NIST*)」によるこの証拠の取り扱いに対する批判も提示している。しかし、これら両機関は目撃証拠を広範に利用しており、明らかに有効かつ重要であると考えている。したがって、目撃証言の正当性に関する「NIST」や「9/11委員会」との意見の相違は、原則段階ではなく、適用段階にある。
*NIST=(the National Institute of Standards and Technology)

 目撃証言の特に重要な情報源のひとつは、ニューヨーク市が2005年に発表したニューヨーク市消防局の口述記録(厳密には、ワールド・トレード・センター・タスクフォース・インタビュー)である(257)。ニューヨーク・タイムズ紙は、この文書の公開を求めるためにニューヨーク市を裁判所に提訴していたが、文書が公開されると、同紙は口述記録を一連の個別のPDFファイルとしてウェブサイトに掲載した。

 口述記録は、ニューヨーク市消防総監のトーマス・フォン・エッセン氏が、FDNY(ニューヨーク市消防局)の隊員があの日経験したことを記録することが重要であると判断した後、FDNYの世界貿易センター対策本部が収集したものである。調査委員会のインタビューは、2001年10月初旬から2002年1月下旬にかけて収集された、約500人の「FDNYの消防士、救急医療技術者、救急隊員」による10〜12,000ページに及ぶ証言から構成されている(258)。

 デイヴィッド・レイ・グリフィン教授は、有能な研究者の協力を得て、この資料から爆発に関する非常に貴重な記述を探し出した最初の学者である(259)。本論文の著者は、口述記録を読んだ後、「118人の目撃者: ツインタワーでの爆発に対する消防士の証言」(260)という論文を発表した。

 以下の発表と分析は、この先行研究を基礎としている。証拠が提示されるにつれ、三つの重要な点が浮かび上がってくる。第一に、タワーの倒壊は爆発によるものだという確信が9.11では一般的であったこと。第二に、この確信を裏付けるかなりの目撃証拠がある。第三に、この証拠は「9.11委員会」と「NIST」の双方によって無視されるか、隠されてきたことである。


爆発仮説は、9.11当時では一般的だった。

 9.11事件の議論では、ツインタワーの破壊に関する元来の、明らかで、当然の仮説は、何らかの重力による崩壊であるとしばしばほのめかされている。9.11当時、タワーの倒壊は誰の目にも明らかであり、それはビルが単に飛行機の衝突とその後の火災に耐えられず、崩壊したからだと我々は信じ込まされている。ビルが倒壊したのは爆発のせいだと言う人たちは、つまり広義の「爆発仮説」を支持する人たちは、この見方によれば後発組である。彼らは「9.11の後に登場し、陰謀論的な思考によって当初は単純だった状況を考えすぎた人々だ」と主張されている。

 実際、これが歴史の捏造であることを証明するのは簡単だ。爆発仮説の支持者は9.11当時、特に事件現場では極めて多かった。多くの人々は、ビルの近くで直接知覚したことを根拠に判断し、他の人々は、この巨大なビルが完全かつ強力に粉砕されるには爆発を伴うに違いないと当たり前のように受け入れていた。以下は、これらの見解を支持する多くの例のうちの5つである。

1.9.11を記録した動画では、ABCテレビのレポーター、N・J・バーケットがツインタワーの近くに立っている。彼は、現場の消防士たちや、燃えているビルそのものに注意を向けている。突然、サウスタワーが彼の背後で崩壊し始める。粉々になった瓦礫が空中に飛び散る中、バーケットは言う。「今、大爆発が起こり、瓦礫が私たち全員に降り注いでいる。逃げた方がいい!」 バーケットの発言には、状況を考えすぎていた証拠も、陰謀論的な考え方の証拠もない。彼は9.11の後にやってきたわけではない。ビルの破片が地面に到達する前に自分の判断を表明したのだ。その後、彼は命からがら逃げ出した。30分後、ノースタワーが倒壊すると、彼はまた命からがら逃げ出した(261)。

2.CNNの9.11当日の報道で、ジュリアーニ市長はツインタワーでの爆発について2回にわたって質問された。二回目は午後2時39分ごろの記者会見で、女性記者(画面外)が市長にこう質問している。「あなたは倒壊した二つのビルの爆発の原因について何か分かっていますか。飛行機によるものですか、それとも他の何かによるものですか?」(262)。彼女は爆発があったかどうかを尋ねていない。つまり、彼女は爆発があったと思っている。彼女は爆発がタワーを崩壊させたかどうかを尋ねていない。つまり、彼女はあったと思っている。彼女はただ、何が爆発を引き起こしたのか、飛行機なのか、それとも 「他の何か」 なのかを知りたいだけなのだ。

3.情報公開法の要請によってNISTから入手した 「マシュー・シャポフ・ビデオ」 として知られる映像では、数人の人々(画面外)が世界貿易センタービルで起きた出来事を遠巻きに見ながら談笑し、それをビデオカメラで撮影している。突然、彼らのカメラを通して、ノースタワーが崩壊するにつれて粉々になった瓦礫が巨大な噴煙となって四方八方に投げ出され始めるのが見える。ああ、大変だ!」という恐怖の声の後、シャポフと思われる男性の声が次のように叫ぶのが聞こえる。 「あれは爆弾がやったんだ!くそ、あれは爆弾がやったんだ!あんなことが起こるはずがない!」(263)。これもまた、シャポフが見ていたことに対して自然に起こった反応である。

4.ニューヨークの消防士クリストファー・フェニョは、『世界貿易センタービル対策本部』のインタビューの一節で、現場にいた消防士の間で始まった議論について語っている。議論が始まったのは、サウスタワーが破壊された後、ノースタワーが破壊される前、つまり午前10時から10時半ごろのことである。シャポフと同様、この発言は一般的な爆発ではなく、爆発物による意図的なビルの破壊に関するものである。つまり、9.11の朝10時30分以前から、人々は爆発仮説の下位範疇である制御解体仮説について議論していたのである。

5.9.11事件に関するFBIの捜査名はPENTTBOMで、「Pentagon/Twin Towers Bombing Investigation(ペンタゴン、ツインタワー爆破事件捜査)」の略である。この名前が付けられたとき、FBIの誰かが爆破事件が起こったと考えた可能性はないだろうか?(現在の公式発表によれば、どの被災地でも爆破事件は起きていないことになっている。) 9.11当日、『USAトゥデイ』紙の外国特派員ジャック・ケリーが、当時のFBIの 「作業仮説 」は「2機の飛行機がビルに衝突したのと同時に......ビルの下に爆薬を詰めた車かトラックがあり、それが同時に爆発して両方の塔が崩壊した」(264)、とテレビ視聴者に語っているのが目撃されている。ケリーが『USAトゥデイ』紙のために日常的に記事を捏造していたことが後に明らかになったことを考えれば、FBIに関する彼の主張には裏付けが必要だろう。しかし、ここでFBIに当てられている一般的な仮説、つまり爆発物を使用してビルを崩壊させたという仮説は、9.11では一般的であった。たとえば、FDNY(ニューヨーク市消防局)安全主任のアルバート・トゥリは、タワーの破壊から間もなく、NBCのパット・ドーソンに次のように語っている。ドーソンの言葉を借りれば、「彼(トゥリ)の理論によれば、実際にビルに仕掛けられた装置があったと考えている」(265)と。

 これら5つの例は、爆発説が最も強固な形(爆発物による意図的破壊)であったとしても、9.11当日の目撃者にとっては身近なものであったという主張を支持するものである。それは合理的な理論として広く受け入れられていた。多くの人々がこの説を支持したからといって、それが正しいということにはならないが、もしこの説が否定されるのであれば、それは証拠に基づいて否定されなければならないことを示唆している。


爆発仮説を支持する強力な目撃証拠がある。

 目撃証拠は内容的にも・量的にもともに強力である。証拠の質は、目撃されたものについての詳細で、相互に裏づけのある証言に考えられる。同時に、証拠の量は、証言の中で爆発について論じている目撃者の数と種類の両方において強い印象を与える。



 ノースタワーの破壊についてのデニス・タルディオとパット・ゾーダの会話は、9/11当日にナウデ兄弟によってフィルムに収められている(266)。

 タルディオとゾーダは、言葉と手振りの両方で、互いの証言を繰り返し肯定している。その手振りは、空手チョップのように、高いところから始まり、素早く下に向かっていく。目撃者たちは、自分たちが観察した多くの個別的で精力的な出来事があり、それが高いところから始まり、一定の間隔でビルの下へ急速に移動したことを示唆したいようだ。



 ゾーダは手を動かしながら言う。 「階から階へと、はじけ始めた」。 タルディオも同じように手を動かす。 「まるで起爆したかのように、起爆したかのように(ゾーダ:「そう、起爆した、そう」)、まるでビルを破壊するために仕掛けられたかのように、ドーン、ドーン、ドーン、ドーン、ドーンと」。 ゾーダはこう付け加えた。 「ずっと見ていた。私はそれを見ながら走っていました」。

 彼らは消防士であり、ビル火災で起こる標準的な種類の爆発に遭遇することに慣れている。しかし、彼らは煙爆発や 「沸騰-液体-膨張-蒸気」(BLEVE)爆発*など、予想されるような爆発については語らない。その代わりに、彼らは全く異なるものについて話し、劇的な身振りで演じている。彼らが見たものは、制御された解体に似ていると言うのだ。
*BLEVE爆発---「ブレービー」又は「ブリーブ」と読み、「沸騰液膨張蒸気(拡散)爆発」と訳される。液体の急激な相変化による爆発現象。

 次の例はポール・レモスである。彼は9.11の日、CM撮影に参加するために世界貿易センタービルの近くにいた。レモスは9.11の日、まだWTC-7が遠くに立っている世界貿易センターの近くで、ビデオテープにインタビューされている(267)。彼は、先ほどの消防士たちとは別の場所で、別の映画製作者によって撮影された。この映像は、先ほどのタルディオ/ゾーダの映像とはまったく無関係に見える。しかし、レモスがノース・タワーの崩壊を描写し始めたとき、彼はタルディオやゾーダと同じ手の身振りを使っている。



 身振りをしながら彼が言ったことは次のようなものだ:

「突然、私は見上げると、約20階の下から…火事があり…私は曲がり角角から、ドーン、ドーン、ドーン、ドーン、ドーン、ドーン、ドーン、ドーン、ドーン…ちょうど20回の連続ヒットのように、ただ消えていったのが見えました。 建物全体が「プシューッ(?)」と爆発したのが見えました…そして爆弾が爆発するにつれて人々が走り始めました、そして私はそこに座ってそれらのいくつかが爆発するのを眺めました。そして私はただ踵を返し、命からがら走り始めました。その時、世界貿易センターがまさに崩壊するところでしたから…」

 レモスは、タルディオやゾーダよりもさらに大胆で、「爆発したかのように」 と自分の発言を飾っていない。彼は公然と 「爆弾」 と言い、「爆発するのを見た」 と言っている。いずれにせよ、タルディオとゾダの映像とレモスの映像はどちらも詳細が豊富で、相互に裏付けが取れている。細部の豊富さは記録から明らかであり、裏付けは使用された言語だけでなく、手振りからも得られる。この男たちは明らかに同じ出来事を認識し、同じ考えに到達している。

 レモスはまた、建築家として紹介された人物との会話について興味深い逸話を語っているが、これは目撃証拠の改ざんや隠蔽に関連している。レモスは次のように語っている。「・・・ところで、あれは爆発ではないと彼らは後で語った。私は、彼らが連れてきた建築家の一人と話していました」。この発言で 「彼ら」 が誰を指しているのかは不明だが、「彼ら」 とは現場にいた当局を指していると考えるのが妥当だろう。したがって、当局は9.11の現場に建築家を配置し、ポール・レモスのような人々に、彼らが何を気づき、何に気づいていなかったかを伝えていたようだ。

 この 「建築家」に卑劣な目的があったかどうかは別として、この建築家について以下の事実は確かである。 (1)レモスとは異なり、彼自身は目撃者ではなかった(彼は現場に「引き入れられた」のだ)、(2)目撃者の徹底的な聞き込み調査をする時間はなかっただろう、(3)崩壊の写真や動画を総合的に検討する時間はなかったはずだ、(4)彼がビルの残骸(鉄骨も粉塵も)を詳細に調査できた可能性はほとんどない。にもかかわらず、彼は目撃者に、その目撃者が知覚できなかったことを伝えることができると考えている。この建築家は不当な判断を下しているだけでなく、偏りのない調査を行うことを難しくしている点で、彼の行動は極めて正確ではない。殺人捜査、火災捜査、爆発捜査には厳格な原則があり、いずれの場合も、目撃者の邪魔をして犯行現場に立ち入り、証拠を汚すことは前代未聞である。

 この建築家についての議論は、より広い意味でも重要である。9.11の数ヵ月後、多くの目撃者は、当局が爆発の余地のない構造欠陥仮説を採用したと聞いて、自らの最初の判断に沈黙し、修正し、さらには否定した。その時期に最も一般的で、正しいものとして広く流布した構造破壊仮説は、床が順次破損していく「パンケーキ」仮説*であった。パンケーキ仮説はその後、信用を失い放棄されたが(NISTによって明確に否定された)、初期のころは、爆発を感知したと思っていた目撃者の確信を弱めるのに効果的だった。
* 「パンケーキ」仮説----これは、ビルの各階の層が下の階へ落下することで、各階が順に押し潰されるようにして崩壊したとする。 しかし、この説に基づけば各階の落下速度が自由落下の速度を越えないはずだとの反論がある。Rick Segalは、崩壊時の映像記録によれば第1ビル、第2ビル、第7ビルの崩壊速度は真空での自由落下速度に匹敵すると述べた。ただし、実際に自由落下だった場合、第1および第2ビルの高さだと9秒、第7ビルだと3秒強で崩壊することになるが、ツインタワーの倒壊には15-20秒、第7ビルは陰謀論者の主張でも6秒かかっているため、とうてい自由落下に「匹敵」とはいえない。
ワールドトレードセンターのツインタワー両棟崩壊についての論争とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書

 消防士たちが、当時の当局の発表に基づいて、自分たちが何を感知したかの判断を修正した例は、世界貿易センタービル事件対策委員会のインタビューによく見られる。

 ドミニク・デッルビオは、サウスタワーの破壊について次のように語っている。「時限爆破のように見えたが、各階がパンケーキのように重なっていったのだろう」。

 ジェームズ・ドゥルーリーはノースタワーについてこう語っている:

「第二の轟音が聞こえ始めた。それは北側のタワーが倒壊してくる音でした。道行く人々や私も含めて、その轟音はとても大きく、ビルの中で爆弾が爆発しているのだと思った。明らかに、私たちが間違っていたことが後に証明されましたが......」。

 ジョン・コイルは、サウスタワーについての重要な発言を、非常に不確かな形で始めている。

「タワーは......私には爆発しているように見えた。その時点では、誰もがまだ爆破されたと考えていたと思います」。

 これらの目撃者はみな、自分が見て考えたことについての最初の印象(ドーリーとコイルの場合は、同じく現場にいた友人や同僚の最初の印象)を思い起こし、それからその印象から離れようとしている。このように、9.11当時、爆発物解体説がいかに一般的であったか、そして、その後、それがいかに周辺に押しやられたかを示す明確な証拠がある。

 裏づけの問題に戻ると、ゾーダ、タルディオ、レモスによる規則的な下降エネルギー現象の記述を裏付ける証拠資料がさらにある。まず、裏付けとなる目撃証言の例を3つ挙げる。

 近くのチェース・マンハッタン銀行の行員ロス・ミラニッチは、サウスタワーについて次のように語っている。1秒ごとに別の階が8階分ほど爆発し、雲に覆われて見えなくなりました」。

 ウォールストリート・ジャーナル』紙の記者、ジョン・バッシーはサウスタワーについてこう語っている:

「電話を切り、次の記事のために考えをまとめているとき、金属音が聞こえ、会社の窓から外を見上げると、各階から完璧に同期した爆発のようなものが起こり、ガラスや金属が外に向かって噴出しているのが見えた。次から次へと、上から下へと、ほんの一瞬の間に、床が粉々に吹き飛んだ。(268)

 ニューヨーク市消防局のケネス・ロジャーズは、サウスタワーでの経験についてこう語っている:

「...私たちは5個分隊くらいでそこに立っていて、任務を待っていたんですが、南タワーで爆発が起きました。...多くの隊員がその時点で立ち去りました。私はずっと見ていた。次から次へと階が崩壊していった。そして5階ぐらいで爆発が起こったとき、爆弾だと思ったんだ。それは同一速度で進行する計画的なものに思われたからだ。」

 裏付けは、まったく別の形の証拠を考慮すると、さらに見事なものになる。ポール・レモスは、爆発を見たとき、ノースタワー、より具体的にはノースタワーの一角を見ていたと明言している。ノースタワーの一角で爆発が起こったという彼の判断を裏付ける証拠は、ノースタワーが破壊された際に撮影された高画質の映像にある(269)。この映像には、明らかに爆発的と思われる力強く集中的な噴出物がビルから落ちていく様子がはっきりと映っている。これらの噴出物の大きさと速度は測定可能であり、その存在と基本的特性は疑問の余地がない。

 したがって、さまざまな目撃証言の間には、また目撃証拠と他の証拠との間には、高い確証性がある。

 このような目撃証言の集大成に異論を唱える人々の中には、目撃者たちが体験したのは爆発ではないかもしれない、と言う人もいる。死体の落下、エレベーターの衝突、柱の折れ、さらには衝撃波音さえも、すべて別の説明として提案されている。これらの主張は、別の目撃者の発言を詳細に分析することで解決できる。

 その目撃者とは、スー・キーンである。彼女は9.11当時、8年間勤務していた港湾局警察(PAPD)の警官だった。それ以前、彼女は米陸軍に13年間在籍し、爆発への対応訓練を受けた。
 
 以下に示すのは、爆発の6つの特徴であるが、それが記されていたのは元FBIの爆発の専門家であるジェームズ・サーマンが『実際の爆発現場での調査(270)』という著書の中である。 これらの特徴は、スー・キーンが『グラウンド・ゼロの女たち』(271)の著者に語った言葉の抜粋と一致している。これらの供述は、9.11事件から数カ月以内になされたもので、港湾局警察署に提出した手書きの別個の書類によって裏付けられている。

キーン:「数分後、爆弾が爆発するような音がしました。爆発が起こったのはその時です。」
「窓が吹き飛んで...みんな投げ飛ばされた。」 「それぞれの爆発が、私をすくい上げ、投げ飛ばした。」
「信じられないような空気の奔流があり、まさに肺から息を吸い取られた。」
「巨大な風とともに、すべてが私の中から消えていった。その後、風は止み、本当に静かになった。この時点では呼吸はできたが、今度はすべてのものを吸い込んでいた。ほとんど逆気流みたいだった。竜巻のような音だった。」

 以下に挙げるのは、元FBIの爆発物専門家ジェームズ・サーマンがその著書『実践爆弾現場捜査』(270)の中で述べている、爆発に共通する6つの特徴である。これらの特徴は、スー・キーンが『グラウンド・ゼロの女たち』(271)の著者に語った言葉の抜粋と一致している。これらの供述は、9.11事件から数カ月以内になされたもので、港湾局警察署に提出した手書きの別個の書類によって裏付けられている。

1. 音

キーン:「数分後、爆弾が爆発するような音がしました。爆発が起こったのはその時です。」

2. 確かな爆圧の局面

「窓が吹き飛んで...みんな投げ飛ばされた。」 「それぞれの爆発が、私をすくい上げ、投げ飛ばした。」

3. 爆風正圧時の部分真空

「信じられないような空気の奔流があり、まさに肺から息を吸い取られた。」

4. 負の爆風圧の段階

「巨大な風とともに、すべてが私の中から消えていった。その後、風は止み、本当に静かになった。この時点では呼吸はできたが、今度はすべてのものを吸い込んでいた。ほとんど逆気流みたいだった。竜巻のような音だった。」

5.火災または熱効果

「...彼は私をホースの下に放り込んだ。ある意味とても気分が良かった。その時まで皮膚にやけどをしていたことに気づかなかった。火傷の痕はあったけど、火事の痕とは違って、顔も胸も真っ赤だった。

6. 崩壊と榴散弾

「信じられないようなものが体から出てきた。まるで榴散弾のようだった。まだ出ている。」

 この勇敢で明らかに心的外傷を負った人物の手書きのPAPD報告書は、いくつかの重要な点で上記の説明を裏付けており、2003年に公開されたPAPD文書(272)で直接入手できる。その報告書の1ページを以下に引用する。

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 ツインタワーの破壊の原因を究明しようとするとき、どのような合理的な根拠に基づいてスー・キーンの証言を除外できるのであろうか?

 まとめると、タルディオ/ゾーダ、レモス、キーンの目撃証言は、「質」、つまり細部に富んだ証拠の例である。以下では、目撃証拠の「量」の問題を検討する。



 ツインタワーが破壊された時刻付近の爆発について、明示的または暗示的に記述している目撃証言の完全な説明を作成するのは難しい。FBIも、9/11委員会も、国立標準技術研究所も、その数を公表していない。私は、ツインタワーでの爆発に関する目撃者の最も完全な一覧を作成した。156件の目撃証言がある。以下に示す2つのグラフは、この一覧のある側面を要約したものである。

図8-1:職業・機関別の目撃者

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 156人の目撃証言のうち、121人はニューヨーク消防局(FDNY)のものである。港湾局警察(PAPD)の目撃者も14人いる。13人はレポーターで、そのほとんどが大手テレビ局に勤務している。8人は 「その他」として記載されており、たいていはタワーの近辺で働いていた人たちである。

 FDNYとPAPDの構成者は通常 「第一応答者」と呼ばれる。つまり、156人の目撃者のうち135人、つまり全体の87%が第一応答者なのである。なぜなら、これらの人々は普通の人々よりも爆発についてはるかに多くの経験を持っているからである。しかも、彼らの供述は職務の一環として上官に提出されたものであり、供述が収集された状況からも、この目撃証拠は非常に強力なものとなっている。

 また、ほとんどの場合、彼らの証言は直接ビデオテープに収められているため、レポーターも一覧の中で重要な位置を占めている。彼らの声の抑揚や、しばしば身振り手振りを詳細に調べることができる。記者の証言はまた、ほとんどの場合、目撃した出来事の数分後、あるいは数秒後に、ほとんど再考することなく、無意識になされるものであることも重要である。無意識の目撃者の証言は、内的あるいは外的なふるいにかけられる時間がほとんどないため、信憑性が高いと広くみなされている。実際、米国連邦証拠規則では、通常、法廷外で証人が行った陳述は法廷に認めないことになっており、これは伝聞と呼ばれている。しかし、伝聞に対する規則の例外として、「興奮した発言」という例外がある。この例外は、伝聞が「驚くべき出来事や状態に関連する供述であって、その出来事や状態による興奮した混乱状況に供述者がいたときになされたもの」である場合に認められるというものである(Federal Rules Evid. (Fed. Rules Evid. 803(2))。予想されたように、9.11に関しては、記憶に対する歪曲傾向が爆発仮説に不利に働いた。

 次のグラフを論じる前に、爆発の目撃者一覧がどのように作成されたかを説明するのが適切であろう。目撃者は、証言の中で少なくとも次の用語の一つを使っていれば、一覧に含まれている。 「爆発」(または 「爆発する」 に対応する言い換え)、「爆風」、「爆破」(または 「吹き飛ばす」)、「爆弾」(または 「それに類する装置」)、「内破」。また、「その他のCD(current density電流密度)」と呼ばれる分類もあり、これには、これらの用語は使われていないが、ある点では制御解体を強く示唆する事例が含まれている。この方法の要点は、単に爆発報告を定量化できるようにすることではなく、解釈経過における一覧作成者の役割を減らすことにある。目撃者が一覧に含まれるのは、彼らが目撃したものを外部の観察者が爆発と解釈するからではなく、目撃者自身が目撃したものを爆発と解釈するからである。

 さらに、捜査当局には証拠の質を点検するのに役立つ方法がある。目撃者を精査し(名前、職業、信頼性、経験)、欺瞞の動機を調べ、情報源の質を調べ、すべての目撃証言の保管過程を検証し、そしてもちろん、類似したものや類似していない他の証拠による裏付けを確認することができる。今回の事例では、裏付けが非常に大規模であるため、他の検証過程はあまり注目されていない。

 「爆発」の分野が圧倒的に多く、112人の目撃証言がある。しかし、32人の目撃者がいる「爆弾」の分野もきわめて重要である。この一覧で爆弾について話している人のほとんどは消防士であり、彼らが「爆弾」という言葉を使うことから、高層ビル火災で遭遇するような爆発について話しているのではないことは明らかである。

 さて、目撃証拠に基づく解体論には3つの一般的な反論がある。ひとつは、目撃証拠は 「薄弱」 であり、無視できること、もう1つは、実際には爆発的でない事象(エレベーターの落下など)が問題であったにもかかわらず、目撃者が誤って爆発を報告した可能性があることである。三つ目の反論は、唯一まともに受け止められるものである。それは、大火災には多くの自然な爆発形態があり、爆発があったという事実だけでは火薬が使用されたことにはならない、というものである。爆発に関する目撃証言から制御解体仮説に至るのは不当な飛躍である、と反対論者は主張する。

図8-2:使用された用語別の目撃証言

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 典型的な火災に伴う爆発の種類は、さまざまな出版物に詳しく記述されているが、おそらく最も権威があるのは、全米防火協会の『火災・爆発調査の手引き』であろう。そこでは、ツインタワーの火災に伴うと予想される爆発について、4つの型が記述されている。

  1.BLEVE(「沸騰-液体-膨張-蒸気-爆発」、爆発するボイラーと同様)

  2.電気爆発

  3.煙爆発(爆発の逆気流)

  4.燃焼爆発(天然ガス、ジェット燃料の蒸気など)

 目撃証言には、4種類の爆発をすべて否定する3つの特徴がある。つまり、これら4種類の爆発が起こった可能性は十分にあるが、目撃者が知覚したという主な爆発を説明するものではないということである。以下は、説明すべき3つの特徴である。

識別

 もしその爆発が一般的な火災の爆発であったなら、消防士はその爆発を識別し、名前をつけるはずである。しかし、そのような例はほとんどない。それどころか、例えば爆弾に関する言及の多さからもわかるように、消防士たちは明らかに自分たちが遭遇し慣れている爆発とは異なる型の爆発だと感じている。

力強さ

 多くの目撃者は、ツインタワーが爆発で破壊されるのを見ていると思っていた(「見上げるとビルが爆発していた......頂上全体が火山のように落ちた」)。しかし、一般的な4種類の火災関連爆発は、どれもこのようにはならない。NISTによれば、ツインタワーは飛行機が衝突した地点から下は基本的に無傷であった。BLEVE(沸騰-液体-膨張-蒸気-爆発)や燃焼爆発が木造家屋のような構造物を破壊することはあるが、今回問題となっているような頑丈な鉄骨構造物を破壊した例はない。また、このような爆発に適した条件(たとえば、必要な量の天然ガスやジェット燃料)が、劇的な破壊が始まった時点でツインタワーに存在したという証拠もない。

定型化

 上述したように、多くの目撃者が、4つの一般的な爆発型のいずれでも説明できない、規則的で急速なエネルギー的現象がビルの下方で連続して起こったと報告している。これらの定型化された噴出が爆発の結果であるとすれば、それは爆薬による爆発としか考えられない。


目撃証拠は9.11委員会とNISTによって無視・抑圧された。

 以上の考察は、捜査当局が入手可能な目撃証言の概略を示している。最後の要点は、この証拠が9.11委員会とNISTの双方によって無視され、あるいは抑圧されてきたということである。

 585ページに及ぶ9.11委員会報告書には、崩壊時の爆発に関する目撃証言に言及した一文がある。その文脈は、サウスタワーが倒壊した時、ノースタワーの上層階にいた消防士についての議論である。文章は以下の通りである。 「南向きの窓の近くに立っていなかった消防士たちは、サウスタワーが倒壊したことを知る由もなかった。言い換えれば、9.11委員会によれば、消防士の一部、つまり視界が遮られたノースタワーの上層階にいた消防士は、サウスタワーの倒壊を爆弾の爆発と見間違えたということである。ここで意味されているのは、おそらく少数の爆発目撃者が間違えたということである。」

 もちろん、入手可能な目撃証言を注意深く検証すれば、上記のように、爆発目撃者の全員または大半がノースタワーの上層階にいたというのはまったくの誤りであり、視界を遮られた目撃者だけが爆弾が爆発したと思ったというのはまったくの誤りであることがわかるだろう。真実は、目撃者は実にさまざまな場所にいて、その多くがタワーを非常に明確に見ていたということである。

 アメリカ国立標準技術研究所(NIST)は、目撃証言に対してさらにひどい扱いをした。NISTの目的のひとつは、「航空機の初期衝突後、WTC1とWTC2がなぜ、どのように崩壊したかを明らかにする」ことである(275)。しかし、この報告書の295ページには、ツインタワーで爆発を感じた目撃者についての言及は一つもない。

 NISTはソフト(薄弱な)な証拠ではなく、ハード(確固とした)な証拠を扱っているのだから、これは驚くべきことではないという意見もあるだろう。NISTが扱うのは、柱の大きさ、到達温度、鋼鉄の降伏強度のようなもので、目撃者の証言は扱わない。これは間違っている。真実は、NISTは目撃者に注目し、それを公然と論じることで証明される。

 ツインタワーの調査のごく初期に、NISTは目撃証拠を収集する洗練された方法を採用し、その結果はNIST最終報告書の第7章(「人間活動の再構築」)に見ることができる。電話インタビュー、対面インタビュー、焦点集団討議のすべてが用いられた(276)。例えば、以下の記述に注目してほしい: 「1回平均2時間の225件の対面インタビューによって、9月11日朝のビル内での活動や出来事に関する詳細な生の証言や観察が集められた」(277)。第7章はタワーの破壊に関するものではないが、NISTは他の箇所で、ビルがどのように倒壊したかを理解する上で目撃証拠が重要であることを明確に認めている(278)。しかし、NISTはなぜか、インタビュー対象者だけでなく、文献の中にも、爆発や爆弾に関する目撃証言が一つもない。たとえば、この論文の根拠となった156人の目撃証言は、その一覧を作成するために使われたすべての情報源に近づけたにもかかわらず、すべて見逃している。

 9.11委員会と国立標準技術研究所(NIST)は、明らかにFBIに倣い、標準的な調査の原則に違反している。これが無能の証拠であろうと、意図的な隠蔽の証拠であろうと、私の現在の議論とは無関係である。いずれにせよ、ここまでに行われた公式調査が著しく不十分であり、新たな徹底的調査が不可欠であることは明らかである。


第8章 巻末の注

 255)犯罪捜査における目撃者の重要性は、以下のような出版物で確認されている: チャールズ・レジニ「未解決事件の概念」『FBI Law Enforcement Bulletin』1997年8月号、チャールズ・ウェルフォードとジェームズ・クローニン「殺人事件のクリアランス率を明らかにする」『National Institute of Justice Journal』2000年4月号、ヴィヴィアン・ロード「未解決事件殺人捜査班の導入: ヴィヴィアン・ロード「未解決事件殺人課の設置:困難な課題」『FBI Law Enforcement Bulletin』2005年2月号。社会科学者の間では、目撃証拠の素朴な受け入れに対する攻撃(特に人間の記憶に対する素朴な見方に対する攻撃)が、ハーバード大学のエリザベス・ロフタスによって少し前に先導された。例えば、彼女の『目撃証言』(マサチューセッツ州ケンブリッジ:ハーバード大学出版、1979年)を参照されたい。しかし、ロフタスは目撃者を不要だとは主張していない。彼女は1997年にジェームズ・ドイルと共著した本の中で、「目撃証言の不正確さや陪審員の誤解にもかかわらず、法制度は目撃証言を法的に排除する余裕も無視する余裕もない。時にはそれが唯一の証拠であり、正しいことも多いのである。」 目撃証言: 民事と刑事。Lexis Law Publishing, Charlottesville, 3rd ed., p. 7.

256) NFPA 921: 火災・爆発調査の手引き。NFPA 出版。米国マサチューセッツ州、2004 年。セクション 21.16.

257) 「爆発的証言: 9.11オーラル・ヒストリーにおけるツインタワーについての暴露". 2006年1月26日。http://www.911truth.org/article.php?story=20060118104223192h

258) Graeme MacQueen, "118 Witnesses: The Firefighters' Testimony to Explosions in the Twin Towers.". Journal of 9/11 Studies, 2006, p. 47. オンラインで入手可能:http://www.journalof911studies.com/articles/Article_5_118Witnesses_WorldTradeCenter.pdf

259) 「爆発的証言: 9.11オーラル・ヒストリーにおけるツインタワーについての暴露". 2006年1月26日。オンラインで入手可能:http://www.911truth.org/article.php?story=20060118104223192

260) Graeme MacQueen, "118 Witnesses: the Firefighters' Testimony to Explosions in the Twin Towers.". Journal of 9/11 Studies, 2006, p. 47. オンラインで入手可能:http://www.journalof911studies.com/articles/Article_5_118Witnesses_WorldTradeCenter.pdf

261) バーケットが両塔の崩壊から逃走する様子を映した長くて重要なビデオクリップは、ここで見ることができる: https://www.youtube.com/watch?v=IE7fWV2qUVU

262) http://www.archive.org/details/cnn200109111421-1503

263) https://www.dropbox.com/s/w3n7qgb9u4b0rfs/NIST 14 Matthew Shapoff.mp4?dl=0

264) https://www.youtube.com/watch?v=-npAbNl2ihY. ジャック・ケリーは結局、不名誉にもUSAトゥデイを辞職せざるを得なかった。 http://www.usatoday.com/news/2004-04-22-report- one_x.htm

265) https://www.youtube.com/watch?v=ft1a2kyGYMg

266) ナウデット映画のクリップはオンラインで入手可能: [http://www.youtube.com/watch?v=jODfN8oZWe0.](http://www.youtube.com/watch?v=jODfN8oZWe0)

267) レモスのインタビューはhttps://www.youtube.com/watch?v=vJ6cJ_jGqLo。

268) ブッシーには構造破壊仮説が与えられており、その仮説の中で自分の経験を位置づけているのだが、彼が実際に見たことの記述がその仮説と矛盾していることに気づいていないようである。

269) 9.11のネットワークテレビで放映され、さまざまに拡大・分析された有名なビデオクリップは、https://www.youtube.com/watch?v=fV0m7ZpK57g

270) Taylor & Francis. ボカラトン、2006年。本書はシリーズ「犯罪捜査と法医学捜査の実際」の一部である。

271) Susan Hagen and Mary Caroub, Women at Ground Zero: Stories of Courage and Compassion. Alpha, 2002.

272) PAPDの警官が提出した報告書は、ニューヨーク・タイムズ紙がニューヨーク市を提訴して公開された後、2003年8月に他の資料とともに公開された。Kevin Flynn and Jim Dwyer, "The Port Authority Files: 声;警官たちの9月11日の証言: 詳細は大惨事". ニューヨーク・タイムズ』2003年8月30日。PAPDの報告書全文は2003年にThe Memory Holeによって掲載され、このサイトは2009年にハッキングされたが、文書はオンラインで入手可能である: http://adam.pra.to/public/mir/www.thememoryhole.org/911/pa-transcripts/。

273) これは予想通りである。このように人々が記憶を修正する傾向は、目撃者の記憶を研究している社会科学者たちによって指摘されている。LoftusとDoyle, p.54参照:「記憶の "汚染 "は、目撃者が他の目撃者と話したり、当局に質問されたり、メディアの証言によって起こりうる」。また、同巻(98頁)にはこうある: 「信憑性の高い人物は、他人を容易に操ることができる。彼らは他人を説得し、態度を変え、無数の方法で他人の行動に影響を与えることができる。」

274) 9.11委員会報告書 The 9/11 Commission Report: National Commission of the Terrorist Attacks Upon the United States (New York: W. W. Norton, 2004), p. 306.

275) NIST NCSTAR 1: 世界貿易センタービルの崩壊に関する最終報告書。National Institute of Standards and Technology. Sept. 2005, p. xxix.

276) NIST タワーに関する最終報告書、第 7 章、p. 155 ff.

277) タワーに関するNIST最終報告書、157頁。

278 NISTタワーズ最終報告書、xxxviiおよび143頁。

(掲載画像: "9/11" by slagheap is licensed under CC BY-SA 2.0.)

(Featured Image: "9/11" by slagheap is licensed under CC BY-SA 2.0.)

9-11実行犯の中にCIAの工作員が!

<記事原文 寺島先生推薦>
'Special' service: Declassified Guantanamo court filing suggests some 9/11 hijackers were CIA agents
What does the intelligence agency have to do with the suicide terrorist attack?
「特殊」作戦:開示された、グアンタナモ軍事委員会が出した裁判書類から示唆されたのは、9-11のハイジャック実行犯がCIAの工作員だった可能性だ。
あの自殺テロ攻撃とCIAの関係とは?
筆者:フェリックス・リブシッツ(Felix Livshitz)
出典:RT  2023年4月12日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2023年5月9日


© Global Look Press


 グアンタナモ軍事委員会が出した裁判書類の内容は爆弾のような内容だった。これは、ニューヨークでの「9-11」テロ攻撃の実行犯として起訴された被告に関するものだったのだが、一見してとんでもない内容だったのだ。

 この文書は、グアンタナモ湾裁判所の記録が原文だったのだが、公表された際は完全に編集が加えられていた。独立系の研究者らは編集前の原本の写しを入手したのだ。この文書の文責者は、グアンタナモ軍事委員会の主席調査員で、麻薬捜査局に長年務めていたドン・カネストラロ氏であり、同氏が個人的に行ったサウジアラビア政府が9-11攻撃に加担していたかどうかについての調査に関するものであり、この調査は、被告側の弁護士らの要請を受けてのものだった。

 その文書によると、ハイジャック犯のうち2名は、CIAから厳格な監視を受けており、意図的かそうでないかは不明だが、この2名が世界貿易センタービルに航空機を突っ込ませるずっと前から、CIAに雇われていた可能性があることが判明したのだ。



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2人の男性についての話

 尽きることのない9-11テロ攻撃の謎は、20年以上経過した今でも未解決の事項がたくさんある。中でも最も大きく闇が深そうな謎は、ナワフ・アル・ハズミとハリド・アル・ミハダーという2人の男が、あの運命の日までの18ヶ月間、どう過ごしてきたかについてだと言える。この両者が複数の入国許可証により米国入りしたのは、2000年1月のことだった。彼らの入国は、両名がCIAやNSA(国家安全保障局)から、アル・カイダのテロリストの疑いがあるとしてずっと警戒されていたにも関わらず、認められたものだった。

 米国入りするほんの数日前、2人はクアラルンプールで開催された、アル・カイダの首脳会議に出席していた。この会議では、9-11テロ攻撃についての重要な詳細について話し合われ、合意されたようである。この会議の模様は、CIAのアレック局から直接要請を受けたマレーシア当局により、秘密裏に写真や動画に収められていた。このアレック局とは、ウサーマ・ビン・ラディンを追跡するために設置された組織であったが、おかしなことに、撮られた動画には音声が全く入っていなかった。

 そうであっても、このような会議に参加していたこと自体、ハズミとミハダーの米国入りを阻止するのに十分な理由となったはずだ。あるいは少なくとも、2人が米国入りしたことをFBIに知らせるのに十分な理由となったはずだ。それなのに、2人はロサンゼルス国際空港で、6ヶ月滞在すると称して入国した際に、何の妨害も入らなかったのだ。さらにアレック局内のFBIの代表者たちは、この情報をFBIの上司に伝えることをCIAから阻止されていた。

 「このことをFBIに伝えなければなりません。この2人は明らかに悪人です。少なくとも2人のうちどちらかは、複数の米国への入国許可証を持っています。ですからこのことをFBIに伝えなければなりません。(でもCIAが)私にこう言ったのです。‘’ダメだ。この件はFBIの管轄外だ‘’と」。アレック局の一員であるマーク・ロッシーニは当時同僚と交わした話を思い出してこう語った。


ナワフ・アル・ハズミ(右)とハリド・アル・ミハダー(左)© Wikipedia


 米国到着直後に、ハズミとミハダーはサウジアラビア国籍のカリフォルニア在住のオマル・アル・バヨミという名の人物に空港内の食堂で面会した。バヨミは、その後2週間かけて、2人にサンディエゴ市内のアパートを探す手伝いをし、賃貸契約の連帯保証人として署名し、賃貸料として1500ドルを与え、アンワル・アウラキーという人物に引き合わせた。 アウラキーは、地元のモスクの指導者だった。なおアウラキーは、米国のドローン機の攻撃により、2011年にイエメンで殺害された

 9-11の後、FBIによる捜査の対象となったことは当然のことだった。このFBIの捜査は、サウジアラビアがこのテロ攻撃に加担していたかについてのものであり、「アンコール作戦」という名で知られていた。2003年のリャドでの捜査員らからの聞き取りに対して、バヨミは、ハズミとミハダーとの面会は偶然の出来事だったと主張した。バヨミによると、2人がアラビア語を話す声が聞こえてきて、英語を話せないことを知り、善意の気持ちから2人を助けてあげようと思った、とのことだった。



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 しかしFBIが出した結論は、このバヨミの話とは違っていた。その結論は、ブヨミがサウジアラビアの諜報員であり、米国内に拡がっていた好戦的ワッファーブ派の一員だったというものだった。この勢力はテロリストと思われる、あるいは実際のテロリストを指揮しており、外国の反サウジアラビア勢力の動きを監視する組織だった。さらに、このアンコール作戦の判断では、バヨミが9-11テロ攻撃を前もって知っていた可能性は五分五分であり、サウジアラビア政府が知っていた可能性についても同様である、とのことだった。


隠蔽された理由は?

 これらの爆弾的事実が明らかにされることは、2022年3月までなかった。この時、大統領官邸からの要請により、FBIが所有するお宝情報が開示されたのだ。グアンタナモ軍事委員会が新たに公表した書類には、バヨミのハズミ、ミハダー両者との接触がより詳しく記されていた。さらにCIAが、米国在留中のこの2名やこの2人の動きに強い関心を示していたことも明らかにされていた。しかもCIAは、2001年8月下旬になってやっと、この2名の存在をFBIに伝えていたという事実も判明した。

 この文書の文責者は、グアンタナモ軍事委員会の主席調査員で、麻薬捜査局に長年務めていたドン・カネストラロ氏であり、同氏が個人的に行ったサウジアラビア政府が9-11攻撃に加担していたかどうかについての調査に関するものであり、この調査は、被告側の弁護士らの要請を受けてのものだった。FBIと国防総省が所持していた開示された情報や両機関の代表者らの聞き取りの内容から強く示唆されることは、CIAが公的な捜査を妨害し、アル・カイダとCIAの繋がりを隠そうとしていた疑惑だ。

 この判断は、FBIの4名の匿名の工作員が、9-11テロ攻撃の捜査に当たっていたカネストラロ首席捜査員の聞き取りの際してそれぞれが出したものだ。その中で最も驚愕させられる疑惑は、FBIの工作員の一人「CS-23」が報告書で明らかにした内容だった。この工作員は、「対テロや対諜報活動に関して人並み外れた知識を有する」人物だった。


ワシントンDCにあるFBI(連邦捜査局)門前の警備用鉄格子 © Stefani Reynolds / Getty Images


 「CS-23」が詳述していたのは、CIAが繰り返しバヨミの捜査に当たっていたFBIに対して繰り返して嘘をつき、妨害していた状況についてだった。 一例を挙げれば、CIAの当局者らは、アンコール作戦の代表者らから問われた際、バヨミに関する文書は持っていないと主張していたが、 CS-23はその主張が「偽証」であることを知っていた。またCIAはバヨミに関する利用可能ないくつかの文書を所有していて、その証拠文書は夥しい規模になっていた。

 さらにCS-23がしっかりと掴んでいた事実は、CIAがサウジアラビアの諜報機関との繋がりを利用して、 ハズミとミハダーを雇おうとしていたり、CIAによる米国内での諜報活動を禁じる法律から逃れるために、サウジアラビア当局を仲介者として利用していたことだった。



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 CS-23によるこの説明は、別のFBI工作員である「CS-3」によって裏付けがとられている。このCS-3という工作員は、バヨミがサンディエゴにおいて、この2名のハイジャック犯に銀行口座を用意し、賃貸アパートを用意した行為は、CIAの要請によるものだったとまで主張した。バヨミが入手したいかなる情報も、アレック局に流されることになっていたという。

 CS-3はこのような状況を不審に思い、CIAの下部組織である米国内に置かれ、専門家たちを擁するこのアレック局が、このアル・カイダの2名の工作員の採用に加担していることが腑に落ちなかったという。というのも、通常このような活動は、訓練を受けた海外の職員らの管轄下において外国を拠点とした秘密工作として行われるものだからだ。「CS-IO」という工作員も同じように、このような取り決めは「非常に異例のこと」であり、この取り決めのせいで、「(アレック)局が、アル・カイダが工作活動を行っていると思われる国々から数千マイルも離れた拠点から、アル・カイダ内部の情報提供者を得ることはほとんど不可能なことになってしまった」と語った。

 CS-23によると、このような興味深い手がかりがあったにも拘わらず、FBI当局の上司はCIAとバヨミの間の関係やハズミとミハダーを採用したことを深く詮索しないよう圧力をかけた。さらにFBIの代表者らによる国会の9-11合同調査委員会の前での証言の際に指示されていたのは、サウジアラビアとアル・カイダの関わりについては全て明らかにしないように、ということだった。

 CS-3によると、彼らや同僚らもこの合同調査委員会の聞き取りを受ける前に、アレック局内のCIA当局者らから捜査官に全面的に協力しないよう命じられており、これらのCIA当局者らは、この合同調査委員会は、9-11に関係する「誰かをしょっぴくつもり」であるとも伝えていたという。

 カネストラロ調査員は、9-11テロ攻撃の前にFBIから得ていた重要な情報を、なぜCIAが隠していたかについての結論は示していない。もしそのような情報を明らかにしておれば、あのテロ攻撃の遂行は防げた可能性があったというのに、だ。さらには、なぜFBIが
CIAの隠蔽工作と歩調を合わせていたかの結論も出していない。ただしそのひとつの答えとして、アレック局という組織がもつ性格が普通ではなかったことが挙げられるだろう。

 どう考えても、このような作戦は、アル・カイダの隠れ場所に潜入して、テロ行為を止めさせるためのものだったとは言いがたく、CIAの目的は、アル・カイダの活動に影響を与え、指示を出すことによって、テロ行為を引き起こそうとしていたとしか思えない。そのため、CIAの正規の手順を踏まないやり方で、工作員の採用を行っていたのだろう。このような恐ろしい秘密工作に気づいたFBIは、見て見ぬふりを決め込み、この件に関しては完全に手を引くほうが得策であるという判断を下したのだろう。

9/11は阻止できた。アル・カイダ内部にスパイを送り込むチャンスはいくらでもあった。

9/11は阻止できた。アル ・カイダ内部にスパイを送り込むチャンスはいくらでもあった。

<記事原文 寺島先生推薦>

9/11: The spies inside Al-Qaeda who could have prevented the attacks

Russia Today 論説面

2021年9月10日

トム・セッカ-(Tom Secker)

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>

2021年10月15日

By Tom Secker, a British-based investigative journalist, author and podcaster. You can follow his work via his Spy Culture site and his podcast ClandesTime



 9/11事件の20周年を迎える日が近づいている。そんな中、西側諸国の工作員としてアル・カイダ内部に侵入した3名のスパイの驚くべき話を再度詳しく考えてみても損はないだろう。なぜ彼らをもっと利用しなかったのだろうか?

 9/11のテロ攻撃についてこれまで何度も繰り返されてきた話によれば、情報提供者を雇い、アル・カイダ内部で諜報活動を行わせることは極めて困難であるということだった。その理由は、アル・カイダというのは正体を掴みにくくするために極端に細かく区分化された組織だったからだ、ということだった。しかし実は9/11に至るまでに、英・米・仏、どの国の諜報機関も、アル・カイダの内部になんとか食い込むスパイを送り込むことは可能だったのだ。アフガニスタンにあったアル・カイダの訓練所にさえも、それは可能だったのだ。

 オマール・ナシリは1960年代にモロッコで生まれ、ベルギーで育った。1990年代の前半に、ナシリはGIAのもとでの銃の密輸に関わった。GIAとはアルジェリアのイスラム教民兵組織であり、アルジェリア内戦では何万もの人を殺害している。その組織からお金が盗まれたというもめ事に巻き込まれた後、ナシリはフランスの諜報機関に近づき、それ以降GIA内部でのスパイとして雇われた。

 ナシリは武器の密売行為に荷担し続け、1994年にGIAが起こしたエア・フランス機のハイジャックにおいては武器を供給する役目を果たした。そのハイジャックの目的は、飛行機をエッフェル塔に突っ込ませることだった。しかしその筋書きは失敗した。フランスの特殊軍が飛行機を包囲したからだ。その際もナシリは、GIAへの武器の提供を実行した。ナシリは爆発物を積み込んだ自動車でフランスからスペインに移動し、モロッコで工作を行うGIAにその爆発物を届けることさえしている。ナシリの雇い主であったフランス人ジルは、ナシリのその行為を承認しており、その数日後にアルジェリアで大規模な自動車爆撃事故があったときも、不問に付した。

 このような詳細が明るみに出たのは数年後のことである。ナシリは自伝を書き上げ、BBCから特集のインタビュー取材も受けている。





 1995年の夏には、ナシリはパキスタンに飛び、アフガニスタンとパキスタンの国境付近にあるアル・カイダの訓練所に入り込むという新しい任務を行った。ナシリは1年間その訓練所で過ごし、武器の使い方や自家製爆弾の作り方などを学んだ。さらにはイスラム教の教義も学んだ。

 ヨーロッパに戻るや、ナシリは英国の諜報機関で職を得、ロンドンのイスラム教徒居住区や、アル・カイダを支援しているネットワークとして知られている「Al Muhajiroun(移民たち)」という団体に潜入する任務を行った。しかしナシリにはこの任務は退屈であった。というのも、この任務には英国内での攻撃活動が計画されていなかったからだ。そこでナシリは雇い主にアフガニスタンの訓練所に戻して欲しいと頼み続けていた。ナシリは英国の諜報機関にパキスタンにいる関係者の電話番号を教えて、その人物に英国政府から与えられた資金を送ることさえもしたが、諜報機関の幹部たちはナシリを訓練場に引き戻すことは許さなかった。

 アル・カイダが東アフリカの米国大使館を爆撃した後でさえも、MI5やMI6(いずれも英国の諜報機関)のナシリの上司は、ナシリをアフガニスタンに戻すことを拒んでいた。その後ドイツの諜報機関で一定期間仕事をしたが、そこでも同じようないらいらした気分を味わったナシリは、2000年にスパイという仕事を辞めた。ナシリの雇い主が真剣にナシリの言い分に耳を傾け、アフガニスタンに戻ることを了承していたならば、これから記すエーメン・ディーンの話の通り、ナシリが9/11テロ攻撃の警告を前もってできていた可能性は非常に高かっただろう。

 ナシリがテロ攻撃を実際に計画していた人々のスパイとして活動することを上司から許されなかったのと同じ頃、英国の諜報機関であるMI6は新しいスパイを雇い入れた。その男の名は、エーメン・ディーン。彼は1978年にバーレーンで生まれ、サウジアラビアで育った。ナシリと同様、ディーンもソ連・アフガニスタン戦争後に、世界規模で展開されていたジハードに参加していた。ディーンは、西側が支援するボスニアのムジャーヒディーンの一員としてボスニアでの戦争に参加した。その前にはアゼルバイジャンのバクーでイスラム教徒による慈善活動に参加し、フィリピンのモロ・イスラム解放戦線にも加わっていた。のちにディーンは自身の人生に関する本を著し、メディアから多くの取材を受けてきた。




 アル・カイダによる1998年の米国大使館爆撃事件が、彼のものの見方を変えた。その時点までは、ディーンは完全にジハードに入り込み、ウサ-マ・ビン・ラディンに忠誠を誓っていた。しかしケニヤやタンザニアの破壊や苦しみを目にして、ディーンは人が変わった。特に、大使館爆撃の後に米軍がアフガニスタンのファルーク訓練所に対して行った空爆において瀕死の経験をしたことが、彼を変える大きなきっかけとなった。

 訓練所を出てまもなく、ディーンはカタールの為政者たちに拾われ、これまでの経緯をすべて話し、知っていることをすべて打ち明けた。カタールの為政者たちは、ディーンに西側の諜報員になることを勧め、少し話し合った後、ディーンは英国を勤務先に選んだ。その後8年間、ディーンはMI6の秘密諜報員として活動した。

 ディーンは雇い主に、アル・カイダについて知っているすべてのことを語った。具体的には、指導者の詳細、組織構造、銀行口座、移動ルート、資金源についてなどだった。1999年には、MI6はディーンをアフガニスタンに戻し、訓練所に侵入させ、この先起こるであろう攻撃計画についての情報を入手させようとした。

 著書によると、ディーンはその後2年間を費やして、アル・カイダの計画であった「千年紀計画(Millennium Plot)」をやめさせ、シドニー・オリンピックにおいて攻撃を起こさない確約をタリバンと結び、MI6の援助のもとでパキスタンのISI牢獄から脱獄するなどの活動を行った、とのことだった。ディーンの記述によれば、彼はその後イラクのアル・カイダ組織の長となるアブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィーとの面会さえ果たした、とのことだった。

 2001年の夏、訓練所では、何か大きなことがこの先起こりそうだという話でもちきりだった。そしてディーンはアル・カイダの地方指導者の手紙を手に、ロンドンにもどされた際、MI6の人々にその話を打ち明けた。ディーンの報告によれば、MI6の役人たちにこの話を全部打ち明けたのだが、なぜか彼らは行動を起こそうとはしなかった。MI6はディーンをアフガニスタンに送り返し、さらに詳しい情報を入手させようとはしなかったし、CIAにディーンを引き合わせることもしなかった。当時CIAは、友好国に問い合わせて、アル・カイダ内部のスパイを必死で探していたのだが。

 9/11攻撃が起こって数週間後たっても、MI6はディーンをアル・カイダ内部に戻そうとはせず、ディーンには、嘘のテロ計画を使って、イスラム教徒たちを罠にかけるという工作任務を与えた。ディーンをCIAに引き合わせ、アフガニスタンやパキスタンにいるアル・カイダのメンバーを捕まえることや、9/11計画を再構築して、すべての犯人を特定することを援助させることは一度もなかった。

ALSO ON RT.COM

French intelligence knew cement giant Lafarge paid MILLIONS to ISIS & capitalized on its ties with terrorists – leaked papers

 9/11攻撃につながる芽を摘み取ることに失敗した同じような例がアウカイ・コリンズ(Aukai Collins)だ。彼も元イスラム教過激派であり、後に西側諸国のスパイに転身した口だ。彼も自身の体験談をに著している。コリンズが送ってきた人生は驚くほど悲しみにみちたものだった。16歳の時、母はギャングに殺害された。その後、彼はギャングの末端として、服役と脱獄を繰り返した。

 刑務所でイスラム教に改宗したのち、コリンズは1990年代中盤に拡大していたイスラム教徒による軍事行動に惹かれていった。コリンズはボスニアでの聖戦に参加しようとしたがうまくいかず、カシミールや、アフガニスタンの訓練所で時間を過ごし、そこで後に米国の記者ダニエル・パールを殺害することになる英国のテロリスト、オマール・サイード・シェイクと出会った。

 チェチェン紛争がコリンズにとって最初の実戦を味わう戦場となり、コリンズはチェチェンに赴き、ロシア軍との戦いに加わった。そこでコリンズは美しい16歳の娘と出会い、結婚した。その後、ロシアの特殊任務部隊が訓練所を攻撃したため、そこに滞在していたコリンズは脚に大けがを負い、後に彼は脚を切断しなければならなくなった。

 さらにチェチェンのマフィアとの間での不幸な事故にもあい、コリンズは目を覚まし、1996年にカイロで行われたエジプトのイスラム教徒組織である「イスラム集団」が起こした攻撃を体験したコリンズは、イスラム教徒による軍事行動が引き起こす脅威を実感した。コリンズはアゼルバイジャンの首都バクーの米国大使館に徒歩で侵入し、CIAの役人に自分が知っていることと、自分がやってきたことのすべてを話し、スパイとして雇ってくれるよう頼み込んだ。しかしCIAの答えは、コリンズを雇うことはできない、というものだった。しかしその理由は伝えなかった。CIAは代わりにコリンズに米国に戻る費用を渡し、FBIに引き合わせた。




 その後の4年間は、コリンズは対テロ諜報員として主にFBIに籍を置いて働いていたが、FBIとCIAの共同工作にも関わっていた。米国内にテロ攻撃の訓練所を作る計画があったため、FBIやCIAはスパイを送り込んで、訓練参加者を追跡することもできたが、そのような工作は当時の米国司法長官であったジャネット・レノにより中止された。

 1998年の初旬、CIAによるロンドンのイスラム教徒居住地への侵入作戦が行われていたとき、コリンズはびっくりさせられるような申し出を受けた。ビン・ラディン本人が、コリンズに会いたいからアフガニスタンに来て欲しいと申し出てきたのだ。

 コリンズがこの情報を諜報機関に伝えると、FBIはコリンズを訓練所に行かせることには前向きだったが、CIAのコリンズの上司は、この作戦にストップをかけた。(この上司の名はコリンズの著書の中ではトレーシーという名で知られている)。そのトレーシーはこう言っていた。「米国政府はビン・ラディンの訓練所に秘密裡に侵入する作戦を承認することはない」。

 これは本当に奇妙な話だ。CIAのビン・ラディン対策として設置されていた特別チーム「アレック・ステーション」は、何年間も、ビン・ラディンに近い人物を探し続けていたのだ。この「アレック・ステーション」に資金を出していたCIAのマイケル・シューア(Michael Scheuer)は、ナシリの著書の前書きに、「ナシリのような人物こそ、まさにCIAがスパイ要員として必要としていた人物だった」と記していた。いったいなぜ、ビン・ラディンから個人的な招待を受けたコリンズが、「ビン・ラディンと面会するという事態は絶対に起こらない」と言われたのだろうか?

 この失敗を理由に、コリンズはCIAの元で働くことをやめた。コリンズはコソボ紛争の間はアルバニアで時間を過ごし、その後米国に戻り、FBIに再度連絡を取った。コリンズがFBIに警告したのは、ハーニー・ハンジュールという人物のことだった。ハンジュールは9/11の際、国防総省に突っ込んだハイジャック機の操縦をしていた人物だ。コリンズがハンジュールにアリゾナ州フェニックスで出会った際、ハンジュールが飛行機の操縦の訓練を受けていたことを知ったのだ。しかし米国政府はコリンズの話に食いつこうとはしなかった。

 コリンズの雇い主が出世し、新しい上司に代わったのだが、この上司がコリンズのことを信頼していなかったので、コリンズとFBIとの関係は悪化し、コリンズはFBIを去った。1年以上後に9-11攻撃をテレビの生映像で見たコリンズは、FBIに電話をかけ、何かできることはないかと申し出た。コリンズは、アフガニスタンに赴き、アル・カイダのメンバーを捕まえるつもりもあることさえ伝えていた。しかしFBIはコリンズの申し出を受け入れず、コリンズを嘘発見器にかけ、コリンズが9-11攻撃を事前に知っていたことを非難しただけだった。

 FBIも、CIAも、MI5も、MI6も、一体全体どういうつもりだったのだろう?なぜこれらの機関はよってたかって、9-11の前後で、アル・カイダ内部に諜報員を送り込むという作戦を講じなかったのだろう?エーメン・ディーンは2001年の夏の時点で、アル・カイダによる大がかりな攻撃がまもなく起こることを報告していたのだ。なぜそのとき西側の諜報機関は、ディーンや、ナシリや、コリンズ(あるいはこれら三名とも)をアフガニスタンに送り込み、より詳しい情報を得ようとはしなかったのだろう?これらの諜報機関は全くそのようなそぶりを見せなかった。

 これらの話が、千載一遇の機会をふいにしたただの悲劇だったのか、これらの諜報機関が全く無能だったことを示しただけなのか、それとも何かもっと暗い企みがその裏に隠されていたのか?真実はわからない。ディーンは一般の日常生活を送れているが、ナシリは人目を避けるような生活を強いられ、コリンズは2016年に亡くなっている。アル・カイダ内部に忍び込めた、これらのスパイたちの話の全編は、もう2度と明らかにされることはないかもしれない。 

 

おっと!FBIがうっかり、9/11のハイジャック犯を支援したサウジアラビアの外交官の名前を明かしてしまった。何年も「国家機密」として明かすことを妨害されてきたのに。

<記事原文>
Oops! FBI accidentally reveals name of Saudi diplomat who helped 9/11 hijackers after years of ‘national security’ stonewalling

RT USニュース
2020年5月13日

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2020年5月23日



 FBIは、ペンタゴンへの9/11攻撃に関与した2人のアルカイダのハイジャック犯を支援したと考えられているサウジアラビア当局者の名前をうっかり明らかにしてしまった。何年も懸命に秘密を守ろうとしてきたことだったのに。

 この名前は、先週公開された裁判所への提出書類に、意図なしで無修正のまま残されていた。その裁判とは、現在訴訟中の9/11の遺族が、9/11のテロ攻撃に加担した疑いがあると、サウジアラビア政府を相手取って起こした訴訟だ。この「ミス」は、Yahooニュースで、5月12日に報じられた。その時点で司法省は提出された書類を撤回し、どのようにしてこんなミスが起きたのかについては、コメントを控えている。


こちらもどうぞ

Putin warned Bush about impending attack TWO DAYS before 9/11 – ex-CIA analyst

邦訳 http://tmmethod.blog.fc2.com/blog-entry-285.html

 しかし、その文書(FBIの対テロ対策長官の補佐官であるジル・サンボーンによる公式文書)は、既に公の目にとまっており、その秘密に再び蓋をするという動きもなかった。サウジアラビア外務省の中級役人で、1999年から2000年までワシントンDCの大使館に配属されていた、ムサド・アーメッド・アル・ジャラーという名前が、いまや世間に知られることになった。トランプ・オバマ・ブッシュ、三政権にわたり示唆されてきた「ジャラーの名を公表してしまうと国家機密上大変なことが起こる」という心配は今のところは、現実にはなっていない。遺族会の報道官は激怒したが。

 「これはサウジアラビアの関与を完全に隠そうということを示している。」報道官のブレット・イーグルソンは、5月12日、ジャラーが関与していたということは、「“サウジアラビアの大使→サウジアラビアのイスラム関連省(ロサンゼルスにある)→ハイジャック犯”という命令系統があったということ」を物語っている、とYahoo ニュースに語った。

「これは大がかりな攻撃だった」


 ジャラーは他の2名のサウジアラビア国民に指示を出していたと考えられている。その2名というのは、強行派宗教指導者のファハド・アル・スメリとサウジアラビアのスパイと疑われているオマル・アル・バユミで、ジャラーは二人のためにロサンゼルスのアパートと、銀行口座と、大量の金を手配した。スメリとバユミの名前は、2016年以来明らかにされていたが、9/11委員会が編集した、あの悪評高い「28ページ」が世に出た時、二人に身の回りの面倒を見た上で「タスクを課した」人物の名前は国家レベルの機密のままだった。


 実際、政府はどんな苦労もほとんど惜しまず、ジャラーの名前を伏せてきた。被害者の家族たちが名前を明かして欲しいと何年も法廷で要求してきたにも関わらず。昨年9月に、家族の弁護士たちは、ついに長く秘密にされてきたその名前を見ることを許されたが、家族や市民には明らかにしないという条件付きだった。さらに屈辱を増やすことになったのだが、米国司法長官のウイリアム・バーは、同日、弁護士たちが求めていた全ての資料は、「国家機密である」という申し立てを申請した。つまり、この件には、永遠に「立ち入り禁止」になったということだ。

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 US declassifies key name Saudi-9/11 lawsuit, but WILL NOT release it publicly


 大きな皮肉だが、サンボーンの公式発表は、バーの「国家機密」の申し立てを、本来は後押しするはずのものだった。その申し立てとは、遺族が開示を求めていたジャラーの名や残りの情報が、もし公になれば「国家安全に大きな損害を与える」ことになるというものだった。他に影響を受ける資料には、「インタビュー、電話記録と銀行記録、情報源の報告書、外国政府の情報」が含まれる。バーとアメリカ合衆国国家情報局長官リチャード・グレネルは、ファイルを機密解除すると、情報収集の「情報源と方法」が明らかになり、外国政府がFBIと協力する意欲を低下させると主張した。

 9/11犠牲者の家族は、2016年になってやっと、9/11の攻撃に実質的な支援を提供した疑いでサウジアラビアを訴えることができた。議会が「テロの支援者に対する正義法」に対する当時のバラク・オバマ大統領の拒否権を覆した後のことだった。それまでは、サウジアラビアは国家主権による免責特権によって保護されていた。サウジアラビア王国は攻撃への関与を強く否定している。

 司法省はまた、「9-11調査弁護士委員会」からの法的異議申し立てにも直面している。同委員会は、昨年、連邦検事が、大陪審の手続きを妨害している疑いがあることについて訴えた。複数の遺族やフランクリン・スクエア・マンソン消防署もこの訴訟に加わった。

プーチン9/11の2日前に差し迫った攻撃があることをブッシュに警告 ―― 元CIAアナリスト

<記事原文>
Putin warned Bush about impending attack TWO DAYS before 9/11 – ex-CIA analyst



2019年9月5日 ロシア・トゥデイ 
ワールドニュース

(写真)2001年9月11日に破壊された世界貿易センタービルの位置を示す追悼照明設備  

 ロシアのウラジミール・プーチン大統領は、2001年9月11日の攻撃の2日前に、米国のジョージ・W・ブッシュ大統領に電話をして、アフガニスタンからの差し迫ったテロの陰謀について警告をしていたと、元CIAのアナリストは語った。

 ロシアの指導者からの緊急の警告は、『ロシアの罠:どのように私たちはロシアとの影の戦争で核の大惨事に陥るのか』という本の中で述べられていた。この本は、ブッシュ時代の元CIAアナリストであるジョージ・ビービーによって書かれ、今週の初めに発売された。


 「プーチンは攻撃の2日前にブッシュ大統領に電話をして、アフガニスタンで『長く準備されてきた』初期のテロ作戦の兆候にロシア情報部が気づいたと警告した」

 元CIAの元職員が暴露した事実は、2001年9月11日に結局は起きた攻撃について、繰り返し警告されていたというもうひとつの証拠であるように思われる。モスクワからの警告があったことが長年の間、世間に知れ渡っていた一方で、――攻撃のすぐ後に、ロシアの上級の情報部員がそれらについて話をしているがーービービーの本が示唆していたことは、情報部の間での情報交換に限らず、個人的にプーチンによってブッシュが警告を受けたことだ。

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Trump ‘thinks he knows’ who was behind 9/11


 ロシアに加えて、米国は英国のスパイからも警告を受け、切迫した攻撃の危険性をCIAとFBIも繰り返して強調していた。ホワイトハウスが実際にそれらの警告に注意をして、市民を守るできる限りのあらゆることをしたのかは、今も謎のままである。

 ホワイトハウス関係者の当時の考え方のヒントのいくつかは、コンドリーザ・ライス国家安全保障補佐官のちに国務長官の回顧録の中にある。『ライス回顧録』“No Higher Honor”の中で、ライスはプーチンからの初期の警告を無視したと告白している。彼は、サウジアラビアの資金援助を受けているパキスタンの過激派が、結局「大災害」を引き起こすだろうと述べていた。ライスが書いていたのは、彼女はその警告を無視したこと、そしてその警告をロシアのパキスタンへの敵意のせいにしたということだ。アフガニスタンでソ連が戦争をしていた時、ムジャヒディンを支援していたので、ロシアはパキスタンに敵意をもっていた。

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Mission accomplished? Number of Sunni terrorists worldwide quadrupled from Sept 11, 2001 – study

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