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ヒロシマ・ナガサキは「予行演習」:オッペンハイマーと米陸軍省が1945年9月15日に秘密裏に行なった「ソ連を地図上から消し去る」ための「終末の日の青写真」

<記事原文 寺島先生推薦>
The Hiroshima Nagasaki “Dress Rehearsal”: Oppenheimer and the U.S. War Department’s Secret September 15, 1945 “Doomsday Blueprint” to “Wipe the Soviet Union off the Map”
筆者:ミシェル・チョスドフスキー( Michel Chossudovsky)
出典:Global Research(グローバル・リサーチ) 2024年5月12日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年5月21日


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初版発行日:2023年2月7日

著者紹介
私が長年取り組んできたことは、「人命の価値」、「戦争の犯罪化」、国家間の「平和共存」、そして現在核戦争によって脅かされている「人類の未来」である。

私は20年以上にわたって、核戦争の歴史的、戦略的、地政学的側面と、「大規模なジェノサイド(大量虐殺)」を実行する手段としての犯罪的特徴に焦点を当てて研究してきた。

これから述べるのは、核戦争計画の短い歴史である。1945年8月の広島・長崎への原爆投下に至る米国の核戦争計画は、マンハッタン計画(1939-1945年)から続いているものである。

広く一般には知られていないが、ソ連に対する核攻撃という米国初の「終末の日の青写真」は、第二次世界大戦のさなかに米陸軍省によって策定され、米ソが同盟国であった1945年9月15日に「最高機密」文書によって確認された。

アメリカの外交政策の立案には、政治的妄想と偏執病の要素がある。ソ連に対する終末の日のシナリオは、国防総省が80年近くにわたって描いてきたものだ。

1945年9月の「ソ連を地図上から消し去る」計画(66の都市部と200以上の原爆)がなければ、ロシアも中国も核兵器を開発しなかっただろう。核軍拡競争もなかっただろう。

1956年の戦略空軍司令部SACの核兵器必要数調査(2015年12月に機密解除)に至るまで、アメリカの核戦争計画は当初から数多く策定されており、ソ連、東欧、中国の1200の都市部を標的としていた。

世界は危険な岐路に立たされている。米・北大西洋条約機構(NATO)とロシアの対立に関連した核兵器の使用は、必然的に進行激化し、我々が知っているような人類の終焉につながることを理解すべきである。

ビデオ 核戦争の危険性

ミシェル・チョスドフスキー、カロリーヌ・マイルー
2024年4月23日
MICHEL CHOSSUDOVSKY - THE DANGERS OF NUCLEAR WAR
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Video en français : Les Dangers de la guerre nucléaire

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ビデオ・フランス語 : 核戦争の危険性

MICHEL CHOSSUDOVSKY - LES DANGERS DE LA GUERRE NUCLÉAIRE
Video Odysee
Earlier video interview, April 2022
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ミシェル・チョスドフスキー - 核戦争の危険性
ビデオ オディシー
2022年4月以前のインタビュービデオ (訳者註:原サイトでご覧ください。)
クリックでフルスクリーン

必要なのは、核兵器の禁止と結びついた世界的な平和運動である。

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最近の動きでは、マクロン大統領を含むEU・NATOの代理人である複数の国家元首や政府首脳(強力な金融利権を代表して行動)が、ネオナチ政府に代わってNATOがロシアに対して戦争を仕掛ける必要性を率直に示唆しているが、それは第三次世界大戦のシナリオに導くだろう。

展開されているのは、「政治的階級」の犯罪化だけではなく、司法制度もまた犯罪化され、高位にある戦争犯罪の正当性を是認することを目的としている。

そして企業メディアは、不作為や、中途半端な真実や、明白な嘘を通して、戦争を平和構築の努力として弁護する。ワシントン・ポスト紙の言葉を借りれば、「戦争はわれわれをより安全に、より豊かにする」のである。

Globe and Mail
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Business Insider
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Washington Post
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その他多数

ミシェル・チョスドフスキー『グローバル・リサーチ』2024年3月3日号
***
ヒロシマ・ナガサキは「予行演習」:
オッペンハイマーと米陸軍省の秘密計画
1945年9月15日の「終末の設計図」の秘密
「ソ連を地図上から消し去る」

ミシェル・チョスドフスキー著
2023年2月1日

終末時計によれば真夜中まで90秒

ノーベル平和賞受賞者たちは、核戦争の歴史を思い起こすこともなく、さりげなくロシアを非難している。ジョー・バイデンが1兆3000億ドルを投じて開発した「より使いやすく」「低強度」の「先制核兵器」は、「自衛」の手段として、核保有国と非保有国の両方に対して「先制攻撃ベース」で使用される。

これが、現在米国と北大西洋条約機構(NATO)がロシアと対峙している際の核政策である。

これは、ネオコンの「アメリカ新世紀プロジェクト(PNAC)」に明確に示されている。

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アメリカのマンハッタン計画

ここで、1939年にイギリスとカナダの参加を得て開始されたアメリカのマンハッタン計画の一部であった「終末の日のシナリオ」の歴史を思い出してみよう。

マンハッタン計画は、アメリカ陸軍省(1941年)によって調整され、レスリー・グローブズ中将が主導する原子爆弾開発の秘密計画であった。

著名な物理学者J・ロバート・オッペンハイマー博士は、グローブス中将によって、「マンハッタン計画における原子爆弾設計のための極秘施設」として1943年に設立されたロスアラモス研究所(別名Y計画)の所長に任命されていた。オッペンハイマーは、1944年にロスアラモス研究所に加わったイタリア人物理学者でノーベル賞受賞者のエンリコ・フェルミ博士を含む著名な核科学者チームの採用と調整を任された。

オッペンハイマーは、核科学者チームの調整で重要な役割を果たしただけでなく、マンハッタン計画の責任者であるグローブス中将と、特に広島と長崎に投下された最初の原子爆弾の使用に関して、日常的に協議を行なっていた。その原子爆弾は即座に30万人以上の死者を出したのだ。

以下は、1945年8月6日、広島に原爆が投下された数時間後に機密解除された(グローブス将軍とオッペンハイマー博士との間の)電話での会話の記録である。

Gen. G. 私はあなたたち(核科学者)を非常に誇りに思う。
Dr. O. うまくいったのか?
Gen. G. どうやら、とてつもない衝撃とともに終わったようだ。
下のスクリーンショット。(click link to access complete transcript )



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1945年9月15日、「ソ連を地図から消し去る 」青写真

第二次世界大戦の公式終結(1945年9月2日)からわずか2週間後、米陸軍省は、米ソが同盟国であった1945年9月15日に、「ソ連を地図上から消し去る」(原爆204発で66都市)青写真を発表した。この悪名高い計画は、機密解除された文書によって確認されている。(詳細はChossudovsky, 2017を参照)。

下の画像は、米陸軍省が標的として想定していたソ連の66都市である。

66都市 画像をクリックすると拡大します

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ヒロシマ・ナガサキは 「予行演習」

準備文書(下記参照)は、広島と長崎の攻撃に関するデータが、ソ連に対するはるかに大規模な攻撃の実行可能性とコストを評価するために使用されていたことを裏付けている。これらの文書は、広島と長崎への原爆投下(1945年8月6日と9日)の5〜6週間後に最終決定された。

「国家安全保障を確実にするために」

ノルスタッド少将とマンハッタン計画の責任者レスリー・グローブズ将軍との間の書簡に注目してほしい。彼はロスアラモスの核科学者チームの責任者J・ロバート・オッペンハイマー博士と常時連絡を取り合っていた。

1945年9月15日、ノルスタッド少将はレスリー・グローブス中将に、「国家の安全を確保するために必要な爆弾の数」の見積もりを依頼する覚書を送った(The First Atomic Stockpile Requirements )。

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グローブス中将は間違いなくオッペンハイマー博士と相談し、1945年9月29日付の覚書でノルスタッド少将に回答した。その中で広島、長崎にも触れている。

セクション2のa、b、cを参照。

「都市の有効性を破壊するためには、都市を完全に破壊することが不可欠ではない。全壊の面積が全体よりかなり小さくても、広島はもはや都市として存在してない。」

よく読んでほしい。以下の文章は、広島と長崎が「予行演習」であったことを裏付けている。

アメリカの「国家安全保障」を脅かしている国の名前が言及されていないことに留意してほしい。

1945年9月15日付のあなたの覚書に答える。(下の返事を参照)

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1949年の「ドロップショット計画」: 300発の核爆弾、100以上のソ連都市が標的

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1945年から1950年にかけて、(トルーマン大統領の下で)ソ連を攻撃するための数多くの戦争計画が「定期的に策定され、修正された」。そのほとんどは、J.W.スミスがその著書『世界の無駄な富2(The World’s Wasted Wealth 2)』で概説しているように、完全に機能不全に陥っていた。

「これらの計画に与えられた名前は、明らかに攻撃的な目的を示している。ブッシュワッカー(ゲリラ兵)、ブロイラー(焼き肉器具)、シズル(油で揚げる音)、シェイクダウン(ゆすり)、オフタックル(攻撃側のタックル選手のすぐ外側で行われるプレー)、ドロップ・ショット(ネット際に落とすショット)、トロイの木馬、ピンチャー(盗人)、フローリック(お祭り騒ぎ)。」

米軍は、トルーマン大統領が準備を命じた仕事の攻撃的性質を知っており、それに応じて戦争計画に名前をつけていた。

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ミチオ・カク博士(角道夫は日系アメリカ人の理論物理学者)とダニエル・アクセルロッド博士は、その著書『核戦争に勝つために:国防総省の秘密戦争計画』の中で、1945年9月の青写真に続いて、アメリカ軍がソ連(および冷戦後のロシア)を爆撃する継続的な計画を立てていたことを(機密解除された文書に基づいて)証明している:

「本書(ラムゼー・クラークによる序文)は、私たちに冷戦と軍拡競争の歴史を再考させ、書き直させるものである。......そして、1945年から現在に至るまで、核戦争を起こすための米国の驚くべき秘密計画を垣間見ることができる。」

1945年9月の青写真(66都市)は、1949年にドロップ・ショット計画と題された別の狡猾な攻撃計画へと続いた:

カクとアクセルロッドによれば、1949年のドロップ・ショットは、「モスクワやレニングラード(サンクトペテルブルク)を含む100の都市部の200の標的に、少なくとも300発の核爆弾と2万トンの通常爆弾を投下する」というソ連に対する計画であった。

この計画によれば、ワシントンは1957年1月1日に戦争を開始することになる。

ドロップ・ショット計画は、ロシアが1949年8月に核実験を発表する前に策定された。

冷戦時代の1200都市の標的リスト

66都市を攻撃するという1945年の最初の青写真、それに続く1949年のドロップ・ショット計画(100都市を目標)は、冷戦の過程で更新された。1956年の計画には、ソ連、東欧のソ連圏諸国、中国の約1200都市が含まれていた(以下の機密解除文書を参照)。

攻撃用の原爆は、広島と長崎に投下されたものよりはるかに強力な爆発力を持つ(下記参照)。

我々は、ソ連、中国、東ヨーロッパに対する計画的な大量虐殺について話している。

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アルファベット順の核攻撃対象1200都市リストからの抜粋。国家安全保障アーカイブ、op. cit.

1956年6月に作成された「1959年のSAC(戦略空軍司令部)核兵器要求調査」に関わる詳細は、2015年12月22日に機密解除された(以下抜粋、クリックで全文にアクセス)。

国家安全保障アーカイブ www.nsarchive.org、 SAC, 1956によると、
「...これまで機密解除された中で最も包括的で詳細な核攻撃の標的と標的方法のリストを提供している」。知る限り、冷戦期のどの時期においても、これに匹敵する文書が機密解除されたことはない。

SACの研究には、ゾッとするような詳細が含まれている。...著者は、北京、モスクワ、レニングラード、東ベルリン、ワルシャワを含むすべての都市の「住民」を具体的かつ明確に標的とした、ソ連圏の都市・産業標的の「組織的破壊」計画を策定した。

SACの文書には、ソ連圏の1100以上の飛行場のリストが含まれており、各基地に優先番号が割り当てられている。...

第二のリストは、「組織的破壊」のために特定された都市・工業地帯のリストであった。 SACは、東ドイツから中国まで、ソ連圏の1200以上の都市を掲載し、優先順位も設定した。モスクワとレニングラードはそれぞれ優先順位1位と2位だった。 モスクワには179の指定爆心地(DGZ)があり、レニングラードには「住民」目標を含む145があった。 ... 調査によると、SACは1.7から9メガトンの爆弾で空軍の標的を狙った。

計画どおり地上レベルで爆発させれば、付近の民間人に大きな放射性降下物の危険が生じただろう。 SACはまた、抑止のために必要であると同時に、ソ連が奇襲攻撃を仕掛けてきた場合に「重要な結果」をもたらすという理由で、60メガトンの兵器も欲していた。1メガトンは、広島を破壊した原爆の70倍の爆発量である。 (強調は筆者)。

よく読んでほしい:

この極悪非道な計画がソ連とその同盟国に対して実行されたとしたら、死者の数は筆舌に尽くしがたいものになるだろう(広島と比較した場合、即死者は10万人)。構想されていた最小の核爆弾の爆発力は1.7メガトンで、広島原爆(TNT火薬15キロトン)の119倍の「威力」があった。

上記の9メガトン爆弾は広島原爆の630倍、60メガトン爆弾は広島原爆の4200倍である。

会報が 1945年9月、マンハッタン計画の科学者たちによって創設される。

皮肉なことに、広島と長崎の直後、原爆開発に携わったマンハッタン計画の科学者たちによって『原子科学者会報』が1945年にシカゴで創設された。

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核戦争2年後の1947年、会報は「午前0時7分前という独自の設定」で終末時計を考案した。

この構想は、軍拡競争がなかった時代に策定された:

1945年9月に策定されたソ連に対する終末の日のシナリオ(大量虐殺)を実行しようとしていたのは、核兵器保有国のアメリカだけだった。

終末時計が作られた1947年、『会報』が支持した「正当化」はこうだった。

「人類にとっての最大の危機は、… 米ソが核軍拡競争に向かうという見通しから来る」。

この声明の根本的な前提は、アメリカが核兵器を独占することを確実にすることであった。

1947年当時、「地図からソ連を消し去る計画」はまだ国防総省の図面上にあったのに、関連文書は30年後の1975年に機密解除された。だから、かつてのマンハッタン計画の科学者のほとんどは、1945年9月のソ連に対する青写真を知らなかった。

ソ連が核保有国として台頭したのは、「終末時計」の開始から2年後の1949年8月のことで、アメリカによる核攻撃を阻止するための行動(後に「抑止力」と呼ばれるが)を、適用することが主な目的だった。冷戦と軍拡競争の最中、この概念は最終的に「相互確証破壊」と定義されるものへと発展した。

『会報』が取り上げた何人かの著者や科学者は、アメリカの核兵器計画に関して批判的な視点を提出してきたが、マンハッタン計画の歴史や正当性に疑問を投げかけるまとまった試みはなかった。

より広範な傾向として、広島・長崎への原爆投下の「正当性」を保持しながら、ロシアや中国、北朝鮮にさりげなく責任をなすりつけ、「歴史を抹殺」しようとしてきた。

核戦争と「CO2の差し迫った危険」

ここ数年、『原子力科学者会報』は「核兵器、気候変動、その他のグローバルな安全保障問題についての関連情報を提供することを目的としている」。

終末時計エルダーズの議長であり、アイルランド共和国の元大統領であるメアリー・ロビンソンによれば(2023年の声明):

終末時計は全人類に警鐘を鳴らしている。私たちは崖っぷちに立たされている。炭素排出量の削減から、軍備管理条約の強化、パンデミック対策への投資まで、私たちはなすべきことを知っている。.... 私たちは複数の存亡の危機に直面している。指導者たちには危機意識が必要だ。(強調は筆者)

この視点は笑い草に近い。CO2は人類にとって核戦争に匹敵する危険であると、さりげなく言われている。それはプロパガンダの道具となっている。

ノーベル賞受賞者の集団によれば、終末時計は今や「さまざまな原因による人類への脅威を表している」と言われている。
ナンセンスだ。

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2023年1月の声明、ワシントン・ポストからの画像

C02やCovidを核戦争に匹敵する危険として提示することは、全くの嘘である。

その意図は世論を誤った方向に導くことにある。これは、「先制核戦争」の最初の攻撃、すなわち「自衛」の手段としての核戦争(2001年の「核態勢の見直し」で策定)という米国の教義に正当性を与える、かなり直截な宣伝活動の一環である。

懸念されるのは、ジョー・バイデンを含む米国の意思決定者たちが、ロシアに対する先制第一核戦争で「勝てる」と自らのプロパガンダを信じていることだ。そして戦術核兵器は「平和の道具」であるとしていることだ。

一方、歴史は抹消された。1939年のマンハッタン計画の猛襲以来、「終末の日の計画」(別名ジェノサイド)の開発におけるアメリカの一貫した役割は、全く言及されていない。

懸念されるのは、「ロシアを地図から消し去り」、第三次世界大戦を引き起こすことを目的とした、数々の計画と第三次世界大戦のシナリオの歴史が続いていることだ。

ロシアに対する核戦争は、1945年以来、アメリカの軍事教義に組み込まれている。

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ミシェル・チョスドフスキーはオタワ大学の経済学教授であり、非常に高い評価を得ているウェブサイトwww.globalresearch.ca を運営しているグローバリゼーション研究センター(CRG)の所長である。ブリタニカ百科事典の寄稿者でもある。著作は20カ国語以上に翻訳されている。

カナダ政府が元ナチス兵を賞賛したことで暴露されたカナダ政府の長年の対ウクライナ政策の真実

<記事原文 寺島先生推薦>
Canada’s Honoring of Nazi Vet Exposes Ottawa’s Longstanding Ukraine Policy
筆者:マックス・ブルメンタール(Max Blumenthal)
出典:INTERNATIONALIST 360° 2023年9月27日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>  2023年10月11日





ナチス・ドイツの武装親衛隊の志願兵だった人物を「英雄」として祝福したことで、カナダの自由党は、カナダによる長年の対ウクライナ政策に光を当てることになった。これまでカナダ当局は、ウクライナのファシスト民兵に軍事訓練を施してきたし、第二次世界大戦後、ナチスの元親衛隊を国内に何千人も引き受けていたのだ。


 カナダで2番目の権力者の座に就いているクリスティア・フリーランドは、ナチス・ドイツのもとで働いていたウクライナの代表的な宣伝広報担当者の一人であった人物の孫娘だ。

 1943年春、ヤロスラフ・フンカ氏は新兵として第14SS武装擲弾兵師団『ガリーツィエン』に入隊した。当時この師団はナチス・ドイツで大量虐殺(ジェノサイド)政策を構想した人物であるハインリヒ・ヒムラーの訪問を受けていた。この大隊の結成式で司会をつとめていたヒムラーは、第三帝国の政策に支援するために志願兵となったウクライナの人々に対する誇りをあからさまに示した。

 それから80年後。カナダ下院のアンソニー・ロタ議長も、ウラジミール・ゼレンスキー大統領歓迎式典に招待されたフンカ氏に対して、称賛のことばを矢のように浴びせかけた。ゼレンスキー大統領は、ロシアとの戦争に必要なさらなる武器と金融支援を求めてカナダを訪れていた。

 「本日議会にお迎えしているのは、第二次世界大戦時にウクライナの軍人であった方です。この方はウクライナがロシアから独立するために戦われた方で、98歳になられた今でも、ウクライナ軍への支持を続けておられます」とロタ議長は9月22日にオタワで開かれた議会での催しで高らかに述べた。

 「この方は、ヤロスラフ・フンカさんです。私が誇りに思うのは、フンカさんが私の選挙区であるニピシング—ティミスカミング地区のノースベイ市にお住いである、ということです。フンカさんはウクライナの英雄でもありカナダにとっても英雄です。フンカさんの軍でのあらゆるご活躍に感謝の意を表します」とロタ議長はことばを続けた。

 聴衆から万雷の拍手が湧き起こり、ジャスティン・トルドー首相、ゼレンスキー大統領、クリスティア・フリーマン副首相、カナダ軍ウェイン・エア参謀総長やカナダの各政党の党首が立ち上がって、フンカ氏の戦時中の活躍に対する賞賛の意を示した。


 フンカ氏がナチスの協力者であったという記録が暴露された後に―その事実は議長がフンカ氏の紹介をした時点で明らかになっていたはずなのだが―カナダの指導者層が―なぜかエア参謀長官は例外だが―急いで保身のための表面的な釈明に走ることになったのは、カナダのユダヤ人協会から非難の声を浴びせられて、しゅんとさせられたからだった。

 この出来事は、今や国家上の大問題に発展し、カナダの諸新聞が一面で大きく取り上げ、トロント・サン紙はこんなおどけた見出しの記事を出した。「あのナチが帰ってきた」と。さらにポーランドの教育省大臣は、犯罪者としてフンカ氏を引き渡すことまで要求した。

 自由党は今回の件を偶然の間違いであるとして火消ししようと躍起になっており、一人の自由党国会議員は党員らに、「この件が政治問題になることを回避するよう」促していた。カナダのメラニー・ジョニー外相はロタ議長の解任を強行したが、これは議長を生贄にして自身の党が取った集団的な行為の責任を有耶無耶にするためだった。

 いっぽうトルドー首相は、今回の出来事は、「深く恥ずべき」行為であったと認め、その理由を「ロシアによる喧伝行為に反撃する」ためだ、とした。こんな言い方をすれば、まるでロシア当局が90代のナチス協力者をカナダ議会に潜り込ませて、映画『クライシス・オブ・アメリカ*』よろしく、首相や側近らを、フンカ氏を英雄として迎えるよう洗脳したようにとれる。
*2004年の米国映画。湾岸戦争から帰ってきた兵たちの体にマイクロチップを埋め込み、政治を我がものにしようとする陰謀があった、という筋書き


 この出来事がただの間違いでないことは明らかだ。カナダ政府と軍の幹部がフンカ氏を議会に歓迎する前から、ファシストのフーリガンらの戦闘組織に外交上の支援を施し、キエフに国粋主義者による政権を樹立させることに手を貸し、明らかにナチスの考え方を推進している現在のウクライナ軍諸部隊への訓練を監督してきたのだから。

 カナダ政府がフンカ人を賞賛したことにより、カナダの第二次世界大戦後の政策に掛けられていた覆いも外された。カナダ政府は、ウクライナのナチス協力者を国内に匿い、武器を与えることで、カナダ国内の共産主義勢力に対する突撃部隊として徴用していたのだ。戦後、カナダへ移住した多くの一団の中にクリスティア・フリーランド副首相の祖父もいた。この人物は、ナチス占領下のポーランド内部で、ヒトラー配下のウクライナ人宣伝広報担当者のひとりとして役割を果たしていた。

 カナダの官僚らはこの無様な記録を抑え込もうと画策してきたが、フンカ氏が議会に現れたことと彼のオンライン日記の不穏な内容によって、その記録は劇的に再浮上したのだ。


第14SS武装擲弾兵師団『ガリーツィエン』の一員として前列中央にいるヤロスラフ・フンカ氏


「我々はドイツ兵を喜んで歓迎する」

 2011年3月、米国の元ウクライナ戦闘員協会が出した記録には不穏な記述があったが、その内容は最近まで気づかれないままだった。この記録はヤロスラフ・フンカ氏が執筆したものであり、第14SS武装擲弾兵師団『ガリーツィエン』に志願兵として入団していたことを誇り高く回想していた。ドイツ国防軍が故郷のベレジャニに初めて入った際、フンカ氏はそのナチスの国防軍を、「神秘的なドイツの騎士」と表現し、自身が14SS武装擲弾兵師団に入隊していた時期は、人生で最も幸せな日々だった、と回想していた。



 「6年生の時、40名の級友のうち、6人がウクライナ人、2人がポーランド人、残りはポーランドから逃げてきたユダヤ人の子どもたちでした。なぜ、ドイツという文明の発達した西側の国からユダヤ人たちが逃げ出しているのだろう、ってみんなで話していました」とフンカ氏は記載していた。

 サイト「ユダヤ人のウェブ図書館」では、「文明化された」ドイツ人の手により虐殺されたベレジャニ在住のユダヤ人たちについて、以下のように詳述されている:「ソ連による占領が終わった1941年にベレジャニには1万2千人のユダヤ人が住んでいたが、そのほとんどはヨーロッパでのナチスの軍事機構を恐れて逃げてきた人々だった。1941年10月18日におこなわれたホロコーストの際、500~700人のユダヤ人が近郊の石切場でドイツ人により処刑された。さらに12月18日には、「ユダヤ人評議会*」が貧者であると報告した1200人が森で射殺された。1942年、ユダヤ教の祭日であるヨム・キプルの日(9月21日)、1000~1500人がポーランドのべウジェツ強制収容所に追放され、何百人もが市街地や自宅で殺害された。同じくユダヤ教の祭日であるハヌカーの日(12月4・5日)には、さらに何百もの人々がべウジェッツ強制収容所に送られ、1943年6月12日、ゲットーや強制収容所に残っていた最後のユダヤ人1700人が殺害され、逃げ出せることができたのはほんのひと握りの人々だけだった。この戦争を生き延びることができたベレジャニのユダヤ人は100人にも満たなかった」と。
*ナチス・ドイツ占領下の東欧でのユダヤ人自治組織

 フンカ氏によると、ソ連軍がベレジャニを占領した時、フンカ氏や近所の人たちは、ナチス・ドイツの到来を待ちわびた、という。「毎日、私たちは辛抱強くポモニャールイ(リヴィウ)の方を見て、あの神秘的なドイツ軍騎士たちがやって来て、あの憎たらしいリャークス(ウクライナ人が使うポーランド人に対する蔑称)に銃弾をぶち込んでくれる日を待ちわびていたのです」 とフンカ氏は回想している。

 1941年7月、ナチス・ドイツ軍がベレジャニに入った時、フンカ氏は安堵のため息をついたという。「私たちは喜んでドイツ兵を歓迎しました。人々は開放されたと感じ、もう二度と真夜中に玄関のドアが叩かれるような恐ろしいことは起こらないと思いました。少なくとも、やっと夜に安心して寝られるようになった、と」とフンカ氏は記載している。

 その2年後、フンカ氏は14SS武装擲弾兵師団の第一師団に入団した。この師団はハインリヒ・ヒムラーの個人的な命により結成されたものだ。ヒムラーが1943年5月にウクライナ人志願兵(以下の写真参照)を調査した際、オットー・フォン・ヴェヒターというナチスが任命したガリツィア地区知事が同伴していたが、この人物はクラクフ市内にユダヤ人ゲットーを作った人物だった。



 「皆さんの故郷は前よりもずっと美しくなりました。というのも、我々の力によりと言わねばなりますまい、あのような住民たちを消したからです。連中がこのクラクフの良き名を汚していたのですから。そうです、あのユダヤ人たちが、です。私がポーランド人たちを抹殺するよう命じれば、あなた方がずっと熱望していた行為を行なう許可を与えることになりますね」とヒムラーがウクライナ兵たちに言った、と伝えられている。


「ヒトラー配下で虐待や殺人を犯してきた指導者層が、カナダ憲兵隊の命により受け入れられてきた」

 第二次世界大戦後、カナダの自由党政権は何千ものユダヤ人難民を「敵国人」と分類して、元ナチスとともに一連の捕虜収容所に収容した。その収容所には有刺鉄線が張られていたが、このような措置を取ったのは、これらのユダヤ人難民が移民先のカナダで共産主義の種を撒くことを恐れてのことだった。同時にカナダ政府は、何千ものヒトラー配下にあった元ウクライナ兵には即座に市民権を与えた。

 このような状況を憂いて、「カナダ在住ウクライナ人」という通信社は1948年4月1日に以下のような記事を出した。「(新たにカナダ国民となった)人々の中には、ドイツ軍やドイツの警察で働いていた正真正銘のナチスがいる。報道によると、ヒトラー配下で虐待や殺人を犯してきた恐ろしいSSの刺青を入れた指導者層が、カナダ憲兵隊の命により受け入れられてきた、という。彼らは欧州各国で受け入れが拒否された人々だ」と。

 この記事では、改心していないナチスを反共産主義の突撃隊であると報じ、彼らの「思想的指導者たちは、すでに第三次世界大戦を起こすことに躍起になっており、世界規模での新たなホロコーストを起こそうと広報活動に勤(いそ)しんでいる。こんなことを許せば、カナダは滅んでしまう」と論じた。

 1997年、 サイモン・ウィーゼンタール・センター*のカナダ支所は、14SS武装擲弾兵師団に所属していた2000人以上の元兵士を受け入れたとして、カナダ政府を訴えた。
*ロサンゼルスに本拠地を置く反ユダヤ主義監視団体

 同年、米国のドキュメンタリー番組である「60分」は、「カナダの暗黒の秘密」という特集番組を出し、バルト諸国出身の1000人ほどのナチスの元親衛隊員が第二次世界大戦後カナダ政府から市民権を付与されていた事実を明らかにした。カナダの歴史家であるアーヴィング・アベジャ氏はこの「60分」の取材に対して、カナダに入国するもっとも安易な方法は、「親衛隊の刺青を見せることでした。そうすれば反共産主義者であることが一目瞭然ですので」と述べた。

 さらにアベジャ氏によると、ピエール・トルドー首相(ジャスティン・トルドー現首相の父)が、アベジャ氏にした話として、同首相政権がナチス移民者について沈黙を保っていたのは、「カナダ国内のユダヤ人と東欧出身者層の間の関係が拗れることを懸念していたから」だったという。

 ヤロスラフ・フンカ氏は戦後にカナダ政府が歓迎したウクライナ人元ナチス兵の一団の中の一人だった。ベレジャニ市議会のサイトの記載によると、フンカ氏がオンタリオ入りしたのは1954年のことで、即座に「ウクライナ民族会議(UNA)第一師団兵協会の一員になったが、この組織は『自由なウクライナ人世界会議』という団体の関連組織だった」という。

 この新たなウクライナ系カナダ人の中に、マイケル・チョミアックがいた。この人物はカナダ当局で2番目の権力者であるクリスティア・フリーランド副首相の祖父に当たる。報道関係者そしてカナダの外交官としての彼女の経歴をとおして、フリーランド副首相は祖父が唱えた反ロシア論という遺産を前進させてきた。またそのいっぽうで、戦時中のナチス協力者らを公的行事の際は褒め称えてきた。


2020年3月2日の集会時に、誇らしげに「ウクライナ擁護者協会(Ukrainian Partisan Organzation)ののぼりを掲げるクリスティア・フリーマン副首相。この団体は、第二次世界大戦時にナチス・ドイツと共闘していた


カナダ政府、ヒトラー配下のウクライナの代表的な広報活動家らを歓迎

 ナチス・ドイツがポーランドを占領下に置いていた間ずっと、ウクライナ人報道関係者であったクラクフ在住のマイケル・チョミアックは、「クラクフスキーヴィスティ(クラクフ通信)」という名の出版物を編集していた。この通信は、ナチスによるソ連侵攻を応援していた。「ドイツ軍が我々に自由という宝物をもたらしてくれようとしている」と同通信は1941年に報じ、ヒトラーを賛美し、 第14SS武装擲弾兵師団『ガリーツェン』の志願兵に対してウクライナ国民の支持を集めようとしていた。

 チョミアックは戦時中のほとんどの日々をクラクフ市内の広々とした2つの邸宅で過ごした。これらの邸宅はナチス占領者がユダヤ人家主から押収したものであった。チョミアックの記載によると、「フィンケルシュタイン博士」という人物が所有していた多くの家具を自身の管理下にある「アーリア化された」別の邸宅に移しかえたという。


パーティで、ナチス占領下ポーランドの報道関係者の代表エミル・ガスナーと共にいるマイケル・チョミアック

 カナダでチョミアックは、ウクライナ・カナダ協会(UCC)に参加した。この団体は、ウクライナから移住してきた人々の中に過激な国粋主義を植え付ける組織であり、強硬な反ロシア政策をとるよう、カナダ政府に政治的な圧力をかけていた。ウェブサイト上で、このウクライナ・カナダ協会は、第二次世界大戦中にカナダ政府から直接支援を受けていたことを以下のように自慢している:「(同ウクライナ・カナダ協会の樹立に対する)最終的かつ決定的な推進力の源はカナダ国軍からのものでした。カナダ国軍は、ウクライナ出身の若者たちが軍に入隊するかどうかを案じていたのです」と。

 ウクライナ・カナダ協会の初代代表のヴォロディミル・クビヨヴィチは、クラクフでチョミアックの上司だった。クビヨヴィチはさらに、第14SS武装擲弾兵師団『ガリーツィエン』の創設にも関わっており、創設時には、「この歴史的な日を迎えられたのは、ガリツィアのウクライナ人が、英雄であるドイツ軍の兵や武装親衛隊と腕を組み合うことができたという好機があったからこそです。そしてその共通の恐ろしい敵は、ボリシェヴィキでした」と語った。


ソ連時代のウクライナでの政権交代工作員という影の姿をもったフリーランド現副首相は報道関係者としての経歴を培っていった

 1984年のチョミアック没後、孫娘であるクリスティア・フリーランド現副首相は祖父の足跡を追うかのようにウクライナ国家主義者向けの様々な出版物の記者として活動していた。フリーランド現副首相は、クビヨヴィチが残した「ウクライナ百科事典」に当初から寄稿していたが、この百科事典には、ステパン・バンデラといったナチス協力者らがもつ負の歴史を有耶無耶にする意図があり、バンデラのことを「革命家」であると評した。その後、フリーランド現副首相は、 エドモントに本拠地を置く「ウクライナ通信」という通信社の職員となったが、その通信社は祖父が編集者をしていた通信社だった。

 1988年に編集された「ウクライナ通信」(以下の写真を参照)では、フリーランド現副首相が共著者となっている記事が掲載されていた。その記事には『自由のための闘争』という著書の広告が載せられているが、この本の内容は、ウクライナのSS武装擲弾兵師団『ガリーツィエン』を賛美するものだった。

リヴィウ留学中に、フリーランド現副首相は、後に報道関係者として華々しい活躍を見せる基盤を築いた。ハーバード大学でロシア文学を専攻していたという姿の裏で、フリーランド現副首相はウクライナ内での政権交代工作に協力しており、世界的な大手通信諸社で反ロシア論説を展開していた。

 「フリーランド女史は、ソ連国内の人々の生活、特に非ロシア人らの生活についての『偏向した』記事を無数に出すことで、報道界から将来有望な記者になるであろう人物として目を向けられるようになるきっかけを作った」とカナダ放送協会(CBC)は報じた。

 KGB(ソ連国家保安委員会)の文書を引いて、カナダ放送協会は以下のように、フリーランド現副首相を、事実上の工作員だった、と評した:「多くの厄介事を引き起こしていた当時学生だったフリーランド女史は、ソ連を忌み嫌っていたが、ソ連の法律については熟知しており、法律をうまく使って自身の利益に繋げる術を知っていた。同女史は自身の行動を上手に隠し、監視の目から逃れ、(さらにはその知識をウクライナ関係者らにも流し)、巧みに『偽情報』を流していた」と。

  1989年、ソ連の警備組織であるKGBは、フリーランド現副首相のビザを抹消したが、その理由は、同女史が、ウクライナの国家主義者の候補者らのために「選挙に出馬する正真正銘の指南書」をソ連国内にこっそり運び込んでいたからだった。

 同女史は即座に報道の世界に逆戻りし、ソ連崩壊後のモスクワで仕事を手にし、ファイナンシャル・タイムズ紙やエコノミスト紙、そして最終的にはロイター通信の特別編集員の座についた。この通信社は英国を本拠とする巨大通信社であり、現在ロシアに対する英国の諜報機関工作の代理人のような役割を果たしている会社である。


マイダン後のウクライナで、カナダ政府はナチスを訓練し、保護してきた

 フリーランド女史は2013年、カナダ議会で自由党員として議席を獲得したが、このことは同女史がロシアでの政権転覆を煽るための最も強力な武器を手にしたということだ。報道界にもつコネを利用して、同女史は代表的な伝統的諸新聞に論説記事を発表した。一例を挙げると、ニューヨーク・タイムズ紙ではウクライナのいわゆる「尊厳の革命」に関して西側各国政府に軍事支援を行なうよう促す記事を出した。この2014 年の「革命」により民主的に選出された大統領が暴力的に排除され、その代わりに親NATO政府である国家主義者がその座に就くことになった。

 この武力政変のさなか、C14という組織に属するネオナチ勢力の一団がキエフ議会を占拠し、その建物にウクライナ国家主義者の紋章と白人至上主義の象徴を飾り付けた。その中には米国南北戦争時の南部連合の旗もあった。2014年2月18時、暴動鎮圧の機動隊がファシストのフーリガンを追い払った際、暴徒らはカナダ大使館に逃げ込んだが、この時は確実にカナダ保守党政権からの承認を受けていた。「カナダ政府は、(ウクライナ)政権以上に抗議活動者らに共感を感じていました」とウクライナ内務省当局者はカナダ放送協会の取材に答えた。


2014年、カナダ外務省はキエフ市役所を占拠し破壊したネオナチ勢力(上記写真を参照)に逃げ場所を提供

 ネオナチ民兵に対するカナダ政府による公的な支援は、2015年の選挙で自由党のジャスティン・トルドーが首相に就任した後、さらに強化された。 2017年11日、カナダ軍と米国防総省は、キエフに数名の役人を派遣し、ウクライナのアゾフ大隊に多国籍訓練を施した。(それ以来、アゾフ大隊はその記録を自身のサイトから抹消している)。

 当時のアゾフ大隊は「白人の指導者」と自称していたアンドリー・ビレツキー氏の管理下にあったが、この人物はこう宣言していた。「この危機的状況における我が国の歴史的使命は、白人が生き残るための白人による最後の聖戦を主導することです...そしてこの聖戦の相手は、ユダヤ人率いる劣等人種たちです」と。


家族がナチスだったことが明らかになるや、フリーランド女史は人々に嘘をついた

 いっぽうカナダでは、問題の多いフリーランド女史の家族経歴が報道機関により初めて取り上げられた。 2017年1月に、外務大臣(フリーランド女史はその職を利用して、ロシアに対する制裁とウクライナへの武器の輸送を大声で主張するもの、と見られていた)に任命された数週間後、 同女史の祖父がナチス占領下のポーランドでナチスの広報活動の仕事をしていたという事実が、独立系報道諸機関からの多くの記事のネタとなった。

 この事実の報道に対するトルドー政権の対応は、サイバー戦争をけしかけている、としてロシアを非難することだった。「現状は明らかに警戒すべき段階に達しています。だからこそ首相は、ほかの何を差し置いてでも我が国のサイバー上の安全体制の再確認を奨励したのです」とラルフ・グッデール公安相(当時)は明言した。

 チョミアックの経歴を掘り起こして報じた通信社の中で、ロシア政府と繋がっていた通信社はあったとしてもほんの数社に過ぎなかった。チョミアックがナチスに協力していたという事実を初めて報じた報道機関には、米国に本拠地を置く独立系報道機関であるコンソーシアム通信社がある。フリーランド女史側は、報道官を通して、「外相の祖父がナチス協力者だった」という事実をキッパリと否定した。

 カナダの報道機関がこの件に関する数名のロシア外交官の話を報じた際、フリーランド女史は即座にこれらの外交官の国外追放を命じ、外交官という立場を利用して、「我が国の民主主義を妨害しようとしている」と非難した。

 しかしその頃には、フリーランド女史の家族の秘密が明るみになり、カナダの大手報道機関が取り上げるようになっていた。 2017年3月7日、グローブ・メディア通信社は、1996年の『ウクライナ研究誌』の記事を取り上げたが、その記事では、フリーランド女史の祖父が本当にナチスの広報活動担当者であったことがハッキリと記されており、彼女の祖父が書いた文章が、ユダヤ人大虐殺を焚きつける助けになったとも記載されていた。なおこの記事を書いたのは、フリーランド女史の叔父のジョン=ポール・ヒムカであり、ヒムカはその記事の序文で、「問題点の指摘と文書の明確化」の手助けをしてくれた、として姪に感謝のことばを綴っていた。

 「フリーランド女史は20年以上も前から、自分の母方の祖父が。ナチス占領下のポーランドでナチスの新聞社の編集長をしていたことを知っていた。この新聞は第二次世界大戦中ユダヤ人を貶(けな)し続けていた」とグローブ・メディア通信社は報じた。

 今年の9月、何百人もの同胞とともに、多大なる熱意を持ってヒトラー親衛隊の決死隊員だった人物に拍手喝采を与えた後、フリーランド副首相は再び自身の権力を発動することにより、この出来事を記録から消し去った。

 恥ずかしい場面が繰り広げられた3日後、フリーランド副首相は議会に再登場し、ある提案に無言で頷き承認の意を示した。その提案とは、カリーナ・グールド下院政府総務が出したものであり、アンソニー・ロタ議長がヤロスラフ・フンカ氏を承認した事象を「下院の補遺議事録」と「複合媒体に残されていた音声や映像記録」から抹消する、というものだった。

 ホロコースト教育が何十年ものあいだ公的に支援されてきたおかげで、市民たちに「決して忘れてはならない」ことを求める呪文がリベラル派民主主義の追いかけるべき道標になっていた。しかし今のカナダ政権においては、この目指すべき道徳的道標が、目の上のたんこぶになってしまっているようだ。この道標のせいで、個人の輝かしい経歴に傷が付けられ、ウクライナでの戦争が下火にされてしまう恐れがある。


筆者マックス・ブルメンタール(MAX BLUMENTHAL): オンラインサイトのグレーゾーン(The Grayzone)編集長。受賞歴のある報道関係者であり、数冊の著書の著者であり、『共和党のゴモラ』『ゴリアテ』『51日戦争』『凶暴性の管理』などのベストセラーも出している。多くの出版印刷物や動画報告、『ガザの殺人』など数編のドキュメンタリーを発表しておる。ブルーメンタールがグレーゾーンを設立したのは、2015年のことで、米国による終わることのない戦争とその反動として米国内で起こっている影響について光を当てる報道をおこなっている。

1936年のオリンピック。世界から批判の声が上がる中、米国はヒトラーを支援

1936年のオリンピック。世界から批判の声が上がる中、米国はヒトラーを支援

<記事原文 寺島先生推薦>
Olympic Games 1936: How USA Supported Hitler Amid International Protest
Strategic Culture
2022年2月6日
ベルナー・リュグナー(Werner Rügemer)
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2022年2月15日

 米国はオリンピック開催国にはふさわしくないと、中国を激しく攻撃している。しかし1936年に、ヒトラー統治下のドイツは夏期オリンピックと、冬季オリンピックを成功裡に終わらせていた。米国はその手助けをしていたのだ。世界中のユダヤ人や労働者たちから抗議の声が上がっていたにもかかわらず。

 1936年のベルリンオリンピックについては、世界中から中止させようとする動きがあったのだが、最終的には実施され、しかもこれまでにないほど大きく、素晴らしい大会になった。独裁者ヒトラーはそのオリンピックを利用して、世界中から知られることになった。

 ヒトラー政権が犯した罪は、1933年の年始から世界中で知られていた。ヒトラー政権が直接権力を手中に収め始めたのは1933年1月のことで、政敵たちを逮捕し、殺害し、収容所に閉じ込めていた。この影響を主に受けたのは共産主義者や、社会民主主義者など左翼の人々だった。NSDAP(国民社会主義ドイツ労働者党)以外のすべての政党は禁止された。1933年5月1日以降、労働組合は破壊され、解散させられた。

 ナチスはユダヤ人や、シンティ・ロマ人や、左翼の人々をスポーツクラブから追い出した。ユダヤ系の2つのスポーツ団体であったマッカビ(Maccabi)とシルト(Schild)– この二つの団体は1935年のドイツにおいて350ほどのクラブを所有しており、合計4万人のメンバーが存在していた–はスポーツ施設の使用が許されなくなった。さらにドイツのオリンピック選手団にはユダヤ人が一人も入りそうもないことは明らかだった。

バルセロナでの代替大会


 ヒトラーが権力を掌握した2年前の1931年、国際オリンピック委員会(以降IOC) は1936年のオリンピック(夏期も冬期も両方)をドイツで行うことを決めていた。

 ヒトラーが権力を掌握した後の1933年、異論を挟んだ国は2国にすぎなかった。それはソ連と1931年に政権を取ったスペイン共和党政権だった。1936年のオリンピックとして、この両国は第2回「人民オリンピック」をバルセロナで開催する準備をしていた。このオリンピックは、17カ国が参加する労働者のためのスポーツ大会だった。第1回人民オリンピックは、1931年にバルセロナで開催されていた。しかし2000人の参加者が1936年夏にバルセロナ入りしたとき、スペインではフランシスコ・フランコ将軍によるクーデターが開始された。このクーデターは米国の数企業から支援を受けていた。具体的には、テキサコ社、ゼネラルモーターズ社、クライスラー社だ。米国議会は、スペインに対しては中立の立場を取ると決めていたのだが。

 いくつかの欧州諸国のスポーツ当局からもベルリンオリンピックを中止させようという声が上がっていた。当時最大のスポーツ組織であった米国のアマチュア運動連合(AAU)のジェレミアー・マホーニー(Jeremiah Mahoney)連合長も中止を求めていた。

ニューヨークとテルアビブでのユダヤ人のための代替大会

 1933年5月、スティーヴン・ワイズ(Stephen Wise)伝道師は、アメリカユダヤ人委員会とともにニューヨークでデモ行進を行った。アマチュア運動連合は、ニューヨークで、「労働者のための世界運動大会」を組織した。この大会はユダヤ人運動家の指導者たちによって支援されていた。その中には、フィオレロ・ラガーディア(Fiorello La Guardia)ニューヨーク市長や、ハーバート・リーマン(Herbert Lehman)ニューヨーク州知事や、ユダヤ人労働者委員会や、反ナチス連盟も含まれていた。ただしユダヤ人の主要な団体であった米国ユダヤ人委員会や、ブナイ・ブリス(B’nai B’rith)は ナチスを批判することには二の足を踏んでいた。1936年8月15日と16日のニューヨークでの世界大会の参加者はたった400人だった。

 1935年に、二回目のユダヤ人のスポーツ大会であるマカビア(Maccabiad)競技大会が、テルアビブで開かれ、27カ国から1350人が参加した。しかし選手のほとんどは母国には戻らなかった。その理由は、ヨーロッパ(スペインや、ハンガリーや、オーストリアや、ポーランドなど)でファシズムが台頭しつつあったからだ。

ノルウェーで開催された冬期大会の代替大会

 1936年ノルウェーで、複数の左翼組織が冬期スパルタキアダ(Spartakiade)を開催し、ソ連やスウェーデンやフィンランドから選手が集まった。しかしニューヨーク・タイムズ紙といった世界のマスコミは、同時期にドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェン(Garmisch-Partenkirchenk)で開催されていた冬季オリンピックのことのみ報じた。

 オーストリアでは、8名のユダヤ人選手のうち6名(その中には、水泳の優勝者であったジュディス・ドイツ(Judith Deutsch)も含まれていた)がベルリンオリンピックへの参加を棄権した。ジュディス・ドイツはスポーツ界から永久追放され、1936年になってやっとテルアビブへ移住した。

 一方、ウエイトリフティングのデビッド・マイヤー(David Mayer)選手や、バスケットでサムエル・ボルター(Samuel Balter)選手や、短距離走のサムエル・ストーラー(Samuel Staller)選手や、マーティ・グリックマン(Marty Glickman)選手といったユダヤ系米国人の何名かは、ベルリンオリンピックに参加したいと考えていた。1924年のパリオリンピックの100メートルの金メダリストのハロルド・アブラハム(Harold Abrahams)選手は、英国運動協会の協会長や、トーマス・インスキップ(Thomas Inskip)英国国防相に対して、ベルリン大会に出場できるよう、ロビー活動を行っていた。

貴族と将軍と起業家たちからなるIOC

 伝統ある大会であるオリンピックの組織委員会は今よりも力を持っていた。その力を得て、ベルリンが開催地になれたのだ。

 1936年のIOCのメンバーには、デンマークや日本やリヒテンシュタインの皇太子が加わっていた。さらに、大佐や将軍や陸軍元帥や大将たちが、ドイツ、イタリア、ポーランド、南アフリカ、ユーゴスラビア、オランダから集まっていた。

 米国のIOCのメンバーは二名とも起業家だった。シカゴの建設業の大物アベリー・ブランデージ(Avery Brundage)と、不動産投機家のウィリアム・ガーランド(William Garland)だ。フランスからは、ポメリー・グレノ(Pommery & Greno)シャンペン・セラーのマルキ・ド・ポリナック(Marquis de Polignac)社長だ。ドイツからは、ドイツ銀行の重役であり、NSDAP(国民社会主義ドイツ労働者党)の党員であり、寄付を行うのが好きだったナチス親衛隊のハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)とも交友関係のあったカール・リッター・フォン・ハルト(Karl Ritter von Halt)だ。スウェーデンからは、電子工学会社ASEAの社長だったジークフリード・エドストリーム(Sigfrid Edström)だ。IOCのメンバーには貴族やその家族も多く含まれていた。例えば、英国のIOCのメンバーは、第3代アバーデア男爵であり、第6代のエクセター侯爵でもあるクラレンス・ネィピア・ブルースだったが、彼は多くの不動産を所持していただけではなく、複数の企業の重役も務めていた。このことは、IOC委員長のアンリ・ド・バイエ・ラトゥール伯爵についても当てはまった。同伯爵はベルギー国内の富裕家族上位10位の一つに入っており、ベルギー最大の銀行であるソシエテ・ジェネラル銀行などの複数の企業の株を所有していた。

主たる決定権を有していたのは米国だった

 IOCや国内オリンピック委員会は、中止の動きを止めようとしていた。オリンピックへの参加を早くから表明したのは、ファシストの枢軸国であったイタリアと日本であり、ファシスト政権と友好関係にあったフィンランド、ポーランド、南アフリカ、ポルトガル、ルーマニア、オーストリアも続いた。

 1932年のロサンゼルスオリンピックは、オリンピックの新しい規準を打ち立てるものだった。参加者数や記録や競技場などの近代的スポーツ施設の大きさが躍進したのだ。スポーツ政策に成功していた「世界最大のスポーツ国家」米国がベルリンオリンピックに参加するかしないかにより、1936年のベルリンオリンピックが開催できるかどうかが決せられる、と考えられていた。

 米国オリンピック委員会(AOC)委員長は、アベリー・ブランデージ(Avery Brundage)だった。 第1次世界大戦時に政府と契約したことにより、ブランデージが所有していた会社は躍進できた。ブランデージはシカゴ最大の住宅開発業者であり、不動産投資家だった。ブランデージは超高層ビルや、高級大邸宅や、ホテルを建設し、フォード社の製造工場まで作っていた。

米国オリンピック委員会委員長は、猛烈な反ユダヤ主義者だった

 ブランデージはヒトラーを崇拝していて、自分も反ユダヤ主義者であることを公言していた。「シカゴにも、私のクラブ内にもユダヤ人は立ち入り禁止」と彼は語っていた。彼から見れば、オリンピック中止運動は、「ユダヤ人共産主義者たちによる陰謀」だった。バイエ=ラトゥールIOC 委員長も、ブランデージの反ユダヤ主義を支持していた。「ユダヤ人は、理由もないのに金切り声を上げ始める」と、同委員長はブランデージへの書簡の中で記していた。

 バイエ=ラトゥールIOC 委員長の主導のもと、ブランデージはIOCのメンバーに選出された。ブランデージとともに米国から選ばれたのは、チャールズ・シェリル(Charles Sheril)だった。シェリルは、第1次大戦時の准将であり、ニューヨークで弁護士もしており、アルゼンチンやトルコの米国大使も務めていた。このシェリルも熱狂的なファシズム支持者だった。1933年3月4日のニューヨーク・タイムズ紙の記事において、シェリルは他の米国の実業家と同様に、ヒトラーをドイツで最も素晴らしい政治家であると持ち上げていた。同様に、シェリルはムッソリーニの登場についても歓迎し、ムッソリーニのことを、「無能な民主主義に基づくヨーロッパの体制を再構築してくれる政治家だ」と捉えていた。

ヒトラーはオリンピックの創設者を買収

 ヒトラーは、オリンピックの創設者と、IOCのピエール・ド・クーベルタン名誉会長にそれぞれ「名誉報酬」として1万ライヒスマルク(現在の価値で10万ドル程度)をオリンピック直前に贈っていた。ヒトラーは既に、ベルリンでオリンピックが開催された際は、クーベルタンに生涯に亘る年金の提供を申し出ていた。

 スイスのIOCの役員たちもベルリンでオリンピック開催にむけて重大な役割を果たしていた。王室侍従で、米国の実業家の娘と結婚したクラレンス・フォン・ローゼンは、ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(Herman Goering)の妻カリンと姻戚関係にあった。クラレンスの弟のエリック・フォン・ローゼン(Eric von Rosen)はスウェーデンでのファシズム運動を創設した人物であり、クラレンスも同調していた。スウェーデンの二人目のIOCメンバーは、電子工学会社ASEAの社長 ジークフリード・エドストレーム(Sigfrid Edström)だった。この会社はヒトラーの大ゲルマン帝国と親密な取引を行っていた。

チャーチルはベルリンオリンピックをどう見ていたか?

 英国IOCの二人のメンバー、アバーデア男爵とバーバリー男爵も、ベルリンオリンピック開催に向けて政治的な働きかけを行っていた。中止派だったノエル・カーティス・ベネット(Noel Curtis Bennet)卿には支持が全く集まらなかった。ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)はこの論争をこうなだめていた。「共産主義よりもヒトラーの方がましだ!」

フランスのシャンパン王はベルリンオリンピックをどう見ていたか?

 ドイツ国防軍が、1936年3月に、非武装地帯だったラインラント地方を占領したのち、フランスのスポーツ当局は夏期オリンピックの中止を求めた。その中には、国際ホッケー連盟(HIF)のマルク・ベルン・ド・コト-(Marc Bellin de Coteau)連盟長や、国際サッカー連盟(FIFA)のジュール・リメ連盟長もいた。しかしフランスについては、IOCのメンバーでもあり、シャンパン王だったマルキ・ド・ポリナックが決定権を握っていた。フランスのベルリン大使アンドレ・フランソワ・ポンセ(André Francois-Poncet)は、フランスの重工業界のロビーストであり、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンでの冬季オリンピック開催を熱烈に歓迎していた。

アパルトヘイト推進将軍はベルリンオリンピックをどう見ていたか?

 一方ヘンリー・ナースには、ナチス政権と敵対する理由は全くなかった。南アフリカからのIOCメンバーだったナースは、ボーア戦争(1899-1902)時、英国植民地軍でキッチナー(Kitchener)元帥のもと中佐を務めていたことに誇りを持っていた。収容所において、ボーア人の家族や地元の人々が飢え死にし、焦土作戦が行われ、人殺しは罪に問われなかった。ナースは南アフリカの金鉱や炭鉱の所有者となり、そこでナースは国家の助けを借りることで、黒人を搾取することができた。アパルトヘイト政策が法制化されたのは第二次世界大戦後のことだったのだが、ナースは既にアパルトヘイト政策を地で行っていたのだ。

 ナースが行っていたことは、以下のナチスが犯した3つの蛮行と何のひけもとらなかった。①ナチス政権が犯した罪②1935年に成立させた「ニュルンベルク人種法」③オリンピックに先立つ数週間前に起こったスペインのフランコ将軍のクーデターを支持したこと。

大熱狂とエリートたちの贅沢

 アルプスのリゾート地、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンでの冬期オリンピックは、何の障害もなく、1936年2月6日から16日まで開催された。またベルリンでの夏期オリンピックは、1936年8月1日から16日まで開催された。

 当初、ナチスの新聞「シュテルマー」紙と、「フェルキッシャー・ベオバハター」紙は、黒人やユダヤ人を排除することを煽る記事を書き、黒人やユダヤ人はオリンピックに参加させるべきではないという主張をしていた。しかしバイエルン州の町ガルミッシュ=パルテンキルヒェンで開催された冬期オリンピックや、ベルリンでの夏期オリンピックの際、「ユダヤ人禁止」の看板はすべて撤去され、悪魔化されていた「黒人音楽」のジャズはほぼ許可され、卍型のナチス旗が、世界各地からの観客の前で、全世界に向けて揺れていた。

マスコット的扱いを受けたユダヤ人たち

 IOCの米国メンバーのチャールズ・シェリルが二回の個人的な面会の際にヒトラーにすすめたのは、「ドイツのオリンピックチームにマスコット的なユダヤ人を加えれば、国際社会からの批判の対策になるかもしれない」、という作戦だった。ナチスはシェリルからの助言に従った。二名の「ユダヤ人ハーフ」が、マスコット的存在のユダヤ人として、ドイツチームに加えられたのだ。その二名とは、アイスホッケーのスター選手だったルディ・ボール(Rudi Ball)選手と、フェンシングのヘレン・メイヤー(Helene Mayer)選手だった。メイヤー選手は、外見上は金髪の非ユダヤ人女性の理想的な顔立ちをしており、米国在住者だった。表彰式において、メイヤー選手は競技場でヒトラーに敬礼を捧げた。

 新しく建設されたオリンピック競技場には10万席が用意されていた。これは1932年のロサンゼルスオリンピックで使用された大競技場と同じ大きさにしたものだったが、ヨーロッパで最も大きい競技場となった。その競技場は巨大な閲兵場やオリンピック村や広いスポーツ施設に囲まれていて、そこで様々な訓練もでき、美術作品も展示されていた。

リヒャルト・シュトラウスの音楽と、福音教会と、レニ・リーフェンシュタールと、コカコーラと・・

 1936年、古代ギリシャのオリンピアから、ヨーロッパを横断する聖火リレーを初めて行ったのがナチスだった。その風習がそれ以来続けられている。3075名の走者が聖火を運び、5カ国を通り抜け、ベルリンに到達した。最終走者は以下の3つの条件を満たしているものしか認められなかった。①走り方②良い体格と良い姿勢③髪の色と目の色、そして政治的志向。すべてが満たされていないと認められなかった。

 世界的に有名な作曲家リヒャルト・シュトラウスが、オリンピックの歌を作曲した。ヒトラーのお抱え彫刻士であったアルノ・ブレーカー(Arno Breker)が非ユダヤ人運動選手の裸体像「十種競技の勝者」の彫刻作りに貢献した。プロテスタント派教会は、ベルリン大聖堂でIOCのために大規模な開会式典を催した。ヒトラーのお気に入りの建築家アルベルト・シュペーア(Albert Speer)作の光のドームが国民社会主義ドイツ労働者党の党大会に合わせて開発され、競技場を上から照らした。

 ヒトラーの到着や試合や表彰式に合わせてファンファーレが鳴り響いた。歴史上初めて、試合の模様が放映された。コカコーラなどの企業がスポンサーについた。IOCはヒトラーのお気に入りの監督であるレニ・リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl)にオリンピックの公式映像の製作を依頼したが、この映像には近代化されたカメラが使用され、水中カメラまであった。これらは当時全くの新製品だった。

ゲッベルスがユダヤ人排斥運動で手に入れた施設で開いた「イタリアの夜」

 プロパガンダ戦略担当大臣だったヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)とヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(Hermann Göring)陸軍元帥は、張り合うかのようにセレブたちのための豪華なパーティを開いた。ゲッベルスは、アーリア化(ユダヤ人排斥運動)で手に入れたベルリン孔雀島の施設で、「イタリアの夜」というパーティを開催した。

 いっぽうゲーリングは、自身のプロイセン宮殿に客人たちを招待した。どのパーティにも1回につき1000人の客人が招かれていた。その客人とは、諸国の王や、ヨーロッパの貴族たち、諸国からの外交団、IOCのメンバーたち、ナチス親衛隊や国民社会主義ドイツ労働者党の役員たち、大臣たち、映画や演劇界のスターたち、メダリストたちなどだった。花火も上がり、古代衣装や、ビクトリア朝衣装をまとった舞踏会が催され、戦闘爆撃機の操縦士エルンスト・ウーデットが妙技を披露していた。

ニューヨーク・タイムズ紙と、ディリー・エクスプレス紙と、ケルニシェ・ツァイトゥング紙

 ヒトラーはオリンピックの目的についてこう宣言していた。「諸国間の平和の絆を強めるためです」と。ヒトラーに与していたのは、ドイツのブルジョア系メディアだけではなかった。

 ケルニシェ・ツァイトゥング(Kölnische Zeitung)紙、(現在も後継であるケルナー・シュタットアンツァイガー(Kölner Stadt-Anzeiger)紙は健在だ)はこう報じていた。「(このオリンピックは)新生ドイツが平和を愛する世界のすべて人々に贈った最も偉大な祝賀だ」と。「世界の人々の世論」を形成していたアングロサクソンのメディアもこの報道に共鳴していた。「歴史上最も偉大なスポーツショーだ」(ニューヨーク・タイムズ紙)。「ドイツ国民の考え方を素晴らしく変革させたものだ」(ディリー・エクスプレス紙、ロンドン)。

アベリー・ブランデージはヒトラーの願いをすべて実現させた

 ベルリンオリンピック開始日であった1936年8月1日のアドロンホテルでの会合において、すでにIOCは1940年のオリンピックの開催地を東京にすることを決定していた。当時大日本帝国は、朝鮮、中国、台湾に侵攻していたのだが・・・。1939年にIOCは冬季オリンピックを再度ドイツで開催することを決めた。ブランデージもIOCも、ヒトラーの願いをすべて実現させたのだ。

 米国との間に深く、また経済的なつながりがあったため、ヒトラー統治下のドイツは米国政府からの覚えをめでたくしようと考え、大使館をかなり大きなものに作り替えた。その際ほかでもないやり手のブランデージが、ワシントンのドイツ大使館の建設の契約を勝ち取っていた。

ルーズベルトはナチスに対して批判的な大使を更迭した

 オリンピック後の1938年に、ルーズベルト政権は、ベルリン駐在のウイリアム・ドット(William Dodd)大使を更迭し、後任にヒトラーの崇拝者であるヒュー・ウィルソン(Hugh Wilson)を選んだ。ウィルソンは、米国メディアを、「ユダヤ人たちの影響を受けている」と叱り飛ばしていた。その理由は、当時のドイツのユダヤ人の扱い方を批判しすぎているから、ということだった。

 ウィルソンは、ヒトラー政権については、「よりよい未来」建設にむかって努力していると賞賛していた。ウィルソンはヒトラーについてこう語っている。「道徳的な絶望や、経済的な絶望から国民を抜け出させ、自尊心を醸成させ、繁栄へと導いた」と。

 チャーチルは何度もヒトラーを認める発言を行っている。「ヒトラーを憎む人もいるだろうが、ヒトラーの愛国心溢れる業績を賞賛する人も多い」、と1937年にチャーチルが記述している。頑固な反共産主義者であった彼が当時心配していたのは、ヒトラーが「ロシア」に対して間違った戦略を取って、(対ソ連攻撃を)失敗したままにしてしまうのではないか、ということだった。「ヒトラーはナポレオンと同じ間違いをしてしまわないだろうか?」と。

 チャーチルの懸念は現実のものとなった。しかし、ヒトラーが敵と見た国との戦争はヒトラー後も続けられたし、今でも続いている。

 


オリバー・ストーンの新作ドキュメンタリー『ケネディ暗殺』を主要メディアは無視。しかし、それはきっと彼の主張が図星だからだ。

オリバー・ストーンの新作ドキュメンタリー『ケネディ暗殺』を主要メディアは無視。しかし、それはきっと彼の主張が図星だからだ。

<記事原文 寺島先生推薦>
Oliver Stone’s new JFK assassination doc is being ignored by the MSM… a sure sign he might be onto something

RT(ロシア・トゥデイ)

2021年7月20日

マイケル・マカフライ(Michael McCffrey)


Michael McCaffrey

Michael McCaffrey is a writer and cultural critic who lives in Los Angeles. His work can be read at RT, Counterpunch and at his website mpmacting.com/blog. He is also the host of the popular cinema podcast Looking California and Feeling Minnesota. Follow him on Twitter @MPMActingCo

 
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2021年9月3日



 既存のメディアは、カンヌ映画祭で奇妙で性的嗜好の映画を賞賛しているが、オリバー・ストーンがジョン・F・ケネディ大統領の殺人という厄介な事件を再度電撃的に取り上げたことについてはどこ吹く風。なぜだろう?

 先週、オリバー・ストーン監督は、「JFK Revisited: Through the Looking Glass」と題したケネディ暗殺に関する新作ドキュメンタリーをカンヌ映画祭で初公開した。

 アカデミー賞監督賞を2度受賞し、映画『JFK』ではアメリカ政府が1992年に「JFK暗殺記録収集法」を成立させるほどの騒動を起こし、賛否両極端の評価を有するストーン監督が、カンヌで議論百出間違いなしのJFK暗殺ドキュメンタリーを初公開することは、ビッグニュースなると思われるかもしれない。たぶんそうはならない。



 7月12日(月)に公開された「JFK: Revisited」を、主要メディアは賞賛も非難もしなかった。まるでこの映画が存在しないかのようだった。

 ニューヨークタイムズ』紙のカンヌに関する膨大な報道は、11本の記事で構成されており、そのほとんどが、レズビアンの修道女を描いたエロティックな話の「Benedetta」、アダム・ドライバー*がマリオン・コティヤール**にオーラルセックスをしながら歌うミュージカル「Annette」、女性が車とセックスしてオイルを分泌する「Titane」など、より卑猥な内容に焦点を当てている。しかし、「JFK Revisited」は「記録紙」とされる紙面で一度も言及されていない。

アダム・ドライバー*…アメリカ合衆国出身の俳優。2015年より開始した映画『スター・ウォーズ』シリーズ続三部作のカイロ・レン役で知られる。 
マリオン・コティヤール**…フランスの女優。2007年の『エディット・ピアフ~愛の讃歌~』でエディット・ピアフ役を演じ、第80回アカデミー賞主演女優賞も受賞した。 (以上ウイキペディア)

 
 ワシントン・ポスト、ボストン・グローブ、LAタイムズ、シカゴ・トリビューン、ガーディアン、アトランティック、ニューヨーカーなど、私が検索したすべての主要メディアは、『JFK Revisited』の存在をまったく視野に入れていない。

 メディアでは、VarietyHollywood Reporterなどの業界紙と、TimesDaily Telegraphなどのイギリスの新聞でしか紹介されていない。その反応は、VarietyとThe Timesが否定的な評価をし、THRとDaily Telegraphが賞賛するなど、賛否両論。

 キューバ諜報機関の悪事、そして陰謀論がトップニュースになり、ストーン監督のこのドキュメンタリー映画についてはマイナーなメディアでも評価が賛否に分かれていることを考えると、(主要)メディアが「JFK Revisited」を議論の俎上に載せ、真実を追求するのではなく、カンヌで性的堕落を是認し、現状変革を志向しないのは奇妙なことだ。

 もちろん、こんなことを本気で言っているわけではない。アメリカの神話を作るメディアが、「立派な」人々が決して逸脱しない公式の物語を我々に遺し、「JFK Revisited」を記憶の穴に投げ捨て、好色な修道女やセックスするキャデラックを賞賛しているのは驚きでもなんでもない。

 そう、体制側が好んでするのは、大衆の注意をそらすこと、そして陰謀論を忌避すること。ただし体制側のお気に入りの陰謀論は別だ。

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JFK almost ended Cold War and Cuba blockade in 1963, filmmaker Oliver Stone tells RT in EXCLUSIVE interview

 JFK暗殺陰謀論は、陰謀を立証する証拠が数多あるにもかかわらず、体制そのものを告発するものであるため、不真面目なものとして真っ向から否定される。ケーブルニュースの語り手の半分は、元(ん?)情報機関のメンバーであり、ジャーナリストの大部分は情報機関の飼い犬であるため、JFK暗殺事件の真相究明のために、自分たちを養ってくれる手に噛みつくことはない。

 この同じ反陰謀論報道機関は、4年間、息もつかせず、いいかげんなロシア陰謀話を思いつくものひとつ残らず吐き出した。例えば、ロシアゲート。ロシアがマイクロ波兵器を使用したり、電力網投票機に不正侵入しているという主張だ。証拠がまったくないにもかかわらず真実だと思われるようになるまで、24時間365日、屋根の上から叫び続けた。

 ノーム・チョムスキーが言うように、このようにして欺瞞に満ちたプロパガンダが効果的に流布され、同意が製造される。「コントロールされた市場原理、内面化された前提、そして自己検閲」によって。

 「真面目な人」は、それらの不条理な公式認定の反ロシア陰謀を信じることで、自分の真面目さを証明する。なぜなら、それらは「真面目」とみなされ、他の「真面目」な人たちによって広範囲に伝えられるからだ。一方、JFK事件や武漢研究所の漏洩説のような「不真面目」な陰謀は嘲笑され、それらを信じる人たちは「陰謀論者」として貶められる。

 ストーン監督が、これほど体制側に忌み嫌われるのは、彼が(体制側が書いた)脚本を91年にひっくり返したからだ。彼はハリウッドで大成功を収めた後、それまでに蓄えていた膨大な資料を使って、JFK暗殺事件の映画を作った。その映画で彼は、ウォーレン委員会の公式説明を完全撃破し、説得力のある反論を提示したのだ。

 体制側がどれほどストーン監督を軽蔑しているかを知るためには、彼の「JFK: The Book of the Film」を読んでみたらいい。

 ストーン監督は、彼の反対者たちとは異なり、自分と意見を異にする人たちについては本を書いて出版している。そのいくつかを挙げれば次のような出版物ではっきりしている:

 ①『JFKは理性に反する陰謀を企てているのか

 ②『ハリウッドはワーナーブラザーズがJFKを制作した行き過ぎに首をかしげている

 ③『オリバーのツイスト』

 ④『パラノイドスタイル』

 ⑤『ウォーレン委員会の暗殺計画』等々。

 91年にエリートたちの間に「JFK」が引き起こしたヒステリー状態は、映画評論家の故ロジャー・エバート(Roger Ebert)の話に集約されている。彼の主張では、ウォルター・クロンカイト(Walter Cronkite)に「舌打ち」され、この映画を賞賛したことを「恥じるべきだ」と言われた、とのことだ。

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 ストーンは、2002年にフィデル・カストロに、2015年から2017年にかけてロシアのプーチン大統領にインタビューしたことで、さらに体制側ののけ者となった。ストーンは、頭の悪い公式のマントラを口にするのではなく、アメリカの敵たちと話をした。これは、言い分はひとつしかなく、叫ぶのではなく相手の話しを聞くことでそのひとつの言い分を複雑にするのはもってのほかと信じているメディアの目には、許されない罪となる。

 ストーン監督の扇動者としての歴史と、公的な主張よりも彼は真実に忠実であることが、「JFK Revisited」が意図的に無視されている理由だ。諺ではないが、「どんな報道も(結果的には)報道されたほうがいい。」つまり、たとえ悪い評価であっても報道された製品の認知度を高めることができるからだ。だから、ストーン監督を黙らせ、JFKを現状のままにしておくには、無視ボタンを押すことが体制側にとって最良の方法となるのだ。

 今のところ、この報道管制は意図した通りに機能しており、「JFK Revisited」は、本物の内容に飢えているアメリカの市場で、まだ配給会社を確保できていない。

 「JFK Revisited」をまだ見ていないので、それがJFK暗殺に関する真実を語っているかどうかは分からない。しかし、はっきり分かっているのは、既成のメディアが嘘中毒であり、真実アレルギーを持っていることだ。だからストーン監督が主張していることは図星かもしれないと思う。

日本がヒトラーやムッソリーニと同盟したのは、米国の侵略のせいだった。


<記事原文 寺島先生推薦>

History: US Encroachment Encouraged Japan To Support Hitler and Mussolini


シェーン・クイン著

グローバル・リサーチ 

2019年8月21日

 
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2021年3月10日

 

 1940年9月下旬、来栖三郎ら日本政府の代表者たちが空路ベルリンに到着し、当時の欧州覇者であったアドルフ・ヒトラーからの表敬を受けた。横浜出身で、経験豊富な外務官であった来栖は、第三帝国が強固に見えた当時のナチスの自信のほどに気付かずにはいられなかった。

 来栖が新しく建てられた総統官邸に足を踏み入れたのは、1940年9月27日のことだった。そこで来栖はナチスとベニート・ムッソリーニ下のイタリアとの間で重要な軍事同盟に署名した。この同盟は、日独伊三国同盟と呼ばれた。ほとんど忘れられているこの同盟が締結されたのは、ソビエト連邦とアメリカ合衆国に対抗するためだった。そして、そのことをアメリカ政府もロシア政府もはっきりと認識していた。

 しかし、日本には怒りをもつ正当な理由があった。特に、当時世界最強国であった米国に対しては、だ。米国の産業や軍事力は、はっきりとアジア領域に侵略しはじめていた。そこは、日本が自国領にしたいという野望を持っていた地域だった。

 問題の核心はこうだった。日本は歴史上、どこの国からも侵略されたことがないという自負を持った国だった。そして日本は当時、結果はどうあれ、他国から干渉されずに、自国の運命を自国で決めたいと熱望していた。日本では急速に産業化が進み、資源の少ない国として、必要となる鉱物資源の入手先を必死に拡大しようとし始めていたのだ。

 米国政府は、西半球を支配しただけでは満足できずに、日本を支配化に置き、太平洋における米国政府の深い欲望を満たそうという望みをもっていた。この動きは、1930年代、日本政府に対する強硬な外交政策の後ろに隠された米国の執拗な目的だったのだ。米国史が専門の高木八尺教授が、以下の様な疑問を持ったのも、もっともだ。「アメリカは、アメリカ大陸にはモンロー主義を、アジアには門戸開放政策をとっていたはずなのに・・・」

 日本がナチス先導で形成された日独伊三国同盟に加入することに関して、1940年代初期の米国の外交政策がとった戦略は、このことを、米国民の日本政府に対する敵対心を高揚させるためのプロパガンダとして使用する、ということだった。米国の歴史家、ポール・W・シュローダーは、このことを理解しており、以下の様な文章を残している。

 「日独伊三国同盟は、米国の外交政策によって改めて問題化されたのだ。というのも、米国民に対して、日本との戦争を起こす空気を醸成するのに有効であると考えられていたからだ」

 日本は主要な敵国に囲まれ、分断され孤立させられていたため、日本の指導者たちは窮地を脱する方法を探そうとして、当時欧州で難攻不落であるように見えていた魅力的なナチスという相手を見つけ出したのだ。その後ろにはムッソリーニ政権のファシストも見えていた。日本が日独伊三国同盟に踏み出したのは、よこしまな狙いを持っていたというよりも、捨て鉢な対応を採らざるを得ない状況と地政学的な理由があったったためなのだ。

 日本が日独伊三国同盟に署名する数時間前、米国政府は日本政府に対してくず鉄の完全な禁輸政策を課した。これは日本にとっては本当にやっかいな問題だった。というのも、日本は、材質面においても、金銭面においてもくず鉄に依存していたからだ。

 さらに、米国政府と従属的な関係を結ぶことは、日本の軍部の強硬派だけではなく、大多数の穏健愛国派にとっても耐えがたいことであった。両派とも日本が、「米国にとって御しやすく、覚えの高い、下請け企業的」存在になることは望んでいなかった。実は、戦後は、そのような状況になってしまうのだが。

 米国の平和主義論者であるA.J.ムステは、この先起こるであろう、敵国間での世界規模の衝突をこう見ていた。「生存と支配を賭けた二勢力間の衝突になるだろう」と。ムステによると、その一方の勢力は英、米、そして「自由な」仏であり、この三国が「地球上の資源の70%を支配」し、「もう一方は、独、伊、ハンガリー、日本であり、世界の資源の15%を支配する」とのことだった。つまり、1940年代に、枢軸国が世界の大半を支配していたという言説は長年の神話に過ぎなかったのだ。

 1940年1月に、米国政府は、1911年に締結した日米通商航海条約を破棄した。このことが、日本が仏領インドシナや、蘭領インディーズ(インドネシア)や、フィリピンなどを占領する作戦に焦点をあてるきっかけとなった。これらの地域はすべて日本政府が領有したいと考えていた西側諸国の植民地だった。日米通商航海条約の破棄が致命的要因となり、多くの日本の穏健派たちが、枢軸国から支援を求める必要性を認識することになった。

 ヒトラーは日本を仲間に引き入れることで非常に安心感を覚えていたようだ。ただし、ヒトラーは日本の実力を過大評価していた。1941年の下旬に日本政府が真珠湾攻撃を決定したことは、いわばじりじりと窮地に追い込まれた野生動物の反応だったのだ。日本にとっての喫緊の課題は、真珠湾攻撃の数ヶ月前に、ルーズベルト政権が全米の日本資産の凍結を行ったことだった。それには英国政府やオランダ亡命政府も後に続いた。 これにより日本の石油輸入は一気に90%減少し、対外貿易も75%減少した。

 広範囲で第2次世界大戦を戦った経験のあるカナダの歴史家、ドナルド・J.ゴッドスピードは、こう記している。

 「ルーズベルトの対応は本当に過激だった。経済戦争を宣戦布告したともとれるものだった。その月(1941年の7月)の終わりから、日本は自国に保存していた石油を使わざるをえなくなっていた。それは8ヶ月分しかなかったのだ。従って、日本の内閣がその状況を打破する他の選択肢を考えようとしていたのは驚くことではない。戦争を起こすことも含めて、だ」

 その12ヶ月前の、1940年の7月、米国政府は日本政府に対して航空燃料の禁輸を突きつけていた。この航空燃料は、日本は米国以外のどこからも手に入れることのできないものだった。そして、日独伊三国同盟締結の直前に、日本は資源不足を解消しようと、仏領北インドシナに侵攻した。北インドシナは、日本領内から約1000マイル離れたところにあった。

  日本政府の北インドシナ攻撃の理由が、不安に基づくものであることは理解できることであった。米国の歴史家であり活動家でもあるノーム・チョムスキーは、北インドシナに対する日本の姿勢について、こんな記述をしている。

 「真珠湾攻撃の目的は基本的には2つあった。一つは、蒋介石政権への物資供給を止めることであり、もう一つは蘭領東インドの石油を獲得する足がかりを得ることだった」

 中国の反共産主義者であった蒋介石は、愛国心を装った欲望のもとに、西側から支援を受け続けていた。中国の北東部にある鉱物産地を抱える満州などにおいて、中国人の愛国心が高揚することは、日帝にとっては脅威だった。

 日本の戦略の大部分は、蒋介石を支援しようというこうした西側勢力の考えに反発しただけのものであり、日本政府の対応にはほとんど特異なところはなかったと言える。

チョムスキーはこう概観している。

 「19世紀の半ば、日本は西側の軍事力の脅威のために開国した。そしてその後、近代化に向けて目を見張るような成功を収めてきた。それから、日本は東アジアの国々から搾取することで、他の帝国主義諸国の仲間入りをした。日本は台湾と朝鮮と満州南部を占領した。要するに、1920年代の終わり頃に、日本は近代政治用語でいうところの「民主主義国家」になり、大国として果たすべき役割を果たせる国になることを画策していたのだ」

 日本政府が大国として果たすべき役割を果たせる国になろうとしていたことは、西側により妨害され続けていた。1922年の2月、日本は米・英に屈し、ワシントン海軍軍縮条約を批准した。さらに8年後の世界大恐慌直後のロンドン海軍軍縮条約で日本は軍縮を強化するよう追い込まれた。

 米英の支配者層は、日本が自国領海内で支配権を握ることを許さなかった。一方で、米英政府は、自国については自国領内の完全支配を主張していた。

 日本に対する西側からの非常に厳しい締め付けが、1930年代前半から日帝軍内に極右勢力が台頭するひとつの要因になった。日本政府において、ファシスト勢力が権力を握る一方、(意志が弱いと見られていた)日本の文官層は、脅され、暗殺され、解任されることで、その発言力を失い始めた。

 日本政府の政治家たちが何よりも責められたのは、上記の海軍軍縮条約を批准してしまったことだった。

 日本の政治学者である丸山真男は、1932年時点の状況をこう記している。日本において、「過激なファシズムに向けて蓄積されていたエネルギーが一気に爆発した」。その動きは、1933年の2月に国際連合を脱退する決定を行い、日本が領土拡大に向かっていたことによりさらに高まっていった。

  1930年代を通して、西側の経済政策は日本のそれよりもずっとよくない結果を残していた。1932年の夏に、カナダの首都オタワで行われたオタワ会議には、イギリス連邦諸国のかなりの数の政治家が出席した。西側に基盤を置くよく知られているNGO団体、太平洋問題調査会(以降IPR)の報告によれば、4週間にわたる長い議論の主な結論は、「日本のリベラリズムに打撃を与える」ことだった。

 IPRの調査結果によれば、日本が直面しているのは、「鉄や、鋼鉄や、石油や、多数の重要な産業鉱物の深刻な不足」であり、さらに「錫やゴムの供給の大部分が不足している。太平洋地域の産地からだけではなく、世界中の産地からの供給が不足している。そして歴史上の事実として、それらの地域の大部分は大英帝国とオランダが領有している」とのことだった。そして、その領有地域は、その後どんどん米国に移っていった。

 オタワ会議で決められたのは、経済封鎖体制だった。そして、効果的にイギリス連邦諸国との貿易から日本を閉め出すことだった。米国政府も同様の閉鎖的な独立経済政策をとり、日本政府は利益を得ることができなくなった。

 日本は満州地方において、これらの独自経済網の真似をしようとしていた。満州地方は日本にとって当時欠かせない地方だった。日本政府は、1931年の9月の中ごろに満州を攻撃し、翌年傀儡国を作り、その地方を満州国という呼び名に変えた。今や満州国となった満州地方は、西側から支援をうけていた蒋介石のような中国の愛国者たちにとって大きな脅威であった。蒋介石は満州を中国領にしたいと思っていたのだ。さらに、満州地方は、北のソ連の動きを探査するレーダーとしての役割も果たせると考えられていた。

 1930年代が進むにつれ、米国は世界大恐慌からうまく回復しようとしていた。いっぽう日本の回復はそれほどうまくは行っていなかった。

  一例をあげると、日本政府は対インド貿易の拡大を常に目指していたが、1933年に西側がインドに圧力を加えたせいで、その努力が打ち切られてしまった。具体的には、日本からインドへの綿製品の輸入には法外な関税が賭けられることになったのだ。これらの関税は、日本の貿易商にとって決定的な負担となった。インドにおける日本製品市場は1930年代の前半までは安定して成長していたからだ。それまでは、日本にとってインドは、英国に侵略された「すばらしい宝物の国」であったのだ。

 日本の商工会は、資源豊富な島国のフィリピンに進出しようとしていた。その選択肢が少しうまくいきかけていたのだが、日本は、1935年10月、日本からフィリピンへの絹織物の入荷を2年間停止する協定を結ばされた。いっぽう、米国のフィリピンへの輸入品は、無関税のままだった。

 日本経済の発展が専門の米国の研究者ウイリアム・W. ロックウッドは、対比貿易における米国の優位についてこう記している。

 「米国の閉鎖的な経済政策が大きな要因となり、米国製品は優位な地位を確保できた。日本の企業家たちが米国と同じような立場で競争を行うことができたのであれば、貿易における日本の収益の割合が急速に増加したことは疑いのないことである」

 しかし、そうなることは許されなかった。幾度となく、日本の目的は西側発の金融政策により阻害された。さらに、日本製品に対する米国の関税率は100%を超えていた。

 日本の織物製造業は、差別的な政策により、特に厳しい打撃を受けたが、織物製造業は日本の総製造業収益のほぼ50%、総輸出品の約66%を占めていた。さらに、日本の織物製造業には、日本の工場労働者のほぼ50%が従事していた。

 日本は確かに発展国だった。しかしそれは、アジアの中では、という意味でしかなかった。日本は西側のライバル国からはかなり遅れをとっていたのだ。1927年から1932年までの間で、日本の一人あたりのエネルギー消費量はドイツの7分の1だった。日本の銑鉄の生産量は、ルクセンブルクの総生産量の半分以下に過ぎなかった。鋼鉄でさえ、ルクセンブルクの生産量は日本よりもすこし多かったのだ。

 また、西側は、支配下におさめているマラヤや、インドシナや、フィリピンにおいて、関税障壁を設定することで順調に利益を上げていた。日本政府がこのような状況を受け入れられる訳がなかった。
 
 1930年代の中盤になるころには、日本は米国との貿易が著しく減少したことにより、さらに苦境に陥っていた。その主な理由は、米国で大恐慌に対応する関税法が成立したからだ。近隣国である中国との貿易を続けようという日本の努力も、同様に著しく後退させられた。それは、西側の企業が中国の主要都市である北京や南京に入り込んでいたからだ。

 日本政府にかかる圧力は増していた。その結果、1937年の夏に、日本が中国を標的にして領土拡大を始めたことは、全く驚くことではなかったのだ。中国というのは、石炭や、石油や、天然ガスなどが豊富な国だったからだ。それらが、日本が必要としていたものだったからだ。

 さらに日本は、中国とソビエト連邦がより密接な関係を結んだことで、警告を受けることになった。その裏付けとなったのが、1937年8月21日に南京で結ばれた中ソ不可侵条約である。この条約は日本に対抗して締結されたものであり、締結後の数ヶ月後、ヨシフ・スターリンは中国に2億5千万ドルを援助金として与え、その補助金の使い道を「主にソ連製の武器の購入にあてる」よう要請していた。その結果、ソ連製の900機以上戦闘機、82台の戦車、大量のマシンガンやライフルや爆弾などが購入され、さらには1500人以上のソ連軍の助言者と、2000人程度の空軍の軍人が訪中した。

 日本が「東アジアがボリシェヴィキ化してしまう」ことを懸念したとしても全くおかしくはない。ますます募る外憂に直面し、日本の野望は抑えきれなくなった。1938年12月22日、日本の近衛文麿首相は、こう語っている。

 「中国が認識すべきことは、日本が支配している中国の内部地域においては、居住や貿易の自由が認められていることです。日本が目指しているのは、日中両国民が経済的利益をえることです」

 定説とは矛盾するが、日本政府が中国に対して長年期待していたのは、中国を丸呑みしたり、中国の大部分を手中にいれることではなかったのだ。

  チョムスキーは、日本が中国に対してどんな意図を持っていたのかについてこう説明している。

 「日本は中国に対して、合併したり補償金を得たりすることは考えていなかった。それとは別のやり方で新しい秩序を打ち立てようとしていたのだ。それは、中国と日本を西側帝国主義から守ることだったのだ。西側による不平等条約や治外法権と対抗することだったのだ。その目的は、日本を裕福にすることではなく、日中が協力することだった(もちろん、日本が主導権を握った形で、ではあるが)。日本は中国に資本や技術支援を提供すると同時に、原料の支給を戦略的手段として使う西側諸国への依存からの脱出を求めていたのだ」

 日本政府の要望の一つであった西側諸国への原料依存からの脱却が、日本が領土拡大をするという夢の基盤だったのだ。結局その夢は、最悪の悪夢に終わってしまったのだが。

 

米英がムッソリーニのファシズムを支援していた

<記事原文 寺島先生推薦>The History of US and British Support to Mussolini’s Fascism

グローバル・リサーチ 2021年1月14日

シェーン・クイン著


 ベニート・ムッソリーニのような人物が権力を握れたのは、当時イタリアの国家情勢が深刻な状態にあったからだ。資源が少ない国であるイタリアは、第1次世界大戦における出費により、深刻な破産状態にあった。それまでのイタリアの民主主義政権は、それ以前の半世紀の合計金額よりも多くの軍事費を戦時中に支出していた。

 イタリアは第1次世界大戦で150万人の犠牲者を出した。戦後帰宅したイタリア人兵士たちが目にしたのは、分断が進み、失業率は高く、チャンスの目はほとんどなく、インフレが進行していた母国の姿だった。この状況がイタリアで過激派が台頭する素地となっていた。そしてそれと同じ事がイタリアのはるか北にあるドイツでも起こっていた。ドイツも第1次世界大戦により最大の被害を受けた国の一つだった。

 「戦勝国」側にいたにもかかわらず、イタリア市民の多くは、1919年6月のベルサイユ条約により、米・英・仏によって自国を奪われたと感じていた。イタリアは、これら三国と同程度、戦争による被害を受けており、対等の立場でベルサイユ条約が締結されるはずだった。

 戦争が終結に向かうにつれ、ムッソリーニが冷静に見つめていたのは、眼前に広がるイタリアの崩壊した姿だった。そして彼が感じ取ったのは、自分のように揺るがない意思をもった冷酷な人間なら、権力者への道を固めることができるということだった。ムッソリーニは冷血で、利を得る機会があればすぐに手を伸ばす様な人物であり、抜け目のないやり手だったし、彼はジャーナリストの手腕も持っていた。未来のドゥーチェ(イタリア語で国家指導者)であった彼は、さらに精神病者的な症状も有していた。その様子は彼の恰幅のいい体格や、炭のように黒い眼球や、時に見せる内気な言動からも伺い知れた。腕のいい精神科の看護師であれば、彼を見れば健康上の警告を発していただろう。

 ヒトラーとは違い、ムッソリーニは、ある種のイデオロギーに対する忠誠心はなかった。従って、1914年以前に見せていたマルクス主義的傾向をムッソリーニが投げ捨て、極右的な考え方に傾倒していったのは、避けられないことであった。ムッソリーニが何よりも関心を寄せていたのは、自分自身のことであり、自分のために権力を欲していた。ムッソリーニはそのような意図を不法な手段で実現しようとしていた。つまりクーデターだ。1922年の夏の終わり頃までには、ムッソリーニの「黒シャツ隊」は、軍の力を使って、市民の間に起こっていたすべての抵抗運動を根絶やしにしていた。

 力によって左派を打ちのめしたムッソリーニには、他にまだ3つの敵が存在していた。これらの敵は、力によって対応できるものではなかった。その3つとは、ローマ・カトリック教会と、イタリア王室と、民主派だった。ムッソリーニが、ローマ教会とイタリア王室に対して勝利を収めた方法は、自身の反カトリック主義や反王室主義を取り下げることだった。そして両者には特権を与え、さらには、権力を希求し、虚栄心も強い両者に、イタリア国内でのある程度の影響力を残したのだった。

 歴史家であり人類学者でもあるデイビット・ケルツァーは、イタリアのファシズムとローマ・カトリック教会の関係を分析して、こう語っている。「ムッソリーニが独裁者になれた重要な秘訣にはローマ教会があった」と。そして教会との協力関係がなければ、ムッソリーニの独裁政権は「起こらなかったであろう」と。また「その協力関係が無ければ、ムッソリーニの独裁は止めることができたかもしれない」と。その真実を隠すために、ローマ・カトリック教会を擁護する人たちは様々な神話のような話を広め、教会の指導者たちは初めからファシズムに反対していたと主張してきた。しかし実際のところは、それは全く逆で、「教会側はムッソリーニの支配下に取り込まれていた」のだ。ケルツァーはさらに、ドゥーチェ(訳注:ムッソリーニのこと)とローマ教皇ピウス11世は「ある意味、相互補完関係になっていった」と述べている。(1)

 教会と王室を味方につけることで、ムッソリーニは重鎮たちからの評価をあげることに成功し、残りの敵であったリベラル派を「王手」に追い込んだ。ムッソリーニが繰り出した最後の一撃は、1922年10月28日の「ローマ進軍」だった。ムッソリーニが政権奪取に成功するやいなや、西側陣営の指導者たちからの支援は増えていった。

 ムッソリーニのクーデターについては、当時の米国イタリア大使のリチャード・ウォッシュバーン・チャイルドの手記がある。そこには「素敵な若い革命がここにある。危険な状況はなく、熱気と様々な色で溢れている。我々はみなこの動きを歓迎している」とある。米国メディア取材の規準となるニューヨーク・タイムズ紙は、黒シャツ隊が成し遂げたのは「イタリア特有の、比較的被害の少ない革命だった」とコメントしていた。しかし実際のところは、そのクーデターの3年半前から暴力行為が蔓延し、数千人もの死者を出していたのだ。

 イタリアのファシスト政権の誕生は、ボリシェヴィキ型の政権奪取が再び起こることを恐れていた米国の不安を解消させた。ボリシェヴィキ型の革命は、その5年前の1917年の10月にロシアで起こっていた。1917年12月に米国ウッドロー・ウイルソン大統領政権が行った綿密な調査結果から、労働者運動が深まりつつあるイタリアは「明らかに社会主義革命や政権崩壊が起こる危機的状況にある」と警戒されていた。米国国務省の役人の私的見解では、「警戒を怠れば、ロシアと同じ轍を踏んでしまう可能性がある」とのことであり、さらに「イタリア国民は子どものよう」なので、「他のどの国に対するよりも手厚い支援」が必要であろう、とも付け加えていた。

 ムッソリーニ配下の民警部隊の黒シャツ隊が、すぐにそんな問題を片付けた。ローマの米国大使館はこんな報告を行っている。「イタリアにおけるボリシェヴィキ運動を押さえ込む際に最も熱心に働いた」のはファシストたちだ、と。そして「黒シャツ隊の熱気あふれる若き暴徒たち」に暖かな関心を示した。米国大使館は、さらに、「イタリアのすべての愛国者」へ向けたファシズムの訴えについて、イタリア人は「強力な指導者」を熱望する単純な国民だと述べた。(3)

 米国企業はこぞってムッソリーニ支配下のイタリアに投資した。米国の歴史家であり分析家であるノーム・チョムスキーは以下の様に記している。

「ファシストの闇がイタリアを席巻した際、米国政府や米国企業からの経済的支援は急速に増加した。戦後、イタリアには、どの国よりもはるかによい借金返済法が適応された。そして米国のイタリアに対する投資は他のどの国に対してよりも素早かった。当時のイタリアは、ファシスト政権が成立し、労働争議などの民主主義を求める運動は抑えられつつあった。(4)」

 「飛んで火に入る夏の虫」ではないが、ファシスト政権とつながれば巨大ビジネスが手に入るという抑えがたい衝動がイタリアに向けられた。ムッソリーニが政権を手にした1年後の1923年の終盤には、米国大使館は彼を褒め称えている。「クーデターの結果は素晴らしいものだ。ここ12ヶ月間、イタリア国内でひとつのストライキも起こっていない」 (5)。大使館は、ムッソリーニが成功したのは、労働者階級を押さえ込んだからだと考えていた。労働者こそが民主主義の前進を支える鍵であり、ムッソリーニはそこを押さえ込んだからだ、と。

 1924年から新しくイタリアの米国大使になったヘンリー・フレッチャーは、米国がこの先どのような外交政策を採るべきかの輪郭を決めた人物であった。フレッチャー大使は、米国の内務大臣のフランク・ケロッグに以下の様な情報を流した。それは、イタリアにおける選択肢は「ムッソリーニのファシズムか、ジョリッティの社会主義か」のどちらかであるというものだった。ジョヴァンニ・ジョリッティはムッソリーニの前のイタリア首相であり、左派だった。フレッチャー大使とケロッグ国務大臣は、リベラル派であるジョリッティよりも独裁主義者であるムッソリーニを好んだ。

 フレッチャーの考えによれば、イタリア市民たちが求めているのは、ムッソリーニ下の「平和と繁栄」であり、「言論の自由、ゆるやかな管理」や「危険なボリシェヴィキ的秩序の崩壊」ではなかったとのことだった。1925年から1929年まで米国の内務大臣をつとめていたケロッグはフレッチャーに同意し、ムッソリーニに反対する勢力はすべて、「共産主義者であり、社会主義者であり、無政府主義者である」と批判し、このような勢力に力をも持たせるべきではないと考えていた。(6)。 フレッチャーやケロッグのような支配者層が本当に恐れていたのは、「資本主義秩序が生き残れなくなる」という脅威であり、それはボリシェヴィキ運動が示していた脅威であった。

  1930年代初旬から、世界大恐慌の牙がヨーロッパ中を傷つけていたとき、ムッソリーニ政権は、西側の支配者層から大きな賞賛を得ていた。米国大使のアレクサンダー・カークは1932年に以下の様な記述を残している。「どこから見ても、イタリアの福祉は安寧だといえる。そう、ムッソリーニが権力を握っている限りは。しかし万一彼の身に何か起きたとしたら、どうなるだろうか?」(7)。なんという考え方だろうか!

 1933年、ニューヨーク・タイムズ・マガジン誌は満足げにこう記している。イタリアにおける「ファシスト計画に限界はなく」、「ムッソリーニが命じたことは、何の妨害も受けず、金銭的にもすべてうまく遂行されるだろう」と。米国の代表的なビジネス誌で、ニューヨークに拠点を置くフォーチューン誌は、1934年にファシストが支配するイタリアについての特集号を組んでいる。その見出しは、「ウォップたちは、腐っちゃいない(アンウォップ)」だった。「ウォップ」とはイタリア人に対する蔑称であり、この見出しは、「ムッソリーニ下のイタリアは遅れてもいないし、惨めでもない」という意味だ。

 (参考記事)

American Friendly Fascism: Not So Friendly Anymore


 1925年から1938年にかけて、ムッソリーニの経済政策により、イタリアの労働者の実質賃金は11%低下した。世界大恐慌が起こる前から、ムッソリーニ統治下のイタリアの失業者数は急激に増えていた。たった2年でその数は2倍以上にふくれあがった。1926年には失業者数は18万1千人だったのが、1928年には43万9千人になっていた。1932年には、1100万人以上のイタリア人に仕事がなく(8)、この数は大恐慌に対するイタリアには耐えがたいものだった。

 ムッソリーニの政策のために、生産コストも上昇した。それは、ムッソリーニが、通貨レートを1ポンド=90リラに固定したことが大きい。これは「イタリア経済に対して大きな緊張を与えた」とは研究者であり学者でもあるデビッドF.シュミッツの見立てだ。シュミッツはムッソリーニとベイクの外交政策について詳しく研究している。ドゥーチェ・ムッソリーニが貨幣レートを一定に保てた唯一の理由は、ムッソリーニが思い切った手段をとったからだ。例えば、デフレのあとに激しいインフレ策をとったことなど、だ。

 西側のビジネス誌はこのような状況を見落としていた。追放されたイタリア人の歴史家(例えばガエターノ・サルヴェミニ)の意見が公表されていたにも関わらず。1932年、サルヴェミニは米国のシンク・タンクである外交問題評議会に以下の様なことを伝えた。すなわち「イタリア産業は恐慌に苦しめられている。それは世界各地と同じこと」であり、「その状況は米国と同じくらい悪い」と。

 ムッソリーニ支配下のイタリアの国家債務は年を追うごとに増えていた。それは、ムッソリーニがイタリアの国家経済において、戦時体制に向けた出費を増やしていたこともある。「彼は、軍隊の好事家である」。これはヒトラー側近の助言者ヴィルヘルム・カイテルが同時代のムッソリーニを評した言葉だ。ムッソリーニが目指していたのは、軍の力により20世紀のローマ帝国を建国することだった。シュミッツはこう看破している。「イタリアの安定した政体に感銘を受けた米国の役人たちは、このような危うい状況を見落としていた」と。(9)

 すでに1923年には、ムッソリーニは米国の中枢から「非常に好感を持たれていた」ようだ。これは、モルガン銀行代表ネルソン・ディーン・ジェイの言だ。これはドゥーチェ・ムッソリーニがローマで開催された国際商業会議の開会のことばを述べた後の発言だった。なぜムッソリーニがこんなに深い印象を与えたのだろうか?それは演説中に、ムッソリーニが、「欧州各国政府は、企業を私有化すべき時期に来た」と発言したからだ。実は第一次世界大戦中は、企業は国有化されていたのだ。ヨーロッパが戦時中であったほとんどの時期にドイツ軍を指揮していたエーリヒ・ルーデンドルフは、中欧や東欧の多くの産業を国有化していた。 (10)。そのような産業には新聞社やタバコ会社も含まれていた。このように国家が産業を支配下におく構造は、戦争が終わり、ルーデンドルフが退任させられた後は、元に戻った。西側陣営の権力者にとっては、企業の私有化が重要だったのだ。

 
左から:チャンバレン(英国首相)、 ダラディエ(仏首相)、ヒトラー、ムッソリーニ、イタリアのチャーノ外相 。ミュンヘン会談署名前の写真


 米国の著名な裁判官でもあり、USスティール社の共同創設者でもあったエルバート・ヘンリー・ゲリーは、1923年のローマ旅行の際、ムッソリーニについてこんなコメントを残している。「本当に熟練した手が、イタリア国家という船の舵をしっかり握っている」。ゲリー裁判官はこう感じていた。「米国の友人たちに尋ねてみたい。私たちにもムッソリーニのような人物が必要なんじゃないか?と」 (11)。ゲリー裁判官が、労働者達のストライキを粉砕するムッソリーニの能力に感嘆したのは明白だ。

 米国国務長官であり、後に陸軍長官もつとめたヘンリー・スティムソンは、1933年にこう概観している。「米国とイタリアは、最も友好的な関係にある」と。第二次世界大戦後、スティムソンが思い出したのは、自分とハーバード・フーバー米大統領はムッソリーニのことを「健全で役に立つ指導者である」と考えていたことだった。米国のスメルディ・バトラー将軍が1931年にムッソリーニに関して手厳しい見解を述べたとき、スティムソンは同将軍を法廷手段で訴えることまでしている。

  フーバーの後継者である民主党のフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、1933年にムッソリーニを「尊敬すべきイタリアの紳士」と評している。つまり、米国政府はイタリアの独裁政権の支持を続けていたということだ。ルーズベルト政権のイタリア大使ブレッキンリッジ・ロングはファシズム政権という「政治における新しい実験」に熱狂していた。そして「それはイタリアで最もうまく機能している」と考えていた。

 米国国務省はムッソリーニの殺人的な1935年のエチオピア侵攻を「素晴らしい」業績であると捉えていた。そして、黒シャツ隊が「混乱から秩序を、秩序崩壊から規律を、破産状態から支払い能力をもたらした」と考えていた。 1937年に米国務省はこう考えていた。イタリアのファシズムも、ドイツのファシズムも、 「継承されなければいけない。そうしないと大衆、すなわち今は幻想を見せられ落ち着いている中流階級が再び左派の方向に動く可能性がある」と。 (12)

 2つ目の戦争が迫っていた1939年に、ルーズベルト大統領はこういっている。すなわち、イタリアのファシズムは「世界にとって重要である」が、「未だ実験段階である」と。(13)。例えばトーマス・ラモントのような、米国の強力な億万長者の銀行家たちは、ムッソリーニの熱烈な崇拝者だった。米国のJ.P.モルガン銀行の共同経営者であったラモントはムッソリーニを「とてもいい奴」であり、「健全な考え」のもと、「イタリアにとってとてもいい仕事をした」人物であると語っている。もう1人影響力のあった銀行家のオットー・カーンもムッソリーニ下のイタリアを賞賛しこう語っている。「ベニート・ムッソリーニは状況がよく見えている。イタリアはこんなに素晴らしい人物の指揮下にある」と。

 ムッソリーニに対する支援は英国の支配者層の間でも同様に広がっていた。実は、ムッソリーニと英国の繋がりは1917年にまで遡る。その年の秋、ムッソリーニは英国のスパイとしてMI6から雇われていたのだ。MI5とは英国のスパイ組織だ(14)。当時34歳だったムッソリーニは、ミラノにあったポポロ・ディタリア紙で編集者をしていたのだが、M15から週給100ポンドで少なくとも1年間雇われていた。これは今の価値でいうと週給7000ポンドに相当する。この給金が支払われたのは、ムッソリーニに戦争を煽る記事を書かせ続けるためのものだった。それにより、イタリアを対独連盟に留めさせようという狙いがあった。

 英国がムッソリーニに金を渡していたことは、英国保守党党員で、M15ローマ支局のサミュエル・ホーアも了承していた。ムッソリーニがホーア下院議員に語っていたのは、ムッソリーニはイタリア軍の古参兵たちを派遣して大衆の平和を求める運動を粉砕するつもりがあるということだった。そんな知らせは、ムッソリーニを雇っていた英国を喜ばせたことだろう。

 イタリアの独裁者ムッソリーニは、英国の高官たちから熱烈な承認を受けていた。その中には保守党下院議員のウィンストン・チャーチルもいた。1927年、52歳だったチャーチルは財務大臣をつとめていたのだが、ローマを訪問し、そこでドゥーチェ・ムッソリーニと会った。それを受けて、チャーチルは以下のような話をメディアに語っている。

 「私は魅了されずにはいられなかった。他の全ての人もそうだったであろうが。シニョール・ムッソリーニの優しく飾らない立ち居振る舞いや、穏やかで客観的な様子には、本当に感銘を受けた。彼は多くの危険や任務を抱えているだろうに・・・。もし私がイタリア国民なら、きっと心の底から、そして徹頭徹尾、ムッソリーニについていったはずだ。そうだ、恐ろしい執着と熱情をもってレーニン主義者排斥に勝利しようというムッソリーニに」(15)

 チャーチルがムッソリーニにこんなおべっかとも取れるような発言をしたことは、別に驚くことではない。というのも、チャーチルはムッソリーニが嫌っていたのと同じくらい、労働運動家たちや、社会主義者たちや、共産主義者たちを毛嫌いしていたからだ。イングランドの教育者ジョン・シムキンはこう書いている。「歴史書を読めば、チャーチルはファシズムを深く崇拝していたことがわかる」と。さらにこう付け加えている。「1920年代や1930年代にチャーチルが行った演説や彼が書いた記事を見ればよく分かる」と。チャーチルが妻に宛てて書いた手紙の内容からも、チャーチルのファシズム崇拝が見て取れるそうだ。 (16)。しかしこのような事実は、歴史からはかき消されている。

 「シニョ-ル・ムッソリーニ」がチャーチルや英国当局者にとってやっかいごとになったのは、ムッソリーニによるファシスト支配時代の後半になってからだった。そうだ。英国の利益が、植民地を増やしたいという独裁者ムッソリーニの野望により脅かされるようになってから、やっとのことで、だ。


 以下はチョムスキーの分析である。


「ムッソリーニは多くの大衆を引きつける穏健派であると捉えられていた。そして、彼がもたらした効率重視の統治と繁栄は、野獣(訳注:社会主義者たちのこと)を倒し、海外財閥にむけて、利の上がる投資と交易を行うドアを開くことになったのだ。 (17)

  保守党下院議員であり、1924年から1929年まで外務大臣をつとめたオースティン・チェンバレンは、ムッソリーニと個人的な友人関係にあった。1925年にノーベル平和賞を関係者と共に授与されたチャンバレンは、財務大臣も2度つとめている。そして、後に英国首相となったネヴィル・チェンバレンの異母兄だった。

 外務大臣として、オースティン・チェンバレンはムッソリーニについてこう語っている。「自信をもって伝えたいことだが、ムッソリーニは愛国者であり、誠実な人物である。私は彼が発することばを信頼しているし、私と彼なら英国政府のために働いてくれるイタリア人をみつけることなどたやすくできるだろう。(18)。1921年から1933年まで英国イタリア大使をつとめたロナルド・グラハムも、このファシスト独裁者を賞賛の目で見つめていた。イートン大学の卒業生であるグラハムは、英国政府に向けてムッソリーニのイタリア支配を支持する多数の書簡を送っている。その書簡を、英国外務省や内閣の関係者が熱意をもって読んでいた。

  ムッソリーニが権力を固めるにつれ、イングランドの代表的な新聞で、ロンドンに拠点を置く新聞であるロンドン・タイムズ紙は、1928年6月にムッソリーニについてこんな見方をしていた。「ムッソリーニは、衰えることなく成功し続けている」と。彼のおかげでイタリアは世界における主要国家にとどまることができている、と。1922年に米国生まれの資産家である保守党の政治家ジョン・ジェイコブ・アスターが買収していたロンドン・タイムズ紙は、あきらかに親ムッソリーニ派であった。ロンドン・タイムズ紙はこの独裁者を「素晴らしい判断力の持ち主だ」と持ち上げていた。さらにムッソリーニには、「ユーモアのセンスがある」とさえ評していた。ただし、同紙が懸念を示していたのは、ムッソリーニ政権がいつか倒れるのではないかということであった。そして、そうなることは、「考えただけでも恐ろしい」と書いていた。ロンドン・タイムズ紙は1929年にもムッソリーニの「偉大な斬新さと政治的手腕」を賞賛する記事を載せている。 (19)。

 1928年12月に、ディリー・テレグラフ紙は、ムッソリーニを「妥協しない現実主義者」であり、平和を求めていたという「名誉ある記録」を残している人物だと評している。都合良く忘れ去られた事件がある。それは、ムッソリーニがギリシャのケルキラ島に侵攻し爆撃を行った事件だ。それは1923年秋のことで、この爆撃により10数名の市民が殺された事件だ。

 さらに、テレグラフ紙もムッソリーニが策定した労働関係の法律を賞賛している。同紙は、その法を「斬新な革新」であり、「純粋な愛国心」に根付いたものである、と評していた。1936年、反ファシストの歴史家であったサルヴェーミニは、テレグラフ紙に対してこんなコメントを残している。「いつもムッソリーニばかり推している」と。イタリアのファシズムは、それ以外の英国の複数の新聞から強固な支持を受けていた。たとえば、極端に反ボリシェヴィキ主義をとっていたディリー・メール紙や、モーニング・ポスト紙などだ。モーニング・ポスト紙は、1937年にテレグラフ紙に買収されている。イタリアのファシストを研究している豪州の記者リチャード・ボスワースによれば、英国のメディアで唯一ムッソリーニを激しく批判していたのは、「スペクター紙だけだった。スペクター紙も当初はムッソリーニを熱烈に支持していたが、のちにその熱意がなくなっていった」とのことだ。 (20)。

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引用文献

1 Alex Floyd, “A Communion of Dictators Binds Fascism and the Catholic Church”, Vineyard Gazette, 30 July 2015

2 David F. Schmitz, “A Fine Young Revolution”: The United States and the Fascist Revolution in Italy, 1919-1925, Radical History Review, 1 May 1985

3 Noam Chomsky, Deterring Democracy (Vintage, New edition, 3 Jan. 2006) p. 38

4 Ibid.

5 Edwin P. Hoyt, Mussolini’s Empire: The Rise and Fall of the Fascist Vision (Wiley; 1st edition, 2 Mar. 1994) p. 87

6 Chomsky, Deterring Democracy, p. 39

7 David F. Schmitz, The United States and Fascist Italy, 1922-1940 (University of North Carolina Press, 30 Jan. 1988) Chapter 5, Italy and the Great Depression

8 Ibid.

9 Ibid.

10 Donald J. Goodspeed, Ludendorff: Soldier: Dictator: Revolutionary (Hart-Davis; 1st edition, 1 Jan. 1966) p. 138

11 Schmitz, The United States and Fascist Italy, Chapter 3, the United States

12 Noam Chomsky, Hegemony or Survival: America’s Quest for Global Dominance (Penguin, 1 Jan. 2004) p. 68

13 Ibid.

14 Tom Kington, “Recruited by MI5: The name’s Mussolini. Benito Mussolini”, The Guardian, 13 October 2009

15 Tom Behan, The Camorra: Political Criminality in Italy (Routledge; 1st edition, 18 Aug. 2005) p. 34

16 John Simkin, “Was Winston Churchill a supporter or opponent of Fascism?” Spartacus Educational, September 1997 (updated January 2020)

17 Chomsky, Deterring Democracy, p. 39

18 Lawrence R. Pratt, East of Malta, West of Suez: Britain’s Mediterranean Crisis, 1936-1939 (Cambridge University Press; 1st edition, 13 Oct. 2008) p. 16

19 R. J. B. Bosworth, The British press, the Conservatives and Mussolini, 1920-1934, Jstor, pp. 172 & 174

20 Ibid., p. 173

 

 

 

 

 

 

戦勝記念日!ロシア人は2600万人戦死の記憶はあるが、米国資本主義がナチスドイツの戦争を金銭面で支えていた事実は知らない。

<記事原文 寺島先生推薦>

Victory Day! Russians Remembered Their 26 Million Dead, Unaware of Contribution of US Capitalism to Nazi Germany’s War Economy

グローバル・リサーチ

2018年5月15日

ジェイ・ジャンソン著

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>2021年2月25日



 先週末、ロシアの人々は、大きな犠牲を払って勝ち取ったナチス・ドイツに対する勝利の記念日を祝うパレードを行った。何百万もの人々が、ロシア各地で行進に加わった。参加者の手には、亡くなった家族の写真があった。戦争のほろ苦い思い出として。我々は、古い資料をたどって、人々が歴史についてどのような知識を持っているかの研究を行っている。その際、公的機関が触れない或る事実がある。それはヒトラーの軍は西側により作られたものであったという事実だ。この行為は第1次大戦後のベルサイユ条約に完全に違反しており、西側勢力は、ソ連に侵攻したいというヒトラーの野望に望みをかけていたということだ。

 貧しかったナチス・ドイツが、自力で軍隊を作り上げ、その軍隊を世界一のものにすることは不可能だった。ヒトラーは支配権を掌握してからたった7年でそれをやってのけたのだ。巨額で徹底的な投資がなければできなかったろう。さらには、ジリ貧のナチス・ドイツに米国トップ企業が共同出資をしていたのだ。このような行為は、ドイツの再軍備を禁じたベルサイユ条約に違反するものだった。ヒトラーには世界大戦を始めることなどできなかったろうし、複数の国々においてホロコーストを行うこともできなかったはずだ。米国から巨額の資金援助を受けていなければ、ヒトラーにはそんなことはできなかった。

 当時、世界は世界大恐慌の大混乱のさなかにあった。その大恐慌というのは、植民地をもとにした資本主義の元での銀行による支配のみじめな結末であったといえる。そんな中で、ナチス・ドイツは、銃に弾を込め、銃撃の構えをとっていた。そして実際に発砲することになった。そしてその矛先は、西側にとって耐えられないくらい成功を収めていた社会主義のソビエト連邦に向けられた。覚えておくにこしたことはない事実だが、このような投資や共同出資が行われたのは、ヒトラーがあからさまに共産主義者や社会主義者、ユダヤ人たちに対する意図を公言していた時期と重なる。ヒトラーは、はっきりとユダヤ人に対する嫌悪感や、社会主義や共産主義に対する反感、ソ連の計画に対する反感を口にしており、ドイツがLebensraum(領土)を広げる必要性を訴え、ドイツが19世紀に目標としていた‘Drang Nach Osten’(東方への衝動)ということばを、ドイツがスラブ地域へ侵攻を進めるかけ声にし、その実現を目指していたのだ。

 以下は、英国系米国人のアンソニー・B.サットン著「ウオール街とヒトラーの台頭」という本からの抜粋である。その第1章は「ウオール街がヒトラー台頭の道を築いた」という題名だ。(アンソニー・サットンは1968年から1973年までスタンフォード大学フーバー研究所の博士研究員だった)

 「米国資本主義が1940年以前、ドイツの戦争準備に貢献していたという事実には驚かざるをえない。米国資本主義による貢献がドイツ軍の能力向上にとって本当に重要な要素だった。例えば、1934年時点で、ドイツ本国ではたった30万トンの石油製品しかなかったし、合成燃料は80万トン以下しかなかった。それなのに、10年後の第2次世界大戦においては、ニュージャージー州のスタンダード・オイル社から譲渡された水素化の特許と、I.G.ファーベン社の技術により、ドイツの石油生産量は約650万トンになった。そのうち85%は合成燃料であり、その製造にはスタンダード・オイル社の製造過程が採用されていた。 

 ドイツ人たちはデトロイトに派遣され、部品を生産する専門的な技術や流れ作業での組み立て技術を習得した。デトロイトで習得された技術は結果的に急降下爆撃機を作ることに使われた。後に、米国在住のIG・ファルベン社の代表者たちは、ドイツ人技術者を米国に派遣する流れを可能にした。このような技術者たちは、飛行機工場だけではなく、軍に関する重要な工場にも派遣された。現在の米国のビジネス誌は、当時のビジネス誌や新聞が完全にナチスの怖さや本質を見抜いていたことを裏付ける報道をしている。

 示されている事実から分かることは、米国ビジネス界の中枢がナチズムの本質を理解していただけではなく、米国ビジネス界自身の利益のために、可能なときは常に(そして自らのもうけになるときは常に)ナチズムを金銭的に支援していたということだ。そして、米国ビジネス界がしっかりと理解していたのは、その支援が最終的にはヨーロッパや米国を巻き込む戦争につながる可能性があるということだ。

 合成燃料と爆発物という二つが近代戦争の基盤であり、第二次世界大戦におけるドイツの侵攻の鍵となるものだった。そしてこの二つはドイツの2社の合弁会社の手の中にあった。そしてその二社はドーズ・プラン(訳注:ベルサイユ条約により不利な状況に置かれたドイツを救済するために立てられた計画)に基づき、ウォール街が提供した融資によって創設されたものだ。

 ヒトラー支配下のドイツにおける二大戦車製造業者は、ゼネラル・モーターズ社の完全な子会社であったオペル社(そしてゼネラル・モーター社はJ.P.モルガンの支配下にあった)と、デトロイトに本社があるフォード社の子会社フォードA.G社だった。ナチスは1936年にオペル社に免税措置を付与し、ゼネラル・モーターズ社が生産施設を増やすことを可能にした。 さらに米国のアロカ社やダウ・ケミカル社もナチスの産業界と密接な関係にあった。

 ゼネラル・モーターズ社はドイツのジーメンス・ウント・ハルスケ社に自動操縦や航空計器のデータを送っていた。そして1940年になっても米国のベンディックス・アビエーション社は、航空機やディーゼルエンジンについての完全な技術データをドイツのロバート・ボッシュ社に提供しており、 見返りに特許料を受け取っていた。

 概して言えば、モルガン・ロックフェラー財団の国際投資銀行と関連のある米国の企業は、ナチス・ドイツの産業発展と密接につながっていた、ということだ。記憶しておくべきことは以下のような事実だ。「ゼネラル・モーターズ社や、フォード社や、ゼネラル・エレクトリック社や、デュポン社といった米国のひと握りの企業が、ナチス・ドイツの発展と密接に関わっていたということだ。(ただしフォード・モーター社は違うが)。そしてこれらの企業を支配下に置いていたのは、ウォール街の大資産家たちだ。すなわち、J.P.モルガン社であり、ロックフェラー・チェース銀行である。それと規模は小さいが、ウォーバーグ・マンハッタン銀行も、だ」
(引用終わり)

 アンソニー・サットン著『ウォール街とヒトラーの台頭』(1976)を読んで時間を潰してしまったと後悔する人はいないだろう。こちらで読めます。

 サットンはカリフォルニア州立大学およびロサンゼルス州立大学の経済学の教授であり、1968年から1973年までスタンフォード大学フーバー研究所の博士研究員だった。

 第二次世界大戦に関してウォール街に責任があるという事実は一般的には無視されている中で、以下に挙げるサットンの著者の見出しを見たものは、空いた口が塞がらないくらいの衝撃を受けるだろう。

(以下はサットンの著書の見出しからの引用)

 I.G. ファーベン社帝国。I.G. ファーベン社の経済力。米国が作ったI.G. ファーベン社

 ゼネラル・エレクトリック社はヒトラーに資金提供。ドイツ、ワイマール市におけるゼネラル・エレクトリック社。 ゼネラル・エレクトリック社とヒトラーへの投資。クラップ社との技術提携。ドイツの 航空会社A.E.G社は第二次世界大戦において空襲を受けなかった。

 スタンダード・オイル社は第二次世界大戦を戦った。エチル社がドイツ国防軍を導いた。スタンダード・オイル社とゴム。独米石油合弁会社。

 ITT社は戦争の両側のために画策していた。クルト・フォン・シュレーダーとITT社。ウエストリック社とテキサコ社とITT社。戦時ドイツにおけるITT社

 ヘンリー・フォードとナチス。ヘンリー・フォード。ヒトラーが最初に関係をもった外国の銀行家。ヘンリー・フォードはナチスから勲章を授かっている。フォード社がドイツの戦争を支援。

 アドルフ・ヒトラーに資金を与えたのは誰だ?ヒトラーが初期に関係を持っていた銀行家たち。フリッツ・ティッセンとW.A.ハリーマン会社。1933年3月のヒトラーの選挙に資金援助。1933年の政界に対する貢献。

 プッチ、ヒトラーとルーズベルトの友人。ドイツ国会議事堂放火事件におけるプッチの役割。ルーズベルトのニュー・ディール政策とヒトラーの新秩序政策。

 ウォール街とナチスの内部関係。ステンレス鋼連合の友人連合。I.G.ファーベン社とケプラー社のつながり。ウォール街とステンレス鋼連合との関係。

 「シドニー・ウォーバーグ」の神話。「シドニー・ウォーバーグとは誰か?」、抑圧されたウォーバーグの著書のあらすじ。銀行家ジェームズ・ウォーバーグの宣誓陳述書。「 ウォーバーグ」の話からのいくつかの結論

 第2次世界大戦におけるウォール街とナチスの協力関係。第2次世界大戦におけるアメリカンI.G.社。アメリカ産業や金融界は戦争において罪を問われたか?

結論: 国際的な銀行家たちの影響力の増大。合衆国は独裁主義者の特権階級により支配されているのか? 破壊者としてのニュー・ヨークの特権階級。歴史修正主義者たちからの真実暴露がゆっくりと進行中である。

(引用終わり)

 「第二次世界大戦は「正しい戦争」で、一人の狂人が起こした戦争に対する正義の戦いだった」という偽りの定説が行き渡ることが可能になったのは、ウォール街子飼いのメディアや映画がその定説を固定化することに手を貸したからだ。ウォール街にとっては、第二次世界大戦ほどおいしい投資は、歴史上なかったのだ。

 第二次世界大戦か終結した時、唯一無事だった主要工業は、ウォール街が所有しているものだった。ウォール街と、ウォール街が支配下に置いていた米国政府が、世界で力を握るただ一つの権力者となった。こんなことは、歴史上初めてのことだった。ウォール街を大喜びさせたもうひとつの事象は、ウォール街が大敵と見なしていた国、社会主義国家のモデルであったソビエト社会主義共和国連邦の多くの都市が半壊滅状態におかれたことだった。ソ連では、2600万人の市民が亡くなった。この死者数は、第二次世界大戦での、ヨーロッパ、アフリカ、アジアにおける死者数のほぼ半数に上る。第二次世界大戦が起こる七年前、それはナチス・ドイツの再軍備が行われていた時期だったのだが、 ウォール街の特権階級の内部の声を知らせてくれた最後の大統領であるフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領が、彼の腹心のコロネル・ハウスに書いた手紙には、こうある。「私も貴殿も理解していることだが、米国政府を所有しているのは、権力の中心にいる金融業界だ。それは、アンドリュー・ジャクソン(ルーズベルトの100年以上前の米国大統領)の時から始まっていた」

(ここから引用)

 戦争マシーンのナチスに資金援助していた西側陣営が標的にしていたのは、ソ連への攻撃だった。彼らはソ連の崩壊を目論んでいたのだ。というのは、彼らの目からは、ソ連は世界で巻き起こっている社会主義の嵐の源であると見えていたからだ。1930年代の世界大恐慌の最中、資本主義の存在自体が存亡の危機にあった。米国や英国などの西側諸国では、大規模な貧困が蔓延し、市民の不満が渦巻いていた。西側資本主義の秩序は、足元の民衆からの警告により、風前の灯であった。

 このような状況が、西側陣営が支援するヨーロッパにおけるファシズムの台頭という歴史を産んだといえる。第二次世界大戦に関して、誰もが認める以下の数字を見て欲しい。ナチス・ドイツ撃退のために、約1400万人の赤軍兵士が生命を奪われた。 一方、米国兵士や英国兵士の犠牲者は、それぞれ40万人以下だった。つまり、これら西側陣営の犠牲者は、赤軍の犠牲者の4%以下だったということだ。

 これらの数字が我々に教えてくれるのは、ナチス・ドイツの戦争行為の目標が当初どこに置かれていたか、ということだ。 そう、それはソ連だった。そして、西側帝国主義の支配者たちが、1930年代に、そこに望みをかけて、ナチスやヨーロッパの他のファシスト政権に資金投入していたのだ。 [引用元は、フィニアン・カニンガムの記事「第二次世界大戦は継続中だ。その相手はロシア」。プレスTV(イランの国営放送)、2014年、10月5日、下線は筆者)]

 なぜ、ソ連の指導者や記者たちは、冷戦期間中の反ソ連プロパガンダによる大量の嘘がばらまかれている時代にも、第二次世界大戦に向けてドイツを再軍備させた責任を西側陣営に問わなかったのだろう? そしてその意図は(ヒトラーが脅していた通り)ソビエト社会主義共和国連邦を崩壊させることだった、というのに。 古い資料をたどってこの歴史を研究している我々にとって、この件は本当に謎だ。米国(そしてヨーロッパ諸国)の企業による投資や共同出資が、ヒトラーの国防軍をたった6年で世界一の戦力を持つ軍に押し上げた歴史的事実については、企業側の記録にも残っているし、米国やドイツなどの国々の税金の使用法の記録にも残っていることだ。そして今ならインターネット上でその大部分は広範囲な統計として見ることもできる。

 

2018年ロシア戦勝記念日のパレード


 調査を行っている我々にとって唯一説得力のある答は、ナチス・ドイツとソ連の間で締結された独ソ不可侵条約を恥じてのことだ、ということだ。しかし、植民地主義諸国はナチス・ドイツの再軍備、しかも重厚な再軍備に明らかに加担していたのだし、しかもその理由が、ナチス・ドイツを「社会主義国家ソビエト連邦に対する防弾のため」というお慰みにもならない理由であったのだから。その後、西側陣営はソ連からの「かつてない好戦的な態度を見せてきたヒトラーに対する防護のための同盟をすべきだ」という提案に何一つ同意しなかった。だからこそ、スターリンがドイツと結んだ驚くべき不可侵条約は、ロシア防衛にとって最後の望みの綱だった。

 ソ連はヒトラーの攻撃に備えるためにその条約を結んだのかもしれない。その攻撃は、米国や英国やフランスがドイツの再軍備に手を貸し、準備をしてきたことだった。そのような行為はベルサイユ条約に違反するものだったし、西側陣営はヒトラーに対抗するためにソ連と連合を組むことは拒んでいた。

 2009年に、当時ロシアの首相だったウラジーミル・プーチンは独ソ不可侵条約を「不誠実であった」と非難したが、こうも語っている。すなわち、フランスや英国がミュンヘン会談(訳注:1938年のドイツのチェコスロバキア・スデーデン地方併合問題について、英独仏伊が行った会談)において反ファシスト運動を起こす絶好の機会を反古にしてしまった、と。2014年11月6日、英国のディリー・テレグラフ紙は以下の様な見出しを出した。「ウラジーミル・プーチンは、“アドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツとソ連の不可侵条約には何の問題もなかった”と発言した」。以下はモスクワ在住トム・パーティフ記者による記述だ。

 「モスクワでの若い歴史家たちとの会談において、プーチンは彼らに第2次世界大戦のきっかけについて研究するよう促した。プーチン氏によれば、今日の西側の歴史家たちは1938年のミュンヘン会談のことには「口をつぐもう」としている、とのことだ。さらにプーチンは、その会談においては、英仏(当時の英国はネヴィル・チェンバレンが首相として君臨していた)がアドルフ・ヒトラーを懐柔し、ヒトラーがチェコスロバキアのスデーデン地方を占領することを認めた、と発言している。さらに“ヒトラーの独裁によるドイツが形成されようとしている中で、ヒトラーという侵略者と妥協したことは、あきらかに将来における大規模な軍事衝突を引き起こす原因になった。西側には、そのことを理解している人もいた“と発言していた」

 1936年から1938年まで米国ロシア大使をつとめたジョセフ・ディヴィスは、『モスクワへの密使』という著書(のちに映画にもなったが)において、1937年にロシア人たちが自暴自棄になっていた様子を記述している。当時のロシアは、英仏から防衛のための同盟を結ぶこともできず、ドイツの再軍備が行われていることもはっきりと理解しており、ドイツが狙っているのはソ連であり、ドイツの再軍備の意図は単なる「防塁」のためではないことに、はっきり気づいていた。ナチス・ドイツと驚くべき不可侵条約を結ぶことによって、スターリンは、ヒトラーにソビエト社会主義共和国連邦を攻撃させようという西側の計画をしばしそらそうとしたのだ。このおかげで、ソ連には東方に戦車を配置する時間的余裕ができ、それが後にナチスの侵攻を退けることを可能にしたのだ。ヒトラーが「殲滅戦」と呼んだ西ポーランドの戦いは、独ソ不可侵条約締結後たったの1週間後に始まった。その後、ヒトラーは再び「殲滅戦」と名付けた、ソビエト社会主義共和国連邦に対するドイツ軍の侵攻を、1941年6月22日に開始した。そして、同時にユダヤ人の根絶も進めた。

 世界大戦中に、ドイツもスターリンも英米も、町全体を焼き尽くすという罪を犯した。そのような犯罪行為が可能となったのは、ドイツを再軍備させようという熱意がもたらしたのだ。そしてその熱意の目的はたったひとつだった。映画や写真などで、戦闘機だらけの空や、戦艦だらけの海や、何千もの戦車による死闘が行われた陸の風景を思い起こすときに、同時に思い出してほしいことがある。それは、ビジネス・スーツをまとった多数の上流階級の人間たちが、嬉々として自分たちが得る利益を数えている姿だ。彼らが投資していたのは、武器工場であり、兵服であり、軍需品であり、そして棺であった。ウォール街のせいで引き起こされた第2次世界大戦が終わったとき、唯一生き残った巨大富裕権力は、ウォール街が所有している米国だけだった。いっぽう、ウォール街の大敵であった社会主義国家ソ連は、半ば壊滅状態におかれ、ソ連の主要都市は半ば崩壊状態で、2600万人の市民が亡くなっていた。

 これまでの歴史はどう変わっていただろうか?米国の巨大企業が投資や共同出資を行ったために、第二次世界大戦が起こり、ホロコーストが可能になったという事実を世界中の人々が知っていたとしたら。米国が何十もの国々に侵攻し、何百万もの男性や女性や子供たちを反共産主義の名のもとに殺したことに対して、世界中の人々の反応は違うものになっていただろうか? ウォール街子飼いのメディアがあんなにもいとも簡単に、ロシアに対する戦争を煽り、米軍が複数の国々に行った、国をまるまる破壊し、市民を殺し尽くした犯罪を見えなくさせることができただろうか。その犯罪には、米国が資金提供したテロリストや、自由の戦士とタグ付けされた戦士たちも関わっていた。

 ナチス・ドイツは去ったが、アメリカ合衆国は健在だ。そして彼の国はロシアに対する敵対心を隠そうともしていない。この事実を知ったならば、先週愛する故人たちの写真を手に行進していた何百万ものロシアの人々の感じ方は大きく変わるだろう。米露関係の歴史を振り返れば以下のことが思い起こされるだろう。赤軍を恐れた米国は、ソ連を敵国であると宣告し、ドイツに対ソ戦争の準備をさせ、ドイツが米国に宣戦布告した後は、都合よくソ連と同盟を結び、戦争が終われば、またもや共産主義ロシアを赤狩りの対象として敵国扱い。そして今、米国は再度ロシアを敵国と考え、制裁を加えている。

 今日の世界はどうなっていただろうか?もし、この真実が世界中の人々の心の中に存在していたとしたなら。特に人類の大多数を占める第三世界と呼ばれる地域の人々が、この事実を分かっていたとしたら。これらの地域の人々は未だに、ドイツを再軍備させた第一世界の権力により植民地化され、搾取されているのだから。

 

CIAのインドネシアへの関与、そしてJFKとダグ・ハマーショルドの暗殺

<記事原文 寺島先生推薦>The CIA’s Involvement in Indonesia and the Assassinations of JFK and Dag Hammarskjold

By Edward Curtin and Greg Poulgrain

Global Research
2020年11月22日

Greg Poulgrain
2016年7月2日




<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2021年1月30日

ジョン・F・ケネディ暗殺(1963年11月22日)追悼

 インドネシアの歴史と現在進行中の悲劇への米国の関与についての真実は、西側ではほとんど知られていない。 オーストラリアの歴史家グレッグ・ポールグレインは、数十年にわたり、その歴史の真実に人々の目を開かせ、否応なくこの醜い真実と対立・浄化させる努力を続けてきた。 それは、CIAとアメリカ政府が政権交代を支援し、消耗品とみなされた人々を大量に虐殺するという野蛮な陰謀の物語である。最新の著書『介入のインキュバス:ジョン・F・ケネディとアレン・ダレス間のインドネシア戦略対立』で、ケネディ大統領はアメリカのインドネシア政策を変えようとしたが、アレン・ダレスとCIAに反対され、結果的にJFKは殺害されたことをポールグレインはっきり書いている。 ケネディの死の前に国連事務総長ダグ・ハマーショルドが死亡、その後、何百万人ものインドネシア人、パプア人、そして東チモール人がアメリカの後ろ盾の下、殺害されたのだ。

※インキュバス : ヨーロッパ中世の伝説の、寝ている女性とセックスするという男の悪魔_英辞郎

 事実を精緻に捉えることで定評のある歴史学者でありながら、ポールグレインは同時に真実も語る稀有な人物だ。

 今回のインタビューでは、インドネシアをめぐるアレン・ダレスとケネディの相反する戦略、JFKとダグ・ハマ-ショルドの暗殺へのダレスの関与、インドネシアのスカルノ大統領の失脚へのCIAの関与、そしてその後のインドネシアと西パプア全域での虐殺事件など、著書の中で取り上げた多くの問題点を深く掘り下げている。

 良心を備えた人にとって、彼の声は傾聴に値する。

『介入のインキュバス』の序文で、あなたは次の問いを投げかけています。:「アレン・ダレスが、アメリカ大統領暗殺という手段に訴えたというのであれば、それはケネディの戦略ではなく、アレン・ダレスの『インドネシア戦略』を確実に達成するため、ということだったのだろうか?」と。この問いへの答は読者が決めることであり、それがこの本を書いた理由だとおっしゃっていますね。 この後半の記述には少し曖昧さがあります。 あなたの結論とは何だったのですか?

 ゆっくりと、ゆっくりとですが、私は、アレン・ダレスとジョン・F・ケネディの間に生まれたいろいろな不一致の中におけるインドネシアの役割を理解するようになりました。もう数十年になりますが、インドネシアの歴史と政治に関する講演や研究を行いながら、私は常にこの流れを辿ってきました。私は、インドネシアのアダム・マリク元副大統領に対して忘れられないインタビューをしました。そのインタビューのあと、1年も経たないうちに元副大統領は亡くなってしまいました。そのインタビューで、「中ソ対立に関連してインドネシアは大事なのです」としきりにマリク氏が言っていた理由が、私にはちんぷんかんぷんでした。私はずっと後になってから気がついたのですが、中ソ間の溝を察知したダレスは、その溝をさらに広げる楔としてインドネシアを利用したのでした。


 ブリスベンからインドネシアを訪れるのは、アメリカから行くよりはずっと近いので、私は長年にわたり、スカルノや60年代の政治について多くの人と話をしてきました。私は19世紀と20世紀の歴史を教えていますが、中でもインドネシアが独立するために苦労していた1950年代と60年代に私はずっと焦点を当てています。オランダは、3世紀以上もインドネシアを離れませんでした。なぜなら、彼らは世界で最も豊かな植民地を統治していたからです。

  ベトナム戦争が本格化する前、ワシントンの関心はラオスに向けられていました。いっぽうアレン・ダレスは以前からインドネシアに注目していました。しかし、アメリカ政府の政策や公式発表において、その政治的な不安定さ、豊富な天然資源、そして広い国土があるにも拘わらず、インドネシアが言及されることは滅多にありませんでした。インドネシアは東南アジアのほとんどの国の何倍もの人口(世界第4位)を抱えています。世界最長の群島であり、赤道をはさむその長さは、ロサンゼルスとニューファンドランド間に匹敵します。

 1963 年のインドネシアの民衆は、JFK を大統領在任中も大統領在任後も英雄と考えていました。しかし、インドネシアを「米国陣営」に組み入れ、冷戦の宥和を図ろうとしたケネディの戦略はインドネシア国外ではあまり知られていません。その事実は、私たちがインドネシアについて何も分かっていないということを本当に浮き彫りにしています。また、アレン・ダレスのインドネシアでの隠密作戦を知っている読者はどれだけいるでしょうか?1958年の作戦のことです。かつてダレスと一緒に働いていたフレッチャー・プロティ大佐によれば、ベトナムを除けば、これはCIA最大の作戦でした。 私は読者のみなさんは1960年代のインドネシアをあまりご存知なく、ケネディとダレスのそれぞれの戦略についてはもっとお分かりにならないだろうと思います。それで、インドネシアを中心に二人をつなぐ驚くべき証拠があることを読者のみなさんに知っていただくために、こういったことに光を当てる必要が出てきます。それは桁外れの政治的決闘であり、ダレスの勝利はケネディの死だけでなく、何百万人もの人々の死につながりました。それは現在も続いています・・・

その背景と二人それぞれの戦略についてお話しいただけますか?

 インドネシアの潜在的な富、特に石油と鉱物は、1920年代、弁護士のアレン・ダレスの目に留まりました。彼は、ロックフェラー・オイルの利害を代表し、オランダ東インド諸島の伝説的な石油王であるアンリ・デターディングに対抗していました。第一次世界大戦の時に諜報部に入ったアレン・ダレスは、1950年代にDCI(中央情報局長官)になった時も、ロックフェラーの石油利権と密接に結びついていました。彼の専門は政権転覆であり、これがインドネシアでの彼の究極の目的でした。彼の反スカルノ戦略は、ジョン・F・ケネディが大統領に選ばれる 3 年以上前から始まっており、ケネディの親スカルノ路線と対立するようになりました。ケネディのインドネシア戦略は、インドネシアと友好関係を結び、冷戦時代の同盟国にすることを前提としており、インドネシアを起点としてラオスや深刻化する南北ベトナム問題に対処することが彼の東南アジア政策の前提となっていました。1961 年、ダレスは自分が主導したインドネシアを中心とした裏工作の深さと巧妙さをケネディに明かしませんでしたし、 ケネディもダレスの戦略がどれほどの規模か、どれほど巧妙に行われていたか、分かっていませんでした。

アレン・ダレスのインドネシア戦略というのはインドネシアの石油と豊富な鉱物資源だけが目的だったのですか?


 1960年代初頭の冷戦は、ワシントンが中ソ陣営に対抗する中で激化していました。モスクワと北京の間に楔を打ち込むことが1958年のロックフェラー兄弟会議における決議事項のひとつでした。この会議には中央情報局長官のアレン・ウェルシュ・ダレスや彼とは戦後ベルリン以来つながりのあったヘンリー・キッシンジャーらが参加していました。キッシンジャーが考える「限定的核戦争」は会議で注目の的になっていました。1960 年代初頭に、モスクワと北京の間でイデオロギー的な分裂が確認されたとき、ダレス長官はこの情報を非常に重要と考えていたため、 体調不安定だった現職大統領アイゼンハワーにも、ジョン・フォスター・ダレスから引き継ぎ1959 年に国務長官に就任したクリスチャン・ハーターも知らせませんでした(ジョン・フォスターは癌で亡くなる前、弟のアレンが生涯の野望としていた国務長官を特権的に継承することは認めませんでした)。

 また、アレン・ダレスは新大統領ジョン・F・ケネディにも、中ソ分裂が現実のものであることを伝えませんでした。1961年大統領職に就いた1年目、ケネディはあっと言う間にダレスの宿敵となりました。2年目、ダレスはもはや中央情報局長官ではありませんでしたが、相変わらず強い権力を持っていました。そんな時、冷戦はキューバ・ミサイル危機で頂点に達しました。ケネディの大統領就任 3 年目、ダレスは、それまで暖めていたインドネシア戦略を実行する腹積もりでした。その戦略とは具体的には「米国によるニューギニアの主権問題への介入を正当化する」ことでした。つまり、インドネシアに軍的援助を大量に投入し、インドネシアを親西側にするという作戦でした。いっぽう、ケネディは、1958 年からダレスが権力掌握に備えて米軍基地で訓練していたインドネシアの陸軍将校を使うことを考えていたのです。しかしケネディの意図は、この軍隊を大規模な市民支援プログラムに利用するというものであり、それはダレスの意図とは真逆でした。しかし、最も重要な違いは、ケネディはスカルノに大統領を続けさせようとしていたのに対し、ダレスの戦略ではスカルノは最大の敵だったということでした。スカルノの急進的なナショナリズムの支援を受け、インドネシア共産党(以降PKI)は何百万人もの党員を集めていました。人々が共産党を支持したのは、共産党であれば、貧困からぬけだし、米を栽培するための小さな私有地を所有できる社会を作ってくれるという期待を持っていたからです。

そう言えば、こんなにも不誠実な行動をしてきたダレスはまた、ソビエトがピッグス湾侵攻の日を1週間以上前に知っていて、それをカストロに知らせていたことをCIAが知っていたことをケネディに知らせませんでした。つまり、ダレスは侵攻が失敗することを分かっていながら、とにかく侵攻を進めたのです。 そしてケネディを非難したのです。彼は信じられないほど狡猾な人間でした。

 かつて英国の諜報機関のトップであった人物が、アレン・ダレスを「史上最強の情報部員」と評したことがあります。このコメントは 1940 年代の彼の活動に言及したものですが、彼のインドネシア戦略を見れば確かにその褒め言葉は当たっています。ダレスは日本がインドネシアを戦時占領する前に、オランダ領ニューギニアには空前の鉱物資源と石油があることを知るようになりました。ニューギニアの山中で、ロックフェラー会社の一つが世界最大の金の天然鉱脈を発見しました。これに加えて、記録的な量で発見された原油は硫黄を含んでいませんでした(つまり、石油精錬は必要ないのです)。

 しかし、これらの天然資源の支配権を得るためには、まずオランダの植民地行政を排除しなければなりません。1949年にオランダ領東インド諸島でのオランダ植民地支配が終了したとき、オランダはニューギニアを手放さず、さらに12年間そこに居座りました。ダレスは、1962年、ケネディのパプア民衆に対する統治国をオランダにするか、インドネシアにするかの選択に力を貸しました。ダレスは後者を選びました。国連オプションが起こらないようにしたのです。国連オプションというのは、1961年にケネディと国連事務総長のダグ・ハマーショルドの間で秘密裏に議論されたものです。ケネディは国連による介入に賛成でした。そうすれば、インドネシア(東南アジアにおける冷戦時代の必要な同盟国)にするか、オランダ(NATOの同盟国であった)にするか、の選択は必要なくなるからです。ハマーショルドの意向としては、オランダとインドネシアの両方の主権主張を否定し、代わりにパプアの人々に独立を与えるつもりでした。

パプア独立という考え自体ダレスの怒りを買ったでしょうね。

 「介入のインキュバス」という言い方は、アレン・ダレスが何故、どのようにダグ・ハマーショルドのやり方を止めたかを示しています。ハマーショルドは国連を利用してニューギニアの主権論争に終止符を打とうとしていました。ダレスの介入とハマーショルドの死は、ダラスでケネディの身に起こった悲劇とゾッとするほど符合しています。ケネディは、そのため、やろうとしていたジャカルタ訪問ができなくなりました。 ケネディのジャカルタ訪問は、ディーン・ラスクが手書きの手紙で私に説明してくれたように、マレーシアとの対立を停止させるためのものであり、そうなればスカルノの「終身大統領」としての地位は確実に強化されたでしょう。ケネディが考えていたジャカルタ訪問は、ダレスのインドネシア戦略の死を意味していました。

 西ニューギニア(西パプア)の山中にある広大な金と銅の鉱床がずっとスカルノ大統領の管理下にあったならば、それらは主にインドネシア国民の利益のために使われていたでしょう。インドネシアがスハルト将軍の支配下に入ると、逆のことが起こりました。実際、ロックフェラー企業であるフリーポート・インドネシアとの契約が調印されたジャカルタのビルの外では、陸軍の戦車が街をパトロールする音が聞こえました。スマトラ島やインドネシアの他の地域の膨大な石油資源も搾取されました。ダレスの側近の2人は後にこの天然資源の大鉱脈から恩恵を受けています。統合参謀本部のアーレイ・バーク提督とキッシンジャーはフリーポート・インドネシアの取締役になりました。数年前、金の価格が最高値を示していた頃、フリーポートの採掘事業の規模は、その年間の売上高で測ることができました。ほぼ200億ドルです。

ケネディのインドネシア戦略は機能したと思われますか?

  ケネディのインドネシア戦略はやればうまくいったでしょう。それがアレン・ダレスに突きつけられた問題だったのです。(インドネシアと)マレーシアの対立を止めることで、彼がノーベル平和賞にノミネートされる可能性は極めて高かったと思います。ケネディがインドネシア戦略を確実に為し遂げる意図がなかった、つまり、この対立を止め、インドネシアへの米国支援の再開を議会に認めてもらう目的でジャカルタを訪問する準備ができていなかったとは考えにくいでしょう。そうでないと、1964 年の大統領選挙で勝利することは見通せなかったはずだからです。東南アジアにおける彼の主要な外交政策は失敗とみなされたでしょうから、彼にはほかに選択肢がありませんでした。

  反ケネディ派の人々が、「ケネディのインドネシア戦略は個人的な政治的野心に駆られたものだ」として、ケネディを中傷することは簡単でした。何故なら、ケネディは、スカルノ大統領を支持していたことだからです。スカルノ大統領は米国の新聞で散々に言われていましたから。ですので、ケネディがスカルノを支持することは政治的な危険を孕むと見られていました。スカルノは 1920 年代までの政治キャリア全体を通じてナショナリズムを推進していました。一部のグループからは共産主義者、あるいは共産主義シンパの烙印を押されていました。ケネディ本人もこの問題に関しては一部の過激なメディアから共産主義者のラベルを貼られました。自分のインドネシア戦略に関して統合参謀本部の人間から十分な支持を受けようとしたダレスからは、ケネディの個人的な野心は、インドネシアの共産党である PKI に対抗する政治的手段としてインドネシア軍を使用する戦略を混乱させ、国益を損ねるものだと映りました。モスクワと北京はともに PKI に影響力を与えようと躍起になっていました。マレーシアとの対立について、北京はPKI の役割を推進しようとし、逆にモスクワはPKIが関わらないように、と動きました。モスクワが選んだのは、PKIの議席数の優位が見込まれるような選挙を行うことでした。両者の対立は激しく、イデオロギー的な対立はますます明らかになりました。ケネディがジャカルタを訪問すれば、中ソ紛争を公然と敵対関係に追い込むための楔として PKI を利用する機会は閉ざされたでしょう。

 1965 年後半から 66 年にかけて、スハルト将軍派の将校達の命令で、PKI が壊滅させられた後、中ソ国境で戦車戦という形で、公然とした敵対関係が勃発しました。もしケネディがジャカルタ訪問を進め、インドネシア戦略が成功していたら、推測の域を出ませんが、こんなあからさまな中ソ対立は起きたでしょうか?1965 年のインドネシアでの悲劇的な出来事は起きたでしょうか?あるいは、毒キノコのようなスハルト将軍は、また違った形で登場したのでしょうか?

インドネシア問題があったからダレスはJFKを暗殺したのだ、と結論づけるかどうかについてあなたは何も言っていません。このことについてのあなたはどういう立場を取りますか?

  フレッチャー・プロティ大佐のYoutubeでの50分のインタビューを見たことがありますか? そこで彼は彼のCIAの元上司であるアレン・ダレスが、長官としての最後の数年で、組織的に暗殺を行ったと言っています。そのやり方はあまりにも整然として冷酷だったのでプロティはCIAを「殺人会社」と呼んだほどでした。

見ました。プロティの洞察はすこぶる有益なものでした。

 
 例えば、1961年にコンゴで国連事務総長のダグ・ハマーショルド氏が死亡した飛行機事故を例に挙げてみましょう。昨年2015年、国連の調査により、最終的に彼の死は政治的な暗殺であると判断されました。この調査で重要な役割を果たしたのは、1990年代後半に「真実と和解委員会」でデズモンド・ツツ大司教が発掘した文書(南アフリカの諜報機関による10通の手紙)でした。アレン・ダレスの名前は、この飛行機事故に直接結びついていました。

 『介入のインキュバス』に収録したハマーショルドの右腕ジョージ・アイヴァン・スミスへの私のインタビューでは、ハマーショルドの悲劇的な死へのアレン・ダレスの関与について、コンゴではなくインドネシアが動機だったということを紹介しました。

そのインタビューについてお話しいただけませんか?あなたが書かれたハマーショルドの暗殺、JFK、そしてインドネシアは新しい観点ですし、とても重要です。
 


 ジョージ・アイヴァン・スミスの説明では、ハマーショルドはコンゴから戻ったら、国連総会で歴史的な発表をしようと計画していました。しかしそれは実現しませんでした。彼が発表しようとしたのは、西ニューギニアの主権をめぐるインドネシアとオランダの間の長期にわたる紛争に国連が介入することでした。もしハマーショルドがこれを行っていたら、アレン・ダレスの「インドネシア戦略」は完璧に台無しになっていたでしょう。独立を認められた後のコンゴ初代大統領については、すでにCIAにより暗殺されていたので重要な案件ではなかったのです。ハマーショルドの死に関しては、1975年にアメリカ上院が調査し、アレン・ダレスがこの暗殺を扇動することに直接関与していたことをはっきりさせました。

 ジョージ・アイヴァン・スミスが私に話してくれた内容と、ツツ司教からの証拠とを考え合わせると、アレン・ダレスがハマーショルドの死に関与した動機はコンゴではなくインドネシアが問題の中心だったことが分かりました。

 私が言いたいのは、1961 年にハマーショルドが知らず知らずのうちにダレス戦略を脅し、1963 年にはケネディもまたダレス戦略を脅したということであり、ダレスが何を計画していたのか、またその計画の中で何年にもわたって行われてきた隠密の陰謀を十分に認識していなかったということです。これがアレン・ダレスの「インドネシア戦略」と私が呼ぶものです。1963年までに、オランダ領ニューギニアとそこにある未発表の天然資源の大鉱脈がスカルノ支配するインドネシアに所属したことに関して、ダレスの戦略にはいくつかの段階があったことを再確認したいと思います。

1)ダレス戦略にはインドネシア、つまりインドネシア共産党(PKI)を、「モスクワと北京」の間の溝を広げるための「楔」として利用する作戦がありました。

2)1958 年にダレスが始めたインドネシアへの介入は、インドネシア陸軍将校の 3 分の 2 を米国で本格的に訓練し、政権転覆に備えることでした(実際の政権転覆が起きたのは1965 年でした)。

3) 西ニューギニアにある世界最大の金(と銅)の一次鉱床と、硫黄を含まない世界で最も純度の高い石油の採掘は、ロックフェラー関連企業(1920年代からダレスと繋がっていました)を勢いづかせました。

 ですから、あなたの質問への答えは「イエス」です。(ダレスにとって)インドネシアは冷戦の面では計り知れない利益をもたらし、(インドネシアで政権転覆が起こった時には)金、銅、石油の面では計り知れない利益をもたらしました。 (西ニューギニアには世界最大級の埋蔵量を持つ天然ガス資源があります。)

 ハマーショルドもケネディも、どれほど膨大な金が絡むのかを分かっていなかったし、ダレスがどれほど冷酷なことをしでかすかについても詳しいことは何も分かりませんでした。上述したインドネシアの状況が、最初は1961 年、そして次に1963年の殺人の動機を与えました。最初はハマーショルド、そして次はケネディでした。

ケネディとハマーショルドといえば、高尚な知性と精神性が結びついた存在と私は考えることが多いのです。ダレスはその二人を殺したということですか?


 公式な記録によると外国の指導者が何をするかを正確に予測したり、ダレス自身のプロジェクトの結果を予測したりする際に、その成否の可能性を中央情報局長官ダレスはよくギャンブルの比喩を使って判断していました。 例えば、成功の可能性は「丁か半か」、といった具合です。1961 年のハマーショルド飛行機事故のため、国連総会は5年前にダレスが仕掛けたインドネシア戦略に干渉できなくなりました。政権転覆に向け否応なく事態が進行したのです。中ソ間の溝を確認できる証拠が山のように出てきて、1963年までにこの戦略を是が非でも成功させることが必要になりました。1963 年にケネディが提案したジャカルタ訪問は、政権転覆後に入手可能になるであろうインドネシアの大量の天然資源に関する長年の諜報活動を台無しにする恐れがある一方で、 ダレスの冷戦工作を脅かすものでもありました。もしケネディがそのまま進んでいたら、インドネシアを中ソ分裂の楔として利用するという当時のダレスの戦略は台無しにされていたでしょう。(インドネシアと)マレーシアの対立は、インドネシア経済に悲鳴を上げさせるようなインフレに追い込むことで、ダレスにとっては2つの意味で機能していました。つまり、①スカルノ退陣に追い込めること、②同時に、中ソ間の亀裂と対抗心を高める、ことです。そのようなものとして、ケネディのジャカルタ訪問は国益に反していると考え、統合参謀本部にとっては、こちらの方がはるかに重要な意味合いがあったのです。ダレスにとってケネディの動きを止めることは急務でした。すでにハマーショルドは排除してあったので、ダレスの選択肢は、彼お得意の無神経な比喩に倣えば、あとは「一か八か」でした。

ここから一気に1965~66年に飛んでみませんか?この時期に政権転覆があり、例の虐殺が始まりました。将軍達の殺害、その非難先、スハルトとCIAの繋がり、などについてお話しいただけませんか?このことについては詳細に調べていらっしゃいますよね

 陸軍の将軍達を殺害すること(拉致してクーデターの噂を説明させるためにスカルノの下に連行するのではなく)は「9月30日事件」の計画には入っていませんでした。この運動の鍵となる人物であったアブドゥル・ラティエフ大佐はそう言っています。将軍達を殺したことが全てを変えました。インドネシアの歴史が変わり、スハルト将軍が政権を取り、大混乱となり、20世紀最大級の大量殺人事件を引き起こすことになりました。DNアディット(インドネシア共産党議長)の指導下にあったインドネシア共産党(PKI)は、中ソ圏外では最大の共産党であり、それが壊滅したことは冷戦のひとつ転換点になりました。6年前にそのことが確認され、CIAが詳細に監視していたモスクワと北京の間の深刻な不和は、このPKIの運命によって輪を掛けることになりました。かつては一枚岩の共産主義圏と言われていたものが、今ではモスクワと北京がお互いに非難と罵声を浴びせ合い、すぐに公然とした敵対関係(例えば、ウスリー川での戦車戦など)に発展しました。1970年代初頭には、ソビエト連邦からの核攻撃を想定して、北京の人々は、地下シェルターへの大量避難を含む避難訓練を受けさせられるくらいでした。

訳注 9月30日事件とは、1965年9月30日に起こった、大統領親衛隊第一大隊長であったウントンらが「インドネシア革命評議会」を名乗り、スカルノ大統領に対するクーデターを計画しているとされた6名の陸軍将軍を殺害したクーデターのこと。このクーデター後、スカルノ大統領はクーデターを支持していたとされ失脚し、スハルト政権が発足。またこのクーデターに加担したとしてインドネシア共産党の多くの人々が虐殺された。

ラティエフとはお話ししていますよね。彼は何を言っていました?

 ラティエフ大佐とのインタビューは、スハルトが辞任した数日後のチピナン刑務所で行われました。私がジャカルタに到着したのは、暴動と放火が始まった直後の1998年5月でした。私は空港が閉鎖される前に空港から出た最後の人間でした。それから国会の建物を占拠している60,000人のインドネシアの学生達に食糧を供給する活動に加わるようになりました。主に学生達の抗議活動が功を奏し、スハルトは辞任せざるを得なくなりました(最終通告は米国の国務長官マドレーヌ・オルブライトが突きつけた「ノー!」でしたが)。そして服役中の人たち(その中には30年間服役していたラティエフもいました)に食事を運んでいた学生の一人が、私がチピナン刑務所に入る手助けをしてくれました。

 「9月30日事件」の主要な軍人は、ラティエフ、ウントン、スパルジョの3人でした。ラティエフはジャカルタ軍司令部の司令官でした。6人の将軍を拉致する計画には、彼を味方につけることが不可欠でした。「将軍たちを殺す計画はなかったし、誰かを殺す計画もありませんでした」とラティエフは何度も私に言いました。運動の頭目とされていたのは宮殿警備隊長のウントン中佐でした。しかし階級が一番上だったのはマレーシアとの対立のためカリマンタンのポンティアックに駐留していたスパルジョ准将でした。彼はスハルト将軍(マレーシアとの対決キャンペーンを張っていました)からジャカルタに招かれていましたが、彼が到着して最初に訪問したのは、運動の実際の指導者であるスジャム(フルネーム:カマルザマン)でした。スパルジョのこの訪問は、拉致が始まるわずか2日前のことでした。スパルジョの「准将」という位階は「9月30日事件」に対する社会的評価を高めました。そしてスカルノ大統領に対するクーデターを計画していると非難された「将軍評議会」に叛旗を翻す計画に彼は暗黙の了解を与えたのでした。彼はこの運動には一貫した戦略や軍事計画がないことが分かりましたが、このような緊急の脅威には即座に対応する必要があったため、進んでこの運動の前進を許しました。その代償として彼は人生を棒に振ることになりました。

 ジョン・ルーサの著書『大量殺人の口実』では、スジャムがこの運動のリーダーであったとはっきり述べられています。ルーサは、PKI内の秘密組織「特別局」に関して、スジャムがどんな役割をしていたか説明してくれています。その「特別局」とは、アイディットが1964年後半に始めた部局であり、その目的は、軍隊内でPKIをずっと支持してくれる可能性のある人物と友人関係を結ぶことでした。1950年代の初めから、アイディットはスジャムがある問題について政治的に対立する両陣営と関わりをもつ能力を持っていることを知っており、正式な軍事訓練を受けていないにもかかわらず、彼がそういった仕事に適した人物だと考えていました。 どうやらアイディットが知らなかったのは、1945-49年オランダからのインドネシア独立闘争の際に、スハルトと密接に接触していたスジャムに軍事的経験があったことです。また、アイディットが理解していなかったのは、彼がスジャムとつながりを持つ以前に、スジャムがスハルトと軍事的な結びつきを持っていたことの意味です。これがアイディットにとっては深刻な問題になったのでした。アイディットは、「特別局」でスジャムを指揮下においていたつもりだったのでしょうが、実はスジャムにとっては、スハルトとの結びつきがもっとも重要なことだったからです。

 スハルトはこのグループを支援していたのですか?


 「9月30日事件」のメンバーの間では、スハルトがこの事件をとりたてて支持していたことに何の疑問もありませんでしたが、スハルトとスジャムが一体となって活動していた可能性があることは、メンバーには思いもつかないことでした。

それなら、なぜ彼らはスハルトを信頼したのですか?

 将軍たちが拉致された運命的な夜の前に、なぜこの運動はスハルトをこれほどまでに信頼していたのかとラティエフに尋ねると、彼は次のように答えました。「彼は私たちの仲間だったのです」・・・ラティエフとスハルトは親友でした。彼らには家族のつながりがあり、二人の軍事的なつながりは1945年から1949年に至る独立闘争にまで遡ります。そこでラティエフはスジャムと初めて短時間会っています。しかしこの「スハルト-スジャム」ラインが「9月30日事件」にまで至り、スジャムがこの事件で役割を果たすことになったことを、ラティエフが知ることはありませんでした。ラティエフによると、彼が刑務所に入れられた時、膝に撃たれた銃弾は治療されずに放置され、銃剣でも刺されたと言います。 彼は最初、刑務所の中で食べ物がなく、お腹が空いたのでネズミを捕まえて食べたと言っていました。

 振り返ってみると、ラティエフの証言があれば、法廷での審理など意味がなかったのです。その証言とは、「ラティエフは拉致の数日前にスハルトの家を訪れ、スハルトに将軍拉致計画を説明していた」という証言です。そんな作戦を実行しようということがスハルトの耳に入っていたとしたら、インドネシアの戦略司令部(コストラッド)が、即座に踏み潰したでしょう。しかしそうはなりませんでした。スハルト自身が、コストラッドというエリート部隊の司令官であったからです。スハルトはインドネシアの究極の国益のためにこの情報を他へ洩らさなかったという議論があるかもしれません。それでも彼には将軍達の死に責任があります。なぜならそれを契機に彼には大統領職への道が開けたからですし、それはスハルトにとって究極の利益となりました。10月1日の朝、ジャカルタの中心地であるムルデカ広場を「9月30日事件」の部隊が占拠しました。最初のラジオ放送があった後も、スハルトが司令官であるコストラッド本部に部隊が踏み込むことはありませんでした。その事実は、スハルトと「9月30日事件」が同盟関係にあったと言っていることになります。広場の片側には米国大使館、もう一つの片側にはコストラッド本部、そしてそれらに面してラジオ局があります。このラジオ局から午前7時15分「9月30日事件」は最初の声明を発表しました。何人もの将軍が逮捕されたこと、そしてインドネシア革命評議会がジャカルタに設立されるだろう、というのがその声明の内容です。この10分間の放送で、運動の指導者としてウントンの名前があげられました。

 私がインタビューした別の人物、インドネシア空軍情報将校のヘル・アトモジョ中佐はこの運動への関与を告発され、17年間服役しました。彼の証言によれば、最初のラジオ声明はスジャムが原稿を書き、ウントンがチェックして認可しました。他方、丁度正午過ぎに発表された2 回目のラジオ声明は全部スジャムが書いた、とのことです。この2回目のラジオ声明は、階級と権力の劇的な再構築を試みるよう訴える内容でした。(ただし、1回目も2回目も、スカルノを最高指揮官とするという内容はずっと変わりませんでした)。この2回目のラジオ放送のせいで、この事件は、「クーデター」を企てた事件だった、とのレッテルを貼られることになりました。後になって初めてラティエフは、自分が支持していた運動が実は政治的に動機づけられた、つまり、言ってみれば、スジャムという人間の存在に感染させられたものであったことに気がついたのです。

 ラティエフの弁明では、9月30日の数日前にスハルトの家を訪問して計画の概要を説明しただけでなく、スハルトが息子を病院に見舞っていた9月30日の夜に再び話をしたとのことでした。裁判所は、このラティエフの驚くべき情報を事件とは無関係であるとして却下しました。さらに法廷証言には出てこなかったある事実がありました。それは、「拉致作戦が10月1日の早朝に行われる」という話を9月30日にラティエフから聞いたのち、スハルトはジャカルタのチェンパカプティにあるスパルジョ准将の公邸を秘密裏に訪問していたという事実です。この深夜の秘密訪問はアトモジョ中佐が目撃しており、中佐はメモを取っていましたが、その後数年間の恐怖政治の間はもちろん、それ以降のスハルト政権中もずっと、そのことに触れられることはありませんでした。スハルトが辞任する 2 年以上前に、インドネシアの非常に高位の将校が、著名な政治家とともに、スハルトがスパルジョの住居を訪問したことを私に知らせてくれました。スハルトは将軍たちを拉致する計画を知っていただけでなく、このグループの一員として受け入れられていたのです。

いつ、どのようにしてスハルトはPKI党員大虐殺の口実となる将軍達の拉致と殺害を操ったのですか?

 
 J.メルヴィンが2014年6月に書き上げた注目すべき博士論文「大量殺人のメカニズム」には、1965年10月1日の朝、スハルトがいかにして遠く離れたスマトラ島北部でPKIの逮捕と処分を開始する命令を出していたかが書かれています。 PKIの仕業かもしれないと言われる前から、 実際、将軍たちの運命が拉致ではなく殺されることが知られてもいないのに、スハルトは将軍たちの死を PKI のせいにしていたのです。スハルトは PKI に対する報復命令を出しました。スハルトのこのおぞましい準備作業がよりよく知られるようになるとき(そしてジョン・ルーサはまもなく、この重要な情報を盛り込んだ別の本を出版すると思う)、将軍たちの死でスハルトが果たした役割は、「ルビコンを越える」ことだったと見られるでしょう。おっと、この場合は血の川ということになりますね。

 スハルトの諜報部員アリ・ムルトポは後に、拉致と殺人に関与した部隊を輸送していたトラックの運転手二人を追跡しました。ムルトポは約1週間後にこの二人の運転手を殺害しました。おそらく二人はスハルトとスジャムを何らかの形で結びつける情報を持っていたか、あるいは将軍達の死に直接関連する情報を持っていたからでしょう。

  スジャムは法廷で将軍たちの死に対する自分の責任を認めました。拉致の間、土壇場での命令は「生死を問わない」であり、拉致から生き残った者は後に頭部に銃弾を撃ち込まれ処刑されました。しかし、スジャムは、これらはすべてアイディットの指示によるものだと主張し、PKIに責任があるとの主張の正当性を裏付けました。

 周陶沫は、彼女の論文「中国と九月三十日事件」(『インドネシア』98,2014 年 10 月号)の中で、毛沢東とアイディットの間で行われた議論の記録が、6 人の将軍が殺された運命的な夜にジャカルタで行われたことと驚くほど似ている、書いています。インドネシアの用語では「九月三十日事件」は「G30S」と呼ばれています。 しかし、この記録は、9月30日の夜に起きた殺人事件に関して、歴史的に間違った記載になっています。この記録をもとに「G30S」を振り返ると、アイディットがこの事件に加担していたと読み込むことは可能で、作戦を拉致から殺害に変更しているところなどはあまりにも手際が良すぎると思えるほどです。周陶沫は、「中国の指導者たちは、反共産主義者を掲げる軍の将軍たちが権力を掌握するための動きを止めようとするPKI の計画を知っていた」と述べていますが、(ラティエフ氏の説明の通り)殺人は計画には入っていませんでした。ですから拉致以上の意図がアイディットにはあったとすることは、毛沢東とアイディットの議論の記録に当初の意図以上のことを読み込んでしまうことになるでしょう。「G30S」という言葉を次のようにまとめの言葉として使うことにより、周陶沫は殺人が計画に入っていたことを言おうとしているのです:「最近の調査では、PKI内のアイディットは含むが他の政治局員や一般党員は入らない秘密グループが『G30S』を計画していたことが分かっている。」そして別の箇所では「PKI内の秘密グループが独自に計画を立て、それをアイディットは事前に中国のトップリーダーと共有していた。」との記述があります。

 もしアイディットがあの夜の出来事に関して、将軍たちの誘拐ではなく、殺害の責任を問われるとすれば、そしてスジャムがアイディットの命令で行動していたとすれば、スハルトが運動を支持していたと考えられていたのですから、G30S部隊がコストラッド本部を占拠しなかったのは、アイディットの命令であったということになるでしょう。

 アイディットはいかなる名前も口にしてはいませんが、もし彼が毛沢東に名前をいっていたのであるとすれば、それは最高位の将校(つまりスパルジョなんかではなくスハルトです)の名前だったでしょう:論文によれば、アイディットは毛沢東にこう語ったとされています。「我々は軍事委員会を設立する予定です。・・・この軍事委員会のトップは我々の党の地下組織のメンバーになるでしょう」。スハルトの二枚舌は、スジャムと同様、インドネシアの歴史の中でずっと以前にまで遡ります。1948年スハルトは、ナスティオン将軍(訳注:インドネシアのスハルト政権下の陸軍大将)に使者として派遣され、共産主義者の指導の下で、オランダとの交渉に全く乗り気でなくなっているマディウン(訳注:ジャワ島にある都市)の運動の軍事力と政治的統一性を調査しました。「あなたは自分の家に入ってきた泥棒(訳注:オランダのこと)と交渉しますか?」というのが当時よく行われていた民衆を煽るような質問の一つでした。スハルトはマディウンの左派強硬派グループを支援していたのです。それでPKIに受け入れられました。親左派の姿勢を強く打ち出したからです。マディウンの軍司令官スマルソノ(現在96歳。3ヶ月前に話を聞いた時はシドニー在住)によると、スハルトがマディウンにいたときにPKIに受け入れられたのは、彼が親左派の姿勢を強く持っていたからだとのことです。戦後間もない頃は若き左翼人であり、1950 年代初頭に PKI のトップになったばかりだったアイディットが、1965 年にジャカルタのコストラッド司令官だったスハルトが差し出したとされる友好の手を快く受け入れたのは、おそらくこういった事情があったからでしょう。

スハルトの腹黒さは息をのむほどです。

 ナスティオン将軍は、独立闘争の時代から1965年までの20年間、そしてスハルトが大統領になった後の30年間、スハルトと親交がありました(ナスティオンは、スハルトが辞任した2年後に亡くなりました。1918-2000)。1983年から1996年までの間、私は何度もナスティオンを訪ね、インドネシアの歴史の様々な側面について語り合いました。 私たちが話した場所の隣の壁に掛けられていたのは、65年9月30日の夜、軍隊が彼を拉致しに来たときに誤って撃たれた彼の幼い娘の絵でした。彼を拉致することは失敗しました。彼はフェンスを乗り越えて家の隣にあった大使館に逃げ込んだのです。その騒ぎで娘が殺され、彼の副官であるテンデアン中尉も殺されました。 彼の妻は娘が死んだのはスハルトのせいだといつも非難していたことを、言葉少なに私に話してくれました。彼女は死ぬまで、つまりジャカルタに住んでから30年間、スハルトとは一度も口をききませんでした。

 スハルトは、「9月30日事件」が何をしようとしていたのか、事前には何も知らなかったとずっと主張してきました。実際、スハルト自身が導入した三段階の責任分担システムによると、(関与を)完全に否定しきれなければ、スハルト自身「事前知識」があったことになり、死刑に処せられるカテゴリー1に入ることになります。

スハルトとCIA、そして「9月30日事件」との接点は何だったのですか?

 私がナスティオンに G30S における CIA の役割について尋ねると、スジャムとスハルトはバンドン(SESKOADと呼ばれるインドネシア陸軍の将校訓練学校があります)で、その学校の司令官を訪問しているところを目撃されているとのことです。その司令官の名前はスワルト大佐であり、彼は CIA と密接に連携していました。これをナスティオンは強調していました。またこの事実は当時の学者たちに広く知られていました。私にとってスワルト大佐は興味深い人物でした。彼が木製の義足をしているという事実とは全く別の理由からです。つまり彼のアメリカ人の友人はアレン・ダレスの側近として知られるガイ・ポーカーであったからなのです。私がポーカーに、スハルトとは大統領になる前に会ったことがあるかと尋ねたところ、会ったことはないと答えました。しかし、ポーカーは、アレン・ホワイティング(ランド研究所でのかつての友人で後に国務省参事官となる)が、モスクワと北京の間に生じ始めた分裂を明確に指摘した最初の人物であるとコメントしました。1963 年になっても、この分裂を本物と解釈した人はまだそれほど多くはありませんでした。マーシャル・グリーン大使はその少数者のひとりでした(ハロルドP.フォード:「'中ソ分裂を呼び出す」 CSI、98-99冬季号の脚注65を参照)。「9月30日事件」のわずか数カ月前の 1965 年にジャカルタに到着したグリーンは、インドネシア軍に対して、 PKIの大虐殺を調整するために、トップレベルの通信機器を受け取るように手配しました。また、彼が何千人もの名前を提供したのはグリーンの冷戦への背筋が凍るような貢献でした。それは、事実上、PKIメンバーを殺害することでした。

 ナスティオン自身が持つ諜報関係のグループから、バンドンでスハルトとスジャムは会っているとの目撃情報が出されたのでしょう。この情報が正しく、ポーカーはスハルトと大統領以前に会っていないとの証言も正しいと仮定すると、スハルトとスジャムの二人はスワルトを含め一つの部屋で話をしていた可能性があります。その時ポーカーは隣の部屋にいたというのです。もちろんこんな可能性はほぼゼロです。スワルトはスハルトがSESKOADに入校した時の元教官でした。スハルトがオランダ領ニューギニアからオランダを追放する作戦の指揮官に任命される少し前のことです。(現在インドネシアの州となっているこの西パプアは、1962年のニューヨーク協定締結以来インドネシア陸軍が実質的に管理しています。この協定を取りまとめたのがアレン・ダレスの長年の友人エルスワース・バンカーでした)

 ラティエフ大佐とのインタビューの結果明らかになったことを指摘しておきます。スジャムの法廷証言を調べてみると、彼が提供したいくつかの詳細な事実は、1965年9月30日以前にスジャムに会ったことがないというラティエフの供述と矛盾しており、注意を払うに値します。ラティエフはチピナン刑務所で私に対して頑強に「スジャムには会っていない」と述べていました。 しかし、スジャムが法廷で証言しているのは、アイディットと彼が PKI の立場に同調している可能性のある陸軍の人物を確認したり、特定したりするために特別支局を設立し、そのために数回の会合を持ったということです。 スジャムは、ラティエフとウントンとは何度か会議を開いたと主張し、その会議の目的は、スカルノ大統領に反対する動きを計画していた、いわゆる将軍評議会への対抗措置を計画することだったと主張しています。 ラティエフが 9 月 30 日以前にスジャムと会ったことがないのであれば、これは明らかに間違いです。そうですね、「ラティエフの言っていることが間違いなんでしょう」とあっさり言うよりも、別の見方はこんな疑問を持つことです:「どうしてスハルトは運動の中心人物であるスパルジョ、スジャム、 ウントン、そしてラティフの 4 人と親しかったのか?」(ウントンはスハルトを指揮官として 1962 年のオランダ追放ニューギニア作戦に従軍していました)。同時にこんな可能性はないのでしょうか?つまり、スハルトが、ウントンとラティエフとの長年の友好関係と、彼らの政治的シンパシーがどこにあるのかという内部の知識を利用して、(彼の特別局の仕事の一環として)スジャムにウントンに接近することを実際提案した可能性です。そしてウントンがラティフに接近するのです。もしそうだとすれば、ラティエフは G30S の数日前にスハルトの家を訪問して、運動が意図した行動をスハルトに伝えていたことになります。その時点でスハルトは事実が分かったのです。このことが、スハルトの役割は支援的なものであり、スジャムとスハルトの間には何のつながりもないというラティフの認識を強め、このことが理由となってスハルトはラティエフを処刑せず、運動の他のメンバーは処刑したということです。

ということは、あなたの結論はスハルトが、CIAと一体となって、全ての流れを操っていたということですか?

 だんだん、事件から数年後にさらなる証拠がまとめられるにつれ分かってきたことは、スハルトが網目の中心で戦略司令部コストラド司令官という姿を取っていたということです。スハルトは、9月30日の夜に発生した事件を利用してPKIを攻撃する計画を、事件が発生する前から立てていました。 そして、スジャムを通して、拉致事件(ラティエフ、ウントン、スパルジョが計画した)を将軍達の殺害へと確実に変更することは可能でした。

そんな事情でスハルトが権力を握り、虐殺が起こり、そして西パプアはアメリカの巨大採掘企業フリーポート・マクモランの搾取、となります。年月がこんな風に流れてきた後で、西パプアが独立する可能性はあるのですか?


 ニューギニアの西半分、現在はパプア州と西パプア州と呼ばれるインドネシアの2つの州でパプア人が直面している主な問題は、すべてインドネシア軍がずっと駐留していることから発生しています。各州にはパプア人の地域代表とパプア人の知事がいますが、1962年12月に初めてパプアに上陸して以来、インドネシア軍が日常生活を支配しています。

 1962年にオランダの植民地権力を追い出し、インドネシアの支配は軍事占領という形になりました。占領は、ちょっと見れば、スハルト時代ほどあからさまではありませんが、占領、搾取および殲滅の考え方は、今日まで消えているわけではありません。

 私は「殲滅」という言葉を単なる記述用語として使っているわけではありません。もちろん「ジェノサイド」というのは忌まわしい言葉です。パプア(今日の西パプア)を訪れた人たちには、都市部のパプア人が自由に暮らしているように見えますし、郡部の人々は短期間のオランダ統治時代以前と同じような村に今でも住んでいます。ええ、いい変化もありました。しかし、乳児死亡率や他の重要な生活指標では、パプア先住民のQOL(生活の質指標)は、アフリカの最貧国よりも悪い統計もあります。まさにこれこそパプアの人々の怒りを買っているところです。彼らのHIVエイズの感染率は全国平均の20倍であり、それに対するジャカルタからの通常の応答は、パプア人は原始的であり、彼らの性行為の仕方がショッキングな統計につながっている、というものです。しかし、事実はこうです。(この問題を調査した軍医に直接インタビューした経験を元にした話です)。インドネシア軍には、(パプアでの軍の様々なビジネス上の利益の一部として)パプアに売春婦を連れてきた責任、そしてスラバヤ(訳注:ジャワ島にある港湾都市)から連れてきたこれたこれらすべての売春婦がHIVに感染していることを知った上でそうしたことに責任があります。この軍医は実際にこれらの売春婦と面談をしており、彼女たちは「HIVに感染していたから選ばれてパプアに来た」と言っていたそうです。

北アメリカの先住民を殲滅したやり方は、天然痘やアルコールでしたよね。

 
 インドネシア軍は、メタノールの毒性で悪名高い生酒の独自ブランドの製造までやっています。ナビレ(訳注:ニューギニア西端にあるパプア州の都市)で、ある朝道を歩いていたら、パプア人の死体に出くわしたのを覚えています。安いアルコールを飲んだことが死因だとのことでした。それは何年も前からどこでも売られているのですが、現在パプアの知事はアルコール全面禁止の政策を打ち出しています。この政策は、よかれと思う気持ちからだったのかもしれませんが、それは密輸が我が物顔に横行する闇市場を栄えさせることになるでしょう。そしてその闇市場を統制するのは軍です。伐採一時停止は繰り返し宣言されても、実際は丸太は中国や他の場所に販売され、パプア/西パプアの両州の軍隊のために何億ドルものお金を得るビジネスになっています。しかし、こうなってはもう生態系の消滅なんかではすみません。

あなたはどんな意味で「ジェノサイド」という言葉を使ったのですか?

 ジェノサイドの問題に戻りましょう。アメリカの下院議員エニ・ファレオマヴェガは、1977年に高地で起きた虐殺、つまり大量殺戮についてもっと詳しく知りたいと私に尋ねてきたことがあります。インドネシア軍は、ベトナムで使用されたブロンコOV10戦闘機・爆撃機を4機使い、高地で4ヶ月間ノンストップ機銃掃射や爆撃を行いました。畑でサツマイモの栽培に人々が精を出す谷間を、何世代にもわたってそこにあった村々を次から次へと、(オランダに代わって)インドネシアの政府という新しいボスが突然襲ったのです。高地の町ワメナのオランダ人医師は、翌年、病院を訪れた未亡人の数に注目し、死者数を2万人以上と計算しました。私は、この大規模な殺戮が行われた地域にいたキリスト教の宣教師達にも会ったことがあります。ある女性は、その恐怖があまりにもひどく、生涯続く心の傷を負ってしまいました。1978年に初めてジャヤプラを訪れたとき、ある夜、12歳くらいの少年が建物の下から出てきて私に泣きついたことがありました。「母が殺される、父が殺される、今度、あいつらは私を殺すんだ」。彼が何を言っているのか全く分かりませんでした。後になって初めて、高地で何が起こったのかを私は知りました。この子どもは何週間も歩いて高地から逃げてきたのです。

 このオランダ人医師はまた、4人の私服のアメリカ人が、このノンストップ爆撃と機銃掃射に関与したインドネシア人パイロットのアドバイザーとして行動していたことも指摘しています。彼らがパイロット達に与えていた助言は、バリエム谷の中心部の先に新たな目標を探し出すためのより良い角度とアプローチを得るための最善の方法についてでした。この周辺地域は飛行機で行けば数分です。道路輸送で何時間もかかる場所でした。この肥沃な地域は、全体の領土の中で最も人口密度が高く、パプアの人々の共同社会はそこに何世紀にもわたって生活の場としてありました。ここは、リチャード・アーチボルド(戦前のスタンダード・オイルの元CEO)が巨大な飛行艇で上陸した場所です。彼はこの場所を「シャングリラ(理想郷)」と呼びました。というのは、パプアの人々はとても平和的な生活を送っていたからです。男、女、子供たちは午後2時まで畑で働き、男たちは子供たちを川で洗ってから、学校の授業を受けさせ、女たちは村に戻って夕飯の準備をします。

「シャングリラ」の人々のどれくらいがこのジェノサイドで殺害されたかの数値はありますか?

 パプアのような土地は、険しい地形と人里離れた土地のため、正確な人口情報を得ることは常に大きな困難を伴います。かつてインドネシア軍の弾圧によるパプア人死者数として10万人という数字が、長年、たいした根拠もなく語られてきましたが、この数字が選ばれた理由はこの数字を喧伝する人権団体が、行方不明者や死亡者の名前や住所としてこの数値を持っていた、というだけです。これには、ヘリコプターから海に落とされたり、便壺に死ぬまで頭を押し込まれたことが分かっている人達も入っています。20年前、私はパプアの著名な活動家たちとまさにこの問題について話し合いました。そして分かりました。彼らは実際の数字がもっともっと多いことを知っていましたが、10万人という数字を主張する目的は、正確な数字を出す方法がなく、議論のしようがなかったからです。ですので、その総数を把握するために、オランダ人が出て行く前に行われた最後の国勢調査で得られた人口数を確認し、オーストラリアの旧植民地支配下にありながら似た文化を持つパプア人が住むニューギニア東部の統計と比較してみました。東パプアと西パプアの境界線は、単純に東経141度というラインです。西半分はオランダ領、東半分はイギリス領、そしてドイツ領と合意されました。(第一次世界大戦後はオーストラリアの支配下に入りました)

 そこで、オランダ領ニューギニアでは 1960 年に国勢調査が行われ、パプアニューギニア(PNG)と呼ばれる東半分もオーストラリア政府が1960年に国勢調査を行いました。パプアニューギニアの人口は常に西半分の人口を上回っていました。しかし決定的に重要なのは人口増加率でした。それが同じパプア文化である西半分の地域との比較の基礎となるからです。そこで、1960年から2002年までのパプアニューギニアの人口増加率を計算しました。それから私はこの増加率を1960年にオランダが行った国勢調査に適用しました。2002年における西半分の人口推定値、あるいは本当はどうあるべきだったのかの推定値を計算するためでした。

 40年間のインドネシア軍の支配下において、パプアの人口が130万人も不足しているという打ち消しようもない食い違いが出てきました。もちろん、インドネシア軍統治の恐怖が顕在化してからの西から東へのパプア人の流出もこの大まかな計算に含まれていますが、膨大な数のパプア人が行方不明になったことは間違いありません。このインドネシア領西ニューギニアの人口不足は、まだパプア人と非パプア人の差異が国勢調査の特徴的な問題であった頃に算出されたものです。現在では、この人口不足はジャワ島やスラウェシ島を中心とした他のインドネシアの島々からパプアに来る人々によって十分すぎるほど埋められています。このようなパプアの外から来た人たちは「トランスマイグラント(移住者)」と呼ばれ、その流れは制限されていないため、パプア人は自分たちの土地で少数派となっています。軍の占領下にあった40年間で行方不明になったパプア人130万人という数字は、第一次世界大戦時にトルコで起きたアルメニア人大量虐殺の際によく引用される数字に匹敵するものであり、それはトルコ政府が決して認めていない出来事です。パプア人130万人という推定値と、この数字に到達するために使用した方法は、2005年にマクミラン社から出版されたジェノサイド百科事典のために私が書いた記事の中にあります。パプアの、これらの人々のほとんどは病死だったのしょうけれど、この人口消失におけるインドネシアの役割はこういったことからも窺われます。今日でも、いくつかの遠隔地では、孤立した地域に住んでいるパプア人が、皆無ではないにしても、医師に診てもらうことはほとんどありません。

 このことを確認するために現地に行かれたことは?

 1983年、私はロンドンに拠点がある「反奴隷インターナショナル」から派遣されてこの地を訪問しました。西ニューギニア(当時はイリアン・ジャヤと呼ばれていました)の南部海岸線に沿ってアスマット地域で活動するアメリカ人司教が発表した数字について報告するためでした。この司教は5歳以下のパプアの子ども1、000人の内600人がこの地域で死んでいると主張していました。私が行ったのはその数値が本当かどうかを確かめるためでした。そして、本当であることが確かめられました。

 この地域における語られることのない悲劇は、オランダ時代に編纂された医療報告書を読めばよく分かります。その報告書には、医学的事象は一件しか記述されていませんでした。それは、足にできる感染症についてでした。それ以外、この地域には病気がないという記述でした。

  パプアの人々への接近が始まったのは、1962年8月のニューヨーク協定からです。アメリカの巨大採掘企業フリーポートは、ほぼすぐに豊富な鉱物資源へ参入しました。その後1977年にインドネシア軍は、先住民族のパプアの高地へ侵入したのです。文化的な用語では、これらの2つ動きはお互い相反するものであり、その結果は壊滅的でした:パプアはスハルト時代に膨大な人口減を招きました。それから20年後のパプア人の生活条件は悲惨な状態のままです。外国人がこの地域に入ることは、以前ほどの難しさはありません。しかし一部のジャーナリストは制限リストにその名前が載せられています。パプアではデジタル時代が始まり、パプア人は自分たちの窮状を世界に伝えようとの決意を固めています。インドネシアの民族主義者がオランダの植民地時代の権力から自分自身を解放するために世界に情報を発信したように、パプア人はインドネシア軍の鉄の支配から解放されることを期待して同じことをやっています。

ジャカルタ政府の立場はどうなっていますか?

  ジャカルタ政府は、パプア人と交渉するという途方もない仕事(おそらく南アフリカの「真実と和解委員会(訳注:過去に行われた深刻な人権侵害によって生じる軋轢を解決するために置かれている委員会のこと」に似たプロセス)に直面しています。その後で何らか事態の進展が可能になります。主要な問題は、パプア-ジャカルタ関係を数十年にわたって観察した人間の観点から言えば、インドネシア政府はインドネシア軍隊がやったことは認めたがらないことです。スハルト時代しかり、今日のパプア/西パプアしかりです。パプアでの軍隊の残虐行為という点に関してはインドネシア政府が言っていることと実際に起こっていることとの間には、行政上の溝が越えがたくあるようです。この溝は、一見減少しているようですが、まだ議論の余地が残されています。スハルト時代には、軍隊は全く冷酷だったが、スハルト後の時代には変わったと言われています。この変化は、インドネシア政府の発表と(現在)軍隊と警察の下で生活しているパプアの人々の現実との乖離によって測定することができます。スハルト時代以降は、もちろん、警察がより表立った役割を持っています。しかし、このことはしばしば軍隊と警察との激しい銃撃戦を引き起こします。それはインドネシアのこの遠隔地の片隅における軍隊、警察双方の利権を巡ってのことなのです。

 2016年前半、何千人ものパプア人が街頭で平和的にデモを行い、自分たちの人権や文化、生活への懸念を声にしようとして逮捕されました。

 軍隊と警察は、ごく一部の例外を除いて、インドネシアの司法手続きで処罰されることはありません。例えば、半年前、パプア高地の辺境の地に住む2人の少年が、通りすがりの車に豚を殺されたという話を聞きました。豚は貴重な商品であり、完全に成長したものはオーストラリアへ持ち込めば2~3倍の価値があります。それは豚が彼らの文化にとても溶け込んでいるからです。・・・多くのお祝い事、例えば結婚式などがあれば隣近所のために一頭ないし数頭の豚を焼き上げます。豚は大事な栄養源というばかりでなく、文化的な絆にもなっています。そのため、2人の少年は道路で車を止めてドライバーに、失った豚の補償としてお金を払うように頼みました。50,000ルピアは5ドルに当たるでしょう。2人の警察官が調査のために車でやってきました。警官の車の窓が開き、少年たちがお金を要求しようとすると、警察は何も言わず少年二人を射殺しました。パプアの生活は、パプア人にとっては、安全とはほど遠いものです。

ポールグレイン教授、インドネシア-アメリカの憂慮すべき歴史についての授業をありがとうござました。

Interviewed by Edward Curtin

 

Still Uninvestigated After 50 Years: Did the U.S. Help Incite the 1965 Indonesia Massacre?

 

米国の20代~30代のほぼ11%がホロコーストはユダヤ人が起こしたものだと思っている!


<記事原文 寺島先生推薦>

Almost 11% of US millennials & Gen Z think the Jews caused the Holocaust, disturbing new survey shows



RT USニュース

2020年9月16日

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>

2020年9月30日

 
 米国での新しい調査は、予想外の結果をもたらした。若い世代の有権者の11%に近い人たちは、ユダヤ人がホロコーストを起こしたと考えていることが分かった。つまりナチスの大量虐殺について知らない人が驚くほど多くいるということだ。

  米国のミレニアル世代(1980年前後から2005年頃にかけて生まれた世代)とZ世代(1990年中盤に生まれた世代)を対象に、50州で行ったホロコーストについてどのくらい知っているかの調査が、「ユダヤ人の対独物的請求会議」により実施された。

 この調査では、全米でおよそ1000人から聞き取り調査を行った。対象者は無作為に選ばれ、さらに各州の18歳から39歳までの若者200人からも聞き取りを行った。

  回答者のうち63%程度が、600万人のユダヤ人が殺されたことを知らなかった。回答者の36%が「殺されたユダヤ人は200万人以下だった」と考えていた。

 回答者のおよそ48%が、第2次大戦当時の強制収容所やユダヤ人居住地の名前をひとつも挙げることが出来なかった。

「この結果に驚いただけではなく、悲しい気分になった。この結果を受けて、私たちはもっと活動を深めていかなければいけないと感じた。ホロコーストから生き残った方々が、まだ私たちとともにこの世界に生存しておられる。その人たちの声を届けなければ」。ユダヤ人の対独物的請求会議会長ギディオン・テーラー氏は、この結果を受けてこう語った。


ALSO ON RT.COM

Sick craze that has Gen Z pretending they’re Holocaust victims in heaven is sure proof that Tiktok users have lost the plot



 
 研究者たちは、ホロコーストについての知識度を三つの基準に分けて考えた。①ホロコーストという言葉を聞いたことがある②少なくとも一つの強制収容所や絶滅収容所の名前をあげることができる③ユダヤ人が600万人殺されたことを知っているの3基準だ。

 その結果はこの会議の幹部を驚かせるものだった。たとえばニューヨークの回答者のほぼ19%が、ホロコーストを起こしたのはユダヤ人だったと考えていることがわかった。他にもルイジアナ州やテネシー州やモンタナ州では16%、アリゾナ州やコネチカット州やジョージア州やネバダ州やニューメキシコ州では15%という結果だった。

 そして、再び同じようなことが起こりうると思っている人が59%いる、ということもわかった。

 この調査結果に対するネット上の反応をみると、「悲しい」という意見が少し、それ以外は米国の教育体制を非難する声が多かった。

 



 



 

現在の世界的危機で「露-中-米」協力体制というウォレス/ルーズベルトが考えた壮大な計画が復活することになるかもしれない。#「エルベの誓い」



<記事原文 寺島先生推薦>
Might the Current Global Crisis Revive the Wallace/FDR Grand Design for Russia-China-USA Cooperation? #MeetingOnTheElbe

us-russia-org

2020年4月26日





By Matthew Ehret 

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>

2020年7月26日

 4月14日、プーチン大統領は、2020年1月15日の呼びかけを改めて繰り返した。つまり、国連安全保障理事会の5つの核保有国が主導し、国連憲章の原則に導かれた新たな体制を構築する、という内容だ。クレムリンはこう述べた:
「この会議は明確なビジョンを持つ会議として[ロシア]大統領によって始められたものであり、当然のことながら、現在危機管理のために広く使用されているテレビ会議形式では、このような明確なビジョンを持つ会話をするために必要な雰囲気を醸成することはできません。安全保障理事国5カ国の首脳会談となればなおさらです。」

 プ-チンは以前こういう意図を持った会議を次の様な言い方で述べていた:
「国連創設国は手本を示すべきです。人類の保全と持続可能な発展のために特別な責任を負うのは核保有5カ国です。これら5カ国はまず、世界大戦の前提条件を取り除くことから始め、現代の国際関係の政治的、経済的、軍事的側面を十分に考慮した、地球の安定を確保するための最新のアプローチを開発すべきです。」

 プーチンは声明のわずか2日前、トランプ大統領と3日間で3回目の電話会談を行い、コロナウイルス蔓延の防止策や原油価格、両国が国家的な優先課題として強く掲げている宇宙探査や月面採掘などの協力体制について話し合った。

 ロシアは近年、中国の「一帯一路」(BRI)構想の枠組みへの参入に本腰を入れてきた。両国のこの動きは、2015年以降ユーラシア経済連合が①BRIと統合されてきたこと、②伝統的には東西に延びていたBRI構想が高緯度圏へ拡張され、新たな、期待をそそる「北極シルクロード」と統合されること、などを契機としている。こういったことを背景として、国連創設国の残り三カ国(アメリカ、イギリス、フランス)はそれぞれ、ロシアと中国が今後10年間月面開発で協力するために結んだ協定に、この三カ国も宇宙分野での共通目標を見つけることが多くなっている。こういった方向性は、何十年も前には見られなかったもので、月面の採掘、小惑星防衛、探査などがその内容となっている。

 ①宇宙圏を前提とした多極新システム②COVID-19と戦うための健康シルクロード③北極シルクロードでの協力を創り出すなどの息を呑むような推進力を基礎にして、今は、非常に重要でありながらも見落とされがちな歴史を見直す良い機会であると私は考えている。こういった見直しを行うと、プーチン大統領が現在求めている列国の様々な考えを連携させるという方向性は、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領(以下FDR)と彼の忠実な協力者だったヘンリー・A・ウォレス副大統領が主導的役割を果たした時期、つまり1941年から1944年の間に確立されたものであることがわかる。それに驚く必要はない。ヘンリー・A・ウォレス副大統領は「米―露-中」世界秩序という壮大な計画を考えていた。これは大西洋憲章に掲げられた原則を基礎にしたものであり、その内容はウォレスが1942年に行った演説「庶民の世紀」で明確に述べられているからだ。

 多極世界秩序へ向けたウォレス/ルーズベルトの闘い

 ルーズベルト政権下の副大統領として執務する傍ら、ウォレスは1944年に出版した『太平洋で私たちがすべきこと』という本の中で次のように書いている:
「アメリカにとっても、中国にとっても、ロシアにとっても、中国とロシア、中国とアメリカ、ロシアとアメリカの間に平和で友好的な関係が存在することは極めて重要である。中国とロシアはアジア大陸でお互いに補完し合い、さらに両国は共に太平洋でアメリカを補完し、補強するのである。」

 1944年の別の論文『民族は二つ―友好関係は一つ』(サーベイ・グラフィック誌)の中で、ウォレスは、ベーリング海峡を横断する交通機関の接続によるインフラ整備を中心とした米露の北極周辺の関係の運命について次の様に述べている:

 「すべての国の中で、ロシアには①急速に増加する人口、②天然資源、③専門技術があっという間に広まること、という鬼に金棒の取り合わせがある。シベリアと中国には他には例を見ないような豊かな未開拓地がある。1942年の春、モロトフ(ロシアの外務大臣)がワシントンにいた時、私は彼に、カナダ、アラスカ、シベリアを経由してシカゴとモスクワを結ぶ高速道路と航空路の複合路線(いつか実現したらいいと私は思っている)について話しをした。モロトフは、「この仕事は一国ではできない」との意見を述べた後、「あなたと私が生きている間にこの仕事を達成させよう」と言った。このようなアメリカの西部開拓者精神とロシアの東部開拓者精神を結びつける具体的な絆があれば、将来の平和に大きな意味を持つだろう。」

 ウォレスは、欧米人には稀な、長期的な思考とアジアの精神に対する気配りを見せて、次の様に書いている:
「アジアは動き出した。アジアがヨーロッパに不信を抱いているのは、その『優越感』のためだ。我々はアジアに我々を信頼する理由を与えなければならない。特にロシアと中国に対しては、両国の庶民の未来に信頼を寄せていることを示さなければならない。私たちは、中国とロシアの両方に力を貸すことができ、力を貸すことで、私たち自身と私たちの子供たちにも力を貸すことになるのだ。今日のロシアと中国との関係を計画する際には、40年後の世界情勢を考えなければならない。」

で、どこで間違ったのか?

 世界史のこの章については多くのことが言えるが、要するに、複雑な政治的クーデターが起きたのである。このクーデターにより、ウォレスは1944年にハリー・S・トルーマンに副大統領指名を奪われ、1945年4月12日にルーズベルトが不慮の死を遂げたことで、このトルーマンがホワイトハウスに居を構えることになった。

 トルーマンの対露好戦的な態度が、ロシアは12億ドル出資して世界銀行へ加入するという1944年の合意内容が撤回される原因となり、チャーチルの「鉄のカーテン」演説は、「相互確証破壊(MAD)」という二極分化した力学を生み、「核の恐怖に支配された戦後」という容易には崩れない体制が定着することになった。トルーマンは、1947年春、「トルーマン・ドクトリン」を出し抜けに宣言した。この宣言は新冷戦下におけるロシアの拡大に対抗するアメリカの種々の絡み合いをもたらす対外政策であり、ロンドンが仕組んだギリシャとトルコの紛争にアメリカが巻き込まれたことに始まるものだ。トルーマンと歩調を合わせるようにチャーチルはミズーリ州フルトンでこう言ったのである:

 「戦争を確実に防止することも、世界組織の継続的な発展も、私が「英語圏の人々の友愛的な絆」と呼んでいるものなしには得られない。これは、英連邦帝国とアメリカ合衆国との間の特別な関係を意味する。」

 「トルーマン・ドクトリン」や「英米の特別な関係」は、ジョージ・ワシントンやジョン・クインシー・アダムスが提唱し、FDRやウォレスが採用した「対外的な絡み合い」を避けるための「原理共同体」政策が180°方向転換したことを示していた。

ウォレスの反撃

 1946年に米ロ友好を呼びかける演説をしたことで商務長官を解任される前に、ウォレスは、新たな「アメリカのファシズム」の出現を警告した。その「新たなアメリカのファシズム」の出現は後にアイゼンハワーが1961年の軍産複合体演説で明確にすることになる。ウォレスは次のように述べた:
「戦後のファシズムは、逃れようもなく、アングロサクソン帝国主義へと、そして最終的にはロシアとの戦争に向けて着実に前に押し進められるであろう。すでにアメリカのファシストたちは、この「ロシアとの戦争」について話したり書いたりしており、ファシストたちは、特定の人種、信条、階級に対して内的な憎悪と不寛容を見せる口実として、この「ロシアとの戦争」を利用している。」

 1946 年のソビエト・アジア・ミッションでウォレスは次のように述べた:
「わが国の若者たちが戦場で流した血がまだ乾いていないのに、これらの平和の敵どもは第三次世界大戦の基礎を築こうとしている。彼らの邪悪な企みを成功させてはならない。我々はルーズベルトの政策に従い、平和時においても、戦時中においても、ロシアとの友情を育むことで、彼らの毒を解毒しなければならない。」

 ヘンリー・ウォレスは敵が望んだように姿を消すことなく、1948年の大統領選で第三党の候補者となり、愛国者や芸術家の支持を得た。その中でも特筆すべき人物は偉大なアフリカ系アメリカ人活動家/歌手のポール・ロブソンだ。彼が起こした行動を発端にしてマルチン・ル-サー・キング牧師の公民権運動が花開いたのである。ウォレスの大統領選時のいくつかの演説は、今日の世代を教育し、鼓舞することができる心を揺さぶる行動への呼びかけである。第二次世界大戦中は世界的なファシズム運動を止めるために英雄的に多くのことをしたばかりのアメリカ人が、戦後、アメリカ国内で新たなファシズムの出現を止めることに失敗し、チャンスがあったのにウォレスに投票しなかったことを思い起こさせられるのは悲劇的としか言いようがない。

最後の機会?

 ジョン・F・ケネディは在任中の3年間にFDRとウォレスの精神を復活させようとしたが、彼は早々と暗殺され(続いて彼の弟ロバート・ケネディ、マルチン・ルーサー・キング、そしてマルコムXも暗殺された)、アメリカが真の立憲国となる目覚めは再度妨害された。

 今日、ウォレスとFDRの下で実施されたニューディールを凝縮した精神によって推進されている偉大なインフラ計画が、①驚くべきBRI構想、②急速にその全体像が見えてきている北極シルクロード、③健康シルクロード、そして④宇宙シルクロードの中で活性化してきた。このようにして、ロシアと中国は、自分たちが過去半世紀にわたって世界が知っていたアメリカよりもさらにアメリカ的な存在になってしまったという皮肉な役割に気付くことになったのである。

 そこで、現在の危機を私たちに与えられた絶好の機会と捉え、多極同盟と手を携えながら、ウォレス/FDR の壮大な計画をもう一度現実のものにすることを提案する。アメリカがもつ「もっと優れた立憲主義を!」という伝統は、アメリカがこういう方向に進むことをかつてないほど要求している。そして、新シルクロードに代表される「ウィン-ウィン協力」の精神は、飢饉、戦争、帝国という相互に関連した苦しみを世界から永遠に終わらせる鍵を握っているのだ。

議会への提言、経済権力の集中について

<記事原文寺島先生推薦>
Message to Congress on the Concentration of Economic Power
Franklin D. Roosevelt April 29, 1938


ニューディール政策 フランクリン・D・ルーズベルトの演説

フランクリン・D・ルーズベルト

1938年4月29日

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>

2020年7月23日


 アメリカ合州国議会のみなさん:
海外での不幸な出来事がいくつも続いたことで、私たちは民主的国民の自由というものについて、ふたつの基本的真実をふたたび学ぶことになりました。

 ひとつめの真実は、仮に私的権力が民主主義国家そのものを超えるまでに成長するのを国民が許してしまうならば、民主主義の自由は安泰ではないということです。それは本質的にはファシズムです。それは、一個人、ある特定の集団、あるいは他の支配的な私的権力に、政府が所有されてしまうということなのです。

 ふたつめの真実は、経済制度が雇用を提供せず、最低限の生活水準を維持することができるように商品を生産し供給しないならば、民主主義の自由は安泰ではないということです。

 このふたつの教訓が私の胸を強く突きます。
今日、私たちのあいだには、私的権力の集中が歴史上前例がないほど高まっています。この私的権力が集中することによって、民間企業の経済効果は著しく損なわれています。その経済効果こそ、労働と資本のための雇用を提供するものとなり、また国民全体の所得と収益のより公平な分配を保証するものなのですから。

1.強まる経済権力の集中

 内国歳入局(現在のIRS国税庁)の統計は、以下にあるように1935年の驚くべき数字を明らかにしています。

 企業資産の所有状況:全国各地から報告されるすべての企業のうちの 1 パーセントのさらに10分の1が、全企業の総資産の52パーセントを所有していた
問題の核心は、報告されるすべての企業のうち5パーセント未満が、すべての企業の総資産の87パーセントを所有していたことです。

 企業の収入と利益の状況:国のあらゆる地域から報告されるすべての企業のうち 1 パーセントのさらにその10分の1が、すべての企業の総純利益の50パーセントを獲得していた問題の核心は、報告されるすべての製造企業のうち4パーセント未満が、すべての製造企業の総純利益の84パーセントを獲得していたことです。

 現代を統計的かつ通時的にみると、不況時に企業の集中が一気に加速することが明らかになっています。そのとき大きい企業は、経済的逆境によって弱体化した小さな競争相手を食い物にして、さらに大きく成長する絶好のチャンスを得るというわけです。

 このように、企業群がひとにぎりの巨大企業に集中してしまうことからくる危険性は、減ることも無くなることもないでしょう。それどころか、その大企業の有価証券が広く公的に流通することによってその危険性が増します。時にはさらに促進されます。有価証券の保有者数を見るだけでは、個々人の保有高の規模や、経営における実際の発言能力については、ほとんど手掛かりが得られません。しかし実際、企業の有価証券がごくひとにぎりの少数者に集中していることと、企業資産の集中は、まさに同時進行なのです。

 1929年は、株式所有者の配当にとって大成功の年でした。

 その年、国民の1パーセントのさらにその10分の3が、個人から報告のあった配当金の78 パーセントを受け取っていました。これは大雑把に言えば、300人のうちのたった1人だけが株主配当 1ドルのうちの 78セントを受け取り、他の 299人で残りの 22セントを分け合ったことになります。

 こういった富の集中の影響は、国民所得の分配に反映されています。

 国家資源委員会による最近の調査では、1935~36年における国民所得の分配状況を次のように示しています:アメリカ全世帯の 47 パーセントと一人暮らしの独身者は、年収が 1000 ドル未満だった。そのうえ、この梯子の上部を見ると、アメリカ全世帯の 1 パーセント未満弱が、金額にして、この底辺層 47 パーセントの全収入と同じ収入を得ていた。

 さらに決定的なことは、内国歳入局は 1936 年の不動産税の申告について次のように報告しています。

 相続によって譲渡された財産の 33 パーセントは、すべての報告された不動産件数のわずか 4 パーセントに集中していた。(そして、それより規模の小さな不動産、すなわち法的に報告義務のないものをすべて含めたばあい、集中度合いはもっとすさまじいものとなる)
「政治的民主主義」と「政府からの規制をほとんど受けない利益追求型の自由主義的民間企業」とが互いに奉仕し保護しあう生活様式がある、と私たちは信じます。それが人間の自由を最大限に保証するのです。少数者のためではありません。すべての人の自由を保証するのです。

 よく言われてきたことですが、「最も自由な政府であっても(たとえそれが存在したとして、ではありますが)、その政府の制定する法律が、財産の急速な蓄積を少数者の手中に集中させ、民衆の大多数が無一文になって他者に依存せざるを得なくなる状況を生み出すものであれば、そのような体制は長くは受け入れられることはない」

 今日、多くのアメリカ人が不安な問いかけをしています。「我々の自由が危機に瀕しているという大きな叫びが聞こえてくるが、それを証拠づける事実があるのか」と。

 この問いかけに対して、今日のアメリカ中の平均的なひとたちが出している返答は、ウオール街大暴落のあった 1929 年の場合よりもはるかに正しい。その根拠は、1929 年からの 9 年間に私たちが多くの良識ある考え方をしてきた、という非常に明快な理由によるものです。

 今日のアメリカ中の平均的なひとたちの返答はこうです。

 「我々の自由が危機に瀕しているとすれば、それは私的経済権力の集中が原因だ。というのも、彼ら私的経済権力は我々が選んだ民主的政府を乗っ取ってしまおうと必死になっているからだ」

 民衆の自由が危機に瀕するなどということは、私たちの民主的政府自体から出てくることはありません。そのように民衆に盲信させようとしているのは、私的権力の所有者たちです(決して全てではありませんが)。

2.産業界に対する金融統制

 ここまで私が引用したこれらの統計でさえ、アメリカ産業界全体にわたる支配・統制の、現実的な集中度を表しているわけではありません。

 徹底的な金融統制は、巨大企業による個々の企業の経営方針にたいして徹底的な支配・統制をつくりだしています。投資経路に連動する勢力範囲をとおしてとか、「持ち株会社」や戦略的な「少数株主持ち分(被支配株主持ち分)」といった金融的手段(策略)を使って、それをおこなうのです。しかし、その個々の企業は独立体であるかのように装うのです。

 持ち株会社とは、他の株式会社を支配する目的で、その会社の株式を保有する会社を指す。ホールディングカンパニーとも呼ぶ。他の株式会社の株式を多数保有することによって、その会社の事業活動の指針を決めることを事業としている会社。

 少数株主持ち分(被支配株主持ち分)とは、連結子会社の資本のうち連結親会社の持ち分に属しない部分、およびそれを表す勘定科目の一つ。通常、連結親会社は他の企業の議決権を過半数所有することで支配権を獲得する。しかし、現行の会計基準では、所有する議決権を過半数に届かない(または議決権を所有し
ていない)場合であっても、特定の要件に該当すれば支配の獲得が認められる(支配力基準)

 そういった金融統制と経営統制という統合的な締めつけは、アメリカ産業界の巨大で戦略的な分野に重くのしかかっています。残念ながら、小規模企業はアメリカの中でますます依存的な立場に追いやられています。皆さんも私もそれは認めざるを得ません。

 民間企業は自由企業でなくなり、集中化された私的企業の群れになりつつあります。実態が隠されているので見かけはアメリカ型の自由企業体制ですが、一皮むけば、実際はヨーロッパ型のカルテル体制になってきています。
 
 産業が効率的に成長することや、大量生産がもたらすさまざまな利点を私たちはみな必要としています。手動織機や手動炉に戻ったほうがいいなどと提案する人はだれもいません。特定の製品を生産する一連の過程では、複数の巨大な生産工場が必要になる場合があります。現代の効率化はこれを求めているかもしれませんが、現代の効率的な大量生産は一元的な中央統制によっては促進されません。というのは、工場はそれぞれが個別の単位として稼働しながら効率的な大量生産をおこなう能力をもっているからです。一元的な中央統制はその工場間の競争を破壊してしまうからです。産業を効率化することは、中央統制的な産業帝国を築くことではないのです。

 そして、残念なことに、中央統制な産業帝国を築くことは、銀行家による産業界の統制へと促進されつつあります。私たちはそれに反対します。

 そのような統制は一般の投資家に安全を提供しません。投資判断には、経営に対する公正無私な他者評価が必要です。投資判断が狂ったり歪んでしまうのは、経営者が経営判断だけでなく投資判断までおこなおうとするからです。経営者は企業を経営するという投資家とは矛盾する義務があります。他方、企業経営を評価し判断するのは投資家の仕事なのです。

 企業による一連の金融統制は、アメリカの実業界から多くの伝統的な力強さ・独立性・適応性・大胆さを奪いとってしまい、それらの利点を補う方策を持っていません。企業による勝手な金融操作は、金融界が約束した安定性を与えてきませんでした。

 企業は新しい活力と柔軟性を必要としています。新しい活力と柔軟性は、多様な取り組み、独立した判断、多くの独立した実業家の脈打つエネルギーから生まれるものです。

 国民の一人ひとりは、自分自身の判断で、自分自身のわずかな蓄えを、ギャンブルのような株式投資にではなく、新しい企業投資に向けるように奨励されなければなりません。個人が相手だから競争しようするのであって、巨人が投資競争の相手であれば誰も投資しないでしょう。

3.競争がなくなると雇用にはどのような影響が

 人間一人あたり、または機械一台あたりの生産量において、わが国アメリカは地球上で最も効率的な工業国です。

 しかし、労働と資本を相互に完全活用するということに関して言えば、私たちは最も効率の悪い部類に入っています。
…………
 現在の困難さの主要原因のひとつは、多くの産業分野での価格競争の消滅にあります。とりわけ経済権力の集中が最も明白であり、基礎的な製造分野において、それが顕著です。

 その分野においては、硬直した価格と流動する給与が一般的になっているからです。

4.競争は搾取を意味しない

 もちろん、競争は他のすべての利点と同様に、行き過ぎになりうることがあります。競争は、明らかに社会的かつ経済的に悪い結果をもたらす分野に及ぶべきではありません。児童労働の搾取、労働賃金の騙し取り、労働時間の延長は、必要でなく、公正でもなく、また競争の適切な手段ではありません。私は一貫して、「賃金と労働時間に関する連邦法案」において、それらを競争分野から除外して、労働者に最低限の品位ある生活を保障するように要請しています。

 もちろん、自由企業は理性的に競争できるシステムを活用する必要があります。自分たちのつくった商品に対する市場動向を測る際に、実業家は農民と同じように、政府や自分たちの団体から可能な限りの情報を与えられるべきです。そのことによって実業家は衝動的にでなく知識をもって行動できるのです。現在の過剰生産という深刻な問題は、情報を広めることで回避できますし、またそうすべきです。現在の市場では吸収できないほどの過剰な商品生産を止めることによって、あるいはまた明らかな需要を危険なほどに超える大量在庫が蓄積されないようにすることによって。

 もちろん、競争価格の水準を上げるよう促す必要があります。たとえば農産物価格がそうです。農産物価格は、農業経営が可能となるようなもっと釣り合いのとれたものにし、農家が債務負担に耐えうるように価格構成を上げなければなりません。農産物の競争価格の多くは現在あまりにも低すぎます。

 自然の回復を待つにはあまりに悪化しすぎて慢性的に病んでいる産業に対しては、時には特別な手立てをとる必要があります。特に国民全体に関わったり、それに準ずる性格をもつ産業に対してはそうです。

 しかし、概して産業と金融の分野においては、私たちは競争を復活させ強化しなければなりません。もし私たちが自由な民間企業の伝統的体制を維持し機能させたいのであれば。

 私的な利益追求を正当化しようとすれば、私的な危険性は当然のことです。実業家であることの負担と危険を取りたくない実業家のために、アメリカを何の危険も冒さずに安全な国にすることなど私たちにはできません。

5.私たちの前にある選択

 3分の1の国民に仕事や収入や機会を与えることを拒んでいる民間企業をどうしたら管理・統制することができるか。これを調査することは、利益を追求する民間企業体制を切実に守りたいと願う人びとの側にとっては久しく懸案になっている課題です。

 人はだれしも、とりわけ民主的国民であればなおさらのこと、仕事もなく、あるいは明らかに痛ましくも生産する力すらない生活水準に甘んじていることはできないでしょう。人はだれしも、とりわけ個人の自由という伝統をもつ国民であればだれしも、庶民のための機会がじわりじわりと侵食されていき少数者の支配下にあるという無力感の抑圧に耐えられなくなります。それが経済生活全体に影を落とすことになるのです。

 優れた洞察力をもつあるビジネス誌は社説でこう指摘しています。「産業界における大企業への一極集中が、政府に究極的集権主義を強要している」と。

 国全体の経済生活を統制するような少数者の権力は、大多数の人びとに広く分散されるべきか、あるいは民衆や民主的に選ばれた責任ある政府に移譲されるべきなのです。価格が管理・統制されるならば、そして国家の経済が競争によってではなく計画で運営されるならば、そのような権力は、たとえ政府であっても与えられるべきではありませんし、ましてや、どのような私的集団やカルテルにも与えられるべきではありません。その企業家たちが、自分たちはどんなに慈悲深いと公言していていたとしても。

 政府の内外を問わず、競争の規制をますます拡大させることを奨励する人びとは、大きな責任を負っています。そのような人びとは、競争の規制・統制に積極的に取り組むのか、またはその流れを変えようとする真摯な試みに対して消極的な抵抗をするのかのいずれかであり、彼らは意識的にしろ意識的でないにしろ、一部のひとや集団に権力を集中した企業経営や金融支配のために働いているからです。したがって、意識的にしろ意識的でないにしろ、彼らはビジネスや金融、またはそれに代わる手段によって、政府そのものを支配しようと働いているのです。なぜなら民衆の力が政府のなかにますます集中し、そのような政府が私的権力の集中に抗しているからです。

 一部の企業や集団による経済や金融の独占を禁止すること、すなわち企業に対する自由競争の強制は、実業界が全く望んでいない規制なのです。

6.ニューディール政策における経済権力の集中を解消するプログラム

 私が議論してきた課題に対する伝統的な対応は、独占禁止法(反トラスト法)を通しておこなわれてきました。私たちは独占禁止法を放棄することを提案しているのではありません。それどころか、現行法の不十分さを認識しなければなりません。私たちは独占禁止法等を強化して、国民がそれらの法律が提供している保護を奪われたりしないようにいたします。それらを適切に強化するには徹底的な調査が必要であり、現在あるかもしれない違反行為を発見するだけでなく、業界どころか政府にも有害で無計画な起訴を回避する必要があります。このように、既存の独占禁止法を適切かつ公正に強化するために、私は司法省に補充歳出20万ドルの予算をつけます。
 
 とはいえそれでも、既存の独占禁止法では不十分です。その最も重要な理由は、独占禁止関連の諸法が対処するべき新しい金融経済状況に対して無力なためです。

 「シャーマン法(1890年)」は約40年前に可決されました。「クレイトン法(1914年)」および「連邦取引委員会法(同年)」は 20 年以上前に可決されました。私たちはそれらの法の下でかなりの経験をしてきました。その間、私たちは大規模産業の実態を観察する機会をもち、当時は知らなかった競争制度について多くのことを知ることができました。
(19世紀後半、アメリカにおいて独占資本の形成が進むと、自由競争で発展した大企業を放任したことが、
むしろ逆に自由競争を阻害するという事態を招いた。そこで幾つかの「反トラスト法」を制定したが、その中心になるのが、1890 年のシャーマン法、1914 年のクレイトン法、同年の連邦取引委員会法の三つの法律だった。連邦取引委員会法は、反トラスト法の執行機関として、司法省に加えて、連邦取引委員会を
設立すると同時に、不公正な競争方法を禁ずる規定を盛り込んでいる。)

 私たちは企業の多くの分野で効果的な競争から生じた企業の統合を目撃してきました。このいわゆる競争制度は、少数の大企業が市場を支配している産業界では、独立した企業が多数ある産業とは異なった働きをすることを学んできました。

 現実的なビジネス規制の制度は、意識的に背徳行為をおこなうものにたいして、それを超えた存在にならねばならないことも学びました。地域社会は経済効果に関心をもっていますが、地域社会は、道徳的な悪と同様に、経済的な悪からも保護されなければなりません。私たちは人の目をくらます経済勢力に対して現実的な制御方法を見つけなければなりません。やみくもに自分勝手な人間も同じですが。

 政府は人の目をくらます自分勝手な人間には対処することができますし対処すべきです。しかし、それは私たちの問題の比較的小さい部分であり、容易に解決できます。もっと大きく、もっと重要で、もっと困難な私たちの課題は、自分では非利己的で善良な市民なつもりであっても、現代の経済的に相互依存している地域社会において自らの行動がもたらす社会的および経済的結果を理解できない人びとへの対応なのです。彼らは私たちのいくつかの最も重要な社会的・経済的課題の重要性を把握できていません。なぜなら、彼らは自分自身の個人的な経験に照らしてのみ考え、他者や他の産業の経験をもって先を見通して考えられないからなのです。したがって、彼らはこれらの問題を国全体の問題として見ることができていません。

 私が述べてきた状況に対応するために、アメリカの産業における経済権力の集中について、そしてその集中が競争の衰退に及ぼす影響について、徹底的な調査・研究が必要です。現存する価格体系や産業の価格政策を検討する必要があります。それは一般的な通商基準・雇用・長期的利益・消費に及ぼす、価格体系や価格政策の影響を判断するためです。調査・研究は、伝統的な独占禁止法の分野に限定されるべきではありません。税、特許、その他の政府施策が及ぼす影響も、無視できないからです。
……
 誠実な人であればだれでもこれらの提案を誤解することはないでしょう。これらの提案は昔からのアメリカの伝統に由来しています。少数者による経済権力の集中支配と、その結果から生じる労働と資本の失業は、現代の「私企業」民主主義にとっては避けられない課題です。あまりにも安定性に欠けているからといって私たちの生活様式への信頼を失ってはなりません。というのも、私たちが今やろうとしていることは、この生活様式をもっと効率的に機能させる方法を見つけようとしているだけなのですから。

 このプログラムは、主に自分自身のビジネスで利益をあげることに興味をもつ全ての独立した企業家の率直な常識に訴えかけるべきものです。規制すべきなのは、それ以外の企業家たちなのです。

 このプログラムは、経済効果に適切な配慮を欠くような、悪意ある「トラスト破壊」活動を開始することを意図したものではありません。利益を求める民間企業を保護するためのプログラムです。民間企業に十分に自由を保障することによって、すべての資源すなわち労働と資本を有効活用して利益をあげることができるようにするものです。
 
 このプログラムは、ビジネスにおける企業集中の進展に歯止めをかけ、ビジネスを民主的な競争秩序のあるものに戻すことを基本的な目的とするプログラムです。

 このプログラムは、利益を求める自由な民間企業体制がこの時代に失敗したというのではなく、それがまだ試されてこなかったということを基本テーマとするプログラムなのです。

 アメリカにおける独占企業は自由企業体制の上に寄生しているにもかかわらず、その自由企業体制を麻痺させており、その重圧下で苦しんでいる民衆ももちろんですが、自由企業を経営している人びとにとっても致命的となっています。こうしたことを理解するならば、こういった独占企業による人為的な統制を取り除こうとする政府の行動は、国中の産業界によって歓迎されることになるでしょう。

 というのは怠惰な工場と怠惰な労働者は、誰にも利益をもたらさないからです。

<解説 寺島隆吉>
 ルーズベルト大統領(任期 4 期、1933 年 3 月 4 日 – 1945 年 4 月 12 日)は、「ニューディール政策」と呼ばれる、政府による経済介入・積極的な経済政策をおこないました。

 テネシー渓谷開発公社、民間植林治水隊、公共工事局、公共事業促進局、社会保障局、連邦住宅局などを設立し、大規模公共事業による失業者対策をおこなったことで有名です。そのほか。団体交渉権保障などによる労働者の地位向上・社会保障の充実などの政策もおこないました。

 いま現在(2020 年 7 月 22 日)、上記の大統領演説を読み直してみると、まるで社会主義者の演説を読んでいるかのような錯覚に襲われます。しかし彼の頭の中にあったのはソ連型の計画経済でもなく金融街と巨大独占企業がアメリカを一極支配するファシズム型経済でもありませんでした。

 彼の念頭にあったのは徹底的に民主主義を貫く資本主義経済であったように思われます。この演説がルーズベルトの定義するファシズムとしても有名であるのは、宜(むべ)なるかなと思わされます。選挙で選ばれてもいない私的集団が国家を支配する、これがルーズベルト言うファシズムなのです。

 そのことを念頭において、この演説を読むと、彼の言っていることが、より深く理解できるのではないでしょうか。しかし、彼の政策はあくまで民衆の側に立つものでしたから、ウォール街から毛嫌いされ、彼に対する暗殺やクーデターが企画されたのも無理もないと思います。

 この点に関して『櫻井ジャーナル』には次のような興味ある事実が記述されています。

< しかし、少なくとも 1930 年代のはじめ、アメリカ、フランス、イギリスの支配グループ内にファシストがいたことは間違いない。例えばイギリスの場合、ウィンストン・チャーチルはアドルフ・ヒトラーに好感を持っていたと言われ、イギリス国王エドワード 8 世(後のウィンザー公爵)はナチと密接な関係にあった。

 アメリカの場合、JP モルガンをはじめとする金融界がヒトラーを支援していた。1932 年の大統領選挙でハーバート・フーバー大統領が再選されていたなら、ナチスとアメリカ金融界の蜜月は続き、アメリカもファシズム化していた可能性が高い。強者総取りの経済を推進すれば、庶民の反発を力で抑え込むしかないからだ。

 このシナリオを狂わせたのがフランクリン・ルーズベルトの大統領就任だった。金融界にとってルーズベルトの掲げる政策が脅威だったようで、ルーズベルトは就任式の前に銃撃され、1933 年になると JP モルガンを中心とする勢力がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画している。

 この反ルーズベルト・クーデターの計画はスメドリー・バトラー少将の議会での証言で明らかにされて失敗に終わるのだが、大戦の末期、ドイツが降伏する前の月にルーズベルトが急死すると親ファシスト派は復活し、ナチス残党の逃亡を助け、保護し、雇い入れている。日本で民主化が止まり、「右旋回」が起こった背景はここにある。>
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201212070000/(2012.12.07)

 上記の説明にあるように、当時のアメリカ軍部で最も人気のあったバトラー将軍が、金融街から反ルーズベルト・クーデター計画への参加を呼びかけられたのですが、彼は断固としてこれを拒否し、アメリカ議会で、その計画を暴露するという勇気ある決断をしました。

 この計画を受け入れていれば、彼はたぶんルーズベルト亡き後の次期大統領になっていたかもしれません。この計画の詳しい顛末については、『肉声でつづる民衆のアメリカ史』第 12 章 4 節 443-448 頁「スメードレー・バトラー『戦争はペテンだ』」)に詳述されています。

 また単行本としては、吉田健正『戦争はペテンだ――バトラー将軍にみる沖縄と日米地位協定』(七つ森書館 2005) があります。時間があるときにでも覗いてみていただければ、有り難いと思います。

戦勝記念日に。第二次世界大戦の勝利について、最後の考察をしよう

<記事原文>

For Victory Day: It’s Time to Think About Finally Winning WWII

 

Dissident Voice 2020年5月9日

 

マシュー・J・L・アーレット

 

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>

2020年5月30日

 
 75年前、ドイツが、連合国に降伏して第二次世界大戦の惨劇はついに終わった。

  今日、世界が75回目の戦勝記念日を祝う中で、これを最後にキッパリと、あの戦争の勝利について非常に真剣に考えてみようではないか。

 この言い方に困惑したのなら、後を読み進める前に、ちょっと腰をかけて、深呼吸してみるのもいいかもしれない。読者の皆さんは、今からの12分間で、多分少し怖くなるような嫌な事実に出会うだろう。実は、連合国が第二次世界大戦の勝者ではなかったのだ。

  待ってくれ。私を誤解しないでほしい。私は永遠に、あの暗黒時代にファシスト機関を倒すために命を捧げた尊い魂たちに感謝している。しかし、実際に起こったことは、ある何かが1945年5月9日に解決したのではなく、20世紀後半の新しいファシズムにつながっているのだ、さらには、今の世界が直面しているグローバル銀行家たちの独裁という新しく生まれた危機にも。

  これは私の強い思いだが、冷静な目でこの問題と向き合う勇気がもてた時始めて、命を捧げて、彼らの子たち、孫たち、もっと広くいえば人類のための平和を勝ち取ってくれた我々の祖先を正しく尊敬できるのだ。

第二次世界大戦の汚れた真実

  回りくどい言い方はしないで、ハッキリ言おう。
アドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニは決して「人の支配を受けていなかった」わけではない。

 二人が率いていた機関は、決して彼らの独立した支配下にあったわけではなかったし、二人が世界を支配しようとした資金のために利用していた金融機関もイタリアやドイツの銀行ではなかった。二人が石油化学やゴムや計算技術に使っていたテクノロジーも、ドイツやイタリア由来ではなかった。さらに多くの人を民族浄化という恐怖におとしいれたドイツの優生学という政治科学的イデオロギーは、ドイツの人たちの頭の中やドイツの機関で考えられたものではない。

  もし1920年代から1940年代にかけて、以下のような投資家や実業家たちのネットワークがなかったら、すなわち、ロックフェラー、ウォーバーグ、モンダギュー・ノーマン、オズボーン、 モルガン、ハリマン、ダラスたちのネットワークがなかったら、第一次世界大戦後の体制の中で起こった経済危機の「解決策」として、ファシズム体制が可能だったということはなかったと言っていいだろう。このことを立証するために、あのプレスコット・ブッシュュ[1895-1972 アメリカの政治家・実業家。41代米国大統領は次男、43代の米国大統領は孫にあたる]の奇異な顛末を、わかりやすい入口として考えてみよう。

  世界に災害を引き起こした二人の米国大統領を生んだ(もしトランプが、2016年にジェブ・ブッシュをかろうじて倒していなかったら、3人になっていた)あのブッシュ王朝の家長プレスコットは、仕事仲間のアヴェレル・ハリマンン[1891-1986、米国の政治家・実業家]と弟のE・ローランド・ハリマンとともに、ナチスに資金を提供したことで名を成した。(弟の方は、エール大学に在学中に、プレスコットを秘密結社“スカル・アンド・ボーンズ”[訳注1]に引き込んだ人物だ)。ブラウン・ブラザーズ・ハリマン社の共同経営者として、プレスコットは、1932年にドイツ国民が反ファシスト派のクルト・フォン・シュライヒャーを首相に選び、支持を失い破産しそうだったナチ党をなんとか存続させるための貴重なローンを提供しただけではなく、ユニオン・バンキング・コーポレーション銀行の経営者として「敵国との取引法」のもとで1942年に有罪にさえなっている!

  そうなのだ。1992年に発刊された『認可されていないジョージ・ブッシュの伝記』に書かれていた通り、米国が第2次世界大戦に参戦する11ヶ月後に、自然の流れとして、連邦政府は米国内のナチ系の銀行の経営を調査したのだが、その際、政府は、なぜプレスコットが、フリッツ・ティッセンのオランダ貿易出荷銀行と深く結びついた銀行の経営を続けているのを不信に思った。ティッセンのことを知らない方のために付け加えるが、彼はドイツ産業界で有名な大物で、『私はヒトラーに金を払った』という本を書いた人物だ。その銀行は、「ドイツ鉄鋼業組合の製鉄所」という名のドイツの企業連合と結びついていた。その連合は、ナチスドイツの銑鉄の50.8%、ユニバーサル鋼板の41.4%、亜鉛メッキ鋼の38.5%、パイプの45.5%、爆薬の35%を扱っていた。権利確定命令248に基づき、 米国連邦政府は 1942年10月22日にプレスコットの財産をすべて押収した

  米国・ドイツ間の鋼鉄連合体はより広範な事業の一部に過ぎない。というのもロックフェラーのスタンダード・オイル社がヤング・プラン[第一次世界大戦の賠償を緩和する新たな賠償方式]に基づいて1929年にIGファルベン(世界で4番目に大きい会社)と新しい国際カルテルを形成したのだ。オーウェン・ヤングはJPモルガンの代理人で、ゼネラル・エレクトリック社の会長で、1928年にドイツの債務返済計画を制定し、国際決済銀行(BIS)[訳注2]を設立し、ロンドン市とウォール街の代理人として、実業家たちや金融業者たちの国際カルテルを形成した。これらのカルテルの中で最大のものは、ヘンリー・フォードのドイツでの事業をIGファルベン社、デュポン産業、イギリスのシェル社、ロックフェラーのスタンダード・オイル社と合併させたことだ。1928年のカルテル協定により、スタンダード・オイル社は、石炭から合成ガソリンを作成するためのすべての特許と技術をIGファルベン社に提供することが可能になり、1934年には、ドイツはわずか30万トンの天然石油しか生産できなかったが、第2次世界大戦中は、なんと650万トン(全体の85%)も生産することができた!この特許や技術移転が行われなかった場合、第2次世界大戦を特徴づけた近代化された武器による戦闘は決して起こらなかっただろう。

  ヤング・プランが始まる2年前、JPモルガンは、イタリアで新しく開かれたムッソリーニのファシスト政権に1億ドルの融資をすでに行っており、ウォール街によるイタリア作戦では、民主党のキングメーカーであったトーマス・ラモントが、ドイツにおけるプレスコット・ブッシュの役割を果たしていた。ムッソリーニの企業ファシズムのブランドを愛したのはJPモルガンだけではない。タイムマガジン社のヘンリー・ルースも、悪びれることなく、ドゥーチェ(イタリアの支配者につく称号)の称号を冠したムッソリーニを、タイム誌の表紙に、1923年から1943年の間に8回掲載し、「アメリカ経済の奇跡的解決策」として、執拗にファシズムを宣伝した。(彼は他の2つの雑誌、フォーチュン誌とライフ誌でもムッソリーニを取り上げた)。多くの米国人が1929年に始まった長くてつらい大不況のトラウマをまだ抱えていた。その絶望的な米国人の多くは、米国でファシズムが、テーブルに食料を並べてくれて、仕事を見つける手助けをしてくれるだろうという有害な考え方をますます持つようになった。
 
ブラウン・ブラザーズ・ハリマン社について一言

 ブッシュのナチ系銀行ユニオン・バンキング・コーポレーション銀行は、少し前に行われた1931年のモンダギュー・ノーマン一族の銀行(ブラウン・ブラザーズ銀行)とハリマン社所有の銀行との合併が生んだものだった。ブッシュとモンダギュー・ノーマンたちは、1920年から1940年まで、イングランド銀行[イギリスの中央銀行]の総裁で、イギリス=ドイツ連盟のトップであり、ドイツのヒャルマル・シャハト(ライヒスバンク総裁で1934年から1937年まで経済相をつとめた)を操っていた。ノーマンはまた、第2次大戦中ずっと、1930年に創設された国際決済銀行(BIS)の重役であり続けた。

中央銀行の中の中央銀行

 国際決済銀行(BIS)はヤング・プランに基づいて設立され、名目上は第一次世界大戦からの借金返済のメカニズムとしてシャハトによって運営されていたが、スイスに本拠を置く「中央銀行の中の中央銀行」たる国際決済銀行(BIS)が、ナチ機関に資金を提供する国際金融機関にとって主要なメカニズムだった。国際決済銀行(BIS)がモンターギュ・ノーマンの全面的な支配下にあったという事実は、オランダの中央銀行のヨハン・ベイエンが次のように述べたことで明らかになった。「ノーマンの権威は圧倒的でした。中央銀行教会の主導者として、彼は中央銀行員を一種の金銭宗教の司祭にしたのです。実際、国際決済銀行(BIS)は彼の創作物でした。」

 理事会の創設メンバーには、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ベルギーの民間中央銀行と、3つのアメリカの民間銀行(JPモルガン、シカゴ第1銀行、ニューヨーク第1銀行)が含まれていた。その3つの米国の銀行は戦後合併し、現在シティグループおよびJPモルガンチェース社として知られている。

 創立時の規則では、国際決済銀行(BIS)や役員やスタッフはすべての国内法から免責され、スイス当局でさえ敷地に入ることが許可されていなかた。

 この件については 、2013年の著書『バーゼルの塔:世界を支配した秘密銀行の影の歴史』が、大きく伝えている。

優生学について

  第二次世界大戦までの準備期間や大戦中のナチスへの支援は、金融や産業力に対するものだけにとどまらず、第三帝国が統治する際に使用した科学的イデオロギー、すなわち優生学にも行われた。(優生学の別名は、社会ダーウィン主義の科学。1世紀前のトーマス・ハクスリー[1825-1895英国の生物学者。ダーウィンの進化論を擁護]のXクラブブ[19世紀後半にイングランドで自然淘汰説を支持した9人の学者のダイニングクラブ]の準会員であったハーバート・スペンサーとダーウィンのいとこフランシス・ゴルトンが発展させた科学だ)。1932年、ニューヨーク市は、第3回優生学会議をウィリアム・ドレイパーJrとハリマン家の後援のもと開催した。(ウイリアム・ドレイパーJr は、JPモルガン銀行家で、ゼネラル・モーターズ社の重役であり、ディロンリード社等の重要人物だった)。この会議には、優生学に基づく法律がうまく適用されている米国で学ぶために、世界のトップの優生学者が集まった。この会議は、セオドア・ルーズベルトの熱烈な後援の下で1907年に始まった。「科学」という立派な看板に隠れて、高尚な科学の使徒たたちは、新時代の「管理された人間の進化」について話し合っていた。そして、そしてそれはすぐに、世界中の科学的独裁主義のもとであれば、可能となるだろう。

 会議での講演で、英国のファシストであるフェアフィールド・オズボーンは、優生学について次のように述べている

 「(優生学は)、適者生存と増殖を助け、奨励します。間接的に、それは不適合者の増加をチェックし、低下させます。後者については、米国だけでも、何百万人もの人々が国の進歩を止める網や錨として行動していることは広く認識されています…非常に有能な人々が失業している場合もありますが、大量の失業者は、能力の低い人々の中から出ています。先に仕事をやめさせられているのは、そんな能力の低い人達です。そして、本当に非常に能力のあるごく少数の人々は、依然としてやめさせられてはいません。なぜなら、彼らは、代わりがきかない人たちだからです。自然界では、不適合な個人は次第に姿を消しますが、文明世界においては、我々はこういった不適合な人達をコミュニティ内に置いています。それは、景気がよいときには、全ての人が就職できるようにと思っているからです。これが、人間文明が、自然界に逆らって不適合な人たちを生き残らせることを奨励しているもう一つの例です。」

 大恐慌の暗黒の日々は、執拗で無知な人達にとってはいい時代だった。というのも、優生学に基づく法律がカナダの2つの州で適用され、米国やカナダでも広がり、米国の30州が不適合者に不妊処置を行うという優生学に基づく法律を制定したからだ。優生学が順調に成功したのは、ロックフェラー財団と科学雑誌ネーチャー誌(1865年にT・H・ハクスリーのXクラブによって作成された)による巨額の財政支援が大きかった。ロックフェラー財団は、ドイツの優生学、特に人種改良学の新星ヨーゼフ・メンゲレに資金を提供し続けていた。

 ナチスというフランケンシュタインは切り捨てられた

 1935年1月29日のヒトラーとの会談について、円卓の司令官であるロージアン卿は、新世界秩序のアーリア共同指揮に関するフューラーのビジョンを次のように述べている。

 「ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、アメリカ、スカンジナビア…は、国民が中国やインドなどの国の工業化を支援することを妨げると合意すべきです。アジアの農業国で製造業の設立を促進することは自殺行為です。」

 この件について、もっといろいろ言いたいことはあるが、ファシスト・マシーンは、ロンドンのフランケンシュタイン博士が望んだ方法に完全には振る舞わなかったということだ。というのも、ヒトラーは、自分の軍隊組織の強力さがあれば、ドイツが「新世界秩序」のリーダーになれると気がつき始めたのだ。ロンドンにいるアングロ系のご主人様のためのただの下っ端の第二奏者に甘んじるのではなくて。多くのロンドンとウォール街の少数独裁者たちは、この新しい現実に対応する準備をし、これまでの計画をとりやめ、ドイツと戦うことを決めた。

 国王エドワード8世を1936年に退位させたのは、彼が親ナチであったのが真の理由だったが、話をスキャンダルにすり替えてしまった。さらに、1940年、首相の座は、穏健派のネヴィル・チェンバレンからウィンストン・チャーチルに置き換えられた。ウィンストン・チャーチル卿は、生涯通して人種差別主義者であり、優生学者であり、ムッソリーニの崇拝者でさえあったが、彼は誰よりもイギリス帝国主義信奉者だった。もし帝国の名声が脅かされた場合、あらゆる手段を講じてでも戦う意思があった。そして、実際、彼はそうした。

ファシストVSフランクリン・ルーズベルト

 アメリカ国内でも、ファシスト支持派のウォール街は、1932年に反ファシスト大統領フランクリン・ルーズベルト大統領が選出された日からずっと彼との戦いに負け続けていた。1933年 2月の暗殺未遂が失敗しただけでなく、1934年のクーデター計画も、愛国心の強い将軍スメドレー・ダーリントン・バトラーによって妨害された。さらに悪いことに、彼らは、ドイツやフランス、イタリアとともに新世界秩序を望んでおり、米国を参戦させないよう努力してきたのだが、これもポシャりそうになっていた。私が最近の記事『銀行家の独裁政権を粉砕する方法』で概説したとおり、1933~1939年の間に、フランクリン・ルーズベルト(以下FDR)は銀行部門に抜本的な改革を課し、国際決済銀行の下で世界的な銀行家の独裁体制を築こうとする大きな試みを阻止し、ニューディール政策[大恐慌の不況の克服を目指したルーズベルト大統領の一連の社会経済政策]の下で広範な回復に着手した。

 1941年までに、日本の真珠湾攻撃は米国人の精神をあまりにも激しく二極化させたため、第2次世界大戦への米国の参戦に抵抗すること(それは、ウォール街のアメリカ自由連盟が力を入れてきたことだったのだが)は、政治的自殺行為となってしまった。ウォール街の協調組織は、FDRによる1938年の力強いスピーチで強く非難された。その演説は、国会にファシズムの本質を思い出させるものだった。

 「何よりもまず抑えておくべき真実は、『民間組織が民主主義国家そのものよりも強くなることを国民が許すならば、民主主義の自由が侵される』ということだ。それこそが、ファシズムの本質なのだ。政府を個人やあるグループや他の力のある民間組織が所有することだ。今、我々がいる世界では、史上比べることができないくらい、民間組織への権力集中がはびこっている。そして、民間組織へ権力が集中することにより、民間企業の経済効果は深刻なくらい破壊されている。というのも、経済効果というものは、労働者と資本家に雇用を提供し、国民全体の所得や収入のより公平な分配を保証することで生まれるものだからだ。」

 米国が第二次世界大戦に参戦したことが、ファシスト機関を破壊する決定的な要因となったのは事実だ。しかし、フランクリン・ルーベルトやヘンリー・ウォレス[33代米国副大統領1941-1945]、さらには米国・カナダ・ヨーロッパ・中国・ロシアなど世界各地にいたFDRの考えに共感する人達が描いていた夢は実現しなかった。その夢とは、大規模な開発や各国の相互利益の追究という考えの元で世界が運営されるという夢だ。

 FDRの同盟者であるハリー・デクスター・ホワイト[1892-1948米国の官僚]が、1944年7月のブレトンウッズ会議[訳注3]において、国際決済銀行を閉鎖しようとする論戦を主導したのだが、国際決済銀行を解散し、その帳簿を監査しようというホワイトの決議は決して実行されなかった。IMFの最初の専門理事になることになっていたホワイトは、反帝国主義の新しい金融システムを作成しようというFDRの仕組みを擁護した。いっぽう、フェビアン協会[1884年に結成された、漸進的な社会改革を主張する英国の社会主義者の団体]のリーダーであり、熱心な優生学者であったジョン・メイナード・ケインズは、ホワイトのやり方ではなく、国際決済銀行を擁護し、バンコールという名の世界通貨を使ったやり方で大戦後のシステムの見直しを行うことを強く推し進めた。それは、イングランド銀行と国際決済銀行が管理するシステムだった。


戦後の世界におけるファシストの復活

 1945年末までに、トルーマンドクトリンと英米の「特別な関係」がFDRの反植民地主義のビジョンに取って代わり、反共産主義の魔女狩りは米国をFBI監視下のファシスト警察国家に変えた。ロシアに友好的な誰もが破壊の標的にされたが、自分が標的にされていると最初に感じたのは、FDRの親友であるヘンリー・ウォレスとハリー・デクスター・ホワイトであった。ホワイトは、1948年に、ウォレスを大統領候補にしようという活動のさなかに亡くなった。これにより、反植民地主義者たちがIMFを運営することには、終止符が打たれた。

 第二次世界大戦後の数十年、世界にファシズムをもたらしたまさにその投資家たちは、戦後そのまま元のさやに戻り、IMFや世界銀行などFDRのブレトン・ウッズ体制下の機関に侵入し、そのような機関を、開発するための機関から奴隷化するための機関に変えてしまった。そのプロセスは、2004年のジョン・パーキンズ著 『経済的ヒットマンの告白』で完全に明らかにされた。

 帝国の古い貴族を代表するヨーロッパの銀行家一族たちは、大戦後罰せられることもなく、西側諸国による征服を続けた。1971年までに、パーキンズが「経済的ヒットマン」の代表者として描いたジョージ・シュルツは、金本位制からUSドルによる管理通貨制度への移行を画策し、米国行政予算局の局長に就任したが、同年、新しいグローバル時代到来を告げるべく、ロスチャイルドのインターアルファグループ銀行が設立された。この1971年のドル価値の浮上が、消費主義、ポスト産業主義、規制緩和という新しい視点の先駆けになったのだ。かつて生産的だった西側諸国は、投機的な「何が真実か分からない」もので詰まったかごのようになってしまい、カジノやバブルや風任せの理論が、農産業の代わりになると説得させられたのだ。

そして今、ファシズムに対する勝利を祝っている2020年。

 1945年の英雄たちの子供や孫たちは、1500兆ドルという架空の資本が、世界的な超インフレの中で爆発するかもしれないという史上最大の金融崩壊の危機に直面している。この危機は、1923年にワイマール共和国を破壊した危機と似ているが、今回は世界規模だ。1945年に閉鎖されるべきだった国際決済銀行[訳注2]は、こんにち、金融安定理事会[国際金融システムの安定確保を追求する国際機関。金融安定化フォーラム(FSF)を改組・拡充して2009年に発足]を統制し、ひいては世界のデリバティブ取引[訳注4]を規制している。このデリバティブ取引こそが、大量破壊兵器となり、世界中をより混乱させる引き金になっている。そんな混乱は、ヒトラーには思いも浮かばなかっただろう。

 今日の救いの恵みは、フランクリン・ルーズベルトの反ファシズム精神が、現代の反帝国主義者であるウラジミール・プーチンや習近平、そして21世紀のニューディール政策の下で団結している国々の体制の中で生きていることだ。その団結は、「一帯一路[訳注5]政策」と呼ばれるようになっている。

 プレスコットの孫ジェブ(あるいは、血はつながっていないが、プレスコットの考えを受け継ぐ孫娘ヒラリー)が現時点で米国大統領の地位についていたなら、私は、今この文章を書いてはいなかっただろう。きっと第三次世界大戦がすでに勃発していたはずだろうから。しかし、トランプ大統領が、約4年間、影の政府からの転覆攻撃を無事に乗り切り、ロシアと中国との積極的な同盟関係を繰り返し求めてきたおかげで、チャンスはまだ残されている。今この瞬間に必要な緊急措置を講じるチャンスは。FDRが常に意図し、第二次世界大戦で勝利したあのやり方で。


訳注

(1)スカル・アンド・ボーンズ:アメリカの名門校、イェール大学の学生による排他的な社交クラブ。ラッセル商会創立者のウィリアム・ハンティントン・ラッセルらが1832年に創設。構成員同士の交流を深め、卒業後社会的・経済的な成功を収めることを目的とする。主に白人・プロテスタントのエリート層からなる組織。毎年新入生の中から選抜された10数名が加入し、外部非公開の集会に参加する。メンバーは「ボーンズマン」と呼ばれ、歴代の大統領や政府要職者、産業界のリーダーにも同クラブの出身者が多い。略称S&B。(出典:デジタル大辞泉プラス)

(2)国際決済銀行: 1930年、スイスのバーゼルに設立された、主要国の共同出資による国際銀行。設立当初は第一次大戦後のドイツの賠償支払いを円滑に処理することを主な目的とした。現在は出資国の中央銀行間の協力を促進し、金融政策・国際通貨問題などに関する討議・決定を行っている。日本からは日銀総裁、理事などが参加。(出典:デジタル大辞泉)

(3)ブレトンウッズ会議: 1944年7月、連合国44カ国が米国ニューハンプシャー州のブレトンウッズで会議を開き、第2次大戦後の新たな国際経済システムに関する協定を結んだ。国際通貨基金(IMF)と世界銀行の創設が柱で、IMF加盟国には緊急時の借り入れができる引き出し権が与えられ、為替は固定相場制が基本になった。協定に至る交渉では、英国のケインズが国際通貨バンコールの創設などを提案したが、最終的には米国案を中心に協定が成立。関税と貿易に関する一般協定(GATT)とともに、戦後の国際経済体制の基礎になった。IMFの特別引き出し権(SDR)は69年に設けられた。71年に米ニクソン政権が金とドルの交換を停止したことで、IMF・GATT体制は実質的に崩壊。主要国通貨の為替は変動相場制へ移行した。(出典:2008-11-03 朝日新聞 朝刊 3総合)

(4)デリバティブ取引: 株式、債券、金利、為替など原資産となる金融商品から派生した金融派生商品(デリバティブ)を対象とした取引。主なものに、先物取引(将来売買する商品の売買条件をあらかじめ決めておく取引)、オプション取引(将来商品を売買する権利をあらかじめ購入する取引)、スワップ取引(金利や通貨などをあらかじめ約束した条件で交換する取引)がある。原資産の取引より少ない投資金額で大きな取引ができること、投資商品の価格が値下がりした場合にも収益が得られることが主な特徴で、リスク回避や効率的な資産運用の手段として活用されている。(出典:知恵蔵ミニ 朝日新聞出版)

(5)一帯一路: 陸路と海路で中国と各大陸を結ぶ「シルクロード経済圏構想」。沿線国の道路や鉄道、港湾、通信などのインフラ整備を中心に中国が支援する。中国政府によると、4月現在、126カ国と29の国際組織が協力文書に署名した。 (出典:2019-04-27 朝日新聞 朝刊 2総合)

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