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「現代のテロリズムの生みの親」:メディアが伝えないズビグネフ・ブレジンスキーの素顔

<記事原文 寺島先生推薦>
The Real Story of Zbigniew Brzezinski That the Media Isn’t Telling. “Where Modern Terrorism Originated”
出典:Global Research 2024年10月31日
筆者:ダリウス・シャーターマセビ(Darius Shahtahmasebi)
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年11月23日


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2017年6月2日初出の重要記事

ジミー・カーター大統領の前国家安全保障顧問であったズビグネフ・ブレジンスキーが金曜日(2017年5月26日)、バージニアの病院において89歳で死去した。ニューヨーク・タイムズ紙は、この元政府顧問が「タカ派的な戦略理論家」であったことは認めたが、彼の遺産を他の点ではどこまでも肯定的なものであるとしたことは、既存勢力エリートたちが考えたいと思うほど一筋縄ではゆかないことかもしれない。>

英国がISISに影響された人物による壊滅的な攻撃を受け、いわゆる「テロの脅威」のレベルをめぐって翻弄され、またフィリピンがISISに影響された破壊行為を受け、ほぼ完全な戒厳令状態に入るなか、この時期にブレジンスキーの死が重なったことは、現代のテロリズムのそもそもの起源がどこにあるのか、もっと深く理解する必要があることを誰しもが念頭に思い浮かべるいい機会になった。

ニューヨーク・タイムズ紙が説明するように、ブレジンスキーの「ソ連に対する激しい憎悪」は、「よくも悪しくも」多くのアメリカ外交政策を主導した。ニューヨーク・タイムズ紙より:

     「ブレジンスキーはアフガニスタンでソ連軍と戦うイスラム過激派に何十億ドルもの軍事援助をした。彼はソ連が支援するベトナムがカンボジアを占領しないよう、カンボジアのポル・ポト政権への支援の継続を中国に暗黙のうちに奨励した」。(強調は筆者)

ニューヨーク・タイムズ紙がブレジンスキーのイスラム過激派への支援を指摘するのは進歩的立場に立っているが、彼の復讐に燃える外交政策の効果をたった一文で軽視することは、ブレジンスキーの政策の背後にある真の恐ろしさを正しく扱っていることにはならない。

1973年のアフガニスタンでのクーデターにより、ソビエト寄りの世俗的な新政権が樹立されたため、アメリカは、アメリカの手下であるパキスタンとイラン(イランは当時、アメリカの支持する国王の支配下にあった)を通じて何度もクーデターを組織し、この新政権を弱体化させようとした。1979年7月、ブレジンスキーは、CIAのプログラム「サイクロン作戦」を通じてアフガニスタンのムジャヒディン反乱軍に援助を提供することを公式に承認した。

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レーガン大統領とアフガニスタンのムジャヒディン指導者たち

アメリカがアフガニスタンでムジャヒディンを武装させたのは、ソ連の侵略からアフガニスタンとより広い地域を守るために必要だったからだと擁護する人は多い。しかし、ブレジンスキー自身の発言は、この論理を真っ向から否定している。1998年のインタビューでブレジンスキーは、この作戦を実施することで、カーター政権はソビエトが軍事介入してくる可能性を「承知の上で高めた」ことを認めた(ソビエトが侵攻する前にイスラム主義派閥の武装を開始したことを示唆し、当時はアフガニスタンの自由戦士が撃退する必要のある侵攻はなかったため、その理由づけは無意味だった)。ブレジンスキーはこう述べている:

     「何を後悔するんだ?あの秘密作戦は素晴らしいアイデアだった。ロシア軍をアフガンの罠に引き込む効果があったのに、私に後悔しろというのか?ソビエトが正式に国境を越えたその日、私はカーター大統領にこう書いた:「我々は今や、ソ連にベトナム戦争を与える機会を手にしています」。

この発言は、戦争とソビエト連邦の最終的な崩壊を扇動したことを単に自慢するだけにとどまらない。ロナルド・レーガンジョージ・H・W・ブッシュの下でCIA長官を務め、ジョージ・W・ブッシュバラク・オバマの下で国防長官を務めたロバート・ゲイツは、『影から(From the Shadows)』と題された回顧録の中で、この秘密作戦がソ連侵攻の6カ月前から始まり、ソ連をベトナム式の泥沼に誘い込むという実際の意図があったことを直接認めている。

関連記事:ウクライナは「大チェス盤」の駒
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ブレジンスキーは自分が何をしているのかよくわかっていた。ソビエトはその後約10年間、アフガニスタンで泥沼にはまり、アメリカが供給した武器と訓練された戦闘員の無限の補給との戦いに明け暮れた。当時、メディアはオサマ・ビン・ラディン(ブレジンスキーの秘密作戦で最も影響力のあった人物の一人)を称賛するほどだった。私たちは皆、その結末を知っている。

ブレジンスキーは1998年、CIAが資金提供した創作物がどのようなものになったかを知りながらも、取材に対して次のように答えている:

     「世界の歴史にとって何が最も重要なのでしょうか?タリバンあるいはソビエト帝国の崩壊でしょうか?それとも中欧の解放と冷戦の終結でしょうか?」

この時の取材担当者は、この答えが聞き流されるのを許さず、こう言い返した:

     「一部の煽動されたイスラム教徒?しかし、イスラム原理主義は今日、世界の脅威になっていることは繰り返し言われてきたことですよ」。

ブレジンスキーはこの発言を真っ向から否定し、こう答えた:

     「ナンセンス!」

この種のやりとりは、ジャーナリストたちが政府高官に突っ込んだ質問をしていたころのことで、今ではめったにないことだ。

ブレジンスキーがこうした過激派を支援したことで、アルカイダ(直訳すると「基地」)が形成され、予想されたソ連侵攻を撃退するための拠点となった。また、現在NATO軍と果てしない戦いを続けているタリバンの誕生にもつながった。

さらに、ロシア帝国の永続的な敗北を描こうとするブレジンスキーの発言にもかかわらず、ブレジンスキーにとって冷戦が終わることはなかったというのが真実である。彼は2003年のイラク侵攻を批判していたが、ブレジンスキーのアメリカ外交政策に対する支配力は死ぬまで続いた。

シリアにおいて、オバマ政権がもう1つのロシアの同盟国であるシリアのアサドに対してアフガニスタン泥沼戦略を展開したのは偶然ではない。2006年12月にウィキリークスによって流出した公電には、当時ダマスカスの米国大使館の臨時代理大使であったウィリアム・ローバックが書いたものがある:

「シリア大統領バシャール・アル・アサドの弱点は、(限定的ではあるが) 経済改革のステップと、固定化された腐敗した勢力との間の対立、クルド人問題、そして移動するイスラム過激派の存在が増大することによる政権への潜在的脅威など、認識されているものと現実のものの両方で、迫り来る問題にどのように反応するかを選択することにあると私たちは信じている。この電文は、これらの脆弱性に関する我々の評価を要約し、そのような機会が生じる可能性をいい方向につなげるために米国政府が発することのできる行動、声明、シグナルがあるかもしれないことを述べている。」 [協調は筆者]

バラク・オバマ政権下の「サイクロン作戦」と同じように、CIAは年間約10億ドルを費やしてシリアの反体制派を訓練していた(テロ戦術に従事するために、だが)。これらの反政府勢力の大半はISISの中核的イデオロギーを共有しており、シリアに「シャリーア法」[厳密なイスラム法]を確立するという明確な目的を持っている。

アフガニスタンの時とまったく同じように、シリア戦争は2015年にロシアを正式に引き入れることになった。そしてブレジンスキーの遺産は、ロシアを再びアフガニスタンのような泥沼に導いているとオバマがロシアのウラジーミル・プーチンに直接警告したことをとおしてその実質をとどめることになった。

では、オバマはこのブレジンスキーの脚本をどこから手に入れ、シリアをさらに恐ろしい6年間の戦争に突入させ、戦争犯罪と人道に対する罪がはびこる紛争で再び核兵器大国を巻き込んだのだろうか?

その答えは、ブレジンスキー自身からである。オバマによれば、ブレジンスキーは彼の個人的な師であり、彼から多くを学んだ「傑出した友人」である。このことを考えれば、オバマ大統領の任期中に多くの紛争が突如として勃発したのも不思議ではないだろう。

2014年2月7日、BBCヴィクトリア・ヌーランド国務次官補とジェフリー・パイアット駐ウクライナ米国大使の間で交わされた盗聴された電話の会話を公開した。その電話では、ロシア寄りのヴィクトル・ヤヌコビッチ大統領を追放したクーデター後のウクライナ政府に誰を配置したいかを話し合っていた。

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なんと、ブレジンスキー自身が1998年の著書『グランド・チェスボード』の中で、ウクライナの占領を提唱していたのだ。つまり、ウクライナは

     「ユーラシアのチェス盤における新たな重要な空間・・・独立国として存在すること自体が(ロシアが)ユーラシア帝国でなくなることを意味するため、地政学的な要となる」。

ブレジンスキーはロシアにウクライナを支配させないよう警告した。なぜなら、

     「(そうなれば)ロシアは、ヨーロッパとアジアにまたがる強力な帝国国家となる手段を再び自動的に取り戻すことになるからだ」。

オバマに続くドナルド・トランプは、ISISと戦うためにロシアやシリア政府と協力することをいとわない、完全に異なる考え方で政権に入った。当然のことながら、ブレジンスキーはトランプの大統領選出馬を支持せず、トランプの外交政策の考えには一貫性がないと考えていた。

とはいえ、昨年(2016年)、ブレジンスキーは世界情勢に対する姿勢を変え、アメリカがもはやかつてのような世界的帝国主義国ではなくなっていることを踏まえ、「世界再編」、つまり世界の力を再配分することを提唱し始めたように見えた。しかし、アメリカの世界的な指導的役割がなければ、「世界的な混乱」に陥るとの指摘に変わりはなく、彼の認識の変化が地政学的なチェス盤の上で実際に意味のある変化に根ざしているとは考えにくかった。

さらに、CIAの存在そのものがロシアの脅威という考えに依存していることは、CIAが旧ソ連とのデタントが可能だと思われるたびにトランプ政権を徹底的に攻撃していることからも明らかだ。

ブレジンスキーの血と狂気の歪んだ地政学的なチェスゲームの駒として避難民にされたり、殺された何百万人もの民間人とは異なり、彼は病院のベッドで平穏に息を引き取った。彼の遺したものは過激なジハード主義であり、アルカイダの結成であり、最近の米国の歴史で言えば、外国勢力による米国本土への最も破壊的な攻撃であり、ロシアは共に平和は決して達成できないし、達成すべきでもない永遠の敵として徹頭徹尾中傷したことだ。

ロバート・ケネディ暗殺の新証拠:CIA、ロス市警、FBI、そしてマフィアが関与か?

ロバート・ケネディ暗殺の新証拠:CIA、ロス市警、FBI、そしてマフィアが関与か?
<記事原文 寺島先生推薦>
https://www.globalresearch.ca/new-evidence-implicates-cia-lapd-fbi-mafia-plotters-elaborate-hit-plan-prevent-rfk-from-ever-reaching-white-house/5754662
Global Research
2021年9月2日
ジェレミー・カズマロフ(Jeremy Kuzmarov)
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2021年11月10日
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***
「自由の女神の顔色は
ますます死人の蒼白色
弾丸(たま)持て、自由を愛する
アメリカよ、銃口は汝に向いている」
1970年
―エフゲニー・エフトゥシェンコ(Yevgeny Yevtushenko)

 1968年6月5日、深夜0時を数分過ぎた頃、ロサンゼルスのアンバサダー・ホテルで、ロバート・ケネディ(以下RFK)は「パントリー」と呼ばれる狭い給仕室を歩いているところを銃撃され、死亡した。RFKはカリフォルニア州の予備選挙で勝利したばかりで、新聞社の記者たちが彼のスピーチを聞くために待っている部屋に向かっていた。

 3月初旬、リンドン・B・ジョンソンはベトナム政策の失敗を理由に再選を目指さないことを表明したことで、選挙戦の火蓋が切られた。RFKは、社会変革の必要性を訴えて民主党内の青年層を活気づけ、有力候補として浮上した。

 RFKは、いろいろな点で毛色の変わったリベラルだった:
 ①ハーバート・フーバー*(Herbert Hoover)を崇拝して育った。
   ハーバート・フーバー*・・・アメリカ合衆国の政治家、鉱山技術者。第31代アメリカ合衆国大統領、第3代アメリカ合衆国商務長官を歴任した。( ウィキペディア)
 ②一族の中では大富豪である父ジョセフ(Joseph)に最も近い存在である。
 ③ジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy)の反共産主義者に対する魔女狩りを支持して政治的キャリアをスタートさせた。
 ④1960年代初頭にはベトナムで共産主義に対する勝利を呼びかけた。
 ⑤キューバ政府の転覆を目的としたテロ活動の総括者だった。

 とはいえ、1960年代後半になると、RFKは貧しい人々のための十字軍であり、抗議運動の波に乗ってホワイトハウスに入ろうとするベトナムのハト派に進化していた[1]。

 伝記作家のレスター・デイビッド(Lester David)とアイリーン・デイビッド(Irene David)は、ケネディ家の中ではRFKが「人類に最も深く思いをいたし、人類のことを最も気にかけ、人類のためにだれよりも懸命に戦った――アメリカのベトナム戦争参戦に反対の声を上げ、黒人、ヒスパニック、メキシコ系アメリカ人のために尽力し、子どもや高齢者、そして経済的進歩によって傷つけられたり、経済的進歩の恩恵を蒙らない人々の苦しみに立ち向かったのである。」[2]

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                 RFKの死を伝える新聞の見出し[出典: pri.org]

 RFKの死後、民主党は影を潜め、その後の9人の大統領のうち共和党員が6人だ。この時期の民主党は、核となる基盤である組合員、少数派、そしてブルーカラー労働者を捨て、ウォール街に迎合するようになった。[3]

RFK暗殺の公式見解

 公式見解によると、RFKは24歳のパレスチナ生まれのヨルダン人、サーハン・サーハン(Sirhan Sirhan)という単独犯に射殺された。サーハンは、RFKが50機のジェット爆撃機をイスラエルに送り込み、パレスチナ人に危害を加えるという最近の決定に憤慨していたと言われている。

 母親によると、サーハンは子供の頃、イスラエルとパレスチナの紛争による暴力が心の傷となっていたという。東エルサレムの実家はイスラエル軍の空襲で破壊され、兄がイスラエル軍の銃撃から逃れるために進行方向を変えていたヨルダン軍の車両に轢かれて死亡したのを目撃していた。[4]

 プロフットボール選手のルーズベルト・グリエ(Roosevelt Grier)と1960年のオリンピック金メダリストのレイファー・ジョンソン(Rafer Johnson)は、他の数人と一緒になって、格闘の末にサーハンを取り押さえ、彼の銃を取り上げた。

 その後、サーハンは逮捕され、殺人罪で有罪判決を受けた。

 第二次世界大戦の英雄、リン・"ビック"・コンプトン(Lynn “Bick” Compton)(後にロナルド・レーガン知事によってカリフォルニア州控訴裁判所の判事に任命された[5])を中心とした検察側は、事件の2日前の6月3日にサーハンがアンバサダー・ホテルの間取りを確認するところを目撃され、6月4日には射撃場を訪れていることを明らかにした

 サーハンのゴミ収集人であったアルビン・クラーク(Alvin Clark)は、サーハンが事件の1ヶ月前にケネディを撃つつもりであることを話していたと証言している。サーハンがつけていた日記で確認されたらしい事実。彼が事前に犯行を考えていたことを示している。

 サーハンは当初、殺害を自白したが、後になって記憶がないと主張した。事件が起こった後、彼は冷静に見えたが、「心を完全にコントロールしていた」わけではなかった

 サーハンの死刑は終身刑に減刑され、仮釈放は15回も拒否されたが、2021年8月27日に50年以上の獄中生活を経て釈放相当と判断された

RFK Jr.はサーハンの無実を信じている

 ロバート・F・ケネディ・Jrは、2018年の『ワシントン・ポスト』紙のインタビューで、サンディエゴ郡のリチャード・J・ドノバン(Richard J. Donovan)矯正施設のサーハンと面会し、比較的長い会話の後、サーハンはRFKを殺しておらず、第二の狙撃者が関与しているとの考えを述べた。

 RFK Jrの考えは、姉のキャスリーン・ケネディ・タウンゼント(Kathleen Kennedy Townsend)(元メリーランド州副知事
)や、RFK Jr.の最側近のアドバイザーであり、RFK Jr.が殺された夜に銃撃されたポール・シュレード(Paul Schrade)(全米自動車労組(UAW)地域ディレクター)と同じだ。


 ケネディが殺された夜に撃たれて回復した後にインタビューを受ける、JFK大統領時代からのケネディ家の腹心であるポール・シュレード。[出典: prospect.org

 2016年、シュレードはサーハンの仮釈放を支持する証言を行い、RFKを殺したのは第二の狙撃者であり、サーハンは未知の陰謀によって真の狙撃者から目をそらすために用意されたとの考えを述べた。
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サーハンの顔写真.[出典:wikipedia.org]

 RFK.Jrは、最初の裁判でサーハンが指名した弁護士グラント・クーパー(Grant Cooper)が、ジョニー・ロッセリ(Johnny Rosselli)の個人弁護士であったことを指摘。「ロッセリは、CIAのカストロ暗殺計画を実行したマフィア。クーパーはサーハンに圧力をかけて有罪を認めさせ、裁判が行われないようにしたのです」と語っている。
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右側に立つ弁護士グラント・クーパーの話を聞くサーハン・サーハン。左側では共同弁護人
のラッセル・E・パーソンズが見守っている。[出典:murderpedia.org


 ケネディJrは、真犯人はロッキード社のバーバンク工場(CIAが製造した偵察機U-2を製造していた工場)の従業員セイン・ユージン・シーザー(Thane Eugene Cesar)しかいないと考えている。彼は、それ以前、ヒューズ社でエース・セキュリティ・サービスの夜間警備員をしていた。

 銃撃の後、RFKは、シーザーのクリップ式のネクタイが彼の近くに置かれた状態で写真を撮られている。このクリップ式ネクタイは明らかにRFKが引っ張って取ったものだ。

 シーザーは警察に対し、サーハンが発砲を始めた時にRFKの右腕を掴んでいたが、その後、銃を抜いて上院議員を掴み、後ろに倒れたと話していた。しかしその後、シーザーは話の内容を変え、サーハンが発砲した後、知らない人物に押し倒され、自分が素早く立ち上がってから銃を抜いたと語った。[6]

 あるインタビューでは、シーザーはRFKが撃たれるのを見なかったと答え、別のインタビューでは、医師がまだRFKを診察しておらず、何の声明も出していない銃撃の直後に、RFKが頭、胸、肩に4発撃たれるのを見たと答えている。[7]

 シーザーはケネディ家を「地上に存在する最大のペテン師集団」と考え、アラバマ州の人種隔離主義者であるジョージ・C・ウォレス(George C.Wallace)知事の大統領選挙キャンペーンに協力した。[8]

 RFKを殺す前に、シーザーはフロリダの殺し屋と一緒にいるところをラスベガスで目撃されていた。彼を見た男は、シーザーは「ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の子飼い」であり、「とてつもなくタフ」であると語った。[9]

 ヒューズは大手航空宇宙会社のオーナーであり、共和党やCIAと深いつながりを持つ「ラスベガスのゴッドファーザー」だった。[10]

 ジム・ヨーダー(Jim Yoder)(RFKの死後、シーザーから暗殺に使われたとされる武器を購入している)は、シーザーはロッキード社の中でも特別な人しか入れない立入禁止区域で働いていたと主張している。これらのエリアはCIAの管理下にあった。

 RFK Jr.は、配膳室に隠れて彼の父RFKの出現を待っていたシーザーが父の後頭部を撃ったと考えている。あるいはこうだ。シーザーがRFKを抱えて脇の下を3発撃ち、その間に別の暗殺者(ウェイターの助手の服を着た男)がRFKの頭部に2発撃って殺した。銃はそれとわからないようにしたものか、あるいは隠せるほど小型のものだった。[11]

 フィリピンにいるシーザーを訪ねることを計画し、最後は25、000ドルを要求されたというRFKジュニアは次のように述べている:

 「配膳室には77人いたが、目撃者は皆、サーハンが常に父の前にいて、3~6フィートの距離にいたと言っています。サーハンはタックルされる前に父に向かって2発撃ちました。馬乗りにされた状態から、サーハンは8発の弾丸を込めた拳銃を空にして、反対方向に6発撃ち、そのうちの5発がたまたまその場にいた人間に当たり、1発があらぬ方向に飛んだのです。」

  「シーザーは、黒人の公民権を擁護したケネディ家を憎む偏屈者でした。本人の証言によると、シーザーは父の真後ろで右肘を支えにして銃を抜いていた時、父は彼に覆いかぶさるように仰向けに倒れこんだのです。シーザーは銃をいつ抜いたのか正確な時間については何度も話の内容を変えています。」

  「検視官のトーマス・ノグチ(Thomas Noguchi)博士によると 父を襲った4発の銃弾は すべて父の背後から発射された<密着>弾で 銃身が父の体にほぼ触れている状態でした。父は倒れながら手を伸ばしてシーザーのネクタイのクリップを引きちぎりました。」

  「シーザーは暗殺の数週間後、 22口径を同僚[ヨーダー(Yoder)]に「これは犯罪で使われた銃だ」と警告しながら売っています。シーザーは 警察に対しては暗殺の数ヶ月前に 銃を処分したと嘘をついています。」

  RFK Jr.の結論はこうだ:「警察は父の殺害におけるシーザーの役割を真剣に調査したことはない。父の暗殺を調査したロス市警の部隊は何千もの証拠を破壊した現役のCIA工作員によって管理されている。」[12]

巨大なウソはウソでなくなる
サーハンが単独犯であることを否定する根拠は、6つのポイントに集約される:

 1.サーハンの銃に込められる以上の銃弾が発射された

 サーハンの銃には8発の弾丸が装填されていた。関係者によれば、サーハンの銃弾のうち3発がRFKに命中し(4発目はコートを貫通)、5発が他の犠牲者に命中したとのことである

 しかし、弾丸1発も天井のどこかに飛んでいる。現場写真では 捜査官がドアや天井に丸印をつけた弾痕を指し示している

 捜査官は6人の被害者の身体に12弾丸の侵入口を見つけ、天井には3つの銃弾の穴が撮影されていた。[13] ロス市警の犯罪捜査官デウェイン・ウルファー(DeWayne Wolfer)は「キッチンの天井にこんなにたくさんの穴があるなんて信じられない」と語っている。」[14]


チャールズ・ライト(Charles Wright)(警察技官)とロサンゼルス警察署員ロバート・ロッチ(Robert Rozzi)がアンバサダー・ホテル(ロサンゼルス)の厨房通路(この近辺でRFKは撃たれている)のドア枠で発見された弾痕を調査している。[写真:mercurynews.com]




印がつけられたドア枠の弾痕。[写真:riversong.wordpress.com]


 ポーランドのジャーナリスト、スタニスワフ・プルジンスキー(Stanislaw Pruszynski)が作成した音声テープには、13発の銃声が記録されていた。このテープを分析したところ、銃声が2つの別々の方向から聞こえてきたことがわかった。[15]

2.RFKが撃たれたのは背後から。正面からではない。

 ロサンゼルス郡検視官トーマス・ノグチ(Thomas Noguchi)の報告書(ロス市警の最終報告書からは不思議なことに消えてしまった)によると、RFKは後方から3発の銃弾を受けており、そのうち1発は右耳の後ろの頭部に当たっていた。この結論は、RFKを正面から撃ったとはサーハンだとすべての目撃者が証言しているのを除外している。


損傷をもたらした銃弾の軌跡。この3つの銃弾が背後から発射されRFKを死に至らしめたと信じられている。 このことでサーハンが犯人である可能性はなくなる。[写真: riversong.wordpress.com]


3.RFKは至近距離から撃たれている――サーハンは離れすぎていた

 野口、ウォルファー(Wolfer)、パサデナの犯罪学者ウィリアム・ハーパー(William Harper)の3人は、科学捜査や目撃者の証拠をもとに、RFKを殺した銃撃は至近距離からのものであり、ほぼ直接接触していたと結論づけた。[16] サーハンはそこまで接近したことはなく、少なくとも3フィートは離れていた。[17]

4.銃は2丁、狙撃者は2人

 サーハンの銃は、RFKを射殺した銃弾とは一致しなかった。銃器証拠の取り扱いを調査する大陪審での証言が予定されていた前日に暗殺されそうになったけれども、ウィリアム・ハーパー(William Harper)は、2丁の22口径銃が暗殺に関与していたと結論づけた。[18]

 銃撃開始時にRFKの近くに立っていた写真家のエヴァン・フリード(Evan Freed)は、サーハン以外の別の男(サーハンに似ていたが黒っぽい服を着ていた)がRFKに向かって最初の銃撃を行い、その後だれかが彼をつかまえようとして失敗し、彼は配膳室から逃げ出したと語っている。[19]
 
 同じ話を確認している目撃者も複数おり、新聞の下に銃を持った男と、水玉模様のドレスを着た女が配膳室から飛び出してくるのをしっかり見ている。[20]

 ロサンゼルスのテレビ局KNXTの記者ドナルド・シュルマン(Donald Schulman)は、RFK暗殺の数分後の放送で、サーハンが銃を発砲した後、シーザーと呼ばれる警備員が撃ち返しRFKを3度殴ったと報じた。

 また、シュルマンは、サーハンのものではない2丁の拳銃に気づき、どちらも発砲されていたと述べているが、これはロサンゼルス高等裁判所の公式審理で提出された証言や供述によって確認されている。[21]

5.カール・ユッカー(Karl Uecker)

 最も重要な目撃者の一人は、アンバサダー・ホテルの支配人カール・ユッカー(Karl Uecker)である。彼は銃撃戦の最中、最初にサーハンを捕まえて取り押さえようとした。彼は映画監督のテッド・チャラック(Ted Charach)に、サーハンが犯人であるはずがないと語っている。以下は彼の言葉:

 「RFK上院議員の背後からサーハンが発砲することなどありえません。絶対にありえません!彼の身体はRFKの頭から1インチも離れていなかったのです。上向きに撃ち返したのがサーハンの銃だったとはとても思えません。私はそれを見ていたのですよ。私は一番近くにいました。サーハンが後ろからRFK上院議員にあそこまで近づくためには、私を追い越さなければならなかったのでしょうが、その時点で彼は私を追い越してはいません。私はサーハンにしっかり抱きつき、彼を蒸気保温台に押し付けていました。その間RFK上院議員がよろめきながら後ずさりし、シュレードは先に床に崩れ落ちていました。ですから、これはフィッツ(Fitts)氏(後にレーガン知事によってカリフォルニア州の高等裁判所に昇進した検察官)が陪審員に語ったことと一致しません。」[22]


蝶ネクタイはカール・ユッカー。他の男たちと一緒にサーハン・サーハンを抑えつけている。[写真: rfktapes.com]

 またユッカーは、もうひとつの銃を振り回した警備員(シェーン・シーザー)を見たと言っている。彼の証言によれば、彼がサーハンを取り押さえたのは2発目が撃たれた後だ。4発目の後ではない。これは、第2の狙撃者の存在をさらに証明するものになるだろう。なぜならRFKが脇の下に3発、頭に2発撃たれ、6人の犠牲者から7発の弾丸が回収されたのだ。[23]

 調査官のリサ・ピース(Lisa Pease)は、「もし2発目の銃声の後にユッカーがサーハンを掴んでいたとしたら、JFKが近距離から4発撃たれたことが証明されているので、他の誰かがRFKを少なくとも2回は撃ったはずだ」と書いている。[24]

6.RFKが撃たれたのは一段高い場所から

 JFKは背中から撃たれただけでなく、誰かがJFKの頭上12~16インチの高さから、膝や体を蒸気保温台に乗せて撃っているのを見ている目撃者がいる。

 これは、ユッカーを含む4人の信頼できる目撃者が、床からをやや上向きの軌道で撃ったと特定しているサーハンではあり得ないことだ。サーハンはRFKより4インチ背が低いのでそれは理屈が通る。[25]

 さらにユッカーは、サーハンをヘッドロックで掴んだ後、テーブルの上に押し上げたことを明かした。サーハンは、それ以前はテーブルの上にはいなかったのだ。

 テレビ局プロデューサーで選挙運動の補佐官をしていた31歳のリチャード・ルービック(RichardLubic)は、「ケネディ、この野郎」という声を耳にした後、陸上競技場のスタートの合図のピストルのような音を2発聞いている。

 この2発の銃声は、小さなテーブルあるいはエアコンの吹き出し口に膝を乗せ、膝で体を持ち上げて高度を稼ぎながら撃っていた男からのものだった。彼は腕を出して撃っていた;サーハンは長袖を着ていた。[26]

「手品師の助手」としてサーハン

 目撃者の中には、サーハンがおもちゃのピストルを撃っていると思った人もいた。本物の暗殺者は、サーハンが最初の一発を撃ち、人々が彼に注目するのを待って、素早く仕事を片付けたようだ。

 サーハンの役割は、「手品師の助手」だった。彼は、心と目を欺くために意図された空砲を発射することで人々の気を逸らせた。[27]

 犯人が一段高い位置にいたことも計画の一部だったのだろう。危機的状況では、人は自分の上ではなく自分の周りを見ようとする本能が自然に働くものなのだ。

水玉模様のドレスを着た女性

 銃撃戦の後、パサデナ・シティ・カレッジ(Pasadena City College)に通う20歳の学生サンドラ・セラノ(Sandra Serrano)は、金色のセーターを着た20代の「ヒスパニック系っぽい」男性と、「スタイルが良くて」「鼻がおもしろい形をした」黒髪の白人女性が、黒の水玉模様の白いドレスを着ているのを目撃している。2人は廊下を非常口に向かって走っていた。

 セラノは、夜にサーハンと一緒にいる二人を目撃しており、ヴィンセント・ディ・ピエロ(Vincent Di Pierro)は、RFKが撃たれる直前に、サーハンと水玉模様のドレスを着た女が邪悪な笑みを浮かべているのを見たと語っている。

 その女は非常口に向かって走っているとき、笑いながらセラノに向かって言った。「私たちはあいつを撃ったの! あいつを撃ったのよ。」 驚いたセラノが「誰を撃ったんだ?」と聞くと、彼女は「ケネディ上院議員!」と答えた

 このやりとりを目撃したバーンスタイン(Bernstein)という老夫婦が、ロス市警のポール・シャラガ(Paul Sharaga)巡査部長にそのことを伝え、シャラガ部長はこの2人を広域手配した。

 しかし、その時点で警察無線が不通になった。シャラガによると不通状態は15分から20分ほど続いたという。[28]

 その後、ジョン・パワーズ(John Powers)警部補は、「これは連邦政府扱いの事件にはしたくない。容疑者はひとり拘留している」[29]と言って、その2人の容疑者の人物を特定する作業の中止を命じた。このコメントは、警察が事前に計画していた隠蔽工作を示唆している。

「ポチョムキン村*型犯罪」


ポチョムキン村*・・・主に政治的な文脈で使われる語で、貧しい実態や不利となる実態を訪問者の目から隠すために作られた、見せかけだけの施設などのことを指す。「見せかけだけのもの」とは、物理的に存在するものであることもあるし、あるいは資料や統計など比喩的なものであることもある。 (ウイキペディア) 
 2018年に出版された『The Assassination of Robert F. Kennedy: Crime, Conspiracy and Cover-Up-A New Investigation(RFKの暗殺:犯罪、陰謀、そして隠蔽—新たな考察』の著者であるティム・テイト(TimTate)とブラッド・ジョンソン(Brad Johnson)は、LAPD(ロス市警)について以下のように書いている:

 「(ロス警察は)ポチョムキン村[ソビエト組織の根底にある暴虐さを隠したソビエトのモデル村]を作りあげた。ハリウッドのセットのようなもので、証拠が見落とされ、破壊され、抑圧され、目撃者は無視され、脅されて口を閉ざされたという真実が、その表面的な見かけで隠されたのである。その後、ロサンゼルスの法執行機関は、自分たちの悪行と無能さを20年もの間、公式の秘密という、だれひとり入り込めない壁の後ろに隠して、ひどい話全体を封じ込めたのだ。」[30]

 警察の不正行為の一例:セイン・シーザーの22口径の銃の弾道検査を行い、その弾がケネディを殺した弾と一致するかどうかを確認しようともしなかった。

 さらに、a)サーハンの車には銃弾がこっそり置かれていた、b)犯行現場は適切なロープ張りがされていなかった、c)ホテルの従業員は犯行直後にキッチンの床に付着した血を拭き取ることを許可されていた、d)ロス市警はサーハンの裁判の前に犯行現場や捜査で撮影した2,400枚以上の写真を医療廃棄物焼却炉で焼却していた、などの事実があった。[31]

 この殺人事件を調査するために設置された市警の特別部隊、「RFK暗殺調査特別班(以下SUS)は、ロス市警歴22年のベテラン、マニュエル・ペナ(Manuel Pena)中尉が率いていたが、ペナ中尉は、ロス市警の歴史の中で最も多く11人を職務中に殺害したと言われている。[32]

 1967年11月、ペナはロサンゼルス市警を一時的に退職し、CIA工作員として知られるバイロン・エングル(Byron Engle)が率いるCIAの出先であるUSAID(米国国際開発庁)の南アメリカ公共安全局で働いた。[33]

 彼の同僚の一人であるダニエル・ミトリオネ(Daniel Mitrione)はインディアナ州の警察官で、米国で訓練を受けた警察官の間で拷問技術を推進したことへの報復として、ウルグアイの左翼ゲリラに誘拐され、殺された。[34]

 カリフォルニア州の首席副検事総長チャールズ・A・オブライエン(Charles A. O’Brien)はウィリアム・ターナー(William Turner)に、USAIDは内部では「不正工作部門」として知られている「CIAの超極秘部隊」として使われており、外国の諜報員に暗殺の技術を教えることに関わっていると語っている。[35]

 ペナは、RFK暗殺の捜査監督補佐として、CIAの同僚であるエンリケ・"ハンク"・ヘルナンデス(Sgt.Enrique”Hank”Hernadez)巡査部長を抜擢した。ヘルナンデスはポリグラフ(ウソ発見器)の専門家で、SUSでの実績が評価されて中尉に昇進した。

 ヘルナンデスはCIAの「統一警察司令部」という中南米諸国向けの訓練作戦で重要な役割を果たし、フィデル・カストロによるキューバ革命のベネズエラへの輸出を阻止した功績により、ベネズエラ政府から勲章を授与されていた。[36]


[資料元:survivorbb.rapeutation.com]

 ヘルナンデスとペナの指示のもと、SUSは作家のウィリアム・ターナー(William Turnaer)とジョン・クリスチャン(John Christian)が言うところの「一種のバミューダ・トライアングル*」となり、CIAやFBIの関与を示すものを含む、事件に関する報告書や主要な手がかりが消えてしまった」。[37]
バミューダ・トライアングル*・・・フロリダ半島の先端と、大西洋にあるプエルトリコ、バミューダ諸島を結んだ三角形の海域。古くより船や飛行機、もしくは、その乗務員のみが跡かたなく消える事故が多発。科学的に解明できないことで、オカルト、超常現象ネタとして扱われることが多かった。(ウィキペディア)

 SUSはある時点で、FBIに「暗殺関して陰謀的な側面を示唆するような記事を書こうとした場合」には報告するように要請した。[38]

 SUSは水玉模様のドレスを着た女性を尋問したが、テープは消去され、彼女を見た目撃者(
(特にサンドラ・セラーノ)は脅迫され、強要され、中傷された。[39]

 広域手配の措置を取ったロス市警のポール・シャラガが報告書を作成の準備をしても、SUSはそれを握りつぶしてしまい、二度と日の目を見ることはなかった。[40]

 さらにSUSは、野口検視官に偽証をさせようとした。

 それを拒否したため、SUSは彼の能力と人格にケチをつけ、野口を停職処分とした。彼が発見したことは二度と日の目を見なかった。[41]

 ニューオリンズの地方検事であるジム・ガリソン(Jim Garrison)が集めたJFK暗殺との関連を示す文書は、当然のことながら無視されたものの一つであった。[42]

 RFKとセサール・チャベス(Cesar Chavez)*を憎んでいたカリフォルニア州北部の町アーリマート(Earlimart)の豊かな綿花牧場主ロイ・ドナルド・マレー(Roy Donald Murray)が、1968年5月にラスベガスのマフィア仲間に暗殺資金として2,000ドルを約束したという話を地元の警察官に聞かれても、ロス市警は何の行動も起こさなかった。[43]
セサール・チャベス*・・・アメリカの労働組合幹部であり公民権活動家。ドロレス・ウエルタとともに、彼は全国農業労働者協会を共同設立し、後に農業労働者組織委員会と合併して、労働組合になった。イデオロギー的には、彼の世界観は左翼政治とローマカトリック社会教説を組み合わせたもの。( ウィキペディア)

 またFBIは、ジミー・ホッファ(Jimmy Hoffa)と一緒にルイスバーグ(Lewisburg)刑務所に服役しており、ホッファが囚人仲間にRFKを殺したと自慢していたと語っているエドワード・ヒュー・ポール(Edward Hugh Pole)の報告について追跡調査しなかった。RFKはホッファが服役している間、彼を刑務所に入れる立場にある司法長官だった。[44]

やらせ裁判

 リサ・ピースは、サーハンの裁判を 「やらせ裁判」と呼んだ。重要な目撃者は証言を求められず、弾道検査も依頼されず、ロス市警の話の矛盾や手抜き捜査は、サーハンの弁護団にも指摘されなかった。驚くべきことに、野口検視官の報告書には、2人の狙撃者の存在が詳細に記されており、サーハンが致命的な発砲をした可能性はないと明記されていたが、裁判では証拠として提出されず、サーハンの弁護士であるグラント・クーパー(Grant Cooper)が野口検視官の証言を遮った。

 クーパーはまた、ロサンゼルス市警の犯罪捜査官デウェイン・ウルファー(DeWayne Wolfer)の証言も遮った。彼は後の調査で彼の行動には過失があったと指摘された。そして壁の銃弾の穴を指し示す写真を撮られたが、今では本物ではないと語っている。[45]

 クーパーには、サーハンの裁判を通して重罪の起訴状がのしかかっていたが、死刑判決が下されるとそれは取り下げられた。[46]


グラント・クーパーと共同弁護士のエミール・ゾラ・バーマン(Emile Zola Berman)
[写真:outlet.historicimages.com]

 マーティン・ルーサー・キング家の弁護士を務めた後、2010年にサーハンの事件を引き継いだウィリアム・ペッパー(William Pepper)は、「この対立がクーパーの嘆かわしい裁判実績に影響を与えた、より正確に言えば、裁判実績を方向づけたことに合理的な疑いを持つことはできない」と述べている。[47]

秘密のチーム

 リサ・ピースは、2018年に出版した『A Lie Too Big to Fail(巨大なウソはウソでなくなる)』の中で、暗殺チームには、マイケル・ウェイン(Michael Wayne)という21歳の書店員と、水玉模様のドレスを着た少女が含まれており、チームのメンバーがホテル内のどこにでも行けるようにするプレスバッジを集めていたことがそれとなく書かれている。

 その後、ウェインは暗殺者(たち)が逃げる間の陽動作戦に貢献した。眉唾なのは、彼は以前ダイナマイトを盗んだ際に関わった右翼過激派のデュアン・ギルバート(Duane Gilbert)の名刺を持っていたことだ。

RFKとマイケル・ウェイン[写真:Source: twitter.com]

 一晩中、暗殺チームは無線で連絡を取り合い、チームごとにホテルの別の部屋でRFK暗殺の準備をしていたようだ。

 チームメンバーの一人が南西の非常階段を担当していたので、水玉模様のドレスを着た少女は、サーハンをホテルに忍ばせることができた。エビ茶色のコートを着た男が一晩中ドアの横に立って無線を持っていた。[48]

 水玉模様のドレスを着た女性が、殺し屋と一緒に逃げるときに「私たちが撃ったのよ」と叫んだのは、裏口にいる仲間に知らせようとしたのかもしれない。

CIA特殊作戦部隊の影

 この秘密チームは、高度に洗練された諜報活動の一環であり、大規模な救援チームを必要とし、ロサンゼルス市警、ロサンゼルス郡保安官事務所、地方検事局、州政府、メディア、連邦捜査局(FBI)への対応を必要としていたと思われる。

 この作戦にはさらに、サーハンの弁護団のコントロール、訓練された暗殺者へのアクセス、そして催眠術をかけやすい人間へのアクセスが必要であった。これを全部こなせるのはCIAだけ。[49]

 アイルランドの映像作家シェーン・オサリバン(Shane O’Sullivan)は、RFKが殺された夜にアンバサダー・ホテルで撮影された2人の男性を、同社の年次総会に参加していたアメリカの時計会社ブローバ・ウォッチ・カンパニー(Bulova Watch Company)のセールスマネージャーと断定した。オサリバンは、ブローバ社は「だれもが知るCIAの隠れ蓑」だと述べている。


 ケネディが殺された夜、アンバサダー・ホテルで撮影されたマイケル・ローマン(Michael Roman)とフランク・オーウェンズ(Frank Owens)。彼らは、CIAの出先機関と考えられていたブローバ・ウォッチ・カンパニーで働いていた。当初、この2人はCIA工作員のゴードン・キャンベル(Gordon Campbell)とジョージ・ジョアニデス(George Joannides)だと考えられていた。[写真:riversong.wordpress.com]。

 ハバナのアメリカ大使館で一緒に働いていたCIA工作員のブラッドリー・エアーズ(Bradley Ayers)と外交官のウェイン・スミス(Wayne Smith)は、RFK殺害の夜にアンバサダー・ホテルで撮影された写真の人物をCIAの暗殺者デビッド・サンチェス・モラレス(David Morales)だと証言したが、モラレスを知る他の人々はそれを否定した。[50]

 オサリバンは、モラレスの元弁護士ロバート・ウォルトン(Robert Walton)のインタビューを取り上げ、モラレスの「あのクソ野郎を捕まえた時はダラスにいて、あのチビ野郎を捕まえた時はロサンゼルスにいた」という言葉を引用している。[51]。

 また、水玉模様のドレスを着た謎の女性とCIAとの関連性も浮上してきた。目撃者によれば、彼女はカリフォルニア州レッドブラフ(Red Bluff)の高校を中退したパトリシア・エレイン・ニール(Patricia Elayn Neal)ではないかと考えられている。

 1973年、彼女はハリウッドのミュージカルスター、ローズマリー・クルーニー(Rosemary Clooney)やカントリー歌手のグレン・キャンベル(Glenn Campbell)、1950年代のロックスター、エディ・コクラン(Eddie Cochran)のマネージャーをしていた朝鮮戦争の退役軍人ジェリー・ケープハート(Jerry Capehart)と結婚した。ジェリーはエディ・コクランと共同で何曲かの有名な曲を書いている。


正体不明の水玉模様の女性[写真:pressreader.com]

 ケープハート(Capehart)の息子であるレイ(Ray)は研究者にケープハートはかつてCIAで働いていたことがあり、マインドコントロールの実験に関わっていたと話している。[52]
これは偶然ではない。サーハンはマインドコントロールの実験台にされ、暗殺計画に参加するようにプログラムされていたと思われる。

映画『影なき狙撃者』の現実版

 2010年、サーハンの代理人である弁護士は、カリフォルニア州中央地区連邦地方裁判所に、アンバサダー・ホテル配膳室での銃撃戦に「無意識的に参加した」とする申し立てを行った。その理由は、彼が「広範囲にわたる高度な催眠プログラムとマインドコントロールを受けて、映画『影なき狙撃者』の現実版ともいうべき暗殺ロボットになっていたから、というのが申し立て理由だ。

 この映画は、ジョン・フランケンハイマー(John Frankenheimer)監督が1962年に製作した映画で、朝鮮戦争中に監禁されたアメリカ人兵士がアメリカの大統領候補を暗殺するようにプログラムされているという内容のものである。[53]

映画『影なき狙撃者』[出典:: amazon.com]

 映画『影なき狙撃者』は、朝鮮戦争中に北朝鮮と中国がアメリカの捕虜を洗脳していたということを国民に確信させる補助手段としてのCIAの情報操作キャンペーンと完全に一致するものだ。

 国民の側にこんな確信が吹き込まれていたので、アーティチョーク(Artichoke)作戦、ブルーバード(Bluebird)作戦、そしてMK-ULTRA作戦の下で自白薬を開発し、洗脳技術を進歩させるCIAの取り組みに何の異論も出なかった。人々をプログラムする目的で催眠術師を雇うということについてもそうだ。[54]

 あるブルーバードのメモにはこう書かれていた。「催眠操作によって、個人の基本的なモラルに反する行動を作り出すことができるだろうか?被験者を確保し,催眠操作によって1時間か2時間の間に,飛行機を墜落させたり,列車を破壊させたりすることなどできるだろうか?人の人格を変えることができるだろうか?」[55]。

 それらの問に対する答えは「Yes」のようだ。
2008年5月、サーハンは、ハーバード大学医学部の心理学教授で催眠術の専門家であるダニエル・ブラウン(Daniel Brown)博士の診察を受け、催眠術によって人格が変化した証拠があることを明らかにした。

 ブラウンは、サーハンが特定の合図にロボットのように反応する人格状態に切り替わり、射撃場で銃を撃つような行動をとるのを観察した。この状態で、サーハンは実行制御能力を失い、完全な記憶喪失に陥っていることを示した。[56]

 暗殺後、ロス市警の警官たちは、サーハンの中に、自分が何をしたのか本当に分かっていないようないような不気味なほどの落ち着きを感じた。暗殺の際に彼を取り押さえた2人の男は、サーハンの目が穏やかに見えたという。ケネディ上院議員の殺害を計画していたかとNBCの記者に聞かれたサーハンは、次のように答えている。「頭の中だけで考えていただけです。私はやりました。でもその意識はありませんでした。」[57]。

 水玉模様のドレスを着た女性は、『影なき狙撃者を捜せ』のダイヤモンドのクイーンの役割を果たしていたのかもしれない。つまり、彼女はサーハンの催眠状態を引き起こすためにそこにいたのだ。[58]

 1969年、サーハンに関して広範囲にわたる研究をしたサン・クエンティン(San Quentin)州立刑務所の心理学者エドワード・シムソン・カラス(Eduard Simson-Kallas)博士は、暗殺に関連するアラブ・イスラエルの政治についてのサーハンのコメントを「同じことを何回も繰り返すよう」で「役を演じる俳優が台本を読んでいるように話している」と表現した。[59]

 シムソン=カラスは、サーハンはまさに『影なき狙撃者』であり、「誰かに仕込まれ、誰かに催眠術をかけられた」に違いないと思った。[60]

 RFKがイスラエルにジェット爆撃機を送ったことの記憶が全くないことをサーハンは吐露している。その事実を知ったのはその2日後、新聞記事を読んだ上でのことだった。[61]

 また、日記には資本主義を糾弾し、RFKを反動主義者と指摘する記述があったが、サーハンは左翼的な考えを持っていたわけではなく、政治に関心を持っていたわけでもなかった。

 パサディナ・シティ・カレッジ(PCC)でのサーハンの最も親しい友人であるウォルター・クロウ(Walter Crowe)は、かつて大学で民主社会のための学生(SDS)グループを結成しようとしていたが、サーハンは「無関心」で参加しようとしなかった。[62]

 催眠状態で書かれた彼の日記は、一見すると、RFK殺害だけでなく、左翼の評判を落とすことを目的とした陰謀計画が重要な部分を占めている。



サーハンの日記。彼にはこれを書いた記憶が全くない。さらに、書かれている
内容も彼の性格にはそぐわないように見える。[出典: rfktapes.com]

 暗殺事件の前、サーハンは落馬した後、3ヶ月間姿を消していた(彼はジョッキーになる希望を持っていた)。[63] 

 当時、彼は頻繁にコロナ(Corona)に足を運んでいたが、そこには巨大な海軍地上戦センターがあった。彼はアメリカ政府のために働いていた可能性がある。[64] 特殊任務の訓練をしていたコロナ警察の射撃場に、サーハンの名前があった。[65]

 ハーブ・エルフマン(Herb Elfman)は、サーハンが秘密の催眠グループに所属していることを警察に報告し、このグループのことを地元ラジオ局社員のスティーブ・アリソン(Stee Allison)に持ち込んでいる。スティーブはアメリカ催眠研究所のウィリアム・ジョセフ・ブライアント(William Joseph Bryant)博士(1924-1977)にインタビューするラジオ番組を担当した。

 ブライアントは、アメリカ空軍の全医療サバイバル訓練の主任や、朝鮮戦争時の韓国での洗脳課などを務めた催眠術師のパイオニアである。

 映画『影なき狙撃者』の相談役であり、CIAで長年催眠プログラムを担当していた。

 RFKが撃たれてから何時間も経たない内に、彼はロサンゼルスのラジオ局のリスナーに、容疑者は「おそらく後催眠暗示にかかって行動した」と語っている。[66]

 ブライアントとサーハンをつなぐ線があるとすれば、サーハンが日記の中で、ボストン絞殺魔、アルバート・デサルボ(Albert DeSalvo)について言及しているところだ。ブライアントはこの絞殺魔の研究をしていた。後になると、サーハンはデサルボについて書いた記憶が消え失せ、彼についての知識も全くないようだった。[67]

 研究者のジョン・クリスチャン(John Christian)は、2人の売春婦にインタビューをしている。彼女たちの言い分では、ブライアントがサーハンのプログラミングをしたと彼女たちに打ち明けたというのだ。[68]

 1977年3月、ブライアントは下院暗殺特別委員会に召喚された直後、ラスベガスのリビエラ・ホテルで死亡しているのが発見された。51歳。肥満であったことから自然死と言われた。検死は一切行われていない。[69]

CIAとマフィアの連絡係、ロバート・マヒュー(Robert Maheu)が黒幕だった?

 二人の異なる内部関係者が、作家のリサ・ピース(Lisa Pease)に、ロバート・マヒューが暗殺の首謀者であると語った。

 生涯、共和党員であったマヒューは、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の最高顧問であった。ジョニー・ロゼリ(Johnny Roselli)を通じてマフィアとの接点を持ち、CIAのために暗殺計画を実行していた。CIAの幹部がフィデル・カストロを殺害するためにマフィアを採用することを決めたとき、CIAはマヒューに頼った。[70]

 連続テレビドラマ「ミッション・インポッシブル」のモデルとなったロバート・マヒュー・アソシエイツ社は、CIAの裏活動を支える組織であり、CIA工作員は同社の従業員となって正体を隠した。

 さらにマヒューはロス市警や保安官に友人がいて、ロス市警と連携してCIAの作戦を実行していた。[71]

 彼は、マヒューが所有するベル・エア・パトロール(Bel Air Patrol)社で働くセイン・シーザーを知っていた。シーザーはCIAのデータベースにCIA契約エージェントとして登録されていた。

 1966年から1970年までハワード・ヒューズの最側近だったジョン・マイヤー(John Meier)は、1968年6月6日にラスベガスのデザート・イン・カントリークラブ(Desert Inn country Club)で、マヒューとリチャードの兄であるドン・ニクソン(Don Nixon)が会った時のことを語っている。

 マヒューは満面の笑みで、ドン・ニクソンも満面の笑みで入ってきた。ドン・ニクソンが「あの野郎、死んじまったな」と言うと、マヒューは「お前の弟が入ったみたいだな」と言った。[72]マヒューは、ドン・ニクソンを「副大統領さん」と呼ぶべきだと冗談を言った。

 この会話は、マヒューがRFK殺害の背後にいたことを証明するものではないが、明白な動機にはなる。かつての上司であるハワード・ヒューズと共有していた動機だ。

 ヒューズはRFK暗殺事件後、マヒューに「ケネディ家とその金の影響力は、私がビジネス活動を始めた当初から、私の腹に容赦なく突き刺さっていた棘だった...私はちょこまか動くのは嫌いだが、しかしこれは一生に二度あるかどうかという機会だ。私は大統領になることは目指しているわけはない[ママ]が、政治的な力は欲しいと思っている。......そして、私たちが必要としている人材が、まさに私たちの手の中に落ちてきているように思えるのだ。」[73]

イラン国王シャーの秘密警察SAVAKの犯行?

 作家のロバート・モロー(Robert Morrow)は、1988年の著書『The Senator Must Die』の中で、示唆しているのは、次の点だ。RFKの暗殺者はアリ・アーマンド(Ali Ahmand)という偽名を使って、イランのシャーの体制下でイランの諜報機関で仕事をしており、この暗殺事件の要員としてサーハンを採用している、ということだ。[74]

 モローによれば、CIAの後ろ盾のクーデターでイラン国王になったシャーがケネディ一家を敵視し始めたのは、上院議員だったジョン・F・ケネディが、米国国際開発庁(USAID)の資金を不正に使用していたことを突き止め、上院議場でシャーを攻撃したためだ。

 RFKはその後、世界各地への親善旅行でイランを迂回してシャーをいなし、RFKは大統領に選出された後はすべての援助を打ち切ると脅した。その後、父親のジョセフ(Joseph)が仲裁に入ったのだった。[75]

 JFKが暗殺されたとき、シャーは内々喜んでいた。1968年の選挙では、ニクソンを支援するために数百万ドルを投じた。[76]

 シャーと米国マフィアとの連絡係だったアレックス・グダリ(Alex Goodaryi)は、「マフィアは、ニクソンが大統領になれば、シャーは最終的に石油価格を上げ、アメリカの支援を受けて中東全体を支配する立場になる、とも。しかし、RFKが勝利すれば、シャーは今後のアメリカの援助や軍事支援から完全に孤立し、世界的な非難を受けることになるだろう」と述べている。[77]

 モローの仮説によれば、シャーはCIAが作ったシャーの秘密警察SAVAKのトップであるマンスール・ラフィザデ(Mansur Rafizadeh)大佐にRFKの抹殺を命じ、ラフィザデはサーハンともう一人の主犯格であるカリド・イクバル(Khalid Iqbal)ことアリ・アーマンド(Ali Ahmand)をリクルートした、という。[78]

 アンバサダー・ホテルでの写真には、RFKの大統領選キャンペーンを担当していたカリフォルニア州議会議長のジェシー・アンルー(Jesse Unruh)の隣に、黄色いセーターを着てカメラを首からぶら下げたイクバルが写っていた。

 モローの考えではこうだ。①カメラは偽装された銃であり、②サーハンがその場にいたのは、イクバルの暗殺実行と、暗殺実行後、共犯者である水玉模様のドレスを着た女性と一緒に逃亡させることを可能にするための陽動作戦だった。[79]

 サーハンはRFKに向かって2発撃ったが、体当たりされ周囲の注意が彼に集まった。そのためイクバルに実行に必要な空間的余地が生じ、彼は殺傷用のカメラをケネディの耳の後ろに素早く引き当て、彼の耳の後ろに4発撃った。

 その場にいた男たちがサーハンの上にのしかかり、大混乱状態となった。その後、イクバルは共犯者に合図をして、人ごみをかき分けて廊下を通って出口にたどり着き、黒光りする車に飛び乗ってウィルシャー(Wilshire)大通りを走ってホテルから離れた。[80]

 イクバルの記述は、水玉模様のドレスを着た少女に同行していた男性の目撃証言と一致しているが、モロー説の証拠は裏付けが取れていない。イクバルは、本名をカリド・イクバル・ケワー(Khalid Iqbal Khewar)といい、モローの証言を掲載したボストン・グローブ紙を名誉毀損で訴え、勝訴して120万ドルの損害賠償を得ている。[81]

アラード・ローウェンスタイン

 アラード・K・ローウェンスタインは、全米学生協会(NSA)の元理事で、1969年から1971年までニューヨーク州ナッソー郡の民主党下院議員であり、ジョンソンがベトナム戦争を支持していたことから「ジョンソンを首にしろ!(Dump Johnson)」運動を主導していた人物である。[82]

 RFKの死に憤慨した彼は、RFKが背後から至近距離から発射された銃弾に撃たれたことを明記した野口氏の検死報告書を再調査することができた。ローエンスタインはまた、裁判記録を精査し、RFKの背後から数センチのところにサーハンの銃があったとする証言を探したが、そんな証言はひとつもなかった。

 その後、ローウェンスタインは、さらに念を入れて、サーハンがRFKから数インチではなく数フィート離れていたことや、2発撃った後にサーハンが取り押さえられていたことなどを指摘した複数の目撃者にインタビューを行った。その結果、彼らの話は以前の証言と一致していた。

 ローウェンシュタインの問い合わせに対するロサンゼルス市警からの公式な回答は、ガードを固めたのらりくらりしたものだった。事実とは正反対の情報を伝えるプロパガンダキャンペーンが行われていることに彼は気づいた。

 1980年3月、ローウェンスタインはオフィスで、かつての弟子デニス・スウィーニー(Dennis Sweeney)に射殺された。スウィーニーは、いろいろ正気とも思えない供述をしているが、「CIAの送信機から送られてくるメッセージを自分の頭の中で受信した」という供述もある。スウィーニーがローエンスタインを撃った後、スウィーニーは冷静にローエンスタインのオフィスで逮捕されるのを待っていた。逮捕されたスウィーニーは、精神異常者とみなされ、精神病院に収容されることになった。

 ローウェンスタインは、狙撃された時点で、ジミー・カーター大統領から「その年の11月にカーターが2期目の大統領に再選されたら、サーハン事件の捜査を再開する」という約束を取り付けられる寸前だった。しかし、作家のロバート・ヴォーン(Robert Vaughn)はこんなことを言っている:
「ローエンスタインは死んだ。そしてカーターはレーガンに敗れ、RFK殺人事件に対する公式の沈黙のベールは手付かずのままになっている。」[83]

カマラ・ハリス(Kamala Harris)と政府隠蔽工作の継続

 2012年、カリフォルニア州の司法長官を務めていたカマラ・ハリス(現副大統領)は、サーハンの再審請求を却下した。

 彼女は、「陽動作戦として銃を撃つように催眠術をかけられていた」というサーハンの主張を覆す「圧倒的な証拠」が存在すると主張した。

ハリスが連邦裁判所で述べたこと

「(サーハンが)どう考えても明確にできないのは、陪審員に理性があって、彼に関する「新しい」証拠や主張をしっかり考慮すれば、彼を有罪にすることはできなかっただろう、という点だ。有罪判決を裏付ける圧倒的な証拠あるし、サーハンの第2の狙撃者説やオートマトン(心理的な操り人形)説を完全に否定する証拠も揃っている。」

 実際には、拙論で紹介したように、サーハンの「第2の狙撃者」説を裏付ける圧倒的な証拠がある。きちんとした根拠があるのだ。

 その証拠は、目撃者の証言から、検死報告書、さらにはサーハンの銃に込められた弾丸の数よりも多くの弾丸が発射されたという事実まで多岐にわたる。

 また、オートマトン理論については、さらなる調査を必要とする状況証拠がある。

もしRFKが生きていたら…


 ハリスの姿勢は、RFK暗殺の真実を隠蔽し、暗殺に連座した権力者たちを守るための、政府当局による50年以上にわたる取り組みの一環である。
もしRFKが生きていたならば、アメリカの歴史は今とは異なる展開をしただろう。

 ひとつには、民主党を分裂させ破壊したヒューバート・ハンフリー(Hubert Humphrey)指名後の党大会外での大暴動は絶対起こらなかったであろうということである。[84]



 もしRFKが暗殺されなかったなら、シカゴにおける民主党大会会場の外で発生した抗議行動
もそれに対する残虐な弾圧も絶対に起こらなかっただろう。もしケネディが生きていたら、ニクソンの代表的な政策である「麻薬戦争」は宣言されず、アメリカが現在のような警察国家に発展することはなかったかもしれない。[出典:youtube.com].


 RFKは、1960年に兄JFKがニクソンを破ったのと同じように、大統領としてベトナム戦争を終結させ、貧困との戦いを拡大し、麻薬との戦いを停止させたかもしれない。

 もしケネディが生きていたら、ニクソンの代表的な政策である「麻薬戦争」は宣言されず
アメリカが現在のような警察国家に発展することはなかったかもしれない。[出典:youtube.com].

 「民主社会をめざす学生」(SDS)は、ニクソン流の弾圧で崩壊するのではなく、民主党内で影響力のある左派系の幹部会や、カナダの新民主党(NDP)に相当する新しい社会民主主義政党に発展していたかもしれない。

 これは、アメリカの保守派と「影の国家」の腐敗分子にとって悪夢のようなシナリオだった。彼らはRFK暗殺を実行することで、彼と彼の支持者が掲げていた「より良いアメリカ」への希望を破壊したのだ。

Notes
1. See Larry Tye, Bobby Kennedy: The Making of a Liberal Icon (New York: Random House, 2017); Lester David and Irene David, Bobby Kennedy: The Making of a Folk Hero (New York: Dodd, Mead & Co., 1986); Edward R. Schmitt, President of the Other America: Robert Kennedy and the Politics of Poverty (Amherst, MA: University of Massachusetts Press, 2011). Kennedy to be sure had some neoliberal views, suggesting not long before his death that welfare had “destroyed self-respect and encouraged family disintegration.”
2. David and David, Bobby Kennedy, 4.
3. Lisa Pease, A Lie Too Big to Fail: The Real History of the Assassination of Robert F. Kennedy (Los Angeles: Feral House, 2018).
4. Tim Tate and Brad Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy: Crime, Conspiracy and Cover-Up—A New Investigation (London: Thistle Books, 2018) ,101; Mel Ayton, The Forgotten Terrorist: Sirhan Sirhan and the Assassination of Robert F. Kennedy(Washington, D.C.: Potomac Books, 2007), 49-73.
5. Compton served as an LAPD detective in the 1950s and was connected to the LAPD’s red squad. See Tom O’Neill, with Dan Piepenberg, Chaos: Charles Manson, the CIA, and the Secret History of the Sixties (Boston: Little, Brown and Company, 2019), 233.
6. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 230.
7. William Turner and Jonn Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy: The Conspiracy and Coverup (New York: Carroll & Graf, 1993), 167, 168.
8. Cesar stated that he “never would have voted for Bobby Kennedy because he had the same ideas as John did, and I think John sold the country down the road. He gave it away to the commies … he literally gave it to the minority.” Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 231. In the 1980s, Cesar supported Ronald Reagan.
9. Pease, A Lie Too Big to Fail. According to researcher Alex Botus, Cesar was connected to the California mobster John Alessio. Robert Melanson, Who Killed Robert Kennedy?(Berkeley, CA: Odonian Press, 1993), 42. Cesar told journalist Dan Moldea about diamond purchases he had made for the Chicago mob between 1968 and 1974.
10. Robert Maheu and Richard Hack, Next to Hughes: Behind the Power and Tragic Downfall of Howard Hughes by His Closest Advisor (New York: HarperCollins, 1992).
11. Pease, A Lie Too Big to Fail, 483.
12. Chris Spargo, “Robert F Kennedy was assassinated by Thane Eugene Cesar, declares RFK Jr, who says it was the security guard who fatally shot his father from behind after planning the murder with Sirhan Sirhan,” Daily Mail, September 12, 2019, https://www.dailymail.co.uk/news/article-7456521/Robert-F-Kennedy-assassinated-Thane-Eugene-Cesar-Sirhan-Sirhan-says-RFK-Jr.html
13. Pease, A Lie Too Big to Fail, 256; Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 138; Mikko Alanne, “Why the RFK Assassination Case Must Be Reopened,” The Huffington Post, April 4, 2012, https://www.huffpost.com/entry/rfk-sirhan_b_1251410. Pease suggested that the number of bullets could be as high as 17.
14. Melanson, The Robert F. Kennedy Assassination, 41. Two ceiling tiles were allegedly removed, including several outside of Sirhan’s range of fire.
15. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 191, 195, 196. Nina Rhodes-Hughes, a Kennedy fundraiser, stated that she www.huffpost.com" >heard 12-14 shots fired, though the FBI quoted her falsely as having heard eight shots, which she explicitly denied is what she told them. Some claim the sound of shots in Pruszynski’s audio tape may have been sounds of people fumbling or microphones bumping into things. Ayton, The Forgotten Terrorist, 133,
16. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 86, 87; Philip Melanson, The Robert F. Kennedy Assassination: New Revelations on the Conspiracy and Cover-Up, 1968-1991 (New York: Shapolsky, 1991), 34, 35.
17. Pease, A Lie Too Big to Fail, 183. Wolfer interestingly later became president of Ace Security Services, the same company which Thane Cesar had worked for on the night of RFK’s assassination.
18. Pease, A Lie Too Big to Fail; Lisa Pease, “Sirhan Says ‘I Am Innocent,’” in The Assassinations: Probe Magazine on JFK, MLK, RFK, and Malcolm X, James DiEugenio and Lisa Pease, eds. (Los Angeles: Feral House, 2003), 532; Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, 158.
19. William Klaber and Philip H. Melanson, Shadow Play: The Unsolved Murder of Robert F. Kennedy (New York: St. Martin’s Griffin, 2018) 106, 107. Freed related that he was contacted by the FBI afterwards but that they “seemed to be avoiding asking me questions about the 2nd gunman.” According to most witnesses, the second shooter was taller than Sirhan,
20. Klaber and Melanson, Shadow Play, 108, 109; Robert Blair Kaiser, “R.F.K. Must Die!”: Chasing the Mystery of the Robert Kennedy Assassination, rev ed. (Woodstock, NY: The Overlook Press, 2008), 73.
21. Pease, A Lie Too Big to Fail; Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, xxiv, 161, 165; Klaber and Melanson, Shadow Play, 98. Schulman specified that the security guard behind Kennedy had fired his gun. He said Kennedy had been shot three times, but the FBI insisted to him that he had been shot twice which was wrong. Curiously, there is no record of him having been interviewed by the LAPD.
22. Pease, A Lie Too Big to Fail, 213.
23. Pease, A Lie Too Big to Fail, 213. [NOTE: Should 23, 24 and 25 be “Idem.”? They are identical to note 22.]
24. Pease, A Lie Too Big to Fail, 213.
25. Pease, A Lie Too Big to Fail, 213.
26. Pease, A Lie Too Big to Fail, 280.
27. Pease, A Lie Too Big to Fail.
28. Robert D. Morrow, The Senator Must Die (Santa Monica, CA: Roundtable Publishing, 1988), 203, 204, 211; Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 248, 249, 250; Melanson, The Robert F. Kennedy Assassination, 183, 244. Strangely, the LAPD’s log omits reference to the girl in the polka-dot dress. One witness, Earnest Ruiz, thought he saw the man later come back into the pantry as Sirhan was being removed and was the first to yell “let’s kill the bastard.” An alternative scenario with the woman in the polka-dotted dress is presented in Ayton, The Forgotten Terrorist, 154.
29. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 211. For a reporter’s auest for the truth about the woman in the polka-dot dress, see Fernando Faura, The Polka Dot File on the Robert F. Kennedy Killing: The Paris Peace Talks Connection (Walterville, OR: Trine Day, 2016).
30. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 360.
31. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 360; Ayton, The Forgotten Terrorist, 142; The Assassinations, Pease and Di Eugenio, eds., 533. The LAPD also “lost” the records from Sirhan’s blood test and destroyed the doorframes from the crime scene that possessed the bullets.
32. Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, 64. LAPD chief of detectives Robert Houghton, in his book Special Unit Senator: The Investigation of the Assassination of Senator Robert F. Kennedy (New York: Random House, 1970), boasted that Pena had commanded detective divisions, supervised a bank robbery squad, spoke French and Spanish and had connections with various intelligence agencies in several countries.
33. On the OPS, see Jeremy Kuzmarov, Modernizing Repression: Police Training and Nation Building in the American Century (Amherst, MA: University of Massachusetts Press, 2012).
34. See A.J. Langguth, Hidden Terrors: The Truth about U.S. Police Operations in Latin America (New York: Pantheon, 1979). Mitrione’s motto was “the right pain, in the right place, at the right time.”
35. Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, 65. FBI agent Roger LaJeunesse claimed that Pena had been carrying out CIA special assignments for at least ten years. This was confirmed by Pena’s brother, a high school teacher, who told television journalist Stan Bohrman a similar story about his CIA activities.
36. Morrow, The Senator Must Die, 210. Hernandez had claimed to have administered a polygraph test to Venezuelan dictator Marco Jimenez who was replaced by CIA favorite Romulo Betancourt. Hernandez died in 1972 at age 40. At the time of his death, he had begun to express doubt about the Sirhan lone gunman theory.
37. Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, xxiii.
38. Melanson, The Robert F. Kennedy Assassination, 134, 135.
39. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 276; Morrow, The Senator Must Die, 213; Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, xxiv.
40. Morrow, The Senator Must Die, 212. Scharaga subsequently was forced to leave the LAPD.
41. Morrow, The Senator Must Die, 223. Thomas Noguchi, Coroner (New York: Simon & Schuster, 1983).
42. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 211, 212, 213. The Garrison documents included one obtained from a raid on the right-wing National States Rights Party which had the initials of three people to be eliminated: JFK, MLK, RFK.
43. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 214, 216, 216, 217.
44. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 221, 222.
45. Klaber and Melanson, Shadow Play, 91, 92, 93.
46. Klaber and Melanson, Shadow Play, 38, 235. Cooper’s strategy in the trial had been to try to avoid the death penalty by pursuing an insanity defense. Cooper stunningly admitted to onetime New York Congressman Allard Lowenstein that, “had he known during the trial” what he had since learned, “he would have conducted a different defense.” The felony was for possessing stolen transcripts of the grand jury proceedings in the Beverly Hills Friar’s Club card cheating case in which was one of the defendants.
47. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 346. Famed forensic pathologist Cyril Wecht stated that “any first-year law student would have done a better job than Sirhan’s counsel [Cooper].”
48. Pease, A Lie Too Big to Fail; The Assassinations, Pease and Di Eugenio, eds., 599.
49. Pease, A Lie Too Big to Fail, 487. Researcher Philip Melanson identified the LAPD as one of the police forces that indeed maintained a clandestine relationship with the CIA. Melanson, The Robert F. Kennedy Assassination. Prosecutor Lynn “Buck” Compton and District Attorney Evelle Younger both had verifiable intelligence ties. So did Jolyon West, a CIA-affiliated psychiatrist who examined Sirhan and proclaimed that Sirhan was the “lone assassin.”
50. Manny Chavez, a former U.S. Air Force Intelligence officer who served in Venezuela as a military attaché in 1957-59 while David Morales was assigned to the CIA Station there for a year, said that, after careful study, he was convinced that the person in the photo was not Morales as he knew him up until 1963. Ayton, The Forgotten Terrorist, 169.
51. Smith said that, if Morales was there the night Kennedy was killed, he had to have something to do with it. Morales died of a “heart attack” before he was slated to testify before the House Select Committee on Assassinations in 1978. After Morales fell ill, it took the medics five hours to get him to a hospital and did not provide him any oxygen. His friend Ruben Carbajal told filmmaker Shane O’Sullivan that “the people who killed Morales were the same people he had worked for—the CIA—he knew too much.”Carbajal, however, does not believe that the man identified by Ayers and Smith as Morales was in fact Morales.
52. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 286, 287, 288, 291, 292. Neal died in February 2012 at age 63 from cirrhosis due to her alcoholism. She had dropped out of high school after becoming pregnant and marrying the father, her first husband, who was then shipped off to Vietnam, and may have worked at one time as a prostitute. She moved to Missouri with Capehart after their marriage in 1973 and divorced him after 11 years. Neal’s kids remembered that their mother had been haunted by something in her past and expressed fears about being followed. She maintained an obsession with a polka-dotted dress she kept stored away in her home. Capehart once told the kids that she was the famous girl in the polka-dotted dress, though expressed anger when she put the dress on and was going to wear it in public at a church service. Journalist Fernando Faura interviewed John Fahey, a salesman for the Cal Tech Chemical Company who met the girl in the polka-dot dress at the Ambassador Hotel the morning of RFK’s assassination and spent the day with her driving up the California Coast. Fahey said that she was nervous on that day but did not specify why, and suggested she was looking to escape to Australia and might be able to get safe passage out of the U.S. on a CAT or Flying Tiger airline, which was a CIA propriety. Faura, The Polka Dot Files on the Robert F. Kennedy Killing.
53. Frankenheimer ironically drove Robert Kennedy to the Ambassador Hotel on the night of his death in his Rolls-Royce after Kennedy stayed at his Malibu mansion.
54. See Jonathan Marks, The Search for the Manchurian Candidate: The CIA and Mind Control, rev ed. (New York: W.W. Norton, 1991).
55. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 303.
56. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 235, 324.
57. Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, 194; The Assassinations, Pease and Di Eugenio, eds., 533. Two waiters observed Sirhan smiling. Earlier in the evening, a witness observed Sirhan staring at a teletype machine, as though transfixed.
58. Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, xxix.
59. Melanson, Who Killed Robert Kennedy? 65.
60. Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, 199.
61. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 334. All the other candidates in the 1968 election supported military aid to Israel, marking Sirhan’s motive as generally suspect.
62. Melanson, Who Killed Robert Kennedy? 65.
63. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 330, 331.
64. Pease, A Lie Too Big to Fail, 409.
65. Ibid. Some researchers suspect that Sirhan was hypnotized at the Santa Anita racetrack where he worked as a jockey. Sirhan worked there with Thomas Bremer, whose brother Arthur shot presidential candidate George C. Wallace in 1972 in an attempted assassination that also benefited Richard M. Nixon’s election chances.
66. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 331; Melanson, The Robert F. Kennedy Assassination, 202.
67. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 332.
68. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 334.
69. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 334; Philip Melanson, The Robert Kennedy Assassination: New Revelations on the Conspiracy and Cover-Up, 1968-1991 (New York: Shapolsky, 1991).
70. Maheu, Next to Hughes, 108-34.
71. Pease, A Lie Too Big to Fail. One of these operations was the manufacture of a pornographic film allegedly showing Indonesia’s socialist leader Sukarno in a compromising position with a female Russian agent. On Maheu’s CIA ties, see also Bayard Stockton. Flawed Patriot: The Rise and Fall of CIA Legend Bill Harvey, (Virginia: Potomac Books, 2006), 17
72. Pease, A Lie Too Big to Fail, 493.
73. Maheu, Next to Hughes, 206-207. After Kennedy’s death, Maheu assisted Hughes in giving Hubert Humphrey a donation of $50,000.
74. Morrow, The Senator Must Die. [NOTE: Should there be page numbers here?]
75. Morrow, The Senator Must Die, 176, 177.
76. Morrow, The Senator Must Die, 178.
77. Morrow, The Senator Must Die, 178.
78. Morrow, The Senator Must Die, 178.
79. Morrow, The Senator Must Die, 186.
80. Sirhan expected to be arrested but accepted the reward of a sizeable check deposited into his bank account. He believed that he would be regarded as a hero in Jordan and the Arab World.
81. Ayton, The Forgotten Terrorist, 159, 160.
82. David and David, Bobby Kennedy, 280.
83. Robert Vaughn, A Fortunate Life (New York: St. Martin’s Press, 2008), 258.
84. Chicago Mayor Richard Daley, who spearheaded the repression of the protests, supported Kennedy.
Featured image: [Source: washingtonpost.com; collage courtesy of Steve Brown]
The original source of this article is CovertAction

米国ジャーナリズムが「闇の政府」の代弁人になった経緯


<記事原文 寺島先生推薦>

How American Journalism Became a Mouthpiece of the Deep State

The intelligence community uses the media to manipulate the American people and pressure elected politicians.

諜報社会がメディアを活用するのはアメリカ国民を操作し、政治家に圧力を加えるのが目的

グローバル・リサーチ

2021年5月25日

ピーター・ヴァン・ビューレン(Peter Van Buren)

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>

2021年7月12日


 ワシントンで最も簡単な仕事はCIAスポークスマンの仕事だと記者たちは冗談を言う。質問に注意深く耳を傾け、口に出す言葉は「ノーコメント」。後は勤務終了後の一杯へ一直線でいいのだから。しかし、この冗談は私たち記者にも当てはまる。記者たちはCIAの一面、つまり消極的な情報隠しだけを見ている風だ。そんな素振りをしながら、アメリカにおけるいろいろな出来事に影響を与えるための能動的な情報操作という、もう一方の動きから利益を得ているのだ。時は2021年、CIAはアメリカ国民に対してある作戦を展開している。

  かつてCIA長官だったレオン・パネッタは、ある国に選挙があると、それ以前に国外のメディアへの影響力を行使し、CIAは「その国の人々の態度を変え」ようとするのだ、とあっけらかんと言ってのけた。その方法とは、「特定のメッセージを伝えるために利用できそうな国や地域のメディアを獲得したり、メディアを所有している人々に影響を与えたりして、そのメッセージを伝えるために協力してもらう」というものだった。CIAは第二次世界大戦後、外国の選挙に影響を与えるための作戦を継続的に行ってきた。

 その目的は、情報を操作して影響力行使の道具にすることだ。時には、自分でメディアを操作するという非常に直接的な方法で操作することもある。この方法の問題点は、そのやり口が簡単に暴露され、信頼性を失うことだ。

 より効果的な戦略は、合法的なメディアの情報源となり、その(偽)情報を彼らが得ている信頼性の上にうまく乗せることだ。最も効果的なのは、1人のCIA工作員が最初の情報源となり、2人目のCIA工作員が一見独立した情報源としてそれを確認するように振る舞うことだ。主要メディアに情報を流し、主要メディアは「独立して」、時には2人目のCIA工作員が動いていることも知らず、その情報を確認することができるということになる。(これで)翌日の見出しの基本的な線は決まる。

 他にも、信憑性を確立するために偽情報を混ぜた真の情報を独占的に提供したり、大使館のスポークスマンのような公式ソースを使って本筋とは関係ない内容を「うっかり」認めたり、真相を語る言説の信頼を貶めることができる学者や専門家を後押しするためにその研究や副業に秘密裏に資金を提供したりといった手法がある。

 第二次世界大戦末期から1976年のチャーチ委員会*まで、これらはすべて陰謀論として片付けられていた。もちろん、(本来の)アメリカであればCIAを使って、特に同胞民主主義国の選挙に影響を与えるようなことはしないのだろう。しかし、実際はそうではなかった。諜報活動に関するリアルタイムの報道は、本来限られた情報に基づいて行われる。ただし、確立された諜報の手口ではあっても、その曖昧な痕跡は残ってしまうものだ。常に時の流れに委ねるしかなく、うまくゆけば、真相の説明につながることもある。

チャーチ委員会*…正式名称はthe United States Senate Select Committee to Study Governmental Operations with Respect to Intelligence Activities。1975年に設置された上院特別委員会。CIA、NSA、FBI、IRSなどの権限逸脱行為を調査した。1976年に最終報告書が出された。(ウィキペディア)

 モッキングバード作戦により、CIAは400人以上のアメリカ人ジャーナリストを直接のスパイとして使った。自分の仕事について公に語ったことのある人はほとんどいない。ジャーナリストたちは、アメリカの主要な報道機関の同意を得て、CIAのためにこれらの仕事を行った。ニューヨークタイムズだけ見ても、何十年もの間10人のCIA幹部を喜んで社内に迎え入れ、そのことを黙っていた。

 長期的な関係は強力な方策であり、特ダネを若い記者に提供し、出世させることは想定内のことだ。ウォーターゲート事件を引き起こした匿名の情報源は、FBIの職員であり、彼の行動によって新人記者のウッドワード(Woodward)とバーンスタイン(Bernstein)のキャリアが築きあげられたことを忘れてはならない。バーンスタインはその後ロシアゲート事件が存在することを主張する側の発言を行った。ウッドワードはワシントンの聖人伝記者となった。元AP通信で、現在はNBCに勤務するケン・ディラニアン(Ken Dilanian)は、今でもCIAと「協力関係」を保っている

 こんな風に諜報活動は行われる。アメリカにとっての問題は、国外で使われた戦争の道具が再び国内に戻ってきたことだ。9月11日以降、NSA(国家安全保障局)がそのアンテナを内側に向けたのと全く同じように。情報機関は現在、既存のメディアを使ってアメリカ国民に対して作戦行動を行っている。

 中には、これ以上ないほど明白なものもある。CIAは常に海外でネタを仕込み、アメリカの報道機関取り上げてもらっていた。2003年のイラク戦争に向けて、世論に影響を与えるためにCIAはジャーナリストたちに嘘をついた。CIAはハリウッドと直接連携して、自分たちを題材にした映画を自分たちの意に沿うように創らせている。

 どのアドボカシー系メディア(訳注:ある立場や意見を特に推奨するメディア)を見ても、元CIA職員の人物一覧が出てくる。だが、ジョン・ブレナン元長官ほど悪質な人物はいない。彼は、在任中に集めた情報からすべてが嘘であることを知りながら、在任中何年もロシアゲート事件を喧伝していた。ブレナンはおそらく、2017年1月に、トランプがロシアと癒着しているという根本的な嘘を報道機関にリークし、現在も行われている情報操作の手始めとしたのだろう。

 ブレナンの役割は推測の域に止まらない。情報機関に対する現在進行中の「いかにして起こったか」というロシアゲート事件の調査を指揮する米国弁護士のジョン・ダーラム(John Durham)は、ブレナンの電子メールと通話記録をCIAに要求している。ダーラムは、ブレナンが公の場でのコメント(宣誓していない:何でも言える)と、2017年5月の議会での書類に関する証言(宣誓している:偽証にならないように注意する)の間で、話を変えたかどうかも調べている。記者のアーロン・メイト(Aaron Mate)はあまり歯に衣を着せることなく、ブレナンが 「陰謀論の初期からの中心的な設計者であり推進者であった」という証拠を並べている。ランド・ポール(Rand Paul)上院議員は、ブレナンが「現職の大統領を倒そうとした」と名前を挙げて非難している。

 これがどのように作用したかということは、情報作戦と秘密作戦がどのように絡み合っているかを知る手掛かりになる。司法省のマイケル・ホロウィッツ(Michael Horowitz)監察官の報告書によると、FBIは情報作戦の主要文書であるスティール文書を口実に使い、全面的なスパイ活動を展開した。スティール文書の作成者である元英国諜報員のクリストファー・スティール(Christopher Steele)は、教科書的な情報の輪を作り上げて自分の仕事を公表し、密かに自ら自分自身を裏付ける情報源としていたのだ。

  ホロウィッツ報告書を読むと、それが5Eyes(訳注:英、米、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドを構成国とする諜報活動の連合組織)がチームとして動いた結果だったということもわかる。オーストラリアの外交官アレクサンダー・ダウナー(Alexander Downer)は、自国の情報機関とのつながりがあり、トランプ大統領のスタッフであるジョージ・パパドプロス(George Papadopoulos)との面談を手配し、FISA(Foreign Intelligence Surveillance Act外国諜報活動偵察法)による監視を開始した。イギリスのGCHQ(政府通信本部)は、トランプの関係者を監視し、NSAに情報を伝えた。また、この作戦ではCIAの直属スパイでありながら、正体のはっきりしない学者ステファン・ハルパー(Stefan Halper)とジョセフ・ミフスード(Joseph Mifsud)を餌として使った。さらに、イスラエルが手配したトランプのスタッフとの社交場に、FBIの女性潜入捜査官を送り込むというハニートラップもあった。 

 すべては偽情報に基づいており、アメリカのマスコミはその情報をすべて飲み込み、多くの国民に、アメリカはロシアのスパイによって運営されていると偽って信じ込ませた。ロバート・ミューラー(Robert Mueller)の調査も、このような一切何もないところから弾劾へ導くはずだった。彼はアメリカ人がもう二度と目にすることのない最後の政治的勇気を振り絞って、実質的にクーデターになる寸前まで歩みを進めた。しかし、最後の一線を越えることはなかった。

 CIAは学習する機関であり、ロシアゲート(の失敗)からもうまく持ち直した。詳細は(いつでも)調査することは可能だ。それで「ロシアゲート」の昔話は崩れ去ってしまう。スティール文書は真実ではなかったのだ。しかし、「なるほど!」と思える発見は、「誰一人正式に起訴されることはないのだから、ただ告発を投げかければいいところで、わざわざ証拠を用意する必要はない」ということだ。新しいパラダイムでは、情報機関の勇敢な若者たちが情報源だという本質を利用して、告発を正当化させた。さらに、すべて隠し立てするな!進歩的なヒーローとしてのCIAの予想外の威信を物事の裏付けとせよ!この作戦が功を奏した。

 そこで2017年12月、CNNはドナルド・トランプ・ジュニアがウィキリークスのアーカイブに事前にアクセスしていたと報じた。1時間も経たないうちに、NBCのケン・ディラニアン(Ken Dilanian)とCBSの両方がそれぞれ自分たちもそれを確認していると主張した。それは完全な嘘だった。嘘をどうやって確認するのか?別の嘘つきに聞いてみよう。

 2020年2月、国家情報長官室(ODNI)は下院情報委員会に対し、ロシア人がトランプに有利なように再び選挙妨害を行っていると説明した。その数週間前、ODNIはバーニー・サンダースに、ロシア人が民主党予備選でも彼に有利な介入をしていると説明した。この二つの説明はいずれもリークされた。前者はDNIを交代させたトランプを中傷するためにニューヨークタイムズ紙に、後者はサンダース氏にダメージを与えるためにネバダ州の予備選前にワシントンポスト紙にリークされた。得をするのは誰か?いい質問だ。その答えは、ジョー・バイデンということになる。

 2020年6月、ニューヨークタイムズ紙は、CIAの結論として次のことを報道した:

ロシア人は「アフガニスタンで米軍を含む連合軍を殺害したタリバン系武装勢力に秘密裏に報奨金を提供していた。」


 この記事は、トランプが戦死した兵士に対して無礼な発言をしたとする別の記事の近くに掲載された。どちらも真実ではなかった。しかし、これらの記事は、トランプがアフガニスタンからの撤退を発表した前後に掲載され、軍事支持派の有権者を落胆させることを目的としていた。

 今月初め、ワシントンポスト紙は匿名の情報源を引用し、FBIが2019年、ルディ・ジュリアーニ(Rudy Giuliani)がウクライナに渡航する前に国防に関わる説明を行ったと主張した。ジュリアーニはそのFBIの警告を無視したとされている。この話を、NBCとニューヨークタイムズがそれぞれ「独自に確認」した。(しかしこれも)まったくの嘘だった

 どうしても分からないのは、なぜこれらのメディアはいろいろな情報源を使い、同じ間違いを繰り返すのか?しかもトランプらに不利な情報だけを提供し、その逆はしないのか?メディアは、自分たちが頼りにするスパイと同じくらい信頼できる機械になってしまったのだ。

 アメリカの制度では、メディアは反対意見を述べる役割を果たすと常に想定されていた。植民地時代のピーター・ゼンガー(Peter Zenger)事件は、報道機関が政治家を批判しても名誉毀損に問われない権利を確立したもので、報道の自由を獲得するための最初の挑戦の一つだった。エドワード・R・マロー(Edward R.Murrow)のような人物は、これぞという時に民主主義を守るために尽力した。ベトナム戦争に反対したウォルター・クロンカイト(Walter Cronkite)や、ペンタゴン・ペーパーズを発表するために禁固刑を覚悟したニューヨークタイムズの記者たちもそうだ。

 いずれの場合も、危険を冒してまで真実を伝えようとした一握りの記者たちが英雄として称えられた。ワシントンポスト紙は、ニューヨークタイムズ紙が命がけで戦っているのを見て、ペンタゴン・ペーパーズを共同出版し、政府にニューヨークタイムズ紙だけでなく、自社に対しても反論するように仕向けた。

 今は違う。ジャーナリズムは、流れに与せず頑張っている人を排除することに専念している。グレン・グリーンウォルド(Glenn Greenwald)(次にマット・タイビ(Matt Taibbi))ほど標的にされている者はいない。

 グリーンウォルドは、エドワード・スノーデンのNSA(《米》国家安全保障局)公文書に関する報道で、ジャーナリストのスーパーヒーローとして爆発的な人気を博し、それを報道する場としてthe Interceptを設立した。しかし、その後とても、とても奇妙なことがあってthe Interceptが、内部告発者の一人の名前を外部に漏らしたかのように見える出来事があった。暴露されたもの" >証拠から察するとその情報源は情報機関によって仕組まれたカモであり、この話に出てくるthe Intercept ジャーナリストの一人であるマット・コール(Matt Cole)によって暴露されたものだ。コールは、CIA職員のジョン・キリアコウ(John Kiriakou)が拷問の情報源であることを暴露したことにも関わっている。内部告発者たちはthe Interceptに頼ることに二の足を踏まざるを得なくなった。

 後にグリーンウォルドは、特にロシアゲートに関して、闇の国家の嘘を真実として受け入れているメディアを批判し、進歩主義者にとってならず者になった。MSNBCはグリーンウォルドを出入り禁止にし、他のメディアはグリーンウォルドを中傷する記事を掲載した。彼が最近the Interceptを辞めたのは、ハンター・バイデン(Hunter Biden)(訳注:バイデン大統領の次男)と中国との関係に関する記事を載せるには、ジョー・バイデンを批判する部分を削除しなければならないと言われた後だ。

 グリーンウォルドの記事

トランプ時代の最も重要な提携は、企業の報道機関と安全保障国家機関との間のものであり、彼らは証拠のない主張を問題にすることもなく広めている・・・すべてのジャーナリストは、たとえ最も正直で注意深い人であっても、時には物事を間違えることがあり、信頼できるジャーナリストは間違えるとすぐに訂正する。それが信頼構築につながるのだが・・・

 
 しかし、メディアが相変わらず無謀で欺瞞に満ちた戦術を用いている場合、例えば、国家安全保障機関の速記者然として何も「確認」していないにもかかわらず、互いに名前も明かさず「独立して確認した」と主張している場合などは、真実なんかどうでもいいと言っているのであり、あろうことか、デマを喜んでまき散らす役割を果たしていることになる。

 国外での情報操作が何十年にもわたってうまくいったものだから、CIAなどの諜報機関はその武器を私たちに向けてきた。私たちが目にしているのは闇の国家が大統領制政治に介入し、同時に反対言論を展開するメディアの息の根を止め(もっとも大抵はそのメディアの協力があるのだが)、私たちの指導者とその選出プロセスの両方に対する信頼を打ち砕いている様子だ。民主主義はここでは何の意味も持たなくなる。

*

Peter Van Buren is the author of We Meant Well: How I Helped Lose the Battle for the Hearts and Minds of the Iraqi People, Hooper’s War: A Novel of WWII Japan, and Ghosts of Tom Joad: A Story of the 99 Percent.

陰で操る組織:「闇の国家」は本当に存在するか?

<記事原文 寺島先生推薦>

The Puppet Masters: Is There Really a Deep State?

2021年3月19日

フィル・ジラルディ(Phil Giraldi)

グローバル リサーチ(Global Research)

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2021年6月25日



 闇の国家がもたらす危険は、強大な権力を振るいながら、選挙で選ばれた訳でもなく、責任も取らない点である、とフィル・ジェラルディは書いている。


***

 元諜報員として、私は最近の国際的な騒動がCIAをはじめとする米国政府の略号だらけの国家安全保障機関の仕業であることを平然と報じる主要メディアの記事を読むと、つい笑ってしまう。CIAは世界各国の秘密情報機関を始めとする巨大な陰謀組織によって世界を動かしているという言い方が後を絶たない。その際脅迫やその他自分達に寝返らせるいろいろな手口が、腐敗し造作なく靡く(なび)政治家やオピニオンリーダーたちに使われる。そんな言い方が世界中のジャーナリストのDNAに組み込まれることになった。しかし、現在スパイに仕立てられた連中はどんな複雑なことでも朝飯前にやってのける、という証拠を添えることはほとんどない。

 諜報活動によって世界全体を支配するという理論の問題点の一つは、その後方支援を一体どうするのか、ということだ。200カ国の政治・経済の動きを同時に指示するには、広いスペースと大勢のスタッフが必要だ。ラングレー(訳注:バージニア州。CIAの本部がある)には巨大なオフィスが隠されているのだろうか?あるいはペンタゴン?それとも、それはホワイトハウスの西棟にあるのだろうか?それとも、バージニア州ハーンドンのダレス有料道路のすぐそばにキノコのように出現している安全施設の一つにあるのだろうか?

 情報機関があらゆるところに触手を伸ばしていることを示す証拠として、もう1つほぼ例外なく言われることは、いったんスパイになった人間はずっとその陰謀の世界に居続けるというというもの。CIA、NSA、FBIに入るための秘密の握手を覚えれば、「足を洗う」ことは絶対にないから、というのがその理由。まあ、それも一概に否定はできない。しかし、元スパイの大半は、「元」であることに満足している。また、反戦運動の多くの声が、諜報機関や法執行機関、軍人出身であることにも注目したい。もちろん、陰謀論者は、これは陰謀の中の陰謀であり、その反体制分子を二重スパイか、反対運動があまり盛り上がらないように配置された門番とあまり変わらない存在にしてしまうのだ、という苦し紛れの説明をするだろう。

 いわゆるアメリカの「闇の国家」が実際にどのように集まり、どのようによからぬ策略を立てるのかが不明であることを考えると、この言葉の元となったトルコの「闇の国家」(Derin Devlet)が実際に会合を開き、中央集権的な計画を立てていたのとは異なり、あまり構造を持たない組織であることを認めざるを得ないだろう。私は、問題は定義をどうするかの問題であり、そのことは国家安全保障国家がどのように構成されているか、そのまっとうな使命は何かを知る助けにもなると思う。例えば、CIAには約2万人の職員がおり、そのほとんどが、情報収集(スパイ活動)、分析、技術などを担当するさまざまな部門で働いており、さらに、テロ、麻薬、核拡散などの問題に国境を越えて取り組むスタッフに分かれている。それらの職員の圧倒的多数は政治的見解を持ち、投票もするが、彼らの仕事の内容は政治とは無関係という点ではほぼ異論がない。他方、実際に政策をどのように決定するかは、ごく少数のトップグループがすることであり、その中には政治的に任命された者もいる。

 確かに、我々がCIAが世界中で行っている政権転覆政策に反対することは可能だし、おそらくそうすべきだが、理解しておかなければならない重要な留意事項がある。それは、それらの政策は、アメリカの文民指導者(大統領、国務長官、国家安全保障会議)によって決められ、CIAはその政策を他ならぬアメリカという国の政治的指導層から与えられる、ということだ。CIAはどの外交政策が望ましいかをCIAの職員投票で決めることはない。それは第101空挺団の兵士が出動命令を受けたときに自分達の意見を求められることがないのと同じだ。

READ MORE:Rethinking National Security: CIA and FBI Are Corrupt, but What About Congress?

 私が知っている現役および元諜報員のほぼ全員が、9.11以降ほぼ一貫して行われてきた米国の世界支配の政治に反対している。特に、ロシアとの対立の継続、中国への攻撃の強化、シリア、イラン、ベネズエラに関する政権転覆政策などに、である。彼らの多くは、侵略や「最大限の圧力」行使は失敗だったと考えている。これらの政策は、トランプ政権の横柄な言動や制裁、軍事的準備は出来ていると表明することによって支えられていたが、現在ではジョー・バイデン大統領の下で何らかの形で継続されることが明らかになっており、ウクライナやジョージアの代理人を通じたロシアへのさらなる攻撃すらあるだろう。

 そういった作戦に従事しているCIA職員は、政権転覆政策は2001年以降、基本的に隠し事ではなくなったと見ている。ジョージ・W・ブッシュは「町に新しい保安官」がいると発表した。今後やることがすべて剥き出しになるだろう。諜報機関が行っていたことが、アフガニスタン、イラク、リビア、シリアに対して軍事的資源を使用して、今では公然と行われている。何よりも最大の変化は2014年のウクライナだ。主に国務省のビクトリア・ヌーランドが仕組んだものだった。全米民主主義基金(NED)はロシアでも活動しており、クレムリンに強制退去させられるまで、(ロシア内の)反対政党を支援していた。

 つまり、闇の国家はCIAとFBIのどちらも関係していないと言ってもいいのだが、同時に、ジョン・ブレナン(John Brennan)、ジェームズ・クラッパー(James Clapper)、そしてジェームズ・コミー(James Comey)の3人がドナルド・トランプを潰そうとする陰謀に関与していたという話はやっかいだ。この3人は、それぞれCIA、国家情報局、連邦捜査局のトップだった。彼らはこの陰謀を実行する上で重要な指導的役割を果たしていたと思われ、自分だけの意志で活動したわけではないだろう。彼らが手を下したと思われることを、バラク・オバマ前大統領や他の国家安全保障チームの人物たちが公然とまたは暗に承認していたことはほぼ確実だ。

 
 バラク・オバマ大統領下のCIA長官ジョン・ブレナンが、2016年初頭、「トランプ対策秘密特別部隊」を、省を横断して設立したことが今では分かっている。この特別部隊は、外国の本当の脅威に対抗するのではなく、ドナルド・トランプはロシアの道具であり、ウラジーミル・プーチン大統領の操り人形であるという攻撃ネタを作り、それを広めるのに重要な役割を果たしたが、この主張は現在でも定期的に表面化する。ブレナンはクラッパーと協力して、「ロシアが2016年の選挙に介入した」との言説を捏造した。ブレナンとクラッパーは、ロシアと米国が過去70年間、情報操作を含む広範な隠密行動を互いに行ってきたことをよく知っていたにもかかわらず、その作り話を広めることを止めようとはしなかった。その作り話を支えるためにでっち上げられた「証拠」は存在しないと言ってもいいほどか些細なものであるにもかかわらず、2016年に起こったことは質的に、そして実質的に異なるものであるかのような口ぶりだった。

 それでも私が言いたいのは、彼らの行動は諜報筋からの情報を悪用してはいるのだが、彼らがトップを務めていた組織の本質がしからしむるものではなかったし、その内3つの組織が本当の闇の国家の要の部分となっていた、ということだ。こういったことが、アメリカを動かす力についての一致した見方となっている。その力は米国支配層を構成するほぼすべての要素が支えている。その政治力はワシントンに集中し、金融センターはニューヨークにある。このプロセスに加担した政府高官たちが、「引退」した後に、金融機関で高給の閑職をあてがわれ個人的に報われることが多いのも、驚くにはあたらない。しかし、その辺の事情について彼らは何も分かってはいない。

 闇の国家、あるいは支配層と言ってもいいのだが、それがもたらす危険は、絶大な権力を持ちながら、選挙で選ばれたわけでもなく、責任も取らないという点にある。実際秘密裏に会議をしていないにもかかわらず、ベールに包まれた関係の中で動いており、メディアもその一部であるため、その活動が暴露される機会はほとんどない。国内のメディアでは「闇の国家」が頻繁に取り上げられるが、その構成要素は何か、どんな動き方をするのか、を突き止める努力はほとんどされたことはない。

 このように考えると、国を実際に動かしている権力者の集団が存在し、表向きは国の安全を守るために尽力している人々をも手中に収めることができるという言い方は、国家安全保障機関に雇用されている多くの誠実な人々を傷つけることなく、より説得力のあるものになる。闇の国家の陰謀家たちは、自分たちの支配権を維持するために何をすべきかをよく理解しているので、膝をつき合わせて陰謀を企てる必要はない。そこが本当に危険なところだ。バイデン政権は、今後数ヶ月間、政府の内部、外部の両面での活動を通し、闇の国家が依然として我々と無縁ではなく、相変わらず強力な存在であることを、これ見よがしに宣伝することは間違いないだろう。そして、真の危険は、根拠のない偽の脅威を使って合意形成政治を行うことに、どちらかと言えば共和党よりも慣れている、現在の民主党政権にある。

*

Philip M. Giraldi, Ph.D., is Executive Director of the Council for the National Interest, a 501(c)3 tax deductible educational foundation (Federal ID Number #52-1739023) that seeks a more interests-based U.S. foreign policy in the Middle East. Website is https://councilforthenationalinterest.orgaddress is P.O. Box 2157, Purcellville VA 20134 and its email is inform@cnionline.org

He is a frequent contributor to Global Research.


実はキング牧師は即死ではなく、病院で殺されたのだ!マーティン・ルーサー・キング暗殺の真実



10 January 2021
<記述原文 寺島先生推薦>
The Plot to Kill Martin Luther King: Survived Shooting, Was Murdered in Hospital
マーチン・ルーサー・キングは陰謀により殺された。その陰謀は当時のFBI長官、J・エドガー・フーバーが仕組んだものだった。この記事はウィリアム・ペッパーの著書の要旨をまとめたものだ


グレイグ・マッキー著

グローバル・リサーチ
2021年1月10日

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2021年3月1日

この記事ば2020年のグローバル・リサーチの全記事の中で最も人気のあった記事だ。

 この記事の初出はグレート・リサーチの2016年9月5日だ。この記事には、アメリカ合衆国の真の姿や反人種差別の真の姿が描かれている。さあ、「本当の敵は誰なのか」、共に熟考しようではないか。

 

 1960年代後半、我が国において或る明るい瞬間があった。その時、私たちは確かに自分の国を変えることができると信じていた。私たちには誰が敵なのかがはっきり見えていた。その敵が、すぐ近くに見えていたし、私たちは、その敵への対策も持っていたし、勝てると思える戦いだった。私たちが手にしていたホンモノの前では、奴らの考えなど空洞に過ぎなかった。しかし、私たちのホンモノは暗殺者の凶弾に倒されてしまったのだ。 – ウィリアム・ペッパー (15頁,『キング暗殺計画』)

 新たに明かされた事実は素晴らしいものだ。しかしメディアはきっとこの事実に関心を示さないだろう。

 人権問題専門の弁護士のウィリアム・ペッパーによるほぼ40年間の調査のおかげではっきりわかったことは、マーティン・ルーサー・キング牧師は陰謀により殺されたということだ。そしてそれを仕組んだのは、当時のCIA長官だったJ.エドガー・フーバーであり、米軍やメンフィス警察署やテネシー州メンフィスの「デキシー・マフィア」配属の犯罪者たちも加担していたことも、だ。キング牧師暗殺に関するこれらの事実やそれ以外の詳細については、ペッパーが著した三部作の中で描かれている。その完結作が最近出版された『キング暗殺計画』だ。そして一冊目が『殺人命令』(1995)であり、二冊目が『国家による犯罪 』(2003)だ。

 主流メディアからの情報は明らかに皆無であり、法廷から得られる情報もほとんどない中で、ペッパーはなんとか小さな情報を繋ぎ合わせて以下のことを明らかにした。それは、1968年4月4日にメンフィスでいったい何が起こったのか、誰が命令を下し、カネを渡したのか、どうやって偽りの犯人候補が選ばれたのか、そして銃の引き金を引いたのは、本当に誰だったか、についてだ。

 ペッパーが明らかにしてくれたこれらの情報がなければ、キング牧師暗殺についての真実は闇に葬られ、歴史から消されてしまっていただろう。目撃者たちも墓場まで秘密を抱えたまま亡くなってしまっていただろう。そして、キング牧師はジェームス・アール・レイという名の人種差別主義者の暗殺者の単独犯罪のため亡くなったというウソの公式説明が「事実」であるとされたままになっていただろう。

 しかし、ペッパーのおかげで、レイは濡れ衣を着せられていただけで真犯人ではなかった事が分かっている。メンフィス警察署の或る警察官が致命傷となる一発を撃ち込んだこともわかっている。そして第902軍事情報団に属していた射撃者2名がメンフィスに派遣され、もし一人目の射撃者がしくじった時の予備のために待機していたことも、だ。 さらに驚くべき情報も手に入っている。それは、ペッパーがジョン・ダウニー大佐と面会したという事実だ。ダウニー大佐は、この計画に加担していた軍部の指揮をとっていた人物で、リンドン・ジョンソン大統領の元ベトナム情勢説明係をつとめていた人物だ。さらに、私たちにわかっていることは、計画実行の際に射撃時の写真が取られていたのだが、ペッパーはすんでのところでその写真を手に入れる所までいった、という事実だ。

 残念ながら、主流メディアはペッパーのこの貴重な情報を全く無視しており、レイをキング暗殺の単独犯人だという決めつけに固執している。実際、ペッパーが詳しく記述しているのだが、偽情報を流そうという取り組みが、多くの主流メディアの記者たちの協力のもと、ほぼ半世紀もの間繰り広げられてきたのだ。 ペッパーによると、今日まで続いている、この嘘情報を撒き散らそうという企みが功を奏しているせいか、主流メディアは、彼が書いた内容にはもはや関心がない、とのことだ。

  「権力層にとったら、私のことなど痛くも痒くもないようなんです」 ペッパーはインタビューでこう語った。

 「私は自分が権力層に恐れられているとは思いません。本当に。現在は、メディアを抑え込むことが上手くいっているので、私のようなものを、永久に頬かむりさせて、隠しておくことができるのです。この本が主流メディアできちんと取り上げられることはないでしょう。テレビやラジオで流されることもないでしょう。権力層はメディアを押さえ込んでいるからです。60年代の状況もひどいものでしたが、今ほどひどい状況はこれまでなかったでしょう」

 そして『キング暗殺計画』で最も驚くべき事実は、(もしかしたらその情報はまた聞きなので当てにならないという人もいるかもしれないが)キング牧師が聖ヨセフ病院に搬送された時点ではまだ息があったという事実だろう。そして彼は病院で殺された、というのだ。彼を救おうとすべきはずであった医師の手によって。

  「この事実がおそらくこの本の中で最も衝撃的な事実だと思います。偉大な指導者が最後にどのようにして私たちから引き離されることになったのかの真実です」。ペッパーはこう語った。(なお、この記事で「ペッパーが語った」という表現を使った場合は、それはペッパーがインタビューで語った内容である。著書からの引用の場合は、その都度ことわりを入れる)。

 この病院の話をペッパーに伝えたのは、ジョルトン・シェルビーという男性だった。ジョルトンの母のルーラ・メイ・シェルビーは、キング牧師暗殺の夜、聖ヨセフ病院で治療の助手をしていた。シェルビーはペッパーにシェルビーの母親が狙撃の翌日帰宅した時に家族を集めて語った内容を伝えた。 (シェルビーの母親は、狙撃の夜は帰宅を許されなかったのだ) 。シェルビーは彼女がこう言ったことを覚えていた。「信じられない。あの人たちが、キング牧師の命を奪うなんて」

 彼女の話によれば、外科部長のブリーン・ブランド医師が、スーツ姿の二人の男と緊急治療室に入ってきたそうだ。キングの治療に取りかかっていた医師たちを見るや、ブランドはこう命じた。「その黒人の治療をやめて、死なせるんだ!そして、この部屋にいるものはみんな出ていくんだ。今すぐに、だ。みんなだ」

 ジョントン・シェルビーによれば、彼の母親ルーラ・メイは3人の男が唾を飲み込み、それから唾を吐いた音を聞いたそうだ。ルーラ・メイが家族に語ったのは、彼女が部屋を出る際に、キングから呼吸器が引き抜かれ、ブランド医師がキングの頭に枕を巻き付けたのを肩越しに見たことだった。(ペッパーの著書には、ジョントン・シェルビーがペッパーに語った内容の詳細がすべて書かれている。なので、読者はシェルビーの話に信ぴょう性があるか、自分で確かめることができる。なお、ペッパーは、シェルビーの話を信じているようだ )。

 そして、2つ目の非常に貴重な情報源はロン・アドキンスだ。ロンの父、ラッセル・アドキンス・シニアはディクシー・マフィアのギャングの一員であり、この暗殺計画の共謀者のひとりだった。ただし、ラッセルは暗殺の1年前に亡くなったのだが。ロンがペッパーに伝えたのは、ロンは父のかかりつけだったブランド医師が父にこういうのを耳にしたことがあったという話だった。それは、もしキング牧師が射撃を受けても死ななかった時は、必ず聖ヨセフ病院に搬送されなければいけない、ということだった。その話について、ペッパーはこう語っている。

 「ロンが覚えているのは、ブリーン・ブランドがロンの父に「キングが射撃を受けても死ななかったならば、必ず聖ヨセフ病院に連れてくるようにしないといけないんだ。キングを病院から立ち去らせてはいけないんだ」と言っていたことだったそうです」:

 狙撃事件があった時まだ16歳だったロンは、父が行くところはほとんどどこでもついて行かされていたようだ。なので、ロンは暗殺が計画され、実行された時に何が起こったかについて、詳しく証言することができたのだ。

 「私はロンの言っていることは完全に信頼できると思っています」とペッパーは語った。「ロンには厄介事がついて回っていたと思います。ロンが若い頃に起こった出来事のせいで、ロンの人生はいろいろな苦境に囲まれてきたと思います」

 ロンの告白も著書に掲載されている。ペッパーによればこの告白は非常に重要なので、読者自身が、その信ぴょう性を判断して欲しいと解説している。

 「私の望みは、これらの決定的な瞬間や決定的な事実の告発の全文が私の本に書かれていることを知ってもらうことなのです。そして、読者にその告発を読んでもらって私の言っていることが正しいかどうか判断して欲しいのです」とペッパーは話している。

  ブランド医師が自分の父親に言った話を伝えてくれているだけではなく、ロン・アドキンスは父ラッセル・シニアのもとに、クライド・トルソンが何度も訪ねてきた話もしてくれている。トルソンは当時のFBI長官J・エドガー・フーバーの右腕だった。ロンが「クライドおじさん」と呼んでいた、FBI高官のトルソンは、フーバーの代理として、何度も父アドキンスと彼の手のものに現ナマを届けていたそうだ。子アドキンスによると、その報酬はマーティン・ルーサー・キングの動きについての情報提供の見返りだったとのことだ。そして報酬を受けていたものの中には、サミュエル・「ビリー」・カイルズ牧師やジェシー・ジャクソン牧師もいたそうだ。

公式見解による基本設定

 主流メディアによるジェームス・アール・レイの情報を調べれば、レイはマーティン・ルーサー・キングの殺人者だという記述を目にするだろう。そうだ、リー・ハーベイ、オズワルドとサーハン・サーハンがそれぞれ、ジョン・ケネディとロバート・ケネディの「暗殺者」とされているのとまったく同じように。

 しかし、キング牧師殺害に関するペッパーの三部作のすべて、あるいはどれか1作でも読めば、レイはまったく殺人犯ではなかったことがはっきり分かるだろう。そして、レイはちょっとした罪をおかした軽犯罪者で、ただの「おまけ」に過ぎないことが。オズワルドやサーハンと同様に、レイは米国のディープ・ステートの指示で行われた暗殺の濡れ衣を被せられたのだ。ペッパーによると、この計画についての調査を深めて、米国のトップまで繋がっていることが分かったそうだ。

 「全てのことは当時の副大統領リンドン・ジョンソンが書いた筋書きに繋がっていたようなのです」。ペッパーはこう語っている。「ジョンソンは全てを把握していたと思います」。

 射撃に関する公式説明によれば、4月4日の午後5時50分、カイルズはロレイン・モーテルの306号室をノックし、キング牧師と彼の同伴者たちに、予定されていたカイルズ宅での夕食会に遅れるので急ぐように知らせた。それからカイルズは、バルコニーを20メートルほど降りていき、そこで待っていた。6時ころキング牧師が部屋から出てきた後も、そうしていた。 (カイルズはずっとキング牧師の最後の半時間中自分は部屋にいたと主張しているが、ペッパーはそれが事実ではないことを証明している)。

 黒人過激派グループ「インベーダーズ」のメンバーが、キング牧師を訪問しようとこのモーテルに泊まっていたのだが、彼らは射撃の直前に、モーテルの従業員の一人から、彼らの部屋代が、南部キリスト教指導者連盟(以降SCLC)から支払われなくなったことを理由に、直ぐに部屋を立ち退くように伝えられている。メンバーたちが、誰の指示なのかを問いただすと、それはジェシー・ジャクソンだ、という回答だった。射撃が行われた時、ジャクソンはプール付近で待機していた。ロン・アドキンスもジャクソンがロレイン・モーテルのオーナーに電話をかけ、キング牧師に、安全だった中庭側の部屋から、外から見える、道に面した2階の部屋に移るよう要求したことを認識している。

 キング牧師がメンフィスに来る時は、メンフィス警察署は、いつもは黒人特別部隊を配置してキング牧師を保護していたが、その夜はそうしていなかった。そして緊急補助部隊はロレイン・モーテルから消防署に引き上げられていた。その消防署はモーテルを見渡せるところにあった。ペッパーが掴んだ情報によれば、メンフィス消防署にはたった2名の黒人しかいなかったのだが、その2名が射撃の前日に翌日は消防署で記録の仕事をしないよう伝えられていた。そして黒人探偵エド・レディットは射撃の一時間前に、「家にいないと命の保証はない」と脅されていた。

  キング牧師が部屋を出たほんの1分後、一発の銃弾が発射され、弾丸がキング牧師の顎と脊髄を貫通し、キング牧師は直ぐに倒れた。弾はマルベリー通りから発射されたように見えた。キング牧師は急いで病院に搬送され、7時ちょっと過ぎに、その病院で、死が確認された。

 公式説明によれば、銃弾はジムズ・グリルというバーの上の民宿の翌日から発射されたことになっている。そのバーはマルベリー通りの裏側で、サウス・メイン通りに面している。しかし、ペッパーの調査により、その銃弾は実は、そのバーと通りの間にある茂みから発射されたものだと分かったのだ。実はその際にレイを目撃した唯一の「目撃者」は、チャールズ・ステファンズというメロメロに酔っ払った男で、後にレイの写真を見てもそれがレイだと分からなかったそうだ。 タクシーの運転手のジェームス・マックローは、ステファンズの乗車を拒否したそうだ。それはステファンズがレイを見たとされる時間の直前の話だった。

 狙撃者を隠した茂みは、射撃の次に日に、都合よく刈り取られており、射撃犯がそこに身を隠すとは考えにくいという、間違った印象を持たせるように細工されていた。しかし、ジャーナリストのアール・コールドウェルや、キング牧師のメンフィスでの運転手だったソロモン・ジョーンズなど数名の人々は、弾が茂みから発射されたと証言しており、それは民宿から発射されたという公式説明とは食い違っている。

 キング牧師殺害に関するもう一人の犠牲者は、タクシーの運転手バディ・バトラーだ。彼は、射撃の直後に犯人が走り去る姿を見たと証言していた。彼によると射撃犯はその後マルベリー通りを南向きに走ってパトカー(後にそれはメンフィス警察署のアール・クラーク補佐官のものだと判明した)に飛び乗ったとのことだった。バトラーはこのことをタクシー会社の発車係と、それから同僚のルイ・ウォードに語っていた。バトラーはイエロー・キャブ社でその夜遅く、警察から事情を聞かれている。ウォードが翌日聞かされたのは、バトラーがメンフィス・アンカンザ橋を、スピードを上げて走っていた車から落ちたか突き飛ばされたかして亡くなったことだった。

 バーのジムズ・グリルのオーナーであったロイド・ジョーワールドズは、後に自分がキング暗殺計画の共謀者であったことを認めている。後に彼は、キング牧師の家族が起こした1999年の民事裁判において、様々な政府関係者たちとともに、キング牧師殺害に関して責任があるという判決を受けている。その裁判はペッパーが原告代表をつとめていた。

 「キング牧師の家族はこの裁判の結果や、この裁判の結果得られた真実について、本当に満足していました」とペッパーは語っている。

 バーのジムズ・グリルでウェイトレスをしており、オーナーのジョワーズの恋人でもあったベティ・スペイツによると、彼女はジョワーズが、射撃の数秒後に、民宿の裏口に駆け込んで来るのを目撃したそうだ。その時の彼の様子は亡霊の如く蒼白で、腕にライフルを抱えており、テーブルクロスで身を覆い、カウンターの下の棚に隠れたそうだ。 ジョワーズはベティの方を向き、こう言ったそうだ。「ベティ、お前はオレを傷つけるようなことは絶対しないよな」。それに対してベティは「もちろんよ、ロイド」と答えたそうだ。スペイツは1990年代になるまではこれらのことを、人に話さなかったのだが、彼女はさらに証言しているのは、ジョワーズがキング暗殺の前に多額のカネを手にしていた事実だった。

 先述のタクシー運転手、ジェームス・マックローによれば、ジョワーズはジェームスに事件の翌日ライフルを見せ、そのライフルがキング殺害に使われたと語っていたとのことだ。

 「私たちはバーのオーナーのロイドと面会しました」とペッパーは説明している。「私たちがロイドに伝えたのは、私たちに協力せず、情報を教えてくれなければあなたは起訴されるかもしれない、ということでした。ジョワーズは、自分が大陪審に掛けられることはないとは思っていませんでした。ジョワーズは、自分が何をしでかしたか、自分が何に加担していたか、それで自分がいくら貰ったか、しか分かっていなかったのです。ジョワーズは、多額のカネを手にし、タクシー会社を買収して、ギャンブルでこしらえていた借金を(メンフィスの地元マフィアのフランク・リベルト)にチャラにしてもらっていました」

 リベルトという人物は、ルイジアナ州のギャング組織のボスのカルロス・マルツェーロの手下だったのだが、そのリベルトもキング暗殺に加担していたことが分かっている。リベルトは卸売店を持っており、彼のお得意さんの1人にジョン・マックファーレンという人物がいた。 そのマックファーレンはその店で毎週買い物をしていたのだが、キング射殺の数時間前、リベルトが電話口でこう叫んでいたのを聞いている。「あのクソ野郎がバルコニーにいる時に撃つんだ!」。ネイサン・フィットルックと母親のラバダ・アディソン・ウィットロックは、リベルトがよく利用していたレストランを経営していたのだが、二人が証言しているのは、リベルトが「自分はキング暗殺に関わっている」と語っていたことだった。


偽犯人でっち上げ工作

 多くの人に知られていない事実なのだが、レイは、暗殺の一年前の1967年には刑務所にいた。レイは1959年に犯した食料品店強盗の罪で20年間の服役中だった。何度か脱獄しようと試みて失敗していたレイだが、1967年の4月23日に脱獄に成功している。レイは知らなかったのだが、実はその脱獄は仕組まれたものだったのだ。というのは、レイはすでにキング暗殺計画において偽犯人役に選ばれていたのだ。その暗殺実行の1年も前から。

 ミズリー州刑務所の監視員には、ラッセル・アドキンス・シニアから、レイを脱獄させるため2万5000ドルが手渡されていた(これはロン・アドキンスの証言による)。そのカネはFBI長官の右腕のトルソンが届けていた。このルートはキング暗殺の際に使われたカネの動きとまったく同じルートだった。

 脱獄に成功したレイは、シカゴに行き、そこで数週間仕事をしていた。しかし捕まることを恐れたレイはカナダに向かい、主にモントリオールに身を潜め、名をエリック・S・ゴールトに変えた。彼は、偽名でパスポートを取得し、米国に送還される恐れのない外国に高飛びするつもりだった。

 1967年8月、モントリオール港近くにあるネプチューン・バーという飲み屋で、レイは自分を「ロール」と名乗る謎の男と出会っている。ロールがレイに依頼したのは、怪しげな仕事に手を貸すことだった。その申し出をレイは受けた。その後数ヶ月間、レイは銃密売などのたくさんの仕事を行った。ロールはレイに報酬として車を与えていた。レイは常にロールからの連絡を待っていないといけなかった。レイは、このことについて、「ロールは暗殺当日まで、オレの動きを調整していたのだ」と語っている。

 あるとき、レイは照準器付きの狩猟用ライフル銃を買うように指示された。 (ただ、ロールはレイが買ったライフル銃が気に入らず、別のものと交換させた)。レイはメンフィスに行くよう指示され、 (レイがメンフィスに着いたのは1968年4月3日だった)、ジムズ・グリルというバーの上にある民宿で、ロールとおちあい、翌日3時にそこで合うことになっていた。レイは、ロールにライフル銃を手渡していたが、レイによるとそのライフルを、その後二度と目にすることはなかったという。

 レイは、バーのジムズ・グリルの上の階の民宿で部屋を取っていた。 (レイとロールは予定通り暗殺当日そこで会っている). 射撃の1時間前、レイは映画でも見に行くようにカネを渡されたが、レイはまず車のパンクを修理しようとしていた。というのも、ロールが車を借りたいといっていたからだ。しかし、レイが射撃の後に鳴らされたサイレンの音を聞いたとき、こわくなってそこから逃げ出したのだ。

  捕まることを恐れたレイは、米国を出てイングランドにいき、1968年6月8日に、ロンドンヒースロー空港で捕まった。英国を出国しようとしていた時だった。キング牧師殺害の罪を追求されたレイは、二人目の弁護士であったパーシー・フォアマンに、レイがやったという証拠があまりにもたくさんあるので、罪を認めるよう圧力をかけられたのだ。さらに、レイは、フォアマンから、フォアマンは健康状態がよくないので、レイを保護することもできないということも伝えられていた。

 「フォアマンは最初の弁護士を担当から外すためにあてがわれたんです」とペッパー^は言っている。

  フォアマンはレイに、罪を認めて、500ドル出せば、他の弁護士を紹介すると言っていた。さらにそのことを文書で書き残すこともしていた。レイはこの申し出を受けてしまったことを彼の余生中ずっと後悔することになった。レイは罪を認めたことを取り下げようとしたが、うまくいかず、それから30年間服役することになった。そして、1998年、獄中で、がんで亡くなった。

 ペッパーはレイの無実を確信している。

 暗殺が起こって10年経って初めて、ペッパーはレイと面会することに決めたのだ。当初ペッパーはレイが暗殺者であることは当たり前だと考えていた。しかし、ペッパーが、レイと会う気になったのは、ラルフ・アバーナシー牧師の助言があったからだ。アバーナシー牧師は、キング牧師の後を受けてSCLC(南部キリスト教指導者協会)の協会長をつとめていた。アバーナシー牧師は暗殺の公式説明に納得がいっていなかったのだ。

 著書の中で、ペッパーは1978年にレイと初めて会ったときのことを記述している。そのとき、ペッパーはすぐにレイが暗殺者ではなく、この暗殺事件の真相はまだ解明されていないことを理解した。ペッパーは、レイがこの暗殺計画において、意図的な役割を全く果たしていなかことを確信し、この件に関して、ペッパーはレイの代わりに真実を伝えなければならないという義務感を感じていた。そして、ペッパーはレイがなくなるまでその義務を果たしていた。

 暗殺の公式説明を普及させようとしているものたちがいつも指摘しているのは、ロールはレイが作り出した架空の人物であるという主張だ。そして主流メディアの説明は、この疑問に対する答えは未解決である、としている。ペッパーはロールと関係があったと証言している目撃者に会っているだけでなく、グレンダ・グラボーという人物の助けを借りてロールを見つけ出してさえいるというのに、だ。(ペッパーは、ロールの名字はコエーリョであることも突き止めている)。グレンダは、1963年にヒューストンでロールを見たことがあると証言している。さらに彼女は1974年ごろに、ロールが憤慨した様子で、自分がキング殺害に関わっていることを認めていたと証言している。それはロールが彼女を強姦する前のことだったそうだ。グラボーはさらに、1963年にロールと一緒だったジャック・ラビーという人物を覚えていた。この驚くべきエピソードについては、『国家による犯罪』と『キング暗殺計画』、両著に記載されている。

 これら両著の中で最も興味深い内容の一つは、暗殺後にアルバマ州のナンバープレートのついた白のマスタング(車種の名前)を調べるよう派遣されたドン・ウイルソンというFBIの若い工作員の話だ。(レイは白のマスタングに乗っていた)。その車が、乗り捨てられてあり、キング暗殺に関わりがあると考えられていたのだ。ウイルソンが車を開けると、何枚かの書類が車から落ちてきた。ウイルソンが後に調べて見つけたものは、1963年版のぼろぼろになったテキサス州ダラス市の電話帳の何ページか、だった。そこに書かれてあったのは、ロールという名と「J」というイニシャルと電場番号だった。その電話番号は、ジャック・ラビーという人物が経営しているラスベガスのナイトクラブの番号だと分かった。そのジャック・ラビーというのは、ダラス警察署の地下室にいたリー・ハーヴェイ・オズワルドを撃った男だ。2枚目には、何人かの人名とその横に金額が書かれている表のようなものが書かれていた。ウイルソンはこの証拠を保管しておくことに決めた。それを上に提出すれば、永遠に闇に消されることを恐れていたからだ。ウイルソンはその証拠を29年間保持し続け、それをペッパーとキング牧師の家族に見せたのだ。

真犯人が見つかった

 
『キング暗殺計画』の中で、もう一つ驚くべき情報は、致命傷となる一撃を発射した男を特定していることだ。ペッパーは、その人物の情報をレニー・B・カーティスという人物から得た。カーティスはメンフィス警察署でライフル銃保管の仕事をしていた。彼がペッパーにこの情報を伝えたのは2003年のことだったが、ペッパーはカーティスの証言をずっと秘密にしておいた。というのは、カーティスに命の危険があると考えていたからだ。2013年にカーティスが亡くなってから初めて、ペッパーは「真犯人はメンフィス警察署警官のフランク・ストローサーである」ことを明かした。

 「カーティスの命の安全を守るため、注意を払わないといけませんでした」とペッパーは語っている。

 カーティスがペッパーに証言したのは、ストローサーが暗殺の4~5ヶ月前からキングについて話していたのを聞いた、ということだった。内容は、誰かが「ヤツのいかれた脳みそを吹き飛ばす」ということだった。カーティスによれば、ストローサーは、ライフル射撃場で射撃の練習をしていた時、あるライフル銃を使っていたとのことだ。そのライフル銃は4~5日前に消防署員が購入したものだった。その消防士がライフル銃をカーティスにみせて、こう聞いてきた。「この銃は、気にいったかい?いい銃だろ?」。カーティスが、「どこにでもある銃とかわらない」と答えると、その消防士はこう答えた。「いや、これは特別な銃なんだ。ほんとうにすごい銃なんだ」。レニー・カーティスが覚えていたのは、暗殺当日ストローサーは丸一日その銃で練習していたことだった。 (ストローサーは彼が当日、どこで何をしていたかについて筋の通らない供述をしている)

 暗殺後、カーティスは自分がストローサーに、脅されるかのようにつきまとわれていたことを証言している。以下はペッパーの記述だ。

 「レニー・カーティスによれば、後に彼は自分の身の周りで奇妙な出来事がおこっていることに気づいたそうだ。部屋に入ろうとしたら、家のガスが勝手についたことがあったり、タバコに火をつけていたが、ドアを開けるとガスのにおいがして、すぐに消したこともあったそうだ。見知らぬリンカーン(自動車)がレニーのアパート前の通りに定期的に駐車されていて、レニーはその車におびえていたという。ある朝、そこに車が止められていた時、レニーは自分の車に飛び乗り、その場を去ろうとすると、そのリンカーンが後をつけてきたこともあったそうだ。レニーは運転手の顔を見ることができたそうだ。それはストローサーだったのだ。

 著書の中で、ペッパーはストローサーと面会した様子を記述している。ペッパーによれば、ストローサーは根っから黒人を毛嫌いしている人物だった。

 「ストローサーは黒人に全く敬意を示していませんでした」とペッパーは語っている。「ストローサーは自分が人種差別主義者だとははっきり言っていませんでしたが、マーティン・キングに対してまったく同情心を示していませんでした」。

 よい証言が取れることを期待して、ペッパーは、ストローサーがキング殺害に加担していることをバーのオーナーのロイド・ジョワーズがほのめかしているという嘘をストローサーに伝えたが、ストローサーはそのえさには飛びつかなかったそうだ。ペッパーはさらに、ストローサーに、射撃の後、あの茂みの中で足跡が見つかり、その靴のサイズが13だった(それは本当の話だ)ことをペッパーに伝えてから、ストローサーに靴のサイズをたずねた。

 「ストローサーは、顔にちらっと笑いを浮かべてこう言いました。“13だ”、と」。ペッパーはこう語った。

 ペッパーはさらに、ストローサーのことを知っている、タクシー運転手のネイサン・フィットルックにたのみ、ストローサーに「ストローサーが暗殺犯として起訴される可能性が高くなっている」話を伝えてもらった。それに対してストローサーはこう答えたそうだ。「オレを起訴して何になるってんだい。30年も前にオレがやったことだろ」。そして、はっとしてこう言い直したそうだ。「いや、オレが30年前のことで知っていることについて、さ」。

時の権力者に対する脅威

 ペッパーの説明の通り、1960年代に存在感を増していたキング牧師は、権力者から嫌悪されていただけではなく、恐れられてもいたのだ。キング牧師には、平和と不服従の精神を訴えて、多くの人々を動かす力があっただけではなく、政界に打って出ようという意思もあったのだ。ペッパーによれば、反戦活動家のベンジャミン・スポック博士とともに、キングは第3党から大統領選に出馬する計画をたてていたそうだ。さらに、キング牧師は、権力者層を慌てさせていた。それは、キング牧師が、1968年の春に何十万人もの貧しい人々をワシントンDCで野営させ、彼らの窮状を皆に知らしめようとしていたからだ。

 「権力者たちが恐れていたのは、デモの参加者たちが、求めていた要求を満たしてもらえず、その怒りをキング牧師が抑えきれなくなり、その中の過激的な集団が権力を握り、革命を起こしてしまうかも知れないことでした」とペッパーは説明している。「権力者たちには、そのような革命を押さえ込む組織がありませんでした。それは、軍がもっとも恐れていたことでした。その恐怖は正当であると思います」。

 キング牧師はさらに、政界の権力者たちにとってますます恐れられる存在になっていた。それは、キング牧師がベトナム戦争に反対する立場をよりはっきりさせていたからだ。キング牧師は、ある記事と写真に感銘を受けていたのだ。ペッパーは、その記事を「ベトナムの子どもたち」という名で呼んでいた。その記事は1967年の1月にランパート誌に掲載されていたもので、のちにルック誌にも転載された。(ルック誌でこの記事を掲載した人物は、ビル・アトウッドである。ビルがペッパーに語ったところによると、ビルは前ニューヨーク州知事でありソビエト大使もつとめたアヴェレル・ハリマンから訪問を受け、ハリマンは、ジョンソン大統領からの言づてを伝えたそうだ。その内容は、アトウッドに、その記事を出版しないでいてくれないか、というものだった。この話はペッパーが調べたものだ)。

 キング牧師が、正義と平和と平等の実現のために強力な力をもっていたという事実だけではなく、キング牧師はペッパーの友人だった。だからこそ、法律家でありジャーナリストでもあるペッパーは、キング牧師を失ったことについて対処してきたのだ。ペッパーは、誰がキング殺害の真犯人であるのかという真実を追い求めてきた。そして誤って真犯人だとされてきた人物、レイの濡れ衣を晴らすために戦ってきた。ペッパーはこう書いている。

 「私にとってこの話は悲しみであふれた話だ。人々や組織が嘘や裏切りで固めた悲しい話だ。今回の調査で分かったことや、今回の調査で体験したことを振り返ると、私はある気持ちでふさぎ込んでしまう。それは、人間という生き物は、いくら職業倫理感を守っているとされる人間であっても堕落する生き物なのである、という避けられない闇と向きあわざるを得なくなるからだ。さらに私個人として、この長年にわたる調査からくる絶望感にさいなまれているのだ。そして、私がこれまでやってきたこの努力から、何か意味のある教訓が得られるのだろうか?と疑念を持たざるを得なくなってしまっている。 (『キング暗殺計画』14頁)

 それでもペッパーはこの仕事をやりきったのだ。そして、我々は彼のその仕事に大きな敬意を払うべきだ。

 

 

 



 

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