ロバート・ケネディ暗殺の新証拠:CIA、ロス市警、FBI、そしてマフィアが関与か?
<記事原文 寺島先生推薦>
https://www.globalresearch.ca/new-evidence-implicates-cia-lapd-fbi-mafia-plotters-elaborate-hit-plan-prevent-rfk-from-ever-reaching-white-house/5754662Global Research
2021年9月2日
ジェレミー・カズマロフ(Jeremy Kuzmarov)
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2021年11月10日
***
「自由の女神の顔色は
ますます死人の蒼白色
弾丸(たま)持て、自由を愛する
アメリカよ、銃口は汝に向いている」
1970年
―エフゲニー・エフトゥシェンコ(Yevgeny Yevtushenko)
1968年6月5日、深夜0時を数分過ぎた頃、ロサンゼルスのアンバサダー・ホテルで、ロバート・ケネディ(以下RFK)は「パントリー」と呼ばれる狭い給仕室を歩いているところを銃撃され、死亡した。RFKはカリフォルニア州の予備選挙で勝利したばかりで、新聞社の記者たちが彼のスピーチを聞くために待っている部屋に向かっていた。
3月初旬、リンドン・B・ジョンソンはベトナム政策の失敗を理由に再選を目指さないことを表明したことで、選挙戦の火蓋が切られた。RFKは、社会変革の必要性を訴えて民主党内の青年層を活気づけ、有力候補として浮上した。
RFKは、いろいろな点で毛色の変わったリベラルだった:
①ハーバート・フーバー*(Herbert Hoover)を崇拝して育った。
ハーバート・フーバー*・・・アメリカ合衆国の政治家、鉱山技術者。第31代アメリカ合衆国大統領、第3代アメリカ合衆国商務長官を歴任した。( ウィキペディア) ②一族の中では大富豪である父ジョセフ(Joseph)に最も近い存在である。
③ジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy)の反共産主義者に対する魔女狩りを支持して政治的キャリアをスタートさせた。
④1960年代初頭にはベトナムで共産主義に対する勝利を呼びかけた。
⑤キューバ政府の転覆を目的としたテロ活動の総括者だった。
とはいえ、1960年代後半になると、RFKは貧しい人々のための十字軍であり、抗議運動の波に乗ってホワイトハウスに入ろうとするベトナムのハト派に進化していた[1]。
伝記作家のレスター・デイビッド(Lester David)とアイリーン・デイビッド(Irene David)は、ケネディ家の中ではRFKが「
人類に最も深く思いをいたし、人類のことを最も気にかけ、人類のためにだれよりも懸命に戦った――アメリカのベトナム戦争参戦に反対の声を上げ、黒人、ヒスパニック、メキシコ系アメリカ人のために尽力し、子どもや高齢者、そして経済的進歩によって傷つけられたり、経済的進歩の恩恵を蒙らない人々の苦しみに立ち向かったのである。」[2]
RFKの死を伝える新聞の見出し[出典: pri.org] RFKの死後、民主党は影を潜め、その後の9人の大統領のうち共和党員が6人だ。この時期の民主党は、核となる基盤である組合員、少数派、そしてブルーカラー労働者を捨て、ウォール街に迎合するようになった。[3]
RFK暗殺の公式見解 公式見解によると、RFKは24歳のパレスチナ生まれのヨルダン人、
サーハン・サーハン(Sirhan Sirhan)という単独犯に射殺された。サーハンは、RFKが50機のジェット爆撃機をイスラエルに送り込み、パレスチナ人に危害を加えるという最近の決定に憤慨していたと言われている。
母親によると、
サーハンは子供の頃、イスラエルとパレスチナの紛争による暴力が心の傷となっていたという。東エルサレムの実家はイスラエル軍の空襲で破壊され、兄がイスラエル軍の銃撃から逃れるために進行方向を変えていたヨルダン軍の車両に轢かれて死亡したのを目撃していた。[4]
プロフットボール選手の
ルーズベルト・グリエ(Roosevelt Grier)と1960年のオリンピック金メダリストの
レイファー・ジョンソン(Rafer Johnson)は、他の数人と一緒になって、格闘の末にサーハンを取り押さえ、彼の銃を取り上げた。
その後、サーハンは逮捕され、殺人罪で有罪判決を受けた。
第二次世界大戦の英雄、リン・"ビック"・コンプトン(Lynn “Bick” Compton)(後にロナルド・レーガン知事によってカリフォルニア州控訴裁判所の判事に任命された[5])を中心とした検察側は、
事件の2日前の6月3日にサーハンがアンバサダー・ホテルの間取りを確認するところを目撃され、6月4日には射撃場を訪れていることを明らかにした。
サーハンのゴミ収集人であったアルビン・クラーク(Alvin Clark)は、サーハンが事件の1ヶ月前にケネディを撃つつもりであることを話していたと証言している。サーハンがつけていた日記で確認されたらしい事実。彼が事前に犯行を考えていたことを示している。
サーハンは当初、殺害を自白したが、後になって記憶がないと主張した。事件が起こった後、
彼は冷静に見えたが、「心を完全にコントロールしていた」わけではなかった。
サーハンの死刑は終身刑に減刑され、仮釈放は15回も拒否されたが、
2021年8月27日に50年以上の獄中生活を経て釈放相当と判断された。
RFK Jr.はサーハンの無実を信じている ロバート・F・ケネディ・Jrは、2018年の『
ワシントン・ポスト』紙のインタビューで、サンディエゴ郡のリチャード・J・ドノバン(Richard J. Donovan)矯正施設のサーハンと面会し、比較的長い会話の後、サーハンはRFKを殺しておらず、第二の狙撃者が関与しているとの考えを述べた。
RFK Jrの考えは、
姉のキャスリーン・ケネディ・タウンゼント(Kathleen Kennedy Townsend)(元メリーランド州副知事)や、RFK Jr.の最側近のアドバイザーであり、RFK Jr.が殺された夜に銃撃されたポール・シュレード(Paul Schrade)(全米自動車労組(UAW)地域ディレクター)と同じだ。
ケネディが殺された夜に撃たれて回復した後にインタビューを受ける、JFK大統領時代からのケネディ家の腹心であるポール・シュレード。[出典: prospect.org] 2016年、シュレードはサーハンの仮釈放を支持する証言を行い、RFKを殺したのは第二の狙撃者であり、サーハンは未知の陰謀によって真の狙撃者から目をそらすために用意されたとの考えを述べた。
サーハンの顔写真.[出典:wikipedia.org]
RFK.Jrは、最初の裁判でサーハンが指名した弁護士グラント・クーパー(Grant Cooper)が、ジョニー・ロッセリ(Johnny Rosselli)の個人弁護士であったことを指摘。「
ロッセリは、CIAのカストロ暗殺計画を実行したマフィア。クーパーはサーハンに圧力をかけて有罪を認めさせ、裁判が行われないようにしたのです」と語っている。
右側に立つ弁護士グラント・クーパーの話を聞くサーハン・サーハン。左側では共同弁護人
のラッセル・E・パーソンズが見守っている。[出典:murderpedia.org]
ケネディJrは、真犯人はロッキード社のバーバンク工場(CIAが製造した偵察機U-2を製造していた工場)の従業員
セイン・ユージン・シーザー(Thane Eugene Cesar)しかいないと考えている。彼は、それ以前、ヒューズ社でエース・セキュリティ・サービスの夜間警備員をしていた。
銃撃の後、RFKは、シーザーのクリップ式のネクタイが彼の近くに置かれた状態で写真を撮られている。このクリップ式ネクタイは明らかにRFKが引っ張って取ったものだ。
シーザーは警察に対し、サーハンが発砲を始めた時にRFKの右腕を掴んでいたが、その後、銃を抜いて上院議員を掴み、後ろに倒れたと話していた。しかしその後、シーザーは話の内容を変え、サーハンが発砲した後、知らない人物に押し倒され、自分が素早く立ち上がってから銃を抜いたと語った。[6]
あるインタビューでは、シーザーはRFKが撃たれるのを見なかったと答え、別のインタビューでは、医師がまだRFKを診察しておらず、何の声明も出していない銃撃の直後に、RFKが頭、胸、肩に4発撃たれるのを見たと答えている。[7]
シーザーはケネディ家を「地上に存在する最大のペテン師集団」と考え、アラバマ州の人種隔離主義者である
ジョージ・C・ウォレス(George C.Wallace)知事の大統領選挙キャンペーンに協力した。[8]
RFKを殺す前に、シーザーはフロリダの殺し屋と一緒にいるところをラスベガスで目撃されていた。彼を見た男は、シーザーは「ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の子飼い」であり、「とてつもなくタフ」であると語った。[9]
ヒューズは大手航空宇宙会社のオーナーであり、共和党やCIAと深いつながりを持つ「ラスベガスのゴッドファーザー」だった。[10]
ジム・ヨーダー(Jim Yoder)(RFKの死後、シーザーから暗殺に使われたとされる武器を購入している)は、シーザーはロッキード社の中でも特別な人しか入れない立入禁止区域で働いていたと主張している。これらのエリアは
CIAの管理下にあった。
RFK Jr.は、配膳室に隠れて彼の父RFKの出現を待っていたシーザーが父の後頭部を撃ったと考えている。あるいはこうだ。シーザーがRFKを抱えて脇の下を3発撃ち、その間に別の暗殺者(ウェイターの助手の服を着た男)がRFKの頭部に2発撃って殺した。銃はそれとわからないようにしたものか、あるいは隠せるほど小型のものだった。[11]
フィリピンにいるシーザーを訪ねることを計画し、最後は25、000ドルを要求されたというRFKジュニアは次のように述べている:
「配膳室には77人いたが、目撃者は皆、サーハンが常に父の前にいて、3~6フィートの距離にいたと言っています。サーハンはタックルされる前に父に向かって2発撃ちました。馬乗りにされた状態から、サーハンは8発の弾丸を込めた拳銃を空にして、反対方向に6発撃ち、そのうちの5発がたまたまその場にいた人間に当たり、1発があらぬ方向に飛んだのです。」
「シーザーは、黒人の公民権を擁護したケネディ家を憎む偏屈者でした。本人の証言によると、シーザーは父の真後ろで右肘を支えにして銃を抜いていた時、父は彼に覆いかぶさるように仰向けに倒れこんだのです。シーザーは銃をいつ抜いたのか正確な時間については何度も話の内容を変えています。」
「検視官のトーマス・ノグチ(Thomas Noguchi)博士によると 父を襲った4発の銃弾は すべて父の背後から発射された<密着>弾で 銃身が父の体にほぼ触れている状態でした。父は倒れながら手を伸ばしてシーザーのネクタイのクリップを引きちぎりました。」
「シーザーは暗殺の数週間後、 22口径を同僚[ヨーダー(Yoder)]に「これは犯罪で使われた銃だ」と警告しながら売っています。シーザーは 警察に対しては暗殺の数ヶ月前に 銃を処分したと嘘をついています。」
RFK Jr.の結論はこうだ:「
警察は父の殺害におけるシーザーの役割を真剣に調査したことはない。父の暗殺を調査したロス市警の部隊は何千もの証拠を破壊した現役のCIA工作員によって管理されている。」[12]
巨大なウソはウソでなくなる
サーハンが単独犯であることを否定する根拠は、6つのポイントに集約される:
1.サーハンの銃に込められる以上の銃弾が発射された
サーハンの銃には8発の弾丸が装填されていた。
関係者によれば、サーハンの銃弾のうち3発がRFKに命中し(4発目はコートを貫通)、5発が他の犠牲者に命中したとのことである。
しかし、弾丸1発も天井のどこかに飛んでいる。
現場写真では 捜査官がドアや天井に丸印をつけた弾痕を指し示している。
捜査官は6人の被害者の身体に12弾丸の侵入口を見つけ、天井には3つの銃弾の穴が撮影されていた。[13] ロス市警の犯罪捜査官デウェイン・ウルファー(DeWayne Wolfer)は「キッチンの天井にこんなにたくさんの穴があるなんて信じられない」と語っている。」[14]
チャールズ・ライト(Charles Wright)(警察技官)とロサンゼルス警察署員ロバート・ロッチ(Robert Rozzi)がアンバサダー・ホテル(ロサンゼルス)の厨房通路(この近辺でRFKは撃たれている)のドア枠で発見された弾痕を調査している。[写真:mercurynews.com]
印がつけられたドア枠の弾痕。[写真:riversong.wordpress.com] ポーランドのジャーナリスト、スタニスワフ・プルジンスキー(Stanislaw Pruszynski)が作成した音声テープには、13発の銃声が記録されていた。このテープを分析したところ、銃声が2つの別々の方向から聞こえてきたことがわかった。[15]
2.
RFKが撃たれたのは背後から。正面からではない。
ロサンゼルス郡検視官トーマス・ノグチ(Thomas Noguchi)の報告書(ロス市警の最終報告書からは不思議なことに消えてしまった)によると、RFKは後方から3発の銃弾を受けており、そのうち1発は右耳の後ろの頭部に当たっていた。この結論は、RFKを正面から撃ったとはサーハンだとすべての目撃者が証言しているのを除外している。
損傷をもたらした銃弾の軌跡。この3つの銃弾が背後から発射されRFKを死に至らしめたと信じられている。 このことでサーハンが犯人である可能性はなくなる。[写真: riversong.wordpress.com]
3.RFKは至近距離から撃たれている――サーハンは離れすぎていた
野口、ウォルファー(Wolfer)、パサデナの犯罪学者ウィリアム・ハーパー(William Harper)の3人は、科学捜査や目撃者の証拠をもとに、RFKを殺した銃撃は至近距離からのものであり、ほぼ直接接触していたと結論づけた。[16] サーハンはそこまで接近したことはなく、少なくとも3フィートは離れていた。[17]
4.銃は2丁、狙撃者は2人
サーハンの銃は、RFKを射殺した銃弾とは一致しなかった。銃器証拠の取り扱いを調査する大陪審での証言が予定されていた前日に暗殺されそうになったけれども、ウィリアム・ハーパー(William Harper)は、2丁の22口径銃が暗殺に関与していたと結論づけた。[18]
銃撃開始時にRFKの近くに立っていた写真家のエヴァン・フリード(Evan Freed)は、サーハン以外の別の男(サーハンに似ていたが黒っぽい服を着ていた)がRFKに向かって最初の銃撃を行い、その後だれかが彼をつかまえようとして失敗し、彼は配膳室から逃げ出したと語っている。[19]
同じ話を確認している目撃者も複数おり、新聞の下に銃を持った男と、水玉模様のドレスを着た女が配膳室から飛び出してくるのをしっかり見ている。[20]
ロサンゼルスのテレビ局KNXTの記者ドナルド・シュルマン(Donald Schulman)は、RFK暗殺の数分後の放送で、サーハンが銃を発砲した後、シーザーと呼ばれる警備員が撃ち返しRFKを3度殴ったと報じた。
また、シュルマンは、サーハンのものではない2丁の拳銃に気づき、どちらも発砲されていたと述べているが、これはロサンゼルス高等裁判所の公式審理で提出された証言や供述によって確認されている。[21]
5.カール・ユッカー(Karl Uecker)
最も重要な目撃者の一人は、アンバサダー・ホテルの支配人カール・ユッカー(Karl Uecker)である。彼は銃撃戦の最中、最初にサーハンを捕まえて取り押さえようとした。彼は映画監督のテッド・チャラック(Ted Charach)に、サーハンが犯人であるはずがないと語っている。以下は彼の言葉:
「
RFK上院議員の背後からサーハンが発砲することなどありえません。絶対にありえません!彼の身体はRFKの頭から1インチも離れていなかったのです。上向きに撃ち返したのがサーハンの銃だったとはとても思えません。私はそれを見ていたのですよ。私は一番近くにいました。サーハンが後ろからRFK上院議員にあそこまで近づくためには、私を追い越さなければならなかったのでしょうが、その時点で彼は私を追い越してはいません。私はサーハンにしっかり抱きつき、彼を蒸気保温台に押し付けていました。その間RFK上院議員がよろめきながら後ずさりし、シュレードは先に床に崩れ落ちていました。ですから、これはフィッツ(Fitts)氏(後にレーガン知事によってカリフォルニア州の高等裁判所に昇進した検察官)が陪審員に語ったことと一致しません。」[22]
蝶ネクタイはカール・ユッカー。他の男たちと一緒にサーハン・サーハンを抑えつけている。[写真: rfktapes.com] またユッカーは、もうひとつの銃を振り回した警備員(シェーン・シーザー)を見たと言っている。彼の証言によれば、彼がサーハンを取り押さえたのは2発目が撃たれた後だ。4発目の後ではない。これは、第2の狙撃者の存在をさらに証明するものになるだろう。なぜならRFKが脇の下に3発、頭に2発撃たれ、6人の犠牲者から7発の弾丸が回収されたのだ。[23]
調査官のリサ・ピース(Lisa Pease)は、「もし2発目の銃声の後にユッカーがサーハンを掴んでいたとしたら、JFKが近距離から4発撃たれたことが証明されているので、他の誰かがRFKを少なくとも2回は撃ったはずだ」と書いている。[24]
6.
RFKが撃たれたのは一段高い場所から
JFKは背中から撃たれただけでなく、誰かがJFKの頭上12~16インチの高さから、膝や体を蒸気保温台に乗せて撃っているのを見ている目撃者がいる。
これは、ユッカーを含む4人の信頼できる目撃者が、床からをやや上向きの軌道で撃ったと特定しているサーハンではあり得ないことだ。サーハンはRFKより4インチ背が低いのでそれは理屈が通る。[25]
さらにユッカーは、サーハンをヘッドロックで掴んだ後、テーブルの上に押し上げたことを明かした。サーハンは、それ以前はテーブルの上にはいなかったのだ。
テレビ局プロデューサーで選挙運動の補佐官をしていた31歳のリチャード・ルービック(RichardLubic)は、「ケネディ、この野郎」という声を耳にした後、陸上競技場のスタートの合図のピストルのような音を2発聞いている。
この2発の銃声は、小さなテーブルあるいはエアコンの吹き出し口に膝を乗せ、膝で体を持ち上げて高度を稼ぎながら撃っていた男からのものだった。彼は腕を出して撃っていた;サーハンは長袖を着ていた。[26]
「手品師の助手」としてサーハン
目撃者の中には、サーハンがおもちゃのピストルを撃っていると思った人もいた。本物の暗殺者は、サーハンが最初の一発を撃ち、人々が彼に注目するのを待って、素早く仕事を片付けたようだ。
サーハンの役割は、「手品師の助手」だった。彼は、心と目を欺くために意図された空砲を発射することで人々の気を逸らせた。[27]
犯人が一段高い位置にいたことも計画の一部だったのだろう。危機的状況では、人は自分の上ではなく自分の周りを見ようとする本能が自然に働くものなのだ。
水玉模様のドレスを着た女性 銃撃戦の後、パサデナ・シティ・カレッジ(Pasadena City College)に通う20歳の学生サンドラ・セラノ(Sandra Serrano)は、金色のセーターを着た20代の「ヒスパニック系っぽい」男性と、「スタイルが良くて」「鼻がおもしろい形をした」黒髪の白人女性が、黒の水玉模様の白いドレスを着ているのを目撃している。2人は廊下を非常口に向かって走っていた。
セラノは、夜にサーハンと一緒にいる二人を目撃しており、ヴィンセント・ディ・ピエロ(Vincent Di Pierro)は、RFKが撃たれる直前に、サーハンと水玉模様のドレスを着た女が邪悪な
笑みを浮かべているのを見たと語っている。
その女は非常口に向かって走っているとき、笑いながらセラノに向かって言った。「私たちはあいつを撃ったの! あいつを撃ったのよ。」 驚いたセラノが「誰を撃ったんだ?」と聞くと、彼女は「ケネディ上院議員!」と答えた
このやりとりを目撃したバーンスタイン(Bernstein)という老夫婦が、ロス市警のポール・シャラガ(Paul Sharaga)巡査部長にそのことを伝え、シャラガ部長はこの2人を広域手配した。
しかし、その時点で警察無線が不通になった。シャラガによると不通状態は15分から20分ほど続いたという。[28]
その後、ジョン・パワーズ(John Powers)警部補は、「これは連邦政府扱いの事件にはしたくない。容疑者はひとり拘留している」[29]と言って、その2人の容疑者の人物を特定する作業の中止を命じた。このコメントは、警察が事前に計画していた隠蔽工作を示唆している。
「ポチョムキン村*型犯罪」ポチョムキン村*・・・主に政治的な文脈で使われる語で、貧しい実態や不利となる実態を訪問者の目から隠すために作られた、見せかけだけの施設などのことを指す。「見せかけだけのもの」とは、物理的に存在するものであることもあるし、あるいは資料や統計など比喩的なものであることもある。 (ウイキペディア) 2018年に出版された『The Assassination of Robert F. Kennedy: Crime, Conspiracy and Cover-Up-A New Investigation(RFKの暗殺:犯罪、陰謀、そして隠蔽—新たな考察』の著者であるティム・テイト(TimTate)とブラッド・ジョンソン(Brad Johnson)は、LAPD(ロス市警)について以下のように書いている:
「(ロス警察は)ポチョムキン村[ソビエト組織の根底にある暴虐さを隠したソビエトのモデル村]を作りあげた。ハリウッドのセットのようなもので、証拠が見落とされ、破壊され、抑圧され、目撃者は無視され、脅されて口を閉ざされたという真実が、その表面的な見かけで隠されたのである。その後、ロサンゼルスの法執行機関は、自分たちの悪行と無能さを20年もの間、公式の秘密という、だれひとり入り込めない壁の後ろに隠して、ひどい話全体を封じ込めたのだ。」[30]
警察の不正行為の一例:セイン・シーザーの22口径の銃の弾道検査を行い、その弾がケネディを殺した弾と一致するかどうかを確認しようともしなかった。
さらに、a)サーハンの車には銃弾がこっそり置かれていた、b)犯行現場は適切なロープ張りがされていなかった、c)ホテルの従業員は犯行直後にキッチンの床に付着した血を拭き取ることを許可されていた、d)ロス市警はサーハンの裁判の前に犯行現場や捜査で撮影した2,400枚以上の写真を医療廃棄物焼却炉で
焼却していた、などの事実があった。[31]
この殺人事件を調査するために設置された市警の特別部隊、「RFK暗殺調査特別班(以下SUS)は、ロス市警歴22年のベテラン、マニュエル・ペナ(Manuel Pena)中尉が率いていたが、ペナ中尉は、ロス市警の歴史の中で最も多く11人を職務中に殺害したと言われている。[32]
1967年11月、ペナはロサンゼルス市警を一時的に退職し、CIA工作員として知られるバイロン・エングル(Byron Engle)が率いるCIAの出先であるUSAID(米国国際開発庁)の南アメリカ公共安全局で働いた。[33]
彼の同僚の一人であるダニエル・ミトリオネ(Daniel Mitrione)はインディアナ州の警察官で、米国で訓練を受けた警察官の間で拷問技術を推進したことへの報復として、ウルグアイの左翼ゲリラに誘拐され、殺された。[34]
カリフォルニア州の首席副検事総長チャールズ・A・オブライエン(Charles A. O’Brien)は
ウィリアム・ターナー(William Turner)に、USAIDは内部では「不正工作部門」として知られている「CIAの超極秘部隊」として使われており、外国の諜報員に暗殺の技術を教えることに関わっていると語っている。[35]
ペナは、RFK暗殺の捜査監督補佐として、CIAの同僚であるエンリケ・"ハンク"・ヘルナンデス(Sgt.Enrique”Hank”Hernadez)巡査部長を抜擢した。ヘルナンデスはポリグラフ(ウソ発見器)の専門家で、SUSでの実績が評価されて中尉に昇進した。
ヘルナンデスはCIAの「統一警察司令部」という中南米諸国向けの訓練作戦で重要な役割を果たし、フィデル・カストロによるキューバ革命のベネズエラへの輸出を阻止した功績により、ベネズエラ政府から勲章を授与されていた。[36]
[資料元:
survivorbb.rapeutation.com]
ヘルナンデスとペナの指示のもと、SUSは作家のウィリアム・ターナー(William Turnaer)とジョン・クリスチャン(John Christian)が言うところの「一種のバミューダ・トライアングル*」となり、CIAやFBIの関与を示すものを含む、事件に関する報告書や主要な手がかりが消えてしまった」。[37]
バミューダ・トライアングル*・・・フロリダ半島の先端と、大西洋にあるプエルトリコ、バミューダ諸島を結んだ三角形の海域。古くより船や飛行機、もしくは、その乗務員のみが跡かたなく消える事故が多発。科学的に解明できないことで、オカルト、超常現象ネタとして扱われることが多かった。(ウィキペディア) SUSはある時点で、FBIに「暗殺関して陰謀的な側面を示唆するような記事を書こうとした場合」には報告するように要請した。[38]
SUSは水玉模様のドレスを着た女性を尋問したが、テープは消去され、彼女を見た目撃者(
(特にサンドラ・セラーノ)は脅迫され、強要され、中傷された。[39]
広域手配の措置を取ったロス市警のポール・シャラガが報告書を作成の準備をしても、SUSはそれを握りつぶしてしまい、二度と日の目を見ることはなかった。[40]
さらにSUSは、野口検視官に偽証をさせようとした。
それを拒否したため、SUSは彼の能力と人格にケチをつけ、野口を停職処分とした。彼が発見したことは二度と日の目を見なかった。[41]
ニューオリンズの地方検事であるジム・ガリソン(Jim Garrison)が集めたJFK暗殺との関連を示す文書は、当然のことながら無視されたものの一つであった。[42]
RFKとセサール・チャベス(Cesar Chavez)*を憎んでいたカリフォルニア州北部の町アーリマート(Earlimart)の豊かな綿花牧場主ロイ・ドナルド・マレー(Roy Donald Murray)が、1968年5月にラスベガスのマフィア仲間に暗殺資金として2,000ドルを約束したという話を地元の警察官に聞かれても、ロス市警は何の行動も起こさなかった。[43]
セサール・チャベス*・・・アメリカの労働組合幹部であり公民権活動家。ドロレス・ウエルタとともに、彼は全国農業労働者協会を共同設立し、後に農業労働者組織委員会と合併して、労働組合になった。イデオロギー的には、彼の世界観は左翼政治とローマカトリック社会教説を組み合わせたもの。( ウィキペディア) またFBIは、ジミー・ホッファ(Jimmy Hoffa)と一緒にルイスバーグ(Lewisburg)刑務所に服役しており、ホッファが囚人仲間にRFKを殺したと自慢していたと語っているエドワード・ヒュー・ポール(Edward Hugh Pole)の報告について追跡調査しなかった。RFKはホッファが服役している間、彼を刑務所に入れる立場にある司法長官だった。[44]
やらせ裁判 リサ・ピースは、サーハンの裁判を 「やらせ裁判」と呼んだ。重要な目撃者は証言を求められず、弾道検査も依頼されず、ロス市警の話の矛盾や手抜き捜査は、サーハンの弁護団にも指摘されなかった。驚くべきことに、野口検視官の報告書には、2人の狙撃者の存在が詳細に記されており、サーハンが致命的な発砲をした可能性はないと明記されていたが、裁判では証拠として提出されず、サーハンの弁護士であるグラント・クーパー(Grant Cooper)が野口検視官の証言を遮った。
クーパーはまた、ロサンゼルス市警の犯罪捜査官デウェイン・ウルファー(DeWayne Wolfer)の証言も遮った。彼は後の調査で彼の行動には過失があったと指摘された。そして壁の銃弾の穴を指し示す写真を撮られたが、今では本物ではないと語っている。[45]
クーパーには、サーハンの裁判を通して重罪の起訴状がのしかかっていたが、死刑判決が下されるとそれは取り下げられた。[46]
グラント・クーパーと共同弁護士のエミール・ゾラ・バーマン(Emile Zola Berman)
[写真:outlet.historicimages.com]
マーティン・ルーサー・キング家の弁護士を務めた後、2010年にサーハンの事件を引き継いだウィリアム・ペッパー(William Pepper)は、「この対立がクーパーの嘆かわしい裁判実績に影響を与えた、より正確に言えば、裁判実績を方向づけたことに合理的な疑いを持つことはできない」と述べている。[47]
秘密のチーム リサ・ピースは、2018年に出版した『A Lie Too Big to Fail(巨大なウソはウソでなくなる)』の中で、暗殺チームには、マイケル・ウェイン(Michael Wayne)という21歳の書店員と、水玉模様のドレスを着た少女が含まれており、チームのメンバーがホテル内のどこにでも行けるようにするプレスバッジを集めていたことがそれとなく書かれている。
その後、ウェインは暗殺者(たち)が逃げる間の陽動作戦に貢献した。眉唾なのは、彼は以前ダイナマイトを盗んだ際に関わった右翼過激派のデュアン・ギルバート(Duane Gilbert)の名刺を持っていたことだ。
RFKとマイケル・ウェイン[写真:Source: twitter.com]
一晩中、暗殺チームは無線で連絡を取り合い、チームごとにホテルの別の部屋でRFK暗殺の準備をしていたようだ。
チームメンバーの一人が南西の非常階段を担当していたので、水玉模様のドレスを着た少女は、サーハンをホテルに忍ばせることができた。エビ茶色のコートを着た男が一晩中ドアの横に立って無線を持っていた。[48]
水玉模様のドレスを着た女性が、殺し屋と一緒に逃げるときに「私たちが撃ったのよ」と叫んだのは、裏口にいる仲間に知らせようとしたのかもしれない。
CIA特殊作戦部隊の影 この秘密チームは、高度に洗練された諜報活動の一環であり、大規模な救援チームを必要とし、ロサンゼルス市警、ロサンゼルス郡保安官事務所、地方検事局、州政府、メディア、連邦捜査局(FBI)への対応を必要としていたと思われる。
この作戦にはさらに、サーハンの弁護団のコントロール、訓練された暗殺者へのアクセス、そして催眠術をかけやすい人間へのアクセスが必要であった。これを全部こなせるのはCIAだけ。[49]
アイルランドの映像作家シェーン・オサリバン(Shane O’Sullivan)は、RFKが殺された夜にアンバサダー・ホテルで撮影された2人の男性を、同社の年次総会に参加していたアメリカの時計会社
ブローバ・ウォッチ・カンパニー(Bulova Watch Company)のセールスマネージャーと断定した。オサリバンは、
ブローバ社は「だれもが知るCIAの隠れ蓑」だと述べている。
ケネディが殺された夜、アンバサダー・ホテルで撮影されたマイケル・ローマン(Michael Roman)とフランク・オーウェンズ(Frank Owens)。彼らは、CIAの出先機関と考えられていたブローバ・ウォッチ・カンパニーで働いていた。当初、この2人はCIA工作員のゴードン・キャンベル(Gordon Campbell)とジョージ・ジョアニデス(George Joannides)だと考えられていた。[写真:riversong.wordpress.com]。 ハバナのアメリカ大使館で一緒に働いていたCIA工作員のブラッドリー・エアーズ(Bradley Ayers)と外交官のウェイン・スミス(Wayne Smith)は、RFK殺害の夜にアンバサダー・ホテルで撮影された写真の人物をCIAの暗殺者デビッド・サンチェス・モラレス(David Morales)だと
証言したが、モラレスを知る他の人々はそれを否定した。[
50]
オサリバンは、モラレスの元弁護士ロバート・ウォルトン(Robert Walton)のインタビューを取り上げ、モラレスの「あのクソ野郎を捕まえた時はダラスにいて、あのチビ野郎を捕まえた時は
ロサンゼルスにいた」という言葉を引用している。[51]。
また、水玉模様のドレスを着た謎の女性とCIAとの関連性も浮上してきた。目撃者によれば、彼女はカリフォルニア州レッドブラフ(Red Bluff)の高校を中退したパトリシア・エレイン・ニール(Patricia Elayn Neal)ではないかと考えられている。
1973年、彼女はハリウッドのミュージカルスター、ローズマリー・クルーニー(Rosemary Clooney)やカントリー歌手のグレン・キャンベル(Glenn Campbell)、1950年代のロックスター、エディ・コクラン(Eddie Cochran)のマネージャーをしていた朝鮮戦争の退役軍人ジェリー・ケープハート(Jerry Capehart)と結婚した。ジェリーはエディ・コクランと共同で何曲かの有名な曲を書いている。
正体不明の水玉模様の女性[写真:pressreader.com] ケープハート(Capehart)の息子であるレイ(Ray)は研究者にケープハートはかつてCIAで働いていたことがあり、マインドコントロールの実験に関わっていたと話している。[52]
これは偶然ではない。サーハンはマインドコントロールの実験台にされ、暗殺計画に参加するようにプログラムされていたと思われる。
映画『影なき狙撃者』の現実版 2010年、サーハンの代理人である弁護士は、カリフォルニア州中央地区連邦地方裁判所に、アンバサダー・ホテル配膳室での銃撃戦に「無意識的に参加した」とする申し立てを行った。その理由は、彼が「広範囲にわたる高度な催眠プログラムとマインドコントロールを受けて、映画『影なき狙撃者』の現実版ともいうべき暗殺ロボットになっていたから、というのが申し立て理由だ。
この映画は、ジョン・フランケンハイマー(John Frankenheimer)監督が1962年に製作した映画で、朝鮮戦争中に監禁されたアメリカ人兵士がアメリカの大統領候補を暗殺するようにプログラムされているという内容のものである。[53]
映画『影なき狙撃者』[出典:: amazon.com]
映画『影なき狙撃者』は、朝鮮戦争中に北朝鮮と中国がアメリカの捕虜を洗脳していたということを国民に確信させる補助手段としてのCIAの情報操作キャンペーンと完全に一致するものだ。
国民の側にこんな確信が吹き込まれていたので、アーティチョーク(Artichoke)作戦、ブルーバード(Bluebird)作戦、そしてMK-ULTRA作戦の下で自白薬を開発し、洗脳技術を進歩させるCIAの取り組みに何の異論も出なかった。人々をプログラムする目的で催眠術師を雇うということについてもそうだ。[54]
あるブルーバードのメモにはこう書かれていた。「催眠操作によって、個人の基本的なモラルに反する行動を作り出すことができるだろうか?被験者を確保し,催眠操作によって1時間か2時間の間に,飛行機を墜落させたり,列車を破壊させたりすることなどできるだろうか?人の人格を変えることができるだろうか?」[55]。
それらの問に対する答えは「Yes」のようだ。
2008年5月、サーハンは、ハーバード大学医学部の心理学教授で催眠術の専門家であるダニエル・ブラウン(Daniel Brown)博士の診察を受け、催眠術によって人格が変化した証拠があることを明らかにした。
ブラウンは、サーハンが特定の合図にロボットのように反応する人格状態に切り替わり、射撃場で銃を撃つような行動をとるのを観察した。この状態で、サーハンは実行制御能力を失い、完全な記憶喪失に陥っていることを示した。[56]
暗殺後、ロス市警の警官たちは、サーハンの中に、自分が何をしたのか本当に分かっていないようないような不気味なほどの落ち着きを感じた。暗殺の際に彼を取り押さえた2人の男は、サーハンの目が穏やかに見えたという。ケネディ上院議員の殺害を計画していたかとNBCの記者に聞かれたサーハンは、次のように答えている。「頭の中だけで考えていただけです。私はやりました。でもその意識はありませんでした。」[57]。
水玉模様のドレスを着た女性は、『影なき狙撃者を捜せ』のダイヤモンドのクイーンの役割を果たしていたのかもしれない。つまり、彼女はサーハンの催眠状態を引き起こすためにそこにいたのだ。[58]
1969年、サーハンに関して広範囲にわたる研究をしたサン・クエンティン(San Quentin)州立刑務所の心理学者エドワード・シムソン・カラス(Eduard Simson-Kallas)博士は、暗殺に関連するアラブ・イスラエルの政治についてのサーハンのコメントを「同じことを何回も繰り返すよう」で「役を演じる俳優が台本を読んでいるように話している」と表現した。[59]
シムソン=カラスは、サーハンはまさに『影なき狙撃者』であり、「誰かに仕込まれ、誰かに催眠術をかけられた」に違いないと思った。[60]
RFKがイスラエルにジェット爆撃機を送ったことの記憶が全くないことをサーハンは吐露している。その事実を知ったのはその2日後、新聞記事を読んだ上でのことだった。[61]
また、日記には資本主義を糾弾し、RFKを反動主義者と指摘する記述があったが、サーハンは左翼的な考えを持っていたわけではなく、政治に関心を持っていたわけでもなかった。
パサディナ・シティ・カレッジ(PCC)でのサーハンの最も親しい友人であるウォルター・クロウ(Walter Crowe)は、かつて大学で民主社会のための学生(SDS)グループを結成しようとしていたが、サーハンは「無関心」で参加しようとしなかった。[62]
催眠状態で書かれた彼の日記は、一見すると、RFK殺害だけでなく、左翼の評判を落とすことを目的とした陰謀計画が重要な部分を占めている。
サーハンの日記。彼にはこれを書いた記憶が全くない。さらに、書かれている
内容も彼の性格にはそぐわないように見える。[出典: rfktapes.com]
暗殺事件の前、サーハンは落馬した後、3ヶ月間姿を消していた(彼はジョッキーになる希望を持っていた)。[63]
当時、彼は頻繁にコロナ(Corona)に足を運んでいたが、そこには巨大な海軍地上戦センターがあった。彼はアメリカ政府のために働いていた可能性がある。[64] 特殊任務の訓練をしていたコロナ警察の射撃場に、サーハンの名前があった。[65]
ハーブ・エルフマン(Herb Elfman)は、サーハンが秘密の催眠グループに所属していることを警察に報告し、このグループのことを地元ラジオ局社員のスティーブ・アリソン(Stee Allison)に持ち込んでいる。スティーブはアメリカ催眠研究所のウィリアム・ジョセフ・ブライアント(William Joseph Bryant)博士(1924-1977)にインタビューするラジオ番組を担当した。
ブライアントは、アメリカ空軍の全医療サバイバル訓練の主任や、朝鮮戦争時の韓国での洗脳課などを務めた催眠術師のパイオニアである。
映画『影なき狙撃者』の相談役であり、CIAで長年催眠プログラムを担当していた。
RFKが撃たれてから何時間も経たない内に、彼はロサンゼルスのラジオ局のリスナーに、容疑者は「おそらく後催眠暗示にかかって行動した」と語っている。[66]
ブライアントとサーハンをつなぐ線があるとすれば、サーハンが日記の中で、ボストン絞殺魔、アルバート・デサルボ(Albert DeSalvo)について言及しているところだ。ブライアントはこの絞殺魔の研究をしていた。後になると、サーハンはデサルボについて書いた記憶が消え失せ、彼についての知識も全くないようだった。[67]
研究者のジョン・クリスチャン(John Christian)は、2人の売春婦にインタビューをしている。彼女たちの言い分では、ブライアントがサーハンのプログラミングをしたと彼女たちに打ち明けたというのだ。[68]
1977年3月、ブライアントは下院暗殺特別委員会に召喚された直後、ラスベガスのリビエラ・ホテルで死亡しているのが発見された。51歳。肥満であったことから自然死と言われた。検死は一切行われていない。[69]
CIAとマフィアの連絡係、ロバート・マヒュー(Robert Maheu)が黒幕だった?
二人の異なる内部関係者が、作家のリサ・ピース(Lisa Pease)に、ロバート・マヒューが暗殺の首謀者であると語った。
生涯、共和党員であったマヒューは、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の最高顧問であった。ジョニー・ロゼリ(Johnny Roselli)を通じてマフィアとの接点を持ち、CIAのために暗殺計画を実行していた。CIAの幹部がフィデル・カストロを殺害するためにマフィアを採用することを決めたとき、CIAはマヒューに頼った。[70]
連続テレビドラマ「ミッション・インポッシブル」のモデルとなったロバート・マヒュー・アソシエイツ社は、CIAの裏活動を支える組織であり、CIA工作員は同社の従業員となって正体を隠した。
さらにマヒューはロス市警や保安官に友人がいて、ロス市警と連携してCIAの作戦を実行していた。[71]
彼は、マヒューが所有するベル・エア・パトロール(Bel Air Patrol)社で働くセイン・シーザーを知っていた。シーザーはCIAのデータベースにCIA契約エージェントとして登録されていた。
1966年から1970年までハワード・ヒューズの最側近だったジョン・マイヤー(John Meier)は、1968年6月6日にラスベガスのデザート・イン・カントリークラブ(Desert Inn country Club)で、マヒューとリチャードの兄であるドン・ニクソン(Don Nixon)が会った時のことを語っている。
マヒューは満面の笑みで、ドン・ニクソンも満面の笑みで入ってきた。ドン・ニクソンが「あの野郎、死んじまったな」と言うと、マヒューは「お前の弟が入ったみたいだな」と言った。[72]マヒューは、ドン・ニクソンを「副大統領さん」と呼ぶべきだと冗談を言った。
この会話は、マヒューがRFK殺害の背後にいたことを証明するものではないが、明白な動機にはなる。かつての上司であるハワード・ヒューズと共有していた動機だ。
ヒューズはRFK暗殺事件後、マヒューに「ケネディ家とその金の影響力は、私がビジネス活動を始めた当初から、私の腹に容赦なく突き刺さっていた棘だった...私はちょこまか動くのは嫌いだが、しかしこれは一生に二度あるかどうかという機会だ。私は大統領になることは目指しているわけはない[ママ]が、政治的な力は欲しいと思っている。......そして、私たちが必要としている人材が、まさに私たちの手の中に落ちてきているように思えるのだ。」[73]
イラン国王シャーの秘密警察SAVAKの犯行?
作家のロバート・モロー(Robert Morrow)は、1988年の著書『The Senator Must Die』の中で、示唆しているのは、次の点だ。RFKの暗殺者はアリ・アーマンド(Ali Ahmand)という偽名を使って、イランのシャーの体制下でイランの諜報機関で仕事をしており、この暗殺事件の要員としてサーハンを採用している、ということだ。[74]
モローによれば、CIAの後ろ盾のクーデターでイラン国王になったシャーがケネディ一家を敵視し始めたのは、上院議員だったジョン・F・ケネディが、米国国際開発庁(USAID)の資金を不正に使用していたことを突き止め、上院議場でシャーを攻撃したためだ。
RFKはその後、世界各地への親善旅行でイランを迂回してシャーをいなし、RFKは大統領に選出された後はすべての援助を打ち切ると脅した。その後、父親のジョセフ(Joseph)が仲裁に入ったのだった。[75]
JFKが暗殺されたとき、シャーは内々喜んでいた。1968年の選挙では、ニクソンを支援するために数百万ドルを投じた。[76]
シャーと米国マフィアとの連絡係だったアレックス・グダリ(Alex Goodaryi)は、「マフィアは、ニクソンが大統領になれば、シャーは最終的に石油価格を上げ、アメリカの支援を受けて中東全体を支配する立場になる、とも。しかし、RFKが勝利すれば、シャーは今後のアメリカの援助や軍事支援から完全に孤立し、世界的な非難を受けることになるだろう」と述べている。[77]
モローの仮説によれば、シャーはCIAが作ったシャーの秘密警察SAVAKのトップであるマンスール・ラフィザデ(Mansur Rafizadeh)大佐にRFKの抹殺を命じ、ラフィザデはサーハンともう一人の主犯格であるカリド・イクバル(Khalid Iqbal)ことアリ・アーマンド(Ali Ahmand)をリクルートした、という。[78]
アンバサダー・ホテルでの写真には、RFKの大統領選キャンペーンを担当していたカリフォルニア州議会議長のジェシー・アンルー(Jesse Unruh)の隣に、黄色いセーターを着てカメラを首からぶら下げたイクバルが写っていた。
モローの考えではこうだ。①カメラは偽装された銃であり、②サーハンがその場にいたのは、イクバルの暗殺実行と、暗殺実行後、共犯者である水玉模様のドレスを着た女性と一緒に逃亡させることを可能にするための陽動作戦だった。[79]
サーハンはRFKに向かって2発撃ったが、体当たりされ周囲の注意が彼に集まった。そのためイクバルに実行に必要な空間的余地が生じ、彼は殺傷用のカメラをケネディの耳の後ろに素早く引き当て、彼の耳の後ろに4発撃った。
その場にいた男たちがサーハンの上にのしかかり、大混乱状態となった。その後、イクバルは共犯者に合図をして、人ごみをかき分けて廊下を通って出口にたどり着き、黒光りする車に飛び乗ってウィルシャー(Wilshire)大通りを走ってホテルから離れた。[80]
イクバルの記述は、水玉模様のドレスを着た少女に同行していた男性の目撃証言と一致しているが、モロー説の証拠は裏付けが取れていない。イクバルは、本名をカリド・イクバル・ケワー(Khalid Iqbal Khewar)といい、モローの証言を掲載したボストン・グローブ紙を名誉毀損で訴え、勝訴して120万ドルの損害賠償を得ている。[81]
アラード・ローウェンスタイン アラード・K・ローウェンスタインは、全米学生協会(NSA)の元理事で、1969年から1971年までニューヨーク州ナッソー郡の民主党下院議員であり、ジョンソンがベトナム戦争を支持していたことから「ジョンソンを首にしろ!(Dump Johnson)」運動を主導していた人物である。[82]
RFKの死に憤慨した彼は、RFKが背後から至近距離から発射された銃弾に撃たれたことを明記した野口氏の検死報告書を再調査することができた。ローエンスタインはまた、裁判記録を精査し、RFKの背後から数センチのところにサーハンの銃があったとする証言を探したが、そんな証言はひとつもなかった。
その後、ローウェンスタインは、さらに念を入れて、サーハンがRFKから数インチではなく数フィート離れていたことや、2発撃った後にサーハンが取り押さえられていたことなどを指摘した複数の目撃者にインタビューを行った。その結果、彼らの話は以前の証言と一致していた。
ローウェンシュタインの問い合わせに対するロサンゼルス市警からの公式な回答は、ガードを固めたのらりくらりしたものだった。事実とは正反対の情報を伝えるプロパガンダキャンペーンが行われていることに彼は気づいた。
1980年3月、ローウェンスタインはオフィスで、かつての弟子デニス・スウィーニー(Dennis Sweeney)に射殺された。スウィーニーは、いろいろ正気とも思えない供述をしているが、「CIAの送信機から送られてくるメッセージを自分の頭の中で受信した」という供述もある。スウィーニーがローエンスタインを撃った後、スウィーニーは冷静にローエンスタインのオフィスで逮捕されるのを待っていた。逮捕されたスウィーニーは、精神異常者とみなされ、精神病院に収容されることになった。
ローウェンスタインは、狙撃された時点で、ジミー・カーター大統領から「その年の11月にカーターが2期目の大統領に再選されたら、サーハン事件の捜査を再開する」という約束を取り付けられる寸前だった。しかし、作家のロバート・ヴォーン(Robert Vaughn)はこんなことを言っている:
「ローエンスタインは死んだ。そしてカーターはレーガンに敗れ、RFK殺人事件に対する公式の沈黙のベールは手付かずのままになっている。」[83]
カマラ・ハリス(Kamala Harris)と政府隠蔽工作の継続 2012年、カリフォルニア州の司法長官を務めていたカマラ・ハリス(現副大統領)は、サーハンの再審請求を却下した。
彼女は、「陽動作戦として銃を撃つように催眠術をかけられていた」というサーハンの主張を覆す「
圧倒的な証拠」が存在すると主張した。
ハリスが連邦裁判所で
述べたこと:
「(サーハンが)どう考えても明確にできないのは、陪審員に理性があって、彼に関する「新しい」証拠や主張をしっかり考慮すれば、彼を有罪にすることはできなかっただろう、という点だ。有罪判決を裏付ける圧倒的な証拠あるし、サーハンの第2の狙撃者説やオートマトン(心理的な操り人形)説を完全に否定する証拠も揃っている。」
実際には、拙論で紹介したように、サーハンの「第2の狙撃者」説を裏付ける圧倒的な証拠がある。きちんとした根拠があるのだ。
その証拠は、目撃者の証言から、検死報告書、さらにはサーハンの銃に込められた弾丸の数よりも多くの弾丸が発射されたという事実まで多岐にわたる。
また、オートマトン理論については、さらなる調査を必要とする状況証拠がある。
もしRFKが生きていたら… ハリスの姿勢は、RFK暗殺の真実を隠蔽し、暗殺に連座した権力者たちを守るための、政府当局による50年以上にわたる取り組みの一環である。
もしRFKが生きていたならば、アメリカの歴史は今とは異なる展開をしただろう。
ひとつには、民主党を分裂させ破壊したヒューバート・ハンフリー(Hubert Humphrey)指名後の党大会外での大暴動は絶対起こらなかったであろうということである。[84]
もしRFKが暗殺されなかったなら、シカゴにおける民主党大会会場の外で発生した抗議行動
もそれに対する残虐な弾圧も絶対に起こらなかっただろう。もしケネディが生きていたら、ニクソンの代表的な政策である「麻薬戦争」は宣言されず、アメリカが現在のような警察国家に発展することはなかったかもしれない。[出典:youtube.com]. RFKは、1960年に兄JFKがニクソンを破ったのと同じように、大統領としてベトナム戦争を終結させ、貧困との戦いを拡大し、麻薬との戦いを停止させたかもしれない。
もしケネディが生きていたら、ニクソンの代表的な政策である「麻薬戦争」は宣言されず
アメリカが現在のような警察国家に発展することはなかったかもしれない。[出典:youtube.com].
「民主社会をめざす学生」(SDS)は、ニクソン流の弾圧で崩壊するのではなく、民主党内で影響力のある左派系の幹部会や、カナダの新民主党(NDP)に相当する新しい社会民主主義政党に発展していたかもしれない。
これは、アメリカの保守派と「影の国家」の腐敗分子にとって悪夢のようなシナリオだった。彼らはRFK暗殺を実行することで、彼と彼の支持者が掲げていた「より良いアメリカ」への希望を破壊したのだ。
Notes
1. See Larry Tye, Bobby Kennedy: The Making of a Liberal Icon (New York: Random House, 2017); Lester David and Irene David, Bobby Kennedy: The Making of a Folk Hero (New York: Dodd, Mead & Co., 1986); Edward R. Schmitt, President of the Other America: Robert Kennedy and the Politics of Poverty (Amherst, MA: University of Massachusetts Press, 2011). Kennedy to be sure had some neoliberal views, suggesting not long before his death that welfare had “destroyed self-respect and encouraged family disintegration.”
2. David and David, Bobby Kennedy, 4.
3. Lisa Pease, A Lie Too Big to Fail: The Real History of the Assassination of Robert F. Kennedy (Los Angeles: Feral House, 2018).
4. Tim Tate and Brad Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy: Crime, Conspiracy and Cover-Up—A New Investigation (London: Thistle Books, 2018) ,101; Mel Ayton, The Forgotten Terrorist: Sirhan Sirhan and the Assassination of Robert F. Kennedy(Washington, D.C.: Potomac Books, 2007), 49-73.
5. Compton served as an LAPD detective in the 1950s and was connected to the LAPD’s red squad. See Tom O’Neill, with Dan Piepenberg, Chaos: Charles Manson, the CIA, and the Secret History of the Sixties (Boston: Little, Brown and Company, 2019), 233.
6. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 230.
7. William Turner and Jonn Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy: The Conspiracy and Coverup (New York: Carroll & Graf, 1993), 167, 168.
8. Cesar stated that he “never would have voted for Bobby Kennedy because he had the same ideas as John did, and I think John sold the country down the road. He gave it away to the commies … he literally gave it to the minority.” Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 231. In the 1980s, Cesar supported Ronald Reagan.
9. Pease, A Lie Too Big to Fail. According to researcher Alex Botus, Cesar was connected to the California mobster John Alessio. Robert Melanson, Who Killed Robert Kennedy?(Berkeley, CA: Odonian Press, 1993), 42. Cesar told journalist Dan Moldea about diamond purchases he had made for the Chicago mob between 1968 and 1974.
10. Robert Maheu and Richard Hack, Next to Hughes: Behind the Power and Tragic Downfall of Howard Hughes by His Closest Advisor (New York: HarperCollins, 1992).
11. Pease, A Lie Too Big to Fail, 483.
12. Chris Spargo, “Robert F Kennedy was assassinated by Thane Eugene Cesar, declares RFK Jr, who says it was the security guard who fatally shot his father from behind after planning the murder with Sirhan Sirhan,” Daily Mail, September 12, 2019, https://www.dailymail.co.uk/news/article-7456521/Robert-F-Kennedy-assassinated-Thane-Eugene-Cesar-Sirhan-Sirhan-says-RFK-Jr.html
13. Pease, A Lie Too Big to Fail, 256; Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 138; Mikko Alanne, “Why the RFK Assassination Case Must Be Reopened,” The Huffington Post, April 4, 2012, https://
www.huffpost.com/entry/rfk-sirhan_b_1251410. Pease suggested that the number of bullets could be as high as 17.
14. Melanson, The Robert F. Kennedy Assassination, 41. Two ceiling tiles were allegedly removed, including several outside of Sirhan’s range of fire.
15. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 191, 195, 196. Nina Rhodes-Hughes, a Kennedy fundraiser, stated that she
www.huffpost.com" >heard 12-14 shots fired, though the FBI quoted her falsely as having heard eight shots, which she explicitly denied is what she told them. Some claim the sound of shots in Pruszynski’s audio tape may have been sounds of people fumbling or microphones bumping into things. Ayton, The Forgotten Terrorist, 133,
16. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 86, 87; Philip Melanson, The Robert F. Kennedy Assassination: New Revelations on the Conspiracy and Cover-Up, 1968-1991 (New York: Shapolsky, 1991), 34, 35.
17. Pease, A Lie Too Big to Fail, 183. Wolfer interestingly later became president of Ace Security Services, the same company which Thane Cesar had worked for on the night of RFK’s assassination.
18. Pease, A Lie Too Big to Fail; Lisa Pease, “Sirhan Says ‘I Am Innocent,’” in The Assassinations: Probe Magazine on JFK, MLK, RFK, and Malcolm X, James DiEugenio and Lisa Pease, eds. (Los Angeles: Feral House, 2003), 532; Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, 158.
19. William Klaber and Philip H. Melanson, Shadow Play: The Unsolved Murder of Robert F. Kennedy (New York: St. Martin’s Griffin, 2018) 106, 107. Freed related that he was contacted by the FBI afterwards but that they “seemed to be avoiding asking me questions about the 2nd gunman.” According to most witnesses, the second shooter was taller than Sirhan,
20. Klaber and Melanson, Shadow Play, 108, 109; Robert Blair Kaiser, “R.F.K. Must Die!”: Chasing the Mystery of the Robert Kennedy Assassination, rev ed. (Woodstock, NY: The Overlook Press, 2008), 73.
21. Pease, A Lie Too Big to Fail; Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, xxiv, 161, 165; Klaber and Melanson, Shadow Play, 98. Schulman
specified that the security guard behind Kennedy had fired his gun. He said Kennedy had been shot three times, but the FBI insisted to him that he had been shot twice which was wrong. Curiously, there is no record of him having been interviewed by the LAPD.
22. Pease, A Lie Too Big to Fail, 213.
23. Pease, A Lie Too Big to Fail, 213. [NOTE: Should 23, 24 and 25 be “Idem.”? They are identical to note 22.]
24. Pease, A Lie Too Big to Fail, 213.
25. Pease, A Lie Too Big to Fail, 213.
26. Pease, A Lie Too Big to Fail, 280.
27. Pease, A Lie Too Big to Fail.
28. Robert D. Morrow, The Senator Must Die (Santa Monica, CA: Roundtable Publishing, 1988), 203, 204, 211; Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 248, 249, 250; Melanson, The Robert F. Kennedy Assassination, 183, 244. Strangely, the LAPD’s log omits reference to the girl in the polka-dot dress. One witness, Earnest Ruiz, thought he saw the man later come back into the pantry as Sirhan was being removed and was the first to yell “let’s kill the bastard.” An alternative scenario with the woman in the polka-dotted dress is presented in Ayton, The Forgotten Terrorist, 154.
29. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 211. For a reporter’s auest for the truth about the woman in the polka-dot dress, see Fernando Faura, The Polka Dot File on the Robert F. Kennedy Killing: The Paris Peace Talks Connection (Walterville, OR: Trine Day, 2016).
30. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 360.
31. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 360; Ayton, The Forgotten Terrorist, 142; The Assassinations, Pease and Di Eugenio, eds., 533. The LAPD also “lost” the records from Sirhan’s blood test and destroyed the doorframes from the crime scene that possessed the bullets.
32. Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, 64. LAPD chief of detectives Robert Houghton, in his book Special Unit Senator: The Investigation of the Assassination of Senator Robert F. Kennedy (New York: Random House, 1970), boasted that Pena had commanded detective divisions, supervised a bank robbery squad, spoke French and Spanish and had connections with various intelligence agencies in several countries.
33. On the OPS, see Jeremy Kuzmarov, Modernizing Repression: Police Training and Nation Building in the American Century (Amherst, MA: University of Massachusetts Press, 2012).
34. See A.J. Langguth, Hidden Terrors: The Truth about U.S. Police Operations in Latin America (New York: Pantheon, 1979). Mitrione’s motto was “the right pain, in the right place, at the right time.”
35. Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, 65. FBI agent Roger LaJeunesse claimed that Pena had been carrying out CIA special assignments for at least ten years. This was confirmed by Pena’s brother, a high school teacher, who told television journalist Stan Bohrman a similar story about his CIA activities.
36. Morrow, The Senator Must Die, 210. Hernandez had claimed to have administered a polygraph test to Venezuelan dictator Marco Jimenez who was replaced by CIA favorite Romulo Betancourt. Hernandez died in 1972 at age 40. At the time of his death, he had begun to express doubt about the Sirhan lone gunman theory.
37. Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, xxiii.
38. Melanson, The Robert F. Kennedy Assassination, 134, 135.
39. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 276; Morrow, The Senator Must Die, 213; Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, xxiv.
40. Morrow, The Senator Must Die, 212. Scharaga subsequently was forced to leave the LAPD.
41. Morrow, The Senator Must Die, 223. Thomas Noguchi, Coroner (New York: Simon & Schuster, 1983).
42. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 211, 212, 213. The Garrison documents included one obtained from a raid on the right-wing National States Rights Party which had the initials of three people to be eliminated: JFK, MLK, RFK.
43. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 214, 216, 216, 217.
44. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 221, 222.
45. Klaber and Melanson, Shadow Play, 91, 92, 93.
46. Klaber and Melanson, Shadow Play, 38, 235. Cooper’s
strategy in the trial had been to try to avoid the death penalty by pursuing an insanity defense. Cooper stunningly admitted to onetime New York Congressman Allard Lowenstein that, “had he known during the trial” what he had since learned, “he would have conducted a different defense.” The felony was for possessing stolen transcripts of the grand jury proceedings in the Beverly
Hills Friar’s Club card cheating case in which was one of the defendants.
47. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 346. Famed forensic pathologist Cyril Wecht stated that “any first-year law
student would have done a better job than Sirhan’s counsel [Cooper].”
48. Pease, A Lie Too Big to Fail; The Assassinations, Pease and Di Eugenio, eds., 599.
49. Pease, A Lie Too Big to Fail, 487. Researcher Philip Melanson identified the LAPD as one of the police forces that indeed maintained a clandestine relationship with the CIA. Melanson, The Robert F. Kennedy Assassination. Prosecutor Lynn “Buck” Compton and District Attorney Evelle Younger both had verifiable intelligence ties. So did Jolyon West, a CIA-affiliated psychiatrist who examined Sirhan and proclaimed that Sirhan was the “lone assassin.”
50. Manny Chavez, a former U.S. Air Force Intelligence officer who served in Venezuela as a military attaché in 1957-59 while David Morales was assigned to the CIA Station there for a year, said that, after careful study, he was convinced that the person in the photo was not Morales as he knew him up until 1963. Ayton, The Forgotten Terrorist, 169.
51. Smith said that, if Morales was there the night Kennedy was killed, he had to have something to do with it. Morales died of a “heart attack” before he was slated to testify before the House Select Committee on Assassinations in 1978. After
Morales fell ill, it took the medics five hours to get him to a hospital and did not provide him any oxygen. His friend Ruben Carbajal told filmmaker Shane O’Sullivan that “the people who killed Morales were the same people he had worked for—the CIA—he knew too much.”Carbajal, however, does not believe that the man identified by Ayers and Smith as Morales was in fact Morales.
52. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 286, 287, 288, 291, 292. Neal died in February 2012 at age 63 from cirrhosis due to her alcoholism. She had dropped out of high school after becoming pregnant and marrying the father, her first husband, who was then shipped off to Vietnam, and may have worked at one time as a prostitute. She moved to Missouri with Capehart after their marriage in 1973 and divorced him after 11 years. Neal’s kids remembered that their mother had been haunted by something in her past and expressed fears about being followed. She maintained an obsession with a polka-dotted dress she kept stored away in her home. Capehart once told the kids that she was the famous girl in the polka-dotted dress, though expressed anger when she put the dress on and was going to wear it in public at a church service. Journalist Fernando Faura interviewed John Fahey, a
salesman for the Cal Tech Chemical Company who met the girl in the polka-dot dress at the Ambassador Hotel the morning of RFK’s assassination and spent the day with her driving up the California Coast. Fahey said that she was nervous on that day but did not specify why, and
suggested she was looking to escape to Australia and might be able to get safe passage out of the U.S. on a CAT or Flying Tiger airline, which was a CIA propriety. Faura, The Polka Dot Files on the Robert F. Kennedy Killing.
53. Frankenheimer ironically drove Robert Kennedy to the Ambassador Hotel on the night of his death in his Rolls-Royce after Kennedy stayed at his Malibu mansion.
54. See Jonathan Marks, The Search for the Manchurian Candidate: The CIA and Mind Control, rev ed. (New York: W.W. Norton, 1991).
55. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 303.
56. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 235, 324.
57. Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, 194; The Assassinations, Pease and Di Eugenio, eds., 533. Two waiters observed Sirhan smiling. Earlier in the evening, a witness observed Sirhan staring at a teletype machine, as though transfixed.
58. Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, xxix.
59. Melanson, Who Killed Robert Kennedy? 65.
60. Turner and Christian, The Assassination of Robert F. Kennedy, 199.
61. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 334. All the other candidates in the 1968 election supported military aid to Israel, marking Sirhan’s motive as generally suspect.
62. Melanson, Who Killed Robert Kennedy? 65.
63. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 330, 331.
64. Pease, A Lie Too Big to Fail, 409.
65. Ibid. Some researchers suspect that
Sirhan was hypnotized at the Santa Anita racetrack where he worked as a jockey. Sirhan worked there with Thomas Bremer, whose brother Arthur shot presidential candidate George C. Wallace in 1972 in an attempted assassination that also benefited Richard M. Nixon’s election chances.
66. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 331; Melanson, The Robert F. Kennedy Assassination, 202.
67. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 332.
68. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 334.
69. Tate and Johnson, The Assassination of Robert F. Kennedy, 334; Philip Melanson, The Robert Kennedy Assassination: New Revelations on the Conspiracy and Cover-Up, 1968-1991 (New York: Shapolsky, 1991).
70. Maheu, Next to Hughes, 108-34.
71. Pease, A Lie Too Big to Fail. One of these operations was the manufacture of a pornographic film allegedly showing Indonesia’s socialist leader Sukarno in a compromising position with a female Russian agent. On Maheu’s CIA ties, see also Bayard Stockton. Flawed Patriot: The Rise and Fall of CIA Legend Bill Harvey, (Virginia: Potomac Books, 2006), 17
72. Pease, A Lie Too Big to Fail, 493.
73. Maheu, Next to Hughes, 206-207. After Kennedy’s death, Maheu assisted Hughes in giving Hubert Humphrey a donation of $50,000.
74. Morrow, The Senator Must Die. [NOTE: Should there be page numbers here?]
75. Morrow, The Senator Must Die, 176, 177.
76. Morrow, The Senator Must Die, 178.
77. Morrow, The Senator Must Die, 178.
78. Morrow, The Senator Must Die, 178.
79. Morrow, The Senator Must Die, 186.
80. Sirhan expected to be arrested but accepted the reward of a sizeable check deposited into his bank account. He believed that he would be regarded as a hero in Jordan and the Arab World.
81. Ayton, The Forgotten Terrorist, 159, 160.
82. David and David, Bobby Kennedy, 280.
83. Robert Vaughn, A Fortunate Life (New York: St. Martin’s Press, 2008), 258.
84. Chicago Mayor Richard Daley, who spearheaded the repression of the protests, supported Kennedy.
Featured image: [Source: washingtonpost.com; collage courtesy of Steve Brown]
The original source of this article is CovertAction
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