<記事原文 寺島先生推薦>
The Tragic Death of a Traitor Part One: Origins筆者:スコット・リッター (SCOTT RITTER)
出典:Scott Ritter Extra 2024年2月21日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年3月21日
逮捕されたアレクセイ・ナワリヌイ西側諸国での人気が、ロシア国内での支持をはるかに上回っていたロシアの野党政治家アレクセイ・ナワリヌイが、ロシアの刑務所に収監中に死亡した。彼は詐欺と政治的過激主義の罪で合わせて30年半の刑に服していた。ナワリヌイと彼の支持者たちは、近年ロシアで最も声高にプーチン大統領を批判する人物として頭角を現していた彼を黙らせるためのでっち上げの告発に過ぎないと主張している。
ロシア連邦刑務局が発表した声明によると、「2024年2月16日、第3収容所において、アレクセイ・ナワリヌイ受刑者は散歩の後に気分が悪くなり、ほとんどすぐに意識を失った。施設の医療スタッフが直ちに到着し、救急隊が呼ばれた。必要なすべての蘇生措置が施されたが、良い結果は得られなかった。救急車の医師は、受刑者の死亡を確認した。死因は現在調査中である。
アレクセイ・ナワリヌイは死亡時47歳。妻のユリアと2人の子供が残された。
ナワリヌイは、モスクワの北東約2000キロに位置するヤマル・ネネツ自治管区の集落ハルプにあるIK-3刑務所で刑期を終えていた。そこで服役していた受刑者たちによると厳しく、残虐な刑務所であったという。
スコット・リッターがこの記事について『Ask the Inspector.』第136話(Ep. 136)で取り上げる。
ナワリヌイの死は欧米で広く非難され、ジョー・バイデン大統領もホワイトハウスのルーズベルト・ルームから長文の声明を発表した。ナワリヌイは「プーチン政権が行なっていた腐敗、暴力、そして...あらゆる悪事に勇敢に立ち向かった。それに対してプーチンは彼を毒殺した。逮捕させた。でっち上げの罪で起訴させた。彼は刑務所に入れられた。彼は隔離された。それでも彼はプーチンの嘘を告発することを止めなかった。」
バイデンは述べた。「刑務所の中でさえ、彼(ナワリヌイ)は力強く真実を訴えていた。そして、彼は2020年に暗殺未遂に遭い、危うく命を落とすところだった。しかし彼は、......彼はそのとき国外を旅行していた。そのまま国外に滞在せずに、彼はロシアに戻った。仕事を続ければ投獄されるか、殺される可能性が高いと知りながらロシアに戻ったが、とにかく彼は自分の国、ロシアを深く信じていたからだ。」
バイデンは、ナワリヌイの死の責任を、ロシアのプーチン大統領の足元に真っ向から投げつけた。「間違いはない。プーチンはナワリヌイの死に責任がある。プーチンには責任がある。ナワリヌイの身に起きたことは、プーチンの残忍さをさらに証明するものだ。ロシアでも、国内でも、世界のどこでも、誰も騙されてはならない。」 ナワリヌイは、「プーチンとは違って、多くのことを行なっていた。彼は勇敢だった。信念を持っていた。彼は、法の支配が存在し、それがすべての人に適用されるロシアを建設することに専念していた。ナワリヌイはそのロシアを信じていた。彼はそれが戦うに値する大義であり、明らかにそのために死ぬことさえあることを知っていた」。
夫が亡くなった2024年2月16日、ミュンヘン安全保障会議でのユリア・ナワリヌイナワリヌイの妻、ユリア・ナヴァルナヤは、カマラ・ハリス副大統領とアントニー・ブリンケン国務長官が出席したミュンヘン安全保障会議の前で、彼の死を訴えた。「私は、プーチンとその周囲全体、つまりプーチンの友人たちや政府に知ってほしいのです。そして、その日はすぐにやってくるでしょう」と彼女は宣言し、「ウラジーミル・プーチンは、彼らが私の国、私たちの国、つまりロシアに対して行なっているすべての恐怖の責任を負わなければなりません」と付け加えた。
歴史的にロシアと敵対してきた国々の指導者やメディアからも、同様の悲しみと支援の声が上がっている。ナワリヌイは、生きているときよりも、死んでいるときのほうがより多くの支持を集めることができたようだ。
ナワリヌイは、「ロシアの民主主義」の理想的な象徴として、神話に近い地位に昇格した。
しかし、真実は大きく異なる。
アレクセイ・ナワリヌイと両親、弟のオレグ(1980年代半ば)。ナワリヌイは1976年6月4日生まれ。父親はソ連陸軍のキャリア将校だった。ナワリヌイの母親によると、息子は夫がソ連の状況悪化について他のソ連軍将校と交わした会話を聞いて過激化したという。ナワリヌイは1998年にモスクワの人民友好大学で法律の学位を取得した後、2001年に国立金融アカデミーで経済学の修士号を取得した。在学中、ナワリヌイは政治に関わるようになり、1999年にリベラルな野党連合「ヤブロコ」に加入した。
「ヤブロコ(ロシア語で「リンゴ」を意味する)」は1993年、エリツィン大統領に反対するロシア下院の投票ブロックとして発足した。実際、1999年5月(ナワリヌイが加入した年)、「ヤブロコ」はエリツィン大統領の弾劾に賛成票を投じた(将来の政治的方向性を考えると皮肉なことだが、1999年8月、このブロックはウラジーミル・プーチンの首相選出にも賛成票を投じた)。1990年代の10年間は、ロシアの生活環境が大幅に悪化し、ロシアの政治、経済、社会のほぼすべての面で汚職が目立っていた。2001年12月、ヤブロコは政党登録を申請し、許可を得た。
ナワリヌイが政治的に成熟したのは、ロシアの民主主義機関がほとんど西側の機関によって組織され、資金を提供されていた時期であった。その使命は、「中央集権的な共産主義体制に代わって民主主義を構築する歴史的な機会を生かす」ことであり、「あらゆる民主的な制度、民主的なプロセス、民主的価値観」を創造し、育成することによって、「ロシア政府の対応力と実効性」を高めることであった。このプログラムは、「民主化推進派の政治活動家や政党、改革推進派の労働組合、裁判所制度、法科大学院、政府高官、メディアのメンバー」に対して、財政的・経営的支援を提供した。米国が資金提供したロシアにおける政党育成プログラムは、全米民主化基金(NED)と米国国際開発庁(USAID)の助成金により、全米民主主義研究所(NDI)と国際共和国研究所(IRI)によって実施された。
2005年、ナワリヌイはもう一人の政治活動家マリア・ガイダル(元首相イーゴリ・ガイダルの娘で、政党「右派連合」のメンバー)と協力し、「民主的代替案」(DA)と呼ばれる連合を結成した。マリア・ガイダルは2005年に米国政府高官に対して行なった声明で、資金提供のほとんどがNEDからであることを認めたが、米国と公然と提携することによる政治的・法的影響を恐れて、この事実を公表しなかった。NEDのもう一人の資金提供者は、チェスの元チャンピオンから政治活動家に転身したゲーリー・カスパロフである。彼は2005年に「統一市民戦線」を結成し、2007年から2008年にかけての選挙で新しい指導者を下院議員や大統領に選出できるよう、ロシアの現在の選挙制度を解体することを目的とした組織を結成した。
2007年から2008年という時期は非常に重要だった。1999年の大晦日にボリス・エリツィンによって大統領に任命され、2000年3月に大統領に選出されたウラジーミル・プーチン大統領は、大統領としての2期目の任期を終えようとしていた。ロシア憲法は2期連続の大統領就任しか認めていたため、プーチンは再選に立候補することができなかった。しかし、プーチンと「統一ロシア党」は、「統一ロシア党」がロシア下院で過半数を維持できれば、プーチンを首相に任命するという解決策を打ち出していた。そして現首相のメドベージェフが大統領選に出馬することになった。
しかし、この計画は、ロシアの野党(とその西側の支配者)にとっては、政治を一変させる扉を開くことになる。もし「統一ロシア」が下院で過半数割れすれば、プーチンは首相を務めることができなくなる。また、2007年12月の下院選挙で「統一ロシア」が敗北すれば、2008年3月の大統領選挙でも同様の敗北を喫する可能性がある。カスパロフ、ガイダル、ナワリヌイら野党の指導者たちにとって、これはプーチンの独裁的支配に終止符を打つチャンスだった。
2006年3月、「異端者の行進」に参加したゲーリー・カスパロフとアレクセイ・ナワリヌイ国務省の「民主改革」(=政権交代)推進派も同様に、これは変革のまたとないチャンスだと考えていた。すでにセルビア、ウクライナ、グルジアでは、米国が資金を提供した「カラー革命」が専制的な政権を一掃していた。ロシアでも同じような「革命」が起こせるという期待があったのだ。これを実現するための重要な要素のひとつは、野党グループの訓練と組織化に必要な資金を確保することだった。NEDとその関連組織であるNDIとIRIに加えて、CIAと英国秘密情報部(SIS)を使って、秘密裏にさまざまなNGOやロシアの個人に資金が送られた。
CIAはまた、2007年から2008年にかけての選挙サイクルにおいて、プーチンとその「統一ロシア党」を標的としたアメリカの政権交代戦略の実行を助けるロシアの政治的反体制派を特定、育成、リクルートし、管理することにも関与していた。そのような反体制派の一人に、エフゲニア・アルバッツというロシア人ジャーナリストがいた。
アルバッツは1980年にモスクワ大学を卒業し、ジャーナリズムの学位を取得した。彼女はアルフレッド・フレンドリーの奨学基金を受け、1990年にシカゴ・トリビューン紙の客員記者となった。1993年、名誉あるニーマン奨学基金を獲得し、ハーバード大学で2学期を過ごし、「大学で最も偉大な思想家たちの授業を聴講し、ニーマンのイベントに参加し、仲間と協力した」。
エフゲニア・アルバッツ、モスクワ、2006年。秘密情報収集を担当するCIAの作戦本部は、国家資源部(NRD)と呼ばれる部署を運営している。NRDはアメリカ国内におけるCIAの人的情報収集活動を担当している。NRDには2つの主要プログラムがある。ひとつは、CIAがアクセスすることが困難な目的地に出向く米国市民(主にビジネスマン)の自発的な状況説明である。
もうひとつは、CIAが採用する可能性のある米国内の外国人(学生、客員教授、ビジネスマンなど)の評価と育成である。NRDはハーバード大学など、新進気鋭の外国人人材を惹きつけることのできる権威ある特別研究員や会議を主催する主要大学との関係を維持している。アルバッツはアルフレッド・フレンドリーの奨学基金を通じてCIAに目をつけられていた。ハーバード大学在学中に、おそらくは本人が気づかないうちに、彼女はそれにふさわしいように教育されたことは間違いない。
アルバッツは2000年にケンブリッジに戻り、博士課程で学んだ。彼女の専門分野のひとつは、「草の根組織」と呼ばれるものだった。モーリス・R・グリーンバーグ・ワールド特別研究員養成事業は、イェール大学のインターナショナル指導者育成所を拠点とし、ジャクソン・スクール・オブ・グローバル・アフェアーズ内に設置された4ヶ月間の全寮制プログラムである。このプログラムは毎年8月中旬から12月中旬にかけて実施され、世界中から新進気鋭のリーダーが集まる。
ハーバード大学での彼女の論文指導は、ティモシー・コルトン教授(政府学とロシア研究)だった。コルトンはロシアの選挙の複雑さを専門としていた。アルバッツがハーバードに到着した年、コルトンは『Transitional Citizens(過渡期の市民:選挙民と何が彼らに影響を与えるか)』という本を出版した。アルバッツが学位論文を準備している間、コルトンは、1990年代にボリス・エリツィンの政権奪取に貢献したスタンフォード大学のマイケル・マクフォール教授(後にバラク・オバマ大統領の主要なロシア専門家として、最初は国家安全保障会議、後に駐ロシア米国大使を務める)と共同で、2冊目の著書『Popular Choice and Managed Democracy(人民の選択と管理された民主主義:1999年と2000年のロシアの選挙)』を出版した。
アルバッツは、ユーラシア・東欧研究評議会を通じて国務省から多額の研究助成を受けていたコルトンと協力し、選挙の観点からロシアのナショナリズムを利用する方法に焦点を当てた。彼女は帝国ナショナリズムと民族ナショナリズムを区別し、帝国ナショナリズムは国家の権限であり、反対すべきものであるとした。一方、民族ナショナリズムは、特にロシアのような政治的に構造化されていない社会では、民族単位で団結する自然な傾向があるため、アルバッツは危険だとは考えていなかった。
アルバッツは2004年にロシアに戻り、政治学の博士論文を無事に提出した。アルバッツが最初に行なったことのひとつは、モスクワの自宅アパートを政治学談話室にすることだった。そこで彼女は、2007年から2008年にかけて行なわれるロシアの次期選挙に影響を与えることができる政治的に実行可能な組織する目的で、若い活動家を集めた。
彼女が集めた若い活動家の一人がアレクセイ・ナワリヌイだった。
2004年に始まったアルバッツが運営する政治的談話室の集まりは、ナワリヌイをマリア・ガイダルと引き合わせ、「民主的代替」組織の創設や、ゲーリー・カスパロフ(これもアルバッツの談話室のメンバー)と彼の「統一市民戦線」運動の創設につながった。談話室の目標のひとつは、2004年にウクライナで生まれ、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチの大統領就任を阻止したいわゆるオレンジ革命をもたらしたような若者たちの運動をロシアで再現する方法を模索することだった。この運動「ポーラ(ロシア語でПОРА[パラ]とすると「今だ!」という意味か?」は、ヤヌコーヴィチに対する反対運動を動員する上で不可欠な役割を果たした。アルバッツと彼女の政治学者志望のチームは、ロシアでこれに相当するものを考案し、オボローナ("防衛")と呼んだ。アルバッツ、ガイダル、カスパロフ、ナワリヌイの望みは、オボローナがロシアの若者を動員してウラジーミル・プーチンを政権から追放する原動力になることだった。
アルバッツがロシアにおける政治的反対勢力の組織化に取り組むにつれて、ロシアの政治的反対勢力がその上に築いてきた西側の支援の基盤、すなわちNEDのような非政府組織(NGO)による資金提供は、外国の不正な諜報活動を流すための手段に過ぎないことが露呈した。2005年から2006年にかけての冬、ロシア連邦保安局(FSB)は、英国大使館で行われていた、いわゆる「スパイ・ロック」(岩に見せかけた高度なデジタル通信プラットフォーム)を使った巧妙な組織を壊滅させた。
ロシアの諜報員は「スパイ・ロック」の近くを通りかかると、ブラックベリーのような携帯型通信機器を使って、「スパイ・ロック」の中にあるサーバーに電子メッセージをダウンロードする。その後、イギリスのスパイが「スパイ・ロック」に近づき、同じような装置を使って自分たちの装置にメッセージをアップロードする。この計画が発覚したのは、メッセージを取り出せなかったイギリスのスパイが「スパイ・ロック」に近づき、システムが機能するかどうか確かめるために何度か蹴りを入れたときだった。これが彼を追っていたロシア連邦保安庁(FSB)職員の注意を引き、「スパイ・ロック」は押収、鑑定されることになった。機密軍事産業施設に勤務しているとされるロシア人1名が逮捕された。
英国諜報部員がロシア諜報員との秘密通信に使用した「スパイ・ロック」しかし、「スパイ・ロック」から取り出されたデータで最も驚くべき点は、少なくともイギリスのスパイの一人が、イギリス政府から提供されている秘密資金をさまざまなNGOが利用する方法についての情報を送信するために、この装置を使用していたという事実である。問題のNGOの関係者は、英国の主人が使っていたものと同じような装置を支給され、「スパイ・ロック」からこれらの指示をダウンロードしていた。捕獲されたサーバーから収集された情報に基づいて、FSBはこれらの不正取引に関与している特定のNGOについてロシア指導部に知らせることができた。拷問禁止委員会、民主主義開発センター、ユーラシア財団、モスクワ・ヘルシンキ・グループなど、全部で12のロシアNGOが、英国外務省の「グローバル・オポチューニティ・ファンド」の一部として管理されていた不正な資金を受け取っていたことが確認された。
「スパイ・ロック」スキャンダルの余波で、ロシア政府はNGOに関する新法の制定に動き、NGOの登録と運営に厳しい条件を課し、政治に関わるNGOが海外からの資金を受け取ることを事実上禁止した。2006年4月に施行されたこの新法の影響を受けたNGOは、いかなる不正行為も否定したが、2007年の下院選挙と2008年の大統領選を前に、この法律の影響が反対意見を抑圧することになることは認めていた。
英国系NGOの取り締まりにもかかわらず、アルバッツが運営する「政治談話室」は、ロシアで実行可能な反対勢力を結集しようと積極的に活動を続けた。民族ナショナリズムの政治的可能性に関するアルバッツの理論に後押しされ、ナワリヌイは2007年、極右の超国家主義運動を引き寄せるための傘下組織である民主的民族主義組織「民族ロシア解放運動」を共同で設立した。これらのグループの政治理念は、おそらくナワリヌイが彼らを自分の大義に取り込もうとした努力によって最もよく説明できる。ナワリヌイはこの時期、より多くのロシア国民に新党を紹介する手段として、2本のビデオを制作した。最初のビデオは、ナワリヌイがロシアのイスラム教徒を害虫に例えたもので、最後はナワリヌイが拳銃でイスラム教徒を撃ち、ピストルはイスラム教徒にとってハエたたきやスリッパがハエやゴキブリであるようなものだと宣言した。2つ目のビデオでは、ナワリヌイは民族間の対立を虫歯に例え、唯一の解決策は抜歯だとほのめかしていた。
アレクセイ・ナワリヌイは2007年のビデオで、イスラム教徒を射殺すべきゴキブリに例えているナワリヌイは2007年夏に「ヤブロコ」から追い出された。極右のロシア民族主義に傾倒するナワリヌイの姿勢は、新自由主義政党とはかけ離れすぎた関係だった。しかし、ナワリヌイは離党前に彼の支援者に一定の印象を与えることができた。2007年3月、ナワリヌイはいわゆる「異端者の行進」に参加し、抗議行動の主要な主催者の一人であるゲーリー・カスパロフと並んで歩いた。
ロシアのNGOに対する海外からの資金提供取り締まりの余波で、カスパロフはロンドンで活動するロシア人オリガルヒのネットワークに目をつけ、そこでイギリス秘密情報局と結託してロシアの政治的反対勢力に資金を提供していた。この活動のリーダーはロシアのオリガルヒ、ボリス・ベレゾフスキーで、ベレゾフスキーが公言していたプーチンを「力ずくで」あるいは無血革命で倒すという使命を達成するための隠れ蓑として、非営利団体「市民的自由のための国際財団」を設立していた。ベレゾフスキーは、2005年に汚職容疑で投獄された石油王ミハイル・ホドルコフスキーを含む多くのロシア人オリガルヒによってこの事業を支援されたが、彼の財団であるオープン・ロシアは、カスパロフの「統一市民戦線」のようなロシアの政治的反対グループに資金を提供し続けていた。当時サンクトペテルブルク知事だったヴァレンティナ・マトヴィエンコは、「異端者の行進」を行うための資金源としてベレゾフスキーとホドルコフスキーを挙げた。
ゲイリー・カスパロフも同様に、デモ行進のメディア支援の大部分は、エフゲニア・アルバッツの「サンクトペテルブルクのこだま」放送を通じて提供されたものだと指摘した。
アルバッツがナワリヌイに与えた影響は明らかだった。その後、なぜ右翼ナショナリズムを受け入れたのかを説明する際、ナヴァルヌイの返答はまるでアルバッツのハーバード大学博士論文から引用したかのようだった。「私の考えは、ナショナリストとコミュニケーションをとり、彼らを教育しなければならないということです」とナワリヌイは言った。「ロシアのナショナリストの多くは明確なイデオロギーを持っていない。彼らが持っているのは、一般的な不公平感であり、それに対して肌の色や目の形が違う人々に対して攻撃的に反応する。移民を殴ることが不法移民問題の解決策ではないことを彼らに説明することが非常に重要だと思う。「解決策とは、不法移民で富を得ている泥棒やペテン師を排除できるような競争的な選挙に戻すことだ。」
米国務省とCIAがアルバッツのような代理人(意図的か無意識的か)を通じて指示し、イギリスの諜報機関を通じて秘密裏に資金を提供したにもかかわらず、ウラジーミル・プーチンとその「統一ロシア党」を政権から一掃するロシアの「カラー革命」の目標は失敗に終わった。「統一ロシア」は2007年の下院選挙で65%の得票率を獲得し、450議席中315議席を確保した。2008年3月の大統領選挙では、ドミトリー・メドベージェフが71.25%の得票率を獲得して勝利した。メドベージェフはその後、ウラジーミル・プーチンを首相に任命するという公約を実行に移した。
2007年から2008年にかけての選挙サイクルは、プーチンの政敵とその西側支持者にとって壊滅的な敗北となった。しかし、ナワリヌイにとっては解放された気分だった。その代わりに、ナワリヌイは「物言う株主活動」という新たな情熱に身を投じるようになった。2008年、ナワリヌイは「物言う株主」となることを目標に、ロシアの石油・ガス会社5社の株を30万ルーブル分購入した。彼は少数株主協会を設立し、株主としての地位を利用して、法律で義務付けられているこれらの企業の金融資産に関する透明性を推進した。
ナワリヌイは、最も裕福な企業の株主総会に出席するようになり、株主が合法的に利用できる企業の書類を確認することによって、不快な質問に対する答えを要求するようになった。最初の攻撃対象のひとつはスルグートネフトガス(スルグート石油ガス会社)だった。ナワリヌイは2000ドルの株を購入し、少数株主であることを利用して、シベリアの都市スルグートで開かれた株主総会に押しかけた。株主たちが何か質問はないかと尋ねられると、ナワリヌイはマイクを持ち、会社の経営陣に配当金の少なさや所有権の不透明さについて質問した。彼の質問は経営陣を不快にさせたが、出席していた300人の株主の多くから拍手を浴びた。
ナワリヌイは、新たに大統領に就任したドミトリー・メドベージェフの尻馬に乗り、汚職撲滅を掲げていた。スルグトネフチガスに加えて、ナワリヌイはガスプロムやロスネフチといった巨大企業にも狙いを定め、そうすることでガスプロムの前会長であるメドベージェフや、その側近でロスネフチ会長と副首相を兼任していたイーゴリ・セチンことウラジーミル・プーチンを周辺的に攻撃していた。
ナワリヌイは、自身の「ライブジャーナル・ブログ」を通じて、さまざまなキャンペーンについてオンラインに書き込んだ。何十万人ものロシア人が彼の活動をフォローし、コメントのほとんどは好意的なものだった(ただし、何人かの購読者はナワリヌイの動機に疑問を呈し、彼が金儲けのために恐喝まがいのことをしていると非難したが、ナワリヌイは否定することなくこの非難を退けた)。
反汚職キャンペーンをメドベージェフの反汚職綱領と結びつけることで、ナワリヌイは直接的な報復から身を守っただけでなく、ロシアの主流派の注目と支持を集めることができた。モスクワの新経済学部長セルゲイ・グリエフとその副官アレクセイ・シトニコフはナワリヌイの活動を支援し始めた。
しかし、ナワリヌイにとって一番の問題は収入だった。彼はまだオンライン資金調達の技術を習得しておらず、欧米からの資金調達が可能な政治的野党の一人として確立されていなかった。2008年12月、キーロフ州知事のニキータ・ベリクからある申し出があった。
ニキータ・ベリクはペルミ地方出身で、2005年5月にプーチン大統領の批判者として知られるボリス・ネムツォフ氏の後任として有力野党「右翼連合」の党首に選出されるまで、副知事など複数の役職を歴任していた。野党党首に就任したベリクは、2005年10月にヤブロコ党と連立を組み、「ヤブロコ・統一民主党」として2005年12月4日に行われたモスクワ市議会選挙に出馬した。この連合は11%の得票率を獲得し、モスクワ市議会の代表となることができ、統一ロシア、共産党とともにモスクワの新議会に入る3党のうちの1党となったが、長続きはせず、「ヤブロコ」との合併計画は2006年末に棚上げされた。
右翼勢力連合は、他の野党と同様、2007年から2008年にかけての選挙結果に意気消沈した。大統領選挙後の2008年3月、次期大統領ドミトリー・メドヴェージェフはベリクに接触し、キーロフ州知事のポストを与えた。ベリクは、ほぼ全員が驚く中、その職を引き受けた。マリア・ガイダルやアレクセイ・ナワリヌイのようなかつての政治的盟友たちは、ベリクを裏切り行為だと非難した。彼らはロシアを統治する深く根を張った親プーチン派と闘い続けていたが、ベリクは船から飛び降り、今や彼らが軽蔑する体制の一部となったのだ。
2009年5月、メドベージェフ大統領と会談するキーロフ州知事ニキータ・ベリク(右)モスクワに戻ったアレクセイ・ナワリヌイとマリア・ガイダルは、政治的な破局後の悪夢に囚われていた。政治資金が枯渇し、政治的ないたずらを再開する気にもなれなかったのだ。ベリクはモスクワの政界を去ったが、まだ友人だった。2008年11月18日、ベリクはナワリヌイに、キーロフ州の財産管理の透明性を高める方法について新知事に助言するボランティア・コンサルタントを務めることに興味があるかどうかを尋ねた。
ナワリヌイはそれを受け入れた。(マリア・ガイダルも同様にナワリヌイに続いてキーロフ州に赴任し、2009年2月に副知事に任命された)。
キーロフ州の州都はキーロフ市で、モスクワの北東約560マイルに位置する。キーロフは重工業で知られるが、木材の生産も盛んである。2007年、キーロフ州は木材産業の再編成に着手し、36の製材所をキーロフレスと呼ばれる国営企業に一本化した。キーロフレスが直面した問題のひとつは、多くの製材所が行なっていた木材の現金販売に歯止めをかけることだった。製材所の経営者はかなりの利益を上げていたが、キーロフレスの収入として計上されていなかったため、赤字経営が続いていた。
ナワリヌイの最初のプロジェクトのひとつは、キーロフレスの取締役と会談することだった。この会談でナワリヌイは、製材工場の経営者による木材の無許可直接販売を止める最善の方法は、キーロフレスが生産した木材の取引先を見つける役割を担う仲介木材商社と協力することだと提案した。たまたま、ナワリヌイは友人のペトル・オフィツェロフ(Petr Ofitserov)と協力し、VLK(Vyatskaya Forest Company)という木材貿易会社を設立していた。2009年4月15日、キーロフレスは、VLKがキーロフレスから木材を購入するためのいくつかの契約のうち、総額約33万ユーロに相当する最初の契約に調印した。VLKはその後、この木材を顧客に販売する責任を負い、販売手数料として7%を徴収した。
キーロフレスの木材販売店7月、ナワリヌイはキーロフレスの監査を行った。監査の一環として、ベリクはキーロフレスの再建を目的とした作業部会を設置した。ナワリヌイはこの作業部会の長に任命された。監査結果に基づき、8月17日、キーロフレスの取締役が不始末を理由に停職処分を受けた。
9月1日、キーロフレスはVLKとの契約を解除した。
ナワリヌイは2009年9月11日にキーロフでの仕事を終え、モスクワに戻った。
その後1年間、アレクセイ・ナワリヌイは少数株主協会での活動に専念し、その様子を自身の「ライブジャーナル・ブログ」を通じて公にした。ナワリヌイはロシアではまだ比較的無名の人物だったが、汚職摘発に向けた彼のダビデ対ゴリアテのアプローチは、政府高官や政治ファンの注目を集め始めていた。一部の人々は、ナワリヌイが株主運動を通じて、単に巨大な詐欺を働き、汚職を暴いて標的となった企業から支払いを強要していると非難した。また、ナワリヌイはロシア政府の利益を考えていない団体から資金援助を受けているのではないか、と疑問視する声もあった。
また、彼の身の安全を心配する者もいた。ナワリヌイは2009年の冬、あるジャーナリストと彼の生活のこの側面について話し、彼の不安は「逮捕されること、あるいは最悪の場合、誰かが静かに私を殺すこと」だと指摘した。
アレクセイ・ナワリヌイはキーロフを離れる前に、マリア・ガイダルと会って自分の将来について話し合った。ガイダルは、エフゲニア・アルバッツが運営する政治学談話室に所属しており、ナワリヌイには活動家としての可能性はあるが、全国的な舞台に登場するために必要な政治的洗練性が欠けているというアルバッツやゲーリー・カスパロフの意見を共有していた。ガイダルはイエール・ワールド特別研究員プログラムの存在を知っており、ナワリヌイに応募するよう強く勧めた。
モスクワに戻ったナワリヌイはガイダルの提案を心に刻んだ。ナワリヌイは新経済学部長セルゲイ・グリエフに相談し、グリエフはナワリヌイを特別研究員に推薦することに同意した。グリエフは推薦状を書き、エフゲニア・アルバッツとゲーリー・カスパロフに相談した。アルバッツはエール大学でのコネクションを利用し、ナワリヌイをエール大学の経済学教授オレグ・ツィヴィンスキーと接触させ、ナワリヌイの申請手続きを手助けした。ナワリヌイは、評判の高いビジネス日刊紙「ヴェドモスチ(通報)」の編集者で、エール大学ワールド特別研究員プログラムの2009年度卒業生であるマキシム・トゥルドリュボフに連絡を取った。トゥルドリュボフ氏はそのコネを利用して、ナワリヌイをヴェドモスチ紙に2009年の「年間最優秀個人賞」に選出させ、彼の経歴を確固たるものにした。
セルゲイ・グリエフ新経済学部学部長エール大学ワールド特別研究員プログラムでは、応募者は「職業経歴が5年以上25年未満で、地域、国家、または国際的なレベルで実証された重要な業績を持つ」ことを条件としている。アレクセイ・ナワリヌイのエール大学での「職務内容」は「少数株主協会創設者」であり、申請時点では就任して1年足らずの役職であった。ナワリヌイはまた、「Democratic Alternative(民主主義代替)運動の共同創設者」であるとも記載されていた。彼は2005年にこの運動の共同創設者であったが、右翼民族主義者とのつながりを理由に2007年にナヴァルヌイを追い出したヤブロコ党の党員という立場であった。
2010年4月28日、アレクセイ・ナワリヌイは自身の「ライブジャーナル・ブログ」で次のように発表した:
「エール大学のワールド特別研究員プログラムに幸運にも参加することができました。15人の定員に対して1000人という競争率でした。というわけで、2010年後半をコネチカット州ニューヘイブン市で過ごすことになりました。」
イェール大学ワールド特別研究員プログラム、2010年度生。後列の右から4番目がナワリヌイ。ナワリヌイはこの経験から、こう抱負述べた。「私たちの仕事の手段を真剣に拡大し、管理職(Effective Managers)(EM)に対して、海外汚職に関するあらゆる法律、米国・EUの反マネーロンダリング法、為替規則などをどのように使うかを学び、理解したい。私たちは、検察庁やロシアの裁判所の貪欲な詐欺師たちに保護されないような場所で、管理職(EM)を壊滅させることができなければならない。したがって、ナワリヌイは、「我々の活動は拡大するばかりだ。......すぐに、我々はすべての時間帯と管轄区域の管理職(EM)を攻撃するだろう」と結論づけた。
8月上旬、ナワリヌイと妻のユリア、そして2人の子どもたちはモスクワを離れ、ニューヘイブンに向かった。そこでは、ナワリヌイの人生を永遠に変え、最終的には犠牲となる新しい世界秩序が待ち受けていた。(続く)
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