ロシア連邦は、まさにその主権を守るために、なぜウクライナとの軍事衝突を余儀なくされたのか?
Empire of Lies Christens the New World Order. Part I of II: Overthrow Russia
嘘の帝国が「新世界秩序」の名付け親(I部)_ロシアの転覆
筆者:ロン・リドヌール(Ron Ridenour)
出典:Strategic Culture
2022年9月15日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2022年11月30日
この小論では、ロシア連邦が、まさにその主権を守るために、なぜウクライナとの軍事衝突を余儀なくされたのかを説明する。

この小論は、なぜロシア連邦が、まさにその主権を守るために、ウクライナとの軍事衝突に追い込まれたのかを説明している。新世界秩序はその結果である。世界は今、2つの勢力に分かれ、激しい対立がどれほど続くかわからない。この論考は、著者が受けたラジオインタビューを元に書き上げたものである。(920) Ron Ridenour & Sam Husseini - YouTube.
アメリカ合衆国人種差別的軍事帝国(以降U.S.-ARME)は、70カ国以上で約800の軍事基地を管理し、さらに90カ国で「軍事施設」に占領軍隊を配置している。アメリカは、軍隊を持つことができるいくつかの国の50の軍事基地に資金を提供している。これらの国の多くは、中米とコロンビアにある。米国は世界の外国基地の95%を所有している。また、いつでも発射できる核兵器を搭載して世界中を航行する数十隻の船も持っている。米国は自国内に、数カ国を合わせたよりもはるかに多くの軍事基地を有している:50州に4,154、準州に114の基地がある。(デイヴィッド・ヴァインのBasic Nation Official Book Website参照)
ロシアは旧ソ連を中心とした9カ国に9つの軍事基地と2つのレーダー・通信施設を有している。これらの基地には約5万人の軍人が駐留しており、その半数がクリミアの海軍基地セヴァストポリに駐留している。
U.S.-ARMEの支配者たちは、ロシア、そしてそれ以前はソ連を、世界平和に対する脅威であり、外国の領土を併合し、他国、「地球上でもっとも偉大な民主主義国」に対しても干渉していると厚かましくも非難している。これは古典的な心理的投影である。
彼らの嘘:
ウラジミール・プーチン大統領は、ヒラリー・クリントンが大統領選で負け、彼の「友人」ドナルド・トランプが勝つように、2016年の米国選挙に干渉した。
ヒラリー・クリントンは我々のメッセンジャーであるジュリアン・アサンジを憎んでおり、真実を公表した彼をドローンで暗殺するよう呼びかけたのだ。彼女はロシアの最高指導者プーチンを憎むあまり、彼を新しいヒトラー的戦争犯罪者と呼んでいる。
民主党上層部、ワシントンDC警察、CIAは、ジュリアン・アサンジとウラジミール・プーチンが民主党全国委員会(以降DNC)のファイルのハッキングをグルになって行ったという嘘がばれないように、DNCのコンピュータに対する科学捜査の調査を認めなかった。
DNCの選挙不正と不正操作の情報が明らかになったとき、主流メディア(MSM)と政府はDNCの犯罪を認めようとしなかった。これは、ジュリアン・アサンジを「国家安全保障」に対する犯罪として告発する際に国家が用いる戦術と同じである。アサンジ(ウィキリークス)が行ったのは、2014年のウクライナでの戦争のような多くの戦争やクーデターにおける、国家の人道に対する犯罪の文書を明らかにしただけなのに。

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§1917-8 10月のロシア革命は、「平和、土地、パン」のためだった。
10月のロシア革命の勝利は、ほんの一握りの犠牲者で済んだ。ロシアを荒廃させ、数百万人の死者を出したのは、革命ではない。欧米・日本の侵攻が原因だ。ロシア貴族派の白軍はこの侵攻に支えられ、アレクサンドル・ケレンスキー(Alexander Kerensky)の臨時政府軍の一部に支援されていた。
欧米の政治家とその主流メディアの宣伝担当者は、同盟国がまだドイツと戦争していた1918年の夏に、20-30万の軍隊をロシアに侵攻させたのが、U.S.-ARMEとその同盟国であったことを隠している。ウッドロウ・ウィルソン大統領は議会に、「ボルシェビキ革命の影響を相殺する」ために1万3千人の軍隊を派遣すると述べた。
同時に、ウィルソン大統領はスパイ活動法を制定した。このスパイ活動法は、見せかけの「報道の自由」と「言論の自由」のすべてを終わらせる目的で、民衆の使者であるジュリアン・アサンジを殺すために現在使われている。
1918年、すべての軍隊の状況は悲惨であり、アメリカ人を含む多くの欧米諸国の兵士たちは戦争にうんざりし、戦意を喪失していた。1920年4月1日、最後の米軍がロシアを離れた。米軍の424人がさまざまな原因で死亡したが、そのほとんどが戦死だった。全部合わせると、内戦と外部からの干渉で、死傷者は民間人を中心に700万から1200万人だった。
「アメリカ遠征軍」を指揮したウィリアム・グレイブス(William Graves)少将は、「アメリカが軍事介入によって何を達成しようとしていたのかわからない」と回顧録に書いている。
ロシアに関する3冊の本を書いた小説家、ギャザー・スチュワート(Gather Stewart)は、また、拙著『ロシア平和への脅威:厳戒態勢のペンタゴン(The Russian Peace Threat: Pentagon on Alert)』に序文を寄せてくれた。 (The Russian Peace Threat: Pentagon on Alert: Ridenour, Ron: 9780996487061: Amazon.com: Books)
次は、欧米諸国のロシアに対する関心が、昔も今も変わらないというスチュワートの評価である。
「欧米全般、特にアメリカはロシアを妬んでいる。ロシアの自然の富の多くは、ウラル山脈の向こうの土の中に埋もれている。なぜロシアがその富を独り占めするのか?それがアメリカの態度であり、ロシアを服従させ、小国に分割する大陰謀を正当化する理由の一部となっている。」THE CHARACTER OF RUSSIAN COMMUNISM – The Greanville Post
ロシアを小国家に分割する(アメリカとNATOはユーゴスラビアをそうした)ことが、今日、U.S.-ARMEの目標になっている。
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1920年に敗退した米国はロシアを苛め、破壊し、包囲し、転覆させるためにあらゆることを行ってきた。ソ連、ロシア、中国、キューバ、ベトナム、北朝鮮、あるいは米国が国民を飢えさせ内乱を引き起こすことを望んで、制裁かボイコットのいずれか、あるいは両方をしかける40の国のいずれも、米国を侵略したり破壊したりしたことはないのである。
U.S.-ARMEが地球を支配するために戦争をし、戦争の脅しをかけているにもかかわらず、世界大戦と核兵器の使用を防止してきたのはロシア人である。ミハイル・ゴルバチョフ、ボリス・エリツィン、ウラジミール・プーチンの3人のソ連・ロシア大統領は、それぞれアメリカ大統領に、NATO加入許可の許しを乞い、お互いへの戦争行為が起こらないように要請した。しかしその交渉はすべて不成立!
§ 1930年代 スメドリー・バトラー(Smedley Butler)将軍が暴露したルーズベルト大統領転覆の陰謀的取引
資本家の多くは、肌の色に関係なく、困っているすべての人に仕事と社会的・文化的利益を提供するニューディールを掲げたフランクリン・D・ルーズベルトを嫌っていた。大実業家たちは、人種差別主義者で、反組合主義者で、ファシスト的な解決策を好んでいた。彼らは、失業した白人の退役軍人を利用することで、自分たちに有利になると考えた。彼らは、大統領を転覆させ、場合によっては暗殺しようと企てた。

バトラー将軍は、史上最も多くの勲章を受けた海兵隊員であり、大統領を守った
陰謀的取引(別名:ホワイトハウス・クーデター、ファシストの陰謀)とは、1933年から4年にかけての政治的陰謀である。スメドリー・ダーリントン・バトラー(Smedley Darlington Butler) 海兵隊退役少将に、J.P.モルガンに指導される超富裕実業家たちを代表するマクガイア(MacGuire)将軍が近づいた。彼は、ルーズベルト大統領打倒目的の、50万人の海兵隊員と兵士によるクーデターを組織するため、国民に人気のあったバトラー将軍を利用しようとしたのである。(New York Times, November 21, 1934, "Gen. Butler Bares ‘Fascist Plot’ To Seize Government by Force”.)"参照)。
バトラー将軍は、この考えに賛同するふりをしながら、ルーズベルト大統領にクーデター派の陰湿な本質を明かした。公の場に出た彼は、自分が軍歴の中でやってきたことを説明した:
「私は33年と4ヶ月の間、現役の軍人として過ごし、その間、ほとんどの時間をビッグビジネス、ウォール街と銀行家のための高級筋肉マンとして過ごした。要するに、私は資本主義のためのゆすり屋であり、ギャングだったのだ。 War is a Racket by Smedley D. Butler | Goodreads
「私は1914年にメキシコ、特にタンピコをアメリカの石油利権にとって安全な場所にするのを手伝った。私はハイチとキューバを、ナショナルシティ銀行関連の人物たちが収入を得るための適切な場所にするのを手伝った。私は、ウォール街の利益のために、中米の6つの共和国を強奪するのを手伝った。私は1902年から1912年にかけて、ブラウン・ブラザーズ国際銀行家のためにニカラグアを浄化するのを手伝った。1916年、アメリカの砂糖利権者のためにドミニカ共和国を占領する光をともした。私は、1903年にアメリカの果物会社のためにホンジュラスを真っ当にする手助けをした。1927年には中国で、スタンダード・オイルが妨害を受けずに操業できているかどうかの確認する手助けをした。今にして思えば、アル・カポネにいくつかヒントを与えたかもしれない。彼がゆすりを操業したのは、せいぜい(シカゴ市の)3つの地区だけだ。私の操業範囲は3つの大陸になる。」
ルーズベルトはこの企業クーデターを企んだ人物たちと妥協した。ニューディールの邪魔をしなければ、裁判も懲役刑もない、という内容だ。それはうまくいったようで、少なくとも彼らはルーズベルトを打倒することをあきらめた。それでも、彼らは戦争に必要な資材を販売したり、貸し付けたり、寄付したりして、ヨーロッパのファシズムを支援し続けた。

ヘンリー・フォードの75歳の誕生日に、1938年7月30日、ミシガン州のフォード工場でナチス領事がヒトラーの大十字架勲章を授与。
ヘンリー・フォードは、ナチス・ドイツが外国人に与えることのできる最高の勲章「ドイツ鷲大十字章」を授与された。 1938年7月30日。 Henry Ford: American Icon, Businessman, And Staunch Nazi Sympathizer (allthatsinteresting.com)
1937年6月、IBMの創業者トーマス・ジョン・ワトソン(Thomas John Watson)がドイツ鷲勲章(2等)を受章する。1938年、ゼネラルモーター社のジェームス・ムーニー(James Mooney)最高経営責任者がアドルフ・ヒトラーからドイツ鷲勲章(1等)」を授与される。J.P.モルガン銀行の代理人、グレイソン・マーフィ(Grayson Murphy)は、ファシスト政権下のイタリアにモルガン銀行の融資を提供した功績により、ムッソリーニから「イタル王冠勲章」を授与されている。
グレイソン・マーフィーは、金持ちの大物たちが「急進主義と戦い、個人と財産の権利の尊重を教え、自由な民間企業を育成する」ために立ち上げたばかりのアメリカ自由連盟の最初の財政担当だった。アメリカ自由連盟は上述のクーデター計画を支援していた。
連盟の創設者の一人は、ブラウン・ブラザーズ・ハリマン銀行と友好関係にあったプレスコット・ブッシュ(Prescott Bush)上院議員である。ブッシュは、ヒトラーともビジネス上のつながりがあった。彼は、ドイツの鉄鋼王フリッツ・ティッセン(Fritz Thyssen)の資産と企業の決済機関として運営されていた投資銀行、ユニオン・バンキング・コーポレーションの7人の取締役のうちの一人であった。1942年10月、アメリカは「敵国取引法」に基づいて、このファシストの戦争営利目的の銀行を押収したが、終戦までその資産を保有するにとどまった。プレスコット・ブッシュは、後に大統領となった二人の父親である。どちらもロシアの富と主権を抑えるために行動した。
§ 第二次世界大戦
「戦争に負けていたら、戦犯として裁かれていただろう。幸いなことに、私たちは勝者の側にいたのだ」。1945年の東京大空襲をはじめ、日本各地での空爆を指揮したカーティス・ル・メイ(Curtis Le May)将軍はそう語った。
「任務は成功した。米国戦略爆撃調査団は、「6時間の間に東京で火災によって命を失った人の数は、おそらく人類の歴史上最も多い」と推定している。 The General and World War III | The New Yorker
ル・メイやダグラス・マッカーサー(Douglass MacArthur)元帥は、広島・長崎への原爆使用は不要と反対したが、ハリー・トルーマンは「主敵」であるソ連に警告を発したいと思っていた。
戦争による死者は7000万から8500万人(世界人口の3%)、重傷者は数え切れないほどである。ソ連と中国の国民が死者の半分を占めた。中国の死者は1,500万~2,000万人で、人口の3~4%にあたる。ソ連は民間人1600-1800万人、兵士900-1100万人(人口比14%)を失った。重傷者の数もほぼ同数だった。さらに7万の村、1,710の町、470万の家屋を失った。ソ連邦15カ国のうち、ロシアは人口の12.7%を失った。その数は1400万人。うち半数強が民間人であった。ウクライナは700万人近くを失い、500万人以上が民間人で、合計で人口の16.3%を失った。アメリカは民間人12,000人、軍人407,300人(人口の1パーセントの1/3に当たる)を失っただけであった。 World War II casualties – Wikipedia
ウクライナでは、ヒトラー・ナチスとウクライナのファシストであるステパン・バンデラ(Stepan Bandera)は、特に民間人のユダヤ人、ポーランド人、ロシア人を狙ったので、他の国より多くの民間人が殺された。バンデラは、ウクライナ民族主義者組織の指導者としてドイツのナチスと手を組んで戦った。その後、彼はドイツ軍から離れ、ロシア人とユダヤ人の殺害を続けた。バンデラは、よく知られたアゾフ大隊を含むウクライナ・ファシスト勢力の国家的英雄である。
§ 1945-6 チャーチル-トルーマンは、いわゆる「鉄のカーテン」に核兵器で侵入する作戦をいくつか計画していた:アンシンカブル作戦、ピンチャー作戦、ドロップショット作戦......。
50年代初頭、400発の核ミサイルがソ連に投下されるべく製造されていた。マンハッタン計画の勇敢な内部告発者クラウス・フックス(Klaus Fuchs)とテッド・ホール(Ted Hall)(その他)は、世界が核兵器の均衡を保つためにと、重要な情報をソ連に提供し、この終末的な侵略を防いだのである。(調査報道ジャーナリストで共同プロデューサーであるデイブ・リンドルフ(Dave Lindorff)が着手したドキュメンタリー映画「A Compassionate Spy(心優しいスパイ)」は必見。‘A Compassionate Spy’ Review: A Nuanced Steve James Documentary – The Hollywood Reporter) そして United States war plans (1945–1950) – Wikipedia)
§ 1947 トルーマンは、スパイ活動や「秘密工作」を行うために中央情報局を設立。
CIAは何人もの政治指導者を暗殺し、何十もの政府を転覆させてきた。何百万人もの人々を殺してきた。The CIA’s Cult of Death | Dissident Voice
1974年、トルーマンは伝記作家のメルル・ミラーにCIAについてこう語っている:「間違いだったと思う・・・こんな風になることが分かっていたら、CIAなんか絶対に作らなかっただろう・・・つまり・・・CIAは、完全に独立独歩の、すべてが秘密の政府みたいになってしまった。彼らは誰にも説明する必要がないのだ。」Plain Speaking: An Oral Biography of Harry S. Truman: Miller, Merle: 9780425026649: Amazon.com: Books
トルーマンは免責事項としているが、冷戦時代の「トルーマン・ドクトリン」の下、彼はロシア移民を含むCIA諜報員をソ連に潜入させた:その目的は
① さまざまな暗殺の遂行、
② 列車、橋、発電所、武器工場の破壊、
③ 文書の持ち出し、
④ 西側工作員の逃亡幇助、
⑤ 共産党と政府内の政治闘争の促進、
である。トルーマンはディープ・ステート(闇の国家)を作り上げた。
§ 1949-54 トルーマン・アイゼンハワーがソビエト連邦打倒のためにNATOを創設。
1949年8月 米国主導の北大西洋条約機構に12カ国が調印。ベルギー、カナダ、デンマーク(自治州も含む)、フランス、アイスランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポルトガル、イギリス、アメリカ。 Member states of NATO – Wikipedia
そして、ル・メイ将軍は、「30日間にソ連の70都市を133個の原爆で破壊し、270万人の死者と400万人の犠牲者を出す」という原爆侵攻作戦を提案した。アメリカの空軍戦略家は、ル・メイが提案した攻撃をこう呼んでいた:「国家の殺戮」。 The General and World War III | The New Yorker
「カーティス・ル・メイは、ソ連との関係を独自に、秘密裏に、そして超法規的に、高い要求水準に上げ始めていたようだ。ソ連への偵察飛行は、1950年には始まっていた。ル・メイはこれらの飛行を電子的、写真的な情報収集のためだけでなく、ソ連の防空を探るために利用した。 戦争を誘発することになるかもしれないと知りながら、彼はそうしていたのだ。」
「1954年、ル・メイが一晩でソ連の標的に750個の原爆を投下するノックアウトが可能だと計算した時、国防省兵器システム評価グループは、ソ連とソ連圏の犠牲者は負傷1700万人、死亡6000万人と推定した」。
ソ連は、この年、東欧を友好国にしたワルシャワ条約を結ぶまで、強硬な対応はしていなかった。ル・メイの戦略空軍によるソ連領内のスパイ飛行の多くは、日本の米軍基地から離陸していた。U.S.ARMEがひどく前のめりに狂気の状態にいた時、私はこれらの軍用レーダー基地のひとつで直接の訓練を受けていた。ル・メイが私の父の崇拝対象であることも私は知った。
1956年にハンガリーで危機が起こったとき、空軍の軍務将校だった父と私はラジオでそれを聞いていた。そして17歳の私は、高校を中退し、「共産主義と戦う 」ために米空軍に入隊した。日本の米軍レーダー基地で、「偵察飛行」に参加したのだ。ソ連がアメリカやその占領地の上空で同じようなスパイ活動をしたら、それを撃墜するようにという指示だった。私たちの軍務報告では、常にロシア人を人間以下の存在として悪魔化していた。
ソ連は対話、相互抑制を求めた。ソ連は、同時に、自衛能力を持っていることを示す必要があった。1960年の、メーデーにぴったりのタイミングで、CIAのスパイ機を撃墜した。
「1960年5月、ソ連社会主義共和国連邦(USSR)がアメリカの偵察機U-2をソ連領空で撃墜し、パイロットのフランシス・ゲーリー・パワーズ(1929-77)を拘束するという国際外交危機が勃発した。アイゼンハワー大統領(1890-1969)は、自国のスパイ活動の証拠を突きつけられ、米国中央情報局(CIA)が数年前からソ連上空でスパイ活動を行っていたことをソ連側に認めざるを得なくなった。ソ連はパワーズをスパイ容疑で有罪とし、10年の禁固刑を宣告した」[2年後、囚人交換で釈放] U-2 Spy Incident – HISTORY
§ 1949中国革命;1950-53,「朝鮮軍事行動」
1949年10月1日、中国共産党の革命的勝利により、アメリカは世界最大の人口を持つ新たな敵を手に入れた。敗れたアメリカの同盟者、蒋介石(Chung kai Shek)と軍隊は台湾に逃れた。台湾は蒋介石が統治する真の中国であると主張し、現地住民に有無を言わせなかった。アメリカは中国の機能を停止させようとした。「朝鮮軍事行動」は、アメリカ支配対中国、ソ連の社会主義成功の可能性をめぐる代理戦争となった。
第二次世界大戦後、朝鮮半島は冷戦の最初の軍事衝突となった。1950年、アメリカは北朝鮮が38度線を越えて韓国に侵入したと主張し、トルーマンはより大きな戦争を始めるための口実を得た。
「日本が降伏するわずか5日前、アメリカのディーン・ラスク(Dean Rusk)とチャールズ・ボネスティール(Charles Bonesteel)は、東アジアにおけるアメリカの占領区域を画定する仕事を与えられた。朝鮮人にはだれひとり相談することなく、朝鮮半島最大の都市ソウルがアメリカ側に位置するように、朝鮮半島を緯度38度線に沿ってほぼ半分に切断することを、恣意的に決めた。ラスクとボネスティールの選択は、戦後の日本統治の指針である「一般命令第1号」に明記された。朝鮮半島北部の日本軍はソビエトに降伏し、南部の日本軍はアメリカに降伏した。」 Why Is Korea Split Into North and South Korea? (thoughtco.com)
米国が北朝鮮のほぼすべての都市を破壊した後、恣意的に線引きされた38度線はまだ決着がついていない。少なくとも300万人が死亡、その大半は民間人であった。軍人の死者:北朝鮮軍30万人(人口1000万人の12-15%が死亡)、中国軍18万3000人、韓国軍13万8000人、米軍3万3700人である。Korean War – Wikipedia
ル・メイは、「3年ほどの間に、我々は(北)朝鮮の人口の- 何と!-20パーセントを殺した・・・」と言った。 The General and World War III | The New Yorker
§ 1954-1975,アメリカの対ベトナム-カンボジア-ラオス戦争
東南アジア戦争はソ連、中国も巻き込んだ。数百万人が死亡。東南アジアはソ連と中国の援助を受け、1975年メーデーの日にアメリカを撃退。
1954年、アイゼンハワー・ニクソン政権はディエン・ビエン・フーで敗れた南ベトナムをフランスから引き継いだ。フランスはアメリカの核兵器提供の申し出を拒否した。1954年ジュネーブ条約により、2年間南北ベトナムに分割され、1956年に選挙が行われた。
「東南アジアのフランス植民地帝国が崩壊し、ベトナム民主共和国(北ベトナム)、ベトナム国(後のベトナム共和国、南ベトナム)、カンボジア王国、そしてラオス王国などの国家が形成された。南朝鮮、北朝鮮、中華人民共和国(PRC)、ソビエト社会主義共和国連邦、そしてアメリカ合衆国(U.S.)の外交官たちが、ジュネーブ協定の朝鮮問題に対応した。インドシナ問題については、フランス、ベトミン、ソ連、中国、アメリカ、イギリス、そして将来仏領インドシナから作られる諸国家との間で協定が結ばれた。この協定により、ベトナムは一時的に2つの地帯に分けられ、北部はベトミンが統治し、南部は当時のバオ・ダイ(Bảo Đại).元皇帝が率いるベトナム国が統治することになった。」1954 Geneva Conference – Wikipedia
南ベトナムの臨時政権は、選挙に反対していた。第二次世界大戦の元大将で、当時大統領だったドワイト・D・アイゼンハワーは、1956年の選挙実施を拒否した。回顧録『変革への委任、1953-1956』:ホワイトハウス時代』(1963年)372ページに向こう見ずな意見を述べている:
「私はインドシナ事情に詳しい人と話し、通信のやりとりをしたことがある。彼らの中で、もし、戦闘時に選挙が行われていたら、おそらく国民の80%がバオ・ダイ国家主席ではなく、共産主義者のホー・チ・ミンに投票しただろう、ということに同意しない人物は一人もいなかった。[民主主義なんて、そんなものだ!]
§ 1961年4月、ロシアのユーリ・ガガーリン(Yuri Gagarin)が地球を周回し、アメリカがキューバに侵攻する。
1961年4月12日、ソ連が27歳の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンを時速2万7千キロで地球軌道に乗せ、新世界を切り開いた日、ジョン・F・ケネディ大統領は記者会見を行った。
「まず言っておきたいのは、いかなる状況下でも米軍によるキューバへの介入はありえないということです。」「キューバの基本的な問題は、米国とキューバの間の問題ではありません。キューバの基本的な問題は、米国とキューバの間の問題ではなく、キューバ人自身の間の問題である。そして、私はこの原則を遵守することを確認するつもりです。」 (1)
翌日4月13日、グアテマラからCIA作戦40が発動された。キューバ人亡命者を中心とした1400人の準軍人と一握りのCIA軍人が、キューバ侵攻のために出航したのである。

ユーリ・ガガーリン、平和の鳩を手に世界ツアー
大気圏に再突入したとき、ユーリは重大な技術的問題に直面し、カプセルから脱出しなければ死に至る可能性があった。高度7,000mで再突入し、ガガーリンは数キロメートル自由落下した後、パラシュートを開いて地上に降り立った。その後、彼は世界一周の旅に出て、地球の素晴らしさを熱く語った。
2年かけて30カ国で行ったユーリのメッセージ。「軌道上で地球を一周し、私はこの惑星の美しさに驚嘆しました。遠く離れた親愛なる地球に浮かぶ雲とその光の影...地球の豊かな色のスペクトルを楽しみました。水色の光輪に包まれた地球は、次第に暗くなり、青緑色、ダークブルー、すみれ色、そして漆黒へと変化してゆきます。世界の皆さん。この美しさを破壊するのではなく、守り、高めてゆこうではありませんか!」 Russian cosmonaut Yuri Gagarin (inyourpocket.com)
キューバの農民民兵と新革命軍の一部の部隊は、アメリカの「民主化」のための侵略をわずか3日で鎮圧したのである。それ以来、CIAは数々のテロ作戦、フィデル・カストロ大統領の殺害計画、化学・生物兵器による人間、動物、農作物の殺戮と破壊を企んできた。CIAとペンタゴンの極悪マフィアによる最も陰湿な提案は、偽旗計画「オペレーション・ノースウッズ」だった。Operation Northwoods – Wikipedia
この計画のために、違法なグアンタナモ海軍基地の数人の職員を、CIAが配置した秘密工作員が殺害する必要があった。一部の犠牲者は、アメリカ人やアメリカに入国しようとしているキューバの亡命者ということになっただろう。非難はフィデル・カストロに向けられただろうし、その後、ペンタゴン-CIA軍は政権交代のための本当の戦争という段取りに移れる。ケネディ大統領はその計画を拒否した。この拒否によって、ケネディ大統領は自らの死刑執行令状にサインしたのである。
§1962年キューバミサイル危機
ピッグス湾侵攻後、キューバとソ連政府は、ペンタゴン-CIAの不気味な脅威、おそらく核兵器でキューバを石器時代に戻すという脅迫に対する防衛策として、キューバに核兵器を設置することを決定した。The Cuban Missile Crisis: A Timeline – HISTORY
ヴァシリ・アルキポフ大尉が、おそらく世界を核兵器による終末から救っている。
1962年10月、アメリカの察機がキューバに核ミサイルが設置されているのを確認した。ペンタゴンとCIAは、核兵器でキューバとソ連を侵略することを望んでいた。米国領土に近い核兵器は許されない。ケネディ大統領が「何人のアメリカ人が死ぬことになるのか」と尋ねると、軍国主義者たちは100万人といういい加減な数値をあげた。ケネディはそれ以上の犠牲が出ることがわかっていた。核による対応の代わり、彼はキューバの海上封鎖を命じ、ニキータ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev)首相にすべてのミサイルを撤去するよう要求した。交渉中、核ミサイルを1発ずつ積んだロシアの潜水艦4隻がキューバへ向かっていた。これらの潜水艦は、多くのアメリカ海軍の艦艇によって追跡された。1隻のロシア潜水艦K-19には、深海爆雷が投下された。彼らの通信は遮断された。大尉たちは戦争が始まったと思い、ミサイルを発射することを話し合った。ヴァシリ・アルキポフ大尉は、ミサイルを発射しないよう周囲を説得し、彼らはロシアに帰還した。2週間にわたる交渉の末、ロシアはミサイルを撤去することになった。アメリカは、キューバへの再侵略をしないこと、トルコから核ミサイルを撤去することを約束した。
翌年の11月22日、世界平和を希求するケネディがCIAによって白昼堂々殺害された。その5カ月前の6月10日、ケネディはアメリカン大学で講演を行っていた。

「私はCIAを粉々に粉砕し、風の中に吹き流してしまうだろう。」
「私が考える平和、私たちが求める平和とはどんなものでしょう?アメリカの戦争兵器によって世界に強制されるパックス・アメリカーナではありません。墓場が支えている平和や奴隷制度の維持の上で成り立つ平和でもありません。私は真の平和について話しているのです。地球上の生命を生きがいのあるものにするような平和、人と国が成長し、希望を持ち、子供たちのためによりよい生活を築くことができるような平和、単にアメリカ人のための平和ではなく、すべての男性と女性のための平和、単に現代における平和ではなく、すべての時代の平和についてなのです。」
「私が平和について語るのは、戦争がこれまでにない様相を示しているからです。全面戦争は全く意味をなしません。というのも、今は大国が、大規模で、他国に倒されることのない核戦力を維持できているからです。そのため、軍に頼らなくても、降伏することを拒否できる時代なのです。」Speec on peace delivered by President John F. Kennedy – Peace Corps Worldwide
ケネディの副大統領リンドン・ベインズ・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson)は、その流れを理解した。大統領になったジョンソンは、あまり乗り気でないアール・ウォーレン(Earl Warren)最高裁判事に調査委員会の長を命じた。調査委員会の主任にはアレン・ダレス(Allen Dulles)が任命された。ケネディは、ピッグス湾事件での失態を理由に彼をクビにしていた。ダレスはケネディを嫌っていた。
リー・ハーヴェイ・オズワルド(Lee Harvey Oswald)という一人の男が一発の「魔法の弾丸」で大統領を殺害したという政府の嘘を、騙されやすい米国民でさえ信じていないのである。1976年の世論調査で、陰謀であったと考える人の割合は81%と、最も高かった。オズワルドの殺害50年後でも、61%が複数の人物が関与していたと考えている。犯人はマフィアか連邦政府かCIAか、あるいはその三者のうちの二者、あるいは三者全てによる共謀だ、などという意見もあった。 Majority in U.S. Still Believe JFK Killed in a Conspiracy (gallup.com)
内部犯行である証拠は山ほどある。The One Paragraph from the JFK Assassination Files that Reveals Everything – Page 3 of 3 – Truth And Action
オリバー・ストーン監督の2作品:「JFK」と「JFK再検討」。CIAの幹部、ハワード・ハント(Howard Hunt)が共犯者の名前を挙げている。 Who Killed JFK? The Last Confession of E. Howard Hunt – Rolling Stone。関係したマフィアのボスの一人、サム・ジャンカナ(Sam Giancana)も共犯者の名前を挙げている。
Amazon.com: Double Cross: The Explosive Inside Story of the Mobster Who Controlled America: 9781510711242: Giancana, Sam, Giancana, Chuck, Giancana, Bettina, Newark, Tim: Books
CIAは、キューバ人に対する破壊工作と秘密戦争を続けている。生物化学兵器を使って、人間、豚、鶏、植物に致命的な病気を引き起こしたことさえあるのだ。この歴史をここで説明する余裕はない。参照:Backfire: The CIA’s Biggest Burn: Ridenour, Ron: 9780962497513: Amazon.com: Books,第4章「細菌戦士」。
§1964 トンキン湾の嘘がベトナム、カンボジア、そしてラオスでの全面戦争へ
ケネディの晩年、彼はキューバとベトナムの指導者に静かに近づいた。彼らとの戦争から手を引くため、彼らからどんな支援が可能かを探るためだった。彼らが自分たちの主権を維持できるように、というのが目的だった。兵器産業、ウォール街、国防総省、CIAは、このような「裏切り」を許さないだろう。
ジョン・ケネディが暗殺された後、リンドン・ジョンソンは、アメリカ軍の船が北ベトナムかその近くで攻撃を受けたという嘘をついた。この嘘によって、議会は「トンキン湾決議」を可決し、全面的な戦争権限を認めることになった。The Gulf Of Tonkin Incident: The Lie That Sparked The Vietnam War (allthatsinteresting.com)
ベトナム国民は、1975年のメーデーに、米軍とその代理人である南ベトナム政権を打ち破り、解放を勝ち取った。何百万人ものまともなアメリカ人が、長年にわたってアメリカの無謀な侵略に抗議してきた。同時に、世界の多くの国々で何百万という人々の抗議があった。ダニエル・エルズバーグ(Daniel Ellsberg)は、戦争屋世界の人間だったが、我々の側に立ち、ペンタゴン・ペーパーズの偉大な内部告発者となったのである。Pentagon Papers | National Archives そして The Pentagon Papers: Secrets, lies and leaks – Reveal (revealnews.org)
ジュリアン・アサンジ(Julian Assange)はエルズバーグ同様の道を歩いている。エルズバーグは、12年前に戦争メーカー体制がジュリアンを初めて逮捕して以来、ずっと彼の支援活動をしてきた。エルズバーグは、アメリカの戦争に抗議して何度も逮捕されている。私たち反戦活動家は刑務所を満杯にし、もっと早く戦争から撤退するよう米国政府を説き伏せる補助をした。結局、350万から500万人もの人々が亡くなった。そのうち米軍の死者はわずか58,000人。CIAのフェニックス計画で、1965年から1972年の間に約4万人のベトナム人愛国者たちとその家族を一人ずつ選びだして暗殺した。アメリカは戦争期間中、ベトナム/東南アジアに860万人の軍人を送り込んだ。Vietnam War casualties – Wikipedia
(ゴルバチョフ、レーガン、そしてブッシュが関係する期間の歴史については省略)
§アフガニスタン/ソビエト/アメリカの戦争 1978-89年
私は2017年、ロシアの駐デンマーク大使、ミクヤイル・ヴァーニン(Mikjail Vanin)にインタビューした。彼は私に次のように語った。「ロシアのアフガニスタン戦争は、イデオロギーと拡張主義に基づくものでした。大きな間違いだったのです!ロシアはこの国の本当の歴史と文化を知らずに、アフガニスタンの地に足を踏み入れたのです。この国はあまりに封建的であったため、社会主義社会への転換は不可能です。実際それは無理です。マルクスの分析にも合っていません。」
「しかし、ロシアは侵攻しませんでした。私たちはアフガニスタン政府から、テロリズムに資金を提供し武装させた外国勢力(米国)の支援を受けた反革命的な家父長制に対抗する支援を何度か要請されました。私たちは恐ろしい代償を払いました。今でも恐ろしい代償だったと感じています。この紛争で、ロシア国民の生命とロシア経済などに数々の損失を被ったために、国内の反対運動が起こりました。私たちは経済的な安定を失いました。この戦争で我々はほぼ破滅し、ソ連の崩壊に影響を与えたのです。」
1978年4月27日~28日、共産主義者率いるアフガニスタン人民民主党(PDPA)がサウル革命を起こした。モハメド・ダウド・ハーン(Mohammed Daoud Khan)政府が転覆された。この政府は1973年にクーデターを起こし、伝統的な家父長制に基づく独裁的な一党独裁体制を確立していた。Saur Revolution – Wikipedia.
社会主義路線を開始すると、10月令で「男女平等」が認められ、家父長制のムジャヒディンの武装騒動が始まった。CIAは、資金、武器、訓練で介入した。CIAとそのパキスタン側同伴者である総合情報局(Inter-Services Intelligence)(ISI)は、ジハード主義の若者がタリバン(知識を求める学生という意味)を始めるのを助けた。中国もまた、彼らに資金援助した。9/11の後、アメリカはタリバン政府を打倒した。米国はまた、サウジアラビアの富豪オサマ・ビン・ラディン(Osama bin Laden)を支援し、彼は後にアルカイダを結成して、彼を指導した人々を恐怖に陥れた。
父ブッシュ時代のCIA長官、子ブッシュ時代の国防長官であったロバート・ゲイツ(Robert Gates)は、米国の関与をこう説明する。1979 年 3 月、「CIA はアフガニスタンに関するいくつかの諜報活動の選択肢を米国国家安全保障会議の SCC(特別調整委員会)に送った」。3月30日の会議で、米国防総省のウォルター・B・スロコンベ(Walter B. Slocombe)代表は「アフガニスタンの反乱を継続させ、『ソビエトをベトナムの泥沼に吸い込む』ことに価値があるのか」と質問した。 From the Shadows: The Ultimate Insider’s Story of Five Presidents and How They Won the Cold War: Gates, Robert M.: 9781416543367: Amazon.com: Books
ソ連がアフガニスタン政府の要請を却下してから、新しい世俗的な国家を守るためにしぶしぶ軍隊を派遣するまで、20ヶ月もかかったことは重要な点である。アメリカは、平等な権利よりもジハードや家父長制を優先した。米国の戦争メーカーは、アフガニスタンでの出来事を喜んでいた。ちょうど今日のウクライナとロシアの戦争を喜んでいるように。しかし、今回の戦争は「ソ連・ベトナムの泥沼」にはならないだろう。むしろ世界勢力の分裂が生じており、第三次世界大戦の火柱が次から次へと立ち上るのではないか、と私は心配している。フィンランドも、今、挑発的にそのような動きをしている。
1980年にロナルド・レーガン(Ronald Reagan)が当選すると、レーガン・ドクトリン(トルーマン・ドクトリンのようなもの)を制定し、世界中の反共勢力を支援した。ミハイル・ゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev)がソ連首相に就任すると(1985年3月~1991年12月25日)、彼はアフガニスタン戦争の終結を目指し、イラン・イラク戦争の解決に望みをつないだ。ソ連はイランを支持し、アメリカはイラクを支持した。レーガンはと言えば、無慈悲なニカラグアの反政府勢力に資金を提供するために、アメリカの敵であるイランに武器を売るという不誠実で、違法なイラン・コントラ取引を行った。
Iran-Contra Affair – HISTORY
ゴルバチョフは、アフガニスタンの占領を「血が止まらない傷」と呼んだ。1989年2月に最後のソ連軍が退去したが、戦火は1992年まで続いた。アフガニスタンとソ連の戦争では、62万人のソ連軍が従軍し、14,453人が死亡、53,753人が何らかの傷を負った。アフガニスタンの死者はムジャヒディン、政府軍、非戦闘員合わせて約150万人。非戦闘員を中心に約300万人の重軽傷者が出た。ロシアの日刊紙「ロシア・ビヨンド」(Russkaya Semoyorka)は、2017年に、この戦争で年間20~30億ドルの費用がかかったと書いた。つまり総計180億ドルから270億ドルということになる。
これらの戦争にもかかわらず、ゴルバチョフはレーガンを説得し、双方がすべての核兵器を廃棄し、ソ連がNATOに加盟すれば、すべての人がより安全になることを伝えようとした。ウォール街とペンタゴン/CIAは、そのような平和な状態を容認することはなかった。それでも、ゴルバチョフはレーガンを説得し、1987年に中距離核条約を締結させた。INF条約は、両国が保有する陸上弾道ミサイル、巡航ミサイル、射程500~1000キロの短中距離ミサイル、1000~5500キロの中距離ミサイル発射機をすべて禁止したのだ。この条約は、空や海から発射されるミサイルには適用されなかった。次の共和党ドナルド・トランプ大統領は、2019年に、この条約をほごにした。Intermediate-Range Nuclear Forces Treaty – Wikipedia.
レーガンはまた、戦略兵器削減条約にも同意し、ジョージ・H・W・ブッシュは1991年に署名した。この条約が完全に実施されると、当時存在していた戦略核兵器の約80%が撤去されることになった。この条約により、米国は約8,556発、ソ連は約6,449発の核弾頭に制限された。米国とロシア連邦は2026年2月4日まで条約を延長することに合意している。Strategic Arms Reduction Treaty of 1991 (U.S. National Park Service) (nps.gov)
§グラスノスチ―ペレストロイカ
(以下は拙著『ロシア平和への脅威:厳戒態勢のペンタゴン』12章からの引用)
ゴルバチョフは、ロシア社会は開放と福祉の充実が必要であると気づいた。アフガニスタン戦争やイラン・イラク戦争、そしてアメリカの兵器増強に対応するには途方もない費用がかかるからだ。ゴルバチョフは、地方、地域、共和国の統制を強化し、メディアの報道を許可し、公務員官僚主義や行政府の腐敗を減らすことによって、国の経営をより透明化し、過剰に支配していた官僚たちの支配の輪を回避しようとしたのである。
ロシアのメディアは、これまで報道されなかった問題、すなわち、貧弱な住宅事情、食糧不足、アルコール中毒、公害の蔓延、忍び寄る高死亡率、多くの女性が低い地位に置かれていること、さらに国民に対する国家犯罪を暴露し始めた。しかし、このことは、国民の幻滅を助長し、国民はアメリカやヨーロッパの文化・政治に対する好奇心をより強くもつことになった。ペレストロイカは、省庁の独立性を高め、企業の独立採算を認め、いくつかの市場的改革を行った。しかし、ペレストロイカの目的は、中央集権体制を終わらせることではなく、社会主義をより効率的に機能させ、市民のニーズをよりよく満たすことにあった。
ロシアや他の社会主義国、例えば私が8年間住んだキューバでは、多くの共産主義者が、これらの改革は遅すぎるし、崩壊を促進すると考えていた。崩壊は、実際に起こった。
ゴルバチョフの当初の目標であった、共産党の部分的支配を維持したままのソビエト連邦の改革は失敗していた。根本的な問題を解決しない改革は、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、チェコスロバキアを中心とするいくつかのワルシャワ条約加盟国でも不和と暴力につながった。1990年3月、ハンガリーは複数政党制を合法化した。東ドイツ、ブルガリア、ルーマニア、チェコスロバキアがこれに続いた。
アゼルバイジャン、ジョージア、そしてウズベキスタンを構成国とする共和国で内紛が拡大。リトアニアは独立を模索した。1989年から90年にかけて、ゴルバチョフは中央アジアのいくつかの共和国で血なまぐさい民族間抗争を軍事力で抑えたが、共和国の合法的な分離独立を規定する仕組みを導入した。
1990年、ゴルバチョフは、党から選挙で選ばれた政府機関への権力移譲を加速させた。3月15日、人民代議員会議がゴルバチョフを、広範な行政権を持つソ連大統領(新たに創設された役職)選出した。議会は、憲法で保障された共産党の政治権力独占を廃止し、他の政党を合法化する道を開いた。1990年、「和平の過程における主導的役割」が評価され、ノーベル平和賞を受賞した。
§米国/NATOのゴルバチョフへの約束-ソビエト連邦を解体するための新たな嘘
この激動の時代に、米国と西ドイツの首脳は、NATOがソ連に接近しない可能性をゴルバチョフと議論し、ゴルバチョフのNATO加盟案が検討された。
「ベーカー米国務長官はNATOの拡大について「1インチたりとも東進しない」という有名な約束をした。1990年2月9日にソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領と会談した際のことだった。それは1990年のドイツ統一の過程から1991年にかけて、西側指導者がゴルバチョフと他のソ連高官に与えたソ連の安全に関する確約の数々の一部である 。」
2017年12月12日、ジョージ・ワシントン大学に拠点を置く国家安全保障文書館が、米国、ソ連、ドイツ、イギリス、フランスの機密解除文書を含むこの情報を掲載した。NATO Expansion: What Gorbachev Heard | National Security Archive (gwu.edu)
「ブッシュ大統領は、1989年12月のマルタ会談で、東欧の革命が起きているが、アメリカはそれに乗じてソビエトの利益を損ねるようなことはしない(「私はベルリンの壁の上で小躍りして跳ね回ったことはない」)、とゴルバチョフに太鼓判を押した。しかし、その時点ではブッシュもゴルバチョフも(あるいはこの問題については、西ドイツのヘルムート・コール首相も)、東ドイツの崩壊やドイツ統一の速度がそれほど早くなるとは思っていなかったのだ。」
「この文書は、1990年初頭から1991年にかけて、複数の国の指導者が中・東欧のNATO加盟を検討し、そして受け入れない流れになっていたことを示すものである。[また]、①1990年のドイツ統一交渉の文脈におけるNATOの議論は、東ドイツの領土の状況に狭く限定されていたわけで全くなかったこと、そして②その後のNATOの拡大が間違った方向に向いているというソ連とロシアの不満は、最高レベルの同時代の談話メモや通話メモに書かれていたことが根拠となっている。この2点もこの文書には示されている。」

1990年5月31日、ワシントン・サミット開催後、ホワイトハウスの芝生で盛大にセレモニーが行われ、ブッシュ大統領からミハイル・ゴルバチョフへの正式な挨拶が行われた。(出典:ジョージ・H・W・ブッシュ大統領図書館 P13298-18)
「西側諸国の指導者によるNATOに関する最初の具体的な保証は、1990年1月31日、西ドイツのハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー(Hans-Dietrich Genscher)外相は、バイエルン州のツツィングにおける重要な公開演説で、ドイツ統一に関する論議の口火を切った。ボンの米国大使館(資料1参照)は、ゲンシャーが「東欧の変化とドイツ統一プロセスが『ソ連の安全保障上の利益の減損』につながることがあってはならない」と明言したことをワシントンに伝えた。したがって、NATOは「東方への領土拡大、すなわちソ連国境に近づけること」を排除すべきである」。ボンの電報は、また、ゲンシャーの提案として、NATOに統一されたドイツにおいても、東ドイツ領をNATOの軍事機構から除外することに言及していた。
「ドイツ民主共和国領土の特別な地位という後者の考え方は、1990年9月12日に2プラス4(両独と戦勝4カ国)外相によって署名された最終的なドイツ統一条約に成文化されたものである。前者の「ソ連国境に近づく」という考え方は、条約ではなく、ソ連と西側の最高レベルの対話者(ゲンシャー、コール、ベーカー、ゲイツ、ブッシュ、ミッテラン、サッチャー、メジャー、ヴォルナーなど)が1990年から91年にかけて保証を与えた複数の会話メモに書き記されている。[これらの会談や覚書が保証しているのは]ソ連の安全保障上の利益保護と、ソ連をヨーロッパの新しい安全保障構造に組み込むことであった。この2つの問題は関連していたが、同じではなかった。その後の分析では、この2つを混同し、議論はヨーロッパ全体を包み込んだものではなかったと主張されることもあった。(しかし)以下に公表された文書は、それがヨーロッパ全体を包み込んだものであったことを明確に示している。」 (2)
1991年3月17日、ロシア政府は、ソ連史上初の国民投票を実施した。それは、ソ連邦を継続するか否かを問うものであった。
「アルメニア、エストニア、ジョージア(ただし、アブハジアは98%以上の賛成、南オセチア、ラトビア、リトアニア、モルドバ(トランスニストラ、ガガウジアは除く)は当局が投票をボイコットしたが、ソ連の他の地域では投票率が80%であった。国民投票の問いは、参加した他の9つの共和国すべてで80%近くの有権者に承認された)。1991 Soviet Union referendum – Wikipedia.
NATOがソ連を脅かさないことを保証したこと、そしてワルシャワ条約加盟国の多くが不満で結束が取れず、生産性も損なっていたため、ゴルバチョフは1991年7月1日にワルシャワ条約を解除した。この時、共産党政権の一部の強硬派は動揺し、政権を奪おうとした。クーデター未遂は1991年8月19日から21日のわずか2日間であった。1991年6月12日に行われた大統領選の最初の人気投票で選ばれたロシアの新大統領、ボリス・エリツィンが率いる市民の抵抗運動が効果的にこれを鎮圧したのである。エリツィンはゴルバチョフの盟友であると同時に批判者でもあった。クーデターは崩壊し、ゴルバチョフが政権に復帰したものの、この事件はソ連を不安定にし、その崩壊の一因となった。
1991年のクリスマスの日、ゴルバチョフは友人のブッシュ大統領に電話をかけた。
ゴルバチョフ:約2時間後、私はモスクワのテレビで、私の決断について短い声明を発表します。...最初は副大統領として、次に米国大統領としてのあなたと一緒に仕事をしたことを非常に高く評価していることを、あなたに申し上げたい。私は、連邦のすべての指導者、そして何よりもロシアが、米ソ2国の指導者たちの間にあって、あなたと私がどのような財産が生み出してきたかを理解してくれることを願っています。この重要な資本の源泉を維持し、拡大する責任を指導者たちに理解してほしいのです。どのような国家を創設するかについての我々の連邦における議論は、私が正しいと思っていたこととは異なる方向に進みました。しかし、私は、この新しい連邦が効果的なものとなるよう、自分の政治的権限と役割を果たすと申し上げておきます。
ブッシュ:ミハイル、まず、この電話にどれだけ感謝しているかを言わせていただきたい...私たちの関係は変わらないでしょう。特に、この冬に問題が深刻化する可能性のあるロシア共和国とはそうです。あなたが森に隠れるようなことをせず、政治的に積極的であることをうれしく思います。それが新しい連邦のためになると、私は全幅の信頼を寄せています。」
翌日、ソビエト連邦は解体された。11の共和国が独立した:アルメニア、アゼルバイジャン、ベラルーシ、ジョージア、カザフスタン、キルギスタン、モルドバ、タジキスタン、トルクメニスタン、ウクライナ、ウズベキスタンである。バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)は再び独立した。ソ連の他の地域はロシアとなった。アルバニアとユーゴスラビアは共産主義国家でなくなった(1990~1992年)。同時期、アメリカ/NATOはユーゴスラビアを5つの国に分割した:ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、マケドニア、スロベニア、ユーゴスラビア連邦共和国(セルビア・モンテネグロ)である。
§ 1991-1999 エリツィン-クリントン ロシアの主権を弱体化させる。NATOは東進しないとの約束を破った
ボリス・エリツィンは直ちに、古典的な新自由主義資本主義経済をモデルとした反革命を開始した。まず、ロシア国内の共産党の活動を禁止した。アメリカは小躍りした。ブッシュ大統領に続き、クリントン大統領も経済と政治のトップ補佐官を送り込んできた。かつては強大な独立国であったこの国に、アメリカ企業が群がった。
エリツィンは、ソ連が多くの国々に与えていた援助のほとんどをカットした。当時私が住んでいたキューバは、「平時の特別期間」に突入した。キューバは一夜にして輸出の85%と、ソ連諸国からあった食料供給の63%を失った。政府は一部の統制された市場経済対策に門戸を開いた。米国の対キューバ封鎖にあえて逆らう非米国人資本家には、外国投資が許可された。米国は、キューバと取引する外国資本主義企業に罰金まで課している。彼らは、アメリカと取引を続けるために、金を払い、キューバとの取引を止めなければならないのだ。
何千人ものキューバ人が栄養失調で視力の一部を失った。ラテンアメリカの国々や他の地域で多く見られるように、誰も飢えることはなかったが、空腹のまま寝ることもしばしばだった。多くの社会事業は削減されなければならなかったが、無料の教育や医療は、薬の数は減ったとはいえ、削減されることはなかった。
ロシアでは、経済の総転換により、国民の財産と富の多くが少数の人々の手に渡った。その多くはかつて共産主義者であった。大富豪、億万長者のオリガルヒたちは、自分たちを19世紀の強盗男爵になぞらえている。
1993年4月、クリントン・エリツィンは最初の会談を持った。全部で18回行われた会談の最初だった。その直後、憲法危機が発生した。すでに何千万人を貧困に陥れた混沌とした経済に対して、大半の国会議員がてんやわんやだった。
10月には、兵士と市民が街頭でデモを行い、衝突した。エリツィン派のデモ隊は、国会周辺の警察線条網を撤去し、市長室を占拠し、オスタンキノ・テレビセンターに突入しようとした。当初、陸軍のほとんどは中立を宣言していた。しかし、その一部は国会を支持した。しかし、ほとんどの将兵たちは危険な橋を渡ることは望まなかった。10月4日朝、エリツィンの命令で、将軍たちは兵士たちに最高会議ビル(ホワイトハウス)への突入を指示した。正午までに軍隊はホワイトハウスを占拠し、抵抗する議員たちのリーダーを逮捕した。「第二次十月革命」とも呼ばれるこの革命は、1917年10月よりもはるかに多くの流血を伴うものであった。政府の推計では、死者187人、負傷者437人である。政府以外の発表では、死者数は2,000人にものぼるという。議員を含む多くの死者は、エリツィンが議会の爆撃を命じた時に発生した。
欧米の政治指導者とそのマスメディアは、この死者数を「民主主義のために必要なこと」として拍手喝采せんばかりだった。小国ながら疑いなく忠実な属国であるデンマーク(著者は現在ここに住んでいる)でさえ、エリツィンの勝利を歓迎した。デンマーク外相ニールス・ヘルビック・ペーターゼン(Niels Helvig Petersen)は、エリツィンは「我々の希望だ。彼は民主主義の発展を保証してくれる」と述べた。
ジョージ・H・W・ブッシュ(父)は、東進しないという約束を密かに取り消し、クリントンに汚れた行為を始めさせた。1999年、クリントンはチェコ共和国、ハンガリー、ポーランドを追加した。ジョージ・W・ブッシュ(子)はブルガリア、ルーマニア、エストニア、ラトビア、リトアニアに加え、スロバキアとスロベニアを追加した。(3)
ゴルバチョフは愚かにも、クリントンの側近と米国企業にロシア経済の大半を支配させた。米国のアグリビジネスは、かつては自給自足の国であったロシアに食料を輸出した。その結果、1998年までにロシアの農場の8割が倒産した。まだロシアの手元にある経済の一部は、新しい資本主義のオリガルヒが所有することになった。エリツィンは彼らにほとんど税金を払わせなかった。
1998年7月25日、エリツィンはプーチンをロシア連邦の主要な情報・治安組織であり、KGBを引き継いだ連邦保安局(FSB)の局長に任命した。プーチンはKGBの中佐を務めていた。クーデター未遂に抗議して辞職した。
1999年8月9日、プーチンは首相代行に任命された。エリツィンもプーチンを後継者に指名する意向であることを表明した。同日、プーチンは大統領選への出馬に同意した。プーチンは正式にはどの政党にも属していなかったが、1999年12月の下院選挙で第2位の得票率(23.3%)を獲得した新党「統一党」への支持を表明した。「統一党」はプーチンを支持した。
1999年12月31日、エリツィンは突然辞任をした。プーチンが大統領代行に就任した。2000年3月26日、第一回目の投票で4000万票(53%)を獲得した。共産党のゲンナジー・ジュガーノフ(Gennady Zyuganov)が2200万票(30%)、社会自由党ヤブロコの候補者グリゴリー・ヤブロインスキー(Grigory Yavloinsky)が440万票(6%)だった。
エリツィンの失政が終わるまでに、平均寿命は5年(69歳から64歳まで)縮まった。ロシア人の貧困率は、ソ連末期の1.5%から43.4%に激増した。(プーチン大統領は国家の主権を取り戻し、これを劇的に変化させた。2020年、貧困率は2.9%だった) Russia Poverty Rate 1997-2022 | MacroTrends
§アメリカ新世紀プロジェクト(PNAC)2000プロジェクトと9/11
PNACは、「衝撃と畏怖」を利用した世界征服のための共和党極右の青写真であった。25人の署名者は、米国に対する巨大な危機、この青写真の執筆者たちが提示した、たぶん「真珠湾攻撃のような出来事」なしには、それが国民の支持を得られず、達成不可能かもしれないことを理解していた。The Twenty Year Shadow of 9/11: U.S. Complicity in the Terror Spectacle and the Urgent Need to End It – Global ResearchGlobal Research – Centre for Research on Globalization
PNACを支持するジョージ・W・ブッシュ(子)候補が大統領に就任してわずか8ヶ月後、9.11テロが発生した。ブッシュはPNACの執筆者たちの多く要職につけていた。その一人がリチャード・パール(Richard Perle)だった。
真のジャーナリスト、ジョン・ピルジャー(John Pilger)は、パールがレーガン大統領の顧問をしていた時にインタビューしたことがある。ピルジャーはこう書いている:
「パールが『全面戦争』について語ったとき、こいつは狂人だ、とほっておいた。しかし、それは間違いだった。彼は最近、アメリカの『テロとの戦い』を説明するときに、再びこの言葉を使ったのだ。「段階は踏まない。これは全面戦争だ。我々は様々な敵と戦っている。たくさんの敵がいる。まずアフガニスタンをやる、次にイラクをやる......というのは、まったく間違ったやり方だ。もし、私たちが抱いている世界ビジョンをただ前面に押し出し、そしてそれを完全に受け入れ、そして小賢しい民主主義をつなぎ合わせることはせず、ただ全面戦争を行うのであれば......今後何年も経ってから、我々の子供たちは我々について素晴らしい歌を歌うだろう。」New Statesman – John Pilger reveals the American plan (archive.org)
19人の外国人-サウジアラビアから15人、アラブ首長国連邦、エジプト、レバノンから4人-が、世界で最高の軍隊を持ち、監視が行き届いた国の4か所でどのように攻撃を成功させたか、まさに信じがたいことである。 Our Mission – 911Truth.Org, そして World Trade Center Building 7 Demolished on 9/11? | AE911Truth
あの謎の爆破の後、アメリカが望むどんな戦争も、西側諸国の政府と国民は受け入れることができた。この20年間、ブッシュのアメリカ例外主義者のスローガンは現存している:
「あなたは我々の側につくのか?それともテロリストの側につくのか?」
§2001-2022 アメリカのアフガン戦争とプーチン大統領の方針
西側の政治家とその主流メディアは、プーチン大統領がどれだけ米国やNATOとパートナーになりたがっていたか、2022年2月24日までどれだけ努力したか、を伝えようとしない。米帝がその指導者たちが望んでいたもの、つまり「テロとの全面戦争」を開始することを可能にした9/11という新たな真珠湾攻撃を手に入れたとき、プーチン大統領はブッシュ大統領に電話をかけ、私はと妻と、殺された人々のために祈っていると言った。そして、タリバンとの戦いへの援助を申し出た-これはひどい間違いだ。
米国がロシアに対して破壊工作を行った経緯があるにもかかわらず、新大統領プーチンは子ブッシュに、タリバンに関する情報を提供し、アフガニスタン戦争用だったソ連2つの軍事基地の使用を申し出た。
プーチン大統領は、両国は「敵ではない」と語り、NATO加盟を要請した。「我々は良い同盟国になれる。」 プーチンはブッシュに、CIAがロシアの影響下にある地域で、反政府テロリスト集団を武装させ、訓練し、資金を提供するのを止めることだけを望んだ。
プーチン大統領は、ジョージ・W・ブッシュ大統領と何度か会談し、二人はお互いを友人と呼び合っている。2001年6月16日、スロベニアで行われた最初の会談で、ブッシュはこう言った。「私は彼の目を見て、彼の魂を感じた。私は彼を信頼することができた。」しかし、プーチンはブッシュを信用できたのだろうか?

ブッシュはCIAの動きを止めることができなかったし、止めようともしなかった。CIAはロシアの情報機関に書簡を送り、CIAは望むことを続けるだろうと述べた。ブッシュ/ペンタゴン/CIAはまた、ロシアのNATO加盟の申し出を拒否した。NATO加盟の申し出は、U.S.-ARMEとの軍事衝突を終わらせようと3代のロシア大統領が継続的に続けた努力だった。ブッシュ政権は、共和党右派のリチャード・ニクソンとソ連が1972年に署名した重要な対弾道ミサイル条約さえ破棄した。
エリツィンそしてプーチン両大統領は、NATOが国境を越えて拡張していることに苦言を呈している。「ワルシャワ条約が解かれた後、西側のパートナーたちが提示した確約はどうなったのか。その宣言は今どこにあるのか?」プーチンは2007年のミュンヘン安全保障会議でこう述べている。
「それを誰一人覚えていないのです。しかし、何が語られたのか、私はみなさまに思い出していただこうと思います。1990年5月17日、ブリュッセルでのヴェルナーNATO事務総長の演説を引用したいと思います。彼は当時、次のように言っています:
ドイツ領土の外にNATO軍を配置しない態勢であるという事実は、ソ連に確固たる安全保障を与えます。
この保証は今どこにあるのでしょうか?」 TRANSCRIPT: 2007 Putin Speech and the Following Discussion at the Munich Conference on Security Policy – Johnson’s Russia List
§ 2008-16バラク・オバマは、ブッシュのアフガニスタンとイラクに対する戦争をすぐに拡大し、さらに5つの戦争を追加した。一度に7つの戦争、これはどの米国大統領よりも多い数である。
「平和の候補者」バラク・オバマは、多くの進歩的でかつての過激な米国民から支持されていた。しかし、彼はすぐに金持ちの白人の最高のアンクル・トムになった。オバマはブッシュのアフガニスタンとイラクに対する戦争を拡大し、パキスタンの半分、貧困も不平等もない生活をしていた世俗的国家リビア、イエメン、ソマリア、世俗的国家シリアを追加した。(参照: Ron Ridenour: Obama: The Worst President Ever そして Obama And His Seven Wars – Shadowproof, さらにこのCNNも Countries bombed by the U.S. under Obama administration | CNN Politics)
ロシアの援助がなければ、正統性のあるシリア政府は、アメリカ、ヨーロッパの同盟国、イスラエル、湾岸諸国、トルコによって不法に転覆させられていたことだろう。この寄せ集めの同盟国は、時に最も過激で残忍なイスラム国のテロリスト、アルカイダ、アルヌルサなどを時には支援し、時には戦った。アメリカは今も世俗国家シリアに対して戦争を仕掛け、その石油を盗んでいる。
プーチン大統領は、アサド大統領に、所有する神経ガスを、化学生物兵器を大量に保有し、それを使用している世界第一のテロ国家(アメリカ)に引き渡すよう説得した。同じ時期に、プーチン大統領はイランに原子力兵器を作らないよう説得した。イラン、米国、フランス、ドイツ、中国、ロシアとの「包括的共同行動計画」は、当初プーチン大統領の仕事であった。この「計画」に従い、イランの核エネルギープログラムの制限と引き換えに、西側のイランに対する経済制裁を解除した。それを止めたのがドナルド・トランプだ。
§ ウクライナはオバマの8つ目の戦争遂行となった
オバマはあまりに多くの戦争を抱え込んでいたので、ウクライナを副大統領のジョー・バイデンに委ねた。その使命は、米国・EUとロシアの両方と友好的で取引しようとしたヴィクトル・ヤヌコビッチ(Victor Yanukovych)大統領を排除することだった。帝国主義者たちはロシアとの友好的な取引を許さなかった。ヤヌコビッチは去らねばならなかった。
ブッシュのNATO大使だったビクトリア・ヌーランド(Victoria Nuland)は、オバマが連れてきた多くのブッシュによって任命された人間の一人に過ぎない。彼は彼女をヨーロッパ・ユーラシア問題担当国務次官補にし、バイデンに引き継いだ。その使命は、親ファシストや他の極右勢力、例えばステパン・バンデラを英雄と仰ぐ右派セクターやスヴォボダ-社会国民党とバイデンとのトップの連絡役になることだった。この極右勢力は多くのデモでバンデラを称えている。ヌーランドは、ジェフリー・パイアット(Geoffrey Pyatt)米国大使と協力して、クーデターを準備した。
2014年2月4日、クーデターの3週間前、彼らは来るべきクーデター政権の座につくべき人物について電話会談を行った。幸運にも、この会話は盗聴され、世界中に送信された。U.S.-ARMEのもとで、誰が次の知事になったのか、必聴。 (927) Nuland-Pyatt leaked phone conversation _COMPLETE with SUBTITLES – YouTube
ヌーランド-パイアットのクーデター計画決定後、2月後半にユーロマイダンデモが発生し、暴力的になった。主に狙撃手によって100人以上が殺害された。ファシストたちはヤヌコビッチ大統領を殺害しようとした。大統領は逃亡を余儀なくされた。2月22日、アメリカは念願の「政権交代」を果たした。
「チョコレートオリガルヒ」ペトロ・ポロシェンコ(Petro Poroshenko)は、最右翼で米国に友好的と判断され、大統領に就任した。2015年にまだ大統領である彼は、クーデターによって大統領になったことを認めている。
「ウクライナのポロシェンコ大統領、ヤヌコビッチ打倒はクーデターだったと発言」 -Global Research - Centre for Research on Globalization
「ウクライナのペトロ・ポロシェンコ大統領が、ウクライナ最高裁判所に対し、前任者のヴィクトル・ヤヌコビッチが違法な作戦によって転覆されたと宣言することを要請:つまりそれは、ポロシェンコ自身の大統領職を含むポストヤヌコヴィッチ政権がそうだということになる。」Ukraine’s President Poroshenko Says Overthrow of Yanukovych Was a Coup – Global ResearchGlobal Research – Centre for Research on Globalization
ヌーランドの部下の一人で、社会国民会議の共同創設者であるアンドリー・ビレツキー(Andriy Biletsky)は、その後間もなく合体することになったいくつかのファシスト大隊の一つである「アゾフ大隊」を創設した。アゾフはクーデターの過程で多くの警察官を殺害した。その後、彼らはドンバス地方でロシア人に対する戦争を開始した。14,000人以上が殺害された。プーチン大統領は、民族ロシア人からの嘆願にもかかわらず、今年になるまでロシアへの編入を認めなかった。

この「黒い太陽」はアゾフのシンボルのひとつにすぎない。ナチスドイツも使っていた。
アメリカの軍向けラジオFree Europe/Radio Libertyもアゾフのルーツはファシストと認めている。In Ukraine, Ultranationalist Militia Strikes Fear In Some Quarters (rferl.org)
クーデター政権の初期、バイデンは生活費を稼ぐために息子のハンターをウクライナに送り込んだ。彼はウクライナの民間エネルギー企業の一つであるブリスマ(Burisma)社の「アドバイザー」としての仕事を与えられた。給与は月給83,000ドル。 Hunter Biden: What was he doing in China and Ukraine? – BBC News.
親ファシスト政府は、露土戦争の間にロシアが建設したセヴァストポリのクリミア海軍基地(1772-83年)の米国による乗っ取りを承認したのである。もしロシアがグアンタナモ海軍基地の買収に動いたり、メキシコとアメリカの国境に基地を建設したりしたらどうなるか想像してみてほしい。
2月23日、クーデター派のヤヌコビッチ大統領に逮捕状が出された日、親ロシア派のクリミア人がクリミアの首都シンフェロポリにある政府庁舎を占拠した。3月11日、クリミアのウクライナからの独立を議会が宣言。分離に賛成78票、反対22票の投票を受けてのことだった。3月16日有権者数1,274,096人(投票予定者の83%)の住民投票の結果:1,233,002人がロシア連邦への統合を支持(96.8%)、32,000人がウクライナに残留を支持(2.5%)。
不正投票の告発はなかった。3月17日 クリミア議会がこの結果を認め、ロシア連邦内の独立国家になることを申請。プーチン大統領は申請を受理し、議会とセルゲイ・アクショノフ(Sergey Aksyonov)の首相就任を承認した。
住民投票から1年後、資本主義の立場に立つフォーブス誌はこう書いた:
「米国とEUはクリミア人を彼らのために救いたいと考えているかもしれない。しかし、クリミア人は今のままで幸せなのだ。黒海のウクライナ半島の併合から1年、世論調査によると、そこの地元民は、ウクライナ人、ロシア民族、タタール人など、ほとんど全員が一致している。ロシアとの生活の方がウクライナとの生活より良い、と。」One Year After Russia Annexed Crimea, Locals Prefer Moscow To Kiev (forbes.com).
同時にガーディアン紙の見出し Welcome to Ukraine, the most corrupt nation in Europe | Ukraine | (欧州で最も腐敗した国ウクライナへようこそ)The Guardian
2018年、私はプーチン大統領の駐デンマーク大使ミクジャイル・ヴァニン(Mikjail Vanin)にインタビューした。拙著『ロシア平和への脅威:厳戒態勢のペンタゴン』の取材のためだった。ヴァニン大使は、米国を「我々の友好国」と呼んだ。私が「米国はロシアを友好国として望んでいないのですが」と指摘すると、ヴァニン氏はクスッと笑った。「まあ、我が国の大統領はまだ希望を持っていますよ 。」これは米国が計画したウクライナのクーデターから4年後の発言である。
(1) “The President’s News Conference of April 12, 1961,” John F. Kennedy, The Public Papers of the Presidents, 1961. (Washington: United States Government Printing Office, 1962, page 259). And “Text of Secretary Rusk’s News Conference, Including Observations on Cuba,” New York Times, 18 April 1961.
(2) “From the Shadows: The Ultimate Insider’s Story of Five Presidents and How They Won the Cold War”, Simon & Schuster, 2007.
(3) Barak Obama added Albania and Croatia. Donald Trump added Montenegro and North Macedonia. Joe Biden is adding Sweden and Finland, which will encircle Russia as much as seas can allow with the exceptions of Georgia and Ukraine, which is why the CIA has been endeavoring to annex those two through terrorist actions and coup attempts. See part two for more of Clinton’s imperial crimes.
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