<記事原文 寺島先生推薦>
THE CIA AND THE MEDIA筆者:カール・バーンスタイン(Carl Bernstein)
出典:Rolling Stone 1977年10月20日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年6月28日
1977年にワシントン・ポスト紙を退社したカール・バーンスタインは、冷戦時代のCIAと報道機関の関係を半年かけて調査した。1977年10月20日にローリング・ストーン誌に掲載された彼の25,000字に及ぶ特集記事を以下に転載する。
CIAとメディアアメリカ最強のニュースメディアはいかに中央情報局(CIA)と手を携えていたか、そしてなぜチャーチ委員会*はそれを隠蔽したのか?チャーチ委員会*・・・Church Committee、正式には「諜報活動に関する政府活動を調査する米国上院特別委員会」は、1975年に米国上院の特別委員会で、中央情報局(CIA)、国家安全保障局(NSA)、連邦捜査局(FBI)、内国歳入庁(IRS)による不正行為を調査した。アイダホ州選出のフランク・チャーチ上院議員(民主党)が委員長を務めたこの委員会は、「諜報の年」と呼ばれた1975年に、下院のパイク委員会や大統領主催のロックフェラー委員会など、諜報機関の不正を調査した一連の調査の一環であった。この委員会の努力は、常設の米上院情報特別委員会の設立につながった。(ウィキペディア)カール・バーンスタイン
1953年、アメリカを代表する通信社連合専属のコラムニストであったジョセフ・オールソップは、選挙を取材するためにフィリピンへ赴いた。彼がそこへ行ったのは通信社連合から依頼されたからではない。また彼のコラムを掲載している各新聞から求められたからでもない。彼はCIAの依頼によって行ったのだ。
CIA本部に保管されている文書によれば、オールソップは過去25年間に中央情報局(CIA)ために秘密裏に任務を遂行した400人以上のアメリカ人ジャーナリストの一人である。これらのジャーナリストのCIAとの関係は、表面に出ないものもあれば、表面に出るものもあった。協力や調整、そしてその二つが重複するものもあった。ジャーナリストは、単純な情報収集から共産主義国のスパイとの仲介役まで、あらゆる秘密の仕事を行なった。記者は自分のノートをCIAと共有していた。編集者たちはスタッフを共有していた。ジャーナリストの中にはピューリッツァー賞を受賞した優秀な記者もいて、別に認証されているわけではないが、アメリカ大使を自認しているものもいた。大半の記者はそれほど高い地位に就いているわけではない:CIAとの関係が仕事に役立っていることを知った海外特派員;記事を提出するのと同しくらいスパイ業の大胆さに興味を持っている通信員やフリーランサー;そして、数は一番少ないが、海外でジャーナリストを自称するフルタイムのCIA職員。多くの場合、CIAの文書によると、ジャーナリストはアメリカの主要な報道機関の経営陣の同意を得て、CIAの任務を遂行していた。
CIAとアメリカの報道機関との関わりの歴史は、「曖昧にする」、「欺く」という公式政策があるためずっと覆い隠されている。その中心的な理由は以下:
■ジャーナリストたちの利用は、CIAが採用する情報収集手段の中で最も生産的なもののひとつである。1973年以来、CIAは(主にメディアからの圧力の結果)記者たちの利用を大幅に減らしているが、一部のジャーナリスト工作員はまだ海外に配置されている。
■CIA高官らの話によれば、この問題をさらに調査すれば、1950年代から1960年代にかけて、アメリカのジャーナリズム界で最も有力な組織や個人との一連の都合の悪い関係があったことが明らかになるのは必至だという。
CIAに協力した幹部には、コロンビア放送のウィリアーン・ペイリー、ティルン社のヘンリー・ルース、ニューヨーク・タイムズ紙のアーサー・ヘイズ・サルツバーガー、ルイヴィル・クーリエ・ジャーナル紙のバリー・ビンガム・シニア、コプリー・ニュース・サービス紙のジェームズ・コプリーなどがいる。CIAに協力したその他の組織には、アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー(ABC)、ナショナル・ブロードキャスティング・カンパニー(NBC)、AP通信、ユナイテッド・プレス・インターナショナル、ロイター通信、ハースト新聞、スクリップス・ハワード、ニューズウィーク誌、ミューチュアル放送システム、マイアミ・ヘラルド、旧サタデーイブニングポストとニューヨーク・ヘラルド・トリビューンなどがある。
CIA高官らによれば、これらの中で最も価値があるのは、ニューヨーク・タイムズ紙、CBS、タイム社との連携だという。
CIAによる米国のニュースメディアの利用は、CIA高官たちが公に認めたり、議員との非公開会議で認めたりしたよりもはるかに広範囲に及んでいる。真相の概要ははっきりしている。しかしその具体的な内容を突き止めるのはそれほど簡単ではない。CIAの情報筋は、ある特定のジャーナリストがCIAのために東欧全域で不正取引をしていたことをほのめかしている;このジャーナリストは「違う、支局長と昼食をとっただけだ」と言っている。有名なABC特派員が1973年までCIAのために働いていたとCIA情報筋は断言している。が、それが誰なのかは明かそうとしない。すばらしい記憶力を持つCIA高官は、ニューヨーク・タイムズ紙が1950年から1966年の間に約10人のCIA工作員に「隠れ蓑」を提供したと言っている。しかし、その10人が誰だったのか、新聞社の経営陣の誰がお膳立てをしたのか、についてこの高官は知らない。
CIAは、いわゆる「大手」メディアとの特別な関係により、最も貴重な工作員の一部を20年以上にわたって、露見することなく、海外に配置することができた。ほとんどの場合、CIAの最高レベルの高官 (通常は局長か副局長) が、指定された協力報道機関の最高経営人のひとりひとりと個人的に対応したことを、CIAの書類は示している。提供された援助は、しばしば2つの形態をとる:外国の首都に赴任しようとしているCIA工作員のための仕事と資格証明(CIA用語で言えば「ジャーナリストとしての隠れ蓑」)を提供すること。そして、すでにメディアの職員になっているCIA工作員を記者として扱うこと。その中にはメディア界で超有名な特派員も含まれている。
現地では、ジャーナリストを使ってその国の人間を工作員として採用し、担当した;①情報を入手して評価し、②外国政府関係者に虚偽の情報を仕掛けること、がその役割だった。多くの人が秘密保持契約に署名し、CIAとの取引について何も漏らさないと誓った。雇用契約を結んだ者もいれば、作戦要員として割り当てられ、破格の敬意をもった待遇を受ける者もいた。また、同様の任務を遂行していたにもかかわらず、CIAとの関係があまりはっきりしていなかった者もいた。彼らは海外出張の前にCIA職員から説明を受け、その後結果報告をし、外国の諜報員との仲介役として利用された。CIAは、多くの協力ジャーナリストがCIAのために行なったことの大部分を「報道」と適切に表現している。「お願いがあるのですが」とCIAの上級高官が言った。「あなたはユーゴスラビアに行く予定だと聞いています。全ての通りが舗装されていますか?どこで航空機を見ましたか?軍事的動きの兆候はありますか?ソ連人を何名見ましたか?もしソ連人に出会うことができたなら、彼の名前を聞いてその正確なスペルを確認してください。・・・そのための会議を設定できますか?あるいはメッセージを伝えられますか?」多くのCIA関係者は、これらの協力的なジャーナリストを工作員と見なしていた。ジャーナリストたちは、自分たちをCIAの信頼できる友人と位置付けていた。彼らは時折CIAの利益につながることはするが、それもたいていは無報酬で、国益のためにやっていた。
「私はそれを頼まれたことを誇りに思いますし、それを成し遂げたことを誇りに思っています」と、ジョセフ・オールソップは語った。彼は、彼の弟だった今は亡きコラムニストのスチュワート・オールソップと同様、CIAの秘密任務に従事した。「新聞記者には国家への義務がないという考えは完全に的外れです」と彼は述べた。
CIAから見れば、そのような関係には何の不都合もなく、倫理的な問題はCIAではなく、ジャーナリズム側が解決すべき問題だ。元ロサンゼルス・タイムス紙の特派員であるスチュアート・ローリーがコロンビア・ジャーナリズム・レビューで書いている:「記者証を持つ海外在住のアメリカ人でCIAから報酬を受け取る情報提供者が一人でもいれば、その資格を持つ全てのアメリカ人は疑わしい存在となる・・・。ニュース業界と政府が直面している信頼の危機を克服するためには、ジャーナリストたちは、他者に執拗に注目するのと同じ視点を自らに向ける覚悟を持たなければならない」。しかし、ローリーも指摘しているように、「新聞社、テレビ局の記者たちがCIAの給与リストに掲載された」と報道された際、そのニュースで一時は騒然となったが、その後それは立ち消えになった」。
フランク・チャーチ上院議員が議長を務める上院情報委員会による1976年のCIAの調査で、CIAの報道機関への関与がどれほどだったか、委員会のメンバー数人と職員の二、三人の捜査官に明らかになった。しかし、ウィリアム・コルビー元長官やジョージ・ブッシュ元長官を含むCIAの高官は、委員会に対し、この問題に関する調査を制限し、最終報告書の中で活動の実際の範囲を意図的に歪曲するよう説得した。複数巻の報告書には、ジャーナリストの利用について、意図的に曖昧で、時には誤解を招くような言葉で議論されている9ページが含まれている。CIAのために秘密の任務を引き受けたジャーナリストの実際の数には言及していない。また、CIAと協力する上で新聞や放送の幹部が果たした役割を十分には説明していない。
「工作員」メディアの実際―CIA方式大半のジャーナリスト工作員が果たす役割を理解するためには、アメリカ情報機関向けの内密の仕事に関するいくつかの神話を排除する必要がある。アメリカ人工作員で、一般の人々が考えているような「スパイ」はほとんどいない。「スパイ活動」(外国政府から秘密を入手する)は、ほぼ常にCIAによって採用され、その国でCIAの管理下にある外国人によって行なわれる。したがって、外国で内密に働くアメリカ人の主な役割は、しばしばアメリカの情報機関に届く秘密情報の入手経路である外国人の採用とその「スパイ活動」の支援だ。
多くのジャーナリストがこの手順を助けるためにCIAに利用され、彼らはこの分野で最も優秀であるという評判を得ていた。外国特派員という仕事の特異な性質は、このような仕事には理想的である。彼は相手国から異例の情報入手特権が与えられる。他のアメリカ人が立ち入ることのできない地域を旅行することを許され、政府や学術機関や軍事組織、そして科学界の情報源を開拓することにたっぷり時間を費やす。彼は、情報源と長期にわたる個人的な関係を築く機会があり、おそらく他のどんなアメリカ人工作員よりも、スパイとして採用する外国人がどれほどその話に乗ってくるか、どこまで利用できるかについて正しい判断を下せる立場にある。
「外国人が採用された後、作戦要員はしばしば背後にいなければなりません」とあるCIA高官は説明した。「そこで、両方の当事者との間でメッセージを伝えるためにジャーナリストを使うのです」。
現場のジャーナリストは、通常、他の潜入捜査官と同じ方法で任務を遂行した。例えば、ジャーナリストがオーストリアを拠点としていた場合、彼は通常、ウィーン支局長の一般的な指示の下にあり、作戦要員に報告する。一部、特に海外出張の多い海外特派員や米国を拠点とする記者は、バージニア州ラングレーのCIA職員に直接報告していた。
彼らが行なった任務の中には、CIAのための「目と耳」にすぎないものあれば、東ヨーロッパの工場で見たことや聞いたこと、ボンでの外交レセプションでの出来事、ポルトガルの軍事基地の周辺での出来事などを報告することもあった。また、巧妙に作り上げられたデマ情報を流すこと、アメリカの工作員と外国のスパイを引き合わせるためにパーティーやレセプションを主催すること、外国の上流ジャーナリストに「敵向け偽」宣伝文を昼食や夕食の席で提供すること、外国のスパイとやり取りされる極めて機密性の高い情報の中継地点としてホテルの部屋や事務所を提供すること、外国政府のCIA制御下のメンバーに指示を伝達したり、ドルを渡すことなど、彼らの任務は多岐にわたった。
多くの場合、CIAとジャーナリストとの関係は、昼食や一杯やったり、そして気軽な情報交換など、堅苦しくないところから始まる。その後、CIA職員は、例えば、普通では行けない国への旅行などの便宜を図ることがある。その見返りとして、彼はその記者に報告する機会を求めるだけだった。さらに数回昼食をとり、さらにいくつかの好意を伝え、そのときになって初めてきちんとした手筈を口にすることになる。「それは後になってからです」と、あるCIA高官は言った。「そのジャーナリストを思いどおりに操れるようになってからです」。
別の高官が、(CIAによって工作員として認証された)記者(CIAから報酬が出る場合もある、無報酬の場合もある)が、どのようにしてCIAによって利用されるか、典型的な例を説明した。「我々が情報を提供する見返りとして、ジャーナリストとしてぴったりのことを頼みます。それも我々が言わなければ、彼らにはわからないようなことを、です。たとえば、ウィーンの記者が我々の部下に、「私はチェコ大使館の面白い副官に会いました」と言ったとします。我々は言います、「彼と親しくなれますか?そして彼と親しくなった後、(その人物を)評価していただけますか?そして、彼を私たちと連絡させていただいてもよろしいですか?あなたのアパートを使用させていただいてもよろしいですか?」
記者の正式な採用は一般的に、記者の徹底的な身元調査を経た後に、上層部が行なった。実際に記者に接近するのは副部長や課長レベルだろう。場合にもよるが、記者が秘密保持の誓約書にサインするまで、記者がこの話し合いに入ることは一切なかった。
「秘密保持契約は、幕屋
[訳注:聖書 に登場する移動式の神殿] に入るための儀式のようなものでした。その後はルールに従って行動する必要があります」と、元CIA長官補佐官は語った。西半球の元秘密情報長官で、自身も元ジャーナリストのデイビッド・アツリー・フィリップスは、インタビューの中で、過去25年間に少なくとも200人のジャーナリストがCIAと秘密保持契約または雇用契約を結んだと推定した。1950年にCIAに採用された当時、チリのサンチャゴで小さな英字新聞を所有していたフィリップスは、その接近の仕方について語っている:「CIAの誰かが言います。『私を助けてほしい。私はあなたが信頼できるアメリカ人であることを知っています。あなたに事の次第を伝える前に、あなたには一枚の紙に署名してほしいのです』と。私は署名を躊躇しなかったし、多くの新聞記者もその後の20年にわたって私と同じように署名には何の躊躇もなかった」と説明した。
「記者を誘う際、私達が常に有利に進めていた点の一つは、彼らを本社でより優れた記者に見せることができたことです」と、記者たちとの一部の取り決めを調整したCIAの職員が述べた。「CIAとつながりのある在外特派員は、競争相手よりも良質の情報を手にする確率がはるかに高かったです」。
CIA内において、ジャーナリスト工作員たちは、高位のCIA職員たちと同じ経験を共有していることで、エリートの地位を与えられた。多くがCIA実力者たちと同じ学校に通い、同じ人脈を持ち、流行に沿ったリベラル派で、共産主義に反対する政治的価値観を共有し、戦後のアメリカのメディア、政治、学界の上層エリートを構成する「学閥OB会」に入っていた。その中でも最も価値のあるジャーナリストたちは、お金ではなく国のため、と心底思っていたのだ。
CIAは、欧州西部(「ここが大きな焦点でした。脅威があったからです」とひとりのCIA高官は語っている)やラテンアメリカ、そして極東でジャーナリストを秘密工作に最も広範囲に使っていた。 1950年代と1960年代には、ジャーナリストが仲介者として使われた。イタリアのキリスト教民主主義党とドイツの社会民主主義党のメンバーに対して、だれが標的かを伝え、支払いを行ない、指示を伝える役割を彼らは果たした。 この期間中、「東から誰が来て何をしているのかを把握し続けるために、ベルリンやウィーンのあちこちにジャーナリストが配置されました」とあるCIAが説明している。
60年代、CIAはチリのサルバドール・アジェンデに対する攻勢において、記者たちはいろいろな場面で利用された。彼らはアジェンデの対立者に資金を提供したり、CIA傘下出版物用にチリで配布する反アジェンデ宣伝文書を書いた。(CIAの関係者は、アメリカの新聞の内容に影響を与えようとはしていないと主張しているが、幾ばくかの副作用は避けられていない。チリ攻撃中に電信でサンチャゴから送信されたCIAによる敵向け偽情報は、しばしばアメリカの出版物に掲載された)。
CIA高官たちの話によると、CIAは、事が露見するとアメリカ合衆国に対する外交制裁や、いくつかの国でのアメリカ人記者の永久的な活動禁止になりかねないという理由から、東欧ではジャーナリスト工作員の使用を控えめにしてきたとのことだ。同じCIA高官たちの話だが、ソ連でのジャーナリストの利用はそれ以上に制限されていると言っている。この件について話をすることについては、彼らは、以前も今も、きわめて口が堅い。ただし、彼らの話が一貫しているのは、大手メディアのモスクワ特派員がCIAによって「任務を与えられた」り、操作されることはない、という点だ。
CIA高官たちの話によれば、しばしば米ソ関係の浮沈をもたらす止むことのない外交ゲームの一環としてCIAはアメリカ人記者たちをその組織に取り込んでいるという虚偽の告発をソ連はずっと行なってきた。(しかし)ロシア側による、ニューヨーク・タイムズ紙のクリストファー・レン記者とニューズウィーク誌のアルフレッド・フレンドリー・ジュニア記者に対する直近の告発には何の根拠もない、とCIA高官たちは言っている。
とは言っても、CIAがジャーナリストを隠れ蓑として使い、ジャーナリストと秘密の関係を維持し続ける限り、このような告発は止まないだろう、とCIA高官たちは認めている。そして、CIAがジャーナリストを使うことをどんなに禁止しても、記者をそのような疑惑から解放することはできないだろう、と多くのCIA高官たちは言っている。ある消息筋は「平和部隊を見てください。私たちと平和部隊は何の関係もないのに、彼ら (外国政府) はいまだに平和部隊を追い出しているのです」と述べている。
CIAと報道機関との関係は、冷戦の初期段階に始まった。1953年にCIA長官に就任したアレン・ダレスは、アメリカで最も権威のあるジャーナリズム機関に工作員採用と偽装工作の能力を確立しようとした。ダレスは、公認の特派員を装って活動することで、海外にいるCIAの諜報員には、他のどのような偽装工作でも得られないような情報取得権と移動の自由が与えられると考えた。
アメリカの出版社は、当時の他の多くの企業や組織のリーダーと同様、「世界共産主義」との闘いに会社の資源を喜んで投入していた。したがって、アメリカの報道機関と政府を隔てる伝統的な境界線は、しばしば区別がつかなかった。つまり、主要株主や発行人主幹、そして上級編集者のいずれかも知らず、また同意もなしに、海外のCIA工作員の偽装工作に通信社が使われることはめったになかった。このように、CIAがジャーナリズム界に陰湿に浸透していたという考えとは裏腹に、アメリカの主要な出版社や報道機関の幹部たちが、自分たち自身や自分たちの組織が情報機関の手先となることを容認していたという証拠は十分にある。ウィリアム・コルビーはチャーチ委員会の調査員たちに、「頼むから、無能な記者たちをいじめるのはよそう!」と叫んだことがある。「経営陣のところに行こう。彼らはものが分かっていたよ」。 この記事の冒頭に掲載したものを含め、全部で約25の報道機関がCIAのために偽装工作をした。
ダレスは、取材能力に加え、海外から帰国したアメリカの記者に対して「デブリーフィング(事後報告)」手続きを導入した。この手続きでは、記者は定期的にノートを空にし、印象をCIA職員に伝えることが求められた。このような取り決めは、ダレスの後継者たちによって継続され、現在に至るまで、数多くのニュース機関と行われている。1950年代には、帰国した記者たちがCIA高官たちに船で出迎えられることも珍しくなかった。「CIAから来た連中がIDカードをひけらかし、まるでエール・クラブ*にいるような様子でした」と、かつてのサタデー・イブニング・ポスト紙の特派員で現在は元副大統領ネルソン・ロックフェラーの報道官を務めるヒュー・モローは述べた。「それが当り前になってしまっていたので、もし声がかからないと少しムッとするほどでした」。
エール・クラブ*・・・ニューヨークのミッドタウン・マンハッタンにあるプライベート・クラブ。会員資格はエール大学の卒業生と教職員にほぼ限定されている。エール・クラブの会員数は全世界で11,000人を超える。1915年にオープンしたヴァンダービルト通り50番地にある22階建てのクラブハウスは、完成当時世界最大のクラブハウスであり、現在でも大学のクラブハウスとしては最大規模である。(ウィキペディア)CIA高官たちが、CIAに協力したジャーナリストの名前を明かすことはほぼない。彼らは、最初の関係を生み出したものとは異なる文脈でこれらの個人を判断するのは不公平であると述べている。「政府に仕えることは犯罪ではないと考えられていた時代がありました」と、苦々しさを隠さない高位にあるひとりのCIA高官は述べた。「これらはすべて、当時の文脈の中で判断する必要があります。後々の基準 (偽善的な基準) に照らしてはなりません」。
第二次世界大戦を取材したジャーナリストの多くは、戦時中のCIAの前身である戦略サービス局(the Office of Strategic Services=OSS)の人々と親しかった。もっと重要なのは、彼らはみんな同じ側にいたということだ。戦争が終わり、多くのOSS関係者がCIAに入ったとき、これらの関係が続くのは当然だった。一方、戦後第一世代のジャーナリストがジャーナリズムの世界に入った。彼らはCIA職員たちの助言者として同じ政治的、職業的価値観を共有していた。「第二次世界大戦中に一緒に働いて、それを乗り越えることができなかった人々の一団がいたということです」とCIA高官の一人は言った。彼らは純粋にやる気があり、陰謀や内輪のなかにいることに非常に敏感だった。その後、1950年代と1960年代には、国家的脅威に関して国民的合意があった。ベトナム戦争がすべてを破壊し、合意を引き裂き、雲散霧消させた」。別のCIA高官はこう述べた。「多くのジャーナリストはCIAと関わることに何のためらいもなかった。しかし、ほとんどの人が水底に沈めていた倫理的な問題がついに表面化するという時期がやってきた。今日、これらの人々の多くは、自分たちとCIAとの関係を必死に否定している。
当初から、ジャーナリストの利用はCIAの最も機密性の高い取り組みの一つであり、その全容を知るのは中央情報局長と選ばれた数人の代理に限られていた。ダレスとその後継者たちは、ジャーナリスト工作員の正体がばれたり、CIAと報道機関との取引の詳細が公になったりしたらどうしようと恐れていた。その結果、報道機関のトップとの接触は通常、ダレスと彼の後継CIA長官、偽装工作を担当する副長官や課長(フランク・ウィズナー、コード・マイヤー・ジュニア、リチャード・ビッセル、デズモンド・フィッツジェラルド、トレイシー・バーンズ、トーマス・カラメシーンズ、リチャード・ヘルムズ(元UPI特派員))、そして時折、特定の出版社や放送局の幹部と異例なほど親密な社交関係にあることが知られているCIA階層の他の者によって主導された。(原注1)
(原注1)ジョン・マッコーン(John McCone)(1961年から1965年までCIA長官)は最近のインタビューで、「事後報告や協力の交換については山ほど知っていましたが、CIAがメディアと偽装工作の取り決めをしていたということについては何も知りませんでした」と述べた。「私はそれを必ずしも知っていたわけではありませんでした。ヘルムズだったらそんなこともしたでしょう。彼が私に『私たちはジャーナリストを偽装工作に使うつもりだ』と言ってくることは通常ありません。彼はやるべき仕事がありました。私の在任中『その水域には近づくな!』という方針があったわけではなく、『行け!』という方針もありませんでした」。チャーチ委員会の公聴会中、マッコーンは、部下が国内の監視活動やフィデル・カストロ暗殺計画に取り組んでいることを告げなかったと証言している。当時、副長官であったリチャード・ヘルムズは、1966年に長官になった。最近になって対諜報活動の責任者から外されたジェームズ・アングルトンは、機密性の高い頻繁に危険な任務を遂行したジャーナリスト工作員を完全に独立させ、運営していた。このグループについてはごくわずかしか知られていない。アングルトンが意図的に茫漠とした資料しか残していなかったからだ。
CIAは1950年代、諜報部員たちにジャーナリストになるための正式な訓練プログラムまで実施していた。諜報部員たちは「記者のように騒ぐことを教えられた」とあるCIA高官は説明する。このCIA高官は、「彼らは、『君はジャーナリストになるんだ』と言われながら出世していったのです」と語った。しかし、CIAの書類に記載されている400人の関係者のうち、このようなパターンに従ったものは比較的少なく、ほとんどは、CIAのために仕事を始めたときにはすでに正真正銘のジャーナリストだった。
CIAのファイルに記載されているジャーナリストとの関係には、次のような一般的な分類区分がある:
■ニュース機関の正規で認定された部員は、通常は記者だ。その中には有給の者もいれば、純粋にボランティアとしてCIAで働く者もいた。このグループには、CIAのために様々な任務を遂行した高名なジャーナリストの多くが含まれている。ファイルには、新聞や放送ネットワークによって記者に支払われる給与が時折、CIAから名目の支払いとして補足されたことが記載されている。これは、被雇用者や旅費、または特定の仕事の対価という名目でCIAから支払われたものだ。ほとんどは現金で支払われた。認定されたカテゴリーには、カメラマンや外国のニュース支局の管理職、そして放送技術クルーのメンバーも含まれている。
1960年代のCIA高官たちによると、CIAが最も貴重な個人的関係を築いた2人の記者は、ラテンアメリカを報道したジェリー・オレアリー(Washington Star)とハル・ヘンドリックス(Miami News)だった。ハル・ヘンドリックスはピューリッツァー賞を受賞した人物で、国際電話電信公社(ITT)の重役となった。ヘンドリックスは、マイアミのキューバ亡命コミュニティに関する情報を提供する点でCIAに大変協力的だった。オレアリーは、ハイチとドミニカ共和国において貴重な資産と考えられていた。CIAのファイルには、両名がCIAのために行なった活動に関する詳細な報告書が含まれている。
ジェリー・オレアリー(Jerry O’Leary)は、彼のやり取りが、海外の記者とその情報源の間で行なわれる通常の「持ちつ持たれつ(give-and-take)」の関係に限定されていたと主張している。 CIA高官たちはこの主張を否定している。「ジェリーは私たちのために報告をしてくれたことに何の疑問もありません。ジェリーは私たちのために(見込みのある工作員であるかどうかの)評価と特定をしてくれました。しかし彼は、私たちにとっては記者としての方が有能でした」とひとりのCIA高官が言った。ジェリー・オレアリーが否定したことについて、その高官は次のように付言した。「彼が何を心配しているのか、私には分かりません。上院があなたたちジャーナリストに授けたその品位のマントがあればいいではないですか」と。
オレアリーは、意見の相違を言い方の問題に帰している。「私は彼らに電話をかけて『パパ・ドック*が淋病にかかっていますよ、それを知っていましたか?』などと言うかもしれませんが、彼らはその情報をファイルに入れるだけです。私はそれを彼らへの報告とは考えません・・・彼らと親交を結ぶことは役に立ちますし、一般的に、私は彼らに親しみを感じていました。しかし、どちらに有益だったかと言えば、それは彼らのほうだと思います」。 オレアリーは、特にヘンドリックスと同じ文脈で語られたことについては反発した。「ハル(=ヘンドリックス)は本当にCIAのために仕事をしていました」とオレアリーは言った。「私はまだワシントン・スターの社員です。彼はITTに就職しました」。 ヘンドリックスにはコメントを求めることができなかった。CIA高官たちによると、ヘンドリックスもオレアリーもCIAから給与を受け取ってはいない。
パパ・ドック*・・・フランソワ・デュヴァリエ(フランス語: François Duvalier、1907年4月14日 - 1971年4月21日)は、ハイチの政治家。医師として名声を得て「パパ・ドク」という愛称で親しまれ、大衆的な人気を背景にして同国の大統領に当選するも就任後は独裁者となってブードゥー教を利用した個人崇拝を行い、民兵組織トントン・マクートで政敵を粛清し、およそ3万人のハイチ人が死亡したといわれ、それを逃れて亡命した知識人たちがハイチには戻ることはなかった。1964年から終身大統領となり、また、息子のジャン=クロードにその地位を引き継がせ、親子で30年近くにも及んだ支配はデュヴァリエ王朝と呼ばれた。(ウィキペディア)■通信員(原注2)やフリーランサー。ほとんどは標準的な契約条件の下でCIAに雇用されていた。彼らのジャーナリズムの資格は、しばしば協力するニュース機関によって提供された。情報はニュース記事にまとめられる場合もあるし、CIAにのみ報告される場合もあった。CIAは、通信員がCIAのためにも働いていることをニュース機関に通知しないこともあった。
(原注2)通信員とは、1社または数社の報道機関に雇用契約を結んで、または出来高払いで勤務する記者のことである。
■所謂CIA「所有会社」の職員。過去25年間、CIAはCIA工作員に優れた偽装工作を提供する多数の外国の報道機関、雑誌、新聞(英語もあるし外国語もあった)に密かに資金提供してきた。そのような出版物の1つがローマ・デイリー・アメリカンであり、同紙の40%は1970年代までCIAが所有していた。デイリー・アメリカンは今年廃業した。
■編集者、発行人、放送ネットワークの幹部。CIAと大半のニュース幹部たちとの関係は、通信員やフリーライターとは根本的に異なっていた。通信員やフリーライターは、CIAからの指示を受けとることがはるかに多い。アーサー・ヘイズ・サルツバーガー(ニューヨーク・タイムズ紙)などごく少数の幹部は秘密保持契約に署名している。しかし、そのような正式な取り決めはまれだった。CIA高官とメディアの幹部との関係は通常、社交的なものだった。ある情報源が述べたように、「ジョージタウンのP通りとQ通り枢軸*なのですよ。裏切るな!という契約書にウィルハム・ペイリー*の署名を求める人間などいません」。
ジョージタウンのP通りとQ通り枢軸*・・・ポトマック川沿いにある一区域(ワシントンDC)。当時CIAを始め、各国の諜報員やメディアの幹部たちが交流し、互いに情報を探り合っていた。「p’s and q’」は「互いに礼節を守り、言動に注意しよう」というほどの意味(英辞郎)
ウィルハム・ペイリー*・・・英国国教会の聖職者、キリスト教の弁証者、哲学者、そして功利主義者。彼は、時計職人のアナロジーを利用した著書『自然神学または神の存在と属性の証拠』の中で、神の存在についての目的論的議論を自然神学で説明したことで最もよく知られている。(ウィキペディア)■コラムニストやコメンテーター。CIAとの関係が、通常の記者と情報源との関係をはるかに超えている有名なコラムニストや放送コメンテーターは、おそらく十数人いるだろう。彼らはCIAでは「既知の資産」と呼ばれ、様々な秘密任務を遂行することが期待できる;彼らは、様々な問題に関するCIAの見解を受け入れると考えられている。CIAとそのような関係を維持した最も広く読まれているコラムニストの3人は、ニューヨーク・タイムズ紙のサイ・L・サルツバーガー、そしてニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙やサタデー・イブニング・ポスト紙、そしてニューズウィーク誌にコラムを掲載したジョセフ・オールソップと故スチュワート・オールソップである。CIAの資料には、3人が引き受けた具体的な仕事の報告が含まれている。サルツバーガーは今でもCIAの活動的資産と見なされている。あるCIA高官によれば、「若いサイ・サルツバーガーには使い道がありました・・・。機密情報を渡したので、彼は秘密保持契約書にサインしました・・・。持ちつ持たれつでした。私たちは「これを知りたいのです。これを教えればあなたに何か見返りはありますか?」彼はヨーロッパには詳しかったので、「開け、ゴマ!」の魔法の呪文を持っているようなものでした。私たちは、彼にただ報告することだけを頼みました:「どんなことを話していましたか?」「どんなようすでしたか?」「健康でしたか?」などです。彼はとても熱心で、喜んで協力してくれました」。複数のCIA高官によれば、あるとき、サイ・サルツバーガーはCIAから報告資料を渡された。それはニューヨーク・タイムズ紙に掲載された彼の署名記事と一字一句違わないものだった。「サイがやってきて『記事を書きたい。何か背景資料はないか?』と言ったので、我々はそれを彼に背景資料として渡しました。サイはそれを印刷所に回し、それに自分の名前を載せました」。サルツバーガーは、そのようなことはなかったと否定している。「まったくのでたらめだ!」と彼は言った。
サルツバーガーは、自分がCIAから正式に "任務"を与えられたことは一度もなく、「スパイ業務に近づくことはなかった」と主張している。「私の関係は完全に非公式なものだった。彼らは私を資産と考えているはずだ。彼らは私に質問することはできる。スロボビアに行くことを知ると、彼らは『戻ったら話ができますか?』と言うんだ。あるいは、ルリタニア政府のトップが乾癬を患っているかどうかを知りたがる。でも、そんな連中から仕事を受けたことはない・・・。ウィズナーはよく知っているし、ヘルムズやマコーン(ジョン・マコーン元CIA長官)ともよくゴルフをした。しかし、私を利用するには、よほど巧妙でなければならなかっただろう」と彼は言った。
サルツバーガーは、1950年代に秘密保持契約に署名するよう求められたと述べている。「ある男がやってきて、『あなたは責任ある報道者ですので、機密扱いされるものを見せるならこれに署名していただく必要があります』と言われた。私は巻き込まれたくないと答えて、『私の叔父である(当時ニューヨーク・タイムズ紙の発行人だった)アーサー・ヘイズ・サルツバーガーが署名するように言うならそうする』と言ってやった」。その後、彼の叔父は同じような契約書に署名し、サルツバーガーも署名したと彼は考えているが確実ではない。「分からないな。20年余りというのは昔のことだよ」。彼はこの問題全体を「浴槽の中の泡のようなもの」と表現した。
スチュワート・オールソップとCIAの関係は、サルツバーガーよりもはるかに広範だった。CIAの最高レベルにいたある高官は、こうきっぱり言った:「スチュワート・オールソップはCIAの工作員だった」。同じように最高レベルのCIA高官は、オールソップとCIAの関係は正式なものだと言う以外、定義することを拒否した。他の情報筋によれば、オールソップは外国政府高官との話し合いでCIAに特に役に立った。CIAが答えを求めている質問を投げかけたり、アメリカの政策に有利な誤情報を仕込んだり、CIAが優秀な外国人を採用する際それが適正かどうかを評価してくれた。
「まったくナンセンスだ」とジョゼフ・オールソップは彼の弟がCIAの工作員だったという考えについて言った。「弟のスチュアートがCIAに非常に近い位置にいたと言ったって、私の方がそれより近かった。彼はアメリカ人として正しいことをしただけだ・・・(CIAの)創設者たちは私たちと個人的に親しい友人だった。ディック・ビッセル(元CIA副長官)は私の幼なじみだった。それは社交的なものだった。私は1ドルも受け取らなかったし、秘密保持契約書にも署名しなかった。その必要もなかった・・・正しいことだと思ったときには、彼らのために何かをしたこともある。私はそれを市民としての義務を果たすことと呼んでいる」。
オールソップは、彼が引き受けた仕事のうち、記録に残っている二つだけはよろこんで話してくれる。一つは、他のアメリカ人記者がラオスの蜂起について反米的な情報源を使っていると感じたフランク・ウィズナーの要請による1952年のラオス訪問である。1953年のフィリピン訪問では、彼がそこにいれば選挙の結果に影響を与えるかもしれないとCIAは考えた。「デス・フィッツジェラルドが私に行くよう強く薦めた。世界の目が彼らに向けられていれば、(ラモン・マグサイサイの反対派によって) 選挙が盗まれる可能性は低くなるだろう。私は大使宅に滞在し、事の顛末を書いた」とオールソップは思い起こした。
オールソップは、自分がCIAに操られたことはないと主張している。「関係の中に巻き込まれてCIAの影響下に入るなど無理な話しだ」と彼は言った。「言っておくが、私が書いたことは真実だ。私の目論見は事実を知ることだった。CIA内の誰かが間違っていると思ったら、私は彼らと話すのをやめた—私にガセネタを食らわせたからだ」。ひとつの事例として、リチャード・ヘルムズがCIAの分析部門のトップに中国国境沿いのソビエト軍の存在に関する情報を提供することを承認した、とオールソップは言った。「CIAの分析部門はベトナム戦争について完全に間違っていた—彼らはその戦争で逃げ切ることはできないと考えていた」とオールソップは言った。「そして、ソ連軍の増強についても間違っていた。私は彼らと話すのをやめた」。今、彼は言っている、「私たちの業界の人間は、CIAが私に行なった提案に憤慨するだろう。憤慨する必要はない。 CIAは自分を信頼していない人間に心を開くことはなかったのだ。スチュアートと私は信頼されていたし、私はそれを誇りに思っている」。
個人やニュース機関とのCIAの関係の曖昧な詳細は、1973年に初めてCIAが時折ジャーナリストを雇っていたことが明らかになった時点から漏れ始めた。これらの報告書は、新しい情報と組み合わされて、CIAが情報活動のためにジャーナリストを利用した事例研究として役立つ。それらには次のようなものが含まれる:
■ニューヨーク・タイムズ紙。CIAとの関係は、CIA高官たちの話によれば、新聞の中で最も価値のあるものだった。1950年から1966年まで、約10人のCIA職員が、同新聞社の発行人だった故アーサー・ヘイズ・サルツバーガーの承認を得た取り決めのもと、タイムズ紙の偽装工作を提供された。この偽装工作の取り決めは、サルツバーガーによって設定された一般的なタイムズ紙の方針の一環であり、可能な限りCIAに支援を提供することを目的としていた。
サルツバーガーはアレン・ダレスと特に親しかった。「あのレベルの接触は、最高責任者同士の話し合いですよ」と、その場にいたCIA高官は語った。「お互いに助け合うという原則的な合意はありました。偽装工作の問題は何度か出てきましたが、実際の取り決めの手配は部下が担当するということでした・・・最高責任者は詳細を知りたいとは思わなかったのです。いざという時に否定できなくなりますからね。
1977年9月15日に2時間にわたってCIAのジャーナリストに関する資料の一部を閲覧したCIA高官は、タイムズ紙が1954年から1962年の間にCIA職員の偽装工作を行なった5つの事例に関する文書を発見したと述べた。いずれの取り決めもニューヨーク・タイムズ社の上層部が行なったものだ。文書にはすべて、CIAの標準的な表現が含まれており、「ニューヨーク・タイムズ紙の上層部でチェックされていたことがわかる」とこの高官は語った。しかし、文書にはサルツバーガーの名前はなく、部下の名前だけが記されていた。ただこの高官はその名前を上げることを拒んだ。
タイムズ紙社員の資格を得たCIA職員は、海外で同紙の通信員を装い、タイムズ紙の海外支局の事務スタッフとして働いていた。ほとんどはアメリカ人で、2、3人は外国人だった。
CIA高官たちは、CIAとタイムズ紙の協力関係が他の新聞よりも密接で幅広かった理由を2つ挙げている:タイムズ紙がアメリカの日刊新聞業界で最大の外信部門を維持していたこと、そして両機関を運営する人間たちの間に緊密な個人的な結びつきがあったこと、だ。
サルツバーガーは、CIAとの一般的協力方針を一部の記者や編集者たちには伝えた。あるCIA高官は、「私たちは彼らと連絡を取っていました。向こうが私たちに話を持ちかけてきたり、何人かは協力しくれました」と述べた。協力は通常、情報を回してくれること、そして外国人の有望な工作員を「発見」することだった。
CIA高官たちの話によれば、アーサー・ヘイズ・サルツバーガーは1950年代にCIAと秘密保持契約を結んでいた。しかし、この協定の目的についてはさまざまな解釈がある: C.L.サルバーガーは、この契約は出版人であるアーサー・ヘイズ・サルツバーガーが入手できる機密情報を開示しないことを誓約したに過ぎないと述べている。他のCIA高官たちは、この契約はタイムズ紙とCIAとの取引、特に偽装工作に関わる取り決め決して明らかにしないという誓約であったと主張している。そして、すべての偽装工作は機密扱いであるため、機密保持契約は自動的に適用されると指摘する者もいる。
CIA職員にタイムズ社の資格を提供する実際の取り決めをしたのは同社のだれなのかを突き止めようとしたが、うまくいかなかった。ニューヨーク・タイムズ紙で1951年から1964年まで編集長を務めたターナー・キャデッジ (Turner Cadedge) は、1974年にスチュアート・ローリー (Stuart Loory) 記者に宛てた手紙の中で、CIAからの働きかけは同紙に拒絶されたと書いている。「私はCIAとの関与についてどんな関りがあったのか・・・ニューヨーク・タイムズ紙のどの外国特派員がそうだったのかについては何一つ知らなかった。CIAが私たちの部下に何度も申し入れをしているのは耳にしていた。彼らの特権、人脈、免責、そして、言ってみれば、優れた知性をスパイと情報提供という下劣な仕事に利用しようとしていたのだ。もし部下のうちのだれかが、甘言や現金の申し出に屈したとしても、私はそれに気づかなかった。CIAや他の秘密機関は何度も繰り返して、特に第二次世界大戦中や戦後直後に、タイムズ紙の経営陣とさえ「協力」の取り決めをしようとしたが、我々は常に抵抗した。私たちの真意は、私たちの信用を守ることにあった」。
元タイムズ紙記者ウェイン・フィリップスによれば、CIAは彼がコロンビア大学のロシア研究所で学んでいる1952年に彼を秘密工作員として採用しようとした際、アーサー・ヘイズ・サルツバーガーの名前を引き合いに出している。フィリップスはCIA高官から、CIAはアーサー・ヘイズ・サルツバーガーと「機能する取り決め」を結んでおり、他の海外記者たちはCIAの給与リストに載せられていたと告げられたと述べている。フィリップスは1961年までタイムズ紙で勤務し続けた。後に彼は情報公開法に基づいてCIAの文書を入手。CIAが彼を海外で潜在的な「資産」として育てる意向があったことが分かった。
1976年1月31日、ニューヨーク・タイムズ紙は、CIAがフィリップスを勧誘しようとしたとする短い記事を掲載した。その記事の中で、現在の出版人であるアーサー・オックス・サルツバーガーは、「私が出版人として、または故サルツバーガー氏の息子として、タイムズ紙に(CIAからの)働きかけがあったことは聞いたことがありません」と述べている。ジョン・M・クルーソンによって執筆されたこのニューヨーク・タイムズ紙の記事は、元特派員(匿名)が海外の新しい任地に到着した後、CIAに勧誘されるかもしれないとアーサー・ヘイズ・サルツバーガーが、彼に語ったと報じた。サルツバーガーは、「同意する義務はない」と語り、出版人である自分は、協力を拒否してくれれば「そのほうが幸せ」に思うと記事は書いている。「しかし、それは私次第だと言われたのです」と元特派員(匿名)はニューヨーク・タイムズ紙に語った。「彼が伝えたかったメッセージは、もし私が本当にそれをしたいと思うなら、それはOKだが、タイムズ特派員には適切ではないと思う、ということでした」。
C.L.サルツバーガーは電話インタビューで、CIAの職員がタイムズ紙の偽装工作を使用したことも、同紙の記者がCIAのために積極的に働いたことも知らないと述べた。彼は1944年から1954年まで同紙の外交部長であったが、叔父(アーサー・サルツバーガー)がそのような取り決めを承認したとは思えないと述べた。サルズバーガーによれば、故出版人(アーサー・サルツバーガー)らしいのは、アレン・ダレスの弟で、当時国務長官だったジョン・フォスターと交わした約束で、ジョン・フォスター・ダレスの同意なしにタイムズ紙の職員が中華人民共和国訪問の招待を受けることは許されないというものだった。そのような招待状が1950年代に出版人の甥(C.L.サルツバーガー)に届いたが、アーサー・サルツバーガーはそれを受け取ることを禁じた。C.L.サルツバーガーは、「次のタイムズ紙特派員が招待されるまで17年かかったのです」と回想している。
■コロンビア放送協会(Columbia Broadcasting System)。CBSは、CIAにとって間違いなく最も貴重な放送資産だった。CBSの社長であるウィリアム・ペイリー(William Paley)とアレン・ダレス(Allen Dulles)は、仕事面でも個人的にも肩の凝らない関係だった。数年にわたり、CBSは、
① 少なくとも1人は有名な外国特派員、そして数名の通信員をCIA職員の偽装工作として提供した。また、
② CIAにNGとなったニュース映像を提供(原注3)した。
③ ワシントン支局長とCIAとの間に公式の情報伝達経路を確立した。
④ CBSのニュース映像ライブラリーにCIAを入ることを認めた。
⑤ CBS特派員がワシントン支局とニューヨークの報道部に報告する内容をCIAが定期的に監視することを許可した。
1950年代から1960年代初頭にかけて、CBS特派員は1年に1度、CIAの幹部たち共に非公開の夕食会や説明会に参加している。
(原注3)CIAの観点からすると、NGとなったニュースフィルムや写真ライブラリーに近づけることは極めて重要な問題である。CIAの写真アーカイブは、おそらく地球上で最大のものだ。その画像ソースには、衛星、写真偵察、飛行機、小型カメラ・・・そしてアメリカの報道機関が含まれる。1950年代と1960年代の間に、CIAは、文字どおり数十のアメリカの新聞、雑誌、テレビ、放送局の写真ライブラリーで白紙委任の借用特権を得た。明らかな理由から、CIAはフォトジャーナリスト、特にCBSの海外駐在カメラクルーのメンバー採用に高い優先順位を置いた。CBS-CIA協定の詳細は、ダレスとペイリーの部下たちによって決められた。「CBS社長もCIA長官も細かい点を知りたがりませんでした」と、あるCIA高官は述べている。「両者とも指名した側近に仕事をさせました。そうすれば高みの見物ができるわけです」。25年間CBSの社長だったフランク・スタントンは、ペイリーとダレスが行なった一般的な取り決めについてはわかっていた。CIA高官たちの話によると、それには偽装工作に関するものも含まれていた。スタントンは、昨年のインタビューで、偽装工作の取り決めについては思い出せないと述べている。しかし、ペイリーがCIAとの取引の指名された連絡先は、1954年から1961年のCBSの社長を務めたシグ・ミケルソンだった。ミケルソンはある時、スタントンに対してCIAに電話をかけるために有料公衆電話を使わなければならないことに不満を述べた。スタントンは、だったらCBSの交換機を迂回するための専用回線を設置したらいいと言った。ミケルソンによれば、彼はそうしている。ミケルソンは現在、ラジオフリーヨーロッパとラジオリバティの社長であり、長年にわたってCIAと関係があった。
1976年、CBSニュースのリチャード・サラント社長は、CBSのCIAとの取り引きに関する社内調査を命じた。その調査結果の一部は、ロバート・シェアがロサンゼルス・タイムズ紙で初めて公表した。しかし、サラントの報告書では、1970年代まで続いたCIAとの彼自身の取引についてはまったく触れられていない。
CBSとCIAの関係に関する多くの詳細が、サラントの2人の調査員によってミケルソンの文書から発見された。その中に、1948年から1961年までCBSニュースのワシントン支局長であったテッド・クープからミケルソンに宛てた1957年9月13日のメモがあった。そこには、CIAのスタンリー・グローガン大佐からクープに電話があったことが書かれていた: 「リーヴス(J. B. ラブ・リーヴス、もう一人のCIA高官)がニューヨークのCIA連絡事務所の責任者になるためニューヨークに行くので、あなたとあなたの仲間に会いに行くとグローガンから電話があった。グローガンによれば、通常の活動はCBSニュースのワシントン支局を通じて行なうとのことである」。サラントへの報告書には、また、次のような記載がある: 「ミケルソンの文書のさらなる調査により、CIAとCBSニュースとの関係のいくつかの詳細が明らかになっている・・・ この関係の主事者はミケルソンとクープだった・・・ 主な活動はCBSのニュースフィルムをCIAに提供することだった・・・さらに、1964年から1971年まで、何本かのNGとなった映像を含む映像素材がCBSニュースフィルムライブラリーからCIAに提供された証拠があった。これはクープを介して、またはクープの指示に従って行なわれた(原注4)・・・ミケルソンのファイルには、CIAが訓練用にCBSのフィルムを使用したという記述もある・・・上記の全てのミケルソンの活動は機密基盤で処理され、CIAという言葉を明かさずに行なれた。映像は個々の郵便ポスト番号宛に個人の小切手で支払われた形で送信され・・・」また、ミケルソンは、報告書によれば、定期的にCIAにCBSの内部ニュースレターを送っている。
(原注4)1961年4月3日、クープはワシントン支局を去り、CBS社の政府関係部長となり、1972年3月31日に退職するまでその職にあった。 CBSの情報筋によれば、第二次世界大戦中、検閲局で副局長を務めたクープは、新しい職でもCIAとの取引を続けたという。サラントの調査で、彼は次のような結論に達した:1958年から1971年までCBSテレビの記者であったフランク・カーンズは、「CIAの人であり、CBSの誰かとCIAの接触を通じてなんらかの形で給与を受けていた人物だった」。カーンズとCBSの通信員であるオースティン・グッドリッチは、CIAの秘密職員であり、ペイリーによって承認された取り決めの下で雇われていた。
昨年、ペイリーの広報担当者は、1954年にミケルソンと彼がCIAの代表者2人と会談した際、グッドリッチがCIAに所属していることについて話し合ったという元CBS特派員のダニエル・ショーの報道を否定した。この広報担当者は、ペイリーはグッドリッチがCIAで働いていたことは知らなかったと主張した。「私がこの仕事に就いたとき、ペイリーからCIAとの関係が続いていることを聞かされました。彼は私に2人のCIA工作員を紹介してくれました。グッドリッチの件やフィルムの取り決めについてみんなで話し合ったのです。当時はこれが普通の関係だと思っていました。当時は冷戦の真っ只中でしたし、通信メディアは協力的だと思っていました。ただ、グッドリッチの件はちょっとまずかったですね」とミケルソンは最近のインタビューで語っている。
ニューヨークのCBSニュース本社では、ペイリーのCIAへの協力は、否定はされているが、多くのニュース幹部や記者によって当然のことと考えられている。ペイリー (76) はサラントの調査員たちによるインタビューを受けなかった。CBS幹部の1人は「そんなことをしても何の役にも立たないだろう。それだけが彼が記憶を失っている唯一の問題なのだから」と言った。
サラントは昨年、本誌記者とのインタビューの中で、彼自身とCIAとの接触、そして前任者の慣行の多くを引き継いだ事実について語った。その接触は1961年2月に始まり、「シグ・ミケルソンと仕事上の関係があるというCIAの男から電話をもらいました。その男は『君のボスはすべて知っている』と言いました」。 サラントによれば、CIAの担当者は、CBSが編集されていないニュース映像をCIAに提供し続け、特派員をCIA高官たちによる報告会に参加させるよう要請したという。サラントは言った:「私は特派員の件はダメ、放送映像は見せるが、NGになった映像は見せられないと言いました。これは何年も、1970代初期まで続きました」。
1964年と1965年、サラントは、中国人民共和国にアメリカのプロパガンダ放送を送る方法を探求する極秘のCIA特殊任務を担当していた。その他の4人の研究チームメンバーは、当時コロンビア大学の教授であったズビグニュー・ブレジンスキー、マサチューセッツ工科大学の政治学教授であったウィリアム・グリフィス、およびワシントンポストカンパニーのラジオTV(原注5)の副社長であったジョン・ヘイブスだった。この事業計画に関連する主要な政府関係者には、CIAのコード・マイヤー、当時大統領補佐官であったマックジョージ・バンディ、当時のUSIA長官であったレナード・マークス、そして当時のリンドン・ジョンソン大統領の特別補佐官で今はCBSの特派員であるビル・モイヤーズが含まれていた。
(原注5)1965年にワシントン・ポスト社を退社して駐スイス米国大使となったヘイズは、現在はラジオ・フリー・ヨーロッパとラジオ・リバティーの会長を務めているが、この2つのメディアは1971年にCIAとの関係を断っている。ヘイズは、ワシントン・ポスト社の故フレデリック・ビービー会長 (当時) とこの対中国プロジェクトへの取り組みの道を開いたと述べた。ワシントン・ポスト紙の発行人であるキャサリン・グラハムは、この事業計画の性質を知らなかったという。事業計画の参加者たちは秘密保持契約に署名した。サラントのこの事業計画への関わりは、レナード・マークスからの電話で始まった。「ホワイトハウスは鉄のカーテンの向こうにある米国の海外放送を調査するために、4人からなる委員会を作りたいと考えているとマークスは私に言ったのです」。サラントが最初の会議のためにワシントンに到着したとき、この事業計画はCIAの支援を受けていると言われている。「その目的は、『レッドチャイナ』に向けて短波放送を行う最善の方法を見極めることでした」と同氏は述べた。ポール・ヘンジーという名のCIA職員を伴って、4人の委員会はその後、ラジオ・フリー・ヨーロッパとラジオ・リバティー (当時はどちらもCIAが運営)、ボイス・オブ・アメリカ、そして軍ラジオが運営する施設を視察して世界中を回った。1年以上の研究の後、彼らはモイヤーズに報告書を提出。ボイス・オブ・アメリカによって運営され、中華人民共和国に向けて放送される放送事業を設立するよう、政府に進言するものだった。サラントは、1961 64年と1966年から現在まで、CBSニュースの責任者として二度のツアーに参加している。(この中国プロジェクト当時、彼はCBSの企業幹部だった。)
■タイムとニューズウィーク。CIAと上院の情報筋によると、CIAファイルには、この2つ週刊誌の元外国特派員や通信員との書面による合意書が含まれている。同じ情報筋は、CIAがこの2つの週刊誌の社員たちとの全ての関係を終了したかどうかは明らかにしなかった。アレン・ダレスはしばしば、タイム誌とライフ誌の創設者である故ヘンリー・ルースと良好な関係を持ち、ルースは自社の社員の一部がCIAのために働くことを快く受け入れ、ジャーナリズムの経験がない他のCIA工作員たちにも仕事と資格を提供することに同意した。
長年ルースのCIAとの個人的使者となっていたのはタイム社の副社長だったC.D.ジャクソンだった。彼は1960年から1964年に亡くなるまでライフ誌の発行人だった。タイムの幹部であったジャクソンは、1950年代初頭にアメリカの情報機関の再編成を勧告するCIAの後援を受けた研究の共同執筆者だった。ジャクソンは、ホワイトハウスで1年間ドワイト・アイゼンハワー大統領の補佐官としての時間を挟んでいたが、CIA職員にタイムの偽装工作を提供するための具体的な取り決めを承認している。これらの取り決めのいくつかは、ルースの妻であるクレア・ブースも認知する中で行なわれた。他のタイムの偽装工作の取り決めは、(ルースとやり取りをしたCIA高官たちによると)、1959年にタイム社の出版物のすべての編集方針を引き継いだヘドリー・ドノバンが認知する中で行なわれている。ドノバンは、電話インタビューで彼はそのような取り決めのこと何も知らなかった、と否定している。「私には(CIAからの)接触はなかったし、ルースがそのような取り決めを承認したとしたら驚きです。ルースはジャーナリズムと政府の違いを非常に綿密に考える人間なのですから」とドノバンは言った。
1950年代と1960年代初期に、タイム誌の外国特派員はCIAがCBS向けに行なっていたのと同じようなCIA主催の「情報伝達共有(ブリーフィング)」夕食会に出席していた。また、CIA高官たちの話によると、ルースは数多い海外出張から帰国した際に、ダレスや他の高官に定期的に説明することを常としていた。1950年代、1960年代にルースや彼の雑誌を運営していた人々は、外国特派員たちにCIAへの協力を勧めた。特に、情報収集や外国人採用に役立つ可能性のある情報をCIAに提供するよう促したのだ。
ニューズウィーク社では、同誌の上級編集者たちによって承認された取り決めの下、CIA職員が数人の外国特派員と通信員としての業務に携わっていた、とCIAの情報源は報告している。50年代半ば、ローマのニューズウィーク誌の通信員は、自分がCIAのために働いている事実をほとんど隠さなかった。1937年の創刊から1961年のワシントン・ポスト社への売却までニューズウィーク誌の編集者であったマルコム・ミュアは、最近のインタビューで、CIAと彼との関係は、海外出張後アレン・ダレスへの私的な情報伝達共有と、彼が承認したCIAによるニューズウィーク特派員の定期的な情報伝達共有の取り決めに限定されていたと述べた。彼はCIA工作員に偽装工作を提供したことはないが、ニューズウィーク誌の他の上層部は彼の知らないところでそうしていた可能性はある、と述べた。
「工作員の通信員がいるかもしれないとは思っていましたが、それが誰なのかはわかりませんでした」とミュアは言った。「当時、CIAはすべての責任ある記者とかなり緊密に連絡を取り合っていたと思う。アレン・ダレスが興味を持っているかもしれないことを聞くたびに、私は彼に電話していた・・・ある時、彼はCIAの部下の一人を指名して、私たちの記者と定期的に連絡を取り合うようにした。私は知っていたが、名前は思い出せない男だ。アレン・ダレスの組織には多くの友人がいた」。ミュアは、1945年から1956年までニューズウィークの外国人編集者だったハリー・カーンと、同時期に同誌のワシントン支局長だったアーネスト・K・リンドリーが「定期的にCIAのさまざまな仲間と接触していた」と述べた。
「私の知る限り、ニューズウィークの人間は誰もCIAのために働いていませんでした・・・私的な関係はありました。署名ですか? どうして? 私たちが知っていることは、彼ら (CIA) と国務省に話しました・・・私がワシントンに行ったとき、私はフォスター・ダレスかアレン・ダレスに何が起こっているのかを話しました・・・当時はそれは立派なことだと思っていました。私たちはみんな同じ側にいたのですから」。CIA高官たちの話によると、カーンとCIAとの取引はそこにはとどまっていなかった、という。1956年、彼はニューズウィーク社を退職し、ワシントンを拠点とするニュースレター「フォーリン・リポート」を運営した。カーンは購読者の身元を明かすことを拒否している。
1961年までニューズウィーク誌に在籍したアーネスト・リンドリーは、最近のインタビューで、海外に行く前にダレスや他のCIA高官と定期的に相談し、帰国するとすぐに情報伝達共有したと語った。「アレンの助力はたいへんなものでした。そのお返しをしたいと思っていました。私は海外で会った人々の印象を彼に伝えました。例えば、1955年のアジア・アフリカ会議から帰ってきたときなど、彼が主に知りたがったのはいろいろな人のことについてでした」と彼は語った。
ワシントン支局長リンドリーは、ニューズウィーク誌の東南ヨーロッパの通信員がCIAの契約職員であり、経営陣との取り決めに基づいて資格を与えられていることをマルコム・ミアから知ったと話した。「CIAから派遣されたこの人物をそのままにしておくのが良い考えかどうか、という問題が出てきました。最終的には、その関係を終了することになりました」とリンドリーは述べた。
CIAの情報筋によれば、ニューズウィーク紙がワシントン・ポスト社に買収されたとき、発行人のフィリップ・L・グラハムはCIA高官たちから、CIAがときどきこの雑誌を偽装工作目的に使っていることを知らされた。「フィル・グラハムが面倒見のいい人物であることは広く知られていました」とCIAの前副長官は言っている。「フランク・ウィズナーが彼とやりとりしていたのです」。1950年から1965年に自殺する直前までCIAの副長官を務めたウィズナーは、ジャーナリストたちが関与した多くの "闇"作戦の最高指揮官だった。ウィズナーは "強力ウーリッツァー*"という、メディアの協力を得て創り上げ、演奏した驚くべきプロパガンダ楽器を自慢するのが好きだった。フィル・グラハムはおそらくウィズナーの最も親しい友人だった。しかし、1963年に自殺したグラハムは、ニューズウィークとの偽装工作の詳細についてはほとんど知らなかったようだ、とCIA筋は語っている。
ウーリッツァー*・・・ウーリッツァー電子ピアノは、ウーリッツァー社が1954年から1983年まで製造・販売した電子ピアノ。金属のリードをハンマーで叩き、ピックアップに電流を誘導して音を出す。サウンドは異なるが、概念的にはロードス ピアノに似ている。( ウィキペディア)当時香港支局のCIA職員であったロバート・T・ウッドによれば、1965年から66年にかけて、極東にいたニューズウィーク誌認定の通信員は、実際にはCIAの契約職員であり、CIAから1万ドルの年俸を得ていたという。ニューズウィーク誌の特派員や通信員の中には、1970年代までCIAとの秘密の関係を保ち続けた者もいた、とCIA情報筋は語っている。
ワシントン・ポスト紙とCIAとのやりとりについての情報は極めて大雑把だ。CIA高官たちの話によると、ポスト紙の通信員の何人かはCIA職員であったが、彼らは、ポスト紙の経営陣の誰が取り決めを知っていたかどうかは知らないと言っている。
1950年以降のワシントン・ポスト紙の主筆や編集長たちは、通信員やポスト紙の職員とCIAとの正式な関係を知らなかったと述べている。「何かが行なわれたとしたら、それは私たちの知らないところでフィルによって行なわれた」とそのうちの1人は述べている。一方、CIAの高官たちは、ポスト紙の職員が同社で働きながらCIAと秘密の関係を持っていたとはまったく言っていない。(原注6)
(原注6)ポスト紙の編集者フィリップ・ゲリンは、ポスト紙に入社する前はCIAで働いていた。
フィリップ・グラハムの未亡人で、現在ポスト紙の発行人であるキャサリン・グラハムは、ポスト紙やニューズウィーク誌の関係者とCIAとの関係について一度も知らされたことはないと言っている。1973年11月、グラハム夫人はウィリアム・コルビーに電話し、ポストの通信員や職員がCIAと関係があるかどうか尋ねた。コルビーは、CIAに雇われている職員はいないと断言したが、通信員についての質問には答えようとしなかった。
■ルイビル・クーリエ・ジャーナル。1964年12月から1965年3月まで、ロバート・H・キャンベルというCIAの秘密工作員がクーリエ・ジャーナル担当だった。CIAの高官筋によると、CIAが当時クーリエ・ジャーナルの編集長であったノーマン・E・アイザックスと結んだ取り決めの下で、キャンベルは同紙に雇われた。同紙の発行人だったバリー・ビンガムもこの取り決めを知っていたという。アイザックスもビンガムも、キャンベルが雇われた時に彼がCIA秘密工作員だったことを知らなかったと言っている。
キャンベルの採用に関する込み入った話は、上院委員会の調査中、1976年3月27日にジェームズ・R・ヘルツォークが書いたクーリエ・ジャーナルの記事で初めて明らかになった: 「1964年12月、28歳のロバート・H・キャンベルがクーリエ・ジャーナルの記者として採用されたとき、彼はタイプもできず、ニュース原稿の書き方もほとんど知らなかった」。そして、同紙の元編集長ノーマン・アイザックスの言葉を引用し、キャンベルがCIAの要請で採用されたことをアイザックスが彼に話したと書いている:「ノーマンは、(1964年に)ワシントンにいたとき、CIAの友人と昼食に呼ばれ、この若者を派遣して新聞記者の知識を少し身につけさせたいと言った」。キャンベルの採用はあらゆる面で非常に異例だった。彼の資格を確認する努力はなされておらず、彼の雇用記録には次の2つの表記があった: 「アイザックがこの男に関する手紙と調査資料を持っている」、そして「一時的な仕事のために採用した。参照チェックは未了、ないしはその必要なし」。
キャンベルのジャーナリストとしての能力は、同紙在籍中変わらなかったようで、「キャンベルが提出した記事はほとんど読めなかった」と元ローカル記事副編集長は言う。キャンベルの主要な報道担当の仕事の一つは、木製インディアン像に関する特集だった。それが掲載されることはなかった。同紙に在職中、キャンベルはオフィスから数歩離れたバーに頻繁に出入りしており、酒飲み仲間に自分がCIA職員であることを打ち明けていたという。
CIAの情報筋によれば、キャンベルがクーリエ・ジャーナル紙に来たのは、将来ジャーナリストとしての偽装工作をするときの信憑性を高め、新聞ビジネスについて少し知ってもらうためだった。クーリエ・ジャーナル紙の調査では、彼がルイビル(クーリエ・ジャーナル)に来る前に、フリーダム・ニュース社が発行するニューヨーク州ホーネルのイブニング・トリビューン紙で短期間働いていた事実も判明した。CIAの情報筋によれば、CIAはキャンベルを雇うために同紙の経営陣と取り決めをしたという。(原注7)
(原注7)ニューヨーク州ホーネルのイブニング・トリビューン紙の社長ルイス・ビュイッシュは、1976年にクーリエ・ジャーナル紙に、ロバート・キャンベルの採用についてほとんど覚えていないと語った。「彼はあまり長くそこにいなかったし、あまり印象がないのです」とビュイシュは語った。彼はその後同紙の経営からは引退している。
クーリエ・ジャーナル紙では、キャンベルはアイザックスと取り決めがあり、ビンガムによって承認された取り決めの下に雇われた、とCIAおよび上院の情報源が語った。「私たちは彼の給与が出せるようクーリエ・ジャーナル紙に金を支払った」と、この取引にかかわったあるCIAの高官は述べた。これらの主張に回答する手紙で、ルイビルを離れてウィルミントン・デラウェア州のニュース&ジャーナル紙の社長および発行人になったアイザックスは、「私にできるのは、次の単純な真実を繰り返し申し上げるだけです。つまり、私は一度も、どんな状況でも、どんなときにも政府工作員を雇用したことはありません、と。私も記憶をたどろうとしましたが、キャンベルの雇用は私にとってほとんど意味をなさなかったため、何も浮かびません・・・かと言って私が「だまされた」可能性がないと言っているわけではありません」。バリー・ビンガムは昨年の電話インタビューで、キャンベルの雇用について具体的な記憶がなく、新聞社の経営陣とCIAとの間になんらかの取り決めがあったかどうかは知らないと言った。しかし、CIA高官は、ビンガムを介して、クーリエ・ジャーナル紙が1950年代と1960年代にCIAに、詳細は不明の他の援助を提供していると述べている。キャンベルの雇用に関するクーリエ・ジャーナルの詳細な一面トップ記事は、父親に続いて1971年に紙の編集者および発行者として就任したバリー・ビンガム・ジュニアによって発表された。この記事は、この件について登場した新聞による自己調査の唯一の重要な記事だ。(原注8)
(原注8)報道とCIAというテーマについて、おそらく最も思慮深い記事を書いたのはスチュアート・H・ローリーで、コロンビア・ジャーナリズム・レビュー誌1974年9月—10月号に掲載された。■アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー(ABC)とナショナル・ブロードキャスティング・カンパニー(NBC)。CIA高官たちの話によれば、ABCは1960年代を通して何人かのCIA工作員に偽装工作を提供し続けていた。そのうちの1人がサム・ジャフィで、CIA高官たちの話によれば、彼はCIAのために秘密裏の任務を遂行していたという。ジャフィはCIAに情報提供を行なったことだけは認めている。さらに、NBCの記者がCIAのために隠れた任務を遂行していた、とCIAの情報筋は述べている。上院の公聴会の時点で、最高レベルで勤務していたCIA高官たちは、CIAがABCニュース社のメンバーと今でも積極的な関係を維持しているかどうかについて明言を避けた。すべての偽装工作の取り決めは、情報源によれば、ABC幹部の了解のもとに行なわれていた。
これらの同じ情報源は、NBCの数人の外国特派員が1950年代と1960年代にCIAのためにいくつかの任務を引き受けたことを除いて、CIAとNBCとの関係についてほとんど詳細を知らないと公言した。1973年からNBCニュースの社長を務めるリチャード・ウォルドは、「そんなことは、当時、みんながやっていたことだった。当時の特派員を含め、ここにいる人々がCIAとつながりがあっても驚きませんよ」と述べた。
■コプリープレスとその子会社、コプリーニュースサービス。この関係は、記者のジョー・トレントとデイブ・ローマンがペントハウス誌で初めて公に開示した。CIA高官たちの話によれば、CIAの職員に「外部」の偽装工作を提供する面でCIAの中でも最も生産的なものの1つだったという。コプリーはカリフォルニアとイリノイ州に9紙の新聞を所有しており、その中にはサンディエゴ・ユニオン紙とイブニング・トリビューン紙も含まれている。「調査ジャーナリズム基金」からの助成金によって行なわれたトレント・ローマン報告によると、少なくとも23人のコプリーニュースサービスの職員がCIAのために仕事をしていたとされる。「CIAとコプリー組織の関与は、ほとんど整理することができないほど広範です」と、CIAのある高官が1976年末にその関係について尋ねられた際に述べた。他のCIA高官たちは、その当時、ジェームズ・S・コプリー(1973年までこれら9紙の所有者だった)がCIAとのほとんどすべての偽装工作の取り決めをひとりで行なっていた、と述べている。
トレント・ローマン報告によれば、コプリーは、当時の大統領アイゼンハワーに自らのニュースサービスを提供し、ラテンアメリカや中央アメリカの「共産主義脅威」に対抗するために「我々の情報機関」の「目と耳」となることを買って出た。ジェームズ・コプリーは、右翼のラテンアメリカの新聞編集者の多くが所属する、CIA資金提供の組織であるインターアメリカン・プレス協会の指導的存在でもあった。
■その他の主要なニュース機関。CIA高官たちの話によると、CIAの文書には、さらに次のようなニュース収集組織が偽装工作の取り組みをしていたことが記載されている。主要なものとしては:ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン、サタデー・イブニング・ポスト、スクリップス・ハワード新聞、ハースト新聞のセイモア・K・フリーディン(ハーストの現在のロンドン支局長で元ヘラルド・トリビューンの編集者および特派員。CIAの情報筋によってCIA工作員として特定されている)、AP(原注9)、UPIインターナショナル、ミューチュアル放送システム、ロイター、およびマイアミヘラルド。CIA高官たちの話によると、ヘラルドとの偽装工作取り決めは、「CIAの本部からではなく、マイアミのCIA支局によって現地で行なわれた」という点で異例だった。
(原注9)ウェス・ギャラガーは、1962年から1976年までAPの総支配人を務めていたが、APがCIAを助けた可能性には異議を唱えている。「私たちは常にCIAとは距離を置いてきました;CIAのために働いていた人物なら私たちはその人間を解雇したでしょう。私たちは社員たちが事後報告(デブリーフィング)することなど許しません」。APの記者たちがCIAのために働いていたと最初に開示された際、ギャラガーはコルビーのところに行った。「私たちは名前を調べようとしました。彼が言ったのは、APの正社員はCIAに雇われていないということでした。私たちはブッシュと話しました。彼も同じことを言いました」。CIA職員がAP支局に配置された場合、それはAP経営陣に相談することなしに行なわれた、とギャラガーは述べている。しかし、CIA高官たちは、AP上級管理職の誰か(その身元は明らかにしていない)を介したから偽装工作の取り決めはできた、と主張している。「そして、それはリストのほんの一部に過ぎない」とはCIA高官のひとりの言葉だ。多くの情報筋と同様、この高官も、ジャーナリストがCIAに提供した援助についての不確実性をなくす唯一の方法は、CIA文書の内容を開示することだと語った。ただし、この方針は、年間を通じてインタビューを受けた35人のCIA現職員、元職員のほぼ全員によって反対された。
ルビーの損切りCIAによるジャーナリストたちの利用は1973年まで実質的に衰えなかったが、CIAがアメリカ人記者を秘密裏に雇用していたことが公になったことを受けて、ウィリアム・コルビーはこの事業を縮小し始めた。コルビーは公式声明の中で、ジャーナリストの利用は最小限であり、CIAにとって重要性も限られているという印象を伝えた。
そして彼は、CIAがニュース業務から手を引いたことをマスコミや議会、そして一般大衆に納得させることを意図した一連の動きを開始した。しかしCIA高官らの話によれば、コルビーは、実際は、ジャーナリスト社会における貴重な情報網に防護網を張っていた。コルビーは副長官らに、最高のジャーナリストとの関係を維持する一方で、活動的でない、比較的生産的でない、あるいはほんのわずかしか重要でないと見なされている多くのジャーナリストとの正式な関係を断ち切るよう命じた。コルビーの指令に従うためにCIAの文書を見直したところ、多くのジャーナリストがここ何年もCIAにとって有益な役割を果たしていないことがわかった。このような関係は、1973年から1976年にかけて、おそらく100人ほどが解消された。
一方、主要な新聞社や放送局の職員になっていた重要なCIA工作員は、辞職して通信員やフリーランスになるように言われた。そうすることでコルビーは心配した編集者たちに、彼らの職員はもうCIAの職員ではないと保証することができた。コルビーはまた、CIAとジャーナリストとの関係に対する監視が続けば、貴重な通信員工作員の偽装工作が暴かれることを恐れた。このような人たちの中には、いわゆる独自出版物(CIAが秘密裏に資金と人材を提供する外国の定期刊行物や放送局)の仕事に配置転換された者もいた。CIAと正式な契約を結び、CIA職員となった他のジャーナリストたちは、契約を解除され、より正式でない取り決めのもとで仕事を続けるよう求められた。
1973年11月、コルビーはニューヨーク・タイムズ紙とワシントン・スター紙の記者や編集者たちに対し、CIAは「一般流通報道機関」で働く5人を含め、「約40の人」のアメリカ人報道記者を「CIAの給与名簿に載せている」と語った。しかし、1976年に上院情報委員会が公聴会を開いていたときでさえ、CIA高官筋によれば、CIAは、あらゆる種類のジャーナリスト (幹部、記者、通信員、カメラマン、コラムニスト、局員、放送技術クルー) 75人から90人との関係を維持し続けていた。このうち半数以上はCIAとの契約や給与の支払いから外されていたが、それでもまだCIAとの他の秘密協定に縛られていた。オーティス・パイク下院議員が委員長を務める下院情報特別委員会の未公表の報告書によると、1976年の時点で、少なくとも15の報道機関が、CIA工作員の偽装工作の支援をまだ続けていた。
CIA史上、最も熟練した秘密戦術家の一人として評判が高かったコルビーは、1973年に長官に就任する以前、自らも秘密工作にジャーナリストたちを使っていた。しかし、その彼でさえ長官を引き継いだ時、CIAがジャーナリストをあまりに広範囲に(彼の見解では無差別に)使い続けていたことに当惑していた、と彼の側近たちからは言われていた。「目立ちすぎる」、とコルビーは当時CIAと協力していた一部の個人や報道機関について頻繁に語っていた。CIA内部では、有名なジャーナリストを「ブランド名」と呼ぶ者もいる。
「コルビーの懸念は、誰をどのように使うかについてもう少し慎重にならなければ、人材を完全に失ってしまうかもしれないということでした」と元副長官の一人は説明する。コルビーのその後の行動は、CIAの提携先としては、いわゆる「メジャー」と呼ばれる企業を遠ざけ、代わりに小規模の新聞チェーンや放送グループ、業界誌やニュースレターなどの専門出版物に集中させることだった。
コルビーが1976年1月28日にCIAを去り、ジョージ・ブッシュが後任となった後、CIAは新しい方針を発表した。「即座に、CIAは、米国のニュースサービスや新聞、定期刊行物、ラジオ、テレビネットワークまたは放送局に認定された記者は、フルタイムであれパートであれ、いかなる支払いまたは契約上の関係にも入ることはなくなる」という方針だ。この方針が発効しても、まだ提携している50人の米国ジャーナリストの半数にもならない関係が終了するだけであることを、方針発表時点で、CIAは認めた。方針には、CIAはジャーナリストの自発的で無報酬の協力を「歓迎」し続けることが記載されており、そのため、多くの関係はそのまま存続することが許された。
CIAがジャーナリストを使うことをやめようとしない、そして一部の新聞社幹部たちとの関係を続けているのは、諜報活動のやりとりについて次の2つの基本的事実があるからだ:① ジャーナリストを偽装工作に使うのは、記者というのは、仕事柄、詮索好きなので、理想的だということ、②ここ数年間、CIAが利用していた多くの他の制度(企業や財団、そして教育機関)が協力を断ってきていること。
「この国で秘密工作員を動かすのは大変です」とCIA高官のひとりが説明した。「諜報には奇妙な曖昧さがあるのです。海外で活動するためには偽装工作が必要です。偽装工作をなんとかしてもらおうと、私たちは後衛戦を戦ってきました。(ところが)平和部隊は立ち入れませんし、USIA(米国情報庁)もそうでした。財団や任意団体は67年以来立ち入り禁止です。フルブライト(フルブライト奨学生)には自らに課した禁止令があります。アメリカ人社会で、CIAで働ける人とそうでない人を並べると、非常に狭い可能性しかありません。国務省外交局でさえ私たちを歓迎しません。では、一体どこに行けばいいのか? 企業もいいのですが、マスコミは自然です。一人のジャーナリストは20人の工作員の価値があります。疑惑を抱かせることなく情報に接近でき質問できるからです」。
チャーチ委員会の役割CIAがジャーナリストを広く利用している証拠があるにもかかわらず、上院情報委員会とその職員は、CIAとの関係がCIAの文書に詳細に記されている記者や編集者、出版人、そして放送局の幹部の誰に対しても質問をしないことを決定した。
上院とCIAの情報筋によると、ジャーナリストの利用は、CIAがそれを削減するために並々ならぬ努力をした2つの調査分野のうちの1つであった。もう一つは、CIAが採用と情報収集の目的で学者を継続的かつ広範に利用していたことである。
いずれの場合も、元長官のコルビーとブッシュ、そしてCIAの特別顧問ミッチェル・ロゴビンは、活動の規模を完全に調査すること、あるいはその一部を公に開示することが、国の情報収集機関や何百人もの個人の評判に甚大な損害をもたらすだろうと委員会の主要メンバーを説得することができた。コルビーは、開示が記者や発行人、そして編集者らが被害を受ける「魔女狩り」のような時代をもたらすと主張する際に特に説得力があったと伝えられている。
ウォルター・エルダーは、元CIA長官マコーンの副長官であり、チャーチ委員会との主要な連絡係であるが、CIAによるジャーナリストの濫用はなかったため、委員会には管轄権がないと主張した。その関係は自発的なものだったから、との理由だ。エルダーは、ルイビル・クーリエ・ジャーナル紙の事例を挙げた。あるCIA高官の話では、「委員会の教会や他の人たちは、クーリエ・ジャーナルについてお飾り的な存在でしたが、それも私たちが編集者と会って偽装工作を手配したこと、そして編集者が『いいよ』と言ったことを指摘するまでのことでした」とのことだ。
チャーチ委員会とその職員の一部は、CIAの高官たちがこの調査を支配しており、自分たちはだまされているのではないか、と恐れていた。「CIAは非常に巧妙であり、委員会はその術中にはまっていました」と、この調査全般に精通しているある議会関係者は述べた。「チャーチや他の一部のメンバーは、本格的で厳しい調査よりも大きなニュースになることを望んでいたのです。CIAは、派手な事柄-暗殺や秘密兵器、そしてジェームズ・ボンドばりの作戦など―について質問されると、多くを譲歩しているように見せかけました。それから、CIAにとってはるかに重要であると考えていた事柄になると、特にコルビーは自分の都合を持ち出しました。そして、委員会はそれを認めたのです」。
ジャーナリストの利用に関する上院委員会の調査は、元CIA情報将校であるウィリアム・B. ベイダーによって監督された。彼は、今年CIA長官スタンスフィールド・ターナーの副長官として一時的にCIAに戻り、現在は国防総省情報機関の高官である。ベイダーは、ジミー・カーター大統領の国家安全保障問題担当補佐官ジビニュー・ブジェジンスキーの補佐官を務めているデイビッド・アーロンに支援されていた。
上院調査委員会の職員の同僚たちの話によると、ベイダーとアーロンの二人は、ジャーナリストに関するCIA文書に収められた情報に動揺を覚え、上院の新しいCIA常設監督委員会による更なる調査を求めた。しかし、その委員会はCIA用の新しい憲章を作成することにその初年度を費やし、委員らはCIAの報道機関の利用についてさらに掘り下げる関心がほとんどないと述べている。
ベイダーの調査は、異常に困難な条件のもとで行われた。ジャーナリストの利用について具体的な情報を求める彼の最初の要求は、CIAによって、権限の乱用はなく、現在の諜報活動が危険にさらされるかもしれないという理由で断られた。ウォルター・ハドルストン上院議員やハワード・ベイカー上院議員、ゲイリー・ハート上院議員、ウォルター・モンデール上院議員、そしてチャールズ・マティアス上院議員は、報道とCIAというテーマに関心を示していたが、ベイダーはCIAの反応に苦悩していた。上院議員たちは、ジョージ・ブッシュCIA長官をはじめとするCIA高官との一連の電話会談や会合で、CIAの報道活動の範囲に関する情報を委員会の職員に提供するよう主張した。最終的に、ブッシュは文書の検索を命じることに同意し、記者が使われた作戦に関連する記録を引き出すことに同意した。しかし、ブッシュは生データをベイダーや委員会に提供することはできないと主張した。その代わり、ブッシュ長官は、副長官たちが各記者の活動を最も一般的な用語で記述した1つの段落の要約にまとめることにした。ブッシュが命じた最も重要なことは、記者や所属するニュース機関の名前が要約から省かれることだった。ただし、記者が勤務した地域の指摘や、彼らが働いていたニュース機関の一般的な説明は含まれる可能性はあった。
作業を監督したCIA高官らの話によると、要約をまとめるのは困難だったという。「ジャーナリスト・ファイル」自体がなく、情報はCIAの部局ごとに独立した性格を反映した様々な情報源から収集する必要があった。ジャーナリストを担当した作戦要員は、いくつかの名前を出してくれた。ジャーナリストが利用されたのは当然だと思われるさまざまな秘密工作に関する資料が引き出された。重要なのは、外国の諜報活動ではなく、秘密工作のカテゴリーのもとCIAのために動く記者によるあらゆることがうまくいっていることだ。古い部署の記録は抹消された。ひとりのCIA高官は「本当にてんてこ舞いだった」と話した。
数週間後、ベイダーは要約を受け取り始め、CIAがファイルの検索を完了したと述べた時には、その数は400を超えていた。
CIAは委員会と興味深い数字ゲームをした。資料を準備した人々は、記者を利用したCIAのすべての文書を作成することは物理的に不可能だったと述べた。「我々は広範囲かつ代表的な情報を提供しました」とあるひとりのCIA高官は述べた。「それが25年間にわたる活動の、あるいは我々の手伝いをしてくれた記者の数の全体的な説明だったと嘘を言ったことは一度もありません」。比較的少数の要約には外国のジャーナリスト(アメリカの出版社の通信員も含む)の活動も記述されていた。この件について最も知識を持っている高官たちによれば、400人というアメリカのジャーナリストの数は、秘密の関係を維持し、秘密裏の任務を遂行していた実際の数よりも少ない数だったと言っている。
ベイダーと彼が要約の内容を説明した他の人たちはすぐにいくつかの結論に達した:①ジャーナリストとの秘密関係の数は、CIAが示唆したよりもはるかに多く、CIAが記者や報道幹部を利用することは、第一級の情報資産であった。②記者はほとんどありとあらゆる作戦に関与していた。③活動を要約した400人以上のうち、200人から250人は通常の意味での 「現役ジャーナリスト」(記者、編集者、特派員、カメラマン)であり、残りは少なくとも名目上、書籍出版社、業界紙、ニュースレターに雇われていた。
さらに、その要約というのは圧縮され、曖昧で、大雑把で、不完全だった。どうとでも解釈できるような代物だった。また、CIAが米国の新聞や放送の編集内容を操作することでその権限を乱用したということなど一言も述べられていなかった。
ベイダーは、自分が発見したことに不安を感じ、外交と諜報の分野で経験豊富な数人に助言を求めた。彼らは、もっと情報を求め、彼が最も信頼している委員会メンバーたちに、要約から明らかになったことの概要を伝えてもらったら、と提案した。ベイダーは再びハドルストンやベイカー、ハート、モンデール、そしてマティアスといった上院議員に会いに行った。一方、彼はCIAに、もっと見たい、要約された100人ほどの個人に関する完全な文書を見たいと言った。この要求はきっぱりと断られた。CIAはそれ以上の情報を提供しなかった。それで終わりだった。
CIAの強硬姿勢により、1976年3月下旬、CIA本部で臨時の夕食会が開かれた。出席者は、ベイダーから説明を受けていたフランク・チャーチ上院議員とジョン・タワー委員会副委員長、ベイダー、ウィリアム・ミラー委員会スタッフ部長、ブッシュCIA長官、ロゴビンCIA顧問、そして長年ドイツ支局長を務め、ウィリー・ブラントの作戦要員であったCIA高官セイモア・ボルテンであった。ボルテンは、委員会からのジャーナリストや学者に関する情報要求に対応するため、ブッシュによって任命されていた。会食の席で、CIAは完全な文書を提供することを拒否した。また、400の要約に記されているジャーナリスト個人の名前も、彼らが所属する報道機関の名前も、委員会には明かさなかった。参加者によれば、議論は白熱した。委員会の代表は、もっと情報がなければ、CIAが権限を乱用したかどうかを判断するという任務を果たすことはできないと述べた。CIAは、委員会にこれ以上情報を開示すれば、合法的な諜報活動やCIA職員を守ることができないと主張した。ジャーナリストの多くはCIAの契約職員であり、CIAは彼らに対しても、他の諜報員と同様に義務を負っている、とブッシュはある時点で述べた。
最終的に、極めて異例の合意が成立した: ベイダーとミラーは、要約から選び出した25人のジャーナリストの全文書の 「消毒済み 」の閲覧を許可されるが、ジャーナリストの名前と彼らを雇っている報道機関の名前は空白にされ、文書に記載されている他のCIA職員の身元も空白にされる。チャーチとタワーは、CIAが名前以外は何も隠していないことを証明するために、25の文書のうち5つの「未消毒版」を調べることを許された。この契約は、ベイダーやマイナー、タワー、そしてチャーチのいずれも、文書の内容を委員会の他の委員や職員に明かさないという合意が条件であった。
ベイダーは400の要約をもう一度見直し始めた。彼の目的は、その中に書かれた大ざっぱな情報に基づいて、(全体の)断面を表していると思われる25件を選ぶことだった。CIAの活動日、報道機関の一般的な説明、ジャーナリストのタイプ、秘密工作など、すべてが彼の計算に含まれていた。
上院の情報筋とCIA関係者によれば、彼が取り戻した25の文書から、避けられない結論が浮かび上がった。それは、1950年代、60年代、そして70年代初頭のCIAは、それまでだれも考えもしなかった程度まで、アメリカ国内の四大、五大新聞社、放送ネットワーク、二大ニュース週刊誌など、アメリカ報道陣の最も著名な部門のジャーナリストとの関係を集中させていたということである。それぞれ3〜11インチの厚さがある25冊の詳細なファイルからは、名前や所属が省略されていたにもかかわらず、その情報は通常、報道関係者、所属、またはその両方を仮に特定するのに十分なものだった。非常に多くの人間が報道分野で著名であったことがとりわけその理由だ。
「関係は信じられないほど広がっています」とベイダーは上院議員たちに報告した。「たとえば、タイム誌を操作する必要はありません。CIA工作員が管理職のレベルにもいるからです」。
皮肉なことに、CIA高官たちの話によれば、CIAとの取引に制限を設けた主要な報道機関のひとつは、CIAの長期的な目標と政策におそらく編集上最も親和性の高い U.S.ニュースアンド・ワールド・レポートだった。U.S.ニュースの創刊編集者でコラムニストの故デビッド・ローレンスは、アレン・ダレスの親友だった。しかし、彼はCIA長官ダレスからの、同紙を偽装工作に使いたいという要請を何度も断っていた、と情報筋は語っている。あるCIA高官によれば、ローレンスは副編集長たちに、CIAと正式な関係を結んだことが判明したU.S.ニュース社員を解雇するとの脅迫的命令を出したこともあったという。同紙の元編集幹部は、そのような命令が出されたことを確認した。しかしCIAの情報筋は、1973年のローレンスの死後も同紙がCIAへの立ち入り禁止のままであったかどうか、あるいはローレンスの命令が守られていたかどうかについては明言を避けた。
一方、ベイダーはCIAからもっと情報を得ようと、特にCIAとジャーナリストとの現在の関係について聞き出そうとした。彼は頑強な壁にぶつかった。「ブッシュは今日まで何もしていない。どの重要な作戦も、ほんのわずかな影響さえ受けていない」とベイダーは友人たちに語っている。CIAはまた、学者の利用に関する詳細情報を求める委員会スタッフの要求も拒否した。ブッシュは委員会のメンバーに対し、この両分野での調査を縮小し、最終報告書の調査結果を隠すよう強く説得し始めた。「彼は、『マスコミやキャンパスの人間たちを台無しにするな!』と言い続け、この二つの分野が公の場で唯一信頼できるのだ、と訴えた」と上院関係者は報告している。コルビーやエルダー、そしてロゴビンの3人はまた、委員会の個々のメンバーにも、スタッフが発見したことを秘密にするよう懇願した。「ジャーナリズム界の大物の何人かは、もしこのことが公になれば、中傷されることになるだろう、という意見がたくさんあったのです」と別の情報筋は言う。ジャーナリストや学者とCIAの関係が暴露されると、CIAは、まだ開かれている数少ない諜報員採用の道のうちの2つが閉ざされることを恐れた。「暴露される危険は、相手側に及ぶわけではありません。これは相手側が知らないことではないのです。CIAが懸念しているのは、偽装工作の領域がまた一つ無くなってしまうことなのです」とCIA秘密工作専門家の一人は説明した。
CIAのロビー活動の対象であったある上院議員は後に、「CIAの観点からは、これは何より高度で、何より機密性の高い秘密プログラムでした・・・それは言われてきたよりもはるかに大きな作戦システムだったのです。私はその点を強く主張したいという強い衝動に駆られましたが、手遅れでした・・・もし私たちが要求していたら、彼ら(CIA関係者たち)はそれと戦うために法的な手段を取ったでしょう」と彼は付言した。
実際、委員会には時間切れが迫っていた。多くの職員によれば、委員会はCIAの暗殺計画や毒ペンの捜索に人員をあまりに多く使いすぎていた。ジャーナリストに関する調査は、ほとんど付け足し程度におこなわれた。このプログラムの規模と、それに関する情報提供に対するCIAの敏感さは、職員や委員会を驚かせた。チャーチ委員会の後を継ぐCIA監視委員会には、この問題を系統的に調査する気風もその時間もあるだろう。もしCIAが協力を拒否し続ける可能性が高い場合、CIA監視委員の任務はより有利な立場で長期戦を戦うことができるだろう。あるいは、チャーチをはじめ、ベイダーの調査結果を漠然と知っている数人の上院議員が、この問題をこれ以上追求しないという決定に達したとき、そのような推論がなされた。ジャーナリストは、調査委員会スタッフによっても上院議員によっても、秘密裏に、あるいは公開の場で、CIAとの取引についてインタビューを受けることはなかった。最初にCIA高官たちが言い出した報道陣の魔女狩りの恐怖は、スタッフと調査委員会の一部のメンバーを悩ませた。「私たちは委員会に人を連れてきて、彼らは自分たちの職業の理想に対する裏切り者だと全員に言わせるつもりはありませんでした」とある上院議員は言った。
友人たちによると、ベイダーはその決定に満足しており、後任の委員会(調査委員会)は彼が残した調査を引き継ぐと信じていた。彼は個々のジャーナリストの名前を公表することに反対した。彼は、道徳的に絶対的なものがない「グレーゾーン」に入ってしまったのではないかとずっと心配していた。CIAは古典的な意味でマスコミを「操作」したのだろうか? おそらくそうではないだろう、と彼は結論づけた。主要な報道機関とその幹部たちは、喜んでその社員たちをCIAに貸した;海外の特派員たちは、CIAで働くことを国への奉仕であり、より良い記事を得て自分たちの職業の頂点に登るための手段だと考えていた。CIAは権力を乱用したのか? CIAは外交機関や学界、そして企業などから偽装工作を求めたのと同じように報道機関に対処した。CIAの憲章には、これらの機関が米国の諜報機関に立ち入り禁止であると宣言するものは何もなかった。そして、報道機関の場合には、CIAは他の多くの機関との取引よりも注意を払っていた:その役割を情報収集と取材に限定するために、かなりの努力をしてきた。(原注10)
(原注10)多くのジャーナリストや一部のCIA関係者は、同機関がアメリカの出版物や放送局の編集上の権威をきちんと尊重してきたという主張に疑義を呈している。
ベイダーはまた、自分の知識がCIAから提供された情報に大きく依存していることを懸念していたという。彼は、CIAと関係のあったジャーナリストたちから彼らの側からの話を入手していなかった。彼は「提灯番組」しか見ていないのかもしれない、と友人たちに語った。それでもベイダーは、文書に書かれていることのほぼ全容を見たのだと確信していた。もしCIAが彼を欺くつもりなら、これほど多くを明かすはずがない、と彼は考えたからだ。「ベイダーに資料を見せてまで協力したCIAは賢明だったのです。そうすれば、ある日突然何かの文書が発見されたとしても、CIAは責任逃れができるからです。議会にはすでに報告済みだと言えるのです」とある調査委員会の情報筋は語っている。
CIA文書への依存は別の問題を引き起こした。ジャーナリストとの関係についてのCIAの認識は、ジャーナリスト側の認識とはかなり異なる可能性がある。あるCIA高官は、自分がジャーナリストを操っていると考えるかもしれない。ジャーナリストの方はスパイと単に酒を飲んだだけだと思うかもしれない。CIAの作戦要員がジャーナリストとの取引に関して、自分勝手なメモを書いていた可能性もあり、またCIAが他の政府機関と同じようにどこにでもある官僚的な「責任逃れ」の文書に依存していたのかもしれない。
CIAのジャーナリスト利用は無害であったと上院委員会のメンバーを説得しようとしたあるCIA高官は、文書は実際に作戦要員による「吹き込み」で埋め尽くされていると主張した。「何が吹き込みで何が吹き込みでないかは決められません」と彼は主張した。多くの記者たちは「限られた (特定の) 仕事のために採用されたのであって、CIA工作員として (CIAの文書に)記載されていることを知ったら愕然とするでしょう」と彼は付け加えた。この高官は、この文書には「有名人」、つまりほとんどのアメリカ人が名前を知っていると考えられる6人ほどの記者や特派員の記述が含まれていたと推定している。「文書を見れば、CIAが報道機関へ足を運び、それと同じくらい頻繁に報道機関がCIAのところへ足を運んでいるのは一目同然です」と彼は述べた。「・・・これらのケースの多くでは、見返りがあるという暗黙の合意があります」。つまり、記者はCIAから良い記事を得ることになり、CIAは記者から価値のある見返りを受けるという「持ちつ持たれつ」の関係だ。
議員らと議会全体、一般の人々から、ジャーナリストの利用に関する上院委員会の調査結果は意図的に隠蔽された。ある情報筋は、「この件に対処する方法について意見の相違がありました」と語った。「一部(の上院議員)は、これらが取り除かれるべき権力濫用だと考えましたが、『これが悪いことなのかどうかわからない』と言った人々もいました」。
この件に関するベイダーの調査結果は、全委員会で話し合われることはなかった。執行委員会ですら話し合われなかった。その調査結果は漏れる可能性もあった―とりわけそこに記るされた事実の衝撃性を考えると。チャーチ委員会の調査が始まって以来、情報漏洩は委員会の最大の恐怖であり、その使命に対する真の脅威であった。わずかでも情報漏洩の兆候があれば、CIAは機密情報の流れを断ち切るかもしれない。「まるで、CIAではなく我々が裁判にかけられているかのようだった」と委員会のスタッフは語った。委員会の最終報告書に、CIAによるジャーナリスト利用の実態を記述すれば、マスコミや上院の議場での騒ぎを引き起こすだろう。そして、CIAに対してジャーナリストの利用を全面的にやめるよう強い圧力をかけることになるだろう。「その一歩を踏み出す準備ができていなかったのです」とある上院議員は言う。同じような決定が、委員会スタッフが行なったCIAによる学者利用についての調査結果を隠すためにもなされた。両方の調査分野を監督していたベイダーは、この決定に同意し、委員会の最終報告書のこれらの部分を起草した。191ページから201ページまでは、「米国メディアとの秘密関係 」と題されていた。「我々が発見したことはほとんどこの報告書には反映されていません。CIAとは、何が語られるかをめぐって、長期にわたる入念な交渉があったのです」とゲイリー・ハート上院議員は述べた。
事実を曖昧にすることは比較的簡単だった。400の要約やそれが示す内容には触れず、代わりに報告書には、調査委員会スタッフが最近のジャーナリストとの約50の接触を調査したことが当たり障りなく記載された。これにより、CIAと報道機関の関係がそれらの事例に限定されていたかのような印象が与えられた。報告書によると、CIAの文書には、CIAのジャーナリストとの関係がアメリカのニュース報道の編集内容に影響を与えているという証拠はほとんどなかったとされている。コルビーによるジャーナリスト利用についての誤解を招く公の発言が、深刻な矛盾や粉飾を除外して、繰り返された。協力していたニュース社幹部の役割はほとんど無視された。CIAが報道機関との関係を主要な部門に集中していた事実は触れられなかった。CIAが報道機関をまだいつでも利用できる存在と見なしていることなど、おくびにも出さなかった。
元『ワシントン・ポスト』紙のカール・バーンシュタイン記者は現在、冷戦時代の魔女狩りについての本を執筆中。
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