続・ハ地区の進撃(10)-第6次ブータン調査
パジョディン縦走
9月14日(木)、晴。午前8時、ホテルを出発し、パジョディン僧院への登山口に向かいました。パジョディンは13世紀ごろ、チベットから南下した高僧パジョ・ドゥグム・シクポによって開山されました。パジョはブータンにチベット仏教ドゥク派を伝導した開祖です。私たちは山奥の崖に建つ最古の「奥の院」を最終目的地として、標高3650~3800mの僧院群をめざします。午前8時半、標高2550mの登山口に到着。私は本格的な登山は初めての経験であったため、登りきることができるか前日からとても緊張していました。
ガイドのウタムさんから弁当とミネラル水を受け取り、準備完了。パジョディン僧院群を目指をしていよいよ登山開始です。高山病を回避するため数回に分けて休憩をはさみ、水分補給をしつつ歩みを進めていきます。上空からの市街地を俯瞰するパノラマや山嶺の大自然を撮影しながら、少しずつ山道を登っていきました。
サムゲカン僧院
歩き始めの数十分間、急峻な傾斜面が続き、体力を消耗させられました。先生は昨日の昼食時の食あたり症状から体調が回復しない様子で、登山口に至る前から不調が登山に影響しないか心配なされていました。道中やはりとても辛そうで、休憩時には酸素を吸引しながら歩みを進めておられました。不安な面持ちで進む中、まもなく急峻な坂道を上りきり(登山を始めてから約1時間後)、大きな僧院があらわれました。サムゲカン僧院です。
↑↓サムゲカン僧院
縦走三昧
標高2900mから3100mまではひたすら縦走路です。肉体感覚ではたぶん8kmぐらいあったような気がします。まるで静岡県か島根県を車で縦断するみたいです。標高3000mを過ぎる辺りからだんだん息が上がり、酸素が薄くなってくるのを感じました。植生も変わっていきます。マツやイトスギから垂れ下がる藻のような苔が視界を塞ぎます。
その後しばらくしてからほぼ中間地点というアズマヤ(休憩小屋)を見つけました。標高3160m。そこで休んでいると、15分ばかり遅れて、先生が上がってこられました。かなりお疲れのようで、待機していた学生とウタムさんに「先に行くように」との指示をだされました。先生はウタムさんに問いかけます。
「あと、どれくらい?」
「まだ半分ですよ・・・」
この「半分」という言葉に先生は衝撃を受けられたようです。それは、希望の塔における「排除」と同じぐらいの絶望感を先生に与えてしまいました。あとで仰っていたのですが、「かりに半分が事実としても、6~7合目だと言って欲しかった、そうであればメンタルを維持しやすかった。あれだけ歩いて5合目はきつい・・・」、と。
さらにウタムさんによると、この地点から再びさ道が急峻になるとのことで、前日から体調の優れない先生はますます辛そうになり、わたしたちとの距離が離れていきました。。
休憩小屋
弥勒の本堂
ウタムさんと学生一同は、しばらくして現在の僧院群の本堂にあたるジャンパラカンにたどり着きました。あとで確認したところ、先生よりも1時間半ばかり早く着いた模様です。ジャンパとは弥勒菩薩のことです。多くの建物が修復のまっ最中です。ここもまたネパール大地震で深刻な被害を受けたのです。ただし、本堂に被害は少なく、400年前の姿をよく留めています。ですから、修理はしていません。
時間はちょうど正午になっていました。昼食時です。ジャンパラカンの前庭は休憩のための大きな広場になっていて、椅子やテーブルがいくつも配備してあり、本堂までやってきた登山客を若年僧がミルクティとポン菓子で迎えてくれます。当然、この場所で昼休憩だと思ったのですが、ウタムさんはさらに進んでいきました。どうやらウタムさんはジャンパラカン本堂の年代を新しいものと思いこんでいて、ここをスルーし、修復現場の近くで弁当を食べることになったのです。
ここで私たちの失敗は、トランシーバーで先生に連絡を入れなかったことです。待ち合わせの場所を決めることなく、私たちは本堂を離れ、パジョゆかりの「奥の院」に足を踏み入れていったのでした。
↑↓ジャンパラカン