【講演記録】倉吉の町家と町並み(4)
5.ふるきかぜ あたらしきかぜ
(1)昭和戦後の歴史遺産
2006年に東仲町・西仲町・西町の本町通り商店街の町並み調査をしました。図25に従来の重要伝統的建造物群保存地区と調査地(本町通商店街)の位置関係を示しています。2007年、その報告書『ふるきかぜ あたらしきかぜ ―倉吉本町通りアーケード商店街の町並み分析と再生計画―』(八橋往来町並み研究会)を刊行し、同じ年の夏に本町通り商店街のアーケードが撤去されます。
2006年は結構な騒動になっていました。アーケードを撤去すべきか否かでもめていたのです。撤去肯定派の意見はこのとおりです。東仲町・西仲町・西町が打吹玉川重要伝統的建造物群保存地区に追加選定され、観光客が増えて、シャッター通りとなっていた商店街が息を吹き返す。撤去反対派はむしろ生活環境の確保を主張していました。高齢化社会のなかでアーケードは必要だという論理です。山陰は雨雪が多いですね。アーケードがある方が街を歩きやすい。ところが、アーケードは老朽化しており、構造的に危なくなっている。
私たちは歴史遺産・歴史的環境を研究対象にしています。歴史的な遺産そのものの理解を深めることはもちろんですが、その価値を認めながら、遺産を保全活用し、現代の居住環境の向上につなげようと考え、諸々の活動をしています。ところが、アーケード商店街の調査をしていて、その「歴史的」なるものとはなんぞや、という命題につきあたるわけです。もっとも刺激的だったのは、商店街のあちこちに残る昭和の看板でした。明治チョコレートとか森永ミルクキャラメル、美空ひばりの蚊取り線香、松山容子のボンカレー、大村昆のオロナミンC・・・どれもこれも懐かしい。懐かしいだけではなく、昭和史を彩る重要な遺産になっている。平成になって20年以上が経過し、昭和戦後は確実に「歴史」としての意義を発露し始めているのです。
図25は報告書『ふるきかぜ あたらしきかぜ』の表紙です。城間美乃さんという沖縄出身の学生が3年次に描いてくれたものです。城間さんは書道と絵の達人でして、いまは宮古島に帰って芸術活動をしています。この表紙は描くにあたって、わたしは谷口ジローを意識してほしいと頼みました。彼女はその依頼に答えつつ、みごとにオリジナリティを発揮しています。彼女なりのコンセプトがあるのです。アーケードのかかった手前が「現在」です。そのアーケードが向こう側ではなくなっている。学生服を着た若者はアーケードのない「未来」へ向かって歩いている。
この報告書も超貴重本になりました。数えてみれば研究室にもう6冊しかありません。今はなき本町通りアーケードの写真や設計図などがたくさん掲載されています(図26)。懐かしいですよね。懐かしさを覚える一方で、この商店街がいわゆるシャッター通りになっていたのは事実です。車も人も非常に少ない。活気がなくなっていたのは事実であり、厳しい現実でした。
(2)鳥取のアーケード商店街
鳥取にアーケード商店街が誕生するのは戦前に遡りますが、戦時中の鉄器供出で撤去されます。昭和33~35年ぐらいに鳥取駅前や川端商店街にアーケードが再登場します。とくに昭和35年(1960)の川端商店街全蓋式アーケードが革新的でした。その背景は大型スーパーの進出です。鳥取市の場合、昭和34年にスーパーたからや、35年に日光ストアが開店して、地元の商店街が打撃を受けるわけです。年間の売上が20~30%減ってしまった。この対策として、既存の商店街が「横のデパート化」を進めた。つまり、アーケードをかけて商店を連結する手法にでたわけです。
そのさい建物をコンクリート風に見せたいということで、アーケード内商店の「看板建築」化が進みます。アーケードをかけても、商店が木造のままだとデパート風にはみえませんが、看板建築にすれば、雰囲気がデパートに近くなります。米子の商店街でも同じような動きがおこります。
(3)倉吉のアーケード商店街
ところが、倉吉は事情が少し違うようです。倉吉の場合、明治36年(1903)の山陰鉄道上井駅の誕生が関係しています。上井駅ができたことで駅周辺が開発され活性化する。その反面、旧陣屋町の商店街は衰退の兆しを見せ始める。もう一回てこ入れをしたい。まず明治45年(1912)に上井・倉吉間の軽便鉄道が敷設され、倉吉駅(後の打吹駅)が誕生する。昭和38年(1963)になって、打吹駅と倉吉高等女学校をつなぐ東仲町・西仲町・西町の商店街に全蓋アーケードを架けたのです。倉吉の場合、上井駅周辺に対する対抗措置としてアーケード商店街が生まれ、やはり「横のデパート化」が図られた。もちろん商店の看板建築化が急速に進行していきます。これが昭和38年のことでして、鳥取・米子より数年遅れています。【続】
(1)昭和戦後の歴史遺産
2006年に東仲町・西仲町・西町の本町通り商店街の町並み調査をしました。図25に従来の重要伝統的建造物群保存地区と調査地(本町通商店街)の位置関係を示しています。2007年、その報告書『ふるきかぜ あたらしきかぜ ―倉吉本町通りアーケード商店街の町並み分析と再生計画―』(八橋往来町並み研究会)を刊行し、同じ年の夏に本町通り商店街のアーケードが撤去されます。
2006年は結構な騒動になっていました。アーケードを撤去すべきか否かでもめていたのです。撤去肯定派の意見はこのとおりです。東仲町・西仲町・西町が打吹玉川重要伝統的建造物群保存地区に追加選定され、観光客が増えて、シャッター通りとなっていた商店街が息を吹き返す。撤去反対派はむしろ生活環境の確保を主張していました。高齢化社会のなかでアーケードは必要だという論理です。山陰は雨雪が多いですね。アーケードがある方が街を歩きやすい。ところが、アーケードは老朽化しており、構造的に危なくなっている。
私たちは歴史遺産・歴史的環境を研究対象にしています。歴史的な遺産そのものの理解を深めることはもちろんですが、その価値を認めながら、遺産を保全活用し、現代の居住環境の向上につなげようと考え、諸々の活動をしています。ところが、アーケード商店街の調査をしていて、その「歴史的」なるものとはなんぞや、という命題につきあたるわけです。もっとも刺激的だったのは、商店街のあちこちに残る昭和の看板でした。明治チョコレートとか森永ミルクキャラメル、美空ひばりの蚊取り線香、松山容子のボンカレー、大村昆のオロナミンC・・・どれもこれも懐かしい。懐かしいだけではなく、昭和史を彩る重要な遺産になっている。平成になって20年以上が経過し、昭和戦後は確実に「歴史」としての意義を発露し始めているのです。
図25は報告書『ふるきかぜ あたらしきかぜ』の表紙です。城間美乃さんという沖縄出身の学生が3年次に描いてくれたものです。城間さんは書道と絵の達人でして、いまは宮古島に帰って芸術活動をしています。この表紙は描くにあたって、わたしは谷口ジローを意識してほしいと頼みました。彼女はその依頼に答えつつ、みごとにオリジナリティを発揮しています。彼女なりのコンセプトがあるのです。アーケードのかかった手前が「現在」です。そのアーケードが向こう側ではなくなっている。学生服を着た若者はアーケードのない「未来」へ向かって歩いている。
この報告書も超貴重本になりました。数えてみれば研究室にもう6冊しかありません。今はなき本町通りアーケードの写真や設計図などがたくさん掲載されています(図26)。懐かしいですよね。懐かしさを覚える一方で、この商店街がいわゆるシャッター通りになっていたのは事実です。車も人も非常に少ない。活気がなくなっていたのは事実であり、厳しい現実でした。
(2)鳥取のアーケード商店街
鳥取にアーケード商店街が誕生するのは戦前に遡りますが、戦時中の鉄器供出で撤去されます。昭和33~35年ぐらいに鳥取駅前や川端商店街にアーケードが再登場します。とくに昭和35年(1960)の川端商店街全蓋式アーケードが革新的でした。その背景は大型スーパーの進出です。鳥取市の場合、昭和34年にスーパーたからや、35年に日光ストアが開店して、地元の商店街が打撃を受けるわけです。年間の売上が20~30%減ってしまった。この対策として、既存の商店街が「横のデパート化」を進めた。つまり、アーケードをかけて商店を連結する手法にでたわけです。
そのさい建物をコンクリート風に見せたいということで、アーケード内商店の「看板建築」化が進みます。アーケードをかけても、商店が木造のままだとデパート風にはみえませんが、看板建築にすれば、雰囲気がデパートに近くなります。米子の商店街でも同じような動きがおこります。
(3)倉吉のアーケード商店街
ところが、倉吉は事情が少し違うようです。倉吉の場合、明治36年(1903)の山陰鉄道上井駅の誕生が関係しています。上井駅ができたことで駅周辺が開発され活性化する。その反面、旧陣屋町の商店街は衰退の兆しを見せ始める。もう一回てこ入れをしたい。まず明治45年(1912)に上井・倉吉間の軽便鉄道が敷設され、倉吉駅(後の打吹駅)が誕生する。昭和38年(1963)になって、打吹駅と倉吉高等女学校をつなぐ東仲町・西仲町・西町の商店街に全蓋アーケードを架けたのです。倉吉の場合、上井駅周辺に対する対抗措置としてアーケード商店街が生まれ、やはり「横のデパート化」が図られた。もちろん商店の看板建築化が急速に進行していきます。これが昭和38年のことでして、鳥取・米子より数年遅れています。【続】