はてなキーワード: ヴィジョンとは
2
AOU ムジョルニア持ち上げられそうになって狼狽したり、ヴィジョンに使われた時に大分焦ってるソーが面白かった。
3 終盤のアイアンマン軍団とかペッパー無双とか見てて楽しかった。
CW ヒーローのド派手な戦いの裏で…という話。なんかキャプテン・アメリカってタイトルに付いてるけどあんまりそんな感じはしなかった。
ヒーロー対ヒーローは今までのシリーズでもよくあったけど洗脳ばだったりなんか喧嘩っ早かっただけだったなかで各々の思想によって別れて戦うのがより一層やるせない。
ボスも単純なパワーでやるタイプじゃなくて面白いキャラクターだった。
IW 冒頭からクライマックスで、アイアンマン中心に見てたのもあって大分置いてけぼりくらった。ロキにはアベンジャーズで暴れまわったあとハルクにボコボコにされてた印象しかなかったから
ちょっとどういう感情で見ればいいのかわからなかった。あんなチートゴリラどうやって倒すん…と思ったけど意外と腕どうにかすればよかったんかな切り落とすとかで。
ハルク最後の最後で暴れるかと思ったらずっとやーやーなの!だった。結局最後までみたけどなんでやーやーだったのかイマイチわからなかった。
終始ラスボスの計画通りに進んで超鬱エンドだった。特にスパイダーマンは本シリーズだと子供っぽさが強調されてたのもあって辛かったし、それを目前で見せられてトニーもかわいそう。
てかCW→IWって暗すぎる。多分暗い話だからってのもあってコメディリリーフとして出てきたであろうウサギ連中もラストで塵となって台無しだよ!当時見てた人どんな気持ちだったんだろこれ
EG 冒頭の平和そうな日常ですっげー嫌な予感したら案の定ひどいことになった。トニー見た目からしてボロボロでお辛い…。
サノス手をあっさり切り落としてた辺り有効な戦略だったんだと。
科学者連中が丸ごと選別から逃れたのバグだろこれ。サノスは信念ねじまげてもやっとくべきだったと思う。
その後の世界でハルクがハルクと和解して愉快な緑のおじさんになってたり、おもちゃにされるアントマンに、ソーのひっどい体型にひっどい使われ方するストームブリンガー…。
最終決戦はハンマー持って大暴れするキャップとか熱かった。元々能力ありすぎて強かったけどブチギレスカーレット・ウィッチ、あのサノスが追い詰められるほど強いんだ。
なんか鳴り物入りで登場したキャプテン・マーベルはちょろっと便利な物語進める道具みたいな扱いでイマイチだった。
ヒーロー側はトニー、ブラック・ウィドウ、ヴィジョンの犠牲で大体は解決したけど、兄弟もヴィジョンも失ったままのワンダかわいそう
IQ130超え、全人口のうち上位2%のIQであることが入会条件の団体、「Mensa」に入ってみた。
あまりにも生きづらく発達障害を疑う声も多かったので、WAISを受けてみた。一つだけ”異常”が見つかった。Mensaに入れる程度に、IQが高かったのだ。「IQが高い」「生きづらさ」で検索してみると、Mensa内で活動している自助グループのようなものが見つかったので、入会してみることにした。会費、安いし。
最初は、イベントへの参加も戦々恐々だった。高IQの人々が知力でマウントを取り合うような環境を想像していたのだった。だけど、予想とは全然違った。
最終学歴も職業も収入も、けっこうバラけている。そうはいっても、大卒やブランド大卒やコンサルや高収入者の割合は、世の中全体に比べれば高いようだ。とにかく、そういうことを自慢してマウントを取り合うような人々は見あたらない。いるのかもしれないけど、目立たない。
会員だけの集まりで、よく耳にするのは、「人口の2%だなんて、天才にしては多すぎるし、ギフテッドと言われてもね」という発言。会員のほとんどは、選ばれた何かだなんて思ってない。体重は、多いからといって喜べるものではない。身長も、高すぎれば服の選択肢が減るし、頭をぶつける機会が増える。それと似たような捉え方に見える。
IQが高いメリットを享受していると言える人は、意外に少ない。知力で勝負するタイプのテストでは、確かに不利にはなりにくい。だけど、難関校に進学したり競争率の高い就職先に就職したりしたら、周囲に似たような人が増えていく。その中で競争したり生き残ったりしていくわけだから、有利だと感じる場面は減って当然だ。
IQが高いことのメリットを享受したいと考える人たちは、いることはいる。だけど多数派ではない。
Mensa会員の中には、発達心理学や教育学のプロもいるし、特別支援教育に携わる専門職もいる。IQが知力のごく一部だけを測定している非常に不完全な尺度であり、活用には慎重さと注意が必要であることは、その人々がよく知っていて、周囲の会員に語ってくれる。そもそもIQは、要支援の知的障害者を発見して適切な支援を行うために開発されたものであるらしい。その目的のためには、確かに有効だということだ。だけど、高い側はどうなのか疑問が持たれていたりもするらしい。IQが70だと、100の人々の中では不利になる。でも、30多くて130だと同様に100の人々より「有利」とは言えないらしい。それは、実感ベースで納得できる説明だ。
Mensaの中で時々目立つのは、IQが高いゆえの生きづらさの共有。近年は、公立学校でも「浮きこぼれ」「ギフテッド」を疎外しないようにという動きがある。だけどそれ以前、高IQの子どもたちは辛い思いをすることが少なくなかったようだ。
子ども時代に高IQであることが判明した場合、「勉強させない」「進学させない」といった方向の圧力が家庭から加えられることも少なくなかったようだ。背景にあるのは、親の嫉妬や劣等感、家業を継いでもらわなくては困るという思惑など。また高IQが学業成績に結びつかなかった場合、その子のIQを知っている教師が低い評価をすることもあったようだ。そのような語りが漏れると、他の会員から「私も」「そういう話は他でも聞いたことが」といった共感や理解が語られる。私も同感だ。というより、私と同じような経験をしてきた人々が周囲にたくさんいるという経験は初めてだ。
入会して数ヶ月間、いろんなイベントに参加して社交を楽しんでいるうちに、2つのことに気がついた。
まず、Mensaの実質的な役割の一つは「ピアサポート」、仲間による支え合いだ。
障害者の世界でもフェミニズムの世界でも、「ピア」の力は非常に重要視されてきている。精神科入院患者が異様に多い日本の状況を解決する方法の一つとしても、「ピアサポート」は注目されている。地域で生活するにあたって、輪別と闘うためにも差別的な社会と折り合っていくためにも、仲間はいたほうが良いに違いない。
身長が高かったり体重が多かったりする人々のために専用のファッションサイトがあるように、おそらく、高IQの人々にも何かが必要なのだろう。そして、まずは同類で集まってみることが大切なのだろう。
人口の2%だから、100人いれば自分以外にもう1人いるかもしれないけど、その1人と仲良くなれるかどうかは分からない。
1000人いれば、自分以外に19人いそうだが、その19人をどうすれば見つけられるのか。
同じ特性を持った人々の集まりがあり、そこに数千人が集まっていれば、同じ高IQという特性を持ち、気が合ったり話が合ったり共に活動出来たりする人を見つけられるかもしれない。
今のところ、私にとってのMensaの意義は、そういうところにある。
次に、Mensa会員になると「多様性」について考える機会が増え、「多様性」を大切にしたくなるかもしれない。「IQ130以下の人がいない」という意味で多様性が阻害されている団体であるゆえに、逆説的に。
「ダイバーシティー」とも呼ばれる「多様性」は、もちろん大切なのだろう。だけど、どうすれば実現できるのか? どのような人がいても「共生」できるという世界は、本当に実現することができるのか? 人間は、多様性が尊重されて全ての人が共生できるユートピアを作って維持できるほど賢明なのか?
人間はおそらく、完全な多様性には耐えられない。処理しなくてはならない情報が多すぎて、人間の能力では処理しきれなくなる。言語も価値観も見た目も違う人々が、旧約聖書のバベルの塔のようにゴチャ混ぜにされたら、多様性を尊重して共生するというわけにはいかないだろう。そのヴィジョンを共有することすらできないのだから。
そこにいる人々が処理できる範囲まで多様性を減らさないと、共生はできない。だけど限定付きの共生を実現しながら、各個人や各社会集団が処理できる情報量を少しずつ増やしていくことはできる。その延長に、いつか多様性を喜び合う共生社会が実現するかもしれない。多様性の「限定解除」だ。といっても、向こう数十年や数百年では無理そうだし、その前に人類滅亡という成り行きもありそうだけど。
高IQ集団の中で多様性と共生を経験した会員たちの中には、IQではなく別の何かで多様性を減らした別の集団の中での多様性や共生を自然に実現する人々が、一定の割合で現れるだろう。他の特性や志向性を持った人々の集団、たとえばフェミニストやLGBTQや障害者の集まりからからも、そういう人々が一定の割合で現れてきたのと同じように。その人々が少しずつ世の中を変えていく成り行きには、希望を託してよさそうな気がする。
誰もが、自分が持って生まれるものを選べない。時代も親も家庭も性別も選べない。与えられたものを使って、試行錯誤を重ねていくだけだ。そして、「選べない」ものが不幸をもたらすことは、誰もが選べない以上は避けようとするのが人道だろう。
「生まれた後なら選べるものもあるのだから自己責任」という考え方もあるけれど、自己責任のもとで何を選ぶことができるのかを含めて、あらゆる人が実は狭い選択肢しか与えられていないのだと思う。せいぜい、「今日、昼食に使える200円の範囲で、コンビニおにぎりの何を選ぶか」程度の選択肢だ。
選べない中で、選べるものは選び、小さな満足や達成を積み重ねていく。誰もが、そうしている。高IQでも、そういうふうに生きて悪いわけはないはずだ。
自分と共通するところのある人々との出会いや交流の中に閉じこもってしまうのは、どういう共通点があっても良くない。だけど、仲間とのつながりは必要だ。高IQだからといって、「私は一人ではない」と実感してはならないはずはない。
私は、持って生まれた高IQという特性が自分を不幸にせず、結果として自分の周囲の不幸も減らせるように、Mensaと仲間たちとの出会いを活かしていきたい。
世界史を見渡しても、織田信長のように「社会全体を根底から変える壮大なヴィジョン」と、スピード・先進性・革新性・軍事力・決断力・因習の排除を兼ね備え、かつ実行力を持ったリーダーはごくわずかです。あえてトップ3を挙げるなら、次の人物が代表格といえます。
---
---
| 人物 | スピード | 先進性・革新性 | 軍事力 | 決断力 | 因習の排除 | 社会構造の変革 |
| ------------------ | ---------- | ---------------- | -------- | -------- | ------------- | ---------------- |
| チンギス・ハン | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ |
| ピョートル大帝 | ○ | ◎ | ○ | ◎ | ◎ | ◎ |
| ナポレオン | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ |
---
---
世界中のメディアがイーロン・マスクを天才経営者として讃えるたび、心の奥底に沸き起こるのは猛烈な反発心だ。彼の壮大なビジョンや野心的な計画がもたらすインパクトは計り知れない。電気自動車での革新、宇宙事業への投資、さらにはSNSプラットフォームを買収して世界の言論空間を一変させようとする姿勢――どれをとっても、彼が稀有な才能を持つリーダーであることは否定できないだろう。しかし、その裏側には、人を顧みない強引さや、誰もが乗り気でない環境を一方的に変革しようとする独善性が垣間見える。彼は常に「未来を創る」と言うが、その方法に正当性はあるのか。私は強い疑問を抱かずにはいられない。
特に、彼がSNS上で見せる軽率な発言は、私の中にある嫌悪感をさらに増幅させる。刺激的なツイートで株価や暗号通貨の相場を乱高下させ、批判者を嘲笑し、炎上を煽るかのような行動を繰り返す姿は、リーダーというより権力を得た“トリックスター”のようだ。彼の言動を追いかける投資家や支持者は多く、SNSでは絶え間なく祭り上げられている。しかし、そうした「熱狂」が生まれるほどに、私は逆に強い反発を覚える。確かに並外れた頭脳や行動力を持つ人物ではあるが、その影響力をどう使うかという点で、彼はあまりにも無自覚ではないだろうか。
テスラの急成長がもたらした電気自動車市場の拡大は、間違いなく自動車産業に大きな変革をもたらした。それまでガソリン車が主流だった市場をひっくり返し、世界的な環境意識の高まりに合わせて時代を先取りする――その功績は称賛に値する。だが同時に、「内部告発を試みた社員への圧力」「過酷な労働環境」などが報じられるたび、私は苛立ちを禁じ得ない。美しい未来を掲げる一方で、その裏では「効率化」「革新」という名のもとに弱い立場の人々を切り捨ててはいないか。企業トップとして、多大な責任を負っているはずの人物が、利益とスピードのためなら人間性を犠牲にしても良いと思っているのではないか――そんな疑念が拭えないのだ。
さらにツイッターを買収したことによって、彼の性格がより露わになったと感じる。コンテンツ規制や言論の自由をめぐって賛否両論あるのは当然だが、長年にわたって築き上げられてきたプラットフォームの秩序を、一夜にして根本から覆そうとする様子には乱暴さを感じる。彼が純粋に「言論の自由」を守りたいと考えている部分もあるのかもしれない。だがそのやり方は、あまりにも一方的で、議論よりも強制が先に立っているように見えるのだ。市場やユーザーコミュニティに計り知れない影響を及ぼすのに、まるで実験場のように扱っている――そんな印象を拭えない。
イーロン・マスクを支持する人々は、彼の天才性に魅せられているのだろう。既存の常識を打ち破り、火星移住やハイパーループなど、大胆不敵な夢を語る。そのビジョンの壮大さは、多くの人の心を掴むだけのパワーを確かに持っている。だが私は、その華々しい夢の裏側を常に見てしまう。膨大な資金を動かし、何千何万という人々を働かせ、社会のルールを変えてしまうほどの権力を持っていながら、彼の言葉からは「共感」や「謙虚さ」が感じられない。むしろ「自分だけが正しい」という慢心が透けて見え、周囲を振り回すことで注目を集めているようにすら思う。
なぜここまで拒否反応が強いのか。それはひとえに、彼が持つ「影響力の大きさ」にある。誰かが極端な意見を言うこと自体は、表現の自由の範疇だろう。しかし、イーロン・マスクほどの知名度や資本力を伴う人間が放つ言葉は、社会全体を揺るがしかねない重みを持っている。ところが、その発言や行動に時として慎重さがまるで感じられないのだ。「自分はあくまで一般人としてツイートしている」というような言い訳をするが、何千万・何億というフォロワーがいる「一般人」など存在するはずもない。こうした言動を繰り返す彼に対して、憎しみすら覚えてしまうのは、私だけではないだろう。
また、彼のコミュニケーション・スタイルがしばしば相手を嘲笑するように感じられることも、嫌悪の理由だ。議論や批判に対して真摯に向き合うより、自分の正当性を訴え、批判者をからかったり攻撃したりする。そのような姿勢は、強いリーダーシップというよりは、単なる攻撃衝動に近いものではないかと思う。カリスマ性を持つトップがそのように振る舞えば、多くの人が追従し、さらに対立や分断が深まる構図が生まれるだろう。まるで、大きな声で威圧した者が勝つかのような、乱暴な言論空間を助長しているようにさえ感じる。
もちろん、メディアは過剰に彼を煽っている部分もあるかもしれない。私たちが知るイーロン・マスク像は、メディアとSNSを介して編集された一面だけだろう。しかし、そこから受け取れる情報だけでも十分に「過激」であることは間違いない。もし彼に穏やかで思いやり深い一面があったとしても、表に出るのは挑発的な発言や、予測不能な行動ばかり。まるで、彼は注目を浴びるために、あえて波風を立てているようにすら見える。そして、その姿勢こそが彼のカリスマを強化し、信奉者を増やす一方で、私のような反発を覚える人間を確実に増やしているのだ。
私はイーロン・マスクの実績をすべて否定するつもりはない。電気自動車市場の発展は、環境問題への意識を高め、産業構造を大きく変えるほどの影響力を持った。また、宇宙事業への参入によってスペース業界全体が活性化した面もあるだろう。だが、それらの「功績」がすべて肯定されるべきかというと、そうとは思えないのだ。なぜなら、そのプロセスや彼の姿勢に数多くの疑問や問題が散在しているからである。テスラの工場では社員への過重労働が報じられ、Twitter社の買収後には大量解雇が行われた。一方的なリストラは、社員だけでなく利用者の信頼も損ねる結果になったはずだ。
「革命児」と呼ばれる彼だが、そもそもその革命は誰のためのものなのか。人類全体の未来を切り開くために行動しているのか、それとも自己顕示と自己満足のためなのか。もちろん、野心や自己顕示欲が全否定されるわけではないし、彼のような強烈なビジョンに突き動かされてこそ社会が進歩する面もある。だが、そこに「協調」や「周囲への配慮」が欠けていれば、残るのは混沌と犠牲だけではないだろうか。彼の一連の言動を見ていると、より良い未来を本当に望んでいるのか、それとも周囲を振り回しながら称賛を得ることに酔いしれているのか、判断に迷ってしまう。
彼のメディア露出やSNSでの動向は常にセンセーショナルだ。発言のひとつひとつが見出しになり、多くの人が熱狂的に反応する。その状況がさらに彼の影響力を拡大し、支持者は彼を「現代の発明王」として崇拝する。だが、それは彼自身が意図して作り出しているイメージ戦略でもあるかもしれない。自動車からロケット、そしてSNS運営まで、多岐にわたる分野で「既存の常識を壊す男」としてのブランドを強烈に打ち出す。その裏には、おそらく綿密なマーケティングも働いているはずだ。
こうした「自己プロデュース」の巧みさもまた、私の嫌悪感をあおる。もし彼が本当に未来のためだけを思って行動しているのなら、わざわざ挑発的な言動を繰り返したり、周囲を見下すような態度を取ったりしないのではないか。むしろ、その尖った姿勢こそが注目を集める秘訣であり、巨額の利益を生み出すエンジンになっている――そう考えると、ますます彼への不信感が募るばかりである。
また、彼のビジネス戦略や資金調達の手法も、ときに「投機的」であるとして批判されてきた。彼のツイートひとつで暗号通貨の価格が乱高下する様子は、社会全体を巻き込む大博打のようにも見える。もちろん、投資家たちはリスクを承知のうえで参入しているのだろうが、そこに新たに巻き込まれる一般層もいるだろう。巨大な影響力を手にした人物が、その力をどこまで自制しているのか、外からは判断がつきにくい。彼がいかに「自由」を標榜したところで、そうしたパワーバランスの偏りは真の自由からはほど遠いのではないか。
イーロン・マスクが嫌いだ、と口にすると、彼を称賛する人々から「嫉妬」や「時代遅れの思考」と批判されることもある。しかし、それでも私は彼の一挙手一投足に警戒心を解くことができない。彼のような存在が絶対的支持を集める社会は、一種の危うさを孕んでいると感じるからだ。リーダーが強引に物事を推し進めることで、一見スピード感のある変革が進んでいるように見える。しかし、その過程で切り捨てられる価値観や人々の声を、私たちは本当に無視してよいのだろうか。
私が彼を憎む理由は、こうした「社会的影響」を踏まえてもなお、彼があまりにも自己中心的に感じられるからだと言えるかもしれない。自分のビジョンこそが絶対に正しいと信じ、批判する者には容赦なく噛みつき、さらには軽率な一言で世界中を混乱させる。そのカリスマが絶大だからこそ、多くの人が振り回されてしまう。それが彼の望む未来の形であれ、人々に「ついていかざるを得ない」状況を作り出すことこそが、彼の真の目論みなのではないか。そう疑ってしまうほど、彼の支配力は強力だ。
もちろん、この強烈な拒否感は私自身の問題でもある。彼のように型破りな人間を受け入れられない、自分の閉鎖的な思考が投影されているのかもしれない。あるいは、あれほど自由奔放にふるまいながら次々と成果を上げていく姿への嫉妬心や劣等感もあるのだろう。しかし、それでもなお、「イーロン・マスクが憎い」という感情は消えない。むしろ、その感情が湧き上がるほどに、彼の存在が大きいこと、そして社会全体に与えるインパクトが桁外れであることを痛感させられる。
だからこそ、私は敢えて彼を批判し続ける必要を感じている。イーロン・マスクのような人物を「天才」「革命児」として無条件に称賛する風潮は、危うい夢を見せると同時に、多くの問題を覆い隠してしまう可能性がある。私たちは、彼のような突出した才能を「絶対の存在」として祭り上げるのではなく、その言動の裏にある思惑や影響力の行使について常に疑問を持ち、検証し続けなければならない。彼がもたらす革新が本当に世界を良くしているのか、それとも特定の価値観や層だけが恩恵を受け、他の多くが犠牲を強いられているのか、冷静に見極める必要があるのだ。
最終的に、イーロン・マスクをどう評価するかは人それぞれだろう。彼の型破りな行動力こそが新しい地平を切り開く鍵になると信じる人もいれば、私のように憎しみや反発を覚える人もいる。しかし、多様な意見が存在することこそが社会を前進させる。この「憎しみ」の声すらも、一つの大切な批判的視点として意義があるのではないかと思う。彼の眩いばかりの成功とカリスマに目を奪われる一方で、その裏側で踏みにじられているかもしれない人々の声に耳を傾ける必要がある。そうでなければ、未来を創るという名のもとに、ただ独裁的な支配が生まれてしまうかもしれないのだから。
私は、イーロン・マスクの存在自体をすべて否定するわけではない。むしろ、彼ほどの影響力を持つ人間が、もう少し「他者に対する配慮」や「謙虚さ」を備えていれば、今よりももっと多くの人々から純粋に支持されるだろうに、と残念でならない。そして、この憎しみの感情は、そんな「あり得たかもしれない別の姿」への期待を裏切られ続けてきた結果なのだろう。私は彼の言葉を聞くたびに、ああ、また無責任な発言で誰かを傷つけているのではないか、と心配になる。その繰り返しが、私の中の反発心を強固なものにしているのだ。
イーロン・マスクが語る夢やヴィジョンは確かに魅力的だ。火星移住に胸を躍らせる人もいるだろうし、電気自動車によるクリーンな未来に希望を見いだす人もいるだろう。彼が巻き起こしているイノベーションは、間違いなく人類の歴史に残る大きな一歩でもある。だが、その過程で生まれる軋轢や混乱、そして彼自身の傲慢ともいえる態度を見過ごしてはいけない。そこには、私たちの社会が本来持つべき「相互理解」や「多様性の尊重」が欠けているように思えてならない。
だからこそ、「イーロン・マスクが憎い」という私の感情は、単なる個人の感情以上の意味を持つのだと信じたい。彼のように突出した存在が現れるとき、社会は否応なく揺さぶられ、さまざまな価値観の衝突が起こる。そのとき、無批判に称賛するだけでは、本質的な問題には気づけないかもしれない。むしろ、強い反発心を抱く人々の声にこそ、彼の手法や態度が孕む危うさが映し出されていると考えてもよいのではないか。
私たち一人ひとりが彼をどう捉えるかによって、社会の未来は微妙に変化する。もしイーロン・マスクが真に誰もが幸せになる未来を望んでいるのなら、批判や反発の声にも耳を傾け、何が問題とされているのかを真摯に考えてほしい。その一方で、私たちもまた、自分たちが彼に何を求めているのかを見直す必要があるのだろう。彼の冒険心に夢を見たいのか、それとも彼が作るかもしれない新たな秩序に身を委ねたいのか。そして、そうした未来像に抵抗を覚えるならば、なぜ覚えるのか。その理由を自分自身に問い続けることこそが、彼のような巨大な存在に対する「本当の対抗手段」になるはずだ。
私がイーロン・マスクに憎しみに近い感情を抱くのは、彼が象徴するものが、私たちの社会の抱える矛盾や欲望をはっきりと映し出しているからかもしれない。彼の波乱万丈の行動は、私たちの心の奥底にある「常識を超えたい」「歴史に名を残したい」という野心を代弁している。同時に、そのためには他者を踏みにじってもよいという暗黙の了解すら示唆している。私はそこに嫌悪感を覚えずにはいられない。より良い未来を見たいと思いつつ、その実現手段にどうしようもない違和感を覚える。この相反する感情が「憎しみ」という強い言葉となって表出しているのだ。
最終的に、イーロン・マスクを憎むかどうかは個人の価値観によるだろう。彼を救世主のように思う人もいれば、私のように嫌悪感を募らせる人もいる。ただ、どちらの感情も社会にとっては大切な警鐘であり、そこから生まれる議論や検証こそが真の進歩へと繋がっていくのではないかと思う。彼が生み出す革新の光と影を直視し、その功罪を冷静に評価する。それこそが、私たちが「イーロン・マスク」という巨大な存在と向き合うために欠かせない姿勢ではないだろうか。私が「イーロン・マスクが憎い」と感じるのは、きっと彼が放つまばゆい光の強さに目が焼かれ、影に潜む危険を見逃せないからなのである。彼は目を背けられないほどの影響力を持っているがゆえに、私たちに葛藤を強いる。だからこそ、その存在について問い続けることが、社会の未来にとっても重要なのだろう。
「漫画家イエナガの複雑社会を超定義」の「量子コンピューター」の回がこの後1:20からNHK総合で再放送するようなので、本放送を見たときの自分の感想を改めてここにまとめる。
一般のメディアにおける「量子コンピューター」の取り上げ方はいつも、専門知識を持っている人間から見たらとんでもない誇張と飛躍で充ちている。もはやSTAP細胞詐欺か何かに近い危険性を感じるので、こういう話に接する時の注意点、「ここを省略していることに気づくべき」要点を解説する。
メディアにおける「量子コンピューター」の説明は、大体いつもストーリーが似通っている。
件の軽い調子の番組だけでなく、ニュートンだろうと日経サイエンスだろうと、まあおおよそ複素関数論の「ふ」の字も紙面に出したら読者がついてこれなくなる程度のメディアではほとんど同じ構成である。
これはこの20年ほど変わらない一種のパターンになっているが、実はこのそれなりに繋がっているように見える一行一行の行間すべてに論理的な問題を孕んでいる。
この行間に実は存在する論理の省略、あるいは嘘と言っても良い誤摩化しをひとつひとつ指摘していこうと思う。
量子ビットには重ね合わせの状態が保持できる。これに対して計算処理をすれば、重ね合わせたすべての状態に並列に計算を実行できる。ように見える。
しかし、これも一般的に聞いたことがあるはずなので思い出して欲しいが、「量子力学の重ね合わせの状態は、『観測』により収束する」。
つまりどういうことか? 量子ビットに対する処理が並列に実行出来たとしても、量子コンピュータの出力はそれをすべて利用できるわけではない。
量子コンピュータの出力とは、量子ビットに対する並列処理の結果の、確率的な観測に過ぎない。
なので、手法的な話をすれば、量子アルゴリズムとはこの「確率(確率振幅という量子状態のパラメータ)」を操作して、望む入力に対する結果が観測されやすくする、というちょっとひとひねりした考え方のものになる。
単に並列処理ができるから凄いんだという説明は、増田自身一般向けの説明に何度も繰り返したことがあるが、まあ基本的には素人相手の誤摩化しである。
ここさえ踏まえれば、知識がなくともある程度論理的にものを考えられる人には、量子コンピュータに対する色々な期待も「そう簡単な話ではない」となんとなく感じられると思う。
量子コンピュータのキラーアプリとされている暗号解読は「ショアのアルゴリズム」という非常に巧妙な計算を通して得られる。
上で説明したように、量子コンピュータは単に「並列計算だから」なんでも高速な処理ができる訳ではない。暗号解読については、この「ショアのアルゴリズム」という自明でない計算手法(高速フーリエ変換の応用)が見つかってしまったからこそ問題になっているのであって、このアルゴリズムの実行が出来なければ暗号解読ができるとは言えない。
さてここからは量子力学というより計算機科学の話になるが、あるチューリングマシン上のアルゴリズムが別の計算モデルで実行可能かどうかは、その計算モデルがチューリング完全であるかどうかによるというのはプログラマには常識である。
これは量子コンピュータにおいても変わらない。量子コンピュータの一般に知られる多くのアルゴリズムはドイチュの量子チューリングマシンを前提に作られており、チューリング完全でないアーキテクチャでは実行できない。できるはずがない。ショアのアルゴリズムも当然そうだ。
しかしながら、この20年弱、D-Wave社が最初の「自称・量子コンピュータ」を開発したと発表して以来、さまざまな企業が「開発に成功した」と発表した「量子コンピューター」の中で、このチューリング完全なものは何一つ存在しない。
これらでは、今後どれだけ「性能」が伸びようとも、暗号解読の役には立たないのである。
以上の議論から総合すればわかると思うが、量子コンピュータで世界が一変するなんてヴィジョンははっきり言ってSF以下のファンタジーというレベルでしかない。
第一に、量子コンピュータの利用できるドメインは非常に限られたものであるし、第二に、その中の最も宣伝されているものである暗号解読の可能な量子チューリングマシンの開発の目処などまったく立っていない。どころか、業界のほとんど誰も挑戦することすら本気では考えていない。
現状の「自称・量子コンピュータ」(量子情報システム、とでも言おうか)にも利用の可能性はある。何より量子状態そのものが作れるので、物理学や化学領域の量子システムをシミュレーションするのに適しているのは言うまでもないだろう。しかし、まあ、現状あり得る比較的現実味のある用途というのは、それくらいではないか。
このように、メディアが量子コンピュータについて語るとき、そこには非常に多くの誤摩化しや飛躍が含まれる。これは結構業界の根幹に関わる問題なのではと思うが、時間が来たので総括は後述にでもすることにする。
何か質問があればどうぞ。
『聖剣伝説 ヴィジョンズ オブ マナ』発売日発表トレーラーが6月12日19:45よりYouTubeにてプレミア公開 | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com
『聖剣伝説 VISIONS of MANA』は、約17 年の時を経て王道ファンタジーRPG として原点回帰した、「聖剣伝説」シリーズ完全新作です。
自然や精霊とのつながりを感じられる世界観、豊かな色彩と温かみのあるグラフィックなどは本作でも健在!
「豊かな色彩」はわかるけど「温かみのあるグラフィック」はわからん。
https://www.nintendo.co.jp/clvs/img/soft/seiken.jpg
色が濃くて、荘厳で、重く、冷たい空気すら感じるじゃん。
https://www.suruga-ya.jp/pics_light/boxart_a/978108732_2.jpg?v=ddb8e3fae57fd56cac23
キャラデザも、頭身が高くてかっこよくてさ、ビビッドだけど暗めで、はっきりしてて。
LoMでちょっとメルヘンな感じになって「変わったな」と思って、
聖剣4でなんか一気に明度が高くなって「安っぽくなった」と感じて。
俺は個人的にはね、邦キチは映画をサゲないのが良いと思う派なわけよ。
名作も迷作も世の中がそう勝手に言っているだけと言わんばかりの強烈な邦キチの熱量に部長が適宜突っ込むという作劇が絶妙なバランスで映画自体を貶さないで済んでいると思うわけよ。
あと、あんな清潔感のある同衾への動線ある?押し入れから枕だけ取り出してswitchと一緒にやってくるみたいな。乾いているわけではなくしっとりもしていない青春の空気感俺もう怖いよ。
なんだっけ (( 閑話休題 ))、そうそうXで燃えるほどでもなく話題になってたインベスターZ(インベ)の話ね。良い宣伝だよね。WinWinだよね。
いま公式のポストで該当回読めるから読むと良い経験になると思うんだけど、これ流れがすごい怖いんだよね。
まず、ラーメンおごってもらえると思って部活の先輩についていったら、観ろって言われて「感動作、大ヒット」ってポスターに書いてある映画を"見たくもない"って自分で言っておいて、自分で金払って観始めるんだよね。
もうここが怖い。ナチュラルにその集団の中の指示に従うという刷り込みが終わってる。見ないとラーメンおごってやらないぞって言うエクスキューズ(言い訳)も準備してある。
怖い怖い。映画観る金でラーメン自分で食えよ。もうその集団の中のイベントに参加するためには身銭を切る必要があるって意識に上ることすら無くなってる。
で、まあ映画を観始めてクッソつまんねぇなあって思うこと自体はアリだと思うわけよ。ここを否定する映画好きはまずいないと思う。
ただ、インベ作中の主人公が「客をバカにしているとしか思えない!」みたいな感想に、あれ?みたいな違和感を感じると思うのよ。
で、映画館で席を立ってしまう。まあこれも個人的にはアリだと思う。トイレで席立つ人を想像しなくても、まあ、割と映画祭とかでエログロの時って席を立つ人、いるよね。
俺個人としてはXでの風潮とは別で、観たくもない映像を押し付けられたときに見ないという選択肢を取るのは決して映画嫌いを意味しないと思ってる。
映画って体験として強烈だから、トラウマが刺激されるとか全然あると思う。
感情を揺さぶる力が映画にはあると思っているし、だからこそエンタテインメントとしてこの感情の揺さぶられ方は嫌だと言って拒否するのはアリだと思ってる。
だから、安心してほしい。少なくとも俺は映画の途中で観るのを止める人が映画好きを公言してても別に普通のことだと思う。
ただなあ、インベの席の立ち方って「こんなもの最後まで観たらバカになる!」とか言って席を立つんだよね。
そのあと、実は何分で途中で出てくるかが、その集団(投資部)恒例の賭け事の対象ってのは、まあそういう部活の謎の伝統あるよね、みたいなのは判る。
ただね、その後たぶん、ん?って思うセリフがちょくちょく作中の人物から語られるのよね。
この賭け事の伝統っていつからやってるんスか?あー、映画が大衆化した戦後のことだろう、とか。
(5分でツマラナイってわかるヤツがレコードタイム18分っていうのが、微妙にリアルでちょっと面白いけど。宣伝10分+本編5分+退出3分だとありそう)
まあ、時間の無駄だと思った後、惰性でみるこた無いんでは?ってのは、その通りだと思うわけよ。
いやー、映画は最後にどんでん返しがあるかもよ?という意見があるのはわかるけどさ、ソレ、ホントに有言実行してる?とも思うのよ。
あー、一本の映画だとあるかもしれないけどさ、アイアンマン観てこういうアクションものは肌に合わないかなーと思ったとしてさ、いや経験になるしそこは映画好きならマーベルシネマティックユニバースは全部観てから語るべきでしょ、とホントになってるかなーと。
今期1話で切ろうと思ったアニメはちゃんと完走してから1話を語るようにしてますか?という。
もちろんね、エンドレスなエンドレスエイトを実況板に張り付きながら見た経験は一生の思い出にはなっているけどさ、それを強要できるかな、という。
そうそう、で、インベの話ね。
投資部に入るものはさっさと席を立たなければならない、というあたりが、カルトっぽいのよ。
選択肢の錯覚に近いんだけど、ここまでで既にインベの世界観に共感する読者には刷り込みが終わってるわけよ。
大ヒットするような感動作は、観るとバカになるような映画だ、大衆化した映画なんてものは、投資家が観るようなものでは無いっていうね。
ソコを前提としたうえで、つまらないものをつまらないと思いながら最後まで観ることを何の価値もないと断ずる。
もしかしたら最後に面白くなるかも、とか、挽回する可能性は低い、ではなく、ハッキリ言いきる。
株価の話で損切りの話もしたうえで、金よりも時間が大事と気づいたお前はテストをパスしたと言う。
作劇としても大変に巧みで、「いやいやそうは言っても最後の最後に面白くなるかも」という反論を「それっていずれ株が上がるかもと思って塩漬けしてるのと同じじゃん」と"自分で"気が付けるようにしてある。
インベの主人公も、自分で気づいたという点を評価してもらっている。
インベの主人公は、なんだかんだと言いながら、全て自分で行動している。
自分のお金で映画のチケットを買い、自分で映画を観て、自分で映画を途中で観るのを止め、その行為を「お金より時間が大事とオマエが気が付いた」と評価される。
誘導はされているけれども強要はされず、解説はされているけれども自分で気が付いたことにされており、不満点は相手が聞いたうえで断定的に回答する(「過去は忘れる」)。
ホモソーシャルな部活動の体だからそこまで違和感はないけれども、これ、同様の体験を大学入学時に魅力的な先輩からなされたときに、それってカルトではって気が付けるか俺には自信は無い。
しかもよ、背景にはうっすらと自分は凡人とは違うっていうエリート意識というか、投資家意識みたいなものがあるわけよ。
ラーメン屋に誘うというフレンドリーな関係性、映画館で途中で席を立つという"他人とは違う"体験、損切りという部内で通じる単語を通じてグループ内の価値観を共有していく。
しかもこれ、漫画としても同じ構成になっていて、漫画というなじみのある媒体で、大衆の感動するような映画には流されない俺というちょっとしたアルアルを追体験させて、損切りという価値観を共有している。
ココに対して、「いやーその価値観はこれこれこういう理由で狭量だよ」と伝えても、おおむね反発を受けるか、わかってないヤツ扱いされると思う。
しかも大変に良くできた作劇なので、漫画を読んでなるほどと納得した人は、映画を最後まで観る派に対しては「ああ、こいつは損切り出来ない投資家に向いてないヤツなんだな」と思わせるようになっている。
俺はカルトの脱退のさせ方は詳しくないのであんまり的確なことは言えないんだけど、あの漫画に納得する人を否定したり馬鹿にしたりするだけでは、少なくとも価値観を変えることはできないだろうな、と思う。
そして、インベスターZという漫画の作劇は、少なくともあの映画の損切りの回は、とても怖いと思った。
実は同じくらい、今回の件で映画を最後までみる経験派も"危うい"と俺は思っている。すごく配慮したコメントしている人もいる一方、そうでない人もいるから。
映画は数あるエンタテインメントのうち一つでしか無いので、それを重視しない人生もまた、俺は尊重したいと思う。
サタンタンゴを観た人類しか得られない経験は間違いなくあるけど、それを貴重な経験だよって誘う勇気は俺には無いから。
あと、最後まで観る強硬派は、MCUのエンドゲーム以降の観る順番を教えて下さい。ワンダヴィジョンくらいからついていけてないです。お願いします。
いろんな大物アーチストのいちばん脂っこい時期を教えてほしいです。
長く活動している大物アーチストにも、全盛期、ってありますよね。
ヒット曲を連発して、そのアーチストのスタイルやイメージが確立された時期ってあると思うんです。
後期はメンバー交代があったり、飽きて変なことを始めたり、落ち目のテコ入れが裏目に出てたり。
そういうイマイチな時期のアルバムを最初に手にとってしまうと、「なんかピンと来ないなあ」ってなっちゃって色々不幸だと思うんです。
そこで、いろんな大物アーチストの「このへんを聴いとけばまず大丈夫」といういちばん脂っこい時期を教えてほしいです。
私の考える脂っこいところを何例か。
たとえばスティーヴィー・ワンダーならこのあたり。
リトルスティーヴィー時代にも名曲は多いけど、やはり脂っこいのはセルフプロデュースでモリモリ曲を作っていた時期。より絞るなら太字のアルバム。
たとえばレッド・ツェッペリンならこのあたり。
もちろんZEPらしさは1stアルバムから全開なのだけれど、脂っこさで絞り込むのならばこの時期。
三木谷さんも銀行や証券を買って当てたので傲慢になって、携帯など始めたのでしょう。
最初からキャリアと組んで進めれば、今頃3兆円とかの時価総額もあったでしょう、、。
孫さんもアリババで当てたもんだから自分は未来がわかるって、投機家癖がついちゃって、SBヴィジョンファンドなんて期間限定の借金で始めてしまって、、。
バフェット見ればわかりますが、時々キャッシュと債権のポジション増やしたと言いながらポートフォリオからするとごく一部なんです。
成長市場に長く居続ける、、ここです。
アームなんて、携帯のCPU屋さん、、誰が仕掛けたのか知りませんが、あんなに無理なPERついてしまって、私なら絶対に買いませんよ。
孫さんの動画でAIがすごいとか言ってましたが、、間違ってます。
例えば、インターネットがすごいのではなくてガーファムの経営者(人間)がすごいんですよ、AIは単なる道具です。
神をちょっとだけ真似て人ができる思いやりや愛情を虚空からクリエートすることは機械にはできない。
SBGも元々パソコンソフトの卸から始まったので何かを忙しなく仕入れて売る、、原始成功体験が抜けないんでしょう。
OYOジャパンとか、どれだけ日本のホテルオーナーに迷惑をかけたか。
ウイーワークの裸足の前経営者とか、、どう見ても奇人でしょ、、。
最近観たドラマで一番面白かったのはDisney+のムービングという韓国ドラマ。
高校生、さわやか、恋愛、超常現象、陰謀と自分が好きな要素がたくさんあったのとハッピーエンドなのが最高だった。
他にもDisney+だと6話くらいで完結するマーベルのドラマ版も大体面白く観れている。
観た作品はワンダヴィジョン、ファルコン&ウィンター・ソルジャー、ロキ1,2、ホークアイ、ムーンナイト、ミズ・マーベル、シークレット・インベージョン、エコー。
他にもNetflixだとコブラ会やストレンジャー・シングスが面白かった。
逆に苦手で途中で諦めたのはゲーム・オブ・スローンズ、ブレイキングバッド、ガンニバルなどの陰湿な人間関係・理不尽な暴力、性暴力、いじめ・暗いストーリーの作品。
上記でマーベルドラマのことを書いたけど元はNetflixで展開していたマーベルは別で、デアデビルはギリ観れたのだけどジェシカジョーンズは途中でやめてしまった。
そんな自分におすすめのドラマが思いつく方がいたら教えてください。契約しているのはDisney+とU-Next。
Netflixは今解約しているけど観たくなったら再契約します。
普通の現代劇、たとえば恋愛ドラマのようなものよりも少年漫画みたいなちょっと世界観がトンデモなのが好きみたい。
「少年漫画ならアニメ見ればいいだろ」という意見が出そうだけど、アニメは前から結構観ていて今は食傷気味になってしまったのであくまでドラマでお願いします。
育児能力は「性差なし」 子育ての留意点で指針案―こども家庭庁
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023111300881
このニュースがヤフーなどで紹介されていてちょっと気になった。
性差なしの原文はどこにあるのだろうか。
検索してもなかなか見つからなかったので日付を頼りに検索してみた。
こども家庭庁には幼児期までのこどもの育ち部会というものがあるそうで第9回の資料に記載があるようだ。
日時が令和5年11月13日(月)なので時期も一致する。
https://www.cfa.go.jp/councils/shingikai/kodomo_sodachi/wh8d5DQ3/
その中の「資料2―2:「幼児期までのこどもの育ちに係る基本的なヴィジョン(仮称)」(答申案)概要(溶け込み版)(PDF/777KB)」を見てほしい。
4保護者・養育者のウェルビーイングと成長の支援・応援をするの部分。
✓男女ともに保護者・養育者が共育ち
と記載されている。
こども家庭庁もこの考えが正しいと考えたから記載しているのだろうがこの大きさを見るとこども家庭庁はそこまで重視していないのかもしれない。
しかしジェンダー平等を重視しているのは政府である。ジェンダー平等が進むと父親の育児も女性の社会進出も進むはずである。
そう考えると控えめな記述は謎ですらある。
想像になるが、こども家庭庁にとっては「性差があろうがなかろうが父親も母親も育児をすべきであることには変わりがない。
だから育児能力に男女差があるかどうかは些細な事。どうせ言い訳にならないのだから」と思ったのだろうか?
逆に時事通信はこの記述が大事な一歩であると考えニュースの見出しにしたのではないだろうか??
「最後にして最初の人類」は現代の人類から数えて第18番目の人類の進化を描写する奇書で、巨大な脳みそだけの存在になったり、知性を退化させてトドかアザラシみたいになってしまったりと、何億年にも及ぶ人類の歴史が豊かな空想力で描かれる。プロットとキャラクターは極めて希薄で、現代の作家がこんな作品を書いて売れることは考えにくいのだけれど(ほぼ設定資料に近いかも)、個人的にはお気に入りと言うか性癖に近い魅力を感じる。
「スターメイカー」はそれをさらに発展させたもので、時間と空間を越えて精神が銀河を飛び回り、エキセントリックなエイリアンの生態の設定を惜しげもなく披露しつつ、それが銀河の歴史にどのような影響を与えたかを語る。そして、この宇宙を創造した存在の意図を探求する旅をする。光速の限界があるため、その旅やエイリアン同士の交流はテレパシーで行われるという設定はSFとしては苦しいが、宇宙創造の目的たる究極の歓喜の瞬間を目指すヴィジョンは美しい。残念ながら、その瞬間までには人類はとっくに滅亡していることが示唆されるんだけどね。冷えて寿命を迎えつつある宇宙で必死に命をつなごうとする生命の描写は壮絶。
「アッチェレランド」は指数関数的に発展するAIを10年ごとに描いた小説で、タイトル通り加速のスピードがとんでもない。最初の21世紀は現実世界と地続きなんだけど、21世紀半ばには進歩しすぎたAIが地球を解体してダイソン球を作り始め、その過程で地球のすべての化石だとか地質だとかをアーカイブ化しはじめる。人類は暴走するAIを止められなくて太陽系の辺境に追いやられていく。その途中でエイリアンともコンタクトを取る。
これはとある一族の三代にわたる因縁話でもある。最初の世代では夫がAI・特異点信奉主義者でコピーレフト大賛成、妻がガチガチの保守主義で著作権とかに厳しく、しかもSMプレイの女王様だ。2代目は妻が夫を無理やり犯すことで妊娠した子どもだという、ドロドロの設定。
「皆勤の徒」は遠い未来の地球で、地球外生命体に奴隷として使役されるコピー人間の苦悩を描いている。この短篇集は優れた言語感覚、日本語の漢字表記とルビの可能性を拡張した造語であふれており(というか酉島伝法の作品はだいたいそう)、異文化に触れたときの驚きや、似ているけれども少し違う文化に対する戸惑いが感じられる。ただし、かなり読解に力を要するので、場合によってはネタバレ覚悟で世界観を通常のSFの用語で説明した巻末の大森望の解説を先に読んでもいいのかもしれない。
「宿借りの星」はとある惑星で地球人類との宇宙戦争に勝利した昆虫型生命の弥次喜多道中記で、舞台や固有名詞こそ異質だがストーリーそのものは非常に読みやすくなっている。まったく異質なものを作り出すことにかけてはこの作家は他の追随を許していない。そして、滅ぼしたはずの人類がどこかに生き残っているのでは? という疑惑から物語は不穏になっていく。
天文部だった主人公が宇宙に出ていくという意味でもすごく夢がある。
まずは前述したH・G・ウエルズの「タイム・マシン」の遺族公認続編「タイム・シップ」が面白い。前作で行方不明になってしまったヒロインを救うために、再び未来に旅立ったはずが、なぜか前回とは似ても似つかない未来にたどり着いてしまう。
時間旅行のたびに歴史改編がなされ、パラレルワールドが生成されてしまうとしたら、主人公はどうやってヒロインと再会するのか? いっそ歴史を改変してしまってもいいのか? さまざまなジレンマに悩まされる冒険小説だ。
また、この著者は「時間的無限大」という作品も書いている。これは宇宙最強の種族ジーリーを扱った「ジーリークロニクル」の一編だ。作中世界では、人類はクワックスというエイリアンの支配を受けており、それに対抗する手段を知っているという「ウィグナーの友人」という、とある思考実験にちなんだ名前を持つ謎の団体が暗躍する。主人公は父親との(正確にはその再現人格との)屈折した関係に悩んでいる。作中に出てくるタイムマシンは、少なくとも現代の物理学とは矛盾しないらしい。ちょうど90年代の「ニュートン」で紹介されていた。
で、確かこの作品だったと思うんだけれど、人類もクワックスもジーリーという宇宙最古・最強の種族のテクノロジーのおこぼれで生活してるんだけど、そのジーリーでさえ恐れている存在がいる……というのがこのシリーズの基本設定。
なお、同一世界観の短編集が「プランク・ゼロ」「真空ダイヤグラム」にまとめられていることを最近知った。それに、長編も結構邦訳がある。未読だけど気になる。
短編集「ウロボロスの波動」は高校生時代に読んですごく好きだった。実際にかなりありそうな宇宙探査が描かれていたからだ。太陽系に侵入してきた小型ブラックホールを捕獲して天王星を周回する軌道に乗せるという設定と、作中の謎解きがすごく魅力的だった。
ただ、なぜかそれ以降の「ストリンガーの沈黙」「ファントマは哭く」が読めなかった。キャラクターの会話や背景となる政治の設定がかなり説明的で、ぎこちなく感じられたからだ。読むのに気合がいる本は、持っていてもあえて図書館で借りることで、期限を決めるという強硬策があるが、まだ試していない。
「オーラリーメイカー」「法治の獣」。とにかく事前情報なしで読んでほしい。日本のファーストコンタクトものの第一線に立っている。とにかく奇抜なエイリアンが出てくるし、どうやら知的生命体の連合らしきものが確立されていく歴史の一部らしいのだが、この「オーラリーメイカー」という宇宙人の種族の作り上げたシステムは、素晴らしく絵になる。
おなじみクトゥルフ神話の創始者の一人。前にも書いたけど、ラブクラフトの作品は知識欲に負けて禁断の知識に触れて発狂するか未知の存在に拉致されるかするオチばっかりなんだけれど、人類は宇宙の中では取るに足りない存在なんだという絶望感が僕は好き。
SFを紹介するのが趣旨なのでエイリアン(地球外の神々や人類以前の種族)の歴史の壮大さを感じさせてくれるのをピックアップすると、南極探検で発見した人類以前の知的種族を扱う「狂気の山脈にて」や、異種族の図書館に幽閉される「時間からの影」だ。侵略ものとしては「宇宙からの色」かな。ニコラス・ケイジがこれを原作した映画で主演を務めていたはず。
ダンセイニ風のファンタジー作品も好きだ。読みやすいとは言えないが、ラブクラフト全集を読んでほしい。というかアザトースの設定が好きすぎる。元ネタのマアナ・ユウド・スウシャイそのままだとしてもね。
「ブラインドサイト」についてはこちらに書いたので、「6600万年の革命」について。巨大小惑星の中で暮らす人類と、それを管理するAIの物語だ。彼らは銀河系にワームホールのネットワークを作る旅路に出ているのだが、もはや地球の文明が存続しているかどうかも定かではない。すでに正気を失いそうな時間が経過しているが、使命をひたすらこなしている。
管理AIは人間の知能を越えないようにギリギリ調整を受けている。そのことから「チンプ」つまりチンパンジーとあだ名がつけられている。とはいえ、地球時間で6600万年が経過していると、「もしかしてシンギュラリティ迎えたんじゃない?」みたいな出来事があり、人間がAIに対してレジスタンスというか隠蔽工作をする。バイタルを始め何から何まで知られている人類は、AIに対して何ができる?
アシモフの例えば「銀河帝国の興亡」なんかはシリーズが進むと「鋼鉄都市」や「はだかの太陽」などの「ロボットシリーズ」とクロスオーバーして行って、確かにアシモフが発表順に読んだほうがわかりやすくなるんだけど、さすがに全部読む前提で書くのはちょっとしんどかった。個人的にはアシモフは「黒後家蜘蛛の会」というおっさん萌えの短編ミステリがおすすめ。英米の文学や地理に関する雑学が無いとわからないところもあるけど、口の悪い仲良しなおっさんの同士のじゃれあいを読んでなごんでください。
堀晃の「太陽系から3光日の距離に発見された、銀河面を垂直に貫く直径1200キロ、全長5380光年に及ぶレーザー光束」が出てくる「バビロニア・ウェーブ」はハードだなって思ったんだけど、どういう話か思い出せなかったので省いた。まずは「太陽風交点」かな?
あと、SFじゃないんだけど「マン・アフター・マン」あたりも未読だったのでリストに入れなかった。人類のグロテスクな進化という意味では、上記条件は満たしていたと思う。「フューチャー・イズ・ワイルド」は読んだ。
ダン・シモンズの「ハイペリオン」四部作はSF全部乗せだし、AIの反乱だとか人類が進化した宇宙の蛮族だとか愛が宇宙を救うとかとにかく壮大なんだけど、とある場所で増田では評判の悪い(?)「夏への扉」以上に男性主人公に都合のいい描写があるのが欠点。あと、それ以外の作品はもっと男性に都合がよくなっていて、保守的な僕もちょっと「おや?」って感じた。でも、「三体」にどっぷりハマった人だったら好きになると思う。「三体」よりも前の90年代SFだから時代背景を知ったうえで、加点法で楽しんでください。
あと、全然エイリアン・宇宙SFじゃないんだけど、今注目しているのは空木春宵で、この人は東京創元社の年間傑作選やGenesisですごくいい作品を描いてる。どれもいいんだけど、たとえば「地獄を縫い取る」は「アリスとの決別」や「allo, toi, toi」に並ぶロリコン・ペドフィリアを扱った名作に並ぶ。
エイリアンSFも出てくるけど、「世界の中心で愛を叫んだけもの」「ヒトラーの描いた薔薇」のハーラン・エリスンは人種差別を扱った作品も書いていて、これもいい。穏健派の黒人男性がテロリストに転身してしまう作品はつらい。とかくエリスンの絶望と怒りは若い人に読んでもらいたい。
自分が一番SFを読んでいた時期は、今と比べて女性作家が推されるずっと少なかったし、さらに自分は古典を好んで読んでいた。アジアの作家が紹介される機会も少なく、そういう意味では感受性のみずみずしい今の若い読者がうらやましい。
後は、女性作家で今回のテーマである宇宙を扱った作品は男性よりも少ない気がするのだが、よく考えてみればル・グインの「ハイニッシュ・ユニバース」があるし、ティプトリー・ジニアも「たった一つの冴えたやり方」で始まるシリーズがある。スペースオペラでは「叛逆航路」のアン・レッキーもいることだし、単純に探し方が悪いのかもしれない。
最近短編ばっかりで腰を据えて長編を読んでないな。銀河系で忌み嫌われた人類の唯一の生き残りが活躍する「最終人類」とか、面白そうなのがいっぱいあるので、そのうち読みたい。
というか、僕の選んだ作品の他にもっといい作品を知っている、勧めたいという方は、どんどんトラバやブクマで追記していってほしい。
気が向いたらまたなんか書きたいな。まだおすすめしたいSFもあるし、池澤夏樹の世界文学全集を9割読んだのでその感想も書きたいし、かなり疲れるから数ヶ月後にはなるだろうけど。
【翌朝追記あり】劉慈欣「三体」の好きなところと微妙なところについて
はみ出たのでこちらに。
ここに欠けているのは、人類の進化についての真の理解である。第3章で、G&Wは、人類学の主流派のコンセンサスとされる、現存するアフリカの狩猟採集民-「小さな移動集団」で生活する素朴な民-に私たちの採食祖先をなぞらえたことを批判している。そして第4章で、彼らは考えを変える。人類学の主流派のコンセンサスとは、オーストラリアのアボリジニのような狩猟採集民のことである:
大陸を半周し、まったく異なる言語を話す人々の間を移動しても、キャンプは自国と同じようなトーテムの部族に分かれている。このことが意味するのは、住民の半分は彼らに歓待の義務を負いながらも「兄弟」「姉妹」として扱わなければならず(そのため性的関係は厳禁だった)、もう半分は潜在的な敵であると同時に結婚相手でもあったということだ。
ルイス・ヘンリー・モーガン(1877年)は、いわゆる「分類的」親族関係の発見に基づいて、私たちの学問分野を創設した。その原理は「兄弟の同等性」として要約できる。たとえば2人の兄弟は、その関係性に関して互いに相手の立場に立つ。ある女性は妹に、『あなたの子どもは私のもの、私の子どもはあなたのもの』と言うでしょう。だから、子供に関して『私有財産』という概念はない。家族生活は『核家族』ではない。すべての子どもは、数多くの異なる「母親」や他の支援者である親族の間を自由に行き来することができ、大人になるまでそのような自由を享受し続ける。
人生がこのように構成されるとき、その結果は並外れたものとなる。誰もが、広大な地域に広がるつながりの鎖の中で、形式的には互いに同等に扱われる「兄弟」や「姉妹」からのもてなしを期待できる。この結果のひとつは、国家が成長する土壌を持たないということだ。人々が自主的に組織化され、互いに同盟を結び、育児やセックス、ダンス、家庭生活の喜びがより共同的に経験されるようになれば、国家が入り込んで埋めるべきデッドスペース、つまり社会的空白はなくなる。国家に取って代わることなく国家を廃止することはできず、共同体的な家族生活(今日の世界では、自己組織化された近隣地域やその他のより広いコミュニティ)は、そのためのひとつの方法なのである。
不思議なことに、グレーバーとウェングローはその長い著書の中で、親族関係についてほとんど何も語っていない。グレーバーとウェングローは、モルガン=エンゲルスのパラダイムを批判する代わりに、『家族、私有財産、国家の起源』(エンゲルス1972[1884])におけるエンゲルスのヴィジョンをひっくり返している。彼らの言う「はじめにあったもの」は、私有財産、宗教、そして国家である。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの観念と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。マーシャル・サーリンズとの共著『王について』(2017年)では、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたのだから、国家の原理は人間の条件の不動の特徴であるとさえグレバーは示唆している。
アナーキストが私有財産と国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、『万物の黎明』はそのメッセージに重みを加えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。個人的には、すでに燃え尽きようとしている惑星に、どのような「飛び地」があるのか想像するのは難しい。グレーバーとウェングローは、「もうひとつの世界は可能だ」という革命的スローガンを放棄したようだ。代わりに彼らが提示するのは、「階層と平等は、互いに補完しあうものとして、ともに出現する傾向がある」という悲痛なメッセージだけである(p.208)。(p.208)彼らは、どこか別の場所で抑圧を受け入れなければ、ある場所で自由を手に入れることはできないと言っているようだ。
このような批判はあるが、本書の重要な点は、振動を提唱していることである。すべての生物には脈動がある。生きては死に、目覚め、眠り、息を吸っては吐き、季節の移り変わりや、私たちの生命に優しい地球・太陽・月の軌道系のその他多くの周期性によって動かされているのだ。
私たちは、物理的にだけでなく、社会的にも政治的にも、惑星地球をもう一度回転させる必要がある。これは、人々に配慮と支配や統制を混同するなと言うことでできることではない。それは、学校のストライキを支援し、そのピケラインで歌い、職場まで行動を広げ、通りで踊り、交通を遮断し、資本主義を完全に停止させることによってなされるのだ。
しかし、いったん主導権を握ったら、次はどうするのか?ストライキが長引けば、すぐに飢餓に陥る。だから、揺り動かそう。例えば、週1回の学校ストライキをもっと長くし、月に1回実施し、賃金奴隷から全人類を解放するまで世界中に広げよう。炭素排出量は即座に50%削減される。それから仕事に戻り、必要に応じて再編成する。資本主義に逆戻りしないと確信できて初めて、仕事に戻るリスクを冒すことができる。そして、次の新月には子どもたちとともにピケラインに戻ると誓い合って初めて、それを確信できるのだ。世界が再び揺れ動き、息を吹き返すまで、私たちは権力を奪い、それを放棄し続けるのだ。未来を取り戻そう。家父長制でも母系制でもなく、月による支配のようなものを。
それは、最初の人類革命の階級とジェンダーの力学を、今度はより高い次元で繰り返すことだ。このようなことは可能なのだろうか?みんなに議論を開いて、何ができるか見てみよう。それはきっと、活動家であり人類学者であるデイヴィッド・グレーバーが望んだことだろう。
言語哲学大全という本を何度も読み返してる。
1巻だけなら多分2回くらいは通して読んだことがあるかもしれないが、
まえがきなんか20回は読んでいるが、それでもよくわからなかった。
だが今回、ようやく前書き部分が何を言おうとしているのかがなんとなくわかったので記録しておく。
これで、ようやく前書き部分は読み飛ばせるようになれたらいいなあ。
---
1.ヴィジョンと論証
---
2.哲学的問題の難しさの特徴と、その論証の検証手段、そして検証手段(論理学)に対する誤解と、検証手段そのものが(哲学の)部分的解決であること。
3.哲学的問題の"進歩"の現状、進歩を阻む理由の二つと、それらの解決の糸口として、言語に対する基本的洞察が重要であること。
4.哲学的問題解決の営みとしての歴史研究をどうとらえるか、そしてある分野においてはごく近い過去に限られること、そして未解決であるがゆえに遠い過去の論証を研究しないといけない事態においても言語的分析的道具が重要であること。
5.現代的哲学観が、"思考"についての理解をどのように変革させ、そして言語哲学がどのように重要な分野へと変化したか。
そして、(12p18行目から)
言語哲学とは何か。言語哲学の特徴。そして言語哲学の基礎的仕事をなしたフレーゲとラッセルについて。
---
まず、哲学観の話をして、「分析哲学」が論証に重きをおき、ヴィジョン的観点を重要視していない点を強調する。
5の後半部分(12p18行目以降)で、ようやく言語哲学の特徴と、この巻で論じるフレーゲとラッセルについて簡単に紹介する、
という話。
- ep1: ttps://www.nicovideo.jp/watch/sm39046153
- ep2: ttp://web.archive.org/web/20230201014934/https://www.nicovideo.jp/watch/sm39051184
- ep3: ttp://web.archive.org/web/20230201015057/https://www.nicovideo.jp/watch/sm39052159
- ep4: ttp://web.archive.org/web/20230201015314/https://www.nicovideo.jp/watch/sm39213040
- ep5: ttp://web.archive.org/web/20230201015543/https://www.nicovideo.jp/watch/sm39604024
- ep6: ttp://web.archive.org/web/20230201015647/https://www.nicovideo.jp/watch/sm39653527
- ep5-9: ttp://web.archive.org/web/20230201015952/https://www.nicovideo.jp/watch/sm40425608