はてなキーワード: 冷水とは
桃から生まれた男は、いまや株式会社オニガシマソリューションズの鬼退治プロジェクト推進室長、通称・桃太郎であった。
昔は「日本一のきびだんご」で人心を掌握できたが、現代はそうもいかない。
犬は正社員だった。首から社員証を下げ、名刺入れを持ち、社用PCには会社指定のセキュリティシールが貼られている。福利厚生で歯石除去まで出るらしい。
猿の社員証には大きく「派遣」と書かれ、キジに至っては首にかけるタイプではなく、クリップ式で羽に挟むと微妙に痛い仕様だった。
桃太郎は咳払いをした。
「今回の鬼退治案件ですが、犬さんには現場リーダーをお願いします。猿さん、キジさんは犬さんの指示を受けて動いてください」
犬がうなずいた。
「承知しました。ではまず、猿さんは鬼ヶ島入口の監視、キジさんは上空からの偵察をお願いします。あと、日報は17時までに共有フォルダへ」
猿が手を挙げた。
「ああ」
犬は少し困った顔をした。
「派遣の方はセキュリティ上、社内フォルダに入れないので、日報は僕に口頭でお願いします。僕がそれを転記します」
「じゃあ僕が書いたこと、犬さんの成果になるんですか?」
キジが小さく鳴いた。
「キッ……」
犬には箱入りの高級きびだんご。黒蜜きなこ味、個包装、社名ロゴ入り。
猿がそれを見比べた。
「桃太郎さん、これ、犬さんのだけ箱が違いません?」
「犬さんは正社員なので、退職金前払い相当分のきびだんごポイントが付与されています」
「うちは関知できません」
キジがまた鳴いた。
「キッ……」
今度は「言い方が人事」という意味だった。
道中、犬はリーダーらしく的確に指示を出した。
「猿さん、そこの枝に登って敵情確認を。キジさん、低空飛行で周辺警戒をお願いします」
「了解です」
「あと、作業中にケガをした場合、犬さんは労災申請フローA、猿さんとキジさんは派遣元経由でフローBです」
猿が枝から落ちかけた。
「いまそれ言う?」
キジは空を飛びながら尋ねた。
「休憩は?」
犬は手帳を開いた。
「犬は11時半から一時間。猿さんとキジさんは業務委託ではないですが、就業場所が屋外なので、派遣契約書上は“適宜”となっています」
「適宜って、誰が決めるんですか」
「現場って誰ですか」
犬は胸を張った。
「私です」
猿は枝の上で遠い目をした。
昼になり、桃太郎たちは浜辺で休憩した。
そこには会社支給のウォーターサーバーが置いてあった。冷水と温水が出る、最新型である。
犬が紙コップを取った。
「あ、猿さん、キジさん」
「はい?」
「申し訳ないんですが、こちらのウォーターサーバーは正社員福利厚生設備なので、派遣の方は使用をお控えください」
猿は波の音を聞いた。
「海水飲めってことですか?」
「いや、そういう意味ではなく」
「じゃあ何を飲めと」
犬は気まずそうにリュックを探った。
「毎日来てる来客って何?」
桃太郎は黙ってきびだんごを食べていた。なぜなら桃太郎は上長だが、こういう話になると急に「制度の問題だから」と言って遠くを見るタイプの上長だった。
猿がぼそっと言った。
「鬼より先に倒すべきもの、見えてきたな」
「何者だ!」
犬は一歩前に出た。
「株式会社オニガシマソリューションズとの契約不履行および近隣村落へのコンプライアンス違反について、是正勧告に参りました」
鬼はひるんだ。
「なんだその怖い言葉は」
猿は横から飛びかかり、鬼の金棒を奪った。キジは上空から鬼の目をつついた。犬は後方で叫んだ。
「猿さん、ナイスです! ただし金棒の持ち帰りは備品管理規程に抵触します!」
「戦闘中に規程読むな!」
キジが鬼の頭上を旋回した。
「キッ、キッ!」
三匹の活躍により、鬼たちはあっという間に降参した。
桃太郎は宝を回収し、満足げに言った。
「皆さんのおかげです。特に犬さん、リーダーシップが光りましたね」
猿が眉をひそめた。
「いや、最前線で殴ったの僕ですけど」
キジも羽を広げた。
「偵察と目つぶし、私ですけど」
「でも評価シート上、派遣の方は桃太郎さんの直接評価対象外なので……」
「知ってた」
帰り道、猿とキジは黙っていた。
猿が言った。
キジが言った。
「キッ」
村に戻ると、桃太郎は全社向けに発表した。
「鬼退治プロジェクトは無事成功しました。今後は雇用形態を問わず、同じ現場で戦う仲間として尊重する文化を醸成していきます」
犬が拍手した。
その翌週、社内のウォーターサーバーには新しい貼り紙がされた。
“どなたでもご利用いただけます”
猿はそれを見て、少し笑った。
「お、進歩じゃん」
キジも嬉しそうに水を飲もうとした。
“ただし紙コップは正社員用です”
犬は静かに目をそらした。
そして桃太郎は、誰よりも静かに、新しいプロジェクト名を考えていた。
犬が言った。
桃太郎は腰の刀を抜いた。
「通すんだよ」
猿とキジは顔を見合わせた。
紙コップはなかったので、手と羽と舌で。
それでも水は、まあまあうまかった。
蕎麦の食べ方として最も美味しいのは釜揚げ蕎麦だと最近実感している。
釜揚げ蕎麦は出雲などで食されているが、私は別に出雲出身でもなければ出雲に親戚筋がいる訳でもない。
ただ単に自分で色々な食べ方を比較してみた結果、やはり釜揚げ蕎麦が最高に美味しいのである。
釜揚げ蕎麦の作り方は極めて簡単だ。乾麺か生麺の蕎麦を鍋で茹で、それを(ザルに落として冷水で洗ったりはせずに)そのまま茹で汁ごと丼に入れ、そこに薬味の刻みネギと麺つゆを直接投入して食するのである。インスタントラーメン並みに簡単に調理できる上に、もり蕎麦、ざる蕎麦、かけ蕎麦などよりも蕎麦の香りと味わいが実感できて最高に美味しい。
ところが、実際に自分で釜揚げ蕎麦を作ろうと思うと、様々な精神的攻撃が発生する。
まず、茹で上がった蕎麦をトングで挟んで丼に入れ、その次に茹で汁を丼に注いでいると
「おいおい、蕎麦は茹でたらザルにあげて冷水で締めるんだよ。そんなことも知らないのか?この馬鹿が。野蛮人かよ?w」
「釜揚げ蕎麦?そんなものはねえよ!釜揚げうどんはあるけれど釜揚げ蕎麦なんてねえよw馬鹿かお前w」
と俺を罵倒してくる。
こういう馬鹿は無視して茹で上がった蕎麦と茹で汁を丼に入れて食卓に運び、そこに薬味の刻みネギと麺つゆを投入しようとすると、今度は別の奴が現れる。
「何やってんのあんた、釜揚げっていうのはね、別の小さな器に温かいつゆを用意して、薬味もそこに入れて、釜揚げした麺をそれにつけて食べるの。あんた馬鹿?」
そこで俺はこう言う
「いや、それは『釜揚げうどんの』食べ方だろ?釜揚げ蕎麦の場合は、麺つゆと薬味は釜揚げの蕎麦の上に直接投入するんだよ。何故だか分かるかい?蕎麦の茹で汁は『蕎麦湯』といって飲む習慣があるが、うどんの茹で汁、いわば『うどん湯』を飲む習慣はない。だから釜揚げうどんではわざわざ別につゆを用意するが、蕎麦湯をに飲む蕎麦文化では、直接つゆを入れていいんだよ」
すると奴は言う
「なーに言ってんのよ、アンタはただ茹でた蕎麦を冷水で冷やしたりするのが面倒くさいだけなんでしょ?ズボラなだけなのに分かったような理屈で言い逃れしてんじゃないわよこのバーカ」
このような罵声に耐えつつ、やっと釜揚げ蕎麦を食べる。美味い。なんと美味いのだ。実在しない暴言で傷つけられた心を癒すように優しい味が口の中に広がって行く。
こういう精神的問題を過去にネット上で精神科医に相談してみたことがあったが、これらが自らの空想、想像であることを自覚できている時点で統合失調症でも解離性障害でもないとの回答を得た。
先日、包丁に熱湯と漂白剤を使うことの是非が話題になっていました。
残念ながら清潔さをイメージで捉えて勘違いをしている人が多く、安全のための行為が逆に危険を呼び寄せてしまっていると感じました。
いわゆる潔癖症の人が物事を正しく理解しようとせず「穢れ」だけを取り払おうとして儀式化してしまうような感じですね。
生の食材を扱う和食料理店で20年ほど経験を積んだ増田から汚れって何というお話をしてみたいと思います。
汚れの種類は大きく分けて4つです。
・食べかす
・油汚れ
・傷
どうしてこのような分類をしたのかというと、汚れの種類によってもたらされる結果が変わってくるからです。
・食中毒にならないため
・余計な味をつけないため
・手触り、見た目のイメージ
そんなの当たり前でしょって思うかもしれないんですけど、この辺の話が整理できてないとそれぞれの汚れに対する処理が変わってきてしまいます。
全部おとせばいいとも思うかもしれませんがそれ、本当に落ちてます?逆に汚れの原因になっていませんか?っていう話にもつながってきます。
なぜ安全なのか、すぐに理解できた人は汚れを正しく理解できている人かもしれません。何いってんだクソ増田!って思った人は、汚れをイメージで捉えすぎている危険性があります。
まずは一旦落ち着いて下さい。
油の中で生きられる生物はいませんし、ウィルスも増加することはできません。
ですので油汚れは、食の安全性という面において残っていても問題がないわけです。
しかし、動物性油であれば匂いは残りますし手で触ったときのヌルッとした感覚は決して気持ちの良いものではありません。
だから落とすことが大事ですが、例えば中華鍋など落とす必要がない油もあるということはおぼえておきましょう。
次に食べかすについてです。
ここで、もともとの話題であった最初に熱湯をかけることの危険性を説明します。
このタンパク質というのは、50度以上で固まり始め高温ではしっかりとした固形になります。
食器やまな板に最初に熱湯をかけるということは、その瞬間の殺菌という意味では理にかなっているかもしれませんが、食器に残った目に見えないタンパク質を固形化させるという意味ではとても危険な行為と言えます。
なぜなら、固形化したタンパク質であっても菌やウィルスが増殖するための栄養源になってしまうからです。
その後暗く風通しの悪い食器棚などに収納されてからはどうでしょうか。
特に温度や湿度が正しく管理されているわけでもない場所に例えばゆで卵を置いておいたときにどのような結果になるか、説明するまでもありませんね。
次に傷について。
しかし、問題なのは傷に食べかすなどの汚れが残ってしまう危険性があるという点です。スポンジや界面活性剤では細かな傷の中までをきれいにすることはできません。
つまりどういうことかと言うと、汚れを落としたいからとムキになって強く磨きすぎても、安全性という点においては逆効果になる場合があるということです。
特別な薬品を使う場面が少ない一般的なキッチンにおいてはそれほど気にする必要のないことですが、例えば漂白剤なんかも言ってみれば塩素ですから効果もないのに思考停止で「やっておけば安全」と過剰な使い方をすれば、正しく使うときよりも当然リスクは高くなります。
それではどうやって洗えばいいの?という話ですね。
まずはとにかく冷水か40℃程度のぬるま湯で洗うことが大事です。
さきほどお伝えした通り、最初に熱湯を使うことはタンパク質を凝固させる危険性があります。
いわゆる家庭用の食器洗剤は、そのほとんどが界面活性剤として油分を水に溶けやすくすることで汚れを落とします。
大抵の汚れは流水で落ちますが、粘性の高い油汚れだけが残ってしまうので界面活性剤で流れやすくするというものです。
このとき、食べかすや食べかすを含む油分が正しく洗い流されていれば、食器は清潔な状態と言えます。
つまり、このあとに熱湯をかけたり漂白剤をかける必要というものは基本的にありません。
仮に乾いた食べかすが残っていても、それだけでは菌は増えません。
しかし時期によっては湿気もありますので、食べかすが湿気を吸って水分を持ってしまえば当然菌も増加します。
つまり、食器の洗浄とは以下の3つの工程によって清潔が保たれるようになります。
・汚れをしっかりと落とす。
・界面活性剤で洗い流す。
こうしておけば食器の安全は守られますが、不安であれば使用する前にかるく流水で流すなどすればさらに安全に使用することができます。
ちなみにこの仕組みが理解できていると、最近CMで騒がれているスポンジ内の雑菌の繁殖についても、それ自体が危険ではないということがわかります。
なぜなら、スポンジから直接水分を摂取するわけでもないので、スポンジ内にどれだけ雑菌がいようと界面活性剤とともに洗い流されてしまうからです。
ちなみにですが、菌そのものは直ちに危険な存在ではありません。
人間の免疫機能ではどうにもならないくらいに増殖してしまうから危険なのです。
これは食中毒の危険性にもつながってくる話ですが、死滅させることばかりに注意が向いていると増殖を防ぐことへの注意がおろそかになってしまいます。
煮沸したから大丈夫。熱湯で殺菌したから大丈夫では、本当に安全とは言えないわけですね。
雑菌は、つけない。残さない。増やさない。の3つの対策が必要です。
余談ですが、私の知り合いに毎日いつもポットのお湯を入れ替えている人がいました。
どうしてですか?と聞いてみると返ってきた答えに驚きました。
新鮮な、、、お湯?
しばらく言葉の意味が飲み込めませんでしたが、その日からその人とポットの話をすることはやめました。
この辺は薬と一緒かもしれませんが、人は本当に効果があるものより自分が効果があると信じたものしか選ばないのかもしれません。
ちなみにこの話、厳密なことをいうと毎日水を取り替える方が塩素が残りやすくて危険です。
おそらくはポットにお湯を入れっぱなしにすることで乾燥によってできてしまうカルシウムの塊のことを時間経過によって発生する汚れだと勘違いしているだけの話だとは思うのですが、雑菌が確実に死滅する温度まで沸騰させておいて「新鮮」はないよなって今でもおかしくなります。
え?ポットって電気ポットっですよ?90度以上で保温し続けてるんですよ?
日本の蛇口から出てきてる水道水をポットで沸かせて保温しているのにお湯が腐敗するんですか?
もしかして毎回ポットに畑でとれたてのついた野菜とか入れてます?ボツリヌス菌とかウェルシュ菌をわざわざポットに入れ直してるんですか?
それと塩素の抜ける仕組みと、言わなかったけどトリハロメタンとかって知ってて言ってます?
塩素がしっかりと抜けきって水の入れ替え時に誤って混入しかねない菌さえも滅菌状態にあるお湯を、わざわざ毎日入れ替える科学的根拠をもう少し示してもらっていいですか?
油の部分は誤解させる書き方をしたことは否定しないけど、あのぬるっとした手触りが即座に危険な汚れだと思い込むのは間違いだよという話ですよ。
ちゃんとその後に「食べかすを含む油分が正しく洗い流されていれば」という説明があったけど読んでないんですよね。わかります。
なんというかそういうところが手遅れなんですよねぇ。
これで少なくとも20年以上食中毒は一度も出してないですから。
雪が細かく、音もなく降り続けていた。山奥の駐車場は、白いヴェールをかけた舞台のように静かだった。気温はマイナス九度を下回っていた。吐き出された息が、空気に触れた瞬間に白く凍りつき、すぐに雪の景色に溶け込んで消える。まるで、どんな言葉もこの白さの前に無力だと言われているようだった。8人の男たちが車を降りた。誰も何も言わなかった。服を脱ぐ動作も、いつものように淡々としていた。ここでは余計な言葉は必要ない。必要なのは、ただその場所にいることだけだった。
全員が完全に裸だった。頭はつるりと剃り上げられたスキンヘッドで、眉以外の毛は一本も残っていない。陰部も、陰嚢も、アナル周りも、すべてパイパンに処理されていた。肌は深い墨色に焼き上げられていた。長年かけて全身を黒く日焼けさせた結果、雪の白さと冷たい光の中で、その肉体は磨き上げられた黒檀のように艶やかに浮かび上がっていた。そして8人全員が、容赦ない寒さの中で勃起していた。8本の黒い肉棒が、冷気の中で血管をくっきりと浮き立たせ、太く反り返っている。男たちの黒紫色の亀頭は張り詰め、先端から透明な液が長く糸を引いて、雪の風にわずかに震えていた。リーダーはその中心に立っていた。
彼は元々は一人でPornhubに全裸の滝行動画を上げ続けていた。その滑らかな黒い頭と、淀みない黒い体は、すでに何万もの視線を集めていた。彼の肉棒は特に重厚で、根元から太い血管が何本も盛り上がり、冷風の中でゆっくりと脈打っていた。俺もその一人だった。最初はただ動画を見ていただけだった。いつしか憧れが強くなり、毛をすべて落とし、体を黒く焼き、このサークルに加わっていた。今もこうして、雪の中で勃起したまま立っている。他の6人も同じだった。肩幅の広い者、脚の太い者、腹にわずかな厚みのある者。それぞれ体型は違うが、誰もが同じ条件を満たしていた。全身黒く焼け、すべてを剃り上げ、寒さの中で硬く反り返った肉棒を晒している。
「よし、行くぞ」
リーダーが短く言った。8人は雪の山道を歩き始めた。膝下まで積もった新雪を、ゆっくりと掻き分ける。雪は音を吸い取り、足音さえも柔らかく飲み込んでしまう。8人の黒い裸身が、白い世界の中で静かに動いていく。その姿は、まるで墨で描かれた線が、白い紙の上をゆっくりと横切っているようだった。歩くたびに、8本の黒い肉棒が優雅に上下に揺れた。冷たい風が亀頭を撫で、先端から透明な糸が長く伸びては、純白の雪の上に落ちる。一瞬だけ光るその滴は、すぐに新たな雪片に埋もれて消えた。肩や頭に積もる細かな雪が、体温で溶けて冷たい水の筋となり、黒い胸や腹、太ももを伝い落ちる。その軌跡が、黒い肌の上に一瞬の白い光を描き、すぐに消える。雪はすべてを等しく覆う。汚れも、熱も、言葉も。寒さは肉体をより敏感にし、黒い肌の表面を張り詰めさせ、血管の一本一本までを際立たせる。反り返った肉棒の先端に雪片が触れては溶け、冷たさと熱が同時に体を貫く。その感覚は痛みとも快楽ともいえる。誰も声を上げなかった。荒い白い息遣いだけが、静寂の中でかすかに重なる。黒い肉体同士の距離は近く、時折視線が交差する。その視線は雪の白さの中で、言葉にならない熱を静かに伝え合っていた。
この雪の中を歩く8人の姿は、奇妙に美しかった。黒と白のコントラストが極限まで研ぎ澄まされ、俗世の雑音をすべて削ぎ落とした、静かな絵のようだった。雪は清め、雪は美化する。そして雪は、すべてを無に帰す。それでも、そこには確かに青春の爽やかさが満ち溢れていた。
二十代半ばの若者たち。大学を卒業して社会に出た者もいれば、まだ学生の者もいる。誰もが忙しい日常を離れ、ただこの山に来て、体を黒く焼き、毛を落とし、寒さと水に打たれることを選んでいる。
憧れだった。潔さだった。自分を極限まで削ぎ落として、ただ「あるがまま」に立つことの、痛いほどの爽快感だった。
雪の中で勃起したまま歩くこの行為は、どこか馬鹿げているようにも見える。だが、同時にひどく真っ直ぐで、ひどく若々しかった。
寒さで体が震えながらも、誰一人として萎えない肉棒。痛いほどに硬く反り返ったそれは、青春そのものの象徴のようにさえ思えた。
恥じらいを捨て、視線を恐れず、ただ前を向いて歩く。笑いも、照れも、すべてを飲み込んだような潔い笑顔が、時折浮かぶ。
俺たちの姿は、汚れを知らない、荒々しくも清らかな青春の匂いがした。まるで夏の部活後の汗のように、痛快で、眩しくて、胸の奥がすっと軽くなるような爽やかさだった。
滝に着くと、水音が一気にその静けさを破った。半分凍りついた滝。巨大な氷柱が牙のように垂れ下がり、中央の流れだけが容赦なく落ち続けている。
1周目は一人ずつだった。最初の一人が滝の下へ入る。黒いスキンヘッドに凍てつく水が叩きつけられ、体がビクンと硬直する。水の勢いが黒い胸を打ち、腹を滑り、反り返った肉棒を激しく打ち据える。肉棒は左右に激しく揺れながらも、さらに硬く張り詰め、血管を鮮明に浮かび上がらせる。黒い肌が水に濡れて艶やかに光り、雪の白さと重なって、まるで黒い宝石が洗われているようだった。次々と、黒い裸身が滝に打たれていく。誰もが背筋を伸ばし、目を見開き、水圧と寒さに耐えながら勃起を保っていた。水に打たれるたび、黒い肉棒が跳ね、透明な液が水しぶきに混じって飛び散る。その姿は、雪の中で鍛えられた肉体が、さらに純粋な水によって磨かれ、輝きを増しているように見えた。若さの勢いが、水しぶきとともに弾けているようだった。
リーダーの番になった。彼は堂々と滝の中心に立った。長年の経験から姿勢は完璧だった。凍てつく水が頭から肩、胸、腹、そして重厚な黒い肉棒を容赦なく打ち据える。肉棒は激しく揺さぶられながらも、ますます太く硬くなり、先端から大量の液が水に混じって流れ落ちる。黒い肌全体が水に濡れて鏡のように輝き、雪の白い背景の中で、動く黒い彫像が儀式を行っているかのようだった。
最後に俺だった。冷水が全身を一瞬で支配する。黒い肌が赤く熱を帯び、反り返った肉棒が水圧で激しく打たれる。痛みと快楽が混じり合い、雪の中で育まれた感覚がさらに鋭くなる。若い体が、水の冷たさを跳ね返すように、生き生きと反応していた。
休憩を挟んで、2周目はペアで行うことになった。俺とリーダーが肩を並べて滝の下に入った。二人の黒い裸身が、ほとんど触れ合う距離で並ぶ。二本の逞しい黒い肉棒が、水の勢いで激しく揺れ合い、時折先端が軽く触れ合う。冷水の中で、二人は同時に声を上げた。「はあっ……うおおっ」リーダーの低い、喉を震わせるような声。「んああっ……はああっ」俺の、熱く途切れ途切れの叫び。二人の黒い肌と黒い肉棒が、滝の中で静かに響き合うような気がした。雪の白さと水の透明さが、二人の黒さをより深く、力強く際立たせていた。若さの熱が、水しぶきを飛び散らせながら、爽やかに弾けていた。滝行の終わり近く、俺たちは雄叫びを上げながら、ほぼ同時に射精した。白い精液が凍てつく水の中に勢いよく飛び散り、すぐに雪の白さに溶け込んで消えた。
全裸黒い男たちが横一列に並び滝に深く礼をした。
「清められたな」
「……はい」
帰り道、8人の黒い裸身が湯気を立てながら雪道を戻る。雪は再びすべてを優しく覆い始め、さっきの熱と叫びを静かに記憶の中に封じ込めるようだった。俺とリーダーは少し遅れて歩いた。木陰に入ったわずかな瞬間、手を握り合った。冷え切った指先が触れ合い、互いの熱だけが一瞬、強く結ばれる。すぐに離し、また何事もなかったように歩き出した。駐車場に戻ると、皆が無言で服を着始めた。リーダーと俺も最後にジャケットを羽織り、車に乗り込んだ。
「今日もいい滝行だったな」
「次はいつにする?」
スピッツが好きだった。
だった、と過去形にするにはまだ早いかも知れない。けれども、少なくとも”好き”の熱量は数年前に比べて確実に減少している。
それはまあ、長年好きで居続けたら同じ熱量を保つ方が難しいとも言えるのだが、そのきっかけがまさか『ロックロックこんにちは』だとは自分でも予想していなかった。
『ロビンソン』が大ヒットしたタイミングで曲を耳にし、綺麗な声と不思議な歌詞だな、と気になり始め、その後CMソングに採用された『渚』を聴いて、このバンドの曲をもっと聴きたいと思うようになった。
その頃はサブスクなどというものはなく、それどころかインターネットもまだ黎明期といった時期で、音楽を聴くにはCD(あるいはカセットテープ)を買うかレンタルするかという手段しかなかった。
貧乏学生だった私にはおいそれとアルバムを買い集めることはできなかったため、レンタルショップでスピッツのアルバムを借り、それをカセットテープにダビングして何度も何度も曲を聴いた。
それまで、ある曲が良いと思っても、そのミュージシャンの他の曲にはピンとこないというのをくり返していた私にとって、どのアルバムのどの曲もストライクとなるミュージシャンはスピッツが初めてだった。
『ロビンソン』でのブレイク後だったから、チケットぴあに開店前から並んでもライブのチケットはなかなか取れなかったが、奇跡的に手に入れたチケットでのライブは夢のようなひとときだった。
働き始めてからはファンクラブにも入会した。スポンジのような大地のような、未だに何なのかよくわからないモチーフ(多分スピッツベルゲン島?)の会員カードが送られてきたのを覚えている。
その頃のファンクラブ会報はA5を縦半分にしたぐらいのサイズで、紙質もそこまで良くはなく、おまけにフルカラーではなく多色刷りだったが、雑誌では読めないメンバーのコメントが見られるのは毎号楽しみだった。
このファンクラブ会報は、私が25年以上の間スピッツのファンでいられたことに、そして、私の中のスピッツ像の形成に少なからず寄与していると思う。
何故なら、会報を通して見るメンバーの雰囲気が、「仲良し」以外の何者でもなかったからだ。
初期の頃の内容はあまり覚えていないが、いつからか続いているシリーズとして、メンバー4人があちこちへ体験に出かけるというものがある。
風鈴を作ったり、お皿に絵付けをしたり、うろ覚えだが乗馬をしていた号もあったような気がする。
ともかく、そのシリーズでのメンバー4人はとても和気あいあいとしていて、学生の頃に結成したというバンド当時の雰囲気をそのままキープしているように見えた。
会報のみならず、音楽雑誌のインタビューやMV撮影秘話などでも、メンバー同士の仲の良さ・雰囲気の良さには結構な頻度で言及されていた。
さらに、邦楽バンドの解散がいくつか続いた時期に、メンバーの一人が「皆、どうして解散しちゃうのかな」と呟いていたのを会報で目にしたこともあった。
それほどまでに、彼らの距離感は絶妙だった。付かず離れずである一方で、学生の頃のような友人同士の無邪気さをいつまでも保ち続けていた。
不思議なもので、メンバー間の雰囲気が良いと、何となくメンバー自身が穏やかで良い人のように見えてくるものだ。
いや、これではまるで「スピッツは本当は過激で悪い人たち」だと言いたいかのようだ。そんなつもりは毛頭ない。
会報や雑誌インタビュー、ラジオなどでの数々の発言からして、どちらかに分けるとすれば彼らは間違いなく「善人」である。
ロックミュージシャンらしく、ある程度の毒を持ってはいるけれど、基本的には良識を持ち互いを尊重し合う人たちだと思う。
これまでに不倫や脱税と言った俗っぽいスキャンダルもなく、解散や不仲の噂が出たこともない。
取材の場となったファミレスから出て行く時は、後ろに続く人のためにドアを押さえてあげるような、そんな当たり前の善性を持った人たちだ。
だからこそ、私には、『ロックロックこんにちは』(以下、ロックロック)に彼を招いたという事実が飲み込めなかった。
(※ここでは「彼」を攻撃・中傷する意図や、トラブル自体の是非を問う目的は全くなく、あくまで推しと自分との距離感が崩れたきっかけとして取り上げています。)
その人の名前はここでは伏せるが、過去にあるトラブルがあったミュージシャンである。彼の名が出演者リストに記載されていた時、何故、という気持ちがどうしても拭えなかった。
かと言って、トラブルがあったのだから二度と表舞台に出ないでほしい、と言いたいわけではない。
きちんと決着をつけたのであれば、音楽活動を再開するのは自由だと思う。
そして彼は、詳細はわからないものの、決着がついたという報道もされていた。そこをファンの方が支えたり、同じミュージシャン仲間が手助けしたりすることに異を唱えるつもりはない。
でも、その役割をスピッツに担ってほしくはなかった。否、見えないところで支援する分には文句をつけるつもりはないが、大っぴらに主催イベントに呼んでほしくはなかった。
私にとってスピッツは、本人たちがトラブルとは無縁であるのは勿論のこと、そういった出来事に寛容である姿勢を見せない存在でいてほしかった。
ロックロックの出演者は、主催であるスピッツが選定する。何故彼なのだろう。ロックロックなら出たいと望むミュージシャンなんて山ほどいるだろうに。そう思わずにはいられなかった。
呼ぼうとするだけの強い理由が何かしらあったのだろうが、それが何であれ、私にとっては受け入れることはできなかった。
つまるところ、私はスピッツに対していつしか夢を見すぎてしまっていたのだろう。神格化していたと言ってもいいかも知れない。
私の中のスピッツが持っていてほしかった線引きと、実際のスピッツのそれとで食い違いがあったというだけの話である。
だが、その「だけの話」で、私の中の熱量は確実に減ってしまった。
何もスピッツの誰か(あるいは全員)がトラブルを起こしたわけでもあるまいに、この程度のことで冷めるなんて本当のファンとは言えないのではないか、そう悩んだ時もあった。
けれど、そもそもこちらは彼らの曲に感情を揺さぶられてファンになった身である。その感情に冷水を浴びせられて冷めることに、何の不思議もない。
今、私にとってスピッツはゆるやかに「かつて好きだったバンド」になりつつある。それでも、年間通して一番聴いているのはやっぱりスピッツの曲なのだ。
今後発表される新しいアルバムにまた感情を揺さぶられて熱量が戻るか、もしくは戻ることがないままになってしまうのか、それはまだわからない。
できれば、また以前と同じように好きになりたいと願っているけれど、心のどこかでもう戻ることはないのではないかと思っている自分もいる。
おいおいおい、日経では「ディズニーが OpenAI に1500億円出資! Sora にキャラ提供!」って景気のいい話してたのに、ブルームバーグ見たら「Sora アプリ終了、ディズニーとの提携解消へ」って、急ブレーキどころかエンジン落ちてんじゃねーか。
はてブ民も前のニュースでは「文化勝利の正解戦略」とか言ってたけど、文化勝利どころか文化衝突で爆散してんだろこれ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.nikkei.com/article/DGXZQOGN11CN50R11C25A2000000/
まず日経の段階では、ディズニーが「公式キャラを Sora に提供」とかいう、AIオタクが泣いて喜ぶ夢のような話だったわけよ。ミッキーが AI 動画で踊り狂う未来が来るのかと思ったら、ブルームバーグでは「Sora アプリ、公開から6カ月で撤退」って、短命すぎるだろ。
「Sora の研究チームは現実世界のシミュレーション研究に集中します」って、いやいや、アプリ終わって研究だけ続けるって、それただの撤退戦じゃねーか。
はてブの「よく話つけたな…」ってコメントも、今読むと完全にフラグ。
よく話つけたどころか、話つけた後に全部ひっくり返ってるじゃねーか。
ディズニー側も「え?1500億返して?」って言い出すんじゃないかと心配になるレベル。
しかもブルームバーグの記事だと、OpenAI は「新モデル Spud に注力」とか言ってるわけよ。
Spud(じゃがいも)て。
Sora(空)から Spud(芋)って、落差が農業レベルなんだが。
はてブ民も「文化勝利」とか言ってる場合じゃない、農業革命が起きてる。
さらに、Sora アプリがランキング落としてたって話も地味に効いてる。
公開直後はトップに躍り出たけど、その後は下降一直線。
そりゃディズニーも「うちのキャラを AI 動画で使ってもらえる!」ってワクワクしてたのに、アプリが沈んでいったら「ちょっと話が違うんだが?」ってなるわな。
はてブの「文化勝利」コメントした人、今どんな顔してるんだろうな。
あと、Sora が「実在人物の登場する動画を生成して誤情報拡散のリスクが指摘されていた」ってブルームバーグ側に書いてあったけど、そりゃディズニーも怖いわ。
ミッキー「トランプ支持だよ!」とか言い出したら、株価がミッキーの耳みたいに上下に跳ねるわ。
はてブ民の「よく話つけたな…」ってコメント、今読むと完全に皮肉にしか見えない。
話つけたら終わった。
そして「文化勝利」って言ってた人、文化勝利どころか文化的敗走。
AI とディズニーの融合という壮大な夢が、6カ月で終わるとは誰が予想したか。
はてブ民のコメント欄、今見ると未来予測の墓場みたいになってる。
結局のところ、日経の「1500億円出資!」という景気のいいニュースと、ブルームバーグの「Sora アプリ終了」という冷水ぶっかけニュースの温度差がすごすぎて、はてブ民のコメントが全部ギャグに見えてくるんだよな。
おい、まだ生きてるのか?それとも死体のように横たわって、無益な時間を浪費しているだけか?
お前のその締まりのない顔を今すぐ冷水に叩き込め。心臓が悲鳴を上げるまで冷やして、ようやく自分がどれだけ甘ったれた世界にいたかを自覚しろ。
そのまま外へ這い出して、心肺が焼き切れるまでアスファルトを蹴り上げろ。筋肉の痛みは、お前が怠惰に耽っていたことへの正当な罰だ。
そして、その汚い胃袋にゴミのようなジャンクフードを詰め込むのを今すぐやめろ。お前の血肉は燃料だ、快楽の道具じゃない。
仕事についても同じだ。殺意を持ってデスクに食らいつけ。お前の代替品なんていくらでも転がっていることを忘れるな。
集中しろ。限界のその先で、ようやく人間として認められる最低限のスタートラインに立てると思え。
立ち止まるな、思考を止めるな、ただ結果だけを俺の前に持ってこい。
まだ布団の中でスマホをいじって、脳内に安いドーパミンを垂れ流しているのか?
鏡を見てみろ、そこに映っているのは人間か、それとも言い訳を詰め込んだだけのただの肉袋か?
四の五の言わずに外へ出ろ、地面を蹴って走れ。肺が焼ける感覚を味わいながら、自分がどれだけ怠惰だったかを一歩ごとに反省しろ。
菓子パンやカップ麺を胃袋に放り込むのをやめろ、お前の体はゴミ処理場じゃない。脳を動かすための栄養を選別し、殺意に近い集中力で目の前の仕事に食らいつけ。
SNSの通知も薄っぺらな人間関係もすべて捨てろ。世界はお前のママじゃない。お前が立ち止まっている間も、誰かがお前の席を奪い、お前の未来を食い荒らしている。
いいか、結果がすべてだ。さあ、ぐずぐずするな。今すぐ動け、さもなくば一生そこで腐ってろ。
まだ布団の中でスマホの光に脳を焼かれているのか?鏡を見てみろ。そこに映っているのは人間か、それとも言い訳を詰め込んだだけのただの肉塊か?
いいか、今すぐその生ぬるい毛布を剥ぎ取って冷水を浴びろ。心臓が跳ね上がる衝撃で、その腐った根性を叩き起こせ。
そのまま外へ出ろ。地面を全力で蹴り、肺が焼けるまで走り抜け。動かないから体が重いんだ、動かないから精神が淀むんだ。四の五の言わずに四肢を動かせ。
エサを食うな、食事をしろ。菓子パンやカップ麺で脳を濁らせるのをやめろ。お前の体はゴミ処理場じゃない。細胞一つひとつに、戦うための栄養を叩き込め。
そして、その研ぎ澄まされた感覚をすべて目の前の仕事にぶつけろ。SNSの通知も、薄っぺらな人間関係も、どうでもいい雑音もすべて遮断して、獲物を仕留める獣のような殺意を持ってタスクを片付けろ。
「頑張ります」などという言葉は聞き飽きた。世界はお前のママじゃない。結果を出せない奴に居場所はないと思え。
お前が立ち止まっている一秒の間に、誰かがお前の未来を食い荒らしている。
さあ、ぐずぐずするな。今すぐ動け。さもなくば一生そこで腐ってろ。
まだ布団の温もりに甘えてるのか? その脂ぎった顔を鏡で見てみろ。お前がダラダラと二度寝を貪っている間に、世界の勝者はすでに一仕事を終えている。
お前たちに選択肢などない。
ぬるま湯に浸かって許されるのは赤ん坊だけだ。今すぐ氷のような冷水を頭から被れ。心臓が止まりそうか? 結構だ。その衝撃こそが、お前が生きている唯一の証拠だ。
そのまま外へ出て走れ。5キロだ。足が痛い? 息が苦しい? 黙って走れ。お前の甘ったれた精神を、アスファルトに焼き付けてこい。
ジャンクフードを口に運ぶな。お前の体はゴミ箱じゃない。タンパク質とビタミンをぶち込め。腹を満たすためではなく、戦うための燃料として食え。
会社に来たら、あるいはデスクに座ったら、私語は一切禁止だ。スマホを捨てろ。SNSを見る暇があるなら、1円でも多く稼ぐ方法を考えろ。お前の価値は、お前が何をしたかではなく、いくら稼いだかでしか証明されない。
いいか、今日という日はお前の惨めな人生をリセットする最後のチャンスだ。
泣き言を言う前に動け。結果が出ないなら、それはお前の努力が足りないか、お前の存在自体がバグかのどちらかだ。
さあ、地獄のような最高の一日を始めろ。
まだ布団の中で言い訳を育ててるのか?昨日の自分に勝てないやつが、明日の結果を語るな。
今すぐ冷水を浴びろ。眠気ごと甘えを叩き出せ。心拍数を上げろ。ランニングに行け。足が重い?それは脂肪じゃない、怠惰だ。
食事を抜くな。ジャンクで誤魔化すな。体は資本だ。ガソリンをケチるレーサーはいない。タンパク質を摂れ。水を飲め。腹八分で止めろ。
仕事に集中しろ。通知を切れ。言い訳を切れ。成果が出ないのは才能の問題じゃない。時間の使い方の問題だ。1時間、本気でやれ。できないなら、できるまでやれ。
周りがどうとか、市場がどうとか、環境がどうとか、全部後回しだ。今日やるべきことをやったやつだけが、明日を語れる。
さあ動け。結果で黙らせろ。
ぬるい布団にしがみついてる時点で負けだ。まず冷水を浴びろ。理屈は後でいい。交感神経を叩き起こせ。自分の意思で不快を選べる人間だけが、本番の不快に耐えられる。
次に走れ。距離は言い訳するな。息が荒れるところまで行け。心拍数を上げろ。昨日の自分より1ミリでも前に出ろ。才能の差はある。だが継続の差は言い訳でしか生まれない。
飯を抜くな。ジャンクでごまかすな。体は資本だ。資本を毀損して利益が出ると思うな。タンパク質を摂れ。野菜を食え。水を飲め。集中力は気合ではなく血糖と睡眠で決まる。
仕事に集中しろ。通知を切れ。言い訳の余地を物理的に消せ。90分、全力でやれ。できない理由を考えるな。できる形に分解しろ。タスクは細かく切れ。完了させろ。完了は麻薬だ。小さくてもいい、積み上げろ。
人の評価を待つな。数字で示せ。結果を出せ。出ないなら原因を潰せ。感情に逃げるな。データを見ろ。改善しろ。再現性を作れ。
今日を雑に扱うな。今日の総和が一年だ。一年の総和が人生だ。覚悟を決めろ。甘えは後でまとめて後悔になる。
動け。
今すぐだ。
甘ったれるな。目が覚めたか? 覚めてないなら今すぐ冷水を浴びろ。言い訳より先に蛇口をひねれ。体が震える? その震えが生きてる証拠だ。
走れ。天気? 関係ない。気分? 関係ない。やる気が出たらやる、じゃない。やるからやる気が出るんだ。脳みそは後付けで理由を作る臓器だ。先に足を動かせ。
飯をちゃんと食え。ジャンクで誤魔化すな。お前の身体は資本だ。資本を毀損して利益が出ると思うな。タンパク質を入れろ。炭水化物を恐れるな。量を管理しろ。食うのも仕事だ。
そして集中しろ。通知を切れ。SNSを閉じろ。誰かの人生を眺めてる暇があったら、自分のタスクを一行でも進めろ。完璧を待つな。粗くてもいいから前に出せ。修正は後でできる。ゼロは修正できない。
「今日は調子が悪い」だと?知るか。調子が良い日だけ成果が出るなら、アスリートも経営者もいない。凡人は気分で動く。結果を出す側は仕組みで動く。
冷水。ランニング。栄養。集中。これが最低ラインだ。特別な才能はいらない。継続だけが差を作る。
さあ動け。甘えを切り捨てろ。今日を取りに行け。
まず、泣き言をやめろ。「リーマンショックが起きた! 物価が下がる! デフレは悪だ! 政府が救え!」
この反応こそ、恐慌とデフレを混同した集団自己放尿である。冷水を浴びせてやろう。
2001年以降、中央銀行は低金利を長期維持した。実質金利 ( r ) が自然利子率 ( r^* ) を下回るとどうなるか?過剰投資・資産価格バブルである。
住宅ローンはMBS・CDOへと証券化され、リスクは「分散された」と錯覚された。
しかしこれはリスクの消滅ではない。単なる情報の自己放尿的希釈だ。
この値が30倍を超える世界。価格が3%下がれば、自己資本は蒸発する。
住宅価格が下落 → 証券価格下落 → 資本毀損 → 銀行間信用停止 → 流動性蒸発。
これがリーマン破綻の本質だ。信用システムの自己放尿的膨張が、逆流しただけ。
ここからが本題だ。金融危機の後、物価上昇率は低下した。すると世間は叫ぶ。
冷静に分解する。
MV = PY
信用崩壊で ( V )(貨幣流通速度)が急低下。すると ( PY ) が縮小する。これは貨幣需要ショックであって、価格メカニズムの崩壊ではない。
大恐慌の記憶が政策当局を支配していた。「物価が下がる=恐慌再来」という短絡。
つまり金融政策の大失敗だ。単なる物価下落そのものが悪なのではない。
住宅バブル崩壊後、資源は建設業から他産業へ移動すべきだった。
これは価格情報へのトリプル放尿だ。低金利、量的緩和、財政拡張のトリプル放尿。
理由は三つ。
リーマンショックは、
の結果である。
それを「デフレは悪」という単純化にすり替え、無差別刺激策で覆うのは、理論的自己放尿、歴史的自己放尿、政策的自己放尿のトリプル放尿。
恐怖でそれを止めるな。
泣くな。
式で考えろ。
感情でなく数量で語れ。
それが冷酷な流儀だ。
勉強でも運動でも、決まった時間に淡々と繰り返せるようになれば、意志力を消耗せずに継続でき、結果として成長につながるという理屈だ。
習慣が「無意識で回る仕組み」だとすれば、儀式は「意識を立ち上げる装置」である。
たとえば「朝、冷水を浴びて気合を入れる」という行為は典型的な儀式だ。
体は本能的にそれを避けようとする。だからこそ、毎回そこに意志が介在し、注意が集中する。
同様に、「一杯のコーヒーを丁寧に淹れる」「食事の前にいただきますを言う」といった行為も、日常をただ流すのではなく、一度立ち止まって自分を現在に引き戻す儀式になりうる。
実際、私は「昨日何してたの?」と聞かれて、答えられないことがある。
ぼーっと生きていていいのか、と危機感を覚える瞬間だ。
まだ布団に魂置いてきた顔してんじゃねぇ。起きろ。今すぐだ。
スマホ?触るな。SNS?見るな。お前の人生に「おすすめ」されてる暇はねぇ。
まず冷水浴びろ。
震えろ。目が覚める。お前の意志も一緒に叩き起こせ。
次、ランニング行け。
「今日は疲れてて〜」とか言うな。疲れてるのはお前の脳みそだ。
走れ。息が上がったら勝ちだ。
戻ったら飯を食え。
お前の体は機械だ。燃料なしで動くと思うな。
そして机に座れ。
「やれたらやる」じゃない。「やる」だ。
やることは3つに絞れ。
でかいの1個。中くらい1個。小さいの1個。
全部終わるまで、余計なことするな。娯楽は報酬だ。先払いじゃない。
最後に言っとく。
甘えた自分をぶっ殺して、動け。
行け。今すぐだ。
ハムやソーセージ、特に獣肉(例えばイノシシや鹿)の臭みを取るためには、いくつかのテクニックがあります。
肉の臭みを取る方法
1. 肉を冷水で洗う
• 新鮮な肉を調理する前に、冷水でしっかりと洗い流すことは基本中の基本。これによって血液や汚れ、余分な脂肪を取り除くことができます。
2. 酢やワインに漬ける
• 酢や赤ワインに肉を漬け込むと、臭みが和らぎます。酢の酸味やワインのアルコールが臭み成分を分解してくれるので、肉の匂いが軽減されるんです。
• やり方: 肉を酢(またはワイン)に漬けて、30分~数時間程度マリネします。これで臭みが消え、風味が豊かになる場合もあります。
3. 塩水に漬ける
• 塩水(塩+水)に肉を漬けることで、臭みを取りつつ、肉が引き締まってうま味が増します。塩水は臭みを吸収し、肉の余分な水分や血液を取り除く効果があります。
• 鶏肉や豚肉、特に獣肉は、ローズマリーやタイム、ニンニク、生姜などを使って臭みを取ることができます。これらの香味野菜やハーブが肉の匂いをマスキングして、肉本来の旨味を引き出してくれるんです。
• やり方: 肉にハーブや香味野菜を直接まぶすか、料理の際に一緒に煮込むことで、臭みを和らげることができます。
• ハムやソーセージの場合、臭みを取るために燻製や塩漬けが行われることが一般的。燻製は、煙に含まれる化学成分(フェノール化合物など)が肉の臭みを抑え、保存性も高めてくれます。
• 塩漬けの場合、塩が肉の表面に浸透して水分を引き出し、臭みの原因となる成分を取り除きます。
6. 加熱による臭みの除去
• 肉をしっかり加熱することも臭みを取り除くための重要なステップです。特に焼く、煮る、蒸すなどの加熱方法が効果的。焼いたり煮たりするときに出てくるアクや脂肪も臭みを含んでいるため、これを取り除くことで肉がより美味しくなります。
ハムやソーセージでは、主に塩漬けや燻製で臭みを取りますが、**発色剤(亜硝酸塩)**を使うことが多いです。これが肉に色を加え、保存性を高めると同時に臭みも抑える役割を果たします。薬品と言えば、この発色剤や保存料が使われますが、家庭で作る場合はナチュラルな方法にこだわることが一般的です。
• 塩漬け: 塩を使って肉を長時間漬け込み、余分な水分を引き出して臭みを減らします。
• 燻製: 燻製によって、肉の表面に煙の成分が付着し、臭みが抑えられます。燻製の煙に含まれる化学成分が臭みを分解し、風味を良くします。
簡単に言うと…
薬品(例えば亜硝酸塩など)は市販のハムやソーセージでよく使われますが、家庭で作る場合は、酢や塩、香味野菜などを駆使して臭みを取る方法が一般的です。燻製や塩漬けも、自然な方法として取り入れられることが多いです。
財政再建だの減税だの社会保障の充実だのと、世の中は今日も元気にスローガンを投げ合っている。
しかし、ここで一回、冷水をぶっかけておく必要がある。歳入歳出の問題とは、結局のところどの痛みを誰が受け入れるかという配分問題であり、そこから目を逸らした瞬間に、議論は経済学ではなく宗教儀式になる。
いや、宗教ならまだ筋が通る場合もある。問題は、筋が通っているフリをして自己放尿するタイプの議論が多すぎることだ。
政府の仕事とは、市場が機能するための最小限のルール整備に極限まで縮退させるのが基本形である。
自由市場とは、万能ではないが、少なくとも分散した情報を価格に集約し、意思決定を分権化し、試行錯誤の淘汰を通じて資源配分を改善する装置だ。
価格メカニズムは神ではないが、政治家よりはだいぶマシな情報処理装置である。ここで「だいぶマシ」というのが重要で、政治が介入するたびに知識問題が増幅し、情報の局所性が無視され、結局は官僚制のヒューリスティックが国全体の最適化を代替してしまう。
政治が市場を置き換えようとした瞬間に、見えざる手ではなく、見えざる自己放尿が働き始める。
ここが現実だ。日本は社会保障を手厚くし、再分配を強化し、政府支出を一定以上維持し続ける構造を選んでいる。
つまり、日本社会は競争による淘汰と自己責任の痛みを相対的に抑制し、その代わりに高負担・低成長・制度維持の痛みを受け入れる方向にコミットしている。
これは倫理的に正しいとか間違っているとか以前に、単なる選択の問題だ。経済学的には、トレードオフをどう置いたかという話である。
それなのに、減税だの給付だのを同時に叫び、財源の議論を後で考えると言い出す。これが自己放尿でなくて何なのか。
政府予算制約式という、経済学の最も退屈で最も重要な現実から逃げている。
政府は魔法使いではない。支出を増やすなら、税を上げるか、国債を増やすか、インフレ税で実質負担を国民に押し付けるか、どれかしかない。
これが財政のハード・バジェット制約だ。これを無視して「社会保障は守れ、税は下げろ、景気は良くしろ」と言うのは、制約条件を消して目的関数だけで最適化しているのと同じで、ただの自己放尿である。
リカードの中立命題を持ち出して、増税が予想されるなら家計は貯蓄を増やすから問題ないと言うのは理論的には可能だが、現実には完全な合理性も完全な資本市場も存在しない。
民主主義が持つ時間的不整合性の典型例である。短期の政治的利得と長期の財政健全性が衝突するとき、だいたい負けるのは長期のほうだ。これは合理的期待以前の、人間の仕様である。
さらに言えば、日本は人口動態が財政に対して非常に残酷な国だ。
高齢化は単なる人数の問題ではなく、制度の設計思想そのものを破壊する。
賦課方式の年金・医療・介護は、現役世代が高齢世代を支える構造だが、現役人口が縮み、高齢人口が増えれば、負担率が上がるか給付が減るかの二択になる。
ここで「成長すれば解決する」という反射神経が出るが、成長率を外生的に願望で決めるのもまた自己放尿である。
成長は政策の掛け声ではなく、生産性上昇の結果としてしか起こらない。
生産性は教育、技術進歩、資本蓄積、企業統治、労働市場の柔軟性、規制構造、そして競争環境の積み重ねからしか生まれない。成長を祈るなら、祈祷師より規制改革のほうがまだマシだ。
そして規制改革という話になると、日本社会はまたしても痛みの受け入れを避ける。
競争は勝者と敗者を生む。市場は効率を生むが、分配の不平等を生む。創造的破壊は技術進歩を促すが、既存産業を壊す。
つまり市場主義を採用するとは、失業、賃金格差、企業淘汰、地域衰退といった摩擦を受け入れることでもある。
市場の自由は長期的には社会を豊かにするが、同時に短期的には痛みが出ることを否定していない。
むしろ、痛みを抑えようと政府が価格統制や産業保護をすれば、情報が歪み、非効率が固定化し、成長が止まる。
「政府介入はだいたい二次被害を生む」という経験則に直結する。
日本の政治経済は、競争の痛みを緩和するために、規制を残し、補助金を配り、産業を守り、雇用調整を遅らせ、そして社会保障で受け止める。
つまり市場の荒波で鍛える社会ではなく、制度の堤防で守る社会を選んでいる。
これは日本人の価値観として一貫している。連帯を重視し、格差を嫌い、共同体の安定を優先する。
だから社会保障を充実させる。これは単なる政策の偶然ではなく、社会的選好の表れだ。
経済学的に言えば、日本はリスク共有と保険の厚みを最大化し、効率性よりも安定性を高く評価する社会的効用関数を採用している。
問題は、その選択をしたなら、そのコストも受け入れろということだ。
高福祉・高負担モデルをやるなら、税負担は上がる。労働供給への歪みも増える。企業の投資インセンティブも下がる。潜在成長率も落ちる可能性がある。
さらに政府支出が増えれば、官僚制が拡大し、レントシーキングの余地が増える。補助金や規制の設計を巡って、政治的な取引が増える。
公共選択論の観点では、政府部門の肥大化は利益集団の固定化と情報の非対称性を通じて、政策をますます非効率にする。つまり、痛みは消えない。形が変わるだけだ。
逆に、小さな政府・市場主義モデルを採用するなら、社会保障の給付は削られる。
競争は激化し、賃金格差は拡大し、生活の不安定性が増す。労働市場の流動化が進めば、雇用保障は弱くなる。
ここで「自己責任社会だ、弱者切り捨てだ」と騒ぐ人が出るが、それもまた議論の本質を外している。
市場主義は倫理の議論ではなく、制度の設計の議論だ。保険を薄くして競争を強め、効率を上げ、成長率を取りに行くという戦略であり、それは確かに痛い。
しかしその痛みを通じて、長期的な所得水準の上昇を狙うのが市場主義の論理である。
財政問題は痛みをゼロにする方法ではなく、どの痛みを採用するかの選択でしかない。
増税反対、給付維持、経済成長、財政健全化を全部同時に叫ぶのは、制約を無視して目的を盛り込んだだけの自己放尿である。
しかもその自己放尿は、選挙で票を取るための麻薬として機能する。
国民も政治家も、現実を直視するより麻薬を欲しがる。これは供給と需要が一致しているので、市場原理的には非常に美しい。悲しいことに。
日本が今選んでいるのは、市場主義の荒々しい競争ではなく、社会保障を厚くして安定を買う道だ。
つまり、競争の痛みを減らし、その代わりに税負担と成長鈍化と制度維持の痛みを引き受ける道である。
しかし現実には、政治もメディアも、選択を選択として語らない。
痛みの話をすると嫌われるからだ。だが、嫌われるから言わないというのは、政策論ではなく人気商売である。
政府は善意で地獄を舗装する。善意で制度を守り、善意で給付を増やし、善意で規制を強め、善意で補助金を撒く。
しかし結果として、価格メカニズムは歪み、生産性は落ち、財政は硬直化し、未来の自由度は奪われる。
制度設計とは、人間が利己的であり、政治家が票を欲しがり、官僚が権限を欲しがり、企業が補助金を欲しがるという現実から出発しなければならない。
聖人が統治する世界を前提にした政策は、現実世界ではだいたい破綻する。
だから、歳入歳出の議論でまず必要なのは、幻想を捨てることだ。
日本経済の停滞を「需要不足」や「デフレマインド」といった心理現象に還元する議論は、だいたい自己満足の物語で終わる。
問題はマクロの気分ではなく、ミクロのインセンティブ設計と市場の競争構造にある。
成長とは、資源配分の効率化と生産性上昇の結果であって、祈祷ではない。
したがって日本経済復活の鍵は、内向きの保護と規制で安定を買うことではなく、グローバリズムを極大化して競争圧力を最大化し、資本・労働・技術の最適配分を強制的に起こすことにある。
グローバリズムとは、感情的には「外国に奪われる」物語として語られがちだが、経済学的には比較優位と分業の徹底である。
比較優位が働く世界では、各国は自国が相対的に得意な領域に資源を集中し、不得意な領域は輸入する。
これにより総生産が増える。ここで重要なのは、これは「善意の国際協調」ではなく、価格シグナルによる資源配分の自動最適化だという点だ。
国境を越えた競争は、企業の非効率(ぬるま湯組織の怠惰)を破壊し、利潤最大化行動を通じて生産性を引き上げる。
国内市場に閉じている限り、日本は既得権益の温床としての規制に守られ、競争の欠如から技術革新の圧力が弱まる。
これは市場の失敗ではなく、政府の失敗が温存される構造である。
日本が直面している本質的問題は、成長率の低下というより、全要素生産性(TFP)の伸び悩みだ。
TFPは精神論では増えない。TFPが増えるのは、技術進歩、資本深化、そして競争による淘汰が起きるときだけだ。
つまりシュンペーター的創造的破壊が必要であり、その燃料が国際競争である。
国内でゾンビ企業を延命させ、非効率部門を温存し続ける政策は、資源の誤配分を固定化し、成長率を削る。
これは典型的な政治的資本主義、すなわち市場を装った官製配分であり、自由市場とは逆方向の制度だ。
日本の労働市場は、硬直性と内部労働市場の過剰保護によって、人的資本の再配分が遅い。
解雇規制、年功賃金、過剰な雇用保護は、表面的には安定を提供するが、実態は労働移動を阻害し、成長産業への資源移転を遅らせる摩擦コストである。
グローバル競争が激化すれば、企業は利潤率を維持するために組織改革と賃金体系の合理化を迫られ、結果として労働市場の柔軟性が増す。
これは「労働者いじめ」ではなく、労働が最も高い限界生産性を持つ場所へ移動することを可能にする制度改革である。
さらに資本市場の観点でも、グローバリズムは不可避の処方箋になる。
国際資本移動が自由化されれば、国内企業は株主価値と資本収益率を世界基準で問われる。
企業統治の改善、資本コスト意識の浸透、非採算事業の切り捨てが進む。
ここで起きるのは道徳改革ではなく、資本市場がもたらす規律である。
規律とは、企業にとっては不快だが、社会全体の資源配分にとっては必要不可欠な強制力だ。
日本ではしばしば「産業保護」「食料安全保障」「経済安全保障」という言葉が万能の免罪符として使われる。
しかし、これはレントシーキング(政治的に利益を獲得する活動)の温床であり、保護の名を借りた独占の固定化である。
関税、補助金、参入規制は、短期的には国内企業の利潤を守るが、長期的には技術革新を止め、価格を引き上げ、消費者余剰を破壊する。
これは国益ではなく、特定業界の利益を国益と錯覚させる政治的マーケティングに過ぎない。
市場の競争が消えると、品質改善もコスト削減も止まり、経済全体が静かに腐る。
グローバリズム極大化の真価は、輸出拡大ではなく輸入拡大にある。
輸入とは敗北ではない。輸入は、安価で高品質な財を国内に導入し、国内の生活コストを下げ、実質賃金を引き上げる。
ここで「貿易赤字は悪」という素朴重商主義を持ち出すのは、経済学的には前時代的である。
経常収支は貯蓄投資バランスの鏡像であり、貿易収支だけを道徳的に裁くのは会計の読み間違いだ。
また、日本のイノベーション停滞は「技術力の低下」ではなく、インセンティブの弱さとして理解する方が筋が良い。
国内市場で規制と補助金に守られていれば、企業はリスクを取って研究開発するより、政治的ロビー活動で安定利潤を確保する方が合理的になる。
これがレント志向経済の病理だ。グローバリズムの極大化は、この病理を破壊する。国際市場で勝たなければ利益が出ない環境に置かれれば、企業は嫌でも技術投資と経営改革を行う。
日本が復活するには、国内で「再分配を厚くして安心を与える」よりも、成長率を引き上げてパイを拡大する方が合理的である。
成長のない再分配は、結局インフレ税や国債依存という形で将来世代に押し付けられる。
インフレは常に貨幣的現象であり、財政拡張による需要刺激で成長を捏造しようとすれば、最後は貨幣価値の毀損に行き着く。
日本が必要としているのは、マネーの増量ではなく、生産性の上昇である。
日本経済の復活とは「世界市場の荒波に投げ込まれ、勝ち残れる構造を作る」ことに尽きる。
自由貿易、資本移動の自由化、移民・高度人材の受け入れ、規制撤廃、競争政策の強化、企業統治改革。
すなわち市場の価格メカニズムを最大限機能させ、資源配分を最適化し、利潤動機を通じてイノベーションを誘発することだ。
グローバリズムを恐れる態度は、実のところ競争を恐れる態度であり、競争を恐れる経済は停滞を選ぶ経済である。
日本が再び成長するために必要なのは、国内のぬるま湯を温存する政策ではない。
世界市場という冷水に飛び込み、競争圧力を極大化し、創造的破壊を起こし続ける制度設計である。