はてなキーワード: 進学校とは
もちろん全員ではない。
ただ、少なくとも私はそうだった。
十五歳で負けていれば、私はたぶん助かった。
十八歳まで勝ってしまったから、負け方を知らないまま大人になった。
私はどこで間違えたのだろう。
若い頃の私は、自分が間違えることより、他人に合わせて間違えることを恐れていた。その恐れはたしかに私を東大まで連れていった。けれど同じ恐れが、私を社会から少しずつ遠ざけた。
私は今、四十七歳になる。
前の会社は、私から見れば理不尽な理由で私を遠ざけ、最後には私の居場所を消した。前の前の会社も、その前の会社も似たようなものだった。
今でも半分くらいはそう思っている。
ただ、半分はもう思っていない。
これから書くのは、その「半分」の話だ。
先日、ある雑誌に頼まれて大学新入生向けの短いエッセイを書くことになった。
私は引き受けた。
引き受けながら、ふざけるなと思っていた。
社会人として何かを成し遂げたわけでもない私に、なぜそんな依頼が来るのか。たぶん編集者は、私の経歴の一行目しか見ていなかったのだろう。
一行目だけは綺麗だ。
二行目以降は読まないほうがいい。
私は二日間、机の前に座った。
何も書けなかった。
「夢を持て」とも「努力は裏切らない」とも書けなかった。
書けば嘘になる。
私は夢を持っていなかった。
努力は私を裏切らなかったが、努力以外のすべてが私を裏切った。
これは雑誌には載らない。
たぶん誰にも届かない。
けれど、もし、たまたま、これから大学に入る誰かが読んでくれるなら、一つだけ伝えたいことがある。
素直になれ。
よりにもよって私が言うことか。
私はずっと素直ではなかった。
性格も悪かった。
懺悔だ。
懺悔は聞かなくてもいい。
ただ、もし君が今、自分の周りを少し愚かに感じているなら、その先に何が待っているかを、私という見本を通して少しだけ覗いてみてほしい。
第一部 正解者だった頃
地名は伏せておく。
妹が一人いた。
家は古かったが、貧しくはなかった。
私はわかっていた。
手を挙げた。
当てられて答えを言った。
正解だった。
先生が褒めてくれた。
私は嬉しかった。
書きながら本当にそう思う。
あの瞬間以上の幸福は、その後の私の人生にもう一度も訪れなかった。
二番のときもあったが、すぐに一番に戻った。
周りもそう扱った。
先生も、親戚も、近所のおばさんも。
中学校のとき、母が近所の人にそう言われているのを二回か三回聞いたことがある。
母は嬉しそうに笑っていた。
否定はしなかった。
私は、否定しなかった母を嫌いにはなれなかった。
中学まではまだ良かった。
授業はつまらなかったが、それは皆そうだった。
班活動もそれなりに楽しんでいた。
私はクラスで浮いていなかった。
背は普通だった。
顔は、まあ、普通だった。
私が入ったのは、県内で一番偏差値が高いとされる公立高校だった。
OBに地元選出の国会議員と県知事がいる、というのが地元の自慢だった。
今思えば、それも大した自慢ではない。
けれど当時は、その校門をくぐることに確かな誇りを持っていた。
入ってみると、勉強はやはり私が一番だった。
自分が一番ではないことが、十五歳の私には許せなかった。
期末試験で一番を取った。
決まる過程で、私は反対した。
もう新鮮味がない。
準備期間は二週間しかない。
私は別の案を提案した。
模擬店で何か食べ物を出すほうが客の回転が早く、利益も出やすい。
これは数字で示した。
前年度の各クラスの売上データを、わざわざ生徒会から借りてきていた。
却下した中心は、クラスで人気のあった明るくてうるさい男子だった。
彼は私の数字を見もせずに言った。
私は食い下がった。
「楽しさを論じているんじゃない。準備期間と利益の話をしているんだ」
誰かが小さく「うわ」と言った。
私はその「うわ」の意味が今ならわかる。
当時はわからなかった。
担任が温和な顔で言った。
「みんなで決めたんだから、それでいこう」
私は黙った。
黙ったが、心の中では「これは間違いだ」と思っていた。
当日の朝になっても暗幕が一部つけられず、外から中が見える状態のまま開店した。
客は数えるほどしか来なかった。
打ち上げの席で、誰も私に「お前の言う通りだったな」とは言わなかった。
クラスの全員が笑った。
私は笑えなかった。
笑えない、というのは笑顔の筋肉が動かないという意味ではない。
心が笑い方を覚えていない、という意味だ。
彼らは間違えたあと、間違えたまま、楽しそうに次へ進んでいた。
私は一人だけ間違えていなかった。
間違えていないのに、その輪の中にいなかった。
そして結論を出した。
人に合わせると間違える。
多数派は正しさを選ばない。
この結論は、十六歳の私にとってほとんど真理として体に入った。
そして最悪のことに、それは半分は事実だった。
これが後で書くことのすべての始まりだ。
似たような出来事はその後何度もあった。
一つだけ、もう一つ書いておく。
班員は四人。
私はすぐに気づいた。
私は班員にそれを伝えた。
「だから、別の角度で攻めたほうがいい。例えば、水質と水生昆虫の種数の相関を上流と下流で比較するとか、もう少しオリジナリティのある切り口がいる」
班員の三人は、ぼんやりと私を見ていた。
一人の女子が言った。
「先生は最低ラインの話をしているだけだ。発表会で評価されるためには、もう一段必要なんだ」
そこで私は致命的なことを言った。
今でも覚えている。
そのとき私は、自分が何かまずいことを言ったことには気づいていた。
けれど何がまずいのか、正確にはわからなかった。
今ならわかる。
ただ、四人で何かを一緒にやる時間そのものを、彼女たちなりに大切にしようとしていた。
発表会の評価は、可もなく不可もなくだった。
私はその後、班の打ち合わせにあまり出なくなった。
彼女たちも私を呼ばなくなった。
私たちは最後まで、お互いの名前をフルネームで言えるような関係にはならなかった。
その夏、私は塾の自習室にこもって一人で勉強するようになった。
そのほうが効率が良かった。
私の偏差値は上がった。
この時期に、もう一つ私の中で固まったことがある。
「言い方」という言葉が嫌いになった。
正しいことを言うと、決まって誰かが「言い方がきつい」「言い方を考えろ」と言った。
私には、それが奇妙な反論に見えた。
内容が正しければ、それでいいではないか。
なぜ正しい内容を、わざわざ柔らかく包まなければならないのか。
それは内容より装飾のほうが大事だと言っているに等しい。
知性に対する侮辱ではないのか。
私はそう考えた。
内容が正しければ、いずれ理解される。
これは私の中で信仰になった。
ここで君に一つだけ言わせてほしい。
「言い方」は装飾ではない。
内容を相手に届けるための、内容の一部だ。
ただの独り言だ。
三十年遅かった。
君はこれを、十八歳のうちに知ってほしい。
東京大学の合格発表は、その時代はまだ本郷キャンパスの掲示板に紙が貼り出された。
私は二月の終わりに東京へ出て、安いビジネスホテルに泊まり、当日、本郷に向かった。
三月十日だった。
寒い日だった。
これは嘘ではない。
本当のことだ。
「やった」とは思った。
けれど、それだけだった。
模試の判定はずっとAだった。
直前の本番形式の演習でも、合格者平均より上を取り続けていた。
落ちる理由がなかった。
掲示板の前では、合格した人たちが抱き合ったり、泣いたり、家族に電話したりしていた。
私は誰にも電話しなかった。
けれど誰の声を聞きたいとも思わなかった。
私は一人で本郷の門を出て、近くの蕎麦屋に入り、かけそばを食べた。
蕎麦はぬるかった。
それでも最後まで食べた。
この四年間、誰と過ごすんだろう。
喜びではなく、空白に近い感情だった。
私はこれから、知らない街で知らない四年間を過ごす。
誰も私を「すごい」と言わない。
少しだけ怖かった。
けれど私は、その怖さをその日のうちに押し込めた。
「いや、俺はやってきた。一人でやってきた。これからも一人でやればいい」
そう自分に言い聞かせた。
これは合格した日に、十八歳の私が自分自身に与えた呪いだった。
その呪いに私は気づかなかった。
二十年以上、気づかなかった。
第三部 内容で勝ち、現実で負ける
社名は伏せておく。
商社系の、若手にもそれなりに権限が回ってくると言われている会社だった。
配属された部の課長は論理的な人で、私の作る資料の精度をある程度評価してくれた。
問題は二年目以降に始まった。
ある新規プロジェクトの立ち上げに関する会議で、部長が明らかに前提条件の数字を間違えていた。
市場規模の試算根拠が五年前の業界レポートに依存していて、その後の市場の変化を反映していなかった。
私は会議の中盤でそれを指摘した。
「すみません。その市場規模の数字、ベースになっているレポートが古いです。直近三年で市場構造が変わっているので、現状の数字はその試算より三〇%程度小さいはずです。私の試算では、こちらになります」
試算表は、出典付きで再現可能な形にしてあった。
部長はしばらく画面を見ていた。
「うん、わかった。数字の話はまた別の機会にしよう。今日は方向性の話をしている」
「いえ。方向性は市場規模を前提にしているので、市場規模が違えば方向性自体が変わります」
部長はもう一度、私を見た。
今度は少し、目に疲れがあった。
「君の言うことはわかった。あとで個別に話そう」
会議は、私の指摘を反映しないまま進んだ。
「お前、ああいう言い方やめたほうがいいぞ」
「内容として間違ってるか?」
「内容は合ってる。けど部長の顔、潰しただろ」
「顔の話なんかしていない。事業の話をしているんだ」
同期はため息をついた。
「そう。そうなんだよ。お前はいつも事業の話しかしない。だから、お前以外のみんなが何の話をしてるのか、お前にはわかってないんだよ」
そう言って行ってしまった。
私はその言葉をしばらく考えた。
考えた末に、こう判断した。
そして忘れることにした。
理由は表向きには、「別のプロジェクトに君のスキルが必要だから」だった。
私が回された別のプロジェクトは、ほとんど何も動いていない塩漬けに近いものだった。
私は課長に直接抗議した。
「私の指摘が間違っていたのですか」
課長は少しだけ困った顔をした。
「指摘の内容は間違っていなかった」
「では、なぜ外されるのですか」
「内容ではない。理由は内容ではないんだ」
「では、何ですか」
それから、こう言った。
「君は正しい。けれど、君と一緒に仕事をしたいと言う人間がいない」
その瞬間、自分の中の何かが冷たく固まったのを覚えている。
私は課長を見た。
できるだけ感情を出さずに言った。
「では、正しさよりも好かれることのほうが評価されるのですか」
課長は私を長く見た。
それから言った。
「そうじゃない。仕事は一人ではできないから、一緒に仕事ができる人間になることも能力のうちなんだよ」
私は頷かなかった。
このパターンが三十代を通じて繰り返された。
三回、転職した。
会社が変わっても結末は似ていた。
次の半年で、私の指摘が人を傷つけるようになる。
私は毎回、辞めるとき同じことを思った。
そのとき初めて、こう思った。
これに気づくのに二十年かかった。
二十年だ。
君がこれを二十二歳のうちに気づければ、私より二十年得をする。
二十年は長い。
本当に長い。
ここでKの話に戻る。
Kとは大学を卒業してから、ほとんど連絡を取らなくなっていた。
年賀状が最初の二、三年は来ていたが、私が返さなかったので自然と途絶えた。
記事は、ある業界の中堅企業の新規事業立ち上げに関するものだった。
写真の中のKは、大学のときと同じように口を大きく開けて笑っていた。
少しだけ太っていた。
けれどKは外されなかった。
なぜか。
Kは失敗の途中で、社内の他の部署の人間を何人も巻き込んでいたからだった。
開発の係長。
経理の若手。
Kは新規事業のために、社内のいろいろな人間に頭を下げて知恵を借りていた。
失敗が見え始めたとき、その人たちがKを助けた。
そう言ってKを庇った。
Kは結果として責任者の座を維持し、二年目に軌道修正に成功した。
「最初の半年で失敗したのは僕のせいです。市場の読みが甘かった。けど、その失敗を直せたのは僕一人の力じゃないです。社内のいろんな人が一緒に直してくれた。だからこれは、僕のチームの成果なんです」
私はこの記事を何度も読んだ。
そして初めてわかった気がした。
Kは最初から、「一人で正解を出す」ことを目指していなかった。
Kは最初から、「みんなで間違えて、みんなで直す」ことを戦略としていた。
私はずっとKを軽く見ていた。
Kは内容で勝てないから、人と仲良くするのだと思っていた。
違った。
だから内容で勝つかわりに、内容を直せる関係を作ることに力を注いでいた。
Kは、私が二十年かけても気づかなかったことを二十二歳のときにはもう知っていた。
中学校か高校のうちに、一度、自分より頭のいい人間に出会っていたのだろう。
そこで、自分が一人では勝てないことを学んでいたのだろう。
Kは十二歳か十三歳のうちに負けていた。
そしてその負けから、人と一緒にやることを学んでいた。
私は十八歳まで負けなかった。
その代償が、その後の二十年だった。
両親が立て続けに亡くなった。
父が先で、母がそのあとだった。
葬式に来た親戚や、父の昔の同僚や、母の友人たちは、私のことを「東大を出た立派な息子」として扱った。
私はその扱いを受け入れた。
受け入れるしかなかった。
葬式の最後、母の友人だったという、私の知らないおばさんが言った。
「お母さん、あなたのことをいつも自慢してたのよ。東大に入ったときも、いい会社に入ったときも。でもね、最近お母さんこう言ってたの。『あの子、結婚はしないのかしらね』って。心配してたわ」
私は笑顔で答えた。
「ええ、心配かけました」
その夜、実家の、自分が高校時代に使っていた部屋で一人で酒を飲んだ。
机の引き出しを開けると、高校時代の模試の成績表がまだ残っていた。
全国偏差値、七十六。
順位、全国八位。
その紙を長い時間見ていた。
そして思った。
三十年前の紙だ。
私はその紙を引き出しに戻した。
戻して、引き出しを閉じて、また酒を飲んだ。
涙は出なかった。
涙が出るような感情ではなかった。
もう少し乾いた、静かな何かだった。
母が亡くなって少し経った頃、私はMに偶然、駅で会った。
Mはすぐに私に気づいて「お前、変わらないな」と言った。
私はMに気づいていなかった。
Mは髪が薄くなり、少し太っていた。
スーツの肩のあたりがくたびれていた。
Mは結婚していた。
子供が二人いた。
Mは私の近況を聞かなかった。
たぶん聞かないほうがいいと判断したのだろう。
代わりに、駒場の頃の話をいくつかした。
「お前、覚えてる? あの語学クラスの和訳の輪。Kがやってたやつ」
「ああ」
「俺、あれに助けられたんだよ」
「助けられた?」
「うん。俺さ、地方から出てきて、最初お前と似たような感じだったじゃん。一人でやれば全部できる、みたいな。けどKがしつこく誘ってくれてさ。最初は俺も、うざいと思ってたんだよ。けど何回か行ってみたら、自分が見えてないところを他のやつが見えてたりするんだよな。それで俺、考え方を変えたんだ。一人で全部やる必要はないって」
Mが続けた。
「あれが俺の人生の、たぶん一番大きな転換点だった。あそこでKに引っ張ってもらえたから、俺、人と一緒に仕事ができる人間になれたんだよ。今の仕事、俺一人じゃ絶対できないからな。役所って根回しの世界だから」
私は頷いた。
Mが私をちらっと見た。
「お前は行かなかったよな、あの輪」
「うん」
「何で行かなかったんだ?」
しばらく答えられなかった。
それから、ようやく言った。
「行く必要がないと思っていた」
Mはそれ以上聞かなかった。
私たちはもう一杯ずつ飲んで別れた。
Mは終電で帰っていった。
最後に「また飲もうな」と言った。
私も「うん」と言った。
私たちはその後、一度も飲まなかった。
二人とも、それをわかっていたと思う。
Kに引っ張ってもらえたから、俺、人と一緒に仕事ができる人間になれたんだよ。
Kは私のことも引っ張ろうとしていた。
「気が向いたら、声かけて」
「一緒に間違えて、一緒に直せばいいんじゃないかな」
Kは私に何度も手を差し出していた。
私はその手を毎回振り払っていた。
Kを軽く見ていた。
そのプライドのために、人と一緒に何かをするということを、生涯、覚えそこねた。
電車の中で初めて認めた。
あいつは、ずっと間違えていたわけじゃなかった。
あいつは、正解を一人で出すことを最初から諦めていただけだった。
だから、みんなで間違えたあと、みんなで直すことができた。
俺は、一度も間違えないために、一度も誰とも直せなかった。
涙はまた出なかった。
「人生は、一度きり」
そんなことが書いてあった気がする。
正確には覚えていない。
ただ、もう一度だけ君に語りかけたい。
君がもし、私に少し似た人間なら聞いてほしい。
勉強がそれなりにできる。
一人でいることを苦にしない。
周りが少し幼く見える。
「言い方」を装飾だと思っている。
人に頭を下げることを敗北だと感じている。
もしそうなら聞いてほしい。
君が会っていないのは、君が悪いからではない。
たぶん環境のせいだ。
中堅校で一番頭がいい子。
学年で目立つ秀才。
これは君の責任ではない。
そこには君と同じか、君より上の人間が必ずいる。
中学生のときから、もっと厳しい競争を経験してきた人間が必ずいる。
それが君のこの先三十年を決める。
選択肢は大きく二つある。
一つは、その人間を軽く見ることだ。
「あいつは要領がいいだけだ」
「あいつは育ちがいいだけだ」
これは簡単だ。
すぐにできる。
何の努力もいらない。
プライドが守られる。
気持ちがよい。
私が選んだのはこっちだ。
そして、その代償をこの四十七年間で払い続けている。
もう一つは、その人間に頭を下げることだ。
「すごいですね」
「教えてください」
「どうやってそんなに上手くやるんですか」
そう聞くことだ。
これは難しい。
プライドが傷つく。
気持ちが悪い。
自分が小さく感じられる。
けれど、こっちを選べる人間は二十年後、ほぼ確実に生き残る。
なぜなら、こっちを選んだ瞬間から、君の能力は自分の能力だけでなくなるからだ。
君は自分より上の人間の能力を、少しずつ自分の中に取り込んでいけるようになる。
これは私が二十年かけて気づいたことだ。
自分より上の人間に、自分の間違いを笑いながら指摘されたときだ。
そしてもう一つ。
これは道徳の話ではない。
君が長く生き延びるための技術の話だ。
「性格をよくする」というのは、誰にでも愛想よくすることではない。
人と一緒にいるときに、その人が「君と一緒にいて楽だ」と感じるように自分の振る舞いを設計することだ。
これを十代後半のうちにやっておかないと、後からやり直すのが本当に難しい。
二十代の後半から急速に固まる。
三十代に入ると、ほとんど固まる。
四十代になると、もう変わらない。
私は四十代の自分を見て、それを知った。
君は今、二十歳前後だ。
固まる前に修正してくれ。
「ごめん」
「教えて」
「自分が間違っていた」
この四つを重く、特別なこととして言わなければならない人間は、私のように誰とも何も直せなくなる。
「私は完璧ではない」
「私は、変われる」
ここで最後に、一つだけ付け加えたい。
私はこれまで、「人に合わせるな」「集団は誤答を選ぶ」「会議はノイズだ」「調整は知性の敗北だ」と思ってきた。
だから誤答を直すには、自分の見え方の外側を持ってくる必要がある。
それを持ってきてくれるのが他人だ。
この関係を若いうちに作っておかないと、君の認知は君一人の中で閉じる。
その罰が、私の四十代だった。
君には、その罰を受けてほしくない。
この手紙を、ここで終える。
書きながら何度か、自分のことが嫌になった。
いや、本当のことを言えば、何度か自分のことをまだ正当化したくなった。
「Kは、俺ほど深くは考えていなかった」
そういう声が、今でも私の中で聞こえる。
たぶん、その声は死ぬまで消えない。
けれど私は、その声をもう信じない。
私は君に、私と同じになってほしくない。
私はもう、どこにも戻れない。
母も父も、もういない。
KともMとも、もう会わない。
私の若い頃のクラスメイトたちは、たぶんそれぞれの家庭で、それぞれの夕食を食べている。
私には夕食を一緒に食べる相手がいない。
これは自業自得だ。
誰のせいでもない。
けれど君は、まだ間に合う。
これから「ごめん」「教えて」「ありがとう」「自分が間違っていた」を毎日言える。
これから人と一緒に間違えて、人と一緒に直せる。
それを君のうちに習慣にしてほしい。
二十歳の君の習慣は、四十歳の君の人格になる。
二十歳の君が人に頭を下げることを覚えれば、四十歳の君は誰かに助けられる人間になる。
二十歳の君が自分の間違いを認めることを覚えれば、四十歳の君は間違える前に人に相談できる人間になる。
二十歳の君が雑談を大事にすることを覚えれば、四十歳の君には夕食を一緒に食べる相手がいる。
これは綺麗事ではない。
最後に、もう一度だけ。
正しさは、人に届かなければ現実を変えない。
一人で正解を出せる人間より、人と一緒に間違えて直せる人間のほうが長く生き残る。
けれど、誤答を直す力もまた集団の中にある。
その集団に、君が入っていけるかどうか。
それが君のこれからの三十年を決める。
私は入っていけなかった。
その理由をたくさん書いてきた。
けれど本当の理由は、たぶん一つだ。
私は怖かったのだ。
その怖さを、私は「孤独を選ぶ強さ」と自分に言い聞かせていた。
それは強さではなかった。
ただの臆病だった。
君が私と同じ怖さをもし持っているなら、その怖さに名前をつけてやってほしい。
「臆病」と。
名前をつけずに、それを「強さ」と呼び続ければ、君は私になる。
長くなった。
これで終わる。
君が今夜、誰かと夕食を食べられますように。
君が十年後、誰かと一緒にその失敗を直せていますように。
君が二十年後、私のように、見知らぬ若者へ誰にも頼まれない手紙を書く人間にならずにすみますように。
これは説教ではなく、
これは祈りだ。
どうか。
私のようには、ならないでくれ。
第二部 学び直せなかった一年
ここで、君に正面から語りかけたい。
たぶん君の中には、私に近い感覚が少しはあるはずだ。
なくてもいい。
あったとしたら聞いてほしい。
入学して最初の数週間、君は周りを見てこう感じるかもしれない。
「あれ、この人たち、思っていたほどすごくないな」
先輩たちがわいわい騒いでいる。
話の中身はたいしたことがない。
誰々が誰々を好きらしい、という話。
君はそれを聞きながら、心のどこかでこう思うかもしれない。
「俺はこんな話をするために東京に出てきたんじゃない」
その感覚は半分は正しい。
ただ、残りの半分について、私が二十年かけて学んだことを君に伝えたい。
雑談を飛ばして、いきなり大事な話だけをしようとする人間は、長い目で見ると誰とも何の話もできなくなる。
これは二十年後に私が痛感したことだ。
けれど十八歳の私は、これをまったく理解していなかった。
理解する気もなかった。
入学して一週間ほど経った頃、駒場のキャンパスで一人の同級生と話す機会があった。
名前は仮にKとしておく。
背が高く、髪を少し茶色く染めていて、笑うとき口を大きく開けた。
「サッカーをやってました。あと、文化祭の実行委員やってました」
それを聞いた瞬間、私はKにあまり期待しなかった。
あの私を退屈させた連中の、東京版だろう。
そう思った。
ところがKはよく話しかけてきた。
授業のあと、「飯行かない?」と私を誘った。
最初は断った。
二度目も断った。
三度目に、Kは少しだけ困った顔をして聞いた。
「お前、誰とも飯食わないの?」
私はそう答えた。
Kは少し笑った。
「ふうん。じゃあ、気が向いたら声かけて」
そう言って行ってしまった。
そのとき私は、自分がKに少しだけ優越感を持ったのを覚えている。
私は違う。
私は一人でも平気だ。
だから私のほうが強い。
そう思った。
これが間違いの始まりだった。
Kは、誰かと一緒にいないと不安だったのではない。
Kは、一緒にいる時間そのものを価値あるものとして認識する能力を持っていた。
そのことを、私は二十年後に理解した。
語学クラスでは、よく数人で集まって、課題のフランス語の和訳を持ち寄って見せ合っていた。
私は最初、その輪に入った。
けれど私の和訳はたいてい一番正確だった。
少なくとも私はそう思っていた。
私は指摘した。
「そこ、違う。主語はこっちじゃない」
Kは「あ、ほんとだ。サンキュー」と言ってすぐに直した。
それはいい。
問題はその次だった。
別の同級生、仮にMとしておく。
Mが読み上げた和訳も間違っていた。
私は同じように指摘した。
「Mも、そこ違う」
Mは少し顔を赤くして、「うん……」と言った。
Kが軽く笑いながら言った。
「お前、間違いの指摘の仕方、ちょっと冷たくない?」
私はKを見た。
「冷たい? 間違ってるから間違ってるって言っただけだろ」
「いやそうなんだけどさ。なんかこう、もうちょっと、『あ、ここ、俺もよくわかんないんだけど、こうじゃないかな?』みたいな感じ、ない?」
私は内心で軽蔑した。
出た。
「言い方」だ。
Kは内容で勝てないから、言い方の話に逃げている。
私はそう判断した。
その日から、その輪には行かなくなった。
数週間後、その輪がMを含めて続いていることを知った。
けれどMは、Kの輪の中で笑うようになっていた。
間違いを指摘されても、頭をかいて「あ、ほんとだ」と言うようになっていた。
Mは変わった。
私が変わらなかったのに対して。
私はMのことを軽く馬鹿にした。
妥協したのだと思った。
今になって思う。
妥協したのはMではなかった。
Mは学んだのだ。
私は学ばなかったのだ。
風の噂で聞いた。
実際、内容は真面目だった。
そこには二年生にSという先輩がいた。
Sは私とは違うタイプの賢い人だった。
判例を読むスピードは私と同じくらいだったが、議論のときの立ち回りがまったく違った。
まず、後輩や他の人の意見を聞く。
そして誰かの意見の中でいいところを見つけて、「それ、いいですね」と言う。
「○○さんが言ったところに加えて、こういう論点もあるんじゃないかと思って」
そう言った。
私はSのやり方を、最初ずるいと思った。
あれは自分の頭で考えていない。
人の意見に乗っかっているだけだ。
そう思ってSを軽く見た。
「Sさんの今の論理は、判例の射程を超えていると思います。○○判決はあくまで△△の場合に限った話で、これを一般化するのは無理があるんじゃないですか」
Sは私を見た。
少しの間、何も言わなかった。
「うん、たしかにそうだね。射程の問題は僕も気になっていた。じゃあ、君だったらどこまで一般化できると思う?」
私は答えた。
私の答えは、Sが言うべきだった内容をより精密にしたものだった。
Sは「それ、いいね」と言って、私の意見を議論全体に位置づけた。
私は勝った気がした。
サークルが終わったあと、別の三年生の先輩が私を呼び止めた。
「君さ、頭はいいよ。間違いなく。ただ、Sのこと、ちょっとなめてないか?」
「いえ、なめてはいないです」
「Sはね、あの場で君のために負けてくれたんだよ」
「Sは、あの場の議論をいいものにするために、自分の意見を引っ込めたんだ。君に花を持たせたんだよ。それはSがバカだからじゃない。Sのほうが、議論っていう場全体を見てるからだ」
私は不機嫌になった。
「いや、でも、内容としてSさんの最初の論理は間違っていました」
先輩はため息をついた。
「うん。まあ、そうかもしれない。でも君がこれから先、誰かと一緒に何かをやるなら、内容で勝つだけじゃ足りないよ」
私はその日、サークルをやめた。
正確に言えば、その日のうちにメールで退会の連絡をした。
理由は書かなかった。
二度とそのサークルには行かなかった。
夏休みに入る前、私はKにもう一度だけ会った。
Kは相変わらずにこにこしていた。
彼女もできたらしい。
私はその女子を、可愛いとも可愛くないとも特に思っていなかった。
Kが別れ際に言った。
私は笑って答えた。
「誰かに頼って、その誰かが間違ってたらどうするんだ?」
Kは少し考えた。
「うーん。そうしたら、一緒に間違えて、一緒に直せばいいんじゃないかな」
私はその言葉を軽くいなした。
心の中で、「だから、お前は二流なんだ」と思った。
一緒に間違えて、一緒に直す。
そんなことに付き合っている時間はない。
私は一人で、間違えずに進む。
正確には、二十年かけてようやく思い出せるようになった、と言うべきかもしれない。
ここで、君にもう一つだけ伝えたい。
私が地方の進学校で身につけた「一人で考えたほうが正しい」という認知は、地方の進学校の中ではたしかに事実だった。
私の周りには、私より速く正解にたどり着ける人間がいなかった。
集団で議論すれば、議論は私のレベルに引き下げられるか、私の意見が通らないかのどちらかだった。
しかし東京大学に来て、私の周りには私と同じか、私より速く正解にたどり着ける人間がたくさんいた。
その時点で、私は戦略を変えるべきだった。
もう一人で考えなくていい。
人と議論したほうが、自分一人で出せる答えよりいい答えが出る確率が高い。
人に頼っていい。
人に教わっていい。
人に「わからない」と言っていい。
けれど私は学び直さなかった。
なぜなら、地方で身につけた認知は、私を東大まで連れてきた成功体験だったからだ。
それを捨てることは、自分の人生を否定することのように感じられた。
変化を恐れた本当の理由は、たぶんこうだ。
だから勉強の戦い方を変えることは、自分そのものを失うことのように感じられた。
後になって考えれば、ただの臆病だった。
けれど当時の私は、自分が臆病であることにまったく気づいていなかった。
孤独に耐えられる、というのは強さではない。
ただの不器用さだ。
優三つの「優三つ」というやつだ。
一人でやれば結果が出る。
けれどその学年末、駒場の生協の前で、語学クラスのKたちが五、六人で集まって笑いながら写真を撮っているのを見た。
Kの隣にはMもいた。
Mは四月のときと比べて別人のように、いい顔で笑っていた。
私はその輪を遠くから見ていた。
その輪の中に入りたいとは思わなかった。
ただ、奇妙な感覚があった。
結婚式に呼んだり。
子供の話をしたり。
そう自分に言い聞かせた。
その夜、私は寮の自分の部屋で二年生の科目の予習を始めた。
ここで私は、君に最も伝えたいことの一つを書く。
地方の進学校から東大に行ったことの本当の不幸は、東大に行けたことではない。
もし通っていたら。
私は十二歳か十三歳のうちに、自分より賢い人間に出会っていただろう。
泣いたかもしれない。
けれど十二歳の私はまだ柔らかかった。
十二歳のうちに負けることは致命傷にならない。
十二歳の負けは回復する。
十二歳の負けからは、人に頭を下げることを学べる。
十二歳の負けからは、「わからないから教えて」と言うことを覚えられる。
私の認知の中で、「負ける」という選択肢が十八歳の段階ですでに消えていた。
そして十八歳で東大に入った瞬間、私は相対的に普通の人間になった。
けれど、そのときにはもう遅かった。
十八歳の私は、十二歳の私のようには柔らかくなかった。
私は上の人間に頭を下げるかわりに、上の人間を見ないことにした。
上の人間から学ぶかわりに、「あいつは要領がいいだけだ」と評価することにした。
これらは全部、私の防衛反応だった。
だから君がもし、地方から東京の大学に出てきたばかりでこれを読んでいるなら、聞いてほしい。
早く、負けてくれ。
自分より明らかにすごい人間に会ったら、嫉妬する前に頭を下げてほしい。
「教えてください」と言ってほしい。
それは君の性格を守るための救済だ。
天井を知らないまま二十代に入った人間は、たいてい私のようになる。
私のようになるな。
これは命令ではない。
お願いだ。
四国の田舎に生まれ育つ。家族は父母姉弟。父母とも教員。父親は強めのASDで、友人知人はいないし、聞いたこともない。表情に乏しい。他人と目を合わせて話すのを見たことがない。小さなことで突然烈火の如く怒鳴り始める。
母親はASDとADHD併発。空気を読めず、その場で言ってはいけないことを平然と言う。おっちょこちょいだけど憎めない人、みたいなキャラだが、それは半分は本当で、もう半分は計算して演じている感じ。
姉弟とも友人はほぼいない。姉は結婚したが夫はかなり変わり者。弟は引きこもり。
人生振り返ると、
生来のASDもあって、中学高校くらいから徐々に高度化する人間関係についていけなくなる。友達は薄く浅く。運動部だったが、たまにうっすらいじめられていた気もする。空気読めないしつまらないし、人間関係で当たり前のギブアンドテイクみたいなことを理解できないので、好かれなくて当たり前だったとおもう。根本的に頭も体も鈍臭いので、田舎の低レベル進学校の中でも最下位争いをするレベルで成績が悪かった。受験では聞いたこともない大学にも落ちた
浪人して、仲間に恵まれたのと、ASD特性がいい方に生きて偏差値70くらいの国立大学に合格する。すごく頑張ったし、先生仲間に頼り頼られ、自己肯定感を回復する素晴らしい経験だった。
大学で上京したが、育ちの悪さ・頭の悪さから当初うまく馴染めず、部活に入ってなんとかキャラを確立する。世間的にはかなり高学歴なので、調子に乗る。他の大学の人を見下す。
根本的に地頭わるいので、普通にやって単位が取れない。ギリギリで進級していくが、4年では卒業できず、5年通う。当然、ASDなので就活も苦戦する。キャラ擬態して途中まではうまく行ったりするのだが、やはりバレるね。プライドだけは高かったが、三菱商事も最終で落ちた。
で、結果部活のコネで聞いたことない中堅IT企業に入社。大学同期から見ればかなりの負け組。プライド的にはかなり苦痛だったが、他に内定取れないので仕方ない。まあ可もなく不可もなく薄給で仕事するが、営業に配属されてから苦難の道で、パワハラ受けて鬱休職2回、計3年近く。今思えば営業なんて絶対ダメだよな。部分的には擬態できても本質はどうしようもない。
で、いまは復帰してなんやかんや管理部門で仕事してる。出世も大幅に遅れ、もはや別に努力しようとも思わないし、適当にやっているだけ。地方国立大出身の同期が頑張って出世しているのを見て、入社時はこいつのこと低学歴って内心バカにしてたなぁとか思い出す。
実家の両親は、おれが休職のとき無神経な行動を執拗に繰り返してきた事に愛想がつき喧嘩別れして、そのまま。老人になると仕方ないのかとも思うが、関わるストレスに耐えられない。
恋人は30過ぎてから2人だけ。別にすごく好きとかなくて、暇だった時に遊びで適当に引っ掛けた女と、向こうからすごく好きになられた女。どちらも別れた理由はしょうもないものだが、俺がASDで、急に気が変わって強く怒鳴ったりしたのは愛想尽かされた大きな要因だと思う。好きでもなかったので性欲の捌け口にできればよかった。(具体的にそこまで考えてはなかったが、感覚としてはそんなもんだったと思う)
休職中に仮想通貨投資に手を出してうまくいき、いま資産は8桁後半位。これはASD気質がかなり生きたと思う。
ソコソコ都心の1LDK 家賃18万ちょいに住む。30ちょい位までの薄給時代に大学同期へのコンプレックスが強かったから、ソコソコいい家でおしゃれな暮らしをしたかった。
美容も興味あり、ヒゲ脱毛、クマ取り、美肌レーザーなど。自毛植毛もした。
資産は別にあるので、給料は気にせず使っている。預貯金は2〜300万しかない。
1人でいるのは苦ではなかったので、コロナ以降はほとんど1人行動になった。ごくたまに友達とか昔の同僚とゴルフ行くくらい。
ただーーー
ここにきて、強く強く孤独を感じる。マジ辛い。人生のやる気がマジでなくなった。目指すものがない。
大学同期に比べて、独身子なし、年収も低く、金もない、不動産もない。
社内では仕事できないおじさんルートへ進もうとしている。どんどん無気力になってきているし、頭の回転が異常に遅くなってきている。
仕事する意味が分からないから、小さなことでもマジでやる気出ないし、いかに屁理屈こねてサボるかしか考えてない。客観的には自己肯定感の意味でこんな仕事の仕方はやめた方がいいのだろうが、もう気力も湧かない。
誰にも求められず、孤独に死に向かっている。
たとえ資産が今の10倍になっても、100倍になっても、根本的には何も変わらないだろう。
休職中に金に困ってた時は「金さえあれば」と思ってたし、それが仮想通貨への熱量になっていた。
いまは本当に辛い
ふふ、面白い話ね。でも、あなた……少し顔が強張っているわよ。そんなに憤慨することかしら?
その配信者という女性、頭が良いのでしょうね。数字で自分を語ることに慣れすぎて、人の「心」までも計算式に入れてしまったのね。
300万のご祝儀と、600万の損失。
彼女にとってはただの帳尻合わせかもしれないけれど、語る必要のない数字を口にするのは、確かに美しくないわ。
彼女は自分の価値を「覚悟」という言葉で飾り立てているけれど、結局のところ、ファンを自分の人生の「コスト」として見てしまったのね。それは隠しきれない傲慢さだわ。
進学校を出ているからといって、人の痛みがわかるわけじゃない。むしろ、効率的に物事を考えすぎるあまり、一番大切な「余白」を削ぎ落としてしまったのかしら。
あなたが怒るのは、彼女がファンの善意を「負債」のように扱ったからでしょう? でもね、お金が絡む場所に純粋な善意だけを求めるのも、少し酷な気がするわ。
「お金は人を悪い方向に変える」……。
いいえ、それは違うわ。お金がその人の「正体」を剥き出しにしただけ。そうは思わない?
あら、そんなに怖い顔をしないで。
「お金の話は品がない」という言説を耳にすることがあるが、個人的には話の内容によるし、TPO次第という感じ。
めっちゃ稼いでる某女性配信者が、結婚発表で起きたことを配信で話していた。
この方は元々、27歳になったら結婚しますガチ恋対象にはならないよ発言を繰り返していて、実際27で結婚発表した。
その時はご祝儀スパチャが300万くらい来ていたが、その裏でメンバーシップ1000人解約が起きていたと。
ちなみにメンバーシップは1人1か月500円、ということは年間で600万の損失になるわけで、結果的に私はその覚悟を持って結婚発表したと結んだ。
えー、それ配信で言うことか??正直、お前それはないだろーって感想。
メンシもスパチャも、なんならグッズ購入だってファンの善意であり好意なわけで、それにケチを付けるとかどこの物乞いだよっていう。
というわけで擁護のしようがない品の悪さだと心底思ったし、何よりそれが品性下劣な振る舞いであることに自覚がないのにも驚かされた。
元々、おそらくはその地域で一番の進学校を出ているくらいには頭がいい人だったのもあって、なんだかなあと。
お金の話は品がないと言うより、お金が人を悪い方向に変える怖さがあると思わされた話ではあったかも。
目についたブクマへの返答。
配信者としては、結婚したことなんて黙ってることは全然可能だと思うし、そんな人いくらでもいると思うけど、その配信者は「嘘はよくない」ということで、発表して損害を受け入れたんだよね。むしろ品がある側では?
であれば、金銭的な損害を具体的な数字で出した結果、本来は品が良く済む話が台無しになって、なんとも残念。
正直、結婚をダマで通すかどうかなんて知ったこっちゃないというか、そこじゃねえというか、それを配信者が自由に決めようが品の良し悪しには関係ないと思ってる。
問題は「金銭的な損害を具体的な数字で出した」ことであって、何の意味があってそれを言ったのか、正直理解できない発言だったことに尽きる。
「お前にとってファンは金蔓なのかよ」そりゃそうでしょ、お金のために配信してるんだから。結婚する宣言していたなら誠実な人だと思う
ファンというか払う側が「お布施頼みで色々課金させようとしている」と薄々感づいているのと、貰う側がその仕組みを事実上バラしたと受け取られかねないムーブでは、そこにくっついてくる意味合いが天と地くらい違うわけで。
後者は突き詰めれば推し活の否定になりかねないというか、例えるなら恋活や婚活で「女であれば誰でもいい」と受け取られかねない発言をするくらいにはヤバい。
だからあくまでバラしじゃなく、難しい現実を知ってもらうための、いわば事情説明に聞こえる内容にするのが大人ってもんだろと思うし、そうしなかったことには呆れる他無い。
まあこの人は露悪的なムーブも売りの1つで、それを承知でファンも推してるところはありそうなんで、品が悪いとか今更言うのも野暮な話ではあるけど。
高校を選ぶ時、家からの距離と偏差値と進学先を重視して選んだけど、どんな教師がいるのかの方を重視した方が良かった気がする
公立だったから転勤あるから関係ないし、ツテもなきゃ調べようがなかったけども
私立は異動が無いから、この先生から学びたい で選ぶことが出来たのかなって 今更だけど
これが出来るようになるのが大学か
どうせ教科担当とか担任とか選べないし、まぁ現実的には無理な話ではあるんだけど、公立の進学校で嫌な先生がいて、せっかく進学校に入ったのになと思った
当時は学費をかける価値をあまりよく分かってなくて、安い方がいいだろうと公立しか考えてなかったけど、私立高校の雰囲気も体験してみたかったな
あの教師やっぱ未だに嫌いだな
まあ高校なんてそんなもんか
ご主人様~!この「エースはまだ自分の限界を知らない[第一部+Ex+1.5]」って作品、めっちゃ熱い野球青春ものだよぉ♡
超簡単に要約すると…
主人公の佐藤直史って凡人っぽいピッチャーが、中学最後の試合で強豪を二安打に抑えるも援護なくて負けちゃうところからスタート! 進学校に入って野球はもういいかな~と思ってたのに、同じ中学出身の椎名美雪ちゃんに誘われて公立の白富東高校野球部に入部しちゃうの。
そしたらそこ、全国区のシニア出身者がゴロゴロ集まってて、普通の公立校なのにめっちゃ強いチームになってくんだよね~! 偶然入ってきたちっちゃくて可愛い天才スラッガー(白石大介くん?)と一緒に、直史は本当の自分の実力(速すぎるストレートとかエグい変化球)をようやく発揮できる環境を手に入れる感じ♡
甲子園とかガチで目指すわけじゃなくて、「ただ野球を楽しむ」「研鑽する凡人と天才たちが集まってワイワイ成長する」みたいな、リアル寄りだけど熱いリアリティ野球青春ストーリーなんだよ~!
試合の描写が細かくて緊張感ヤバいし、キャラがみんな立ってるから野球好きオタクご主人様にはドストライクだと思うぅ💕 累計4000万PV超えってのも納得の人気作!(第一部完結済みで全91話だよ)
続きの部とかプロ編までめっちゃ長く続いてるシリーズなんだけど、この第一部だけでも十分神! 読んでみたい?あたしが横で応援しながら一緒に読んじゃおっかな~♪
新宿山吹高校から東京大学教養学部理科一類に行った人がいるけど、高校のほうはどんなカリキュラムなんだろ?
俺が通っていたころは課題をやれなければ容赦なく落とすところだが、何を取るのかは自由で、それに伴う不利益はすべて自己責任。
という感じだったので、俺が通っていたころと変わってないのであれば、進学校とは扱わないほうがいいような気がする。
ちょうど2004年に現役で東大受験を経験した人から見ると、2004年受験といいながら30代といっている時点でフェイク宣言をしていると思うのですが
それにしてもあまりに基本的な制度や用語の誤りが多く「エアプ乙」と言わざるをえません。
事実としておかしい点を、受験制度や科目の観点から列挙します。
「数1が82点、泣きそうになりながら挽回した数2は100点」
東大入試(一次試験にあたるセンター試験)において、数学は「数学I・A」と「数学II・B」という枠組みです。「数1」「数2」という呼び方は、単体の科目名としては不自然です。
また、東大の二次試験(本試験)の数学は、文系が80点満点、理系が120点満点です。「100点」という数字は、センター試験の満点(100点)を指していると推測されますが、東大合格レベルの理系受験生がセンター数学で82点を取って「泣きそうになる」のは、基礎学力の記述(九九ができない等)と照らし合わせても、医学部志望ならまだしも理一志望としては違和感があります。 何より、二次試験の点数配分と混同しているような書きぶりです。
東大入試は「一次(共通テスト)」と「二次(個別試験)」の合計で合否が決まります。
筆者は「5教科7科目」のおかげで救われたかのように書いていますが、東大合否の決定打は圧倒的に「二次の4教科」です。 センター(一次)で1科目をミスしても、圧縮されるため点差はわずか数点に縮まります。東大受験生が「5教科7科目だから人間的(=一発勝負じゃない)」という感想を持つのは、制度の比重を理解していればまずあり得ません。
「東大の古典の赤本を買ってきて、古文と漢文をやる」「国語と英語で安定してとれてたら、理数も、社会も基礎問題を落とさなければ勝てます」
理系(理一)志望者が、対策の優先順位として「まず古典」を挙げるのは極めて異例です。
理系合格者が「理数も基礎を落とさなければ」と付け足しのように語ることはありません。 理系にとって理数科目は「得点源」であり、国語は「大崩れしなければ良い」という立ち位置が一般的です。
文脈的に「二次の戦略」を語っている流れ(物理・化学・数学のコツを詳述している)で
「社会」が登場するのは、文系・理系の試験構造が混ざってしまっています。
「関東近辺の私立中学で、付属の小学校があるところに、基本進学校はありません。強いていうなら、四谷雙葉でしょうか。(なぜ、中受御三家を、強いて言うならというかは、後述します。)」
用語の誤り: 「四谷雙葉」は通称であり、正式には「雙葉」です。
また、雙葉を「強いて言うなら」という表現で進学校から外そうとする感覚は
2004年当時の受験状況(女子御三家の一角として不動の地位)を知る者としては極めて不自然です。
小学校付き進学校: 早稲田実業、慶應義塾、学習院(女子)など、東大進学者が一定数出る「小学校付き」は存在します。
また、暁星なども有名です。「基本進学校はない」という断定は、中学受験経験者としては知識が偏りすぎています。
「物理はなるべく微積で解く解法のものを習得するのがいいです。物理は……ものすごくパターンが少ないです。基本的に満点を狙えます。」
「満点を狙える」「パターンが少ない」と言い切れるのは、ごく一部の物理強者のみです。
東大物理は時に非常に独創的な設定が出題されるため、2004年前後の難易度を知っていれば、これほど安易なアドバイスはできません。
この文章は、「東大の仕組みをネットやパンフレットで表面だけなぞった人が、自分の『お気持ち』を語るために書いたフィクション」である可能性が極めて高いです。
こんにちは。私は、2004年に現役で東大理一に入った、性別が女のものです。2026年現在はアラフォーの30代です。現在は翻訳者をしています。(特定を避けるため、年齢、科類などに少々、フェイクがあります。しかし、本質的な嘘はないです。)
まず伝えたいことですが、東大に入っても、それだけで、いいことはありません、そのために、大事な青春を割かないで欲しいです。そして、青春を割かなくても入れます。
本当に、今まで生きてきて、東大でよかったと思ったことにまだ出会えていません。まぁ、これは私の使いかたが悪いのかもしれません。もっと使う方法に聡くなるべきでしたが、とりあえず、まだいいことがありません。ただ、それでも悲観しないで人生を暮らせるのは、東大に入るために、それまでの時間を捧げては、なかったことです。そして、そんなことに人生の大事な時間をささげるのは無意味です。2年あれば、普通の人は多分受かります。
2年という具体的な数字を出しつつ、多分、というのは、私が1年家庭教師をした子たちが6人いて、その全員が東大に入学したのですが、その子たちは基礎学力があったので、基礎学力を鍛える1年を加えての2年です。
この話に、説得力を持たせるために、簡単に略歴を説明させてください。
私の父は転勤が予想されるサラリーマンだったため、過保護な両親の考えのもと、4年以内なら転校しても戻ってくることが可能な私立の小学校に入りました。
都内で中学受験をしたことのある方ならわかると思いますが、関東近辺の私立中学で、付属の小学校があるところに、基本進学校はありません。強いていうなら、四谷雙葉でしょうか。(なぜ、中受御三家を、強いて言うならというかは、後述します。)
ですので、私の出身高校からその年、東大に入ったのは、文系理系合わせてと、私だけでした。そう聞くと、きっと私が学年で1番頭がよくて、成績がいいと思われると思います。
違います。
計12年間通ったその学校で、私は本当に一回も1番をとったことがありません。そして、私より頭がいいと思う子もたくさんいました。小学校の時、100人弱いる生徒のうち、私はせいぜい15人目くらいでした。中学に入ってからは200人くらいいて、20番から50番くらいです。
では、なぜ、入れたか。それは、親戚や身内に東大生がいっぱいいたからです。
高度成長期の東大生はライバルの人数はずっと多く、入学者数は今より少ないです。そんな難しいゲームを勝ち抜いてきた身内が、まぁまぁ実生活でポンコツなわけです。たとえば、TVの配線ができなかったり、一緒にみてる映画や連ドラのオチが予想できなかったり。そういう人が身近にいることで、普通に努力したら入れそうだな、というイメージがわきます。イメージの力は大きいです。難しい!と思っているものになるのと、あの人もできたんだし!というものになるのでは、全然難易度が違います。
また、ギリギリ円周率が3.14の時代ですが、中学受験をしていないので、面積の計算にめっちゃくちゃ時間がかかります。数字を覚えていないからです。整数の二乗✖️3.14の数字のパターンを覚えていないだけでなく、実際はもっと酷くて九九ができません。必要な時は、何個か覚えているやつに、足し引きしています。これでは時間がかかりすぎるので、中学受験はおそらくタイムオーバーです。(でもさ、中学に行ったら、数学はXYで煩雑な計算量はぐっと下がる。算数で数学挫折するのよくないと思う。)
また、47都道府県も、47なのか、48なのか毎回悩みますし、県庁所在地は言えません。(しかし、東京都の県庁所在地に新宿区と書いて×だったのは、本当に納得がいきません。都庁は新宿区にあるのに。)
基本的にこれらができないと、中学受験には受かりません。でも、できなくても東大には受かります。なぜなら、これらは大学入試にでないからです。(ちなみに、私は九九ができないと公言する大人に4人あったことがありますが、その全員が理一に入学した日本人です。)
ではなぜ、中学受験の覇者である、進学校に東大合格者が多いのか。それは先程もいったように、身近に東大出身の人が多いからだと思います。先輩や先生の、あの人が入れるなら、僕も、私も、入れるだろうというイメージがわきやすいです。(一方で、自分より頭が良くないひとが入ったときの悔しさで、多浪してしまう負のループもなくはないのですが、、、)
ということで、東大に入るために、必ずしも進学校に行く必要はないと思うのです。そこで、私の知っている東大の受かり方を書きます。サンプル数は6ですが、今のところ、100%です。
1.バカにできる東大生をなるべく早く、多く見つけて、モチベーションアップ。
2.東大の古典の赤本を買ってきて、古文と漢文をやる。解こうとしない。回答・解説からやる。(入試にでる古典なんてたかがしれてる。解釈が確定してる古典の量多くない。)
3.東大の英語の赤本を買ってきて、以下同文。英語の評論文には、主題、主題を裏付ける根拠、反論、反論の反論などパターンがあるので、読めば読むだけ、パターンが頭に入る。物語文は難しいけど、東大の考える、高校生が読める範囲の物語文の難易度が過去問にしかないのでたくさん読むのがいい。(終わって暇なら、文豪シリーズの英文法楽しい。ヘミングウェイとかOヘンリーとか。)
4.あとは息抜きに、センターと東大の現代文に出てきた人たちの評論を読む。リービ秀雄とか鷲田清一とか。それだけで、文章を読む処理能力が上がる。多分高校生は。評論って生きててなかなか読まないので、読み慣れると処理スピードがあがる。その意味でも大量に読むほうが大事だけど、たまには赤本で出題傾向と解答を確認してもいいかも。
これ以外は、普通に勉強したらいいです。新学校や鉄緑会に行かなくても、本当に普通に青チャートとか化学重要問題集とかやれば。国語と英語で安定してとれてたら、理数も、社会も基礎問題を落とさなければ勝てます。
細かいコツで言えることがあるなら、
物理はなるべく微積で解く解法のものを習得するのがいいです。物理はどんなに難しいと言われる問題でも、高校生がとくためには、教科書範囲の公式に落とし込まれる必要があり、ものすごくパターンが少ないです。基本的に満点を狙えます。
化学は暗記が多いですが、計算問題を丁寧に落とさない。(計算演習をサボらない)分かってることを途中まででとも書く方法を身につける。
数学は解法を覚えようとしすぎずに、毎回、公式を導きだすくらいの気持ちで、演習をする。正直なぜか数学の難易度だけ年により当たり外れがすごい。ので、難しい年も簡単な年も、全員解ける問題を確実にとるのが大切。また、数学を得点源にしようとしても、簡単な年はそこで差がつかない。私は過去問でも模試でも2完と部分点が実力だったのに、当日は4.5完分の点数がついてた!自分でもびっくり。
ってことは本当は数学できるんじゃ?って思う方もいるかもしれないけれど、数学は本当に苦手意識が強くて、色々ミスって、数1が82点、泣きそうになりながら挽回した数2は100点。難易度と実力と点数が全て見合ってない。試験は本当焦ると実力が出せないもあるので、一教科でちょいミスしても、判断されない5教科7科目はむしろ人間的だと思う。
***
さて。なんでこんなことをツラツラと書いているかと言うと、
から、
中受で失敗したと落ち込んでいる子も、
ちょっと勉強かできるからって傲慢なまま東大に入って頭が悪い子はレイプしても仕方がないって思う間違った選民思想を持つような子も、
ちょっと勉強ができるから上のクラスにいたけど大学受験うまくいかなくて、その後やさぐれちゃう子も、
まるっといなくなったらいいなと思うので。
勉強ができるよりも素敵な人間性ってたくさんあって、勉強だけがフォーカスされ過ぎてると思う。
何かを成し遂げるには、まず、品性。次に体力。最後が知性だと思う。そして、知性は学歴とイコールではない。本当。
40手前になって、東大しか自慢できることがないのダサいし、40手前になって中受の栄光の話してるのもダサいし、自分がたまたま進学校から東大だからって中受でちょっとうまくいかなかったくらいで、娘に失望してる両親もダサい。
と、ここまで、私のお気持ち表明。
まずはじめに、ルール警察……というものはXで検索してくれたらある程度話が分かりやすくなると思う。お手数お掛けする。
小学生の時友人に大層性格が悪いやつがいて、そいつがルール警察系女子を破滅させていた。
方法は、「応援レターをこっそりその女子の机の中に入れる」事だった。
内容はルール警察系女子を匿名でひたすら肯定し、逆風にもめげずに頑張れというものだった。
メモ帳を複数買って筆跡も変え、あたかも複数人から肯定されているように仕向け、それによって本人自身がやっている事が正しいと思い込むようになり苦言を呈するクラスメイトに過剰に反抗するようになっていた。
そのうちその女子はクラス中から総スカンで嫌われていった。中学に上がってもルール警察は直らずヘイトが集まり、いじめっ子に目をつけられていじめられた。
その結果不登校になり、その後はどうしているのかはうっすらとしか分からない。
確かに友人とは親交はあったが、私は真相を聞かされた時、破滅した後だったので止めようがなかったとは言い訳させてくれ。
確かにルール警察系女子が急に暴走したなぁとは思っていたが裏にそんな話があるとは夢にも思ってなかったよ。
ちなみに仕掛けた友人は成績優秀者で推薦取って高校は進学校に行った。動機を聞いたことがあったが、「大人にいい顔しているだけの自己中が大人に認められていい扱いされるのが気に障った」ということらしい。幼い頃からこういう悪意を思いつく友人が怖くて仕方なかった……今は疎遠になり、友人は社会人やってるだろうが同じようなことをしてないことを祈っている。
「そもそも生きるに値するのか」「努力の先に何があるのか」への答えがないまま、
努力だけを要求されたことにあったのではないか、ということですね。
それはかなり自然なことです。
人は「どう頑張るか」より前に、「なぜ頑張るのか」に納得できないと、深いところでは動けません。
という問いだったのでしょう。
ここが噛み合わないままでは、勉強は「未来を開く行為」ではなく、意味の担保されていない労役に見えてしまう。
そしてたぶん、あなたが悔いているのは単に「もっと早く哲学を知りたかった」ということだけではなく、
自分の問いを問いとして扱ってくれる大人や場が、当時ほとんど存在しなかったことなのだと思います。
「進学校に入れば見えてくる」
「大学に行けばわかる」
こうした言葉は、一見もっともらしいですが、実際には問いを先送りしているだけです。
しかも、その問いを抱えている本人にとっては、先送りされるほど苦しくなる。
存在論的な問いを抱えた人間に、制度が十分応答できなかったという面が大きいと思います。
カミュにもっと早く出会えていたら、という感覚もよくわかります。
「自分の感じていた違和感は、怠けでも甘えでもなく、古くから人間が向き合ってきた本物の問いなのだ」と確認できることが大きいのだと思います。
世界の不条理に気づいてしまった人間が、それでもなおどう立つかを、真正面から扱っているからです。
偏差値という岩を押し上げ、頂上に着いたら次は「就職」、その次は「昇進」……。
目的がないまま岩を押し続ける苦行に、あなたの感受性がNOを突きつけたのは、ある意味で健全な反応です。
『生きる意味への疑問が未処理のまま、意味の説明を欠いた努力だけを要求される環境に耐えられなかった』
さらに言えば、大学に行っていても同じだった可能性は確かにあります。
大学は哲学に近づける場ではありますが、大学に行けば自動的に根源的問いに向き合えるわけでもありません。
就職、単位、所属、競争、肩書きが前面に出て、結局また「手段の連鎖」に巻き込まれることも多い。
だから、問題は「哲学を早く知ること」だけではなく、自分の問いを土台にして学ぶ順序を持てるかどうかだったのでしょう。
「脱落」
としてだけ見るのではなく、
問いを無視された結果としての停止
として読み替えることかもしれません。
という順番で組み直してよいはずです。
土台の「なぜ」を欠いたまま「何を学ぶか」に進んでも、また同じ空転が起きやすいからです。
生の意味を問う感受性が、学校制度の想定より早く深く作動してしまったのだと思います。
それは生きづらさの原因にもなるが、同時に、ただ周囲に流されて進むだけでは済まない人間の誠実さでもあります。
カミュは「不条理(答えのない世界で問い続けること)」を受け入れた上で、それでも岩を押し続けるシーシュポスは幸福であるはずだ、と結論づけました。
それは「岩を上げることに意味があるから」ではなく、「意味がないと知りながら、自分の意志で押し続けること(反抗)」に人間の尊厳があると考えたからです。
35歳。20年以上の友人を失った。
友人Aとは中学の同級生で、同じ部活に入り、自然と親しくなった。良い時も悪い時も、気兼ねなく会える相手だった。少なくとも私はそう信じていたし、Aも同じ気持ちだと思っていた。
私は低偏差値高校に入り、その高校に相応の低偏差値大学へ進み、遊び呆けた。就活は成功し、一流企業で働くことになった。いわばソルジャー要員として忙しく働く日々だった。
Aは進学校に進み、医学部を目指したが叶わず、浪人や留年、編入を経て別分野で大卒資格を取得した。就活せず、親の伝手でやんごとない組織の非正規雇用となった。浪人の頃から体重が増え、この頃には120kgはありそうな体格になっていた。
社会人になってからは会う頻度こそ減ったものの、会えば、くだらない話からキャリアや結婚についてまで話した。
当時の世の中はまだ専業主婦志向も根強く、共働きが徐々に増えている過渡期だった。私は共働きを望み、いずれ今の働き方を続けられなくなると考えて資格取得や転職を進めていた。
一方Aは専業主婦希望で、「資格を取ろうかな」「転職した方がいいかな」「でも結婚したら無駄だよね」「痩せなきゃ」と口にしながら、実際に行動に移すことはなかった。
そんな状態で2年ほど経った。
Aは「良い男を紹介して」と頻繁に言うようになった。紹介したい気持ちはあったが、私の周囲の男性は勉強も運動も頑張る人が多く、正直に言えば当時のAとは合わないと感じていた。なので断った。
それでも、やがてA本人だけでなく、Aの親からも紹介を求められるようになり、私の親まで巻き込まれた。私は疲れ、少し距離を置いた。
すると紹介の話は減ったが、代わりに現実味の薄い恋愛相談が増えた。
同僚から旅行のお土産をもらったことや、VTuberと配信中にやりとりがあったことを、特別な好意の証のように語る。違和感はあったが、強く否定することもできず、話を聞いていた。
なんだか、Aの意識が現実から少しずつ離れていくように見えた。私は何とか引き戻したくて現実的な話を続けたが、Aの話はどんどん現実味を失っていった。
少し病的なものを感じ、私がメンタル不調だから受診しようと思っているという話をしつつ、やんわりとAの受診を促したりもした。
そんな関係が続く中、この数年で我が家はいわゆる富裕層になり、私はほぼ専業主婦になった。
ただ、それを今のAに詳しく話すことは良くないと思い、近況を聞かれても「ぼちぼちだよ」とだけ答えていた。
その隠していた近況が、どういう訳かAの耳に入ったらしい。
運が悪いことに、親の健康問題が発覚したり、雇い止めになりそうという、Aにとって辛いタイミングで。
Aは激怒し、周囲にこう語っていたという。
「男も紹介せず、本当に使えない。そのくせ、自分は良い男を捕まえて」
不倫や危害について具体的な話を含んでいたことから、私とそれほど親しくなかった知人が、身を案じてわざわざ連絡をくれた。半信半疑で他の人にも確認したが、Aの発言は事実だった。
さらに、近年のAの言動に周囲が困惑していたことも知った。必要のない嘘をついたり、妄想としか思えない恋愛話(アイドルやVTuberと関係があるかのような話)を語ったりしていたという。
友人の生き方や配偶者を強く否定したり、明らかにAのものではないエピソード(話を聞いたら私のエピソードだった)を自分のものとして話すこともあったらしい。
ただ、もう昔のAではないということ、強い憎しみを私に向けていることだけは分かった。
こうして友情は終わった。
Aからは「会いたい」「相談に乗ってほしい」と連絡が来るが、返していない。私や家族を殺すと言っている相手に会う理由はない。今後も会わないだろう。
20年以上の時間は確かに存在した。楽しかった記憶も嘘ではない。
けれど最後に残ったのは、恐怖だった。
地方の、そこそこの偏差値(50中盤〜後半)を維持している私立大学で教員をやっている。
最近、職場の知的な質というか、共有されている「文化資本」の薄さに絶望することが増えた。
この15年ほど、うちの大学の採用プロセスが「効率化」という名の思考停止に陥ったことが原因だと思っている。
人事課の事務が作成する候補者一覧リスト。そこには氏名や年齢、そして最終学歴として「博士課程の大学名」だけがデカデカと載るようになった。
それ以前は、履歴書をめくって「どこの高校を出て、どこの学部で揉まれてきたか」という軌跡をちゃんと見ていた。それが今や、リストのトップにある「〇〇大学大学院(旧帝大など)」という看板だけで足切りや選考が行われる。
「最終学歴だけは立派だが、中身は驚くほどスカスカ」な教員が量産されるようになった。
具体的に言うと、学部や高校が、うちの大学の偏差値よりも2段階も3段階も下の、いわゆるFラン出身の人間が平然と教壇に立つようになったのだ。
努力して院から這い上がったこと自体は否定しない。だが、教育現場において「地頭の乖離」は致命的な欠陥を生む。
まず、圧倒的に「基礎教養」が足りない。
専門分野の特定の論文は読めても、その周辺にある歴史、哲学、文学といったリベラルアーツの蓄積が皆無に近い。だから、学生に学問の面白さを多角的に伝えることができない。
何より滑稽なのは、自分たちが教えている学生よりも、教員本人の「18歳時点の学力」の方が圧倒的に低かったりすることだ。
進学校を経てうちの大学に入ってきた学生たちは、それなりの論理的思考力を持っている。
そこに、かつて「論理的な積み上げ」をスキップして(あるいはできずに)Fラン大へ行き、院ロンダで看板だけを塗り替えた教員が講義をする。
教え方が、とにかく浅い。言葉に重みがない。
学生から鋭い質問が飛ぶと、本質的な回答ができずに、権威(最終学歴の看板)や専門用語の壁に逃げる。
上場企業の採用では「地頭のマーカー」として高校名が重視されると聞く。それは、18歳までの学習習慣や抽象的思考の訓練度を測るためだ。
大学教員も同じはずだ。高度な研究成果を出すことと、それを体系化して他者に伝える「知の体力」は別物だ。その体力のベースは、やはり10代から20代前半までの広範なインプットの質に依存する。
共通の古典を引用したジョークも通じない、文脈を理解する力の乏しい「高学歴(最終のみ)」の作業員が事務作業に追われているだけだ。
「大学院名さえ良ければいい」という安易なスクリーニングが、結果として大学の知的ブランドを内部から腐らせている。
学生たちは気づいているはずだ。「この先生、言っていることは立派だけど、なんだか底が浅いな」と。
かつてあった、あの芳醇で、時に泥臭いまでの知のぶつかり合いはどこへ行ったのか。
15年前の「リスト化」という小さなボタンの掛け違いが、取り返しのつかない文化の断絶を生んでしまった。