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増上寺(二)

増上寺徳川墓所絵葉書01秀忠01 台徳院殿廟奥院宝塔(戦前)


徳川将軍家霊廟-増上寺御霊屋

 芝の増上寺は浄土宗七大本山のひとつで、二代将軍秀忠をはじめとして六人の将軍、秀忠の正室お江や皇女和宮など正室5名、三代家光の側室桂昌院など側室5名等が埋葬されている。御霊(みたま)を祀るために造営された墓所・本殿・拝殿を中心とした霊屋(おたまや)は戦前に国宝として文化財指定されていたが、昭和20年3月と5月の空襲で南廟・北廟以下ほとんどが焼失し、わずかに残った建物も国宝の指定を解除された。 
 なかでも秀忠(1579-1632)の台徳院殿廟奥院宝塔は、上の写真にみるように、豪壮華麗を極めたものであり、仮に現存していたならば、日光に比肩しうる桃山様式の傑作と称賛されたであろう。円筒形の塔身を伏鉢状に丸めた上に宝形(方形)の反り屋根をのせ、尾垂木を3段重ねる賑やかな禅宗様詰組に圧倒される。家康・家光を埋葬した日光から離れて、秀忠がひとり増上寺に埋葬された理由をよく知らないが、これだけの宝塔は日本全国どこにもなく、つくづく戦火が惜しまれる。


増上寺徳川墓所02現状配置図 増上寺徳川墓所01戦前配置図


 このたび突然増上寺を参拝することにしたのは、四年男子1名が卒論のテーマとして大雲院御霊屋(ごりょうや)の本尊「宝塔厨子」の研究を進めるにつれ、その形式が全国的にみても珍しい宝塔形式である一方で、徳川将軍墓所の宝塔とよく似ていることが分かってきたからである。ただ、残念なことに、上野寛永寺と芝増上寺に分散する将軍家墓所は原則として非公開である。ところが、調べてみると、芝の増上寺は将軍墓所を今まさに公開中であり、ここで行かない手はないと判断した次第である。


1109おたまや00全景01 1109おたまや00看板sam

1109おたまや00全景03 1109おたまや00全景04タワー02sam


1109おたまや02秀忠江01 1109おたまや02秀忠江02軒sam


1.二代秀忠正室台徳院の宝塔
 淀君の妹、江の墓。六角石塔(↑)。屋根も六角錐。塔身が直に屋根にあたる(伏鉢状の表現がない)。桁天のり、組物なし。最も素朴な形式にみえる。


1109おたまや06家宣01 1109おたまや06家宣02軒sam


2.文昭院の宝塔
 六代将軍家宣(1662 - 1712)の墓(↑)。青銅製。伏鉢状の塔身に宝形屋根をのせる。組物は平三斗。


1109おたまや07家継01 1109おたまや07家継02軒sam


3.有章院の宝塔
 七代将軍家継(1709- 1716)の墓(↑)。石造。伏鉢状の塔身に宝形屋根をのせる。屋根の稜線に若干むくりあり。組物は平三斗。


1109おたまや09家重01 1109おたまや09家重02軒sam


4.惇信院の宝塔
 九代家重(1711-1761)の墓(↑)。石造。伏鉢状の塔身に宝形屋根をのせる。屋根の稜線に若干むくりあり。組物は平三斗。七代と同形式だが、ややスマートに仕上げている。


1109おたまや14家茂01 1109おたまや14家茂02軒sam


5.昭徳院の宝塔
 十四代将軍家茂(1846- 1866)の墓(↑)。伏鉢状の塔身に宝形屋根をのせる。屋根稜線のむくりがきつい。驚いたことに、組物は平三斗の反転形とする。


1109おたまや14皇女和宮01


6.静寛院の宝塔
 家茂正室和宮(1846-1877)の墓(↑↓)。青銅製で伏鉢状の塔身に宝形屋根をのせる点は六代家宣と同じだが、出桁を出組でうけ、その内側では頭貫上の中備に蟇股を配して通肘木を受け、通し肘木上に巻斗を密に並べて側桁を受ける。軒下の細部を最も精密に表現している。


1109おたまや14皇女和宮04 1109おたまや14皇女和宮03 


7.合祀塔
 徳川綱重のほか、桂昌院・廣大院・月光院などを合祀する墓(↓)。石造。伏鉢状の塔身に宝形屋根をのせ、組物は平三斗にする標準型。


1109おたまや54合祀塔01 1109おたまや54合祀塔02平三


大雲院宝塔厨子との比較

 以上を大雲院御霊屋宝塔と比較すると、塔身に伏鉢状のまるみを設けず、直接屋根まで達する構造は江の墓と共通するが、組物を出組にするのは和宮の青銅宝塔と同じである。正直なところ、これらの細部等から大雲院御霊屋宝塔の年代を推定するのは難しいが、徳川家将軍七代の位牌を祀る大雲院御霊屋の本尊を宝塔厨子とするのは歴代将軍霊廟の宝塔形式と決して無縁ではなく、おおいに相関性があることを改めて確認できた。
 大雲院御霊屋の場合、三代家光(日光輪王寺大猷院)、四代家綱(寛永寺厳有院)、五代綱吉(寛永寺常憲院)、八代吉宗(寛永寺常憲院)、十代家治(寛永寺厳有院)、十一代家斉(同左合祀)、十三代家定(寛永寺常憲院)の位牌を祀っており、それらはすべて日光もしくは上野寛永寺に埋葬されている。上野の東叡山寛永寺は天台宗関東総本山であり、創立者は三代家光、初代住職は天海、本尊は薬師如来であり、大雲院の東照宮大権現厨子にご神体の御幣を納めた寺である。寛永寺の墓地に眠る家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定と開基者の家光を含めると、大雲院御霊屋の位牌と見事に重なり合う。


宝塔02 宝塔01


 大雲院御霊屋に宝塔厨子(↑)が設置されたのは、三代家光(1623-1651)の没年以降、十三代家定(1824- 1858)の没年あたりまでのどこかであろうと推測するしかないが、因幡東照宮勧請の慶安3年(1650)の翌年に家光が崩御していることを踏まえるならば、樗谿の別当寺大雲院の造営直後に家光を祀るための御霊屋を建立し、宝塔と家光の位牌を安置した可能性も当然想定すべきであろう。上の写真にみるように、軒下組物の彩色も東照宮勧請に伴ってもたらされた仏具等とよく似ている。塔身を伏鉢状にしない円筒形の構造も素朴であり、古式を匂わせる。
 こうしてみると、浄土宗増上寺よりも、天台宗寛永寺の墓所のほうが比較対象としてはるかに重要な意味をもつのだが、寛永寺将軍家墓所は事実上の非公開であり、実際に墓碑を観察することはできない(例外あり)。下に少しだけネットで画像を集めてみたが、増上寺のものと大差ない、というのが現状の感想である。あとは卒論担当学生の資料収集と分析に委ねたい。


寛永寺01 宝塔02tokugawaTsunayoshiA
↑寛永寺綱吉墓


【追記】  徳川幕府の二つの菩提寺、増上寺(浄土宗)と寛永寺(天台宗)の関係については、以下のサイトを参照。

http://sengokurekishi.com/category10/entry86.html

 三河・駿河の時代から徳川家は浄土宗であり、江戸移封後も浄土宗の増上寺を菩提寺とした。しかし、日を追って天海僧正(1536-1643)の影響が強まり、天台宗へ改宗しようとして思いとどまるも、家光の代になって上野に寛永寺を造営した。二代秀忠の霊廟は増上寺に営むが、三代家光以降、連続して将軍を寛永寺に埋葬するようになる。これに増上寺が反発し、六代家宣以降、ほぼ一代ごとに増上寺と寛永寺で廟所を交替することになったようである。

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Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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