登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(13)
類例-摩尼寺境内の鐘楼
鷲ヶ峰の地蔵堂を復元するためには部材の寸法を確定する必要があるけれども、もちろんまず第一に参照すべき類例は摩尼寺境内の鐘楼である。鐘楼は山門・本堂とともに国の登録有形文化財になり、その申請文書を改稿した解説文を報告書『思い出の摩尼』(2015:p.12)に掲載している。その概要を述べておく。
摩尼寺鐘楼 平屋建入母屋造桟瓦葺 明治25年(資産台帳)
礎盤上に角柱 腰貫・飛貫・頭貫・台輪 出三斗 中備蟇股 木鼻 一軒疎垂木
鐘楼の平面は方1間で、桁行4,080mm(13.47尺)×梁間3,897mm(12.86尺)を測る。これをおよそ13尺四方と理解すると、鷲ヶ峰鐘楼はおよそ10尺四方であり、一辺は山上の1.3倍、面積では1.69倍となる。
四面開放で腰貫、飛貫を通すところは山上鐘楼と同じだが、柱頭は頭貫で固めて台輪をのせ、三斗組の組物、中備蟇股、木鼻を設ける。また、柱底部は礎石上の礎盤にのっており、柱上の台輪とあわせて禅宗様の匂いが仄かにする。入母屋造の屋根には野小屋があり、軒下からみえる疎垂木は化粧垂木である。
垂直方向の高さを柱高で比較すると、境内鐘楼は4,148mm(13.67尺)であり、柱間よりも長くなっている。鷲ヶ峰の鐘楼は柱間が10尺、柱高が9尺で柱間より短くなっており、また、柱の内転びも境内鐘楼のほうが強くみえる。つまり、山上と山下では、鐘楼の様式が大きく異なり、丈が低く低減率の小さな後者のほうが古式にみえる。
『稲葉佳景無駄安留記』にみえる境内の鐘楼
現在の鐘楼は境内地を前側にせり出して広げつつ、明治25年(1859)、その拡張域の山門脇に建てられたものである。前回、鷲ヶ峰の地蔵堂は明治中期における山下境内の整備と軌を一にしておこなわれた可能性があることを指摘したが、だとすれば、山上の鐘楼もこの時期に新築されたのであろうか。上の様式差はこの問いに対して否定的な見通しを与えている。山上の鐘楼は、その素朴な構法に加えて、軒高・棟高の低さ、柱の内転びの緩さなど古式な風貌を示しており、江戸期に遡る可能性を示している。とすれば、地蔵堂・鐘楼ともに明治維新以前に鷲ヶ峰に建立されていたのだろうか。その可能性をまったく否定できるわけではないが、ひとつ気になるのは、米逸処の『稲葉佳景無駄安留記』(1858)に描かれた境内鐘楼の表現である。
その小振りの鐘楼は秀衡杉の斜め前、おそらく今の閻魔堂に近い位置に存在した。構造形式は、平屋建・切妻造桟瓦葺で、腰貫も描かれている。明治の絵葉書写真にみえる鷲ヶ峰の鐘楼(↓)とよく似ているのである。両者が同一の建築であるという保証はないけれども、拡張した敷地に大型の鐘楼を建設した結果、不要になった小型の鐘楼を鷲ヶ峰に移築した可能性もあるのではないか。これまで移築といえば、山上から山下への一方向だけに偏って想像を逞しくしてきたが、その逆のベクトルもありうることに注意すべきだろう。
県内の類例
こうしてみると、鷲ヶ峰鐘楼の部材寸法を参照する類例として境内の鐘楼は必ずしも有用でないことが分かる。県内で最も参考になりそうな平屋建切妻造の鐘楼遺構は、ざっと調べてみた限りでは、大山寺、三徳山三仏寺、廣禅寺(鳥取市)などがあるけれども、いずれも近代の再建のようであり、柱頭より上の組物・虹梁・木鼻などを派手につくり、鷲ヶ峰鐘楼の素朴さとはかけ離れている。このたびは古写真と現存遺構・部材から寸法を推定するのが無難かもしれない。
大山寺鐘楼(昭和25年)
三仏寺鐘楼堂 *一部に鎌倉時代の部材を残す
廣禅寺鐘楼