渡名喜(Ⅲ)

あがり浜
昼食までの時間を使って、あがり浜まで歩いていった。ベンチに腰掛け、ぼんやり蒼い海と空を眺める。建前として、この浜は海水浴場ではない、とのこと。渡名喜では「海開き」という儀式が存在しない。暑くなれば泳げばいい。そういう感覚らしい。あがり浜は「水上の運動会」がおこなわれる重要な場所であり、夏には「天然のプール」がつくられると聴いたが、具体的にイメージできたわけではない。


集落内の小径があがり浜に接する部分にスライド式の鉄扉を設けている(↑左)。台風の猛威を暗示する防風扉だ。その道を西に歩いていく。道はときに折れ曲がり、枡形をつくる。それも防風対策のためであると聴いた。しかし、地図をみればあきらかなように、集落内の道は碁盤目を呈している(↑右)。グリッドパターンである。こういう集落の道路と家屋の配置は、「近代」の計画に従ったものであろう。定住の起源は古いのかもしれないが、災害がなんどか村の形を変え、最終的に近代的なプランに基づく居住環境が生まれたのだろうと想像した。ちなみに、村制の施行は明治41年(1908)というから、ずいぶん新しい。


食堂ふくぎ と 民宿ふくぎ
グリッドパターンは結構歩きにくい。縦横に走る道をすべて歩き尽くすことは不可能に近いからだ。とりあえず、昼食の場となる「食堂ふくぎ」に向かう。村道1号線のほぼ中央にある食堂ふくぎは、「民宿ふくぎ」群のセンターでもある。いま分布図を確認すると、村内に「民宿ふくぎ」は少なくとも4軒ある。あとで確認したところ、重伝建選定(2000)との前後関係は不明だが、民宿ふくぎは空家対策事業として民家を修理し民宿にコンバージョンしたものだという。同じヴァンに乗った他の旅行者は別の空家に滞在しているということになる。


↑食堂ふくぎのヒンプン。珊瑚石の本格的な屏風だ。

良いアイデアですね。複数の空家を一つのコテージ群として再活用する。そのセンターに食堂をおく。倉吉のように、少子高齢化が進み空家が増加している歴史的市街地でもこの方法が応用できるかもしれない。ただし、渡名喜では、民家が主屋2室+ 別棟(水まわり)という小さな規模だから、こういう分散コテージシステムが運営しやすいのであろう。いわゆる「町家」の場合は、そう簡単にはいかない。しかし、空家再生町家群が連携することは重要だと思う。
民宿ふくぎは、素泊まりなら1泊5000円、朝夕2食付きだと7000円である。昼食はついていない。昼の日替わり定食は650円。ソーキそば、鶏唐揚げ6個、モズク酢、ひじきの総菜、大盛りご飯でこの値段だ。オリオンビールを1本飲んだので、大盛りの飯をたいらげる元気は失せてしまった。参考までに述べておくと、那覇では、ソーキそば1杯が650~700円する。


昼食後、2000円の「観光案内」へ。下船後に乗ったヴァンに再度乗り込み、まずは南側の海岸線へ。残念なことに、2ヶ所で道路工事をしており、島をひとめぐりとまではいかなかった。南の岩山、大本田(ウーンダ)の展望台にあがると、久米島・粟国島・慶良間島が靄った空気の向こうにぼんやりみえた。リアス式の海岸は県立公園に指定されている。


野には琉球竹の間を縫うようにツワブキが咲き乱れる(↑右)。山肌をには段畑があり、山麓の畑は水平にひろがる。ニンジンやキビを栽培している(↑左)。
北側の山でも工事をしていた。西森園地の展望台からは集落の全景が望めると聴いて、そこに行けないことがとても残念だった。少し低い丘から集落を眺望したが、フクギの屋敷林で赤瓦の屋根は隠されていた(↓)。
