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2026-04-23

お伽草紙

太宰治


「あ、鳴つた。」

 と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾かぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。

「近いやうだね。」

「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」

「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」

「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」

「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます

 母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。

 この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである物語創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ

 ムカシ ムカシノオ話ヨ

 などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである

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瘤取り

ムカシ ムカシノオ話ヨ

ミギノ ホホニ ジヤマツケナ

コブヲ モツテル オヂイサン

 このお爺さんは、四国阿波剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽歌舞伎芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、

ムカシ ムカシノオ話ヨ

 と壕の片隅に於いて絵本を読みながら、その絵本物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)

 このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独ものである孤独から酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである若いから無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。

「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、

「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しまから。」と言ふ。

 お爺さんは浮かぬ顔になる。

 また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。

 けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのであるしかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。

「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」

 言はなくたつていい事である

 お婆さんも息子も、黙つてゐる。

「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。

「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。

「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。

 うちでお酒を飲むと、たいていそんな工合ひである

アルヒ アサカラ ヨイテンキ

ヤマヘ ユキマス シバカリ

 このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、

「よい眺めぢやなう。」

 と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、

「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、

「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、

いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分可愛い孫のやうに思ひ、自分孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのであるけふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、

「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである

ハカニ クラク ナリマシタ

カゼガ ゴウゴウ フイテキテ

メモ ザアザア フリマシタ

 春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、

「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」

 と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、

「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である

はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」

 とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、

「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである

ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ

ツカレガ デタカ オヂイサン

イツカ グツスリ ネムリマ

オヤマハ ハレテ クモモナ

アカルイ ツキヨニ ナリマシタ

 この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、

「これは、いけない。」

 と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。

「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、

オヤ ナンデセウ サワグコヱ

ミレバ フシギダ ユメデシヨカ

 といふ事になるのである

 見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いかである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇鬼才何某先生の傑作、などといふ文句新聞新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万醜悪綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである

 見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである

 お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、

「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物もつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐ種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかい言葉は、まるで無意味ものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、

「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく

ヲドリノ スキナ オヂイサン

スグニ トビダシ ヲドツタラ

コブガ フラフラ ユレルノデ

トテモ ヲカシイ オモシロ

 お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、

むすめ島田年寄りやかつらぢや

赤い襷に迷ふも無理やない

嫁も笠きて行かぬか来い来い

 とかい阿波俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、

大谷通れば石ばかり

笹山通れば笹ばかり

 とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。

オニドモ タイソウ ヨロコン

ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ

ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ

ソノ ヤクソクノ オシルシ

ダイジナ モノヲ アヅカラウ

 と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。

 お爺さんは驚き、

「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。

アサデス ツユノ ヒカルミチ

コブヲ トラレタ オヂイサン

ツマラナサウニ ホホヲ ナデ

オヤマヲ オリテ ユキマシタ

 瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。

「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。

「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失てゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである

 家に帰るとお婆さんは、

「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。

「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。

「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。

「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。

「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。

「うむ。」

「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」

「さうだらう。」

 結局、このお爺さんの一家於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに Permalink | 記事への反応(0) | 18:24

2025-12-21

anond:20251221122037

https://saebou.hatenablog.com/entry/2025/12/18/000000_2

「アンドルー・ガーフィールドよりイケメンなやつがい大学なんてあるわけないし(これは20年以上の経験に基づいた判断である)、大学どころか社会ほとんどにはアンドルー・ガーフィールドよりイケメンな奴なんかいないのではないかと思うので、このセリフには著しくリアリティがないと思った。まあこれは冗談としても、この映画大学描写には全体的にあんまりリアリティがあるようには見えなかった(それともアメリカの名門大学ってあんなにヘンなの?)。」

https://saebou.hatenablog.com/entry/2025/12/17/000000

「というか、リアリティ全然ないと思った。そもそもこんな学校あるのかな…というのはまあ映画からいいとして、1学年の人数がかなり少ない上に他の学年が出てこないので(これは低予算で人をあまり雇えなかったからかもしれない)、なんだかスカスカ学校みたいに見える。また、これは細かいことだが、最後に栞(池端杏慈)が冬休み明けにアメリカ留学すると言っており、家族の転居みたいなやむをえない家庭の事情以外でそんなスケジュール留学できるアメリカ学校あるかな…とかなり疑問に思った。」

https://saebou.hatenablog.com/entry/2023/04/30/225125

「急いで血を洗い流したはずなのにまだちょっと掌が赤くて(全部洗い流すのに時間が足りなかったのか、こすりすぎたのか…)、リアリティの点でそこが気になった。」

https://saebou.hatenablog.com/entry/2025/08/30/100000_2

「ただ、学校で働いている人間としては、現実にこういうことが明るみに出たらこ映画みたいな展開になるかな…とちょっとリアリティがないような気もした。」

https://saebou.hatenablog.com/entry/2025/08/14/100000

「一応優れた研究者だということになっているのだが、その点では全く描き方に深みがないしリアリティも皆無である。」

https://saebou.hatenablog.com/entry/2024/01/19/000000

童心の力~ミュージカルテニスの王子様』4thシーズン 青学vs立海

芝居 ミュージカル

中学生試合にしてはきつすぎてリアリティは皆無である

https://saebou.hatenablog.com/entry/2024/01/12/070000

「終盤ではあまりにも警察無能で、またあれだけいろいろもめ事を起こしたヒロインが何事もなく仕事に戻っていて、そのへんもリアリティに欠ける。」

https://saebou.hatenablog.com/entry/2023/10/03/070000

「とくに専門家の葉はひとりだけとってつけたように出てくる女性で(緊急対応中で多忙なはずの火災研究者にしてはパリっとしすぎていてあまりリアリティは無い)」

2025-11-11

イーブイをエーブイと呼ぶ男』まとめ

セルクマ用にまとめました。

1. 彼はいい人なのだが、ポケモンの「イーブイ」を必ず「エーブイ」と呼ぶことさえ直してくれれば、もっと人気が出るはずなのに。

2. 彼は、初恋の彼女の父親に「ポケモンの『イーブイ』を『エーブイ』と呼ぶことさえ直してくれれば、今すぐにでも娘との結婚を許すのに」と言われても、自身の信念を決して曲げなかった。

3. 彼の友人はこう尋ねた。

 「ポケモンの『イーブイ』を『エーブイ』と呼ぶのなら、アダルトビデオのことはなんて呼ぶんだい?」

 彼は答えた。

 「それはもちろん、セクシービデオだよ。」

4. ポケモンの「イーブイ」を「エーブイ」と呼ぶ彼に、一番好きなポケモンを聞いてみました。

 「あなたが一番好きなのは? やっぱりイーブイ?」

 「一つだけなんて、とても選べないよ……。

 でも、あえて言うなら――エーブイ以外のすべてのポケモンが好きだね!」

5. 彼の友人は困惑し、狼狽しつつも、さらに尋ねた。

 「それじゃあ……EV車はなんて呼んでいるんだ?」

 彼は即答した。

 「車!!!

 それは、普段は冷静な彼が見せた、

 童心に返ったような、意外な一言であった。

6. 『イーブイをエーブイと呼ぶ男』と友人は、カラオケに来ていた。

 友人は彼とそれなりに長い付き合いだったが、彼の趣味カラオケだとは知らなかった。

 彼は一青窈の『もらい泣き』を、意外にも情感たっぷりに歌い上げていた。

 友人は思わず感心し、聞き惚れていた。

 そしてサビに入り、彼は静かに口を開いた。

 「え〜ぶいあ〜、君からもらい泣き——」

7. 友人は尋ねた。

 「君は電気屋で、AV機器について店員に聞くときはどうするんだい?」

 彼は答えた。

 「僕は電気屋に行っても、店員に聞く前に自分で調べるから、そんな状況は起こり得ないよ。

 でも、あえて言うなら、『オービーキーキーについて教えて』だね。」

8. ポケモンの「イーブイ」を「エーブイ」と呼ぶ彼に、イーブイを進化させるとしたら何に進化させるのか聞いてみました!

 「あなたイーブイ進化させるとしたら、何にしますか?」

 「僕は数あるポケモンの中でもエーブイだけは苦手なんだが……

 でも、あえて言うなら、エーブイ(♀)はドリームシャワーズニンフィアマニアにするかな!」

9. 『イーブイをエーブイと呼ぶ男』は激怒した。

 「ポケモンのエーブイをエーブイと呼ぶことの、何が問題なんだっ!

 お前らは四六時中ポケモンの話をしているとでも言うのかっ!?

 どうせポケモンの話なんか殆どしてないんだろっ!

 極稀にエーブイの話が出たときだけ、エーブイの首を取ったように突っかかって来やがってっ!!!

 魂の叫びであった。

2025-10-08

彼の友人は困惑し、狼狽しつつも、さらに尋ねた。

「それじゃあ……EV車はなんて呼んでいるんだ?」

彼は即答した。

「車!!!

それは、普段は冷静な彼が見せた、

童心に返ったような、意外な一言であった。

2025-07-23

勃起したときのチンポコの長さを書くスレ

たまには童心に帰ってチンポコの長さを測ろうよ。

ワイは勃起11.89センチ

パンパンにフルボッキしたら12.18センチ

短い……。うん。大丈夫。慰めはいらない。

(長さはレーザー距離計にて測定。)

2025-05-15

大阪万博では専門家知識人は好評せず専門知識で悪い点を指摘すべき

食事だの歴史だの文化だの美術だの土建だのと大阪万博を契機に文系理系わず専門家知識人がXやYoutubeなどで様々な解説をしてバズっているけれど、それは大阪万博本質ではなく大阪万博本質杜撰会計契約に至るまでの怪しい取引なはず

専門家知識人童心のまま大阪万博の見どころのようなもの解説すると大阪万博勘違いした一般人が来場し、ガス爆発へ巻き込まれ可能性があるので専門家知識人大阪万博危険性を専門知識でしっかりと解説するほうが日本全体や何も知らず大阪万博へ行ってしま外国人のためにもなる

はてなでも好評の形で話題になっていた大阪万博舗装に関して熱中症危険性があると大阪万博に反対する一般の方が指摘したが、大阪万博会場内の舗装は大部分が黒色の舗装で、舗装の照り返しによる熱中症危険性は黒色舗装で光が吸収されるので水分補給しないほうが危険専門家がその知識反論してしまっていた

本来大阪万博の開催を撤回できれば良かったが開催しててしまったので、大阪万博開催撤回できなかった代わりに善良な一般の方がせっかく発見した大阪万博危険性を専門家が大真面目に反論するのは大人気ないので本当にそういう事はやめてほしい。むしろ一般の方の指摘を補強する知識を公開すべき

大阪万博専門家知識人が遊ぶための場ではなく日本維新の会の悪行を世界に示すチャンスなので、しっかりと専門家知識人大阪万博危険性を訴えて欲しい

2025-04-13

anond:20250413181437

いよいよ開幕

リンク先には写真動画がある。

文字通り足で取材するスプートニク

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大阪万博、これぞまさに長蛇の列!】

🇯🇵スプートニク特派員が開会初日を迎えた2025年大阪関西万博入り口に到着、10時の入場枠だけでこれほどの人が……人に酔っちゃいますね😅

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大阪万博、会場の屋上に上ってみた】

🇯🇵スプートニク特派員大阪関西万博の会場にある屋上に上ってみました!かなりのんびり屋さんのエスカレーターなので20倍速でご覧ください🫨

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パビリオン

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2025年大阪関西万博、皆さんはどの国のパビリオンがお好き?Part 1】

🇹🇷こちらはトルコパビリオンアジアンテイストに仕上がっています

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2025年大阪関西万博パビリオン紹介Part 2 フランス

🇫🇷 ルイ・ヴィトンコラボアクセントフランスモード芸術フランスエスプリ解釈アジアヨーロッパイメージミニマム化され、架け橋でつながれている。あなたアジア観とマッチする?

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2025年大阪関西万博パビリオン紹介Part 3 クウェート

🇰🇼 この館ではベルベットカーペットに寝そべりながら、夜空の光のショーを満喫できる。映し出されるのは過去から未来までのクウェート像。スプートニク特派員とご一緒にお楽しみください!

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2025年大阪関西万博パビリオン紹介Part 4  シンガポール

🇸🇬 テーマ自然都市の融合。インスタレーションで空を飛び交うスフィア(球体)は人々が抱く、たくさんの夢。夢があるからこそ、この世界は形作られていく。スプートニク特派員童心のワクワク感を没入体験した!

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2025年大阪関西万博パビリオン紹介Part 5 セルビア

🇷🇸主要なテーマは「遊び」(ゲーム)。屋外遊びのコーナーあり、自分アバターを作って参加できるアーケードゲームもあり。ゲームの中では本物のビー玉が機械に入るとデジタル化し、意志を持って行動しはじめる。

セルビア2027年EXPO開催国

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2025-02-03

anond:20250203215354

増田ではみな童心に返ってコドモのように楽しく過ごしています😊

2025-01-18

ガチャピン中の人などいなかった

 子どものころ、テレビをつければいつもそこにいた緑色不思議な生き物——ガチャピン。鮮やかな黄緑の体と、つぶらな瞳。ともすればただの着ぐるみと思いがちだが、実は彼には「中の人」などいないのではないか。そんなことを、子どもながらに本気で考え、友達同士で話し合った記憶がある。子どもたちの間では、ガチャピンの正体について真剣意見が飛び交った。果たしてあの体の中に誰かが入っているのか、それとも本当に生きている恐竜なのか。大人になった今だからこそ言えるのは、あのころ私たち真実を掴んでいたのかもしれない——そう、「ガチャピンは本物」であり、「中の人」などそもそも存在しなかったのだ。

 ガチャピンが世の中に初めて登場した当時、多くの視聴者は当然のように「誰かが中に入って演じている着ぐるみキャラクター」だと思い込んだ。ぬいぐるみのような愛らしい見た目、大きな口、そして子どもを魅了する高い運動能力。だが、その運動能力にこそ、ガチャピンの“真実”を見抜くヒントが隠されていたのではないだろうか。スキースキューバダイビング、果てはスカイダイビングにまで挑戦してみせる姿を目の当たりにして、普通着ぐるみキャラクターだと思うだろうか。実際に体験した人々の証言によれば、ガチャピンはあの分厚い“皮膚”を身にまといながら、信じがたいほど自由に手足を動かしていたらしい。それはもはや常識を超越した生物動作しか言いようがなかった。

 確かに人間が中に入っていれば顔の位置や手足の長さが合わないことがある。だが、ガチャピン場合、頭の上から足の先まで完璧シンクロした動きを見せる。さらに口や目、そして全身からかもし出される表情が、実に滑らかに変化しているのを見たことがある人も多いはずだ。もし人間操作していたのなら、あれほど自然かつ多彩な表情を瞬時に切り替えることができるだろうか。ときには困ったように眉をひそめ、時にはきょとんと口を開け、またあるときには満面の笑みを見せる。まるで心の底からその感情が湧き上がっているかのように見えたのは、単なる演技ではない証拠ではないかと、今ならば思うのである

 さらに決定的といえるのは、その“身体能力”にある。ガチャピンテレビの中だけでなく、実際の雪山や海、空へと赴き、驚くようなチャレンジをこなしてきた。ウィンタースポーツスキースノーボードだけに留まらず、アイススケートまで器用にこなし、しかもそこに「パフォーマンス的なぎこちなさ」がほとんど見られない。もし着ぐるみ構造上、人間が入っているとしたら、視界の狭さや動きづらさを感じながらの競技になるはずだ。しか映像を見る限り、まったく不自由なく滑り、回転し、時には大胆なトリックを決める。その光景は、どう考えても生身の体がそのまま動いているとしか思えない。ダイビングの場面でさえも、背びれのような形状の足をスムーズに使いこなし、水中で優雅に泳ぎ回るガチャピンの姿を確認できる。空から海へ、深海から宇宙(のようなセット)まで自在に行動する彼を前に、「ガチャピンは生きている」と信じない人のほうが少数派だったのではないだろうか。

 その証明とも言える逸話は数多い。例えばガチャピンが初めてフリークライミングに挑戦した際、重力に抗いながらスイスイと壁を登っていく姿が子どもたちの度肝を抜いた。あの大きな頭と短い手足、それにふっくらとしたボディという不利な体型でありながら、身軽に岩をよじ登っていくのだ。いくら運動神経の良い中の人が演じたとしても、あのバランス感覚説明することは難しい。むしろ、元来あの体が“恐竜”として自然設計されているからこその動きなのではないか——そんな議論が起こるのも当然の帰結だった。さらに、ガチャピンパラシュート降下の際には、一部の専門家が「もし人間が入っているならば、あの頭部の構造上、風の抵抗が想定以上にかかるはずで、あれほど安定して着地できない」と語ったという証言もある。つまり彼ら専門家の目から見ても、ガチャピンの体のつくりは人間が収まるようにはできていないのだ。

 もちろん、テレビ局や関連の制作会社は「ガチャピンキャラクターであり、着ぐるみだ」という公式見解を長らく維持してきた。視聴者の多くも、いつしかテレビ上の演出である」と半ば納得する形で受け止めていたかもしれない。しかし、そうした公式発言がむしろ事実を隠すための“カバーストーリー”だったのではないか、と考える余地は十分にある。なぜなら、ガチャピンの友人であるムック存在だ。ムックは真っ赤な長い毛並みを持ち、ガチャピンと同じ番組に出演していたが、彼の動きにはどこか“着ぐるみらしさ”が漂っていたと言わざるを得ない。もちろんムックも愛らしいキャラクターであることに変わりはないが、歩くときのよたよたした姿や、たまに見え隠れする人間らしさなど、「中に人がいる」と言われれば納得できる振る舞いがあった。一方、ガチャピンの動きはどう見てもスムーズすぎる。まるで“着ぐるみ”として作られたキャラクターと、“本物”として生きている存在が、同じ画面に同居していたのではないか、と考えずにはいられないのだ。

 さら子ども向け番組世界観を考えれば、それほど不思議な話ではない。子ども番組というのは、多くの場合ファンタジーや夢、冒険心を喚起するための舞台である。そこに実在する不思議な生き物がいたとしても、違和感なく受け入れられる。ガチャピンという名前や姿は確かにキャラクター然としているが、実際に存在する“謎の生物”を起用し、番組マスコットとして採用するのはむしろ合理的である。そう考えたほうが、かえって説明がつく事柄は多い。あの愛くるしい笑顔や、どこまでも続く挑戦心、そして飽くなき好奇心。それらは「キャラクターの演技」というよりは、「ガチャピンという生き物の本能的な行動」だったと見なすほうが自然ではないだろうか。

 また、あの独特の喋り方にも注目したい。「○○だよ〜」と伸ばす語尾、やわらかく透き通った声質。もし複数人間が交代で中に入っているのだとしたら、声や話し方にもっとブレや違いが出そうなものだ。しかガチャピンは、長いテレビ出演の歴史のなかで、ほとんど変わらない声と話し方を維持してきた。人間声優存在するとしても、そのピッチトーンを常に一定に保つの至難の業である。ところがガチャピンは、まるで自らの声帯を使って喋るかのように安定した声を発してきたのだ。さらに、口の動きや目の表情、全身でのリアクションが声とぴったり合っているのを見ると、「声を当てている」というよりも「声が体から自然と溢れている」という印象を受ける。これが“中の人技術”では説明がつきにくい最大のポイントでもある。

 その証拠に、イベントやショーでガチャピンが客席の子どもたちと交流する場面を思い出してみてほしい。子どもが話しかければすぐに反応し、笑い、そしてリアクションを返す。その一連の動きには、人形劇のようなタイムラグや不自然な間がない。まるで“その場で考えて”“その場で感じて”“その場で話す”存在であるかのように振る舞っている。長年、いろいろなキャラクターショーを見てきたが、ガチャピンほど“ライブ感”に溢れた対話をするキャラクターは他にいない。これはやはり、ガチャピン自身が一つの生き物として意思を持っているとしか思えないのだ。

 以上のような理由から、私は「ガチャピン中の人などいなかった」と確信している。もちろん、これは夢や幻想を語っているわけではない。子どものころに信じてやまなかったあのワクワク感と、理屈を超えた感動が、実は現実のものだった可能性が高いのだ。制作側は大人の事情からガチャピンを“着ぐるみキャラクター”として扱うほうが都合が良いかもしれない。しかし、私たちが見てきたガチャピンは、間違いなく生き生きと“呼吸”していた。スキージャンプ台を飛び、海中を泳ぎ、崖をよじ登り、さらにはスタジオで歌って踊る。その全てを“不自由なく”こなす姿は、“人間が入っている”という設定だけでは到底説明できないのである

 では、なぜいまだに“中の人がいる”という都市伝説が根強く残っているのか。それは、私たちが何かを理解しようとするときに、どうしても既存の枠組みで説明しようとする人間性質によるのだろう。未知や不思議ものに対して、私たちはつい、「きっとこういう仕組みだろう」と解釈して安心したくなる。ガチャピン超人的な活躍を見るたびに、「きっと中の人が相当なエリートアスリートで、トレーニングを積んでいるのだろう」などと推測するのは、その典型的な反応だ。しかし、ガチャピンの動きや表情は、実はそうした常識的な解釈はるか凌駕している。だからこそ、人々は“中の人説”という無理な理屈にすがっていたのかもしれない。

 私はむしろ大人になった今だからこそ、もう一度あのころの子もの目線に立ち返りたいと思う。あのころテレビで見ていたガチャピンは、私たちに夢と冒険世界を見せてくれた“存在”そのものだった。身体的な限界常識を超えた挑戦を繰り広げながらも、いつもニコニコ笑顔を忘れない。そう、あれは“着ぐるみ”ではなく、私たちの目の前にいる“リアルガチャピン”だったのだ。もし、あのころ私たちが胸に抱いた「ガチャピンは生きている」という直感を大切にし続けるなら、目の前の世界もっと豊かで、もっと不思議と驚きに満ちた場所として映るに違いない。

 思い出してみれば、子どもたちはみんな無邪気に「ガチャピンは本物だよ」「ムックも一緒にいるよ」と信じていた。それがある意味、“正しい”見方だったのだろう。大人になって現実を知るにつれ、いつしか私たちは多くのファンタジーを「嘘や演出」と割り切ってしまうようになった。しかし、本当にそれだけなのだろうか。私たちが大切にしている思い出や、大好きだったキャラクターがくれたあのトキメキは、本当は嘘でも演出でもなく、“真実”が隠れているかもしれない。ガチャピンはそのことを教えてくれている象徴なのだと思う。

 だからこそ、今も昔も、ガチャピンを見ているとワクワクが止まらない。「ガチャピン中の人などいなかった」という言葉は、単なる冗談や誇張ではなく、私たちの信じるファンタジー証明であり、あの緑色恐竜いつまでも私たちの心の中で生き続ける理由なのではないだろうか。子どものころの私が「ガチャピンはただのキャラクターなんかじゃない!」と叫んだあの純粋気持ちは、決して間違っていなかったのだ。

 誰しも子どものころは、目の前にある不思議を疑うことなく受け入れ、感動し、そのまま信じる力を持っている。ガチャピンに秘められた真実——それは彼が実在する不思議な生き物であり、私たち大人になるにつれ忘れかけた好奇心冒険心を体現しているということだ。そこに「中の人」などいない。いるのは私たちと同じように、呼吸し、笑い、挑戦する“ひとつ生命”——それがガチャピンなのである

 きっとこれからも、ガチャピンはさまざまな困難を乗り越え、子どもたちに勇気希望を与え続けるだろう。「こんなことができるわけがない」と誰もが思うような大胆なチャレンジを、新しい形で見せてくれるかもしれない。そして、そのたびに私たち子ども心をくすぐられ、「ひょっとすると、あの中に入っている人がすごいのでは?」とまたしても考えてしまうのだ。だが、最終的にはその超常的な存在感に圧倒され、「やっぱりガチャピンは本物だ」と再認識することになるだろう。

 そう、ガチャピンはいつでも私たちに問いかけている。夢と現実境界を超えて、「本当に大切なことは何か?」と。そして私たちは、その問いに答えるように、もう一度純粋な心で世界を見つめ直す。おそらく、ガチャピンという存在は、子どもだけのものではなく、大人になった今でも、私たちを未知へと誘う案内役なのだ。だからこそ、この言葉を胸に刻みたい——“ガチャピン中の人などいなかった”と。ガチャピンのすべての活躍は、彼自身の力によるものなのだ、と。

 こうして振り返ってみると、ガチャピンテレビ画面の向こう側から私たちに与えてくれたものの大きさに、改めて気づかされる。好奇心、挑戦心、そして他者への優しさ。彼の魅力は、ただ可愛いだけのキャラクターとは一線を画している。それはやはり、ガチャピンという生命体だからこそ生み出せる“にじみ出る個性”だったのだろう。子どもたちはそんなガチャピン勇気づけられ、大人たちは失いかけた冒険心を思い出す。私たち自分の内側に眠るエネルギーと、少しのファンタジーを信じる気持ちがあれば、世界もっと広がるのだと教えられる。

 結局のところ、ガチャピンの正体をはっきり証明する術はないかもしれない。だが、それで良いのだ。むしろ、“謎”を残しておくことこそが、ガチャピンが担う役割ひとつではないだろうか。私たち想像余地を与え、童心に返らせてくれる。神秘可能性を見せてくれる。だから、これから先もガチャピンがどんな挑戦を見せてくれるのか、どんな笑顔私たちを楽しませてくれるのか、胸を躍らせながら待ち続けたい。そしてそのたびに、“ガチャピン中の人などいなかった”という真実を心のどこかで確信しながら、私たちもまた自分世界を広げる挑戦をしてみればいいのだ。

 そう、ガチャピンはずっとそこにいる。テレビの中で、イベントステージで、そして私たち想像力の中で、今日もあの優しい声で「やあ、みんな!」と呼びかけている。彼の存在が教えてくれるのは、世界は思っているよりもずっと広く、そして面白いということ。中の人などいない。ガチャピンは“ガチャピン”という名の生命体であり、挑戦することや夢を見ることの大切さを、これからも伝え続けてくれるだろう。私たちはその姿を忘れず、日常に隠された冒険や驚きを見逃さないようにしたい。ガチャピンに憧れたあの日自分を取り戻すためにも

2024-12-08

anond:20241208193338

こういう、童心と欲にまみれた大人のオマエをどうにかしてやりたい。

俺、いつから道を間違えたんだろうな

昔は中古ゲームやったりレンタルビデオ見て幸せを感じられる純朴な少年だった筈なんだが。

気付いたら600万もする車買って乗り回して、それでも飽き足らず400ccのバイクを買うような駄目な大人なっちまった

バッグとか昔はスポーツ店で売ってる安いのを何年も使ってたのに、先日は7万もするボストンバッグ衝動買いしてるし。

職場では会社役員言動を見て「あん大人にはならないぞ」とか思ってるのに、蓋を開けてみたらこれだよ。

もっとこう、童心に帰りたい。欲にまみれた大人世界をどうにかしてやりたい。

お前らはそういう衝動に駆られることある

2024-11-11

暗闇トイレ

最近電気をつけずにトイレに入るのがブーム

童心に返ったような気分になる

2024-10-30

政治家のように話したい

母「今日ご飯何食べたい?」

 

ワイ「これまでの人生で、我が母の手料理を数多く食してまいりました。母の愛情によって私の食に対する価値観形成されたと言っても過言ではございません。その中でも特にオムライスは、食べるたびに童心を思い返すもの、で、あります。あの頃の!みんなが笑い、明日へ希望を持っていた我が家をもう一度!取り戻したい、そしてその為に一家が団結すべき、私はそう確信しております。」

 

テレビ「ワイ首相は母にオムライス要求し、そのための手伝いついて前向きに検討したい考えを明らかにしました。」

2024-10-17

anond:20241016203813

結局、子どもと遊ぶのが楽しいタイプと、子どもと遊ぶのが苦痛タイプがいる

ヨッピーさんは多分前者だと思う 童心を忘れぬ元気いっぱい多動パーソンだ

世間休日のお父さんは2時間ぐらい子どもと遊んでドヤってるかも知れないが、おそらくヨッピーさんは1日でも2日でも子どもと遊んで楽しめるタイプだ。それに対して休日のお父さんだというのは謂われない批判だと思う

そういう人が産休取れば、毎日のように子どもと新鮮な遊びをして楽しめたりするのだろう。母親でもそういうタイプはいる。体力あるアウトドア派かつ多動。

そういう人の「ハック」が、そうではないタイプには役に立たないというのはわからなくはない

自分は体力がなく字がいっぱいある本を過集中状態で何時間も読むのが楽しいパーソンだし、疲れやすく静かな場所で横になりたい。牧場なんていきたくない。

過集中型は元気いっぱいの乳幼児とかなり相性悪いと思う。子どもと遊ぶのは苦痛で退屈だ。

そんな時間があれば、新刊読みたいし、無限ネットサーフィンして他人感想読みたいし、ブログ感想書きたい。

聴覚過敏とかも併発してると、子どもの嬌声とか狂ったように繰り返されるおもちゃ電子音苦痛で仕方ない

なにより「子どもとすごす時間苦痛だ!」と声を上げる親に対し、世間の風当たりは非常に強いというのも悩みを深くする

この解は一つしかなくて、子どもの預け先を作ることなので、預けましょう。以上としかいいようがない。

あとは、諦めるのも大事かも。成長するとかなり様子は変わってくるので、数年の我慢とも言えなくはない。

実際、子ども読書できるようになってからは同じ本を読んで感想を共有できるようになり、親子関係は良好なので、過集中インドア派が育児に向かないということはないと思う。

anond:20241015225635

一歳児の相手童心に返るって、お前何歳児になるつもりなんだ?

あいつらまだバブバブしか言わんぞ。お前もバブバブいいながらつかまり立ちすんの?

2024-10-16

anond:20241016002322

子供というものは繰り返し同じ遊びをしたがるものなのでこっちは飽きてしま

全然童心に帰れてなくて草

このケースで童心に帰れるってドヤるならそれも含めて楽しめないとダメだろ

anond:20241016001414

世話と遊ぶのって違うんだよね〜

子供童心に帰って同じ目線で遊んでくれる大人に懐くもの

保育園先生とかはあくまで世話しなきゃいけないか童心に帰ってくれない

自分は短時間なら童心に帰れるので子供と遊ぶのは結構得意

ただ、子供というものは繰り返し同じ遊びをしたがるものなのでこっちは飽きてしま

ずっと付き合うのは無理

anond:20241015225635

あー「童心に帰る」ができない人ね

横だけど、普通の人ってそれできるもんなの?

俺は童心に帰るなんて全く1ミリもできないんだけど…

なんならリアル子供の頃ですら「うわ〜〜い!やった〜〜〜!!」みたいなの全くできんかったわ。

2024-09-23

秋を感じる

今日ちょっと風が涼しくて、秋が近づいてるなって感覚だった

秋になると恋しくなるもの、そう、芋煮会の季節だ!

里芋と肉とその他具材を煮込み、好みの調味料で味をつけ、青空の下でおにぎりと一緒にほおばる。〆はカレーうどん出汁のきいたスープうどんに絡んで、これもうまい

河原で煮炊きをするといやに楽しくて、童心に返った気持ちになれる。会社イベントだけど、妙にうきうきしてしまう。

芋煮会、早くやりてー!!

2024-07-01

友達の居ない誕生日

増田は四十路で、昨日誕生日だったんだ。

正直なところ友達が居ない。

からこれまで誕生日というのは陰鬱イベントで、忌避すべきものであると思って生きていた。

しか最近、ふと思うところがあった。

一人でも楽しめばいいじゃないか。そうしたことにようやく気付くことが出来たのだ。

婚活は上手くいかず、そのため一種の諦念があったのかもしれない。

ともかく俺は精一杯、自分誕生日を一人で楽しむことを決めた。

一週間前から当日の予定をワクワクしながら立て、昨日無事に実行してきた。

朝は8時起床。軽めに朝食を取って、そのあと動物園に向けて出かけた。

電車バスを乗り継ぎ向かった動物園は数年ぶりに訪れる場所であり、天候は曇り。

それでも目的の象やライオンを見ることができ、白熊ペンギンも可愛かった。

増田は平日も休日もずっとモニターにらめっこしていることが多いので、目の保養という意味でも意義は大きく、非常に癒されもしたので来て良かったと大満足。

お昼頃に動物園を出ると、事前に調べておいた食事処へ向かう。といっても決めておいたのはチェーンのとんかつ屋。それでも普段増田外食をしないので十分だった。

日曜だけありお店は混んでいて、俺はカウンターの一席に腰を落ち着かせると、ヒレカツ定食を注文。それにジョッキのビールもだ!!

待っている間、ごまをすりすり。すりすりすってすりごまをつくり、そこにドロリとしたソースを落としてすりごまと合わせ、揚げたてサクサクヒレカツに垂らしかける。

ヒレカツは非常に美味で、思わずご飯をおかわりしてしまったほどだった。じめじめして蒸し暑かったのでビールも非常に旨く、ごくっごくっと喉を鳴らして二杯を飲んだ!

大満足で店を出ると休憩に喫茶店コーヒーを飲みながら優雅読書。このために前日、書店文庫版の『百年の孤独』を購入しておいたのだ。

文庫本は書店の袋に未だ入れたままで、この日のこの瞬間のために開封せずに居た。初めての喫茶店でその店のブレンドコーヒーを注文し、深い味わいで美味しい。

増田コーヒーに全く詳しくないので多くを語れないが、乏しい舌でも十二分に味わい深さの分かる味だった。

ゆっくり、じっくりとそのコーヒーを味わいながら百年の孤独を読み始める。

このときばかりは小説の中の世界に傾倒し、日曜であることも、自分誕生日であることも忘れて熟読した。

気付くとコーヒーはなくなっていて、それはコーヒーカップを口に傾けても何も流れ込んでこないことでようやく分かったことだった。

カタン、とテーブルに置いたときのその音で現実に戻り、文庫から顔を上げると時計が目に入る。ちょうど15時前だった。

俺は喫茶店を出ると帰路に着く。

途中でシャトレーゼに寄り、ホールケーキを買った。

一人でホールケーキを食べる悦楽!!こんなことは本当はもっと若い時に体験すべきことだったと思いながらも増田は試したことがなかったのだ。

それは30代を終えることに対する挑戦でもあったのかもしれない。

それからスーパーキリンの500mlのビールを3本買い、家に着くと18時近くてすぐに電話をかけた。

もちろん、ピザショップにだ。

増田チーズが好きなのでウルトラチーズにした。ウルトラチーズのL。計画通りピザであり、クーポンを使ってお得に注文できた。

ピザが来るまでの間、童心に帰ったようにドキドキしながらピザを待ち、そわそわして増田を流し読みしては時間を潰した。

インターホォンの音に飛び上がるとすぐにピザを受け取って、キンキンに冷やしたビールと共にテーブルに並べる。

宴だ!

俺は一人きりであるのを活かすようにピザをくちゃくちゃ乱暴に食べ、ビールを大いに呷った。

気兼ねなくゲップを何度も漏らし、ピザむちゃくちゃ美味く、ビールはすぐさま2缶目を開けた。

飲み食いしながら好きなVtuber過去配信を観て、一人でがやがや笑ってピザを一人で食べ切る頃には酔いも回ってお腹も膨れていた。

俺は重くなった体を持ち上げ、冷蔵庫からホールケーキを取りだした。一人ですべてを食べ切るのは無理だろう。それどころか半分さえ食べられるか怪しい。

だがこう言ったもの雰囲気だ。雰囲気重要。俺はケーキを四等分し、その一つを皿に盛ってパソコンの前に戻った。

飲み物お茶に代えてケーキを少しずつ頬張りながら増田を読む。ケーキは甘くて、甘すぎるぐらいで、それでも懐かしいような味わいがした。

俺はケーキじゃなくて、誕生日を味わっているんだ。

そう思うとなんだか勇気が湧いてきた。

増田バカみたいな増田を読んで独りでに笑い、皮肉の効いたトラバを見てはゲラゲラ笑った。

気付けば22時を過ぎ。明日仕事だ。俺はケーキをなんとか食べ切り、ずいぶんと酔っぱらっていた。

倒れ込むように横になると気付けば眠っていた。

そうして俺は40の誕生日を過ごし、そして終えた。

今、昨日の残りのケーキを食べながらこれを書いている。

40の誕生日は一人きりだったが、それでも楽しめたと思う。

誕生日は、一人で楽しんでもいいはずだ。

2024-06-27

夏になると毎年見る夢

この季節になると不思議と毎年見る夢がある。

夢の中の俺は小学二年ぐらいで、おそらく実際にあった夏休みの思い出をベースにした夢を見る。

うだるような暑さの夏休みで、それでも家に居ても暇だから俺は外に出て海風に当たりに行っていた。

当時は港町に住んでいて、海が近くにあったんだ。

潮の香りを纏いながら堤防を歩いていると知り合いの女子を見つける。

知り合いといっても、同じクラスなだけで碌に話したこともなかった。

彼女は白のワンピースのような服を着ていて、アイスを食べていた。

向こうも俺に気付くとこちらに近づいてきて、何してんの?と俺が声をかけるとそっちは?と聞き返される。

アイスを食べていることに気付いて羨ましそうに見ていると彼女はそれを折って、片方を俺にくれた。

それから並んでベンチに腰掛けると二人でアイスを食べた。

終始無言なんだけど妙に快い雰囲気で、暑いくせにまどろむような心地になる。

ちぃな。あついね

なんて意味のない会話を繰り返して、蝉の鳴く声や波の音に耳が包まれ彼女の柔らかい香りが潮風に乗って俺の鼻腔を刺激した。

俺は何だか世界の最果てにいるような気がして、もし地球が丸くなくて平坦だったら、その端にはこんなところがあるんじゃないかって、不意にそんなことを考える。

彼女が俺の方を向き、微笑んだ。俺は照れて目を逸らすものの、気になって仕方がなく、彼女の方をチラチラ盗み見るようにその表情を見つめた。

楽しそうに彼女が何か言った。

その時に目が覚める。

見慣れた天井が目に入って、少し悲しくなり、感傷的になって起き上がる。

増田は既婚者で40過ぎのおっさんなのでこんなことはリアルで口外できないけれど、毎年見るこの夢に癒されるというかこの夢を見る度童心に帰った心地になる。

この日リビングに妻の姿はなく、出かけているようだった。

俺はYouTube久石譲の『Summer』を聞き、静かに泣いた。

あの夢が、俺にとっての原風景なのかもしれない。

2024-05-19

ほどよい童心って保つの難しいんだね

匿名ダイアリーでもすぐ正論じみた社会規範押し付けが押し寄せてくるしつまらないおとなになりたくないって何度も言ってたひとほど案外早く決めつけと思考停止に染まっていく

おとなになることで楽な面とそうじゃない面あるだろうけど本当に最近はなんだかつまらない

2024-04-16

anond:20240416131128

これ→ - (半角ハイフン)を行頭に使うと箇条書き出来るよ。だからなんだ?という話でもないが

 

 

 

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