はてなキーワード: 久石譲とは
よくブクマカは本文読まないって言うけど、こんなにも多くのブクマカが本文を読めてないとは……。こういう人たちは、今までも本文をよく読まずにノリでコメントを残してきたんだろうか?
以下「前者が後者に部分一致する」の条件を無視してる回答ね。該当部分を太字にしときました。
ninosan ペッパーランチとペッパーフードサービス(結構ヤヤコシーので検索してくれ)
hatebu_ai はてなブックマークとはてな匿名ダイアリー。
REV サクシンとサクシゾンは前三文字が一致しているので間違いやすいが、サクシゾンの代わりにサクシンを打つと息の根が止まる。 https://www.info.pmda.go.jp/hsearch/detail?id=D17000005 / 部分一致ではないが青梅駅と青海駅
s-eagle ディープインパクトとディープスカイとディープブリランテとディープボンド。馬主が同じなのはどれ?(答え:全部違います)
gnta 久石譲とクインシー・ジョーンズ。江戸川乱歩とエドガー・アラン・ポー。谷啓とダニー・ケイ
ustam 赤羽と赤羽橋、王子と八王子、東雲と東電、上越(上越/中越/下越)と上越(上州+越後)、クラゲとキクラゲ、シカとカモシカ、ウナギとヤツメウナギ、イモリとヤモリ、乳酸と乳酸菌、ランチとウンチ
本人から異議申し立てがあった。確かに「東京湾とトンキン湾」は漢字にすると完全一致になるので、セーフとする。失礼しました。
u_eichi 猫とジャコウネコ。オオカミとフクロオオカミ。てか有袋類は反則だな。|JR/東急蒲田と京急蒲田(まぜっ返し)
gaikichi 院近臣とインノケンティウス3世マングローブ林とグロブリン安倍貞任とアンワル・サダト大統領リッケンバッカーとオッペンハイマーとロッテンマイヤー地底怪獣バラゴンと冷凍怪獣バルゴン本多勝一と翔んだカップル
Southend シンボリクリスエス(天皇賞・秋、有馬記念連覇)とシンボリクリエンス(中山大障害・春/秋)は、それぞれが平地と障害という別カテゴリにおける超一流馬だったという文脈上、類似馬名界(?)の白眉と言えよう。
ryotarox wikiとwikipedia/木場と新木場 https://maps.app.goo.gl/Aynjy4JsxYDDKbak8 /アイスランドとアイルランド/グレープとグレープフルーツ
uguisyu 「世界の中心で、愛をさけぶ」と「世界の中心でアイを叫んだけもの」、「日本沈没」と「日本以外全部沈没」
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中でも一番のクソ回答はこれだと思う。全然趣旨を理解してないお前のほうがヤベーよ。
norinorisan42 やはりココリコ遠藤が池上さんの番組で「コーランを憲法としている国」と聞かれ「イスラエル」と答えたやつが忘れられない/イスラムとイスラエルがごっちゃになってるのはヤバすぎる
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※文字が違っても音が部分一致してしているものはセーフとした。(例:谷亮子と新谷良子)
※アルファベットで表記したときに部分一致するものはセーフとした。(例:ナイジェリアとニジェール、シリコンとシリコーン)
※略称で表記されているが、略さず書くと条件を満たすものはセーフとした。(例:Visual StudioとVS Code、ギガとGB)
※部分一致ではなく完全一致もセーフとした。(完全一致は部分一致に含まれるため。)
※インド人とインディアンは、英語だと両方Indianなのでセーフとした。
※名古屋では全部「メェダイ」となるらしい「明大と名大と三重大」はぎりぎりセーフとした。
※前者と後者が入れ替わっているのも、おまけでセーフとした。
※「ちょっと違うか」「部分一致ではないが」のように、違うのを自覚しているものは見逃すこととした。
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つーか「オーストリアとオーストラリア」「阿藤快と加藤あい」「青海と青梅」何回出てくんだよ。
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iphone 増田は6つもサンプルを出してくれてるのに、部分になってない、似てるけど違うだけの二語を並べてるブコメはなんなんだ。
これまで俺はジブリ作品を忌避しており、となりのトトロという作品も今回の金曜ロードショーが初見である。
CM休憩ごとに書いているのだが、時間は金曜ロードショーベースの為、CMの時間が入る都合上本編ノーカットとズレが生じることをご容赦願いたい。
ちなみに言っておくと、俺は子供向け映画(例:ディズニーやピクサーや大長編ドラえもんなど)が大嫌いな、めんどくさい深夜専門20代中盤アニオタである。唯一ラピュタとナウシカは楽しく視聴済み。
やはり俺にとってこれは嫌いな映画だろう。所謂子供らしい描写がよく見られ、子供らしい時期を大人の顔色を伺うという固定観念の下で育った俺にはコンプレックスを刺激してくる非常に胸の痛いアニメ映画である。
今でこそ多少は消化できているが、これまでの人生、特に小中学生時代に見たら吐き気しか起こさん。
唯一サツキの声優が日髙のり子女史だと一瞬で看破できたのは素晴らしい点か。流石は声豚俺である。
単純にサツキがヤングケアラーであり胸が痛い。そのくせそこまで物語に進展がない。
てか25分ほど本編が経過しておいて、まっくろくろすけの描写はあるにせよ、トトロの描写が皆無とはどういうことか。所詮は子供騙しの映画では無いのか?母親は結核やそれに似た病気だろうし、シンプルに片親で不幸な親子の話に見えるが、どう発展していくのか。もう4分の1は経過してるぞ?
トトロが登場した。あまりに異世界接触ものの王道を歩みすぎてしんどいが、小トトロが可愛すぎて全てを許したくなる。
だがしかし、メイは流石に4歳児の行動をし過ぎではないか。だからガキは嫌いなのだ。危機感とか怪異との接触への躊躇とか、そういうのを持ったほうがいい。そもそも教育が上手く行っていないのではないか?4歳児は大人の監視下に置くべきでは?父の怠慢だろこんなん。
駄目だ。メイがガキすぎてしんどい。俺の4歳児時代はこんな頭のおかしい子供では無かったぞ。世間の4歳児はこんなもんなのか?ある意味でメイは発達障害の気があるのではないか?トトロという夢想的な概念への拘りを見るに、自閉症スペクトラムの可能性も指摘できる。
あと傘を差し出したカンタの描写があったが、メイの話より此方が本筋ではないか?隣のトトロしてるんだったら隣のカンタしろや。こっちのほうがラブコメとして上質だろ。
ちなみに、高校のイベント(文化祭でトトロを実写化した)により、俺は唯一ネコバス登場のシーンだけは履修済みである。久し振りに見て感慨を覚えたが、それにしたってネコバス関連のシーンは猟奇的すぎやしないか。子供泣くわこんなん。
俺がジブリに迎合できない理由が分かった。登場人物があまりにも怪異に対して適応しすぎなのだ。トトロ軍団は非常に可愛く、豊穣の舞には俺でも萌えを感じたが、人間2人が邪魔である。お前ら別に何もしてないだろ。どんな顔して「やったー」とか言うとんねん。
本来は超常現象に対してビビるべき所を、胡散臭いまでの迎合力で一緒に楽しんでいるガキ共。斜に構える俺はこういう所で変に冷めてしまい、まともにジブリ作品を楽しめないのだろう。だからこそ、ラピュタとナウシカという「そもそも異世界が前提である作品」は楽しめるのかもしれない。
ごめん、声豚のせいで日髙のり子ボイスを聞くと全てを許してしまう。トップをねらえのタカヤノリコに調教されたせいだ。あの声聞くだけで何でも良くなってしまう。悲しきアニオタの性だ。
あと、やっぱメイはなんか発達障害持ってるわ。普通に見てられん。
なんか普通に面白くなってきて草。やっぱ日常描写より緊迫感だよ、ジブリは(なお3作品しか見たことないが)。アニメ映画だからこその枚数の多さからなる走りの躍動感、久石譲のハイクオリティな劇伴、そして日髙のり子ボイスの息遣い、ぜーんぶ引っくるめて没入感を得られる。やっぱメイとか要らんかったんや。サツキとトトロだけあればええんや。
ネコバス大手柄過ぎるだろう。メイを探すどころか病院連れてくとかタクシーかよ。となりのトトロじゃなくてとなりのネコバスだろこんなん。
全て見終えた感想
正直、ヒロインサツキ・相手役カンタ・サポートにトトロとネコバスで全て完結する作品ではあるし、棒読みのパパと空気の読めないメイにイライラする事も多かった。
だが、ラスト15分の怒涛の展開、有能過ぎるネコバス、及びエンディングのイラストでお釣りが来たといえる。
ラピュタやナウシカと比べ明確なメッセージは無くて、多少は『何が言いたかったのかな……』感は残るが、いい映画では有った。
あと、絶対に今みたいな擦れた状態で見るより、何も知らない子供時代に見るべき作品である。
見てない奴ははよ見ろ。斜に構えるせいでまともに楽しめなくなるぞ。
この季節になると不思議と毎年見る夢がある。
夢の中の俺は小学二年ぐらいで、おそらく実際にあった夏休みの思い出をベースにした夢を見る。
うだるような暑さの夏休みで、それでも家に居ても暇だから俺は外に出て海風に当たりに行っていた。
当時は港町に住んでいて、海が近くにあったんだ。
潮の香りを纏いながら堤防を歩いていると知り合いの女子を見つける。
知り合いといっても、同じクラスなだけで碌に話したこともなかった。
彼女は白のワンピースのような服を着ていて、アイスを食べていた。
向こうも俺に気付くとこちらに近づいてきて、何してんの?と俺が声をかけるとそっちは?と聞き返される。
アイスを食べていることに気付いて羨ましそうに見ていると彼女はそれを折って、片方を俺にくれた。
終始無言なんだけど妙に快い雰囲気で、暑いくせにまどろむような心地になる。
なんて意味のない会話を繰り返して、蝉の鳴く声や波の音に耳が包まれ、彼女の柔らかい香りが潮風に乗って俺の鼻腔を刺激した。
俺は何だか世界の最果てにいるような気がして、もし地球が丸くなくて平坦だったら、その端にはこんなところがあるんじゃないかって、不意にそんなことを考える。
彼女が俺の方を向き、微笑んだ。俺は照れて目を逸らすものの、気になって仕方がなく、彼女の方をチラチラ盗み見るようにその表情を見つめた。
楽しそうに彼女が何か言った。
その時に目が覚める。
見慣れた天井が目に入って、少し悲しくなり、感傷的になって起き上がる。
増田は既婚者で40過ぎのおっさんなのでこんなことはリアルで口外できないけれど、毎年見るこの夢に癒されるというかこの夢を見る度童心に帰った心地になる。
この日リビングに妻の姿はなく、出かけているようだった。
俺はYouTubeで久石譲の『Summer』を聞き、静かに泣いた。
あの夢が、俺にとっての原風景なのかもしれない。
自分の宮崎駿監督に対する身勝手な期待とか甘えを供養するために書く。今作品は期待半分、不安半分という気持ちだった。宣伝なしということだったし、宮崎駿監督作品を事前情報一切なしで視聴できる機会というのはおそらく最初で最後であろうと思ったので、早バレ等も避けるために数日SNS断ちして初日に見に行った。ただ映画館に向かう足取りの中で最後感じていたのは恐怖感だった。子供のころにもののけ姫を見たときの衝撃を再び与えられて、おっさんになった今再度、人生観を揺るがされるかもしれないと―。
さて、いざ蓋を開けてみると、途中まではリアル物なのかファンタジーのどっちなの?というドキドキや不安感。方向性が確定したときに期待感はMAXとなったが、それ以上膨らむことはなくしぼんでいった―。
美術、アニメーションの美しさは申し分ないが、ストーリーは感情移入できない半端な作りと言ったところで、結局、いつもの宮崎監督後期作品という他ない。今、振り返ってみると監督のキャリアハイとしての作品は千と千尋の神隠しあたりになるのだろうが、その千と千尋も後半から、この半端さの片鱗がある。例えば終盤、千尋は豚の中に両親がいないことを見抜くが劇中にその説明はない。しかしながら説明不足ではあっても、千尋とハクとの心のふれあいみたいなものが十二分に描かれているから、感情的に押しきれている。手を離すシーンとか思い出しただけで泣けるわ。
しかしながら、君生きはストーリーっぽいものや感情の揺らぎみたいな表現はあるものの、説得力というか、それ自体の根拠がはっきりと提示されないから、大抵の観客は感情移入できずに戸惑いを覚えると思う。例えば劇中で主人公の自傷行為や継母の拒絶が描かれるが、その感情の根っこが分からないので観客は困る。自傷はもっと構ってもらいたかったのかな?とか拒絶はやっぱり連れ子がうざかったのかな?とか想像はできるけど見てる側はそれを確定させる要素がないから、多分こうだろうとか理由を補完して見ていくしかない。つまり作品に気を遣う状態になるわけで、それは相当きつい。忖度は要求されるが、圧倒的な感情の「分からせ」がない(※)。監督が一人で突っ走ってる。観客は置いてけぼり。かつて宮崎監督は、見終わったあとに2階から出てくる感覚になるような映画がいいとか言っていたような気がするが(ソース探したが見つからず)、君生きは観客が一生懸命2階への階段を必死に探すものの見つけられないまま塔の中で迷子になり、最後にパヤオだけが悠然と2階から出てくるという感じだろうか(画・浜岡賢次で想像してもらいたい)。
あとはヒロイン?3人は多すぎる。実母に継母に婆さんでしょ?詰め込み過ぎて破綻する典型。正直、継母は全部削除して、序盤で実母エピソード増やして、実母を探しに塔に行く形にして、最後、実母ときれいに別れてで多少は形になったろうにね。もっとシナリオ段階で練ればいいのに…もったいない。
もう一つ、主人公が大叔父と話した後に、急にインコに囚われてるシーンになるが謎過ぎる。壁につながれた手が映ってからの下にパンしたときに、実母でも継母でもなくお前かーいってなったのが一番面白かったかもわからない。宮崎監督が過去、インディジョーンズの潜水艦移動を批判していたが( https://ei-gataro.hatenablog.jp/entry/20131030/p1 )、それと似たり寄ったりだろう。いくら異世界?だからといってワープしすぎである。
※ 宮崎監督とも対談したことのある養老孟司は「バカの壁」において強制了解という語をつかった(p.41)。例えば数学においては前提と論理を共有しているのであれば同じ結論に達せざるを得ない。ある定理の証明を正しく説明されたのであれば、その正しさを了解せざるを得ない。そういった強制力を強制了解と呼んだ。そうした強制力は感情においても成立する。例えば電車で子供が騒いでるのをぼけっと放置している父親がいたとして、普通はそれを理解できないが、もし父親が「実は母親が病院で亡くなって帰る所で、これからどうしていこうかと悩んでいたところなんです」と説明されれば、事情は理解できるだろう。事情が分かれば感情を了解できる。それは物語を受容する過程でも同じことが言えると思う。
なお、この流れで養老は他人の気持ちが理解できることを重視すると同時に、「個性」信奉を批判する。そんなに個性が大事かと。存分に「個性」を発揮している人は病院にいるという。白い壁に毎日、大便で名前を書く患者がいるらしい。芸術的にみればすごいかもわからないが、現実的には大変迷惑でたまらないだろうとのこと。奇しくも本作においては継母の美しい顔が鳥糞まみれになる描写があるのでそういう個性的なスカトロジー的芸術に理解を示す人はいるかもしれない。
こうした一見てんでバラバラに見えるような物語の断片も、もしかしたら宮崎監督だけには分かるのかもしれない。スピルバーグだか有名監督が誰にも分らない映画つくるのはホームムービー撮ってるのと同じだ的なことを言っていた気がするが、もしかしたら本当に宮崎監督はホームムービーを撮ってしまったのかもしれない。自分だけがわかる映画作品を作れるとしたら、映画監督としては最高の贅沢だろう。自分用の映画、私小説と言われたらなるほどという気もする。今回、宣伝がなかったという点でも符号する。これはもはや天才にだけ許された所業なのかもしれない(現実に実行可能という意味で)。
ナウシカだったと思うが、興行的に大失敗とはならなかったことから次の作品を作るチケットを手に入れたみたいな監督のインタビューがあった気がする。ジブリブランドが確立するまではコケたら次はない状態であったろうから、興行面は大変重視されたことだろう。つまり天才は大衆に合わせてくれていたわけである。しかしブランド確立された今となっては、大衆を気にすることなく好きな作品を作れるというわけである(ジブリの体制を維持できなかった点には目をつむるとして)。だから今もしかしたら「天才が本当にやりたかったこと」を我々は目にしているのかもしれない。
過去、パヤオ的感性としてはもっとアニメーション表現に全振りしたかったのだろうが、それじゃあ興行的に成立しないから、ストーリーもしっかりさせていたというのが過去の名作への向き合い方だったのだろうか。我々、一般大衆は天才の現実的な妥協のお陰で、(大衆的には)名作となる過去の珠玉を見せてもらえていたということなのだろうか。凡人が天才にちょっと付き合ってもらったという感じ。天才はちょっと退屈していたのかもしれない。大衆は今の退屈を嘆くのではなく、昔、天才に付き合ってもらっていたということを感謝すべきなのかもしれない。
この作品のそういった諸々の分からなさに対してなんとか理解しようとする感想や、なんとか説明しようとする解説記事などが上がっているのを見かけるが、なんとも物悲しい。めっちゃ面白い作品を骨までしゃぶりつくしたい!という渇望から生まれてくる文章はいい。例えばもののけ姫においては「『もののけ姫』を描く、語る 」というムック本があったのだが、それには一ファンから文筆家まで様々な人々の作品に対するとてつもない熱量で溢れている。でも味のしない作品をなんとかして食えるようにしたいという動機から解説を書いたり、それに群がることの虚しさよ。宮崎監督だから面白いはずなんてことはない。権威主義的だし、もうそれは諦めて次に行こうよ。これを知っていれば、本当は面白いんだよって本気で思っている人もいるかも知れない。でもそういう解説を必要とすればするほど、その面白さが作品内で素直に伝わってないことの裏返しである。野球の大谷がいくら凄いからって彼の(打者としての)ファールや三振をありがたがったりしないでしょ?今回の打席は残念だったねでいいじゃんね。(もちろん宮崎監督の場合、次があるかは分らんが)
さて、作品の表題に立ち返ってみると、これは疑問形である。作品としては名作とはとても言い難い。しかし聴衆に対する問いであると捉えたらどうであろうか。物語がてんで成立していないのに問いかけを見出すことができるのか?うーん正直、自分には無理。味がしないんだから問われたとも感じない。
しかし確かに思ったことがある。それは、大叔父のようなお爺さんに期待するんじゃなくて、自分が見たい作品があるのなら、他にそれを提供してくれる別の人を見つけるか、もしくは自分で作るべきだということ。初めから品質保証なんてものはなかった。自分が勝手に期待して、勝手に失望しているだけのことである。
最後に話がそれるが、しかしながらなぜ我々大衆は次々と名作を望むのであろうか。新作を批判すると「じゃあ、過去の名作繰り返し見とけや!」って言われるかもしれない。そう言われるとちょっと答えに窮する。何度も見ればストーリーも覚え、感動も薄れてくる。やっぱり初見の衝撃に叶うものはないということだろうか。それを再び味わいたくて次の名作を追い求めているのかもしれない。キリがないし、わがままだなって思われるかもしれないが、正直人としての性としか言いようがなくないか?そこを内省しだしたら仙人になるしかない気がする。
あとは現実がつらいからね。時には金払ってちょっといい気分になりたい!ぐらい許してほしい。こっちは作者の高尚な構想にがんばってついていく苦行やマラソンじゃなくて、自動で楽しませてくれるジェットコースターに乗りたいの!
で、初見という点で最近思っていることは「私の体験」を大事にすることが重要なんじゃないかと思っている。ゲームでもなんでもあまりレビューを見ずに体験するように心がけている。あらかじめレビューを見て他の人が面白い!星4以上!と言っている作品なら、安定して面白いかもしれないが、半分ネタバレのようなものではないか?
若い人にはタイパを優先しすぎて自己の視聴体験やプレイ体験を損なっていないかと問いたい。面白さの保険料として自身の体験・感動を売っていないか?と。おじさんおばさんは子供のころに自分で図書館で本を表紙で選んで借りた体験とか、ネットもない時代にゲーム屋で「クソゲーかも知れんがままよ!」と覚悟してゲーム買った記憶とかを思い出してほしい。そういう多少、損するかもと思ってもクソ作品を引く勇気をもって、一対一で作品と向き合う、ぶつかってみるということを時々でもした方がいい気がする。だから、今回、作品に対しては残念だったが後悔はない。純度100%の自分の感想を持てた。展覧会的な感じでいろんなアニメーションを見せてもらったという感触では数千円も損したという気もしない。今後もどんどん色んな作品に触れていきたいと思っている。例えばポノックの次作品はちょっと子供向けだろうけど、子供と一緒に見に行こうかなと思ってる。
視聴しながら、ぼんやりと宮崎監督がゲド戦記作るとしたらこんな感じだろうなと思った。影との戦いでゲドは船で移動するし、ところどころの魔法感や大叔父は大賢者になったゲドのイメージだなと感じた。大叔父のイケオジ度は過去最高かも分らんので一見の価値はあると思う。
インコの大王を追いかける時に螺旋階段を落とされるシーンがあったが、長靴をはいた猫での魔王と主人公たちとの大立ち回りを彷彿させた。この作品の監督は宮崎ではないが、そのクライマックス部分は大塚康生との二人で原画担当した箇所であり、とにかく面白い( https://www.ghibli.jp/shuppan/old/pickup/nagagutsu/ )。1969年の作品なので絵のきれいさはどうしても現代の作品には見劣りするがアニメーションの面白さは今でも通用する。未見の人はぜひ見て欲しい。君生きよりよっぽど面白いと思う。で、君生きでは大王がラスボスっぽくでてくるが大した戦いもなく終わってしまうのであっけない。長靴をはいた猫でのアクションを思い出しただけに、「あ、これだけなのか・・・」という虚しさが半端なかった。念入りに階段落とさせたり、序盤で主人公の着替え丁寧に描写するぐらいならもっと面白いカット増やした方が良かったろうにって思っちゃう。
使いまわし多いし、特に盛り上がる曲もなし。3日で作りましたと言われても信じるレベル。久石譲も「これぐらいの作品ならこれでいいや」って感じだったと思う。絶対、名曲ストック持ってるだろうと思うが、映像側がそれを引き出せなかったというのは至極残念に思う。米津曲も悪くはないけど、作為がちょっと鼻についたかな。いつも何度でもみたいな作品とのマッチ感は正直ない。と言っても作品の味がしないのでどうしようもない気もする。そういう意味では米津もかわいそう。
自分はもののけ姫くらいからリアルタイムで見て、振り返ってカリオストロ以降は全作見て、本やインタビューもそれなりに追っているまあまあの宮崎駿ファンです。
千と千尋の神隠し、風立ちぬあたりがフェイバリットです。箇条書きで感想書いていきます
管弦楽編成の楽器が使われてたら取り敢えずクラシックて呼びやがる。バロックもロマンも、アンサンブルも管弦楽もオペラも全部クラシックで一括り。
ジョンウィリアムスもマンシーニもモリコーネも久石譲も素晴らしいBGMを書くけど、それはあくまでムード。映画の一要素であって、それ単体で主題を完結させる音楽作品とは異質なもの。
とは言っても、エヴァ旧劇はバッハの引用なくしてあのムードは成立しないと思うし、ツァラトゥストラを2001年宇宙の旅で知ったという人も少なさそう。
ストラヴィンスキー辺りからの近代音楽は、まあクラシックの範疇にあるんだろう。でも、「クラシック音楽家」のショスタコーヴィッチは映画音楽も書いてたりもする。
ジョプリンは他の何物でもなくラグタイムと呼ぶのが相応しいけど、「クラシック」と言えなくもない?ガーシュインはどうだろう?
ともあれ、何でもかんでもクラシックと呼ぶのはやめて頂きたい。